外伝 第11話 盤上の黒狼――三軍師を喰らう者
春蘭と秋蘭との勝負から、三日が過ぎた。
許昌では今も、時雨の武についての噂が絶えなかった。
魏軍でも屈指の猛将である春蘭を、短い木剣一本で二度倒した。
魏軍随一の弓使いである秋蘭との勝負では、百歩先で揺れる銅貨の穴を一射で射抜いた。
そこまでは事実だった。
しかし。
人から人へ伝わる噂というものは、真実の形を保ってはいられない。
春蘭を指一本で投げ飛ばした。
秋蘭が放った矢を、後から射た矢で空中から叩き落とした。
黒山では一人で一万の官軍を斬った。
剣を抜けば山が割れ。
弓を引けば雲が裂ける。
許昌の市場へ出た頃には。
張燕という男は。
人ではなく。
黒山から下りてきた妖怪か何かになっていた。
「お前は、山を割れるそうだな」
朝の軍議が始まる前。
秋蘭が静かな声で言った。
時雨は自分の席へ座りながら、彼女を見る。
「割れない」
「そうだろうな」
「なら、なぜ聞く」
「姉者が昨日、市場で聞いたそうだ」
時雨は春蘭へ視線を向ける。
春蘭は腕を組み。
いかにも不満そうな顔をしていた。
「私は信じていない!」
春蘭が声を上げる。
「山を割れるなら、先に言え!」
「信じてるじゃないか」
「違う!」
「何が違う」
「本当に割れるなら、私が先に知るべきだと言っている!」
時雨は。
しばらく春蘭を見る。
「割れない」
「なら噂は嘘ではないか!」
「最初からそう言ってる」
「しかし貴様は、まだ実力を隠している!」
「隠してない」
「槍も使えると言った!」
「使える」
「騎射も!」
「ああ」
「罠も!」
「使う」
「素手でも戦える!」
「必要ならな」
春蘭は机を叩いた。
「それを隠していると言うのだ!」
「聞かれなかった」
「聞かれなければ言わんのか!」
「何のために言う」
「己の強さを誇るためだ!」
春蘭は堂々と胸を張った。
時雨は僅かに眉を寄せる。
「春蘭は」
「何だ」
「毎日、自分が強いと言わないと忘れるのか」
「忘れん!」
「なら言わなくていいだろ」
「貴様!」
春蘭が立ち上がる。
秋蘭が。
姉の肩へ静かに手を置いた。
「姉者」
「華琳様が来られる」
春蘭は。
即座に椅子へ座った。
「分かっている!」
時雨は。
その様子を見ながら小さく息を吐いた。
今日の軍議には。
普段より多くの者が集まっていた。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
華論。
栄華。
柳琳。
季衣。
流琉。
黒狼隊からは韓武と石剛。
そして。
部屋の中央には。
いつもの軍議では使わない。
巨大な盤が置かれていた。
山。
川。
平野。
森。
城。
村。
街道。
橋。
渡し場。
地形を描いた盤上へ。
青と赤。
二色の駒が並んでいる。
兵を表す木駒。
兵糧を表す木札。
金を示す小石。
民心を示す色札。
さらに。
日数を数えるための丸石。
完全な。
机上演習の準備だった。
時雨は。
盤を見る。
次に。
盤の向こうへ並ぶ三人を見る。
桂花。
腕を組み。
隠す気もない敵意を時雨へ向けている。
稟。
冷静な表情。
手元には記録用の竹簡。
風。
いつものように眠そうな目で。
盤へ頬杖をついている。
「時雨殿」
稟が口を開いた。
「軍議の前に」
「私たち三人から」
「軍略勝負を申し込みたい」
「断る」
時雨は即答した。
桂花の眉間へ。
深い皺が刻まれる。
「まだ説明もしていないでしょう!」
「見れば分かる」
「では」
桂花は盤を指す。
「何が不満なのです!」
「面倒だ」
「またそれですか!」
桂花の声が軍議室へ響く。
「春蘭や秋蘭とは」
「勝負をしたでしょう!」
「最初は断った」
「ですが最後には受けた!」
「必要だと言われた」
「これも必要です!」
桂花は身を乗り出す。
「あなたが本当に」
「華琳様の軍へ加わるに値する将なのか」
「私たちが見極めます!」
時雨の目が。
僅かに細くなった。
「曹操が決めた」
「華琳様がお決めになったことへ」
「異論はありません!」
「なら終わりだ」
「終わりではありません!」
桂花は時雨を鋭く睨む。
「華琳様は」
「軍議で、あなたの意見を必ず聞けと」
「私たちへお命じになりました!」
「聞けばいい」
「問題は!」
桂花は時雨を指した。
「あなたが」
『山へ入れば勝てる』
『道を燃やせ』
『村を空にしろ』
『城は捨てろ』
『敵が来るまで待て』
「そのような!」
「説明不足にもほどがある言葉ばかり」
「軍議で口にすることです!」
時雨は少し考える。
「間違ってない」
「正しいかどうかを」
「説明しなさいと言っているのです!」
桂花の横で。
稟が小さく咳払いした。
「桂花」
「落ち着いてください」
「私は落ち着いています!」
「声が大きい」
「この男が!」
「時雨殿を怒鳴っても」
「考えは見えません」
「見える必要などありません!」
桂花は胸を張る。
「私が勝てばよいのです!」
「何のためだ」
時雨が尋ねる。
桂花の動きが止まる。
「何のため、とは」
「俺に勝って」
「何が変わる」
「あなたが」
桂花は僅かに言葉を詰まらせた。
「自分の軍略が」
「魏の軍師より優れているなどと」
「思い上がらないためです!」
「思ってない」
「嘘です!」
「なぜだ」
「私の策へ」
「何度も反対したでしょう!」
「反対しただけだ」
「それを思い上がりと言うのです!」
「違うだろ」
二人のやり取りを聞き。
風が眠そうな声を出した。
「お兄さんはー」
「桂花ちゃんより賢いとは」
「一度も言っていませんねー」
「風!」
「でも桂花ちゃんはー」
「お兄さんに負けたくなくて」
「仕方がないのです」
「違います!」
「そうなのですかー?」
「華琳様が」
「この男の意見を聞けとおっしゃるから!」
「それを」
風は僅かに笑う。
「気にしていると言うのですよー」
桂花の頬が赤くなる。
「気にしていません!」
時雨は。
騒ぐ桂花から視線を外し。
稟を見る。
「稟もか」
「はい」
稟は真っ直ぐ頷いた。
「桂花ほど感情的な理由ではありません」
「誰が感情的ですか!」
「ですが」
稟は桂花の声を受け流した。
「私も」
「時雨殿の軍略を知る必要があると考えています」
「春蘭や秋蘭と同じか」
「あの二人とは少し違います」
稟は盤面へ視線を落とす。
「武は」
「目で見ることができます」
「剣を交え」
「矢を競えば」
「ある程度の力は分かる」
「しかし」
「軍略は違います」
「結果だけを見ても」
「何を見て」
「何を捨て」
「何を守ろうとしたのか」
「それを知らなければ」
「正しく評価することはできません」
時雨は答えない。
稟は続ける。
「時雨殿は」
「百万を超える黒山の民を」
「長年守り続けた」
「百を超える砦をまとめ」
「何度も官軍を退けた」
「偶然だけでは不可能です」
「ですが」
「時雨殿は軍議で」
「結論だけを口にする」
「理由を語らない」
「だから」
稟は時雨を見る。
「一度」
「盤上で」
「その考えを見せていただきたい」
時雨の視線が。
最後に風へ向く。
「風もか」
「はいー」
「何のためだ」
「面白そうだからです」
即答だった。
桂花が呆れた顔をする。
「あなたは!」
「でもー」
風は。
盤上の小さな兵駒を指で回す。
「お兄さんの戦い方は」
「風たちのものとは」
「少し違う気がするのです」
「違うから見たい?」
「はい」
「知らないものは」
「知りたくなるのですよー」
「それだけか」
「それだけで十分なのです」
風は眠そうに笑った。
時雨は。
盤を見下ろす。
兵駒。
一つで千人。
倒れても。
声は上げない。
腹も減らない。
恐怖も抱かない。
命令へ逆らうこともない。
机の上では。
兵はただの数字になる。
「俺は」
時雨が言う。
「こういう勝負は嫌いだ」
「負けるのが怖いのですか?」
桂花が即座に言う。
「違う」
「では何です」
「兵が駒だからだ」
軍議室が。
少し静かになる。
時雨は。
青い兵駒を一つ持ち上げた。
「これで千人か」
稟が頷く。
「はい」
「倒せば」
時雨は駒を横へ倒す。
「千人死ぬ」
「演習上は」
「そうなります」
「机の上では」
時雨は倒れた駒を見る。
「簡単すぎる」
「腹が減らない」
「足も痛まない」
「故郷へ帰りたいとも言わない」
「命令へ反対もしない」
「だから」
「簡単に殺せる」
稟は。
静かに時雨を見ていた。
桂花も。
反論を飲み込んでいる。
風だけが。
僅かに目を細くした。
「ですが」
稟が言う。
「盤上だからこそ」
「実際に人を失わず」
「試すことができます」
「ああ」
「実戦で誤れば」
「兵は死ぬ」
「盤上ならば」
「間違いを知り」
「次へ生かすことができる」
「それも分かる」
「なら」
「なぜ断るのです」
時雨は。
しばらく盤面を見つめた。
好きではない。
だが。
必要がないわけではない。
同じ魏軍で戦う。
自分が。
なぜ城を捨てるのか。
なぜ道を壊すのか。
なぜ勝てる戦で退くのか。
桂花たちが理解していなければ。
戦場で。
互いの策がぶつかる。
そして。
その間に死ぬのは兵だ。
「曹操」
時雨が呼ぶ。
軍議室の奥。
黙ってやり取りを見ていた曹操が。
僅かに微笑んだ。
「何?」
「曹操が仕組んだのか」
「許可はしたわ」
「三人がやりたいと言ったの」
「止めなかったのか」
「ええ」
曹操は。
時雨と三軍師を見渡す。
「私も」
「あなたたちが」
「互いの軍略を知る必要があると思っているもの」
「時雨」
「あなたは」
「自分の考えを」
「他の者へ伝えることを覚えなさい」
「桂花」
桂花が姿勢を正す。
「はい、華琳様!」
「あなたは」
「自分と違う考えを」
「間違いだと決めつける前に」
「理解することを覚えなさい」
桂花の表情が僅かに固まる。
「稟」
「はい、華琳様」
「あなたは」
「定石の外にある戦いを知りなさい」
「風」
「はいー、華琳様」
「面白がるだけで終わらせないこと」
「難しいご命令ですねー」
「努力なさい」
「はーい」
曹操は。
最後に盤を指した。
「勝負なさい」
「ただし」
「誰が一番優れた軍師かを」
「決めるためではないわ」
「互いの軍略を」
「魏の力に変えるためよ」
「分かったわね?」
「御意!」
桂花が答える。
稟も頭を下げた。
風は軽く片手を上げる。
時雨は。
小さく息を吐いた。
「分かった」
「受ける」
桂花の目へ。
鋭い光が宿る。
「後悔しないことです」
「負けても怒るな」
「誰が負けると言いました!」
「春蘭と同じだな」
部屋の端で。
春蘭が反応する。
「どういう意味だ!」
「姉者」
秋蘭が静かに言う。
「今は黙っていろ」
「分かっている!」
---
勝負は。
三対一。
桂花。
稟。
風。
三人で一つの赤軍を指揮する。
対する青軍は。
時雨一人。
兵数は双方五万。
領地。
人口。
兵糧。
金。
開始時点では同じ。
盤の中央には。
大河が流れている。
南は豊かな平野。
北は深い森。
東西には山岳地帯。
中央へ大城。
周囲へ六つの小城。
村は二十四。
穀倉が六つ。
大きな街道が三本。
橋が二つ。
渡し場が四つ。
勝利条件は三つ。
敵本城の占領。
敵総大将の捕縛。
敵軍の継戦不能。
期間は百日。
十日ごとに天候が変化する。
曹操が裁定役。
華論が兵数と部隊移動。
栄華が兵糧と金。
柳琳が負傷者と士気。
春蘭と秋蘭は。
盤上の将として命令を受ける。
季衣と流琉は。
伝令と偵察の判定役。
韓武と石剛は。
青軍兵の反応を伝える。
最初に。
時雨が青軍を配置した。
本城へ五千。
山地へ一万二千。
北の森へ八千。
六つの小城へ。
それぞれ三千。
残る七千を。
各地の村と街道へ。
騎兵は五千。
残りは歩兵。
弓兵と工兵を多くする。
桂花は。
配置を見た瞬間。
眉を寄せた。
「本城へ五千?」
「ああ」
「勝つ気があるのですか」
「ある」
「敵に本城を取られれば」
「敗北です!」
「知ってる」
「なら」
桂花は本城を指す。
「最低でも一万五千は置くべきでしょう!」
「なぜ」
「最重要拠点だからです!」
「誰が決めた」
「勝利条件へ書いてあるでしょう!」
「だから」
時雨は。
本城駒を指先で軽く動かした。
「取られる前に」
「本城ではなくせばいい」
桂花の顔が止まる。
「何を言っているのです」
「後で分かる」
「最初から説明しなさい!」
「まだ決めてない」
「決めていない!?」
「敵の動きで変える」
桂花は。
頭痛を覚えたように額を押さえた。
稟は。
時雨の配置を竹簡へ書く。
「南部平野へ」
「兵をほとんど置かないのですか」
「ああ」
「穀物生産の四割を占めます」
「赤軍が進めば」
「すぐ占領される」
「取っていい」
桂花の目が細くなる。
「挑発ですか」
「いらないだけだ」
「豊かな平野が?」
「守るのに兵が要る」
「南は広すぎる」
「平地で赤軍と戦えば」
「騎兵が多い方が勝つ」
「だから捨てる」
稟が尋ねる。
「民は?」
「北へ逃がす」
「拒む者は」
「残る」
「赤軍へ従う者も?」
「ああ」
「裏切りとは考えないのですか」
「生きる方を選ぶのは」
「裏切りじゃない」
盤上に。
短い沈黙が落ちる。
桂花は。
時雨を理解できない目で見た。
領地。
収入。
民。
戦う前から。
自分のものを捨てている。
勝つ者の配置ではない。
少なくとも。
桂花が学んできた軍略では。
あり得ない。
「では」
曹操が言う。
「始めなさい」
---
最初の十日。
赤軍は。
南部平野へ二万を進めた。
桂花の策だった。
青軍がほとんど兵を置かない以上。
南部を素早く占領。
穀倉を確保し。
収入と兵糧へ差をつける。
中央へ一万五千。
東へ一万。
残る五千を予備。
稟は。
青軍の山と森を分断するため。
中央街道の確保を進める。
風は。
青軍領へ間者を放つ。
対する時雨は。
何もしなかった。
兵を動かさない。
攻撃しない。
南部から逃げる民だけを。
北の森と山地へ受け入れる。
「何もしないのですか」
桂花が尋ねる。
「ああ」
「南の村が」
「次々とこちらへ降っています」
「知ってる」
「穀倉も三つ確保しました」
「ああ」
「兵糧収入は」
「こちらが大きく上回ります」
「そうだな」
「ならば!」
桂花は声を荒らげる。
「何か対処しなさい!」
「敵に助言するのか」
「違います!」
「なら黙ってろ」
「あなたは!」
曹操が。
静かに名を呼ぶ。
「桂花」
「……はい、華琳様」
桂花は。
不満そうに座り直した。
十日目。
栄華が記録を読み上げる。
「赤軍」
「南部村落八か所を占領」
「穀倉三つを確保」
「兵糧収入は開始時より三割増加」
「青軍」
「南部収入を喪失」
「現在の備蓄で」
「約四十日」
華論も兵数を確認する。
「両軍とも損害なしっす」
「領地と兵糧だけなら」
「赤軍の圧倒的優勢っすね」
春蘭が。
時雨を見る。
「時雨」
「何だ」
「本当に何もしないのか」
「ああ」
「私なら南へ出るぞ」
「だから春蘭は」
「軍師じゃない」
「何だと!」
秋蘭が。
姉の腕を押さえた。
「姉者」
「盤へ触るな」
「触っていない!」
十一日目。
天候札は雨。
大河の水位が上がり。
道がぬかるむ。
騎兵の移動が遅くなる。
赤軍は。
南部支配を進めた。
桂花は。
村へ低い税を課し。
兵糧を徴収する。
民へ過度な負担を与えず。
赤軍の統治を受け入れさせる。
稟は。
中央から青軍の本城へ。
一万を進める。
時雨側の小城と小城の間へ入り。
山と森の連絡を断つ。
風は。
商人に化けた間者を青軍領へ送る。
「何を流す」
曹操が尋ねる。
風は答える。
「時雨さんは」
「南の民を見捨てた」
「北や東も」
「いつ捨てられるか分からない」
「そういう噂です」
柳琳が。
民心札を動かした。
「南部民の多くは」
「青軍へ不信を抱き始めます」
「北と東でも」
「僅かな動揺」
「兵の士気は」
「まだ大きく下がっていません」
時雨は。
何も言わない。
二十日目。
赤軍は。
青軍の小城一つを包囲した。
赤軍一万二千。
青軍三千。
北と西は赤軍。
東は川。
南は急な崖。
稟の布陣は隙がない。
桂花は。
城へ降伏勧告を出す。
降伏すれば。
兵と民の命を保証。
財産も一定まで認める。
曹操が。
時雨を見る。
「どうする?」
「逃げる」
桂花の顔が上がる。
「城を捨てるのですか」
「ああ」
「三千の兵を?」
「民も連れていく」
稟が盤を見る。
「包囲されています」
「どこから逃げるのです」
「南の崖」
「道はありません」
「作る」
時雨は。
工兵駒を崖へ置いた。
「縄を下ろす」
「老人と怪我人を先に」
「兵は最後」
柳琳が確認する。
「全員を下ろすには」
「一晩以上かかります」
「夜のうちに始める」
「見つかれば」
「城へ火をつける」
桂花が目を見開く。
「自分の城を燃やすのですか」
「ああ」
「持てる食料は運ぶ」
「武器も」
「鎧も」
「門の金具も外す」
「持てない物は壊す」
「井戸は」
「埋めない」
「なぜです」
「残る怪我人が」
「水を飲めなくなる」
桂花は。
一瞬だけ言葉を失った。
時雨は続ける。
「赤軍が追うなら」
「崖下の道を崩す」
「逃げ切るまで」
「兵を百残す」
柳琳の目が僅かに曇る。
「その百名は」
「戻れますか」
「半分は」
「戻れないかもしれない」
軍議室の空気が。
僅かに重くなる。
時雨は。
盤上の小さな駒を見ている。
百名。
駒にもならない数字。
だが。
時雨の声には。
その百人の顔を想像している重さがあった。
「城を守れば」
時雨が続ける。
「三千と民が死ぬ」
「百で逃がせるなら」
「そっちを選ぶ」
「城を失います」
桂花が言う。
「取り返せる」
「死んだ奴は戻らない」
時雨の答えは。
短かった。
盤上の小城が。
赤へ変わる。
しかし。
赤軍が城へ入った時。
兵糧はほとんどない。
武器もない。
門は壊され。
建物の一部は焼けている。
井戸だけが残されていた。
華論が結果をまとめる。
「青軍」
「兵三千と民の大半が脱出」
「殿軍百のうち」
「四十二名が戦死」
「二十名が捕虜」
「残りは山へ合流」
「赤軍」
「城を占領」
「ただし」
「修復と補給拠点化に五日必要っす」
栄華が続ける。
「赤軍が得た兵糧は」
「ほぼなし」
「修復費用が発生」
「青軍は」
「城を失ったものの」
「兵力損失は小さい」
桂花は。
赤へ変わった城を見つめる。
勝った。
城を取った。
だが。
何も得ていない。
むしろ。
壊れた城を維持するため。
金と兵を置かなければならない。
「城を」
時雨が言う。
「持たせることができた」
桂花が顔を上げる。
「何ですって」
「赤軍へ」
「守らせる」
「俺たちは逃げた」
「だが赤軍は」
「城を取ったから」
「捨てにくい」
「兵を置く」
「修理する」
「食料を運ぶ」
「その分」
「前へ出る兵が減る」
稟の指が。
僅かに止まった。
城を取ることは。
通常。
利益になる。
しかし。
壊され。
空にされ。
周囲の民も逃げた城。
そこへ兵を置けば。
補給だけを食う。
捨てれば。
せっかく取った土地を失う。
時雨は。
城を失ったのではない。
赤軍へ。
重荷として押しつけた。
風の目が。
少しだけ開く。
「なるほどー」
「お兄さんは」
「城を武器にしたのですね」
「ああ」
桂花は。
不満そうに風を見る。
「まだこちらが優勢です!」
「はいー」
風は笑う。
「ですが」
「少し面白くなってきました」
---
三十日。
赤軍は。
さらに二つの小城を攻める。
一つは。
中央街道の要所。
もう一つは。
山と森を結ぶ狭い地域。
稟の狙いは。
青軍を三分することだった。
本城。
山。
森。
互いの連絡を断ち。
一つずつ包囲する。
軍略として。
正統。
堅実。
兵数。
補給。
時間。
すべてへ無理がない。
風は。
山地の青軍へ偽の伝令を送る。
本城が落ちた。
時雨が南へ逃げた。
山の兵は見捨てられた。
柳琳が。
士気札を確認する。
「山地兵に」
「僅かな動揺」
「ですが」
韓武が口を開く。
「黒山の兵は」
「時雨様が城を捨てることを知っています」
「本城が落ちたと聞いても」
「全滅したとは考えません」
桂花が眉を寄せる。
「なぜです」
「頭領は」
韓武が答える。
「城より人を選びます」
「黒山では」
「砦を失うことは」
「負けではありませんでした」
「では」
桂花が尋ねる。
「何が敗北なのです」
韓武は。
少し考えた。
「帰る者が」
「いなくなることです」
桂花は黙る。
青軍の二つ目の小城が。
赤軍一万に包囲される。
守る青軍は三千。
時雨は。
再び撤退を命じた。
ただし。
今度は。
兵を二つへ分ける。
千名は民を連れて北へ。
残る二千は。
城外の森へ潜む。
稟が。
その意図を読む。
「攻城部隊の背後を狙うのですか」
「ああ」
「二千で一万へ?」
「戦わない」
「ならば」
「補給を燃やす」
時雨は。
赤軍の補給路を指した。
城を攻める一万。
食料は。
南の占領地から運ばれる。
護衛二千。
稟はすぐに言う。
「先の失敗を受け」
「今回は護衛を増やしています」
「荷車も」
「複数に分ける」
「森沿いは避けます」
「見えてる」
時雨は。
補給路の先へある。
浅い谷を指した。
「ここで待つ」
「森ではありません」
桂花が言う。
「伏兵を隠せる場所も少ない」
「隠れない」
「何をするのです」
「上から石を落とす」
盤上に。
工兵駒が置かれる。
「雨で地盤が緩んでる」
「谷の入口を崩す」
「補給隊を」
「前後に分ける」
「後ろは道を塞がれる」
「前は」
「谷から出たところで」
「弓を射る」
秋蘭が。
盤へ目を落とす。
「馬を狙うのか」
「ああ」
「荷車を引く馬」
「護衛の騎馬」
「兵より先に」
「馬を倒す」
「馬が暴れれば」
「荷車が道を塞ぐ」
「火矢を使う」
「食料だけ燃やす」
桂花が。
低い声で言う。
「護衛兵は」
「逃げれば追わない」
「抵抗するなら倒す」
「こちらも二千です」
「赤軍には騎兵がいる」
「谷では走れない」
「見通しも悪い」
「馬を失えば」
「鎧が重い兵になるだけだ」
華論が。
地形と兵数を確認する。
「成立するっす」
「ただ」
「青軍も」
「かなり危険っすね」
「ああ」
「何人まで」
柳琳が尋ねる。
「失う覚悟ですか」
「五百」
軍議室が静かになる。
時雨は。
続けた。
「五百で」
「補給を止める」
「攻城中の一万が下がる」
「城の三千を逃がす」
「二千で」
「一万三千を助ける」
「そういう計算か」
曹操が尋ねる。
「ああ」
襲撃判定。
雨。
地形。
事前工作。
奇襲。
赤軍補給隊は。
大きく混乱した。
護衛兵二千。
戦死三百。
負傷五百。
荷車。
七割焼失。
残る三割も。
谷へ取り残される。
青軍。
戦死百二十。
負傷二百。
想定より。
遥かに少ない損害。
桂花が。
眉を寄せた。
「少なすぎます」
「何が」
「青軍の損害です」
「馬を先に倒した」
「兵は逃げた」
「逃げる相手を」
「追わなかった」
「ですが」
「赤軍は訓練された兵です」
「混乱しても」
「すぐ立て直すはずです」
「火の中でか」
時雨は桂花を見る。
「倒れた馬」
「燃える荷車」
「谷の入口は崩れてる」
「前には弓兵」
「後ろは詰まってる」
「その状態で」
「誰の命令が届く」
桂花は答えられない。
兵が。
常に命令通り動く。
盤上では。
そう考えやすい。
だが。
現実の兵は。
燃える。
馬が暴れる。
叫び声が響く。
前が見えない。
後ろへ戻れない。
その瞬間。
訓練より先に。
生きたいという本能が出る。
時雨は。
そこを狙っている。
攻城中の赤軍一万は。
補給を失った。
五日後。
包囲を解き。
南へ下がる。
青軍の小城は。
守られた。
時雨は。
城へ兵を残さず。
三千すべてを北へ逃がす。
桂花が尋ねる。
「なぜ城を空にするのです」
「また来るから」
「なら守備を置くべきです」
「置けば」
「また囲まれる」
「空の城なら」
「取りに来ても」
「何もない」
「放っておけば」
「俺が使う」
桂花は。
盤上の小城を睨む。
取れば負担。
取らなければ。
青軍の休息地になる。
守れば。
補給が要る。
壊せば。
周辺の民心を失う。
盤面上。
赤軍の色は増えている。
だが。
使える兵は。
少しずつ減っていた。
占領地の守備。
壊れた城の修復。
長くなった補給線の護衛。
赤軍五万のうち。
自由に動かせる兵は。
すでに三万を切っている。
一方。
青軍は。
城を三つ失った。
南部も失った。
だが。
兵力は。
四万八千近く残っている。
「領地は」
桂花が言う。
「こちらが三倍」
「兵糧も」
「こちらが上」
「ええ」
栄華が確認する。
「現時点では」
「赤軍の優勢です」
「なら問題ありません!」
桂花は言い切る。
風は。
盤上へ頬杖をついたまま。
小さく呟いた。
「本当に」
「そうでしょうかねー」
---
四十日。
赤軍は。
南部支配を固めた。
税を軽くし。
農具を配り。
壊れた水路を修復。
村へ兵を置く。
桂花らしい。
内政と兵站を組み合わせた統治。
占領された民の不満を抑え。
赤軍へ協力させる。
風は。
さらに一歩進めた。
「南部の税を」
「青軍時代の半分にします」
栄華が眉を寄せる。
「赤軍の収入が減りますわ」
「はいー」
風は頷く。
「でも」
「南の民は」
「赤軍に支配された方が」
「暮らしがよいと思うのです」
「時雨さんが戻ってきても」
「協力しなくなります」
柳琳が。
民心札を赤へ動かす。
「南部民の大半が」
「赤軍の統治を受け入れました」
「青軍へ戻りたいと考える者は」
「ほとんどいません」
桂花の口元へ。
自信に満ちた笑みが浮かぶ。
「これで」
「南部は完全に私たちの領地です」
「あなたが捨てた民は」
「あなたを捨てました」
時雨は。
赤へ変わった村々を見る。
「そうか」
「何とも思わないのですか」
「思う」
「なら!」
「生きてるなら」
時雨は桂花を見る。
「それでいい」
桂花の顔が止まる。
「敵へ従ったのですよ」
「ああ」
「税も納める」
「ああ」
「兵糧も出す」
「そうだな」
「それでも?」
「生きるためだろ」
時雨は。
村の札を指でなぞった。
「俺に忠義を立てて」
「飢える必要はない」
「俺が守れなかったなら」
「守れる奴へ従えばいい」
桂花は。
言葉を失った。
国。
領地。
民。
主従。
桂花にとって。
民が敵へ従うことは。
支配を失うこと。
敵の力になること。
軍略上の敗北。
だが。
時雨は。
民を所有していない。
自分へ忠誠を尽くすことより。
生きることを選ばせる。
それは。
曹操が時雨を自分のものと呼ぶ意味とも。
どこか似ていた。
意思を奪わず。
守る側へ置く。
「ですが」
稟が言う。
「南部の民が赤軍へ協力すれば」
「青軍へ不利になります」
「ああ」
「将として」
「それを許すのですか」
「許す」
「なぜ」
「後で戻せる」
時雨の指が。
南部平野を通る。
三本の水路へ向かう。
「今は」
「赤軍が守ってる」
「道も」
「水路も」
「穀倉も」
「全部」
「よくしてくれ」
桂花の目が細くなる。
「何を言っているのです」
「その方が」
「後で使いやすい」
一瞬。
誰も意味を理解できなかった。
風だけが。
盤へ顔を近づける。
「お兄さん」
「まさかー」
時雨は。
南部の端にある。
山地へ続く細い川を指した。
「川上に」
「青軍の工兵がいる」
稟の表情が変わる。
「水攻めですか」
「違う」
「なら」
「水を止める」
桂花が目を見開く。
「南部の水路を?」
「ああ」
「川上へ堰を作る」
「大きくなくていい」
「流れを半分にする」
「水路の修復を」
「赤軍が終えた後で?」
「ああ」
栄華が。
農地への影響を計算する。
「水量が半分になれば」
「南部の農地は」
「二十日ほどで水不足」
「収穫量が大きく落ちます」
「ですが」
桂花がすぐに言う。
「赤軍が川上へ兵を送れば」
「堰を壊せます!」
「送ればいい」
「そこは山です」
時雨が答える。
「道は一本」
「工兵と弓兵を置く」
「壊しても」
「夜にまた作る」
「守るためには」
「最低五千」
「さらに」
「川上までの補給が必要」
稟が。
盤上の距離を測る。
南部から川上まで。
細い山道。
荷車は通れない。
徒歩で。
食料を運ぶ必要がある。
五千の兵。
一日分だけでも。
膨大な量。
「では」
風が呟く。
「赤軍は」
「水路を守るために」
「山へ兵を置く」
「そうしなければ」
「南部の畑が死ぬ」
「置けば」
「山でお兄さんと戦うことになる」
時雨は頷く。
「ああ」
桂花が。
低い声で言う。
「最初から」
「南部を取らせるために?」
「取ると思った」
「豊かだからな」
「私たちが」
「水路まで修復することも?」
「桂花ならする」
桂花の表情が。
固まった。
「なぜ」
「なぜ分かったのです」
「曹操の国を」
「豊かにする軍師だから」
時雨は。
当然のことのように答えた。
「占領した村を」
「荒らしたままにはしない」
「民へ税を払わせるなら」
「先に働けるようにする」
「桂花は」
「そうする」
桂花は。
何も言えなかった。
敵として。
読まれた。
だが。
読み切られた理由は。
桂花が優れた軍師だから。
民を搾るだけではなく。
土地を生かす者だから。
それを。
時雨は最初から信じていた。
「お兄さんは」
風が笑う。
「桂花ちゃんの強さを」
「利用したのですねー」
「ああ」
「弱い奴なら」
「畑を荒らす」
「税を取りすぎる」
「民が反発する」
「そうなれば」
「俺が何もしなくても南は崩れる」
「だが」
「桂花は崩さない」
「だから」
「崩す場所を」
「俺が作る」
桂花の顔が。
怒りで赤くなる。
「私を!」
「何だ」
「私を駒のように使ったのですか!」
「敵だからな」
「あなたは!」
桂花が机を叩く。
曹操は。
止めなかった。
ただ。
興味深そうに盤を見ている。
赤軍は。
川上へ五千を送る。
その分。
南部。
中央。
占領城。
どこかの兵を減らさなければならない。
稟は。
中央の攻勢を一度止め。
五千を山へ回す。
時雨は。
青軍の山地兵一万二千を。
さらに小分けした。
五百。
千。
二千。
狭い山道。
夜。
霧。
落石。
倒木。
赤軍が進むたび。
姿を見せず。
食料だけを奪う。
兵を倒すことより。
足を止める。
堰を壊せば。
別の場所へまた作る。
五十日。
赤軍は。
川上を完全には確保できない。
兵糧だけが減っていく。
南部では。
水不足が始まる。
民心が。
僅かに赤から離れる。
「おかしいです」
桂花が言う。
「赤軍は」
「まだ兵力も兵糧も上です」
「なのに」
「なぜ」
「動ける兵が減っている」
華論が。
赤軍の配置を読み上げる。
「南部守備八千」
「占領城三か所へ九千」
「補給路護衛六千」
「川上へ五千」
「本隊は二万二千」
「そのうち」
「連日の移動と小競り合いで」
「疲労が高い兵が七千」
柳琳も。
士気札を見る。
「赤軍の士気は」
「大きく崩れてはいません」
「ですが」
「敵が見えないこと」
「進んでも成果がないこと」
「補給隊が何度も襲われることで」
「不安が増しています」
「青軍は」
「城を失っていますが」
「大きな敗北がない」
「山と森の兵は」
「地形に慣れ」
「疲労も比較的少ない」
稟は。
盤上を見つめている。
「時雨殿は」
「一度も」
「本隊同士の戦いをしていない」
「ああ」
「勝てないからだ」
「兵力差は」
「始めから同じでした」
「平地なら」
「俺が負ける」
時雨は答える。
「桂花が兵糧を切らさない」
「稟が陣を崩さない」
「風が裏を取る」
「正面からやれば」
「青軍が負ける」
「だから」
「正面から戦わない」
「では」
稟が尋ねる。
「いつまで逃げるのです」
「もう逃げない」
時雨は。
青軍の駒へ手を伸ばした。
盤上の空気が変わる。
それまで。
退く。
隠れる。
壊す。
燃やす。
それだけだった青軍。
初めて。
大きく動く。
北の森。
八千。
山地。
一万二千。
逃がしてきた小城兵。
九千。
各地へ分散していた兵。
合わせて。
三万二千。
それらを。
中央へ集める。
ただし。
一つの軍にはしない。
七つの部隊。
別々の道。
別々の時刻。
向かう先は。
赤軍の占領城ではない。
南部でもない。
赤軍本隊でもない。
「どこへ」
桂花が尋ねる。
時雨は。
赤軍の後方。
開始時点で赤軍の本城だった場所を指した。
「ここ」
三軍師の顔が。
同時に変わった。
赤軍本城。
開始から五十日。
前線は大きく青軍側へ進んでいる。
本城には。
五千の守備兵しか残っていない。
「不可能です」
稟が即座に言う。
「青軍領から」
「赤軍本城までは遠すぎる」
「途中に」
「赤軍支配下の南部がある」
「だから通らない」
「どこを」
時雨は。
東側の山。
地図上では。
細く。
軍道として扱われていない場所を指した。
「ここ」
桂花が眉を寄せる。
「道がありません」
「ある」
「盤にはありません!」
「獣道」
「三万の兵は通れません」
「三万で通らない」
時雨は。
七つの部隊を指す。
「一隊」
「三千から五千」
「荷車は捨てる」
「食料は四日分」
「それ以上は」
「現地で集める」
栄華がすぐに言う。
「敵地です」
「調達できませんわ」
「買う」
「何で」
「金」
「青軍には」
「金の備蓄があります」
「城の修復へ」
「ほとんど使っていない」
栄華の手が止まった。
青軍は。
城を捨てた。
道も直さない。
豪華な武器も作らない。
その結果。
金が残っている。
「赤軍領の村から」
時雨が続ける。
「食料を買う」
「奪わない」
「金を払う」
「高く買う」
「南部の民は」
「赤軍へ従っています」
桂花が言う。
「青軍へ協力しません」
「協力じゃない」
「商売だ」
「赤軍兵へ知らせる者は?」
「いる」
「だから」
時雨は。
風を見る。
「風が流した噂を使う」
風の目が。
細くなる。
「どの噂です?」
「俺が」
「民を見捨てた」
「青軍は逃げた」
「本城も危ない」
「赤軍が勝つ」
「その噂」
「はいー」
「皆が信じてる」
「ああ」
「だから」
「青軍が」
「赤軍本城へ向かうとは思わない」
風が。
ゆっくり笑った。
「風の策まで」
「使われましたかー」
「ああ」
「見事ですねー」
桂花が。
強く盤を指す。
「ですが!」
「獣道を抜けても」
「赤軍本城まで四日はかかる!」
「こちらが気づけば」
「本隊を戻せます!」
「戻すか」
時雨が尋ねる。
「当然です!」
「本当に?」
桂花は答えようとして。
止まる。
赤軍本隊。
二万二千。
今いるのは。
青軍本城の近く。
もし。
赤軍本城へ戻るなら。
攻勢を完全に止める。
占領地を通り。
南部を横切り。
最低六日。
さらに。
補給線が長い。
川上の部隊も。
占領城の兵も。
すぐには動かせない。
「青軍本城を」
稟が言う。
「先に落とせばよい」
桂花が顔を上げる。
「そうです!」
「こちらの本城へ向かう間に」
「青軍本城を取る!」
「そうすれば」
「時雨殿の敗北です!」
時雨は。
自分の本城を見た。
守備。
五千。
赤軍本隊。
二万二千。
包囲すれば。
数日で落ちる。
「捨てる」
桂花が目を見開く。
「何を」
「本城を」
「だから!」
「取られれば敗北です!」
「本城じゃなくする」
「どうやって!」
時雨は。
青軍本城に置かれた。
総大将駒を持ち上げる。
山地へ移す。
「首都を移す」
軍議室が。
完全に静まった。
「……何ですって」
桂花の声が掠れる。
「勝利条件は」
時雨が言う。
「敵本城の占領」
「ああ」
曹操が答える。
「本城を」
「どこへ置くかは」
「開始時点から変えられないとは」
「書いてない」
桂花。
稟。
風。
三人が。
同時に曹操を見る。
曹操は。
楽しそうに微笑んでいる。
「ええ」
「書いていないわ」
「ですが華琳様!」
桂花が声を上げる。
「本城とは!」
「国の中心です!」
「中心を移した」
時雨が答える。
「民も」
「兵糧も」
「役人も」
「最初から少しずつ山へ送ってた」
栄華が記録を確認する。
「確かに」
「時雨側は」
「本城の兵糧を」
「三十日目から少しずつ減らしています」
「行き先は」
「避難民への配給とだけ」
「申告されていましたが」
「山地拠点へ」
「蓄積されている計算になります」
稟の顔から。
血の気が引いた。
「最初から」
「本城を捨てるつもりだった」
「ああ」
「では」
「赤軍本隊が進んでいたのは」
「空の城へ?」
「空ではない」
「五千いる」
「逃げるための時間を稼ぐ」
柳琳が尋ねる。
「五千を」
「残すのですか」
「三千は」
「今夜出す」
「二千が門を守る」
「最後に」
「地下道から逃げる」
桂花が。
怒鳴る。
「地下道など盤にはありません!」
「作る」
「いつ!」
「最初から」
時雨は。
本城の工兵駒を指した。
「五千のうち」
「二千が工兵」
「守るための兵じゃない」
「逃げ道を作る兵だ」
稟は。
時雨の最初の配置を思い出す。
本城五千。
少なすぎる守備。
そう考えた。
だが。
そもそも。
守備兵ではなかった。
本城を。
捨てるための準備をする兵。
「青軍本城を取っても」
風が言う。
「赤軍は勝てない」
「その間に」
「青軍三万二千が」
「赤軍本城へ向かう」
「守備は五千」
「はいー」
風は。
盤を見ながら笑う。
「これは」
「困りましたねー」
桂花は。
すぐに赤軍の駒を動かす。
「本隊を二つに分けます!」
「一万二千で青軍本城を押さえる」
「一万を赤軍本城へ戻す!」
稟が。
静かに首を振る。
「間に合いません」
「なぜ!」
「時雨殿の七部隊は」
「すでに二日前から動いている」
「本日」
「全軍が一斉に動いたのではない」
「森から先発隊を出し」
「山地兵を順に送り」
「私たちへ気づかせないよう」
「集結地点だけを合わせた」
時雨が頷く。
「ああ」
「いつから」
桂花が尋ねる。
「南部の水を止めた日」
「四十日目!?」
「赤軍が」
「川上へ兵を送ったから」
「東の山道が薄くなった」
桂花の顔が。
完全に固まった。
川上の堰。
南部の水不足。
赤軍五千を。
山へ引きつける。
それだけではなかった。
東山道から。
赤軍の目を外すため。
赤軍自身に。
別の山へ兵を送らせた。
「では」
風が言う。
「南部を取らせたことも」
「城を取らせたことも」
「川を止めたことも」
「全部」
「赤軍の兵を」
「盤上へ広げるためですかー?」
「ああ」
「五万を」
「一つにしたままだと」
「俺は勝てない」
「だから」
「守らせた」
「城を」
「村を」
「道を」
「川を」
「補給を」
「全部」
「赤軍へ守らせた」
桂花が。
赤軍の配置を見る。
南部八千。
占領城九千。
補給路六千。
川上五千。
本隊二万二千。
数字を合わせれば五万。
だが。
一つの軍ではない。
盤上へ。
薄く。
長く。
広がっている。
青軍は。
領地を失った。
城を失った。
民も失った。
その代わり。
兵を失わず。
金を残し。
山へ蓄え。
最後に。
一つへ集まった。
「赤軍本城へ」
時雨が言う。
「着くまで二日」
「五千なら」
「一日で囲む」
「門を壊すのに一日」
「三日目には取れる」
「こちらの援軍は」
稟が答える。
「最短でも五日」
「間に合わない」
桂花は。
拳を握った。
「なら」
「本城を捨てます!」
「総大将を」
「南部へ移す!」
時雨は。
桂花を見る。
「できない」
「なぜです!」
「赤軍は」
「首都を移す準備をしてない」
「民も」
「役人も」
「金も」
「兵糧も」
「全部本城にある」
「総大将だけ逃げれば」
「本城は変わらない」
稟が。
静かに目を閉じた。
その通りだった。
時雨は。
四十日かけ。
本城を空にした。
民。
兵糧。
役人。
金。
国の機能そのものを。
山へ移した。
だから。
首都を移せる。
赤軍は。
勝っていると思っていた。
本城を守る必要を感じなかった。
すべてが残っている。
だから。
捨てられない。
「では」
風が。
珍しく。
はっきりとした声で言う。
「赤軍本城は落ちます」
曹操が。
盤面を見る。
「赤軍は」
「何か手がある?」
桂花は。
必死に盤を見た。
南部の兵。
間に合わない。
川上。
動けば水路を失う。
占領城。
兵を抜けば青軍残党が戻る。
本隊。
遠すぎる。
補給路護衛。
集めるまで時間がかかる。
稟も。
計算を続ける。
だが。
どの道も。
遅い。
風は。
盤上の時雨側の進路を見て。
小さく笑った。
「ありませんねー」
桂花が風を見る。
「風!」
「負けを認めるのですか!」
「本城を守る方法はありません」
「ならば」
「青軍本城を落とす!」
「先ほどの通り」
「そこはもう本城ではありません」
「総大将を捕らえる!」
「時雨さんは」
風が。
山中の総大将駒を指す。
「三万二千の本隊と一緒ではありません」
「どこにいるのです」
桂花が時雨を見る。
時雨は。
北の森。
小さな村へ。
総大将駒を置いた。
「ここ」
「なぜそこへ!」
「赤軍が」
「本城を攻めると思った」
「総大将が本隊にいれば」
「探される」
「だから」
「民へ紛れる」
稟の目が。
大きく開く。
「影武者は」
「ああ」
時雨は。
青軍本隊の中へ。
別の駒を置いた。
「いる」
「総大将旗を立てる」
「赤軍は」
「本隊に時雨がいると思う」
「本城が落ちても」
「総大将は捕まらない」
「青軍本隊を攻撃しても」
「時雨殿はいない」
稟は。
完全に手を止めた。
桂花。
稟。
風。
三人が。
盤を見つめる。
赤軍は。
領地を取った。
城を取った。
兵糧を増やした。
民心を得た。
正しく勝っていた。
一つ一つの判断に。
大きな誤りはない。
むしろ。
定石として。
優れていた。
だが。
そのすべてが。
時雨の望んだ形だった。
領地を広げれば。
守備兵が必要になる。
城を取れば。
守らなければならない。
民心を得れば。
土地を捨てにくくなる。
水路を直せば。
水を守らなければならない。
補給線を伸ばせば。
護衛が必要になる。
優れた軍だから。
占領地を荒らさなかった。
優れた軍師だから。
得たものを守った。
だから。
軍が分かれた。
時雨は。
勝てない戦場へ立たなかった。
奪われるものを。
自ら差し出した。
敵へ。
勝っていると思わせた。
そして。
敵が。
勝利を維持するため。
自分から動けなくなるまで待った。
最後に。
守られていない一点だけを噛み砕く。
黒山の狼。
その戦い方だった。
「三日後」
華論が。
移動結果を確認する。
「青軍三万二千」
「赤軍本城を包囲」
「守備五千」
「青軍は」
「周囲の村から」
「金で兵糧を購入」
「住民への略奪なし」
栄華が続ける。
「赤軍本城には」
「軍費」
「兵糧」
「役人」
「兵器倉」
「すべてが残っています」
「ここを失えば」
「赤軍は」
「各地の部隊へ」
「給金と命令を送れません」
柳琳も。
士気札を下げる。
「本城陥落の報が届けば」
「赤軍各地の兵は」
「大きく動揺」
「占領地の民も」
「赤軍が負けたと考えます」
「青軍本城を取っても?」
桂花が尋ねる。
柳琳は。
静かに首を横へ振る。
「本城ではないと」
「すでに宣言されています」
「役人も民も」
「山へ移っている」
「赤軍が取るのは」
「空になった城です」
曹操が。
盤上へ手を伸ばす。
赤軍本城の駒を。
倒した。
「赤軍本城」
「陥落」
軍議室が。
静まり返る。
「赤軍」
「継戦不能」
曹操は。
時雨を見る。
「勝者」
「時雨」
誰も。
すぐには声を出せなかった。
勝負開始から。
赤軍は。
ほとんどの時間。
優勢だった。
領地。
城。
兵糧。
民心。
すべて。
赤軍が上。
青軍は。
逃げ続けた。
捨て続けた。
敗北を重ねているように見えた。
だが。
最後の三日。
一度の攻撃で。
赤軍の全てが終わった。
青軍は。
三万を超える兵を残している。
赤軍本城を得た。
大量の兵糧。
金。
武器。
役人。
国を動かす機能。
それらを。
ほとんど無傷で奪った。
圧勝だった。
「……認めません」
桂花が言う。
声が。
僅かに震えている。
「桂花」
稟が静かに呼ぶ。
「認めません!」
桂花は立ち上がる。
「これは」
「勝負の条件の隙を突いただけです!」
「本城を移す」
「総大将を民へ紛れさせる」
「そのような」
「卑怯な!」
時雨は。
桂花を見る。
「卑怯か」
「そうです!」
「なら」
「戦場で敵が」
「正直に総大将の場所を教えるのか」
桂花が黙る。
「本城を」
「絶対に動かさないと約束するのか」
「それは」
「勝利条件の隙じゃない」
時雨は。
盤上へ手を置く。
「桂花が」
「勝利条件を」
「守るべき場所だと思った」
「俺は」
「敵が欲しがる物だと思った」
「違いはそれだけだ」
桂花の拳が。
震える。
「それでも」
「それでも!」
「私たち三人が」
「一度も」
「あなたの本隊を捕らえられないなど」
「俺は」
時雨は答える。
「三人と戦ってない」
「何ですって」
「桂花の兵站」
「稟の用兵」
「風の策」
「正面から勝てない」
「だから」
「一度も」
「三人が強い場所へ出なかった」
桂花が。
言葉を失う。
「俺が戦ったのは」
「三人じゃない」
「三人が」
「次に何を守るか」
「それだけだ」
稟は。
盤を見つめたまま。
静かに尋ねる。
「時雨殿」
「はい」
「開始前から」
「この結末を考えていたのですか」
「全部は」
「では」
「どこまで」
「南部を取ること」
「桂花が民を守ること」
「稟が中央を進むこと」
「風が噂を流すこと」
「そこまでは」
「そうすると思った」
「その後は」
「動きを見て決めた」
「私たち三人の策を」
「読んだのですか」
「性格を見た」
稟の目が。
僅かに揺れる。
「桂花は」
「取った土地を豊かにする」
「稟は」
「無駄な賭けをしない」
「風は」
「敵の心を崩す」
「だから」
「そう動く」
「軍略ではなく」
風が言う。
「人を読んだのですねー」
「ああ」
「兵を動かすのは人だ」
「策を作るのも」
「命令を受けるのも」
「恐れるのも」
「欲しがるのも」
「全部」
「人だ」
稟は。
竹簡へ視線を落とした。
自分は。
地形を見た。
兵数を見た。
兵糧を見た。
時間を見た。
時雨も。
同じものを見ていた。
その上で。
誰が動かすかを見ていた。
桂花なら。
占領地を豊かにする。
稟なら。
安全な進軍路を選ぶ。
風なら。
敵兵と民の心を狙う。
時雨は。
三人の優れた部分を。
弱点として利用した。
否。
弱点ではない。
強みが。
どこへ向かうかを読んだ。
その結果。
三軍師は。
自分たちの意思で。
時雨が望む盤面を作った。
「私の負けです」
稟が言った。
桂花が振り返る。
「稟!」
稟は。
時雨へ深く頭を下げる。
「完全な敗北です」
「兵数」
「兵糧」
「地形」
「すべてにおいて」
「私たちが上だと思っていました」
「ですが」
「時雨殿は」
「勝敗の基準そのものを」
「私たちと異なる場所へ置いていた」
「城を取ること」
「領地を増やすこと」
「敵兵を倒すこと」
「それらを」
「勝利とは考えていなかった」
「ああ」
「最初から」
「何を勝ちと考えていたのです」
時雨は。
少し考えた。
「最後に」
「動ける兵が多いこと」
「帰る場所があること」
「次も戦えること」
「それだけだ」
稟は。
静かに目を閉じる。
「学ばせていただきました」
風も。
机へ頬杖をついたまま。
時雨を見る。
「風も負けですー」
「意外か」
「はい」
「途中から」
「何かされているとは思いましたが」
「風の噂まで」
「使われるとは思いませんでした」
「怒らないのか」
「怒るより」
風は楽しそうに笑う。
「面白いのです」
「お兄さん」
「今度は」
「風だけとも勝負してください」
「断る」
「即答ですかー」
「面倒だ」
「残念ですねー」
風は。
本当に残念そうではなかった。
むしろ。
次にどうやって時雨を勝負へ引き込むか。
すでに考えている顔だった。
最後に。
全員の視線が桂花へ向く。
桂花は。
盤を睨んでいる。
赤軍の城。
村。
兵。
多くが残っている。
それでも。
負けた。
一度の決戦すらない。
大敗した戦いもない。
青軍本隊へ。
触れることすらできなかった。
気づいた時には。
国の心臓だけを奪われていた。
「桂花」
曹操が呼ぶ。
「……はい、華琳様」
「どう思う?」
桂花は。
唇を噛んだ。
悔しい。
認めたくない。
この男は。
礼儀を知らない。
説明をしない。
書類を嫌がる。
曹操へ馴れ馴れしい。
腹立たしい。
何より。
自分たち三人を相手に。
圧勝した。
それでも。
桂花は。
魏の軍師だった。
事実から目を逸らし。
負けを勝ちと言い張ることは。
曹操の覇道を汚す。
桂花は。
ゆっくり息を吐いた。
「私の」
声が小さい。
「私たちの」
「敗北です」
春蘭が。
目を見開く。
秋蘭は。
静かに桂花を見る。
「時雨は」
桂花は続けた。
「一度も」
「私たちと戦わなかった」
「こちらへ」
「勝っていると思わせ」
「領地を与え」
「城を与え」
「民まで与え」
「そのすべてを」
「守らせた」
「私たちは」
「奪ったのではなく」
「持たされた」
桂花は。
赤軍の駒を一つ持ち上げる。
「兵力は同じ」
「兵糧は私たちが多い」
「領地も」
「収入も」
「すべて上」
「それでも」
「自由に動ける兵は」
「時雨の方が多かった」
「私たちが」
「自分で軍を縛ったから」
時雨は。
何も言わない。
桂花は。
その無言さえ腹立たしかった。
「何か言いなさい!」
「認めたな」
「認めました!」
「なら終わりだ」
「終わりではありません!」
桂花が机を叩く。
「何が」
「なぜ!」
桂花は時雨を指す。
「なぜ最初から」
「そのように説明しないのです!」
「聞かれなかった」
「聞きました!」
「勝負の前に!」
「説明したら」
「同じように動かないだろ」
桂花の動きが止まる。
「それは」
「勝負にならない」
「あなたは!」
桂花の顔が赤くなる。
軍議室へ。
笑いが広がった。
華論は声を上げて笑い。
季衣も腹を押さえる。
流琉は困ったように口元を隠した。
春蘭まで。
なぜか勝ち誇った顔をしている。
「何を笑っているのです!」
桂花が怒鳴る。
「いやー」
華論が言う。
「桂花様が」
「ここまで綺麗に負けるの」
「珍しいっすね」
「華論!」
「真名で呼んでよいと言ったのは桂花様じゃないっすけど!」
「今はそこではありません!」
稟は。
僅かに笑いながら。
盤を片づけ始める。
風は。
倒れた赤軍本城の駒を指で転がしていた。
曹操は。
時雨を見ている。
その瞳には。
満足と。
興味と。
僅かな驚きがあった。
「時雨」
「なんだ」
「私も」
「ここまでとは思っていなかったわ」
「何が」
「三人を」
「正面から破るのではなく」
「三人自身に」
「負ける形を作らせるなんて」
「正面からやれば」
「俺が負ける」
「本当に?」
「ああ」
時雨は。
桂花たちを見る。
「桂花へ」
「兵糧と民を預けたら」
「崩せない」
「稟へ」
「兵を一つにまとめさせたら」
「隙がない」
「風へ」
「策を考える時間を与えたら」
「何をするか分からない」
「だから」
「三人が揃う前に」
「軍を広げた」
桂花が眉を寄せる。
「私たちを」
「高く評価しているのですか」
「ああ」
即答だった。
桂花の顔が。
僅かに固まる。
「嘘です」
「なぜだ」
「私たちを」
「完全に打ち破ったではありませんか」
「強いから」
「正面から戦わなかった」
時雨は桂花を見る。
「弱い相手なら」
「普通に倒す」
「三人だから」
「ここまでした」
桂花は。
何も言えなくなる。
時雨の言葉には。
慰めがない。
機嫌を取る意図もない。
ただ。
事実として。
三軍師を強いと認めている。
強いから。
戦わない。
強いから。
考えを読み。
動きを縛った。
それは。
武人である春蘭を。
正面から受けなかった時と同じ。
秋蘭の弓へ。
同じ型で競わなかった時と同じ。
相手の強さを。
否定しない。
強い場所へ。
自分から入らない。
勝てる場所を作る。
それが。
時雨の戦いだった。
「だから」
曹操が言った。
全員が曹操を見る。
「私は」
「時雨を魏の将にしたのよ」
桂花。
稟。
風。
三人の視線が。
曹操へ集まる。
「桂花」
「はい、華琳様」
「あなたは」
「国を富ませる」
「兵糧を絶やさず」
「民を守り」
「私の覇道へ」
「確かな地盤を作る」
「稟」
「はい」
「あなたは」
「戦場を正しく見て」
「最も損害の少ない道を選ぶ」
「風」
「はいー」
「あなたは」
「誰も考えない場所へ手を伸ばし」
「敵の心と盤面を同時に崩す」
曹操は。
最後に時雨を見る。
「そして時雨は」
「勝てない戦場そのものを」
「消してしまう」
「あなたたちは」
「誰か一人で完成する必要はない」
曹操の声が。
静かに。
軍議室へ広がる。
「桂花が国を作り」
「稟が軍を動かし」
「風が敵の裏をかき」
「時雨が」
「敵の勝利を無意味にする」
「それを」
「一つの魏軍として使う」
「それができれば」
「どのような敵であろうと」
「私たちは負けない」
三軍師は。
静かに曹操の言葉を受け取った。
時雨は。
盤上の駒を見ている。
一人で。
三人へ勝った。
だが。
曹操が見ているのは。
勝負の結果ではない。
この軍略を。
三人の軍略へ繋げること。
時雨の戦い方を。
魏の力へ変えること。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「なんだ」
「次からは」
「軍議で」
「今日考えたことを」
「きちんと説明なさい」
時雨の顔が曇る。
「長い」
「説明しない方が」
「もっと長くなるわ」
桂花が。
勢いよく頷く。
「その通りです!」
「聞いても怒るだろ」
「説明しないから怒るのです!」
「説明しても怒る」
「内容によります!」
「面倒だな」
「またそれですか!」
桂花の声が響く。
曹操は。
楽しそうに笑った。
「では」
「軍議を始めましょう」
時雨が盤を見る。
「今からか」
「ええ」
「もう終わっただろ」
「今のは軍議ではなく」
曹操は微笑む。
「あなたたちの勉強よ」
時雨は。
小さく息を吐いた。
「帰っていいか」
「駄目」
「黒狼隊の訓練が」
「華論へ任せてあるでしょう?」
「はいっす!」
華論が。
元気よく答える。
「今日は」
「時雨がいなくても」
「きっちり走らせるっすよ!」
「距離は」
「昨日の一・二倍っす」
黒狼隊の代表として来ていた韓武と石剛の顔が。
僅かに青くなる。
時雨は。
二人を見る。
「任せた」
「時雨様!」
韓武が思わず声を上げる。
「何だ」
「いえ」
韓武は。
何かを言おうとして。
諦めた。
「……承知しました」
風が。
その様子を見ながら笑う。
「お兄さんは」
「兵を逃がすのは上手ですがー」
「軍議から逃げるのは」
「苦手なようですねー」
「風」
「はいー」
「次の勝負はない」
「まだ何も言っていませんよー」
「顔に書いてある」
「さすがですねー」
桂花が。
不満そうに二人を見る。
「勝手に話を進めないでください!」
「次は」
「私が一人で勝ちます!」
「またやるのか」
「当然です!」
「断る」
「即答しない!」
稟が。
額へ手を当てる。
「桂花」
「まずは」
「今日の敗因を整理してください」
「分かっています!」
「では」
「最初に何を誤りましたか」
「時雨を」
桂花は。
反射的に言いかけ。
止まる。
「時雨を?」
稟が尋ねる。
「……敵として」
桂花は悔しそうに答える。
「普通の将として見たことです」
時雨の目が。
僅かに細くなる。
桂花は続けた。
「城を守り」
「領地を広げ」
「兵糧を増やし」
「敵兵を倒す」
「そうすれば勝つと」
「同じ勝利を目指していると思った」
「ですが」
「時雨は」
「最初から」
「私たちとは違う勝利を見ていた」
「最後に」
「生きた兵を残し」
「次へ戦える形を残す」
「そのためなら」
「城も」
「領地も」
「民の忠誠も捨てる」
「ええ」
桂花は。
時雨を睨む。
「気に入りません」
「そうか」
「ですが」
桂花は。
一度目を伏せ。
再び時雨を見る。
「間違っているとも」
「言えません」
それは。
桂花にとって。
最大限の敗北宣言だった。
時雨は。
短く頷く。
「ああ」
「それだけですか!」
「何が」
「私が認めたのですよ!」
「聞いた」
「もう少し」
「何を言えばいい」
「知りません!」
桂花は。
自分でも何を求めているのか分からず。
さらに苛立った。
風が。
楽しそうに笑う。
稟も。
僅かに口元を緩めている。
曹操は。
三人と時雨を見ながら。
満足そうだった。
軍略勝負は。
時雨の圧勝で終わった。
だが。
その日。
魏が得たものは。
勝者の名だけではない。
桂花は。
守るべきものを増やすことが。
時に軍を縛ると知った。
稟は。
定石の中で最善を選ぶだけでは。
敵が作った盤面から出られないと知った。
風は。
敵へ流した策が。
逆に利用される面白さを知った。
そして時雨は。
自分の戦い方を。
他者へ言葉で伝える必要を知った。
黒山では。
時雨が一人で決めればよかった。
兵は。
命令へ従った。
理由を知る余裕も。
問い返す時間もなかった。
だが。
魏では。
異なる軍略を持つ者たちが。
同じ卓へ座る。
理解されなければ。
力は繋がらない。
繋がらなければ。
どれほど優れた策も。
一人の中で終わる。
盤上の黒狼は。
三人の軍師を喰らった。
だが。
勝ったことで。
三人を下へ置いたわけではない。
むしろ。
互いの強さを知り。
同じ群れとして。
初めて並び立った。
軍議が始まってから。
桂花は。
以前よりも細かく時雨へ理由を尋ねた。
時雨も。
面倒そうな顔をしながら。
以前より少し長く答えた。
「なぜ街道を捨てるのです」
「敵が使うから」
「それでは説明になっていません!」
「街道を守るには兵が要る」
「敵は騎兵が多い」
「平地で守れば損害が出る」
「だから壊す」
「最初からそう説明しなさい!」
「長い」
「それくらい言いなさい!」
稟は。
二人の間で情報を整理し。
風は。
時雨の短い言葉から。
その裏へある意図を楽しそうに拾った。
曹操は。
四人のやり取りを眺める。
時雨が。
魏へ入る。
官位を得ることでも。
剣を返されることでもない。
同じ盤を囲み。
異なる考えをぶつけ。
怒鳴られ。
問い返し。
それでも。
次の戦いを一緒に考える。
そうして。
少しずつ。
魏の将になる。
軍議の終わり。
時雨が立ち上がる。
「今度こそ終わりか」
「ええ」
曹操が答える。
「ただし」
時雨の顔が曇る。
「まだあるのか」
「今夜」
「私の部屋へ来なさい」
桂花の眉が上がる。
春蘭が反応する。
「華琳様!」
「何?」
「なぜ時雨だけを!」
「今日の軍略について」
「詳しく聞くためよ」
「ここで話しました!」
桂花が言う。
「足りないわ」
曹操は。
時雨を見る。
「いつから本城を捨てると決めたのか」
「なぜ南を選んだのか」
「三人のどの言葉で」
「最後の攻勢を決めたのか」
「全部」
「最初から聞くわ」
時雨は。
小さく息を吐く。
「長くなる」
「夜は長いもの」
「またか」
「嫌?」
「曹操が聞くなら話す」
軍議室が。
一瞬。
静かになる。
曹操の表情が。
僅かに柔らかくなった。
「そう」
「なら」
「今夜は眠らせないわ」
「それは困る」
「比喩よ!」
春蘭が。
慌てて声を上げる。
「華琳様!」
「何をお話しになるのです!」
「軍略よ」
「本当にですか!」
「春蘭」
秋蘭が。
姉の肩を掴む。
「帰るぞ」
「だが!」
「華琳様の邪魔をするな」
「私は邪魔など!」
桂花も。
不満そうに時雨を見る。
「華琳様」
「私も同席を」
「駄目よ」
「なぜです!」
「今日は」
曹操は。
時雨の袖を掴む。
「私が聞くの」
時雨は。
掴まれた袖を見る。
「ここで聞けばいい」
「二人で聞きたいの」
「なぜ」
「自分で考えなさい」
「無理だ」
「時雨!」
曹操の声が響く。
風が。
楽しそうに笑う。
「お兄さんはー」
「盤上では人の心を読めるのに」
「華琳様のお心だけは」
「なかなか読めないのですねー」
時雨は。
風を見る。
「曹操は」
「盤より複雑だ」
曹操の動きが止まる。
軍議室に。
僅かな沈黙。
そして。
曹操の口元へ。
満足そうな笑みが浮かんだ。
「よく分かっているではない」
「褒めたのか」
「ええ」
「なら機嫌を直せ」
「悪くないわ」
「悪かっただろ」
「今はよいの」
「分かりにくいな」
「あなたが鈍いのよ」
いつものやり取り。
春蘭が怒鳴り。
桂花が不満を訴え。
秋蘭が姉を引きずり。
稟が竹簡をまとめ。
風が笑う。
華論は黒狼隊へ戻る準備をし。
栄華は演習で使った費用札を数え。
柳琳は。
長い勝負で疲れた者たちへ。
休むよう静かに声をかけていた。
魏の軍議室は。
今日も騒がしい。
だが。
その騒がしさの中へ。
時雨の居場所が。
また一つ増えていた。
剣では。
春蘭を倒した。
弓では。
秋蘭を超えた。
軍略では。
桂花。
稟。
風。
三人を相手に。
一度も正面決戦をせず。
完全な勝利を得た。
それでも。
時雨は。
自分が最も優れているとは思わない。
一人で。
魏軍すべてへ勝てるとも考えない。
春蘭の武。
秋蘭の弓。
桂花の兵站。
稟の用兵。
風の奇策。
自分にはないものを。
時雨は知っている。
だから。
相手の強さを消す。
必要なら。
避ける。
そして。
味方になれば。
借りる。
黒山で。
時雨は。
自分一人の目で。
すべてを見ようとした。
魏では。
春蘭の剣を使える。
秋蘭の矢を使える。
桂花の国を使える。
稟の軍を使える。
風の策を使える。
それらを。
曹操が一つへまとめる。
だから魏は。
黒山より強い。
だから時雨は。
この国を選んだ。
軍議室を出る時。
稟が。
時雨を呼び止めた。
「時雨殿」
「何だ」
「一つだけ」
「尋ねてもよろしいですか」
「ああ」
「もし」
稟は。
片づけられた盤を見る。
「私たちが」
「南部を取らなければ」
「どうしていました」
時雨は。
少し考えた。
「北へ来るなら」
「森を燃やした」
「東なら」
「橋を落とした」
「中央なら」
「本城を先に捨てた」
「西なら」
「山へ誘った」
「つまり」
稟の目が細くなる。
「どこへ動いても?」
「その場で変える」
「最初から」
「一つの勝ち筋だけを」
「用意していたのではない?」
「ああ」
稟は。
静かに息を吐いた。
「圧勝だと」
「認めるしかありませんね」
「三人が強かったから」
「動きが読みやすかった」
「それは」
「褒めているのですか」
「ああ」
稟の口元へ。
僅かな笑みが浮かぶ。
「では」
「ありがたく受け取っておきます」
風も。
廊下の向こうから顔を出した。
「お兄さんー」
「何だ」
「次は」
「盤へ民の反乱と」
「疫病と」
「裏切りも入れましょう」
「やらない」
「もっと面白くなりますよー」
「面倒だ」
「華琳様へお願いしておきますねー」
「やめろ」
風は。
返事をせず。
楽しそうに去っていく。
最後に桂花が。
時雨の横を通る。
顔は不機嫌。
足音も強い。
「時雨」
「何だ」
「次は」
「必ず勝ちます」
「ああ」
「そして」
桂花は。
時雨を睨む。
「今後の軍議では」
「今日のように」
「最初から最後まで」
「すべて説明させます」
「それは困る」
「困りなさい!」
桂花は。
怒鳴って歩き去った。
時雨は。
三人の背中を見る。
負けて。
悔しがる。
だが。
逃げない。
次へ進む。
それも。
魏の強さなのだろう。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
時雨は振り返る。
曹操は。
軍議室の扉の前で待っている。
「何をしているの」
「今行く」
「今夜は」
「盤を使わず説明なさい」
「なぜ」
「盤があれば」
「あなたは盤ばかり見るでしょう?」
「説明するなら見る」
「私を見て話しなさい」
「難しいな」
「命令よ」
「分かった、曹操」
曹操は。
満足そうに笑った。
二人は。
並んで廊下を歩く。
黒山の狼は。
盤上でも。
牙を隠していた。
敵が。
勝ったと思うまで。
敵が。
守るものを増やすまで。
敵が。
自ら動けなくなるまで。
そして最後に。
ただ一度。
最も柔らかい場所へ食らいつく。
桂花。
稟。
風。
魏が誇る三人の軍師を相手に。
時雨は。
兵力でも。
兵糧でも。
領地でも劣りながら。
主力同士を一度もぶつけることなく。
圧倒的な勝利を得た。
それは。
美しい勝ち方ではない。
華々しくもない。
大軍を正面から破る。
英雄の戦いでもない。
逃げ。
捨て。
隠れ。
敵へ与え。
敵に守らせる。
生き残るためだけに磨かれた。
黒山の戦。
だが。
曹操は。
その力を必要としていた。
正面から敵を砕く者はいる。
兵糧を整える者も。
敵の策を読む者も。
奇策を生む者もいる。
だが。
敵が勝つはずだった戦場を。
根元から別のものへ変える者は少ない。
時雨が。
その役目を担う。
三軍師が。
その軍略を支える。
その日。
魏軍の戦い方は。
まだ誰にも気づかれぬまま。
一つ。
大きく広がった。
そして。
軍議室へ残された盤上には。
倒れた赤軍本城と。
ほとんど損なわれていない青軍の駒が。
夕陽の中で。
静かに並んでいた。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!
次の作品の主人公とルートは誰がいい?
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高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
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朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
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周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
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孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)