【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第12話 西を託される狼――涼州征討、その総大将

外伝 第12話 西を託される狼――涼州征討、その総大将

 

 

河北が統一されてから。

 

魏は。

 

名実ともに。

 

中原最大の国となった。

 

かつては。

 

袁紹が治めていた広大な河北。

 

豊かな穀倉。

 

多くの人口。

 

無数の城と街道。

 

それらすべてが。

 

今は魏の支配下にある。

 

黄河の北。

 

広大な平野に。

 

魏の旗が立つ。

 

曹操の名は。

 

もはや。

 

一地方の有力者のものではない。

 

中華全土へ。

 

覇を唱える者の名となった。

 

許昌には。

 

日々。

 

膨大な量の報告が届く。

 

新たに支配へ入った土地の戸籍。

 

税。

 

農地。

 

兵の数。

 

豪族の動向。

 

旧袁紹軍の将兵。

 

役人。

 

民。

 

従う者。

 

不満を抱く者。

 

新しい秩序を受け入れる者。

 

過去の支配へ戻りたいと願う者。

 

領土が広がれば。

 

国の力は増す。

 

同時に。

 

抱える問題も増える。

 

勝ったから。

 

すべてが終わるわけではない。

 

むしろ。

 

本当に難しいのは。

 

勝った後だった。

 

黒山を解体し。

 

燕の民を魏へ繋いだ時。

 

時雨は。

 

それを痛いほど知った。

 

国を取ること。

 

民を得ること。

 

兵を従えること。

 

言葉では簡単に聞こえる。

 

だが。

 

そこには。

 

数えきれない生活がある。

 

家族がある。

 

土地への思いがある。

 

誰へ税を払うか。

 

誰の法へ従うか。

 

昨日まで敵だった兵を。

 

今日から同じ国の者と呼べるか。

 

剣で勝つだけなら。

 

一日で終わる。

 

国を一つへするには。

 

何年もかかる。

 

河北統一から。

 

しばらくの間。

 

魏は。

 

新しい領地を整えることへ。

 

力を注いでいた。

 

桂花が。

 

税制と役人の配置を改め。

 

稟が。

 

旧袁紹軍の兵を再編し。

 

風が。

 

地方豪族と有力者の動きを探る。

 

華論が。

 

部隊の編制を進め。

 

栄華が。

 

膨大な収支を一つずつ整理する。

 

柳琳は。

 

戦で傷ついた兵と民のため。

 

各地の治療所と保護所を増やした。

 

春蘭と秋蘭は。

 

軍の要として。

 

河北各地を巡り。

 

反乱の芽を抑え。

 

新たな兵へ。

 

魏軍の規律を教える。

 

季衣と流琉も。

 

治安維持と訓練へ走り回っていた。

 

皆。

 

休む暇もない。

 

勝者の国は。

 

忙しい。

 

それでも。

 

魏の中には。

 

確かな勢いがあった。

 

河北を統一した。

 

最大の敵を倒した。

 

次も勝てる。

 

その自信が。

 

国全体へ広がっている。

 

人は。

 

大きな勝利の後。

 

自分たちが。

 

どこまでも進めるように思う。

 

だが。

 

時雨は。

 

その空気を。

 

少し危ういと感じていた。

 

勝った時ほど。

 

人は足元を見なくなる。

 

敵が弱かったのではない。

 

自分が強かったのだと。

 

何でもできるのだと。

 

そう思い始める。

 

その先に。

 

無理が生まれる。

 

守るものを増やしすぎ。

 

兵を遠くへ送り。

 

補給が届かなくなる。

 

命令が遅れ。

 

民が疲れ。

 

兵が帰れなくなる。

 

黒山でも。

 

何度も見た。

 

小さな勝利に浮かれ。

 

山を下り。

 

官軍の城へ攻め込んだ砦。

 

最初は勝つ。

 

武器を奪う。

 

食料を得る。

 

だが。

 

帰り道を塞がれ。

 

最後には。

 

誰も戻らない。

 

勝つことと。

 

勝ち続けることは違う。

 

時雨は。

 

許昌の王宮へ続く長い廊下を歩きながら。

 

そんなことを考えていた。

 

今日は。

 

曹操から。

 

直接呼び出しを受けている。

 

軍議ではない。

 

同席する軍師も。

 

将もいない。

 

時雨一人だけ。

 

曹操の部屋へ来い。

 

そう命じられた。

 

理由は聞いていない。

 

聞けば。

 

来れば分かる。

 

そう返された。

 

時雨にとっては。

 

あまり珍しくない。

 

曹操は。

 

時々。

 

軍議で話すには早いことを。

 

先に時雨へ聞かせる。

 

あるいは。

 

他の者へ見せたくない弱さを。

 

時雨の前でだけ。

 

僅かに出す。

 

それは。

 

時雨が特別だからか。

 

ただ。

 

口が堅いからか。

 

時雨には分からない。

 

曹操へ聞けば。

 

自分で考えなさいと言われる。

 

考えても分からない。

 

そう言えば。

 

鈍いと怒られる。

 

面倒な女だ。

 

それでも。

 

時雨は。

 

呼ばれれば行く。

 

曹操が。

 

魏の主だから。

 

それだけではない。

 

時雨自身。

 

曹操が。

 

次に何を見ているのか。

 

知りたいと思っていた。

 

河北を取った。

 

中原最大の国になった。

 

なら。

 

次はどこへ向く。

 

南か。

 

西か。

 

東か。

 

国内を固めるか。

 

あるいは。

 

まだ動かないか。

 

曹操は。

 

勝った後ほど。

 

次の手を早く決める。

 

その目が。

 

すでに。

 

どこを見ているのか。

 

時雨は。

 

部屋の前で止まる。

 

扉の左右へ。

 

護衛兵が立っている。

 

時雨を見ると。

 

すぐに頭を下げた。

 

「張燕様」

 

「華琳様がお待ちです」

 

「ああ」

 

扉が開く。

 

時雨は中へ入った。

 

---

 

曹操は。

 

部屋の中央にある大きな机へ。

 

一人で向かっていた。

 

机の上には。

 

竹簡。

 

地図。

 

木札。

 

いくつもの軍報。

 

そして。

 

西方の地図。

 

許昌。

 

長安。

 

関中。

 

涼州。

 

その周辺が。

 

細かく描かれている。

 

時雨は。

 

扉が閉じる音を背後で聞いた。

 

曹操は顔を上げる。

 

「来たわね」

 

「ああ」

 

「座りなさい」

 

時雨は。

 

机を挟んだ向かいへ座る。

 

曹操は。

 

いつもの華やかな衣ではなく。

 

執務用の落ち着いた服を着ていた。

 

髪も。

 

普段ほど飾っていない。

 

その姿は。

 

覇王というより。

 

一人の為政者に近い。

 

目の前へ積まれた報告と。

 

長く向き合っていたのだろう。

 

僅かに。

 

目元へ疲れがある。

 

「柳琳に」

 

「休めと言われたか」

 

時雨が尋ねる。

 

曹操の眉が。

 

僅かに動く。

 

「いきなり何?」

 

「疲れてる」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

「俺も言われる」

 

「知っている」

 

曹操は。

 

小さく息を吐いた。

 

「柳琳には」

 

「一刻は休むようにと言われたわ」

 

「休んでないな」

 

「休む前に」

 

「あなたと話しておきたいことがあるの」

 

「急ぐのか」

 

「ええ」

 

曹操は。

 

西方の地図へ手を置いた。

 

「河北は統一された」

 

「ああ」

 

「旧袁紹領の再編も」

 

「大きな混乱なく進んでいる」

 

「桂花たちは」

 

「三年はかかると思っていたようだけれど」

 

「今の速度なら」

 

「主要地域は一年半ほどで形になるでしょう」

 

「早いな」

 

「あなたが」

 

「黒山の民と兵を」

 

「大きな反乱なく魏へ繋いだことも影響しているわ」

 

「俺だけじゃない」

 

「華論」

 

「栄華」

 

「柳琳」

 

「黒狼隊」

 

「旧燕の役人」

 

「皆がやった」

 

曹操は。

 

少しだけ微笑む。

 

「ええ」

 

「今のあなたは」

 

「そう言えるようになったわね」

 

「前から言ってる」

 

「前は」

 

「自分で抱えた上で」

 

「皆がやったと言っていたの」

 

「今は」

 

「本当に任せている」

 

時雨は。

 

返事をしなかった。

 

曹操の指摘は。

 

間違っていない。

 

以前の時雨なら。

 

誰かへ任せても。

 

最後には。

 

自分で確かめた。

 

自分で背負った。

 

失敗があれば。

 

自分の責任として引き受け。

 

成功すれば。

 

他人の功績だと言った。

 

それが。

 

正しいと思っていた。

 

だが。

 

今は少し違う。

 

任せるなら。

 

任せた者の判断を受け入れる。

 

自分と違う方法でも。

 

結果を認める。

 

そのことを。

 

華論たちから教わった。

 

「それで」

 

時雨は地図を見る。

 

「次は西か」

 

曹操の目が細くなる。

 

「分かるの?」

 

「地図がある」

 

「それだけ?」

 

「河北を取った後に」

 

「南へ行くなら」

 

「荊州の地図がある」

 

「東なら」

 

「徐州か揚州」

 

「西なら」

 

「関中と涼州」

 

「今は西だけだ」

 

「そうね」

 

曹操は。

 

机の上の木札を一つ取る。

 

涼州の上へ置く。

 

「次に狙うのは」

 

「涼州よ」

 

部屋の空気が。

 

僅かに変わった。

 

時雨は。

 

地図へ視線を落とす。

 

涼州。

 

中原の西。

 

険しい山。

 

乾いた大地。

 

長く伸びる街道。

 

遊牧民。

 

豪族。

 

騎馬兵。

 

そして。

 

馬騰。

 

涼州を治める者。

 

西方の雄。

 

「理由は」

 

時雨が尋ねる。

 

曹操は。

 

待っていたように答える。

 

「後顧の憂いをなくすため」

 

「南へ進むなら」

 

「西を放置できない」

 

「河北を得た今」

 

「魏の領土は広い」

 

「広い分」

 

「守るべき場所も多い」

 

「涼州が敵へ回れば」

 

「長安から関中を脅かされる」

 

「西方の騎馬軍が」

 

「中原へ入れば」

 

「平野部の被害は大きい」

 

「南へ大軍を出した後なら」

 

「なおさら」

 

時雨は頷く。

 

理屈は分かる。

 

南へ向かう前に。

 

西を固める。

 

背後から。

 

馬騰に動かれる危険を消す。

 

兵法として。

 

自然な考え。

 

「馬騰は」

 

時雨が言う。

 

「今すぐ魏へ攻めるのか」

 

「可能性は低いわ」

 

曹操は即答した。

 

時雨が顔を上げる。

 

「低いのか」

 

「ええ」

 

「では」

 

「なぜ今攻める」

 

曹操は。

 

地図から時雨へ視線を移す。

 

「今は低い」

 

「でも」

 

「これからも低いとは限らない」

 

「魏が南へ進めば」

 

「他の勢力は」

 

「自分が次かもしれないと考える」

 

「馬騰が」

 

「こちらへ敵意を持っていなくても」

 

「周囲が動かすことはある」

 

「同盟」

 

「扇動」

 

「利害」

 

「恐怖」

 

「人は」

 

「自分だけの意思で動くとは限らないわ」

 

時雨は。

 

曹操の言葉を聞く。

 

それも。

 

分かる。

 

魏が大きくなりすぎた。

 

最大の国になった。

 

それは。

 

他国にとって。

 

希望ではない。

 

恐怖だ。

 

今は敵でなくても。

 

いずれ呑まれる。

 

そう考えれば。

 

先に手を組む。

 

先に攻める。

 

弱いうちに。

 

魏を削ろうとする。

 

「だから」

 

曹操は続ける。

 

「南へ向かう前に」

 

「涼州を押さえる」

 

「関中から西を安定させ」

 

「後方を固める」

 

「それが」

 

「今後の覇道に必要よ」

 

「涼州を」

 

「魏へ入れるのか」

 

「ええ」

 

「馬騰を殺して?」

 

曹操の目が。

 

僅かに鋭くなる。

 

「必要なら」

 

時雨は。

 

その言葉を。

 

黙って受け取った。

 

必要なら。

 

曹操は。

 

迷わない。

 

敵が。

 

国の障害になるなら。

 

排除する。

 

それが。

 

曹操だ。

 

美しい言葉だけで。

 

天下を取れるとは思っていない。

 

人を守るため。

 

人を殺す。

 

国を作るため。

 

国を壊す。

 

その矛盾を。

 

抱えたまま進む。

 

時雨は。

 

そんな曹操を選んだ。

 

だから。

 

今さら。

 

その非情さへ驚きはしない。

 

だが。

 

何も考えず。

 

頷くこともできなかった。

 

「時雨」

 

曹操が呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「不満?」

 

「まだ分からない」

 

「何が」

 

「馬騰が」

 

「敵かどうか」

 

曹操は。

 

僅かに目を細くする。

 

「敵になる可能性がある」

 

「可能性だけで」

 

「攻めるのか」

 

「国を背負う者は」

 

「可能性を無視できないわ」

 

「無視しろとは言ってない」

 

「なら」

 

「攻める前に」

 

時雨は。

 

地図上の涼州へ指を置く。

 

「話せるか」

 

「降伏勧告?」

 

「違う」

 

「何を考えてるか聞く」

 

曹操は。

 

しばらく時雨を見る。

 

「馬騰が」

 

「魏へ従う意思を見せれば?」

 

「戦わなくていい」

 

「形だけ従い」

 

「後で裏切るかもしれない」

 

「その時は戦う」

 

「その時では遅い場合もある」

 

「ああ」

 

「それでも?」

 

「先に殺した相手は」

 

「戻らない」

 

部屋へ。

 

短い沈黙が落ちる。

 

曹操は。

 

目の前の男を見ていた。

 

時雨は。

 

戦いを恐れているのではない。

 

春蘭を倒し。

 

秋蘭を超え。

 

三軍師を相手に。

 

一度も決戦をせず。

 

圧勝した男。

 

必要なら。

 

誰より冷たく。

 

誰より早く。

 

敵の急所を狙う。

 

だが。

 

戦う前から。

 

敵を殺すことを。

 

当然とは考えない。

 

敵であるか。

 

まだ決まっていない者。

 

話せる者。

 

その命を。

 

最初から切り捨てない。

 

黒山で。

 

敵味方が。

 

日々入れ替わる場所にいた。

 

昨日。

 

剣を向けた者が。

 

明日。

 

同じ焚き火を囲むこともある。

 

官軍から逃げた兵。

 

飢えて山へ入った民。

 

賊。

 

豪族。

 

役人。

 

皆。

 

立場が変われば。

 

敵にも味方にもなる。

 

時雨にとって。

 

敵とは。

 

名ではない。

 

今。

 

何をしようとしているか。

 

それで決まる。

 

「曹操」

 

時雨が言う。

 

「なんでもない国を」

 

「先に敵にすれば」

 

「次から」

 

「皆が魏を恐れる」

 

「もう恐れているわ」

 

「もっとだ」

 

「河北を取った」

 

「袁紹を倒した」

 

「魏が」

 

「次は涼州」

 

「その次は南」

 

「そう動けば」

 

「他の国は」

 

「待っていても攻められると思う」

 

「なら」

 

「先に全員で」

 

「魏を潰そうとする」

 

曹操は。

 

口元へ僅かな笑みを浮かべた。

 

「あなたは」

 

「私へ覇道を止めろと言いたいの?」

 

「違う」

 

時雨は即答した。

 

「進み方の話だ」

 

「攻めるなじゃない」

 

「攻める理由を」

 

「相手へ与えるな」

 

曹操の目が。

 

僅かに変わる。

 

「詳しく話しなさい」

 

時雨は。

 

地図を見る。

 

「馬騰が」

 

「本当に魏へ敵対するなら」

 

「戦う」

 

「長安を脅かす」

 

「他国と組む」

 

「関中へ兵を出す」

 

「その動きがあるなら」

 

「先に潰す」

 

「だが」

 

「何もしていないなら」

 

「使者を送る」

 

「道を開け」

 

「兵を動かすな」

 

「魏へ敵対しないと誓え」

 

「代わりに」

 

「交易を増やす」

 

「馬を買う」

 

「食料を送る」

 

「それで従うなら」

 

「後顧の憂いは減る」

 

曹操は。

 

頬杖をつく。

 

「完全には消えないわ」

 

「ああ」

 

「でも」

 

「攻めても完全には消えない」

 

時雨は答える。

 

「涼州を取れば」

 

「今度は」

 

「さらに西が後ろになる」

 

「どこまで行っても」

 

「後ろはなくならない」

 

「だから」

 

「土地を取るだけじゃなく」

 

「動かない理由を作る」

 

「そう言うのね」

 

「ああ」

 

曹操は。

 

静かに笑った。

 

「でも」

 

「馬騰が拒めば?」

 

「戦う」

 

「降伏せず」

 

「涼州へ籠もれば?」

 

「攻める」

 

「抵抗する民は?」

 

「分ける」

 

「馬騰へ従って戦う兵」

 

「生活を守りたい民」

 

「魏を憎む豪族」

 

「馬騰を恐れて従う者」

 

「同じにしない」

 

「簡単ではないわ」

 

「分かってる」

 

「時間もかかる」

 

「ああ」

 

「それでもやる?」

 

時雨は。

 

少しだけ。

 

返事を止めた。

 

なぜ。

 

曹操は。

 

そこまで聞く。

 

まるで。

 

答えを確かめているように。

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

蒼い瞳。

 

そこには。

 

いつもの強い光がある。

 

だが。

 

それだけではない。

 

何かを。

 

測っている。

 

「曹操」

 

「何?」

 

「俺に」

 

「やらせる気か」

 

曹操の笑みが。

 

少し深くなる。

 

「ようやく気づいたの?」

 

「最初から」

 

「話を聞くだけじゃないと思った」

 

「では」

 

「なぜ聞かなかったの」

 

「聞いても」

 

「先に話せと言うだろ」

 

「よく分かってきたではない」

 

時雨は。

 

小さく息を吐く。

 

曹操は。

 

椅子へ背を預けた。

 

「ええ」

 

「涼州征討の総大将を」

 

「あなたに任せたい」

 

部屋の空気が。

 

完全に変わった。

 

時雨は。

 

地図を見る。

 

涼州。

 

広い。

 

遠い。

 

山と乾いた大地。

 

中原と違う戦。

 

騎兵。

 

長い補給線。

 

未知の豪族。

 

馬騰。

 

そして。

 

魏軍。

 

総大将。

 

ただ部隊を率いるのではない。

 

戦全体を。

 

任される。

 

どこから進む。

 

何人使う。

 

どの将を連れていく。

 

どこで戦う。

 

誰を生かす。

 

誰を切る。

 

いつ退く。

 

いつ終わらせる。

 

すべて。

 

総大将の判断。

 

失敗すれば。

 

何万もの兵が死ぬ。

 

魏の西方が乱れる。

 

関中を失うかもしれない。

 

河北統一後。

 

最初の大遠征。

 

その総大将。

 

「なぜ俺だ」

 

時雨が尋ねる。

 

曹操は。

 

すぐには答えない。

 

机の上へ。

 

指を置く。

 

「春蘭は」

 

「強い」

 

「正面から敵軍を砕くなら」

 

「魏で最も頼れる」

 

「ああ」

 

「秋蘭は」

 

「戦場全体を見て」

 

「姉を支え」

 

「敵の急所を射抜く」

 

「ああ」

 

「華論は」

 

「軍をまとめ」

 

「複数の部隊を」

 

「一つとして動かせる」

 

「ああ」

 

「桂花」

 

「稟」

 

「風」

 

「三人とも」

 

「私が誇る軍師よ」

 

「ああ」

 

「なら」

 

「なぜその中から」

 

「時雨を選ぶのか」

 

曹操は。

 

自分で問い。

 

時雨を見る。

 

「涼州を」

 

「取るだけなら」

 

「他にも任せられる者はいる」

 

「でも」

 

「取った後まで考えるなら」

 

「あなたが最も適している」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「俺が?」

 

「ええ」

 

「馬騰の軍は」

 

「騎兵を中心に強い」

 

「涼州の地形へ慣れ」

 

「豪族との繋がりも深い」

 

「正面から勝っても」

 

「地方ごとに抵抗が続く可能性がある」

 

「反乱」

 

「略奪」

 

「報復」

 

「魏軍が」

 

「勝者として振る舞いすぎれば」

 

「涼州全体を敵に回す」

 

曹操は。

 

時雨が。

 

黒山で行ったことを思い出している。

 

百を超える砦。

 

それぞれ。

 

頭領も。

 

習慣も。

 

利害も違う。

 

力だけで押さえれば。

 

すぐに離反する。

 

脅せば。

 

従う。

 

だが。

 

機会があれば裏切る。

 

時雨は。

 

それらを。

 

一つの国へまとめた。

 

完全ではない。

 

歪みもあった。

 

時雨一人へ。

 

多くを集めすぎた。

 

それでも。

 

百万を超える人間を。

 

長く生かした。

 

そして最後には。

 

大きな内乱を起こさず。

 

魏へ繋いだ。

 

「あなたは」

 

曹操が言う。

 

「敵を倒すことより」

 

「敵が」

 

「なぜ戦うかを見る」

 

「土地を取ることより」

 

「そこで人が」

 

「どう生きるかを考える」

 

「涼州で必要なのは」

 

「一度の大勝ではない」

 

「馬騰を破った後」

 

「西を本当に静かにすること」

 

「そのために」

 

「時雨」

 

「あなたが必要なの」

 

時雨は。

 

曹操の言葉を聞く。

 

必要。

 

その一言は。

 

時雨へ。

 

重く届く。

 

利用される。

 

武器として。

 

駒として。

 

以前なら。

 

そう受け取ったかもしれない。

 

だが。

 

今は違う。

 

曹操は。

 

時雨なら。

 

何を守るか。

 

知っている。

 

勝つだけではない。

 

終わらせる。

 

戦の後まで。

 

その役目を。

 

託そうとしている。

 

「俺は」

 

時雨が言う。

 

「魏の将になって」

 

「まだ長くない」

 

「時間は関係ないわ」

 

「魏軍は」

 

「俺の命令を聞くか」

 

「聞かせる」

 

曹操の声は。

 

迷いがない。

 

「私が任命する」

 

「それでも従わない者がいれば」

 

「私への反逆よ」

 

「そういう意味じゃない」

 

「では?」

 

「信じるか」

 

時雨は答える。

 

「命令だから動くのと」

 

「総大将を信じて動くのは違う」

 

曹操は。

 

僅かに目を細くする。

 

「あなたは」

 

「信じられないと思っている?」

 

「分からない」

 

「春蘭」

 

「秋蘭」

 

「華論」

 

「桂花」

 

「稟」

 

「風」

 

「皆」

 

「曹操のために戦う」

 

「俺は」

 

「後から入った」

 

「黒山の男だ」

 

「俺へ」

 

「命を預けるか」

 

曹操は。

 

時雨の言葉を。

 

静かに受け止めた。

 

この男は。

 

自信がないのではない。

 

自分が。

 

春蘭より弱い。

 

桂花より劣る。

 

そう考えているわけではない。

 

ただ。

 

兵が。

 

将が。

 

心から従うか。

 

それを。

 

命令だけでは埋められないと知っている。

 

黒山では。

 

時雨の命令へ。

 

多くの者が従った。

 

長い時間。

 

生き残らせ。

 

守ってきた実績がある。

 

魏では。

 

まだ。

 

その信頼を。

 

すべて得たわけではない。

 

「なら」

 

曹操が言う。

 

「今から確かめましょう」

 

「何を」

 

「あなたが」

 

「総大将として」

 

「誰を連れていきたいか」

 

「その者たちへ」

 

「直接聞けばいい」

 

「今?」

 

「ええ」

 

曹操は。

 

机の脇へ置かれた鈴を鳴らす。

 

扉の外で。

 

兵が動く気配。

 

「待て」

 

時雨が言う。

 

「なんで呼んである」

 

「呼ぶつもりだったからよ」

 

「最初から決めてたな」

 

「ええ」

 

「俺が断ったら」

 

「断らせないわ」

 

「相談じゃない」

 

「相談よ」

 

曹操は。

 

美しく笑う。

 

「受けるまで話す相談」

 

「それは命令だ」

 

「最後に決めるのはあなたよ」

 

「断ったら」

 

「理由を聞く」

 

「納得できなければ」

 

「受けるまで説得する」

 

「同じだ」

 

「違うわ」

 

曹操は楽しそうだった。

 

時雨は。

 

小さく息を吐く。

 

扉が開く。

 

最初に入ってきたのは。

 

春蘭。

 

その後ろへ秋蘭。

 

華論。

 

桂花。

 

稟。

 

風。

 

栄華。

 

柳琳。

 

主要な者たちが。

 

次々と部屋へ入る。

 

全員。

 

何か話があるとだけ。

 

伝えられていたらしい。

 

部屋へ並び。

 

曹操へ頭を下げる。

 

「華琳様」

 

春蘭が顔を上げる。

 

「お呼びでしょうか」

 

「ええ」

 

曹操は。

 

集まった者たちを見る。

 

時雨は。

 

椅子へ座ったまま。

 

全員の顔を見る。

 

春蘭は。

 

すぐに。

 

机上の涼州地図へ気づいた。

 

秋蘭も。

 

黙って目を細くする。

 

桂花。

 

稟。

 

風も。

 

何の話か。

 

察し始めている。

 

「皆に」

 

曹操が言う。

 

「伝えることがあるわ」

 

部屋が。

 

静まる。

 

「河北は統一された」

 

「国内の再編も」

 

「順調に進んでいる」

 

「魏は今」

 

「中華最大の国となった」

 

「だからこそ」

 

「次へ進む前に」

 

「西方を安定させる必要がある」

 

曹操は。

 

涼州を指す。

 

「魏は」

 

「涼州へ兵を出す」

 

春蘭の目へ。

 

強い光が宿る。

 

「馬騰を討つのですね!」

 

「必要なら」

 

曹操が答える。

 

「まずは」

 

「敵対の意思を確認する」

 

桂花の眉が動く。

 

「先に勧告を?」

 

「ええ」

 

「時雨の提案よ」

 

全員の視線が。

 

時雨へ向く。

 

時雨は。

 

黙って受け止める。

 

春蘭は。

 

特に不満を見せない。

 

秋蘭は。

 

考えるように時雨を見る。

 

桂花は。

 

僅かに眉を寄せた。

 

「華琳様」

 

桂花が尋ねる。

 

「馬騰が」

 

「形だけ恭順を示した場合は」

 

「監視を続ける」

 

曹操は答える。

 

「関中へ兵を出させない」

 

「交易」

 

「人質」

 

「軍の配置」

 

「複数の条件を提示する」

 

「従うなら」

 

「すぐには攻めない」

 

「拒むなら」

 

「戦う」

 

稟が。

 

静かに頷く。

 

「理にかなっています」

 

「しかし」

 

「交渉と軍事行動を」

 

「同時に進める必要があります」

 

「ええ」

 

曹操は。

 

時雨を見る。

 

「だから」

 

「総大将へ」

 

「大きな裁量を与える」

 

一瞬。

 

部屋の空気が変わる。

 

誰が。

 

総大将になる。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

華論。

 

あるいは。

 

曹操自身。

 

全員の意識が。

 

その一点へ集まる。

 

曹操は。

 

はっきりと言った。

 

「涼州征討の総大将は」

 

「時雨」

 

「あなたに任せる」

 

静寂。

 

誰も。

 

すぐには言葉を発しなかった。

 

春蘭は。

 

目を見開いている。

 

秋蘭は。

 

時雨と曹操を交互に見る。

 

華論は。

 

僅かに口を開けたまま。

 

桂花の表情が。

 

はっきりと固まる。

 

稟も。

 

驚きを隠せていない。

 

風だけが。

 

眠そうな目の奥へ。

 

僅かな光を宿していた。

 

最初に声を出したのは。

 

春蘭だった。

 

「華琳様!」

 

「何?」

 

「時雨が」

 

「総大将ですか!」

 

「ええ」

 

「私ではなく?」

 

春蘭は。

 

隠さなかった。

 

曹操は。

 

静かに頷く。

 

「あなたではないわ」

 

春蘭の顔へ。

 

悔しさが浮かぶ。

 

それは。

 

時雨への悪意ではない。

 

曹操の戦。

 

その先頭へ立つ。

 

それが。

 

春蘭の誇り。

 

自分ではない。

 

その事実が。

 

単純に悔しい。

 

「理由を」

 

春蘭が言う。

 

「お聞かせください」

 

時雨は。

 

僅かに春蘭を見る。

 

怒鳴らない。

 

命令へ反発もしない。

 

理由を求める。

 

春蘭も。

 

少しずつ変わっている。

 

「涼州では」

 

曹操が答える。

 

「正面の戦だけでは終わらない」

 

「馬騰を破るだけなら」

 

「あなたでもできる」

 

「できます!」

 

「ええ」

 

「でも」

 

「涼州の豪族」

 

「部族」

 

「民」

 

「降伏した兵」

 

「それらすべてを」

 

「戦後へ繋ぐ必要がある」

 

「時雨は」

 

「敵を倒した後」

 

「敵の国をどう残すかを知っている」

 

「春蘭」

 

「あなたは」

 

「時雨の剣になるの」

 

春蘭の目が。

 

僅かに動く。

 

「時雨の」

 

「剣」

 

「ええ」

 

「時雨が」

 

「戦うと決めた場所を」

 

「あなたが砕きなさい」

 

「正面からの戦は」

 

「あなたへ任せる」

 

春蘭は。

 

口を閉じる。

 

総大将ではない。

 

だが。

 

戦から外されるわけではない。

 

むしろ。

 

時雨が。

 

最も強い敵へ。

 

春蘭を向ける。

 

曹操は。

 

春蘭の力を。

 

誰より信じている。

 

「御意」

 

春蘭は。

 

深く頭を下げた。

 

「時雨」

 

時雨を見る。

 

「何だ」

 

「総大将となるなら」

 

「私を正しく使え」

 

「ああ」

 

「敵の最も強い場所へ」

 

「私を出せ」

 

「必要ならな」

 

「必要に決まっている!」

 

「決めるのは俺だ」

 

「貴様!」

 

春蘭の眉が上がる。

 

曹操が。

 

静かに言う。

 

「春蘭」

 

春蘭は。

 

すぐに口を閉じた。

 

「……御意」

 

秋蘭が。

 

僅かに笑う。

 

次に。

 

桂花が口を開いた。

 

「華琳様」

 

「本当に」

 

「時雨へ」

 

「全軍をお預けになるのですか」

 

「ええ」

 

「軍師は?」

 

「時雨が選ぶ」

 

桂花の目が。

 

少し大きくなる。

 

「本人が?」

 

「総大将には」

 

「共に戦う者を選ばせる」

 

曹操は。

 

時雨を見る。

 

「ただし」

 

「誰を連れていくか」

 

「理由も説明してもらうわ」

 

時雨の顔が。

 

僅かに曇る。

 

「今か」

 

「ええ」

 

「まだ考えてない」

 

「今から考えなさい」

 

「面倒だな」

 

桂花が。

 

即座に怒鳴る。

 

「総大将が面倒などと言わないでください!」

 

「考えるのが嫌とは言ってない」

 

「では何が面倒なのです!」

 

「説明」

 

「それが必要なのです!」

 

曹操は。

 

楽しそうに二人を見る。

 

「では」

 

「時雨」

 

「まず」

 

「誰を連れていく?」

 

時雨は。

 

集まった者たちを見る。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

華論。

 

桂花。

 

稟。

 

風。

 

栄華。

 

柳琳。

 

全員。

 

それぞれ。

 

違う力を持つ。

 

誰を連れていく。

 

それは。

 

誰を信じるか。

 

誰へ。

 

兵の命を預けるか。

 

誰を。

 

許昌から離すか。

 

その意味でもある。

 

「全員は」

 

時雨が言う。

 

「連れていけない」

 

「当然ね」

 

曹操が答える。

 

「河北の再編」

 

「許昌の守り」

 

「南方への備え」

 

「残す者も必要よ」

 

時雨は。

 

最初に春蘭を見る。

 

「春蘭」

 

「私か!」

 

「ああ」

 

春蘭の顔が。

 

僅かに明るくなる。

 

「正面の戦」

 

「敵の騎兵を止める」

 

「城門を破る」

 

「一番危険な場所へ出す」

 

「任せろ!」

 

春蘭は。

 

力強く胸を張る。

 

「時雨の命令であろうと」

 

「敵を砕くことに変わりはない!」

 

「勝手に追うな」

 

「なぜ今それを言う!」

 

「やりそうだから」

 

「やらん!」

 

秋蘭が。

 

静かに言う。

 

「姉者」

 

「やるだろう」

 

「秋蘭!」

 

時雨は。

 

次に秋蘭を見る。

 

「秋蘭も」

 

「ああ」

 

秋蘭は。

 

驚かずに答えた。

 

「理由は」

 

曹操が尋ねる。

 

「涼州は騎兵が多い」

 

「遠くから」

 

「敵の動きを止める力が要る」

 

「春蘭が前へ出た時」

 

「支える奴も必要」

 

「それに」

 

時雨は秋蘭を見る。

 

「俺の目が届かない場所を」

 

「秋蘭なら見られる」

 

秋蘭の目が。

 

僅かに柔らかくなる。

 

「承知した」

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「背中は預かる」

 

「ああ」

 

「任せる」

 

その言葉へ。

 

秋蘭は。

 

静かに頷いた。

 

次。

 

時雨は。

 

華論を見る。

 

「華論」

 

「はいっす!」

 

「軍の編制」

 

「伝令」

 

「部隊間の調整」

 

「俺一人では」

 

「全部見られない」

 

「華論に任せる」

 

華論は。

 

一瞬。

 

目を見開いた。

 

すぐに。

 

勢いよく頭を下げる。

 

「任されたっす!」

 

「涼州へ行く全部隊」

 

「ちゃんと一つにまとめるっすよ!」

 

「頼む」

 

「あいっす!」

 

栄華が。

 

僅かに扇を動かす。

 

「兵站は」

 

「誰へお任せになりますの?」

 

時雨は。

 

栄華を見る。

 

「あんた」

 

栄華の動きが止まる。

 

「わたくし?」

 

「ああ」

 

「長い道だ」

 

「食料」

 

「馬」

 

「水」

 

「金」

 

「涼州では」

 

「剣より先に」

 

「それが足りなくなる」

 

「栄華が必要だ」

 

栄華は。

 

僅かに目を伏せる。

 

以前なら。

 

時雨が。

 

自分の金を使えばよいと。

 

簡単に言っていた。

 

今は。

 

国の金。

 

兵の食料。

 

補給。

 

帳簿。

 

それを。

 

栄華へ預ける。

 

「承知しましたわ」

 

栄華は。

 

静かに頭を下げる。

 

「ただし」

 

「何だ」

 

「勝手な現地調達」

 

「個人の財産による穴埋め」

 

「記録のない支出」

 

「すべて認めません」

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「先に相談する」

 

栄華は。

 

僅かに満足そうな顔をした。

 

「それなら」

 

「涼州の果てまででも」

 

「兵糧を届かせてみせますわ」

 

時雨は。

 

柳琳を見る。

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「来てくれ」

 

柳琳は。

 

少し驚いた顔をする。

 

「私も、ですか?」

 

「ああ」

 

「戦うためではない」

 

「分かっています」

 

柳琳は答える。

 

「兵と民を」

 

「生きて帰すためですね」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

まっすぐ頷く。

 

「負傷兵」

 

「病」

 

「水不足」

 

「飢え」

 

「涼州は」

 

「戦う前に人が倒れる」

 

「柳琳がいないと」

 

「俺は」

 

「切る判断ばかりする」

 

柳琳の目が。

 

僅かに揺れる。

 

時雨は。

 

自分が。

 

冷たい判断をすることを知っている。

 

全体を生かすため。

 

誰かを置いていく。

 

助からない者へ。

 

兵と薬を使わない。

 

黒山では。

 

そうしなければ。

 

全員が死んだ。

 

だが。

 

魏には。

 

柳琳がいる。

 

時雨が。

 

切るしかないと思った場所でも。

 

別の道を探す者。

 

「分かりました」

 

柳琳は。

 

穏やかに微笑む。

 

「時雨が」

 

「一人で切り捨てると決める前に」

 

「必ず私へ見せてください」

 

「ああ」

 

「頼む」

 

残る。

 

桂花。

 

稟。

 

風。

 

三人の軍師。

 

時雨は。

 

順番に見る。

 

桂花は。

 

不機嫌そうに腕を組んでいる。

 

稟は。

 

静かに待つ。

 

風は。

 

眠そうな顔。

 

だが。

 

三人とも。

 

時雨が誰を選ぶか。

 

真剣に見ていた。

 

「軍師は」

 

曹操が言う。

 

「一人か」

 

「二人か」

 

「あなたが決めなさい」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

涼州。

 

馬騰。

 

交渉。

 

騎兵。

 

豪族。

 

地形。

 

遠征。

 

占領後の統治。

 

一人で。

 

すべては見られない。

 

「稟」

 

時雨が言う。

 

稟が。

 

僅かに目を見開く。

 

「私ですか」

 

「ああ」

 

桂花の眉が。

 

僅かに上がる。

 

風は。

 

変わらず笑っている。

 

「理由を」

 

曹操が促す。

 

「涼州では」

 

「何が起きるか分からない」

 

「馬騰が」

 

「どこへ兵を置く」

 

「いつ動く」

 

「どこが危険」

 

「戦場全体を」

 

「冷静に見る奴がいる」

 

「俺は」

 

「一つの隙へ」

 

「集中しすぎる」

 

「稟に」

 

「全体を見てほしい」

 

稟は。

 

静かに時雨の言葉を受け取った。

 

「それは」

 

「時雨殿の軍略を」

 

「私が補うということですか」

 

「ああ」

 

「俺が間違っていれば」

 

「止めろ」

 

「命令へ反しても?」

 

「理由があるなら」

 

「言え」

 

「最後に決めるのは俺だ」

 

「だが」

 

「聞かずには決めない」

 

稟は。

 

深く頭を下げた。

 

「承知しました」

 

「時雨殿の軍師として」

 

「必ず」

 

「戦場全体を見届けます」

 

時雨は頷く。

 

残る桂花と風。

 

桂花は。

 

何も言わない。

 

だが。

 

口元が。

 

僅かに固い。

 

時雨は。

 

桂花を見る。

 

「桂花」

 

「何です」

 

「許昌へ残ってくれ」

 

桂花の目が。

 

明らかに鋭くなる。

 

「私では」

 

「役に立たないと?」

 

「違う」

 

「では」

 

「河北を」

 

「曹操と守れ」

 

桂花の顔から。

 

僅かに怒りが消える。

 

「河北は」

 

時雨が続ける。

 

「まだ完全じゃない」

 

「俺たちが西へ行けば」

 

「許昌も」

 

「河北も」

 

「兵が減る」

 

「そこを」

 

「桂花が支えろ」

 

「栄華も連れていく」

 

「国の金を」

 

「全部西へ向けるわけにはいかない」

 

「残る財政」

 

「税」

 

「役人」

 

「民」

 

「桂花にしかできない」

 

桂花は。

 

時雨を見ている。

 

連れていかない。

 

拒まれた。

 

そう思いかけた。

 

だが。

 

違う。

 

任された。

 

魏の中枢。

 

曹操の側。

 

最大の領土。

 

それを。

 

守れと。

 

「それに」

 

時雨が言う。

 

「曹操の近くへ」

 

「桂花が必要だ」

 

桂花の顔が。

 

僅かに赤くなる。

 

「な」

 

「何を当然のことを!」

 

「なら頼む」

 

「……言われなくても」

 

桂花は。

 

僅かに顔を背ける。

 

「華琳様の御側は」

 

「私が守ります」

 

曹操は。

 

少し楽しそうに桂花を見る。

 

「任せるわ」

 

「はい、華琳様!」

 

最後に。

 

風。

 

「風」

 

「はいー」

 

「残れ」

 

風は。

 

少しだけ首を傾げる。

 

「風もですかー」

 

「ああ」

 

「理由は」

 

曹操が尋ねる。

 

「風まで連れていくと」

 

「許昌の裏が見えない」

 

時雨は答える。

 

「俺たちが西へ出れば」

 

「南も」

 

「東も」

 

「北も」

 

「動くかもしれない」

 

「表では何もしなくても」

 

「使者」

 

「商人」

 

「噂」

 

「豪族」

 

「その動きを」

 

「風に見てほしい」

 

風の目が。

 

少しだけ開く。

 

「お兄さんは」

 

「風を」

 

「後ろの目にするのですねー」

 

「ああ」

 

「遠征中」

 

「何か動けば」

 

「すぐ知らせろ」

 

「分かりましたー」

 

風は。

 

のんびりと頭を下げる。

 

「華琳様と」

 

「魏の後ろ側は」

 

「風が見ておきます」

 

「頼む」

 

人選は。

 

決まった。

 

総大将。

 

時雨。

 

前衛。

 

春蘭。

 

支援と遠距離。

 

秋蘭。

 

軍編制と各隊調整。

 

華論。

 

兵站。

 

栄華。

 

医療と民の保護。

 

柳琳。

 

軍師。

 

稟。

 

許昌と河北へ残る。

 

桂花。

 

風。

 

曹操は。

 

全員を見渡した。

 

「異論は?」

 

誰も。

 

すぐには答えない。

 

春蘭は。

 

時雨を見ている。

 

総大将。

 

魏の将として。

 

自分の上に立つ。

 

以前なら。

 

認められなかったかもしれない。

 

男。

 

後から来た者。

 

曹操の隣へ立つと言った者。

 

だが。

 

春蘭は。

 

時雨の剣を知った。

 

戦い方を知った。

 

そして。

 

曹操が。

 

なぜ選んだかも聞いた。

 

「ありません」

 

春蘭が。

 

最初に言った。

 

「華琳様がお選びになり」

 

「時雨が」

 

「私を正しく使うと言うなら」

 

「その命令へ従います」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「正しく使うとは言ってない」

 

「なぜ言わん!」

 

「必要な場所へ出すと言った」

 

「同じだ!」

 

春蘭は。

 

少し怒鳴った。

 

だが。

 

そこに。

 

本気の反発はなかった。

 

秋蘭も頷く。

 

「私も異論はありません」

 

「時雨なら」

 

「姉者を前へ出しすぎることも」

 

「止められるでしょう」

 

「秋蘭!」

 

「事実だ」

 

「貴様まで!」

 

華論も。

 

勢いよく手を上げる。

 

「私も賛成っす!」

 

「時雨の作戦」

 

「細かいところが急に変わるから」

 

「整理する人が必要っすけど」

 

「そこは私がやるっす!」

 

「急に変えるなと言いたいのか」

 

「変えるなら」

 

「先に一言ほしいっす!」

 

「分かった」

 

「本当っすか?」

 

「ああ」

 

華論は。

 

少し疑う顔をした。

 

栄華が扇を開く。

 

「わたくしも異論はありませんわ」

 

「ただし」

 

「華琳様」

 

「遠征費用の上限と」

 

「補給拠点の優先順位は」

 

「出陣前に確定させていただきます」

 

「ええ」

 

曹操は頷く。

 

「時雨にも」

 

「すべて説明なさい」

 

「承知しました」

 

柳琳も。

 

静かに頭を下げる。

 

「私も」

 

「お供します」

 

「戦う者だけでなく」

 

「戦わずに巻き込まれる者も」

 

「できる限り守ります」

 

稟は。

 

時雨へ向き直る。

 

「時雨殿」

 

「総大将として」

 

「一つだけ」

 

「確認してもよろしいでしょうか」

 

「ああ」

 

「この遠征で」

 

「最も優先するものは」

 

「何ですか」

 

時雨は。

 

地図を見る。

 

涼州。

 

魏軍。

 

馬騰。

 

民。

 

後顧の憂い。

 

曹操の覇道。

 

すべて。

 

一つにはできない。

 

何かを優先すれば。

 

何かが後になる。

 

それでも。

 

総大将は。

 

軸を決めなければならない。

 

「魏軍を」

 

時雨が言う。

 

「帰す」

 

部屋が静まる。

 

「涼州を取ることではなく?」

 

稟が尋ねる。

 

「取っても」

 

「帰れなければ負けだ」

 

「馬騰を倒すことでは?」

 

「倒しても」

 

「反乱が続けば終わらない」

 

「では」

 

「帰すために」

 

「何をなさいます」

 

「戦わずに済むなら」

 

「戦わない」

 

「戦うなら」

 

「短く終わらせる」

 

「降る者は生かす」

 

「民から奪わない」

 

「食料は買う」

 

「水を汚さない」

 

「馬騰だけが敵なら」

 

「馬騰だけを狙う」

 

「涼州全部を」

 

「敵にしない」

 

稟は。

 

しばらく時雨を見る。

 

「承知しました」

 

「その方針を」

 

「軍全体へ伝えます」

 

曹操は。

 

静かに時雨を見ていた。

 

魏軍を帰す。

 

涼州を取る。

 

馬騰を倒す。

 

それより先に。

 

兵を帰す。

 

時雨らしい答え。

 

曹操が。

 

総大将へ選んだ理由。

 

それが。

 

言葉へ表れている。

 

「では」

 

曹操が言う。

 

「正式に命じるわ」

 

全員の姿勢が正される。

 

時雨も立ち上がった。

 

曹操は。

 

机の向こうから。

 

ゆっくり歩く。

 

時雨の前へ立つ。

 

その手には。

 

一枚の黒い将符。

 

魏軍の大軍を動かす。

 

総大将の証。

 

「張燕」

 

曹操の声が。

 

部屋へ響く。

 

「魏王曹操の名において」

 

「あなたを」

 

「涼州征討軍総大将へ任命する」

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

公の場。

 

今は。

 

真名ではない。

 

張燕。

 

魏将として。

 

曹操の命を受ける。

 

時雨は。

 

片膝をついた。

 

「受ける」

 

春蘭の眉が動く。

 

「言葉が軽いぞ!」

 

曹操は。

 

片手を上げ。

 

春蘭を制する。

 

「構わないわ」

 

時雨は続ける。

 

「俺は」

 

「涼州へ行く」

 

「馬騰が戦うなら」

 

「倒す」

 

「話すなら」

 

「話す」

 

「降る者は生かす」

 

「魏軍を」

 

「できるだけ多く」

 

「ここへ帰す」

 

「そして」

 

時雨の目が。

 

曹操を真っ直ぐ見る。

 

「西を静かにする」

 

「曹操が」

 

「次へ進めるように」

 

曹操の瞳が。

 

僅かに柔らかくなる。

 

「ええ」

 

「任せるわ」

 

曹操は。

 

将符を時雨へ渡した。

 

時雨は。

 

両手で受け取る。

 

小さな符。

 

だが。

 

重い。

 

何万もの兵。

 

その命が。

 

今。

 

この中にある。

 

将符の重さではない。

 

預けられた命の重さ。

 

時雨は。

 

それを知っている。

 

だから。

 

軽くは持てない。

 

「時雨」

 

曹操が。

 

僅かに声を落とす。

 

「必ず帰りなさい」

 

部屋の中。

 

皆がいる。

 

それでも。

 

その言葉だけは。

 

時雨一人へ向けられていた。

 

「魏軍を帰す」

 

時雨が答える。

 

曹操の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「あなたもよ」

 

時雨は。

 

少し黙る。

 

「時雨」

 

「分かってる」

 

「なら答えなさい」

 

「俺も帰る」

 

曹操の表情から。

 

僅かに力が抜ける。

 

「約束よ」

 

「ああ」

 

「私のところへ」

 

「帰る道を見失わないこと」

 

以前。

 

曹操から言われた言葉。

 

時雨は。

 

迷わず頷く。

 

「見失わない」

 

春蘭が。

 

二人のやり取りを見ながら。

 

僅かに口を尖らせる。

 

桂花も。

 

不満そうに眉を寄せている。

 

風は。

 

楽しそうに笑っていた。

 

秋蘭は。

 

何も言わず。

 

静かに見守る。

 

曹操は。

 

時雨から一歩離れる。

 

再び。

 

魏王の顔へ戻る。

 

「出陣は」

 

「一月後」

 

「それまでに」

 

「兵数」

 

「進軍路」

 

「補給」

 

「交渉条件」

 

「すべて決める」

 

「時雨」

 

「明日から」

 

「毎日軍議よ」

 

時雨の顔が。

 

露骨に曇る。

 

「毎日か」

 

「総大将でしょう?」

 

「現地で決めればいい」

 

桂花が。

 

即座に声を上げる。

 

「駄目です!」

 

「なぜ」

 

「なぜではありません!」

 

「兵数も」

 

「兵糧も」

 

「進軍路も決めず」

 

「何万の軍を動かすつもりです!」

 

「大体は今決める」

 

「大体では困ります!」

 

「現地で変わる」

 

「変わることを前提に」

 

「準備するのです!」

 

時雨は。

 

小さく息を吐いた。

 

「桂花は残るだろ」

 

「残るからこそ!」

 

桂花は時雨を指す。

 

「出陣前に」

 

「すべて確認します!」

 

「涼州へ行ってから」

 

「兵糧が足りない」

 

「道がない」

 

「連絡が届かない」

 

「などと言われては困ります!」

 

栄華も。

 

強く頷く。

 

「桂花様のおっしゃる通りですわ」

 

「兵站計画は」

 

「一日ごとに必要です」

 

華論も手を上げる。

 

「部隊編制もっす!」

 

「何人を」

 

「どの隊へ入れるか」

 

「全部決めるっすよ!」

 

柳琳が。

 

穏やかに続ける。

 

「医療隊と」

 

「避難民を保護するための場所も」

 

「先に準備しましょう」

 

稟は。

 

すでに竹簡を取り出している。

 

「明日までに」

 

「涼州の地形と」

 

「馬騰軍の情報を整理します」

 

春蘭は。

 

楽しそうに拳を握る。

 

「私は」

 

「明日から兵を鍛える!」

 

秋蘭が。

 

冷静に言う。

 

「姉者」

 

「まず」

 

「時雨の指揮下で動く訓練が必要だ」

 

春蘭の動きが止まる。

 

「何だと」

 

「姉者は」

 

「追うなと言われても追う」

 

「追わん!」

 

「先ほど」

 

「必要ならと言われただけで怒った」

 

「それとこれは違う!」

 

「同じだ」

 

二人の言い争い。

 

桂花は。

 

時雨へ説明を求め。

 

華論は。

 

編制の話を始め。

 

栄華は。

 

必要な費用を口にし。

 

柳琳は。

 

水と薬の不足を心配する。

 

稟は。

 

涼州の地図を広げ。

 

風は。

 

残る側で。

 

どこへ間者を置くか考えている。

 

つい先ほどまで。

 

曹操と時雨だけだった部屋は。

 

一気に騒がしくなった。

 

時雨は。

 

将符を持ったまま。

 

その光景を見る。

 

総大将。

 

一人で決める者。

 

そう思っていた。

 

だが。

 

違う。

 

皆が。

 

勝手に動き始める。

 

それぞれが。

 

自分の役目を考え。

 

時雨へ意見をぶつける。

 

黒山では。

 

時雨が。

 

最初から最後まで決めた。

 

誰をどこへ置く。

 

何を食べる。

 

どこへ逃げる。

 

誰を残す。

 

他へ任せれば。

 

失敗すると思っていた。

 

自分が背負うしかないと。

 

そう考えた。

 

だが。

 

魏では。

 

自分が。

 

すべてを考える前に。

 

必要な者が。

 

必要なことを考え始める。

 

春蘭は戦う。

 

秋蘭は支える。

 

華論はまとめる。

 

栄華は運ぶ。

 

柳琳は救う。

 

稟は見る。

 

桂花は残った国を守る。

 

風は。

 

見えない敵を探す。

 

曹操は。

 

そのすべてを。

 

一つの覇道へ繋ぐ。

 

時雨の役目は。

 

全員の代わりに考えることではない。

 

全員の力が。

 

同じ場所へ向くよう。

 

決めること。

 

必要な時。

 

選ぶこと。

 

そして。

 

選んだ結果を。

 

引き受けること。

 

「時雨」

 

曹操が呼ぶ。

 

「なんだ」

 

「分かった?」

 

「何が」

 

「総大将は」

 

「一人では戦えないということ」

 

時雨は。

 

騒がしく話す者たちを見る。

 

「うるさいな」

 

「それが答え?」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

ほんの少し。

 

口元を緩める。

 

「でも」

 

「悪くない」

 

曹操は。

 

満足そうに笑った。

 

「そう」

 

「なら」

 

「明日から覚悟なさい」

 

「軍議は長いわよ」

 

時雨の笑みが消える。

 

「それは悪い」

 

「時雨!」

 

部屋へ。

 

曹操の声が響く。

 

周囲から。

 

小さな笑いが起きた。

 

---

 

その夜。

 

時雨は。

 

黒狼隊の駐屯地へ戻らなかった。

 

曹操の部屋へ。

 

再び呼ばれていた。

 

表向きは。

 

総大将任命後の相談。

 

実際。

 

話すことは多い。

 

涼州。

 

馬騰。

 

兵数。

 

交渉。

 

出陣。

 

帰還。

 

机の上には。

 

昼よりも。

 

さらに多くの竹簡が積まれていた。

 

時雨は。

 

その量を見て。

 

僅かに顔をしかめる。

 

「全部読むのか」

 

「ええ」

 

曹操が答える。

 

「今夜中に?」

 

「できるところまで」

 

「柳琳に怒られる」

 

「あなたが言うの?」

 

「俺は」

 

「休めと言われたら」

 

「最近は休む」

 

「最近は、ね」

 

曹操は。

 

二つの杯へ酒を注ぐ。

 

片方を。

 

時雨へ渡す。

 

「疲れた?」

 

「まだ」

 

「総大将と呼ばれて」

 

「どう思った?」

 

「重い」

 

「怖い?」

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

「怖い」

 

曹操の目が。

 

僅かに揺れる。

 

時雨が。

 

怖いと。

 

はっきり言う。

 

珍しい。

 

「何が」

 

「間違えること」

 

時雨は。

 

杯へ視線を落とす。

 

「俺が」

 

「一つ間違えれば」

 

「一人じゃない」

 

「何千」

 

「何万と死ぬ」

 

「黒山でも同じだったでしょう?」

 

「ああ」

 

「だが」

 

「魏軍は」

 

「俺の民じゃない」

 

「何が違うの」

 

「信じられてるか」

 

「まだ分からない」

 

「それでも」

 

「命令を出す」

 

「帰れない場所へ」

 

「兵を送るかもしれない」

 

「怖くない方が」

 

「おかしい」

 

曹操は。

 

静かに時雨を見ていた。

 

強い男。

 

剣でも。

 

弓でも。

 

軍略でも。

 

他を圧倒した。

 

その男が。

 

総大将という地位を。

 

誇らない。

 

喜ばない。

 

先に。

 

失敗した時に死ぬ者を考える。

 

曹操が。

 

時雨を選んだ理由。

 

それが。

 

さらに強くなる。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「その怖さを」

 

「忘れないで」

 

「ああ」

 

「でも」

 

曹操は。

 

時雨の杯へ。

 

もう一度酒を注ぐ。

 

「恐れて」

 

「何も決められない者には」

 

「ならないで」

 

「分かってる」

 

「あなたは」

 

「必ず」

 

「誰かを危険な場所へ送る」

 

「春蘭かもしれない」

 

「秋蘭かもしれない」

 

「華論」

 

「稟」

 

「黒狼隊」

 

「名も知らない兵」

 

「誰かへ」

 

「死ぬかもしれない命令を出す」

 

「ああ」

 

「その時」

 

「全員を守る答えは」

 

「ないかもしれない」

 

時雨の指が。

 

杯を強く握る。

 

「分かってる」

 

「なら」

 

「選びなさい」

 

曹操は。

 

静かに。

 

だが。

 

強く言う。

 

「誰かを捨てるためではない」

 

「最後に」

 

「最も多く帰すために」

 

「あなたが」

 

「正しいと思う道を」

 

「選びなさい」

 

「間違えたら」

 

「どうする」

 

曹操は。

 

迷わなかった。

 

「私が引き受ける」

 

時雨の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

「命令を出すのは俺だ」

 

「あなたを総大将へしたのは私よ」

 

「最後の責任は」

 

「私にある」

 

「それは違う」

 

時雨は。

 

低い声で言う。

 

「俺が決めたことを」

 

「曹操へ押しつけない」

 

「押しつけるのではないわ」

 

曹操の声も。

 

僅かに強くなる。

 

「あなた一人へ」

 

「背負わせないと言っているの」

 

「俺が」

 

「総大将だ」

 

「ええ」

 

「だから責任を負う」

 

「そうね」

 

「でも」

 

曹操は。

 

時雨の袖を掴む。

 

「あなたは」

 

「私の将でもある」

 

「私が任じた」

 

「私が信じた」

 

「私が送り出す」

 

「なら」

 

「あなたの決断は」

 

「私の決断でもある」

 

時雨は。

 

袖を掴む手を見る。

 

小さい手。

 

だが。

 

一国を動かす手。

 

「曹操」

 

「何?」

 

「重くないか」

 

「何が」

 

「全部」

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

「魏」

 

「河北」

 

「将」

 

「民」

 

「俺まで」

 

曹操は。

 

少しだけ笑った。

 

「重いわ」

 

「なら」

 

「なぜ持つ」

 

「私が」

 

「持つと決めたから」

 

「捨てれば軽い」

 

「あなたは捨ててほしい?」

 

「違う」

 

「でしょう?」

 

曹操は。

 

時雨の袖を離さない。

 

「私は」

 

「天下を取る」

 

「そのために」

 

「多くを背負う」

 

「あなたにも背負わせる」

 

「でも」

 

「一人では背負わせない」

 

「それが」

 

「私の国よ」

 

時雨は。

 

何も言わなかった。

 

黒山では。

 

時雨が。

 

すべてを背負った。

 

背負うと決めた。

 

それが。

 

頭領の役目だと思った。

 

だが。

 

重すぎた。

 

国は。

 

時雨一人が立てなくなれば。

 

崩れる形になった。

 

魏は違う。

 

曹操が背負う。

 

だが。

 

春蘭も。

 

秋蘭も。

 

桂花も。

 

稟も。

 

風も。

 

華論も。

 

栄華も。

 

柳琳も。

 

それぞれが。

 

自分の分を持つ。

 

そして。

 

時雨にも持たせる。

 

一人でなく。

 

皆で。

 

「分かった」

 

時雨が言う。

 

「何が」

 

「俺は」

 

「総大将として決める」

 

「間違えたら」

 

「曹操にも言う」

 

「ええ」

 

「抱えない」

 

「ええ」

 

「だが」

 

「最後に」

 

「俺が選んだことからは逃げない」

 

曹操は。

 

ゆっくり頷いた。

 

「それでいいわ」

 

「そして」

 

時雨は続ける。

 

「帰る」

 

「必ず?」

 

「ああ」

 

「魏軍も」

 

「俺も」

 

「必ず」

 

曹操は。

 

ようやく。

 

時雨の袖から手を離した。

 

「なら」

 

「今夜は」

 

「少しだけ休みましょう」

 

「竹簡は」

 

「明日でも読めるわ」

 

「さっき」

 

「できるところまでと言った」

 

「気が変わったの」

 

「柳琳に怒られるからか」

 

「違うわ」

 

「では」

 

曹操は。

 

時雨の肩へ。

 

僅かに身体を預ける。

 

「総大将が」

 

「出陣前に倒れたら困るでしょう?」

 

「曹操も倒れるな」

 

「ええ」

 

「あなたが帰る場所が」

 

「なくなるものね」

 

時雨は。

 

僅かに目を細くする。

 

「なくならない」

 

「どうして?」

 

「曹操は」

 

「倒れない」

 

「ずいぶん信じるのね」

 

「ああ」

 

「俺を」

 

「総大将にするくらいだからな」

 

曹操は。

 

一瞬。

 

黙った。

 

そして。

 

小さく笑う。

 

「何よ、それ」

 

「間違ってるか」

 

「いいえ」

 

曹操は。

 

時雨の肩へ預ける力を。

 

少しだけ強める。

 

「間違っていないわ」

 

---

 

翌朝。

 

許昌では。

 

まだ正式な布告もないまま。

 

一つの噂が広がり始めていた。

 

魏が。

 

次の戦へ動く。

 

向かう先は西。

 

涼州。

 

馬騰の国。

 

そして。

 

総大将は。

 

黒山の張燕。

 

剣で春蘭を倒し。

 

弓で秋蘭を超え。

 

軍略で三軍師を破った男。

 

魏へ来て。

 

まだ長くない。

 

その男へ。

 

曹操は。

 

大軍を預ける。

 

噂を聞いた兵たちは。

 

驚いた。

 

不安を抱く者もいた。

 

期待する者もいた。

 

黒山の者たちは。

 

静かに頷いた。

 

時雨なら。

 

戦わずに済む道を探す。

 

戦えば。

 

必ず帰ろうとする。

 

彼らは。

 

それを知っている。

 

魏兵は。

 

まだ知らない。

 

だから。

 

これから知る。

 

涼州への長い道で。

 

乾いた風の中で。

 

騎馬の敵を前にして。

 

誰を守り。

 

何を捨て。

 

どこへ進むか。

 

総大将として。

 

時雨が。

 

どのような命令を出すのか。

 

そのすべてを通して。

 

黒山の狼は。

 

初めて。

 

魏軍全体の先頭へ立つ。

 

国を持たない王。

 

解体した燕の頭領。

 

曹操のものとなった男。

 

その男が今。

 

魏の将符を持ち。

 

西を託された。

 

目的は。

 

ただ一つ。

 

後顧の憂いを消す。

 

だが。

 

時雨が目指すのは。

 

土地を奪うことだけではない。

 

敵を滅ぼすことでもない。

 

戦が終わった後。

 

魏軍が帰る。

 

涼州の民が生きる。

 

曹操が。

 

次の道へ進める。

 

その形を作ること。

 

涼州征討。

 

その戦は。

 

まだ始まっていない。

 

だが。

 

許昌の朝日が。

 

西へ伸びる街道を照らす頃。

 

黒山の狼の目は。

 

すでに。

 

遥か涼州の山と。

 

その先へある。

 

帰る道を見ていた。




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次の作品の主人公とルートは誰がいい?

  • 高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
  • 朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
  • 周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
  • 孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)
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