外伝 第10話 隠された牙――黒山の狼、その実力
許昌へ来てから。
時雨が自ら剣を抜いたことは、一度もなかった。
腰には常に黒鞘の剣を帯びている。
曹操から返された剣。
燕国の王ではなく、魏の将として再び持つことを許された剣。
だが。
黒狼隊の訓練でも。
兵たちへ武器の扱いを教える時でも。
時雨は木の枝や、刃を潰した短剣を使っていた。
剣を抜く必要がない。
本人は。
そう言った。
兵を指導するだけなら。
相手を傷つけない道具で十分。
隊列を整え。
足の運びを教え。
敵の視線を外す方法を示す。
それだけなら。
真剣は必要ない。
黒狼隊の者たちも。
時雨が剣を抜かないことを疑問には思わなかった。
彼らは知っている。
黒山の頭領が。
剣を抜く時。
それは。
誰かが死ぬ時だった。
時雨にとって武器とは。
己の力を誇るための飾りではない。
誰かへ見せるためのものでもない。
必要な命を守るため。
敵を倒すため。
生きて戻るために使うもの。
だからこそ。
許昌の者たちは。
時雨の戦い方を知らなかった。
張燕が強い。
その噂だけは広まっている。
百万を超える黒山の民をまとめた男。
百を超える砦を従えた頭領。
各地の賊や官軍と戦い。
長年、山岳地帯で生き残り続けた武人。
弱いはずがない。
だが。
どれほど強いのか。
誰も見たことがない。
西部の反乱を鎮めた時も。
時雨は剣を抜かなかった。
韓武を殴った時も。
拳一つ。
石剛の砦へ入った時も。
言葉で降伏させた。
黒狼隊の訓練でも。
目立つのは指揮官としての能力ばかり。
兵の動きを見る目。
山や森での知識。
人の心を掴む言葉。
戦略と統率。
それらは確かに優れている。
しかし。
一人の武人として。
時雨がどれほどの位置にいるのか。
分からない。
その疑問を。
最も強く抱いていたのが。
春蘭だった。
---
朝の軍議が終わった後。
時雨は曹操の執務室を出た。
軍議の内容は。
黒狼隊の今後の訓練と。
旧燕国領から許昌へ運ばれる物資。
そして。
西部の街道へ配置する兵の数。
大きな問題はなかった。
華論が部隊編制を進め。
栄華が費用を整理し。
柳琳が負傷兵の配置を調整する。
時雨一人で決めることは減った。
だが。
決めなくてよいからといって。
仕事がなくなったわけではない。
むしろ。
報告を聞き。
判断し。
他の者へ預ける。
魏の将として。
新しい種類の仕事が増えていた。
時雨は。
手に持った竹簡を見下ろす。
黒狼隊へ配属する弓兵二百名。
その訓練予定。
秋蘭が確認すると。
軍議で決まったばかりだった。
「時雨」
背後から声をかけられる。
聞き慣れた。
よく響く声。
時雨が振り返る。
廊下の向こうに。
春蘭と秋蘭が立っていた。
二人とも軍装。
春蘭は腕を組み。
時雨を睨んでいる。
秋蘭は。
いつも通り落ち着いた表情だった。
「何だ」
時雨が尋ねる。
「少し付き合え」
春蘭が言う。
「仕事がある」
「それより重要なことだ!」
「曹操の命令か」
「違う!」
「なら後だ」
時雨は歩き出そうとする。
春蘭が前へ回り込んだ。
「待て!」
「邪魔だ」
「逃げるのか!」
時雨の足が止まる。
春蘭の顔には。
勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。
時雨は。
無言で彼女を見る。
「逃げると言えば」
秋蘭が横から口を挟む。
「時雨が止まると思ったのか、姉者」
「止まったではないか!」
「今のは呆れて止まっただけだ」
時雨が言う。
春蘭の眉が上がる。
「何だと!」
「姉者」
秋蘭が静かに制する。
「最初から喧嘩を売るな」
「私は喧嘩など売っていない!」
「では」
時雨が春蘭を見る。
「何を売ってる」
「勝負だ!」
春蘭は胸を張った。
「断る」
時雨は即答した。
「なぜだ!」
「面倒だ」
「貴様は何でも面倒で片づけるな!」
「実際、面倒だ」
「私との勝負が怖いのか!」
「怖くはない」
「なら受けろ!」
「理由になってない」
時雨は再び歩こうとする。
今度は。
秋蘭が進路へ立った。
春蘭ほど強引ではない。
ただ。
静かに道を塞ぐ。
「秋蘭」
「すまないな、時雨」
「私も知りたい」
「何をだ」
「お前の実力だ」
時雨は。
秋蘭の顔を見た。
冗談ではない。
好奇心だけでもない。
将として。
同じ戦場へ立つ者として。
時雨の能力を知ろうとしている。
「軍議で見せた」
「指揮官としての力ではない」
秋蘭は答える。
「一人の武人として」
「どれほど戦えるのか」
「それを知りたい」
「なぜ」
「背中を預けるからだ」
短い言葉。
時雨の目が僅かに細くなる。
秋蘭は続けた。
「時雨が弱いとは思っていない」
「だが」
「強さの種類が分からない」
「姉者のように」
「正面から敵陣を砕くのか」
「私のように」
「離れた場所から敵を射抜くのか」
「あるいは」
「黒山でしか使えぬ戦い方なのか」
「味方として」
「知らぬままにしておくべきではない」
秋蘭の言葉は。
理にかなっていた。
軍の将は。
互いの力を知らなければならない。
誰が前へ出る。
誰が後ろを守る。
誰が突破する。
誰が撤退を支える。
得意な場所。
苦手な状況。
それを知るから。
命を預けられる。
「曹操は知ってるのか」
時雨が尋ねる。
春蘭と秋蘭が。
一瞬だけ目を逸らした。
「知らないのか」
「曹操様へは」
春蘭が咳払いする。
「後ほどご報告する!」
「勝手にやるつもりか」
「私が貴様の力を確かめるだけだ!」
「姉者」
秋蘭がため息を吐く。
「正直に言った方がよい」
「何をだ」
「曹操様には止められた」
時雨が二人を見る。
春蘭が不満そうに顔を背ける。
「理由は」
時雨が尋ねる。
秋蘭が答えた。
「時雨は必要のない戦いを好まない」
「無理に戦わせるな、と」
「曹操が言ったのか」
「ああ」
「なら終わりだ」
時雨は歩き出す。
春蘭が。
再び前へ出た。
「待て!」
「曹操が止めた」
「だが!」
春蘭は拳を握る。
「私は納得していない!」
「それは春蘭の問題だ」
「お前の問題でもある!」
「なぜだ」
「私は」
春蘭は。
時雨を真っ直ぐ見る。
「曹操様の前へ立つ者だ」
「敵が曹操様へ向かえば」
「私が斬る」
「ああ」
「だが」
「お前も曹操様の隣へ立つと言った」
「ああ」
「ならば」
春蘭の声が。
僅かに低くなる。
「お前が本当に」
「曹操様を守れる男なのか」
「私は知る必要がある」
廊下の空気が。
少し変わった。
春蘭は。
ただ勝負をしたいわけではない。
己の力を誇示したいだけでもない。
曹操を守る。
その一つの目的へ。
春蘭は。
自分のすべてを置いている。
時雨が。
曹操の隣へ立つと宣言した。
なら。
その言葉に見合う力があるのか。
確認しなければ。
春蘭は安心できない。
疑い。
嫉妬。
対抗心。
そのすべての奥に。
曹操への忠誠がある。
「時雨」
秋蘭も言う。
「私からも頼む」
「勝負そのものが目的ではない」
「お前を知りたい」
「同じ魏の将として」
「何を任せられるか」
「どこまで背中を預けられるか」
「確かめたい」
春蘭とは違う。
静かな言葉。
だが。
秋蘭の意思も強かった。
時雨は。
二人の顔を順番に見る。
春蘭。
正面から。
秋蘭。
静かに。
方法は違う。
だが。
求めているものは同じ。
信頼するための根拠。
「分かった」
時雨が言う。
春蘭の顔が明るくなる。
「では!」
「ただし」
時雨は先に続けた。
「真剣は使わない」
「当然だ!」
「勝負は一度」
「よい!」
「負けても怒るな」
春蘭の眉が動く。
「誰が負けると言った!」
「可能性の話だ」
「私が負ける可能性などない!」
「なら問題ないな」
時雨は秋蘭を見る。
「秋蘭もか」
「ああ」
「弓で勝負したい」
「分かった」
「だが」
時雨は竹簡を持ち上げる。
「先に黒狼隊の弓兵を見たい」
「それが終わってからだ」
「よし!」
春蘭は力強く頷く。
「練兵場で待っている!」
「姉者」
秋蘭が呼び止める。
「何だ」
「時雨の仕事へ、私たちも同行する」
「なぜだ」
「逃げられたら困る」
春蘭が即答した。
時雨は。
二人を見る。
「信用されてないな」
「勝負から逃げないことと」
秋蘭は僅かに笑う。
「仕事を理由に忘れないことは別だ」
「忘れない」
「では問題ない」
「ついてくるのか」
「ああ」
時雨は小さく息を吐く。
「勝手にしろ」
三人は。
並んで廊下を歩き始めた。
時雨を中央に。
右へ春蘭。
左へ秋蘭。
廊下の先にいた文官や兵が。
三人へ道を譲る。
視線が集まる。
夏侯姉妹に挟まれた時雨。
その光景は。
どう見ても。
穏やかな話し合いへ向かう姿ではなかった。
「時雨」
春蘭が歩きながら言う。
「なんだ」
「今のうちに言っておく」
「何を」
「私は強いぞ」
「知ってる」
「本当に分かっているのか」
「ああ」
「魏軍最強の武」
「曹操の剣」
「正面からの戦いなら」
「春蘭より強い奴は少ない」
春蘭が目を見開く。
予想外に。
高く評価されていた。
「そ、そうか」
「ああ」
「なら」
春蘭は僅かに得意げになる。
「降参するなら今でもよいぞ」
「しない」
「なぜだ!」
「勝負を受けた」
「なら最後までやる」
春蘭は。
すぐに機嫌を直した。
「よし!」
「その意気だ!」
秋蘭が。
時雨の横顔を見る。
「時雨」
「何だ」
「私のことは」
「弓なら」
時雨は答える。
「魏で一番だろ」
秋蘭の目が僅かに細くなる。
「そう思うか」
「少なくとも」
「見た中では一番だ」
「まだ撃つところを」
「ほとんど見せていないが」
「立ち方で分かる」
秋蘭は。
言葉を失った。
時雨は続ける。
「弓を持っていない時も」
「左肩が僅かに前へ出る」
「指の皮が厚い」
「遠くを見る時」
「右目だけで距離を測る癖がある」
「風が吹くと」
「顔より先に髪の揺れを見る」
「弓を使う奴の動きだ」
秋蘭は。
しばらく時雨を見た。
彼は。
秋蘭が弓を射るところを。
ほとんど見ていない。
それでも。
普段の姿から。
どれほど弓を使い込んでいるか見抜いている。
「よく見ているな」
秋蘭が言う。
「戦う相手は見る」
「私は敵ではないぞ」
「味方なら」
「もっと見る」
秋蘭の口元へ。
僅かな笑みが浮かんだ。
「なら」
「私も」
「今日は時雨をよく見ることにしよう」
「ああ」
「好きにしろ」
春蘭が。
二人の会話を聞きながら。
少し不満そうに口を挟む。
「私は?」
「何がだ」
「私の癖は分かるのか!」
「分かる」
「何だ!」
「最初の一撃へ」
「力を入れすぎる」
春蘭の足が止まりかける。
「何だと!」
「怒ると」
「右足が半歩前へ出る」
「肩が上がる」
「そこで振る」
「分かりやすい」
「貴様!」
春蘭が拳を振り上げる。
秋蘭が。
その腕を掴んだ。
「姉者」
「今、右足が前へ出たぞ」
春蘭は。
自分の足元を見る。
確かに。
右足が半歩前へ出ている。
「こ、これは!」
時雨が前を向いたまま言う。
「分かりやすいな」
「時雨!」
怒声が。
王宮の廊下へ響いた。
---
黒狼隊の弓兵訓練場。
二百名の兵が。
並べられた的へ矢を射ていた。
距離は。
およそ五十歩。
魏軍の標準的な訓練距離。
的は大きく。
中央には黒い円が描かれている。
矢は。
次々と飛ぶ。
中央へ刺さるもの。
端へ当たるもの。
地面へ落ちるもの。
黒狼隊の弓兵は。
全員が熟練しているわけではない。
黒山で。
狩りのために弓を使った者。
砦の上から。
敵を射た者。
弓よりも。
投石や罠を得意とした者。
技量には大きな差がある。
時雨は。
兵たちの後ろを歩きながら。
一人ずつ見ていた。
弓を持つ腕。
弦を引く指。
呼吸。
足の位置。
狙い。
「力を入れすぎだ」
時雨が一人へ声をかける。
「ですが」
「強く引かなければ」
「矢が届きません」
「届かせるために」
「身体を固めるな」
「肩を落とせ」
兵の背中へ。
手を添える。
「腕で引くな」
「背中で引け」
「息を止めるのは」
「放す直前だけだ」
兵が。
時雨の言葉通りに構える。
弦を引く。
肩の力を抜く。
矢を放つ。
先ほどより。
真っ直ぐ飛んだ。
的の中央からは外れた。
だが。
矢は強く刺さっている。
「今の感覚を覚えろ」
「はっ!」
時雨は次へ移る。
春蘭と秋蘭は。
少し離れた場所から見ていた。
「弓の指導もできるのか」
春蘭が小声で言う。
「黒山では」
秋蘭が答える。
「一つの武器だけ使えればよい」
「という環境ではなかったのだろう」
「しかし」
春蘭は時雨を見る。
「教えることと」
「自分で使えることは別だ」
「ああ」
秋蘭の目は。
時雨の指へ向いている。
弓を持っていない。
それでも。
彼の左手。
親指。
人差し指。
皮膚の硬さ。
細かな傷。
秋蘭は。
すでに気づいていた。
時雨は。
弓を使える。
しかも。
並の使い手ではない。
ただ。
どの程度か。
それは分からない。
時雨が。
一人の兵の弓を受け取る。
「見てろ」
兵へ言う。
弓を持つ。
矢をつがえる。
構えた瞬間。
秋蘭の表情が変わった。
無駄がない。
肩の高さ。
腰。
足。
弓を持つ腕。
引き手。
完成された型。
だが。
魏で教えられる弓術とは違う。
正面から。
美しく構える形ではない。
身体をやや斜めにし。
弓を傾け。
周囲から姿を小さく見せる。
山や木々の間。
狭い場所で射るための構え。
時雨は。
的を見ない。
少なくとも。
見つめてはいない。
視線は。
的の手前。
風に揺れる草。
落ちる砂。
周囲全体を見ている。
矢を放つ。
音は小さい。
矢は。
中央へ刺さった。
兵たちから。
感嘆の声が上がる。
春蘭も。
少し驚いた顔をした。
秋蘭だけは。
中央へ刺さった矢ではなく。
時雨の指を見ていた。
「もう一度」
時雨が兵へ弓を返す。
「今のは」
「肩と腰を動かしてない」
「弓だけ引いた」
「狙うより」
「同じ動きを繰り返せ」
「的へ当てるのは」
「その後だ」
「はっ!」
時雨は。
自分が見せた一射を。
特別なものだとは考えていない。
兵へ教えるため。
必要だから射っただけ。
だが。
秋蘭には分かる。
今の一射。
時雨は。
ほとんど狙っていなかった。
少なくとも。
長く狙いを定めてはいない。
構え。
引き。
放す。
すべてが一つ。
呼吸一つの間に終わっている。
しかも。
使い慣れた弓ではない。
兵から借りた。
張り。
重さ。
長さ。
何も知らない弓。
それで。
中央へ当てた。
「秋蘭」
時雨が呼ぶ。
「なんだ」
「見てたか」
「ああ」
「こいつらの癖」
「分かっただろ」
「……分かった」
秋蘭は。
時雨を見る。
「後で」
「私が直そう」
「頼む」
時雨は頷く。
「俺より」
「秋蘭の方が教えるのはうまい」
春蘭が眉を寄せる。
「なぜだ」
「俺は」
「当たるまでやらせる」
「秋蘭は」
「なぜ外れたか説明できる」
秋蘭が。
僅かに目を細める。
「時雨は」
「説明できているように見えるが」
「簡単なことだけだ」
「風が複雑になると」
「感覚で射る」
「言葉にできない」
「だから」
「秋蘭が必要だ」
必要。
頼む。
秋蘭は。
時雨から自然に預けられた役目を。
静かに受け取った。
「ああ」
「任せろ」
訓練が終わるまで。
夏侯姉妹は。
時雨の側へいた。
春蘭は。
待ちきれない様子で。
何度も剣の柄へ手を置いた。
秋蘭は。
兵たちへ指導しながら。
時折。
時雨を見ていた。
彼の射。
一度だけ。
たった一度。
それだけで。
秋蘭の中には。
確かな予感が生まれていた。
自分は。
今日。
負けるかもしれない。
その予感を。
秋蘭は。
恐ろしいとは思わなかった。
むしろ。
胸の奥が。
静かに熱くなる。
魏へ。
自分より優れた弓使いがいる。
そうだとすれば。
確かめたい。
どのように射るのか。
何を見ているのか。
自分との差は何か。
武人として。
避ける理由はなかった。
---
午後。
練兵場の一角へ。
人が集まり始めた。
最初は。
黒狼隊の兵だけだった。
時雨と春蘭が勝負する。
その噂が。
どこからか広まった。
黒狼隊の兵が集まり。
近くで訓練していた魏兵が足を止める。
役人。
武官。
将たち。
華論。
季衣。
流琉。
そして。
なぜか栄華と柳琳まで来ていた。
「なぜいる」
時雨が尋ねる。
栄華は扇を開く。
「あなたが怪我をした場合」
「治療費が発生します」
「確認する必要がありますわ」
「俺が怪我をすると決めてるのか」
「春蘭様と戦うのでしょう?」
「可能性は高いです」
柳琳も。
心配そうに時雨を見る。
「無理はなさらないでください」
「ただの勝負だ」
「春蘭様にとっては」
「ただの勝負ではないと思います」
視線の先。
春蘭は。
すでに木剣を手にしている。
普段使う大剣を模した。
長く。
厚い木剣。
重さも。
一般的な木剣とは違う。
春蘭の力へ耐えられるよう。
硬い木を使い。
何重にも革を巻いている。
当たれば。
骨が折れる。
訓練用とはいえ。
安全な武器ではない。
「時雨!」
春蘭が声を上げる。
「武器を選べ!」
時雨は。
用意された木剣を見る。
長剣。
短剣。
槍。
棒。
盾。
様々な物が並んでいる。
時雨は。
その中から。
最も短い木剣を手に取った。
春蘭の持つ木剣の。
半分ほどしかない。
黒狼隊から。
ざわめきが起こる。
春蘭の眉が寄る。
「それでよいのか」
「ああ」
「後で」
「武器が悪かったと言うな」
「言わない」
時雨は。
木剣の重さを確かめる。
片手で振る。
何度か。
空気を切る。
軽い。
短い。
だが。
必要な強度はある。
「時雨」
秋蘭が呼ぶ。
「本当に」
「それで姉者と戦うのか」
「ああ」
「春蘭の間合いへ入るには」
「短すぎるぞ」
「入ればいい」
「簡単に言うな!」
春蘭が怒鳴る。
時雨は。
木剣を肩へ載せる。
「春蘭」
「何だ!」
「手加減は」
「いらない」
春蘭の顔へ。
笑みが浮かんだ。
「言ったな」
「ああ」
「ならば」
春蘭は。
木剣を正面へ構える。
「全力で行く!」
周囲の空気が。
変わった。
春蘭の気配。
先ほどまでの騒がしさが消える。
足。
腰。
肩。
呼吸。
一人の武将として。
敵へ向き合う姿。
黒狼隊の兵たちが。
無意識に息を止める。
魏の兵は知っている。
夏侯惇の正面に立つことが。
どれほど危険か。
力。
速さ。
迷いのなさ。
一撃で。
敵の武器ごと身体を砕く。
曹操の剣。
魏の先陣。
春蘭が。
本気で構えている。
対する時雨は。
木剣を下げたまま。
構えらしい構えを取らない。
右足を僅かに後ろへ。
身体を自然に立たせる。
肩にも。
腕にも。
力が入っていない。
「始め!」
秋蘭の声。
その瞬間。
春蘭が踏み込んだ。
地面が。
低く鳴る。
一歩。
ただの一歩で。
距離が消えた。
木剣が。
上段から振り下ろされる。
速い。
重い。
まともに受ければ。
短い木剣ごと。
時雨の身体が砕かれる。
時雨は。
動かない。
少なくとも。
春蘭の剣が。
頭上へ届く直前まで。
動かなかった。
「時雨!」
柳琳の声。
木剣が振り下ろされる。
その直前。
時雨の身体が消えた。
そう見えた。
実際には。
半歩。
左斜め前へ出ただけ。
春蘭の剣が持つ。
最も強い軌道。
その内側。
腕へ近い位置へ。
時雨は入り込んでいた。
春蘭の木剣が。
地面へ叩きつけられる。
土が弾ける。
春蘭が。
すぐに肘を曲げる。
横薙ぎ。
時雨の身体を。
至近距離から打ち払う。
だが。
時雨は。
さらに一歩入る。
春蘭の右腕へ。
自分の左肩を当てる。
強く押したわけではない。
身体の向き。
足の位置。
春蘭が次の力を出す前。
僅かな不安定な瞬間。
そこへ。
時雨は自分の重さを置いた。
春蘭の身体が。
半歩。
横へ流れる。
時雨の短い木剣が。
春蘭の喉元へ当たった。
開始から。
呼吸二つ。
練兵場が。
静まり返る。
春蘭は。
動けない。
時雨の木剣。
先端が。
喉へ触れている。
あと少し押せば。
実戦なら。
刃が首を貫く。
「終わりだ」
時雨が言う。
誰も。
声を出さない。
春蘭自身も。
何が起きたのか。
理解しきれていなかった。
全力で踏み込んだ。
剣を振った。
時雨が避けた。
そこまでは分かる。
だが。
次の瞬間には。
喉へ木剣がある。
「もう一度だ!」
春蘭が叫んだ。
時雨は木剣を下ろす。
「一度と言った」
「今のは!」
春蘭は言葉を探す。
「油断だ!」
「全力で行くと言った」
「だが!」
「負けても怒るなと言った」
「怒っていない!」
「怒鳴ってる」
「これは!」
春蘭の顔が赤くなる。
「納得していないだけだ!」
時雨は。
秋蘭を見る。
「どうする」
秋蘭は。
姉と時雨を見比べる。
「もう一度」
秋蘭が言った。
春蘭の顔が明るくなる。
「秋蘭!」
「ただし」
秋蘭は姉へ視線を向ける。
「次に負けたら」
「言い訳は許さない」
「当然だ!」
春蘭は。
再び距離を取る。
今度は。
先ほどと違う。
上段ではない。
木剣を低く構える。
時雨が内側へ入るなら。
近づいた瞬間に。
下から斬り上げる。
正面から力をぶつけず。
時雨の動きを見る。
春蘭なりに。
一度目の敗北を修正している。
「時雨」
秋蘭が言う。
「よいか」
「ああ」
時雨は。
先ほどと同じ。
短い木剣を持つ。
構えも。
ほとんど変わらない。
「始め!」
今度は。
春蘭がすぐには動かない。
互いに。
距離を測る。
春蘭は。
時雨の足を見る。
右。
左。
肩。
視線。
先ほど。
どこで動いた。
何を見ていた。
分からない。
時雨は。
動く前に。
気配を見せなかった。
「来ないのか」
時雨が尋ねる。
「黙れ!」
春蘭が踏み込む。
だが。
今度は半歩だけ。
木剣を下から振る。
時雨が。
後ろへ下がる。
春蘭は追う。
一撃。
二撃。
三撃。
横。
下。
突き。
力任せではない。
時雨の逃げ道を狭める。
春蘭の剣技は。
決して力だけではない。
速い。
正確。
戦場で積み上げた。
実戦の剣。
時雨は。
避け続ける。
木剣を合わせない。
受けない。
後ろ。
横。
前。
僅かな動きだけで。
春蘭の攻撃が空を切る。
「逃げるだけか!」
春蘭が叫ぶ。
「違う」
時雨は答える。
「待ってる」
「何を!」
「春蘭が」
「右足を出すのを」
春蘭の目が見開かれる。
その瞬間。
右足が。
大きく前へ出た。
怒り。
焦り。
攻撃が当たらない苛立ち。
力を込める時の癖。
時雨が。
最初から言っていた。
右足が前へ出る。
肩が上がる。
そこで振る。
春蘭の木剣が。
横から振られる。
だが。
力が最大になる前。
時雨の短剣が。
春蘭の手首へ触れた。
強く打たない。
ほんの一撃。
だが。
握る力が。
一瞬抜ける。
時雨の左手が。
春蘭の木剣の柄へ添えられる。
引くのではなく。
春蘭が振る方向へ。
さらに押した。
春蘭の力。
勢い。
そのまま利用する。
木剣が。
手から離れた。
空へ回転しながら飛ぶ。
春蘭が。
反射的に時雨の胸元へ拳を出す。
時雨は。
身体を沈める。
拳の下。
春蘭の懐へ入る。
木剣の柄で。
腹へ軽く触れる。
同時に。
足を。
春蘭の踵の後ろへ置く。
肩で押す。
春蘭の身体が。
地面へ倒れた。
背中が。
土へ落ちる直前。
時雨は。
春蘭の腕を掴んだ。
完全には倒さない。
頭を打たないよう。
勢いを殺す。
それでも。
春蘭は。
地面へ仰向けになった。
時雨の木剣が。
胸元へ置かれている。
二度目。
完全な敗北。
今度は。
誰の目にも明らかだった。
「終わりだ」
時雨の声。
練兵場に。
風が通る。
誰も。
動かない。
春蘭は。
地面へ倒れたまま。
時雨を見上げていた。
驚き。
悔しさ。
混乱。
そして。
僅かな喜び。
自分より。
強い。
少なくとも。
今の勝負では。
何もできなかった。
正面から。
魏軍最強と呼ばれる自分を。
時雨は。
ほとんど力を使わず倒した。
「どうしてだ」
春蘭が尋ねる。
時雨は。
木剣を下ろす。
春蘭へ手を差し出す。
「何が」
「私は」
春蘭は時雨の手を取り。
立ち上がる。
「力でも」
「速さでも」
「お前に負けているとは思わん」
「ああ」
「なら」
「なぜ勝てない」
時雨は。
少し考える。
「春蘭は強い」
「それは知ってる」
「正面から」
「力と力をぶつければ」
「俺が負ける」
春蘭の目が僅かに動く。
「なら」
「俺は正面から戦わない」
「卑怯だと言うか」
「言わん!」
春蘭は即答した。
「戦場で」
「敵が正々堂々と戦うとは限らない」
「なら」
「俺が春蘭より強いんじゃない」
時雨は答える。
「春蘭が強い場所で」
「戦わなかっただけだ」
「それを」
秋蘭が静かに言う。
「強いと言うのではないか」
時雨は秋蘭を見る。
「違う」
「何が違う」
「俺は」
時雨は。
春蘭の落とした木剣を見る。
「勝つために戦ってない」
「生き残るために戦う」
「敵を倒しても」
「自分が死ねば」
「守る奴が残る」
「だから」
「勝ち方より」
「死なないやり方を選ぶ」
黒山。
狭い道。
崖。
森。
夜。
敵は。
自分より多い。
装備も。
食料も。
訓練も。
官軍の方が上。
正面から戦えば。
黒山の者は死ぬ。
だから。
時雨は。
正面から戦わなかった。
敵の強い場所を避け。
弱い瞬間だけを狙う。
武器を振る前。
足が止まる時。
視線が外れる瞬間。
怒り。
焦り。
恐れ。
人が持つ隙。
それを見つけ。
最小の力で倒す。
「春蘭は」
時雨が続ける。
「強い」
「だから」
「自分の攻撃が通ると思ってる」
「それが悪いのか」
「悪くない」
「普通の相手なら」
「それで勝てる」
「だが」
「春蘭の攻撃を」
「受けない奴もいる」
「俺みたいにな」
春蘭は。
黙って聞いていた。
悔しさはある。
だが。
時雨の言葉に。
春蘭を見下す響きはない。
自分が強いことを。
時雨は何度も認めている。
その上で。
強さの外へ出た。
「では」
春蘭が言う。
「私が」
「お前に勝つには」
「どうすればよい」
時雨の眉が僅かに上がる。
負けた相手へ。
勝ち方を聞く。
春蘭らしい。
誇りは高い。
だが。
負けを認めれば。
次へ進むことを迷わない。
「怒るな」
「無理だ!」
即答だった。
周囲から。
小さな笑いが漏れる。
春蘭が睨む。
全員が黙る。
時雨は。
ほんの少し笑った。
「なら」
「怒っても」
「足を出すな」
「肩を上げるな」
「相手を見ろ」
「剣を見ろではないのか」
「剣だけ見れば」
「身体が見えない」
「足」
「腰」
「目」
「呼吸」
「全部見ろ」
春蘭は。
真剣に頷く。
「分かった」
「次は勝つ」
「次があるのか」
「当然だ!」
「面倒だな」
「逃げるな!」
春蘭が声を上げる。
今度は。
怒りだけではない。
明確な敬意があった。
時雨は。
自分を倒した相手。
曹操の隣へ立つ男。
その力を。
春蘭は。
ようやく認め始めていた。
---
「次は私だ」
秋蘭が前へ出た。
春蘭との勝負の余韻が。
まだ練兵場に残っている。
だが。
秋蘭の声は静かだった。
「少し休むか」
時雨が尋ねる。
「疲れてるように見えるか」
「あまり」
「なら必要ない」
「私は」
秋蘭は。
用意された弓を見る。
「姉者ほど優しくないぞ」
春蘭が目を見開く。
「秋蘭!」
「姉者は」
「時雨へ当てるつもりはあったが」
「殺す気はなかった」
「当たり前だ!」
「私は」
秋蘭は。
一本の弓を手に取る。
自分が普段使う弓。
手入れされた弦。
長く。
強い張り。
並の兵では。
十分に引けない。
「弓を持てば」
「手加減が難しい」
「分かってる」
時雨は答える。
「何をする」
秋蘭が尋ねる。
「的を射るだけなら」
「勝負にならない」
「なぜだ」
「中央へ当てるだけなら」
「互いに外さないだろ」
秋蘭は。
僅かに笑った。
「よく分かっている」
秋蘭が。
練兵場の端を指す。
距離。
百歩。
通常の訓練より。
遥かに遠い。
そこへ。
小さな木の札が。
五枚吊るされている。
風に揺れている。
一枚は。
人の頭ほど。
残りは。
掌ほどの大きさ。
「先に」
秋蘭が言う。
「大きな札を射る」
「次に」
「矢が刺さった札を」
「さらに小さな札へ変える」
「最後まで」
「外さなかった方の勝ち」
「同じ札を射るのか」
「ああ」
「順番は」
「私が先でよい」
「なぜだ」
「時雨は」
「私の矢を見た方が有利だろう?」
秋蘭の瞳に。
静かな挑戦がある。
時雨は。
周囲を見る。
風。
西から東。
強くはない。
だが。
一定でもない。
時折。
練兵場の壁へ当たり。
渦を作る。
吊るされた札が。
左右へ揺れる。
百歩。
小さな的。
風。
簡単ではない。
「分かった」
時雨は。
用意された弓へ向かう。
秋蘭と同じ弓ではない。
兵が使う。
標準的な弓。
「それでよいのか」
秋蘭が尋ねる。
「秋蘭の弓は」
「俺には強すぎる」
「引けないのか」
「引ける」
「だが」
「慣れてない」
「使い慣れた弓は」
「黒山か」
「ああ」
時雨は。
標準弓を持つ。
弦を確認。
一度引く。
戻す。
「これでいい」
秋蘭は。
自分の矢をつがえる。
周囲が静まる。
先ほどの春蘭との勝負とは。
違う緊張。
剣は。
動きが見える。
打ち合い。
踏み込み。
避ける。
弓は。
放たれた瞬間。
結果が決まる。
矢は。
戻らない。
「始めるぞ」
秋蘭が言う。
「ああ」
秋蘭は。
百歩先を見る。
風。
札の揺れ。
弓を上げる。
矢をつがえ。
引く。
止まる。
ほんの一瞬。
矢を放つ。
鋭い音。
矢は。
風を切り。
大きな木札の中央へ刺さった。
周囲から。
感嘆の声。
百歩。
揺れる的。
中央。
秋蘭は。
当然のように当てた。
「次は時雨だ」
時雨は。
弓を持つ。
矢をつがえる。
だが。
的を見ず。
地面へ落ちている。
一本の草を拾った。
指から放す。
草が。
風に流れる。
秋蘭の目が細くなる。
時雨は。
もう一度。
壁際を見る。
砂。
旗。
兵の衣。
一つの風だけを見ていない。
矢が飛ぶ道。
そのすべてを見る。
弓を上げる。
引く。
放つ。
秋蘭より。
早い。
狙いを定める間が。
ほとんどない。
矢は飛ぶ。
木札へ刺さる。
秋蘭の矢の。
すぐ隣。
中央。
どちらが近いか。
目では分からない。
「見事だ」
秋蘭が言う。
「ああ」
時雨は。
短く答える。
大きな札が外される。
次は。
半分ほどの大きさ。
秋蘭が射る。
中央。
時雨が射る。
中央。
さらに小さく。
掌ほど。
秋蘭の矢。
札の中央から。
僅かに左。
時雨の矢。
中央。
周囲の空気が変わる。
秋蘭は。
表情を変えない。
だが。
瞳の奥に。
強い光が宿る。
次。
指三本ほどの細い札。
風が揺らす。
秋蘭は。
長く狙う。
風が。
一度止まる。
その瞬間。
放つ。
矢は。
木札を貫いた。
端に近い。
それでも命中。
兵たちが。
息を吐く。
時雨の番。
時雨は。
すぐに射らない。
弓を下ろしたまま。
待つ。
十を数えるほど。
二十。
風が強くなる。
木札が大きく揺れる。
春蘭が眉を寄せる。
「なぜ待つ」
秋蘭は答えない。
時雨が見ているものを。
理解しようとしている。
風は。
西から吹く。
だが。
木札の近く。
練兵場の壁へ当たり。
一度跳ね返る。
矢が近づく頃。
反対向きの風になる。
時雨は。
それを待っている。
強い風。
札が左へ流れる。
戻る。
戻り始めた瞬間。
時雨が弓を上げた。
矢を放つ。
矢は。
最初の風で右へ押される。
次に。
壁から返る風で。
左へ戻る。
揺れる木札。
その中央へ。
矢が刺さった。
練兵場から。
声が消えた。
秋蘭が。
ゆっくり息を吐く。
「今の風を」
「読んだのか」
「ああ」
「壁から返る風も」
「ああ」
「いつ気づいた」
「来た時」
秋蘭の目が。
僅かに大きくなる。
勝負を始める前。
時雨は。
すでに。
練兵場全体の風を見ていた。
「次だ」
時雨が言う。
秋蘭は。
新しい札を用意させる。
今度は。
木札ではない。
一枚の銅貨。
中央へ穴を開け。
細い糸で吊るす。
百歩先。
目を凝らさなければ。
見えない。
風に揺れ。
光を反射する。
「これは」
春蘭が声を上げる。
「無理ではないか」
秋蘭は。
銅貨を見る。
「的として用意したのは私だ」
「なら射る」
矢をつがえる。
秋蘭の集中。
周囲の音が。
遠くなる。
風。
光。
揺れ。
銅貨の動き。
矢を放つ。
矢は飛ぶ。
銅貨の端へ当たる。
高い音。
銅貨が。
糸ごと大きく揺れる。
貫いてはいない。
だが。
当たった。
どよめきが起きる。
秋蘭は。
満足しない。
中央の穴を。
狙っていた。
「外したな」
秋蘭が言う。
「当たった」
時雨が答える。
「私が狙った場所からは外れた」
時雨は。
銅貨を見る。
揺れが。
まだ収まっていない。
「止まるまで待つか」
秋蘭が尋ねる。
「必要ない」
時雨は矢をつがえる。
「揺れてるぞ」
春蘭が言う。
「ああ」
「見えないだろ」
「見える」
「本当か!」
「姉者」
秋蘭が静かに言う。
「黙って見ろ」
時雨は。
弓を構える。
銅貨は。
左右へ揺れる。
一定ではない。
秋蘭の矢が当たり。
糸も回転している。
銅貨そのものが。
光の向きを変える。
普通なら。
止まるまで待つ。
だが。
時雨は。
待たない。
銅貨が。
こちらへ正面を向く瞬間。
穴が。
光を通す。
一瞬。
小さな点。
時雨の指が離れる。
矢。
飛ぶ。
銅貨へ。
真っ直ぐ。
金属音はしなかった。
矢は。
銅貨の中央。
小さな穴を通り抜け。
その後ろの的へ刺さった。
銅貨は。
糸に吊られたまま。
激しく回転している。
誰も。
声を出せない。
春蘭は。
口を開けたまま。
矢と銅貨を見ている。
華論は。
目を見開き。
栄華は。
扇を閉じることも忘れていた。
柳琳は。
驚きながら。
静かに時雨を見る。
黒狼隊の兵たちだけは。
声を出さない。
彼らは知っていた。
時雨が。
黒山で。
どのように戦っていたか。
深い霧の中。
木々の間。
僅かな音。
揺れる葉。
見えない敵。
それを。
時雨は射抜いた。
夜。
松明の光だけで。
敵の手を射た。
逃げる獣。
走る馬。
揺れる縄。
動くものを。
時雨は外さなかった。
ただ。
誰も。
その力を。
許昌の者へ話さなかった。
時雨自身が。
口にするなと命じたわけではない。
だが。
黒山の者たちは。
何となく理解していた。
時雨は。
自分の強さを。
誇るために使わない。
なら。
自分たちが。
勝手に広めるべきではない。
秋蘭が。
百歩先へ歩く。
銅貨を確認する。
中央の穴。
傷はない。
矢は。
本当に。
穴を通っている。
秋蘭は。
しばらく。
銅貨を見つめた。
そして。
静かに戻ってきた。
「私の負けだ」
秋蘭が言う。
練兵場に。
ざわめきが広がる。
魏軍随一の弓使い。
秋蘭。
その本人が。
迷いなく敗北を認めた。
「もう一度やるか」
時雨が尋ねる。
「いや」
秋蘭は首を横へ振る。
「今の一射で十分だ」
「偶然かもしれない」
「偶然で」
秋蘭は。
時雨の目を見る。
「銅貨の穴を射抜く者は」
「二度目も射抜くだろう」
「そうか」
「ああ」
秋蘭は。
自分の弓を見る。
悔しさはある。
当然。
ある。
長く。
弓を磨いてきた。
曹操を守るため。
姉を支えるため。
魏軍の敵を射抜くため。
自分の弓へ。
誇りを持っている。
その自分が。
完全に負けた。
だが。
不思議と。
屈辱ではなかった。
「時雨」
「何だ」
「教えてくれ」
「何を」
「今の射を」
周囲が。
少し驚く。
秋蘭が。
誰かへ弓を教えてほしいと頼む。
それは珍しい。
「感覚だ」
時雨が答える。
「説明できない」
「それでもいい」
秋蘭は引かない。
「何を見た」
「どこで放した」
「銅貨の動き」
「風」
「光」
「お前が見たものを」
「一つずつ教えてくれ」
時雨は。
秋蘭を見る。
真剣な目。
負けたことで。
閉じるのではない。
より深く知ろうとしている。
「分かった」
時雨が答える。
「俺も」
「秋蘭から教わる」
「私から?」
「ああ」
「俺の射は」
「一人で生き残るための射だ」
「秋蘭の射は」
「軍を守るための射」
「違う」
「どう違う」
秋蘭が尋ねる。
「俺は」
「敵だけを見る」
「秋蘭は」
「味方が動く道も見てる」
「矢を当てるだけなら」
「俺の方が上かもしれない」
「だが」
「戦場全体では」
「秋蘭の方が多くを守れる」
秋蘭は。
言葉を失った。
時雨は。
自分が勝ったことへ。
何の誇りも見せない。
秋蘭の敗北を。
見下しもしない。
互いの強さ。
違い。
役割。
それだけを見ている。
「なら」
秋蘭が言う。
「互いに教え合うか」
「ああ」
「時雨の射と」
「私の射を」
「黒狼隊へ残す」
時雨の目が僅かに細くなる。
残す。
自分一人の技ではなく。
魏の軍へ。
黒狼隊へ。
次の者へ。
「それがいい」
時雨は頷いた。
「頼む、秋蘭」
「ああ」
秋蘭は。
穏やかに笑った。
「任せろ、時雨」
---
勝負が終わっても。
誰も。
すぐには動かなかった。
時雨。
春蘭。
秋蘭。
三人を。
周囲の者たちが見ている。
春蘭へ。
剣で二度勝った。
秋蘭へ。
弓で勝った。
魏軍を代表する。
二人の武将。
その両方へ。
時雨は圧勝した。
しかも。
息を切らしていない。
怪我もない。
顔色も変わらない。
まるで。
訓練の続きを終えただけ。
そのような態度。
「時雨殿」
華論が。
恐る恐る声をかける。
「何だ」
「いや」
「聞いていいっすか」
「ああ」
「どれくらい強いんすか?」
「分からない」
「今ので分からないって言うんすか!?」
華論の声が裏返る。
「比べる相手で変わる」
「春蘭には勝ったっすよ!」
「勝ち方が合った」
「秋蘭にも勝ったっす!」
「的を射る勝負だった」
「それを強いって言うんすよ!」
「そうか」
「そうっす!」
華論は。
頭を抱えた。
栄華が。
時雨へ近づく。
扇で。
彼の腕。
肩。
衣。
身体を確かめるように見る。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「ああ」
「春蘭様の木剣を」
「受けておりませんものね」
「受ければ怪我をする」
「分かっているなら」
「なぜ勝負を受けたのです!」
「頼まれた」
「断りなさいませ!」
栄華の声が響く。
「勝てると思った」
「そういう問題ではありません!」
「では何だ」
「あなたが怪我をすれば」
「黒狼隊の訓練」
「旧燕国領の統合」
「今後の軍議」
「すべてへ影響します!」
栄華は。
怒っている。
治療費のためだけではない。
時雨が。
自分の身体を。
また軽く扱ったのではないか。
そう考えた。
「栄華」
「何ですの!」
「怪我をしないと思った」
「絶対ではありません!」
「ああ」
「なら」
「次からは」
「栄華に相談する」
栄華の動きが止まる。
「勝負を?」
「ああ」
「費用の話ではなく?」
「ああ」
「わたくしに?」
「ああ」
時雨は。
当然のように頷く。
「俺が怪我をした時」
「どれだけ影響があるか」
「栄華の方が分かる」
「だから」
「止めるなら理由を聞く」
栄華は。
何も言えなくなる。
時雨は。
自分の身体の価値を。
まだ完全には理解していない。
だが。
一人で決めず。
栄華へ預けようとしている。
それは。
彼なりの変化。
「……分かりましたわ」
栄華は。
少しだけ声を落とす。
「次からは」
「必ず相談なさいませ」
「ああ」
「勝手に受けたら」
「給金を減らします」
「また金か」
「あなたには」
「それが一番分かりやすいでしょう!」
時雨は。
小さく息を吐いた。
柳琳も。
時雨へ近づく。
「本当に」
「痛むところはありませんか?」
「ない」
「手を見せてください」
「なぜ」
「春蘭様の武器へ」
「一度触れました」
「痺れているかもしれません」
時雨は。
左手を差し出す。
柳琳が。
指。
手首。
掌。
一つずつ確認する。
「痛みは」
「ない」
「握ってください」
時雨が。
拳を作る。
柳琳は。
力の入り方を見る。
「問題はなさそうですね」
「ああ」
「ですが」
柳琳は時雨を見る。
「疲れはあります」
「ない」
「あります」
「なぜ分かる」
「目が」
「少しだけ重そうです」
時雨は。
黙った。
春蘭との勝負。
秋蘭との弓。
身体よりも。
集中の方が疲れている。
時雨自身。
気づいていなかったわけではない。
ただ。
休むほどではないと思った。
「柳琳」
「はい」
「少し休めばいいか」
柳琳の目が。
僅かに柔らかくなる。
自分から。
休む必要を尋ねた。
「はい」
「木陰で」
「少しお休みください」
「分かった」
時雨は。
抵抗しなかった。
その姿を。
春蘭と秋蘭が見ていた。
先ほど。
自分たちを圧倒した男。
春蘭の攻撃を避け。
秋蘭の矢を超えた男。
その男が。
栄華へ叱られ。
柳琳へ手を取られ。
素直に休めと言われている。
何とも。
不思議な光景だった。
「時雨」
春蘭が呼ぶ。
「何だ」
「私は」
春蘭は木剣を持ったまま。
時雨の前へ立つ。
「今日の負けを認める」
「ああ」
「だが」
「次は勝つ!」
「ああ」
「そして」
春蘭は。
少しだけ言葉を止める。
「お前が」
「曹操様の隣へ立つだけの力を持つことも」
「認める」
練兵場が。
静かになる。
春蘭が。
時雨を認めた。
完全な信頼ではない。
態度への不満。
曹操との距離。
気に入らないところは。
まだ山ほどある。
それでも。
武人として。
曹操を守る者として。
時雨の力を認めた。
「そうか」
時雨は答える。
「それだけか!」
「他に何を言う」
「もう少し」
春蘭は言葉を探す。
「喜べ!」
「なぜだ」
「私に認められたのだぞ!」
「春蘭が認めなくても」
「俺は曹操の隣へ立つ」
「貴様!」
春蘭の顔が赤くなる。
秋蘭が。
小さく笑う。
「姉者」
「何だ!」
「それが時雨だ」
「分かっている!」
「分かっていないように見えるが」
「秋蘭まで!」
春蘭の怒声。
周囲に。
笑いが広がる。
時雨も。
ほんの僅かに。
口元を緩めていた。
---
その日の夕方。
勝負の話は。
曹操の耳へ届いた。
当然。
届かないはずがなかった。
黒狼隊。
魏兵。
武官。
文官。
数えきれない目撃者。
春蘭と秋蘭へ。
時雨が圧勝した。
噂は。
王宮へ戻るより早く。
曹操の執務室へ入っていた。
時雨が呼び出された時。
曹操は。
机の前へ座っていた。
笑っている。
美しく。
穏やかに。
だが。
明らかに。
怒っていた。
春蘭と秋蘭は。
時雨の後ろへ立っている。
二人とも。
僅かに姿勢が硬い。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「なんだ」
「今日は」
「楽しかった?」
「普通だ」
「春蘭と秋蘭を相手に」
「勝負をしたそうね」
「ああ」
「私が」
「止めたにもかかわらず?」
時雨は。
春蘭と秋蘭を見る。
春蘭が。
僅かに視線を逸らす。
秋蘭は。
静かに頭を下げた。
「私たちが頼んだ」
秋蘭が言う。
「時雨は」
「一度は断った」
「そう」
曹操は。
時雨へ視線を戻す。
「なら」
「なぜ受けたの?」
「二人が」
「俺の力を知りたいと言った」
「あなたは」
「何でも頼まれれば受けるの?」
「必要なら」
「今回は必要だった?」
「ああ」
時雨は。
迷わず答える。
「同じ軍で戦う」
「俺も」
「春蘭と秋蘭の力を知ってる」
「二人も」
「俺の力を知る必要がある」
曹操は。
しばらく時雨を見た。
理屈は分かる。
同じ軍の将。
互いの実力を知ることは。
必要。
だが。
曹操が止めたのは。
別の理由。
「怪我をする可能性は?」
「低いと思った」
「ゼロではないわ」
「ああ」
「もし」
曹操の声が。
少し低くなる。
「春蘭の一撃を受けていたら?」
「受けない」
「もし秋蘭の矢が」
「誤ってあなたへ向かったら?」
「避ける」
「あなたは!」
曹操が。
机を叩く。
部屋の空気が震える。
「自分なら大丈夫だと」
「いつまで言い続けるつもり!」
時雨は。
曹操を見る。
怒り。
心配。
恐れ。
曹操は。
勝負をしたことだけに怒っているのではない。
時雨が。
自分の力を知っているからこそ。
危険を軽く見る。
自分なら避けられる。
自分なら勝てる。
自分なら生き残る。
そう考えること。
その先に。
いつか。
避けられない一撃がある。
曹操は。
それを恐れている。
「曹操」
「何」
「次からは」
「栄華に相談する」
曹操の目が。
僅かに動く。
「なぜ栄華?」
「俺が怪我をした時」
「魏へどれだけ影響があるか」
「栄華が分かる」
「柳琳にも」
「身体を見てもらう」
「そして」
時雨は。
春蘭と秋蘭を見る。
「勝負をするなら」
「危険を減らす方法を」
「二人とも考える」
春蘭が。
力強く頷く。
「次は防具を用意します!」
秋蘭も。
静かに続ける。
「弓の勝負なら」
「人へ矢が向かぬ場所を選ぶ」
曹操は。
三人を見る。
以前の時雨なら。
自分で判断した。
大丈夫だと。
一人で決めた。
今は。
栄華。
柳琳。
春蘭。
秋蘭。
周囲の者へ。
判断を分けようとしている。
完全ではない。
まだ。
自分なら大丈夫だという考えは残っている。
だが。
変わろうとしている。
「……分かったわ」
曹操が言う。
春蘭の肩から。
僅かに力が抜ける。
「ただし」
曹操の瞳が。
鋭くなる。
「次に勝負をする時は」
「必ず私の許可を得なさい」
「曹操も見るのか」
「ええ」
「なぜだ」
「あなたの実力を」
「私も見たいもの」
時雨は。
僅かに眉を寄せる。
「今さらか」
「何ですって?」
「曹操は」
「俺が強いと思ってたから」
「剣を返したんじゃないのか」
「強いとは思っていたわ」
曹操は答える。
「でも」
「春蘭と秋蘭へ」
「ここまで圧倒するとは思っていなかった」
春蘭の顔が。
僅かに曇る。
「曹操様」
「事実でしょう?」
「そうですが!」
「悔しいなら」
「次は勝ちなさい」
「はい!」
春蘭は。
すぐに立ち直る。
曹操は。
時雨を見る。
「あなたは」
「なぜ隠していたの?」
「隠してない」
「では」
「なぜ誰にも見せなかったの」
「必要がなかった」
「剣も」
「弓も?」
「ああ」
「戦わずに済むなら」
「使わない」
「力を示せば」
「敵を減らせる場合もあるわ」
「増える場合もある」
時雨は答える。
「強いと分かれば」
「試したがる奴が出る」
春蘭が。
少し気まずそうに視線を逸らした。
「狙う奴も出る」
「俺を倒せば」
「黒山を取れると思う奴」
「名を上げられると思う奴」
「だから」
「必要以上に見せなかった」
曹操は。
静かに聞いている。
「それに」
時雨は続ける。
「俺が強いと知られれば」
「皆が俺へ頼る」
「俺なら勝てる」
「俺がいれば大丈夫」
「そう思う」
「その結果」
「俺がいないと動かなくなる」
燕国。
終わらせた国。
時雨の力。
統率。
判断。
それらが。
国を守った。
同時に。
国を時雨へ依存させた。
武の力も。
同じ。
あまりに強い頭領。
何でも倒す男。
その存在は。
民を安心させる。
だが。
他の者から。
戦う意思を奪うこともある。
「だから」
時雨は言う。
「見せる必要がない時は」
「見せなかった」
曹操は。
時雨の言葉を。
ゆっくり受け止める。
隠された実力。
それは。
時雨が。
自分を大きく見せるために隠していたのではない。
逆。
大きくなりすぎた存在を。
これ以上。
周囲へ依存させないため。
自分の力を。
必要な時だけ使う。
「それでも」
曹操が言う。
「今は」
「私たちへ見せるべきだった」
「ああ」
時雨は頷く。
「二人に言われて」
「分かった」
「俺の力を知らないと」
「任せ方も分からない」
「ようやくね」
「まだ全部じゃない」
曹操の目が細くなる。
春蘭と秋蘭も。
時雨を見る。
「まだ?」
春蘭が尋ねる。
「ああ」
「今日は」
「剣と弓だけだ」
「他にもあるのか!」
「山なら」
「罠」
「投石」
「短槍」
「縄」
「火」
「地形」
「何でも使う」
「素手は?」
春蘭が尋ねる。
「使う」
「馬は?」
秋蘭が尋ねる。
「乗れる」
「騎射は」
「できる」
「槍は」
「使える」
「大剣は」
「重いから嫌いだ」
春蘭の眉が跳ねる。
「何だと!」
「使えないとは言ってない」
「なら次は大剣だ!」
「許可が必要よ」
曹操が即座に言う。
春蘭が。
曹操を見る。
「曹操様」
「私も見るわ」
「では!」
「ただし」
曹操は微笑む。
「次は」
「時雨が何を使うか」
「私が決める」
時雨の眉が寄る。
「なぜだ」
「あなたが」
「得意な武器ばかり選ばないように」
「今日」
「短い木剣を選んだのは」
「春蘭の懐へ入りやすいからでしょう?」
「ああ」
「やはり」
曹操は。
楽しそうに目を細める。
「なら」
「次は私が」
「あなたの強さを」
「一つずつ暴いてあげる」
「面倒だな」
「嫌?」
「必要ならやる」
「必要よ」
曹操は即答した。
「あなたを」
「魏軍の中で」
「最も正しく使うために」
時雨は。
少しだけ考える。
武器として使われる。
以前なら。
反発したかもしれない。
だが。
曹操の言う。
使う。
その意味は。
使い潰すことではない。
どこへ置けば。
最も多く守れるか。
誰と組ませれば。
生きて戻れるか。
それを知ること。
「分かった」
時雨が答える。
「曹操へ見せる」
曹操の笑みが。
僅かに柔らかくなる。
「ええ」
「私だけに?」
「春蘭たちもいるだろ」
「そういう意味ではないわ」
「分かりにくいな」
「あなたが鈍いのよ!」
春蘭が。
時雨を指す。
「時雨!」
「曹操様が」
「特別にご覧になると言っているのだ!」
「見れば同じだろ」
「違う!」
「何が」
「私にも上手く説明できん!」
「姉者」
秋蘭が。
静かに息を吐く。
曹操は。
不満そうに時雨を睨む。
時雨は。
三人を見る。
「今日は」
「もう終わりでいいか」
「待ちなさい」
曹操が言う。
「まだあるのか」
「私へ報告しなさい」
「何を」
「春蘭と戦った時」
「何を見て」
「どう動いたのか」
「秋蘭の矢へ」
「どう勝ったのか」
「最初から」
時雨は。
小さく息を吐く。
「長くなる」
「夜は長いわ」
聞き慣れた言葉。
春蘭と秋蘭は。
互いを見る。
今夜。
時雨が。
また曹操の部屋へ残される。
その意味を。
二人とも。
今さら理解していた。
「曹操様」
春蘭が声を上げる。
「私もご一緒します!」
「なぜ?」
「時雨の説明に」
「間違いがないか確認します!」
「私も」
秋蘭も続く。
「弓について」
「時雨から教わりたい」
曹操の眉が。
僅かに寄る。
「今夜は」
「私が時雨から聞くの」
「ならば」
「隣で聞きます!」
「駄目よ」
「なぜです!」
「私の時間だから」
「曹操様!」
部屋の空気が。
また騒がしくなる。
時雨は。
三人を見ながら。
小さく呟いた。
「勝負より面倒だな」
「聞こえているわよ!」
「聞こえているぞ!」
曹操と春蘭の声が。
同時に響く。
秋蘭は。
僅かに笑った。
---
その夜。
許昌では。
新しい噂が広まった。
黒山の張燕。
魏将となった男。
春蘭を。
二度倒した。
一度目は。
剣を振らせた後。
喉へ木剣を。
二度目は。
武器を奪い。
地へ倒した。
秋蘭との弓勝負では。
百歩先。
揺れる銅貨の穴を。
一射で射抜いた。
話は。
人から人へ渡るたび。
少しずつ大きくなった。
時雨は。
百人を一人で倒せる。
夜でも。
千歩先の的へ当てる。
飛ぶ鳥の目を。
後ろ向きで射抜く。
剣を抜けば。
地面が割れる。
最後の方は。
ほとんど作り話だった。
だが。
噂が。
どれほど大きくなっても。
本当の時雨を知る者たちは。
何も言わなかった。
黒狼隊の兵たちも。
春蘭も。
秋蘭も。
華論。
栄華。
柳琳。
そして曹操も。
今日見たものが。
時雨のすべてではない。
そう理解していた。
時雨の強さは。
剣の速さだけではない。
弓の正確さだけでもない。
相手を見る。
地形を見る。
風を見る。
心を見る。
自分より強い相手へ。
正面からぶつからない。
勝つことへ酔わず。
生き残る道を選ぶ。
黒山で。
何十年も。
人を守り続ける中で磨かれた。
戦いの力。
英雄の武ではない。
美しく。
堂々と敵を倒すための武ではない。
生きるため。
帰るため。
守るため。
必要なものを。
すべて使う力。
それが。
黒山の狼。
張燕――時雨の。
隠されていた実力だった。
春蘭は。
その夜。
自室で。
何度も木剣を振った。
右足。
肩。
呼吸。
時雨に指摘された癖を。
一つずつ直す。
悔しい。
だが。
胸は高鳴っていた。
越えるべき相手がいる。
曹操を守るため。
さらに強くなれる。
秋蘭は。
庭へ立ち。
月明かりの下。
吊るした小さな輪を見ていた。
矢をつがえる。
風を見る。
光を見る。
時雨が見ていたものを。
自分も見ようとする。
一射。
輪の端へ当たる。
秋蘭は。
悔しがらない。
もう一本。
矢をつがえる。
学べるものがある。
それだけで。
弓を持つ指へ力が戻る。
そして時雨は。
曹操の部屋で。
春蘭の癖と。
秋蘭の射。
自分が何を見ていたかを。
何度も説明させられていた。
「春蘭は」
「怒ると右足が出る」
「それは聞いたわ」
「他には?」
「曹操を見る時だけ」
「警戒が消える」
「それは」
曹操の目が細くなる。
「戦場では危険ね」
「ああ」
「でも」
「曹操がいるから」
「春蘭は強くなる」
「そう」
曹操は。
少し嬉しそうに笑う。
「秋蘭は?」
「風を見る」
「私も見るわ」
「見方が違う」
「どう違うの?」
「秋蘭は」
「矢が飛ぶ先を見てる」
「曹操は」
「人が動く先を見る」
「あなたは?」
曹操が尋ねる。
時雨は。
少し考える。
「俺は」
「帰る道を見る」
曹操の表情が。
静かになる。
帰る道。
戦いへ出る前から。
時雨は。
どう戻るかを考える。
敵を倒すことより。
生きて戻ること。
自分だけではない。
兵も。
仲間も。
帰す。
「なら」
曹操は。
時雨の袖を掴む。
「これからも」
「必ず見つけなさい」
「何を」
「私のところへ帰る道を」
時雨は。
曹操を見る。
蒼い瞳。
命令。
願い。
その両方を含む言葉。
「ああ」
時雨は答える。
「見失わない」
曹操の手から。
僅かに力が抜ける。
「約束よ」
「ああ」
「どれだけ強くても」
「一人で敵陣へ残らないこと」
「ああ」
「勝てると思っても」
「無理をしないこと」
「場合による」
「時雨」
曹操の声が低くなる。
「分かった」
「必ず相談する」
「誰に?」
「曹操」
「それから」
「必要なら」
「春蘭」
「秋蘭」
「華論」
「栄華」
「柳琳」
「他の奴らにも」
曹操は。
少しだけ不満そうに目を細める。
「私が最初?」
「ああ」
「本当に?」
「曹操が命令するからな」
「それだけ?」
「帰る場所だから」
曹操の動きが止まる。
時雨は。
何でもないことのように。
杯へ手を伸ばした。
曹操は。
しばらく。
時雨の横顔を見つめる。
そして。
静かに笑った。
「なら」
「許してあげる」
「何を」
「今日」
「勝手に勝負をしたこと」
「春蘭たちが頼んだ」
「でも受けたのはあなたよ」
「次から相談する」
「ええ」
曹操は。
時雨の杯へ酒を注ぐ。
「そして」
「次は私が見ている前で」
「あなたのすべてを見せなさい」
「全部は無理だ」
「なぜ」
「使う場所が必要だ」
「なら」
曹操の笑みが。
覇王のものへ変わる。
「いずれ」
「あなたの力を」
「存分に使う戦場を用意してあげる」
時雨は。
杯を持ったまま。
曹操を見る。
「戦場は」
「用意するものじゃない」
「私が望めば」
「戦場の方から来るわ」
「物騒だな」
「嫌?」
「曹操が行くなら」
時雨は。
酒を飲む。
「俺も行く」
曹操は。
満足そうに微笑んだ。
その夜。
黒山の狼が持つ。
隠された牙を知った者は。
まだ少ない。
だが。
魏の中で。
その力は。
少しずつ正しい場所を与えられ始めていた。
ただ勝つためではない。
ただ名を上げるためでもない。
曹操の覇道を支え。
仲間を守り。
兵を生きて帰す。
そのための力として。
時雨の剣と弓は。
今。
初めて。
魏の中へ組み込まれようとしていた。
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