外伝 第13話 流浪の飛将――再会、張遼
涼州征討軍の編制が始まってから、十日が過ぎた。
許昌の軍営には、朝から夜まで人と物が行き交っている。
集められた兵の選別。
部隊ごとの再編。
武器と防具の点検。
遠征に必要な兵糧、水袋、薬、馬草、天幕、荷車。
進軍路の候補となる街道や山道の調査。
馬騰へ送る使者の選定。
交渉が決裂した場合を想定した作戦立案。
涼州は遠い。
ただ兵を並べ、号令をかければ出陣できる戦ではなかった。
中原の豊かな土地とは違い、西へ進むほど水場は減り、街道は細くなる。昼は乾いた風が肌を裂き、夜は骨まで冷える。食料があっても、水が尽きれば兵は動けない。人が耐えられても、馬が倒れれば軍の足が止まる。
しかも、相手は馬騰。
涼州を長く治め、西方の騎馬軍を束ねてきた将である。
地の利は向こうにある。
兵の多くは幼い頃から馬に乗り、広い荒野を自分の庭のように駆ける。正面から追えば逃げられ、退けば背を襲われる。補給路が伸びれば、細い部分だけを切られる。
そのような敵を相手に、魏軍が中原と同じ戦い方をすれば、勝てたとしても多くの兵を失う。
だからこそ。
総大将となった時雨は、出陣前の準備に時間を使っていた。
使わされていた、と言った方が正確かもしれない。
「時雨様」
軍営の中央に設けられた大天幕。
その中で、華論が分厚い竹簡を抱えて立っていた。
「昨日頼まれた部隊編制案っす」
「ああ」
「歩兵三万二千、騎兵一万、弓兵八千、工兵三千、輸送と医療を合わせて五千っす」
時雨は机の上へ広げられた名簿を見る。
文字が多い。
非常に多い。
部隊名。
兵数。
隊長。
副長。
出身地。
旧所属。
使用武器。
騎乗経験。
長期遠征経験。
負傷歴。
過去に涼州や関中へ行ったことがある者には、別の印まで付けられている。
「全部読むのか」
「総大将なんだから当然っす」
「華論が読んだだろ」
「私は整理したっす」
「なら問題ない」
「あるっすよ!」
華論が机へ両手をつく。
金色の髪を結んだ横髪が、その勢いで揺れた。
「最終的に決めるのは時雨っす!」
「華論の案でいい」
「そう言って」
華論は目を細くした。
「後で急に変えるつもりっすね?」
「必要なら」
「ほら!」
天幕の端では、栄華が帳簿を確認していた。
その手が止まる。
「時雨」
「何だ」
「必要なら、ではありませんわ」
栄華は扇を閉じ、時雨へ向き直る。
「部隊を一つ動かすだけでも、兵糧と馬草の配分が変わります」
「分かってる」
「分かっている方は、華論が十日かけて作った編制を、必要ならの一言では崩しません」
「崩す時は先に言う」
「いつ」
「崩す前」
「当たり前ですわ!」
柳琳が、少し離れた場所で苦笑している。
負傷兵用の薬と包帯を確認していた彼女は、二人へ湯を入れた杯を差し出した。
「少し休んではどうですか」
「まだ始めたばかりっすよ」
華論が答える。
「時雨がちゃんと竹簡を読むまで、休めないっす」
「読んでる」
「一枚目から進んでないっす」
「兵数は分かった」
「名前も見てほしいっす!」
「戦場で全員の名は呼べない」
「そういう問題じゃないっす!」
時雨は小さく息を吐く。
総大将となってから。
軍議が増えた。
竹簡も増えた。
確認することも増えた。
黒山では、自分の目で見た。
砦を歩き。
兵と話し。
食料庫を確かめ。
道を覚えた。
誰が速く走れる。
誰が弓を使える。
誰が臆病で。
誰が無茶をする。
書かれていなくても分かった。
だが。
今回率いる兵は、五万を超える。
一人ずつ会うことはできない。
だから。
文字で見る。
報告を聞く。
他人の目を借りる。
それが。
大軍を率いるということなのだろう。
まだ慣れない。
だが。
嫌だからと避けることはできない。
自分が知らないまま出した命令で。
誰かが死ぬ。
それだけは。
避けなければならない。
時雨は竹簡を手に取った。
二枚目へ進もうとした時。
天幕の外から。
馬の蹄の音が聞こえた。
一騎ではない。
数騎。
かなり速い。
続いて。
見張りの声。
「止まれ!」
「ここから先は涼州征討軍の軍営だ!」
少し間が空く。
次に聞こえたのは。
女の声だった。
「分かっとる!」
「せやから来た言うとるやろ!」
時雨の手が止まる。
聞き覚えのある声。
強く。
明るく。
騒がしい。
一度聞けば忘れにくい。
時雨は。
ゆっくり顔を上げた。
「どうしたっすか?」
華論が尋ねる。
時雨は答えず。
天幕の入口を見る。
外では。
見張りと女が言い争っていた。
「名を名乗れ!」
「さっきから名乗っとるやろ!」
「張遼や!」
「耳ついとらんのか!」
華論の表情が変わる。
栄華も。
柳琳も。
入口へ視線を向けた。
張遼。
その名を。
魏の将が知らないはずはない。
并州の出身。
若くして戦場へ立ち。
数々の軍を渡り歩いた勇将。
騎兵の扱いに長け。
長大な偃月刀を振るい。
敵陣へ単騎で切り込むことすら恐れない。
そして。
かつて。
燕国の将軍だった女。
黒山の張燕が。
百万の民と百を超える砦をまとめ。
一つの国として燕を名乗った時期。
張遼は。
その軍の中核を担っていた。
黒山の将たちの中でも。
時雨から離れた場所へ。
独立して軍を預けられた数少ない者。
速く。
強く。
豪胆。
敵へ容赦はないが。
降った兵を無闇に斬ることはなく。
酒を飲めば。
身分の違いも忘れて騒ぐ。
燕の騎馬隊を率い。
官軍の包囲を何度も破った。
黒山の者たちは。
彼女を。
飛将と呼んだ。
だが。
燕国が解体された日。
張遼は。
魏へ降らなかった。
時雨の命令へ反抗したわけではない。
魏を憎んだわけでもない。
ただ。
自分が。
魏の法と軍律の中で。
生きられるとは思えない。
そう言った。
時雨は。
止めなかった。
燕を解いた。
全員へ。
自分の道を選ばせた。
魏へ入る者。
故郷へ帰る者。
商人になる者。
農民になる者。
どこか別の主へ仕える者。
張遼は。
どれも選ばなかった。
武器と馬だけを持ち。
一人で山を下りた。
どこへ行くかも決めず。
ただ。
強い相手と戦い。
面白い戦場を探す。
そう笑って。
流浪の身となった。
それから。
時雨は。
霞と会っていない。
「入れろ」
時雨が言う。
天幕の外が静かになる。
見張りが戸惑った声を返した。
「ですが」
「知ってる奴だ」
「時雨様が?」
「ああ」
「通せ」
しばらくして。
天幕の布が。
乱暴に開かれた。
朝の光を背に。
一人の女が立っていた。
紫の髪。
長く伸びた髪を、高い位置で無造作にまとめている。旅の埃を被りながらも、その色は鮮やかだった。
身に着けているのは。
使い込まれた軽装の鎧。
肩や腰には細かな傷。
何度も直した跡がある。
背には。
身の丈を超える長大な武器。
幅広い刃。
龍を思わせる装飾。
飛龍偃月刀。
燕国の将だった頃から。
霞が振るい続けてきた武器。
女は。
天幕の中へ一歩入る。
時雨を見つけた。
その顔から。
先ほどまでの苛立ちが消える。
代わりに。
驚き。
懐かしさ。
喜び。
それらが混ざった笑みが浮かぶ。
「……ほんまにおった」
時雨も。
女を見る。
少し痩せた。
頬。
腕。
以前より。
余分なものが削ぎ落とされている。
だが。
目の光は変わらない。
「久しぶりだな」
時雨が言う。
女は。
数歩進んだ。
「久しぶりやな」
「時雨」
真名。
華論たちの視線が。
僅かに動く。
張遼は。
迷うことなく。
時雨の真名を呼んだ。
それだけで。
二人の関係が。
浅いものではないと分かる。
時雨も。
その呼び方を止めなかった。
「霞」
時雨が呼ぶ。
霞の目が。
僅かに細くなる。
「おう」
短い返事。
それだけで。
長い空白が。
少し埋まった。
華論が。
時雨と霞を見比べる。
「知り合いっていうか」
「相当深い知り合いっすね?」
「ああ」
時雨は答える。
「燕の将だった」
「うちや」
霞は胸を張る。
「元、やけどな」
栄華が。
冷静な目で霞を見る。
「張遼殿」
「并州の飛将」
「燕国騎馬軍の将軍」
「その方で間違いありませんの?」
「せや」
霞は。
栄華を見る。
「うちのこと知っとるんか」
「名のある将ですもの」
「へえ」
霞は口元を上げる。
「魏のお嬢ちゃんは」
「話が分かるやん」
栄華の眉が。
僅かに上がる。
「お嬢ちゃん?」
「ちゃうんか?」
「時雨」
栄華が。
低い声で呼ぶ。
「何だ」
「この方へ」
「魏軍の礼節を説明していただけます?」
「無理だ」
即答だった。
霞が。
声を上げて笑う。
「相変わらずやなあ!」
「時雨!」
栄華の声が響く。
柳琳が。
慌てて間へ入る。
「まあまあ」
「遠くから来られたようですし」
「まずはお水を」
「おお」
霞は。
柳琳から差し出された杯を受け取る。
一息で飲み干した。
「助かるわ」
「三日くらい」
「まともな水飲めへんかったからな」
柳琳の表情が変わる。
「三日も?」
「井戸はあったんやけど」
「旅商人に先越されてな」
「馬に飲ませたら」
「うちの分なくなってもうた」
「馬を優先したのですか」
「そらそうや」
霞は当然のように答える。
「あいつ倒れたら」
「うち歩かなあかんやろ」
「そこですか」
柳琳は困ったように笑う。
それでも。
すぐに二杯目の水を注いだ。
「座れ」
時雨が言う。
霞は。
空いている椅子を見る。
だが。
すぐには座らなかった。
代わりに。
時雨の前まで歩く。
近い。
手を伸ばせば。
互いの肩へ届く距離。
「時雨」
「何だ」
「ほんまに」
霞は。
時雨の顔をじっと見る。
「曹操んとこにおるんやな」
「ああ」
「黒山も」
「燕も」
「ほんまに全部解いたんやな」
「ああ」
「未練ないんか」
時雨は。
少しだけ沈黙した。
ない。
そう言えば。
嘘になる。
燕には。
黒山には。
多くのものがあった。
失った者。
守れなかった者。
笑った者。
共に戦った者。
生まれた子。
死んだ老人。
作った砦。
焼かれた村。
すべて。
時雨の中に残っている。
だが。
戻りたいとは思わない。
戻れば。
また。
同じ形になる。
時雨一人へ。
すべてを集める国。
時雨が倒れれば。
崩れる国。
それを。
もう一度作るつもりはなかった。
「ある」
時雨は答える。
霞の眉が。
僅かに動く。
「でも」
「戻さない」
「なんでや」
「終わらせたからだ」
時雨は。
真っ直ぐ霞を見る。
「俺が」
「終わらせると決めた」
「皆に」
「別の道を選ばせた」
「今さら」
「俺が寂しいからって」
「戻せない」
霞は。
何も言わない。
しばらく。
時雨の目を見ていた。
やがて。
小さく笑う。
「せやな」
その笑みには。
懐かしさと。
少しの寂しさがあった。
「そういう奴やったな」
霞は。
ようやく椅子へ座る。
飛龍偃月刀を。
椅子の脇へ立てかけた。
華論が。
その大きさを見て。
目を丸くしている。
「それ」
「本当に振り回せるんすか?」
「なんや」
霞が笑う。
「試してみるか?」
「遠慮するっす」
「ええ判断や」
霞は。
気楽に答えた。
時雨は。
彼女の鎧を見る。
傷が多い。
刃によるもの。
矢が擦ったもの。
獣に付けられたような跡。
いずれも。
新しくはない。
しかし。
手入れが足りない。
金がなかったのだろう。
武器だけは。
よく整えられている。
霞らしい。
自分の食事より。
馬と武器を優先する。
「何をしてた」
時雨が尋ねる。
「流浪や」
霞は答える。
「それは知ってる」
「せやから」
「流浪しとったんや」
「どこで」
「并州行ったり」
「幽州回ったり」
「北の方で異民族と喧嘩したり」
「西の商隊を護衛したり」
「賊退治したり」
「逆に賊扱いされたり」
華論が。
最後の言葉へ反応する。
「何やったんすか?」
「関所の役人が」
「通行料を十倍払え言うてきたから」
「門ごと吹き飛ばした」
「賊っす!」
「せやけど」
「後で近くの村から酒もろたで」
「村人は喜んどった」
「役人が悪かったんすかね……」
華論が。
判断に困る顔をした。
栄華は。
明らかに頭痛を覚えている。
「通行料を払わず」
「関所を破壊」
「それを武勇談として話す」
「時雨」
「何だ」
「本当に」
「この方を燕の将軍になさっていたのですか」
「ああ」
「よく国が成り立っていましたわね」
「うちだけやないで」
霞が笑う。
「黒山には」
「もっと酷い奴もぎょうさんおった」
「否定できない」
時雨が答える。
「否定してくださいませ!」
栄華の声が響いた。
霞は。
楽しそうに笑う。
だが。
その笑いが収まった後。
一瞬。
表情が空白になる。
流浪。
自由。
好きに戦い。
好きに進む。
霞が。
望んで選んだ道。
しかし。
どこにも根を張らない生き方は。
自由であると同時に。
帰る場所を持たない生き方でもある。
戦が終われば。
次へ行く。
酒を飲む相手ができても。
別れる。
商隊を守り。
町を救い。
名を知られても。
そこは。
霞の居場所にはならない。
時雨は。
そのことへ気づいた。
霞は。
燕を出た時。
笑っていた。
だが。
今日。
本当に偶然。
許昌の軍営へ来たのか。
「なぜここへ来た」
時雨が尋ねる。
霞は。
杯を口へ運ぼうとして。
止めた。
「噂聞いたんや」
「何の」
「魏が涼州攻めるって」
天幕の空気が。
僅かに変わる。
まだ。
正式な布告前。
軍内では。
準備が進んでいる。
だが。
詳細は。
広く知られていない。
「どこで聞いた」
栄華が尋ねる。
その声には。
魏の財務官ではなく。
情報流出を警戒する将の鋭さがあった。
霞は。
気にせず答える。
「許昌の外れの酒場や」
「酒場?」
「商人が喋っとった」
「関中に馬草が集められとる」
「長安の倉が増築されとる」
「西へ行く荷車の値段が上がっとる」
「せやから」
「魏が西へ大軍出すんちゃうかってな」
栄華は黙る。
秘密が漏れたわけではない。
大軍を動かす準備は。
隠し切れない。
物が動く。
人が集まる。
金が流れる。
それを見れば。
鋭い商人は気づく。
「それだけか」
時雨が尋ねる。
「もう一つ」
霞は。
時雨を見る。
「総大将が」
「黒山の張燕らしいって」
華論が。
僅かに息を呑む。
霞は。
続けた。
「剣で夏侯惇を倒して」
「弓で夏侯淵に勝って」
「魏の軍師三人まとめて負かした男」
「曹操が」
「そいつに涼州攻めを任せるらしい」
「酒場で」
「みんな好き勝手言うとったわ」
「黒山の化け物やとか」
「曹操を誑かした男やとか」
「実は山を割れるとか」
時雨の眉が動く。
「まだ残ってるのか」
「何がや」
「山を割る噂」
「割れへんのか?」
「割れない」
霞は。
少し残念そうな顔をした。
「なんや」
「昔より強なった聞いたから」
「できるようになったんかと思ったわ」
「なるか」
「時雨なら」
「そのうちやりそうやけどな」
「やらない」
霞は笑う。
そして。
時雨へ視線を戻した。
「せやから」
「見に来た」
「何を」
「お前が」
霞は。
ゆっくり言う。
「どんな顔で」
「魏の総大将やっとるんか」
時雨は。
返事をしなかった。
霞も。
すぐには続けない。
燕の将軍だった頃。
霞は。
時雨の命令で戦った。
命令だからではない。
時雨が。
誰を生かそうとしているか。
知っていたから。
どれほど無茶な策でも。
最後には。
帰る道を用意する。
それを信じていた。
だが。
今。
時雨が率いるのは。
燕軍ではない。
魏軍。
曹操の軍。
かつて燕と敵対した。
中原最大の国。
その軍の頂点へ立つ時雨を。
霞は。
自分の目で確かめに来た。
「見てどうだ」
時雨が尋ねる。
「変わったな」
霞は答える。
「どこが」
「前より」
「顔が面倒そうや」
華論が。
思わず吹き出した。
栄華も。
僅かに口元を押さえる。
時雨は。
無表情で霞を見る。
「昔も同じだ」
「昔はもっと酷かった」
「いつも」
「全部自分で決めて」
「勝手にいなくなって」
「帰ってきたら」
「傷増えとって」
「聞いても何も言わへん」
「今は」
霞は。
机の上の竹簡を見る。
「嫌そうな顔しながら」
「ちゃんと他の奴と相談しとる」
「成長したんやな」
「子供みたいに言うな」
「黒山おった頃は」
「似たようなもんやったやろ」
「霞よりは大人だった」
「なんやと?」
二人の視線がぶつかる。
しばらく。
無言。
次の瞬間。
霞が笑った。
時雨の口元も。
ほんの僅かに緩む。
天幕の中へ。
黒山にいた頃の空気が。
一瞬だけ戻った。
同じ火を囲み。
次の戦場を話し。
食料が足りず。
誰かが酒を盗み。
霞が騒ぎ。
時雨が止める。
失われた時間。
戻らない場所。
だが。
記憶まで消えたわけではない。
「時雨」
霞が言う。
「お前」
「ほんまに涼州行くんやな」
「ああ」
「馬騰と戦うんか」
「まだ決まってない」
「攻めるんちゃうんか」
「先に話す」
「話して」
「向こうが戦うなら」
「戦う」
霞は。
少し考える。
「相変わらずやな」
「何が」
「戦う言うて軍集めといて」
「戦わん道も残すとこや」
「あった方がいい」
「戦好きには」
「つまらんやろ」
「霞は」
「戦いたいだけか」
時雨の声が。
少し低くなる。
霞の笑みが。
僅かに薄くなった。
「昔は」
「そう思っとった」
「強い奴と戦って」
「勝って」
「酒飲めたら」
「それでええって」
「今は違うのか」
霞は。
杯の中を見る。
水面へ。
自分の顔が。
小さく映る。
「分からん」
その答えは。
霞らしくなかった。
いつも。
迷わない。
考える前に動く。
自分が楽しいか。
面白いか。
それで決める。
そんな女が。
分からないと口にした。
「流浪して」
霞は続ける。
「いろんな戦場行った」
「強い奴もおった」
「面白い戦もあった」
「負けかけたことも」
「死にかけたことも」
「何回もある」
「でも」
「勝っても」
「終わったら」
「次の場所探すだけや」
「誰か助けても」
「その町に残るわけやない」
「兵率いても」
「戦が終わったら解散」
「また一人や」
霞は。
自嘲するように笑った。
「自由って」
「ええもんやと思っとった」
「実際」
「気楽や」
「命令されへん」
「好きな時に戦える」
「嫌なら逃げられる」
「せやけど」
「どこ行っても」
「自分が要る場所やない」
「自分がおっても」
「おらんでも」
「変わらん場所ばっかりや」
華論たちは。
黙っていた。
時雨も。
言葉を挟まない。
霞が。
黒山を離れてから。
何を見たのか。
何を失ったのか。
話すまで待った。
「燕がおった頃は」
霞は。
時雨を見る。
「うちが戦う意味」
「考えんでも分かった」
「時雨が」
「守りたい奴がおって」
「うちは」
「邪魔する敵を斬る」
「勝ったら」
「帰る場所があった」
「酒飲む相手がおった」
「次の日も」
「同じ旗の下におる奴がおった」
「でも」
「燕は終わった」
「ああ」
「うちが選んで出ていった」
「ああ」
「お前は止めへんかった」
「ああ」
「ちょっとくらい」
霞は。
苦笑する。
「止めてほしかったんやけどな」
時雨の目が。
僅かに動く。
「言わなかっただろ」
「言えるかいな」
「なんで」
「格好悪いやろ」
「霞が?」
「そこ疑うとこちゃうやろ!」
霞の声が天幕へ響く。
華論が。
小さく笑う。
柳琳は。
穏やかな目で二人を見ていた。
時雨は。
霞から視線を外さない。
「止めても」
「出ただろ」
「まあな」
霞は答える。
「でも」
「止められたことは」
「残ったかもしれん」
時雨は。
その言葉を受け止める。
時雨は。
燕を解体した時。
皆へ自由を与えた。
自分へ従えとは言わなかった。
好きな道を選べ。
そう命じた。
それが。
正しいと思っていた。
だが。
自由にすることと。
突き放すことは。
似ている。
選ばせることへ責任を持たず。
好きにしろと言えば。
相手は。
自分が必要とされていないと。
感じることもある。
霞は。
そうだったのかもしれない。
燕がなくなり。
時雨が。
魏へ行くと決めた。
自分も来いと。
言われなかった。
だから。
霞は。
自分が。
時雨の新しい道には必要ないのだと。
考えた。
「悪かった」
時雨が言う。
霞の顔が止まる。
「……何がや」
「止めなかった」
「なんや急に」
「俺は」
時雨は。
静かに続ける。
「皆が」
「自分で決めるべきだと思った」
「俺が」
「燕を終わらせたのに」
「また俺へ従えって言うのは」
「違うと思った」
「ああ」
「でも」
「霞が」
「俺に言われるのを待ってたなら」
「気づかなかった」
霞は。
何も言えなかった。
時雨が。
自分の非を。
こうして言葉にする。
黒山にいた頃なら。
なかったことではない。
だが。
滅多になかった。
間違いを認めても。
多くは。
次の行動で示した。
言葉にする前に。
一人で背負った。
今の時雨は。
違う。
自分の見落としを。
相手へ伝える。
「ほんま」
霞が。
小さく笑う。
「変わったなあ」
「そうか」
「前やったら」
「黙って酒持ってきて終わりや」
「それでよかっただろ」
「よくないわ!」
「飲んでた」
「飲むけど!」
霞は。
声を上げた。
だが。
その目は。
少し赤くなっていた。
泣く女ではない。
少なくとも。
人前では。
時雨は。
気づかないふりをした。
霞も。
目元を拭わない。
そのまま。
時雨を見た。
「それで」
霞が言う。
「今さら」
「止めるんか?」
「止めない」
「なんやねん!」
霞が机を叩く。
「さっきの話」
「何やったんや!」
「昔の話だ」
「今は違う」
「何が違うんや!」
時雨は。
霞の目を見る。
「今は」
「勧誘する」
天幕の中が。
静まり返った。
霞の表情から。
怒りが消える。
「……何て?」
「霞」
時雨は。
真名を呼ぶ。
「俺と来い」
短い言葉。
飾りはない。
遠回しでもない。
命令でもない。
だが。
時雨が。
張遼を必要としている。
それだけは。
はっきり伝わる言葉だった。
霞は。
しばらく動かなかった。
「どこへ」
やがて。
低い声で尋ねる。
「涼州」
「それから」
「魏」
「うちに」
「曹操へ仕えろ言うんか」
「ああ」
「燕やない」
「ああ」
「お前の国でもない」
「ああ」
「それでも?」
「それでも」
時雨は。
迷わず答える。
「俺は今」
「魏の将だ」
「曹操のために戦う」
「霞にも」
「そうしてほしい」
霞は。
目を細くする。
「時雨のためやなく?」
「俺のためでもある」
「どっちやねん」
「両方だ」
時雨は。
机上の涼州地図へ手を置いた。
「涼州軍は」
「騎兵が強い」
「春蘭は正面から壊せる」
「秋蘭は止められる」
「華論は軍をまとめる」
「でも」
「敵と同じ速さで」
「敵の騎兵を追える将が足りない」
霞の目が。
地図へ向く。
「うちを」
「騎兵隊の将にするんか」
「ああ」
「魏軍の?」
「ああ」
「何人や」
「まだ決めてない」
「そこは決めとけや!」
「霞を見つけてなかった」
「見つけたから決める」
「無茶苦茶やな」
「できるか」
霞は。
すぐに答えなかった。
立てかけてある。
飛龍偃月刀を見る。
その武器を握り。
何度も時雨のために戦った。
山道。
谷。
雪。
夜襲。
撤退戦。
霞の騎馬隊は。
時雨が描いた道を。
誰より速く走った。
「うちは」
霞が言う。
「魏の軍律なんか知らんで」
「覚えろ」
「礼儀もない」
「知ってる」
「命令無視するかもしれん」
「理由があれば聞く」
「面白そうな敵見つけたら」
「勝手に追うかもしれん」
「止める」
「止まらんかったら?」
「馬を奪う」
霞は。
一瞬。
黙る。
そして。
大きく笑った。
「やっぱり」
「時雨やな!」
笑い声。
天幕の外まで聞こえるほど。
霞は。
腹を抱える。
目元に浮かんでいたものも。
そのまま笑いへ変わった。
「うちの馬奪う言える奴」
「お前くらいや!」
「追わなければ奪わない」
「追う前提やんけ!」
「霞だからな」
「信用ないなあ!」
「ある」
時雨は答える。
霞の笑いが。
僅かに止まる。
「あるから」
時雨は続ける。
「来いと言ってる」
「霞なら」
「魏軍の騎兵を預けられる」
「俺の命令で」
「敵の横へ回れる」
「危なくなれば」
「帰ってこられる」
「兵を」
「連れて帰れる」
「それができる将を」
「俺は知ってる」
「霞だ」
霞は。
もう笑わなかった。
その言葉を。
一つずつ。
受け取っている。
戦が強いから。
武勇があるから。
名前が知られているから。
それだけではない。
兵を連れて帰れる。
時雨にとって。
それは。
将へ向ける。
最も大きな信頼だった。
霞は。
顔を伏せる。
紫の髪が。
その表情を少し隠す。
「ずるいわ」
「何が」
「そんなん言われたら」
霞は。
小さく息を吐く。
「断りにくいやろ」
「断るのか」
「まだ答えてへん」
「早く決めろ」
「急かすなや!」
霞は顔を上げる。
そこには。
もう迷いより。
いつもの強い光があった。
「一つ聞く」
「何だ」
「時雨」
霞は。
まっすぐ問いかける。
「お前は」
「曹操に」
「ほんまに従っとるんか」
「ああ」
「利用されとるだけやないんか」
「違う」
「言い切れるんか」
「ああ」
時雨は。
迷わなかった。
「俺が選んだ」
「曹操は」
「俺に命令する」
「だが」
「俺の考えも聞く」
「間違ってると思えば」
「反対していいと言ってる」
「俺が」
「曹操を捨てないと決めた」
「だから従ってる」
霞は。
時雨の顔を見る。
嘘ではない。
脅されてもいない。
縛られてもいない。
時雨自身が。
選び。
そこへ立っている。
「曹操は」
霞が尋ねる。
「お前のこと」
「何や思っとる」
「魏の将」
「それだけか?」
「私のものだと言う」
霞の目が。
細くなる。
「……何やて?」
「守る側へ置くって意味だ」
「ほんまか?」
「ああ」
「時雨」
華論が。
少し困った顔で言う。
「その説明だけだと」
「余計ややこしくなるっす」
「事実だ」
「事実でも言い方あるっす!」
霞は。
時雨をじっと見ていた。
そして。
口元を上げる。
「なるほどなあ」
「何が」
「いや」
「おもろいことになっとるな思て」
「何が面白い」
「その曹操に」
「会わせてや」
時雨の眉が。
僅かに動く。
「今?」
「今や」
「忙しい」
「時雨を総大将にするくらいや」
「うち一人会う時間くらい作れるやろ」
栄華が。
静かに口を挟む。
「華琳様へお目通りを願うのであれば」
「正式な手続きを」
「分かった分かった」
霞は手を振る。
「ほんなら」
「その正式な何とかしてや」
「時雨」
栄華が見る。
時雨は。
少し考える。
霞を。
魏へ勧誘する。
なら。
最後に決めるのは。
曹操だ。
総大将として。
連れていきたい将を選ぶ。
そう言われた。
だが。
魏の将になるなら。
曹操の前へ出なければならない。
「曹操へ伝える」
時雨が言う。
霞は。
満足そうに頷いた。
「頼むわ」
「その前に」
「何や」
「答え」
霞は。
少しだけ目を見開く。
「来るのか」
時雨が尋ねる。
「まだ曹操に会ってへん」
「会った後で断るのか」
「それは」
「分からん」
「今決めろ」
「お前」
霞は。
呆れた顔をする。
「勧誘下手になったな」
「前からだ」
「前は」
「黙って戦場連れてったやろ」
「ついてきた」
「説明なかったやん!」
「それでも来た」
「来たけど!」
霞は。
頭を掻く。
面倒そうに。
それでも。
口元へ笑みを浮かべる。
「ほんなら」
「仮や」
「仮?」
「曹操に会って」
「気に食わんかったら」
「出ていく」
「それでええなら」
「涼州まで」
「お前についてったる」
時雨は。
霞を見る。
「仮でいい」
「ええんか?」
「ああ」
「戦えば分かる」
「何が」
「霞が」
「魏にいるべきか」
「俺と一緒に戦えるか」
「涼州で」
「確かめればいい」
霞は。
目を細くした。
「ほんま」
「変わらんな」
「変わったと言っただろ」
「変わったけど」
「変わらん」
霞は笑う。
「せやから」
「ついてったる」
時雨は。
短く頷いた。
「ああ」
「頼む」
その瞬間。
天幕の中に。
新しい将が。
加わった。
まだ。
正式な魏将ではない。
将符も。
官位もない。
だが。
時雨の中では。
すでに決まっていた。
涼州征討軍。
騎馬隊の先頭。
敵の騎兵を追い。
側面を裂き。
退路を確保する者。
張遼。
真名。
霞。
かつて。
燕国の飛将と呼ばれた女。
---
曹操への謁見は。
その日の夕刻に行われた。
王宮の一室。
曹操は。
報告を受けると。
予定を少しだけ動かした。
時雨が。
連れていきたい将を見つけた。
しかも。
それが張遼だと知ると。
すぐに会うと答えた。
部屋には。
曹操。
時雨。
霞。
そして。
護衛として春蘭と秋蘭。
軍師として稟。
記録役として華論。
桂花は。
河北の役人との会合があり。
風は。
許昌外の情報網を確認するため不在。
栄華と柳琳も。
軍営へ残っている。
霞は。
部屋へ入るなり。
曹操を見た。
小柄。
美しい金髪。
堂々とした姿。
椅子へ座っているだけで。
部屋の中心が。
そこへ定まる。
霞は。
多くの主を見てきた。
戦場で。
酒場で。
客将として。
護衛として。
偉そうに振る舞う者。
強さを見せつける者。
金と兵を誇る者。
だが。
曹操は。
何も誇っていない。
自分が。
この場所の主であることを。
疑っていないだけだった。
「あなたが張遼ね」
曹操が言う。
「せや」
春蘭の眉が。
激しく動く。
「貴様!」
「華琳様へ何という口の利き方だ!」
霞は。
春蘭を見る。
「なんや」
「自分が夏侯惇か」
「私を知っているのか」
「酒場で聞いた」
「時雨に剣で負けた奴やろ」
春蘭の顔が。
真っ赤になる。
「貴様!」
「表へ出ろ!」
「ええで」
霞は。
楽しそうに飛龍偃月刀へ手を伸ばす。
「ちょうど」
「魏の将がどんだけ強いか」
「見たかったとこや」
「望むところだ!」
「春蘭」
曹操が呼ぶ。
春蘭の動きが止まる。
「……はい、華琳様」
「座りなさい」
「ですが!」
「座りなさい」
「御意……」
春蘭は。
不満を隠せないまま。
元の位置へ戻る。
霞が。
時雨へ小声で言う。
「おもろい奴やな」
「聞こえているぞ!」
「聞こえるよう言うたんや」
「霞」
時雨が止める。
「何や」
「後にしろ」
「後ならええんか」
「訓練場でやれ」
「時雨!」
春蘭が再び怒鳴る。
秋蘭は。
静かに額へ手を当てた。
曹操は。
僅かに笑みを浮かべている。
「張遼」
「霞でええ」
部屋が静まる。
曹操の目が。
少し細くなる。
真名を。
自分から許す。
それは。
好意か。
豪胆さか。
あるいは。
形式を気にしていないだけか。
「真名を」
曹操が言う。
「私へ預けるの?」
「時雨が仕えとる主や」
霞は答える。
「それに」
「うちを使うか決めるんやろ」
「名前隠して話す方が」
「面倒や」
曹操は。
しばらく霞を見る。
「分かったわ」
「では」
「霞」
「あなたも」
「私を曹操と呼ぶつもり?」
霞は。
時雨を見る。
「こいつはそう呼んどるんやろ?」
「時雨は特別よ」
曹操は即答した。
霞の口元が。
面白そうに上がる。
春蘭と秋蘭の視線が。
僅かに曹操へ向く。
時雨は。
特に反応しない。
「ほんなら」
霞は考える。
「華琳様、でええんか」
「ええ」
曹操は。
満足そうに頷いた。
「魏の将たちは」
「皆そう呼ぶわ」
「まだ魏の将やないけどな」
「そうね」
曹操は。
霞を真っ直ぐ見る。
「時雨から」
「あなたを涼州征討軍へ加えたいと聞いた」
「うちも」
「仮でついてく言うた」
「仮?」
「華琳様が」
「気に食わんかったらやめる」
春蘭が。
再び反応する。
だが。
曹操が先に口を開いた。
「構わないわ」
今度は。
霞が驚いた。
「ええんか?」
「私も」
「あなたが気に入らなければ」
「正式には任じないもの」
曹操は微笑む。
「互いに」
「見極めればよいでしょう?」
霞の目が。
少し変わる。
気に入らなければ去れ。
そう突き放すのではない。
自分も選ぶ。
お前も選べ。
対等とは違う。
主と将。
立場は明確。
だが。
霞の意思を。
最初から奪おうとはしない。
「おもろいな」
霞が呟く。
「何が?」
「時雨が」
「ここ選んだ理由」
「ちょっと分かった気するわ」
曹操の目が。
僅かに柔らかくなる。
「そう」
「なら」
「私からも聞きましょう」
「あなたは」
「何のために戦う?」
霞は。
少し黙った。
以前なら。
面白いから。
そう答えた。
強い相手と戦いたい。
自分の力を試したい。
酒をうまく飲みたい。
それでよかった。
だが。
今。
その答えだけでは。
足りないことを知っている。
「まだ」
霞は答える。
「分からん」
春蘭の眉が寄る。
稟は。
黙って霞を見る。
曹操は。
続きを待った。
「戦うんは好きや」
霞は言う。
「強い奴と斬り合うんも」
「騎馬で敵陣抜けるんも」
「勝って酒飲むんも好きや」
「せやけど」
「それだけで」
「どこまでも行けるとは」
「今は思ってへん」
「なら」
曹操が尋ねる。
「何を探しているの」
「帰る場所」
霞は。
少し照れたように笑う。
「かもしれんな」
時雨の目が。
僅かに動く。
曹操は。
霞の答えを。
笑わなかった。
「魏が」
「その場所になると思う?」
「分からん」
「時雨がおる」
「今んとこ」
「それだけや」
「十分ね」
曹操は。
静かに言う。
「最初は」
「それだけで」
霞は。
曹操を見る。
「華琳様は」
「うちに何させたい」
「涼州軍の騎兵を破る」
曹操は即答した。
「馬騰軍は」
「騎馬の機動力を使い」
「正面を避け」
「側面と補給路を狙うでしょう」
「魏軍の中で」
「それを追い」
「同じ速度で戦える将が必要」
「時雨は」
「あなたならできると言った」
霞は。
時雨を見る。
「言うたな」
「ああ」
「うちが失敗したら?」
「時雨の責任」
曹操が答える。
時雨の眉が。
僅かに動く。
「曹操」
「何?」
「霞の責任でもある」
「当然よ」
曹操は。
僅かに笑う。
「でも」
「霞を選ぶのは時雨」
「時雨を総大将へしたのは私」
「責任は」
「上へも繋がる」
霞は。
そのやり取りを見ていた。
主が。
将へすべてを押しつけない。
将も。
主へすべてを任せない。
互いに。
自分の分を持つ。
黒山とは違う。
時雨一人へ。
すべてが集まっていた燕とは違う。
「ええ国やな」
霞が呟く。
春蘭が。
即座に胸を張る。
「当然だ!」
「華琳様の国だからな!」
「春蘭」
「はい!」
「あなたが誇ることではないわ」
「なぜです!」
霞が。
また笑った。
「ほんま」
「おもろいなあ」
曹操は。
机の上へ。
一枚の木札を置いた。
まだ。
正式な将符ではない。
仮任命を示す札。
「張遼」
曹操の声が。
少しだけ改まる。
「涼州征討が終わるまで」
「あなたを」
「魏軍客将として迎える」
「騎馬軍を預けるかは」
「訓練と実戦で判断する」
「異論は?」
霞は。
木札を見る。
燕の将軍だった時。
時雨から。
正式な任命を受けたことはない。
いつの間にか。
兵が集まり。
いつの間にか。
将と呼ばれていた。
黒山では。
それでよかった。
だが。
魏では。
誰が。
何を任せるか。
言葉と形で示す。
霞は。
木札へ手を伸ばした。
「異論なしや」
それを受け取り。
少し重さを確かめる。
「涼州まで」
「時雨についてく」
「ほんで」
「魏が」
「うちの帰る場所になるか」
「見させてもらうわ」
曹操は頷く。
「ええ」
「見極めなさい」
「ただし」
「何や」
「魏軍へいる間は」
「軍律へ従うこと」
霞の顔が。
露骨に曇る。
「どこまで?」
「すべてよ」
「勝手な出撃は禁止」
「略奪禁止」
「捕虜への私刑禁止」
「命令なく隊を離れることも禁止」
「酒は?」
「出陣中は制限する」
「帰るわ」
霞は。
木札を机へ戻そうとする。
時雨が。
その手首を掴んだ。
「待て」
「酒あかんのやろ?」
「禁止とは言ってない」
「制限や」
「同じや!」
「違う」
「どんくらい飲める」
曹操は。
呆れたように息を吐く。
「任務へ支障が出ない範囲」
「曖昧やな」
「霞」
時雨が言う。
「飲んでいい」
「時雨!」
曹操の声が響く。
「任務の後なら」
時雨は続ける。
「最初からそう言いなさい!」
曹操が怒る。
霞は。
木札を握りしめたまま。
声を上げて笑った。
「よっしゃ!」
「ほんなら決まりや!」
「時雨」
霞は。
立ち上がる。
「うちを使うんやったら」
「一番速い馬と」
「一番強い奴」
「用意しとけ」
「馬は用意する」
「強い奴は」
時雨は。
春蘭を見る。
春蘭の目が。
鋭く光る。
霞も。
同じ方向を見る。
「なるほど」
霞が笑う。
「おるやん」
「すぐそこに」
春蘭は。
剣の柄へ手をかける。
「今度こそ表へ出ろ!」
「望むところや!」
「二人とも」
曹操が止める。
「今は駄目よ」
春蘭と霞が。
同時に曹操を見る。
「なぜです、華琳様!」
「なんでや!」
「日が落ちるわ」
「明日の朝」
曹操は。
二人を見比べる。
「訓練場で」
「正式に試合を許可する」
二人の表情が。
同時に明るくなる。
「御意!」
「話分かるやん、華琳様!」
「ただし」
曹操は続ける。
「時雨が立会人」
時雨の顔が曇る。
「なぜ俺だ」
「総大将でしょう?」
「二人が怪我をしないように」
「止めなさい」
「無理だ」
「止めるのよ」
霞が。
時雨の肩を叩く。
「頼んだで」
「霞が止まれ」
「無理や」
「なら試合をするな」
「それはもっと無理や」
春蘭も頷く。
「その通りだ!」
「同意するな」
秋蘭は。
静かに息を吐いた。
稟は。
すでに。
明日の予定へ。
試合の項目を書き加えている。
曹操は。
騒がしくなる部屋の中で。
時雨と霞を見ていた。
燕国を解いた日。
別々の道へ進んだ二人。
一人は。
魏へ入り。
曹操の将となった。
一人は。
どこにも属さず。
戦場から戦場へ流れた。
その二人が。
涼州を前に。
再び並ぶ。
それは。
燕が戻るということではない。
過去へ帰ることでもない。
終わった国を。
作り直すのではない。
別々の道を歩いた二人が。
新しい場所で。
もう一度。
共に戦うことを選ぶ。
過去に縛られず。
過去を捨てず。
その先へ進む。
曹操は。
それを。
悪くないと思った。
---
翌朝。
許昌の訓練場には。
多くの兵が集まっていた。
噂は。
一晩で広がった。
涼州征討軍へ。
新しい客将が入った。
張遼。
かつて。
燕国の飛将と呼ばれた女。
その張遼が。
魏の夏侯惇と試合をする。
兵たちは。
見ずにはいられない。
時雨は。
訓練場の中央へ立っていた。
その左右。
春蘭。
霞。
春蘭は木剣。
霞は。
飛龍偃月刀と同じ重さに作られた。
訓練用の長柄武器。
二人とも。
朝から。
異様に機嫌がいい。
「決まりは」
時雨が言う。
「寸止め」
「無理だ」
春蘭が答える。
「無理やな」
霞も答える。
「なら」
「鎧を着けろ」
「動きにくい」
「重いわ」
「怪我するぞ」
「せん!」
「せえへん!」
息まで合っている。
時雨は。
小さく息を吐いた。
「どちらかが倒れたら終わり」
「ああ!」
「分かった!」
「追撃なし」
二人は答えない。
「返事」
「分かった!」
「分かったわ!」
明らかに。
分かっていない。
時雨は。
周囲を見る。
秋蘭。
華論。
柳琳。
稟。
さらに。
曹操まで来ている。
桂花と風も。
少し離れた場所から見ていた。
栄華は。
壊される可能性がある訓練設備の費用を。
すでに心配している。
「始め」
時雨が言った。
次の瞬間。
二人が動いた。
春蘭の木剣。
霞の長柄。
正面から。
激突する。
乾いた音が。
訓練場へ響いた。
力。
速さ。
気迫。
春蘭は。
魏軍屈指の猛将。
霞は。
燕国の飛将。
互いに。
一歩も退かない。
木剣が。
横から霞の肩を狙う。
霞は。
長柄の中央で受ける。
そのまま。
柄を滑らせ。
先端を春蘭の足元へ払う。
春蘭が跳ぶ。
着地と同時に。
上段から斬り下ろす。
霞は。
一歩横へずれ。
長柄を回転させる。
大きな武器。
本来なら。
動きが読まれやすい。
だが。
霞は。
長さを弱点にしない。
遠心力を使い。
止めず。
次の攻撃へ繋げる。
横薙ぎ。
切り上げ。
石突き。
突き。
春蘭は。
すべてを受け。
避け。
前へ進む。
霞の間合いの内側。
そこへ入れば。
春蘭が有利。
霞は。
入らせない。
二人の攻防が。
激しくなる。
兵たちから。
歓声が上がる。
「ええやん!」
霞が叫ぶ。
「さすが魏の猛将や!」
「当然だ!」
春蘭も叫び返す。
「貴様も」
「口だけではないようだな!」
「まだ半分も出してへんで!」
「私もだ!」
明らかに。
寸止めを忘れている。
時雨は。
二人の足を見る。
次に。
武器の軌道。
霞が。
一歩踏み込む。
春蘭が。
正面から迎える。
このままでは。
互いの肩へ。
攻撃が入る。
時雨は。
二人の間へ入った。
右手で。
春蘭の木剣を掴む。
左足で。
霞の柄を踏み止める。
二人の動きが。
同時に止まった。
「終わり」
時雨が言う。
春蘭と霞は。
目を見開く。
「まだだ!」
「まだや!」
「同時に当たる」
「私の方が速い!」
「うちの方が先や!」
「両方怪我する」
「それくらい!」
「平気や!」
時雨は。
春蘭の木剣を離し。
霞の長柄から足を退ける。
「涼州へ行く前に」
「二人とも使えなくなるなら」
「次から試合は禁止」
二人は。
同時に黙った。
「それは困る」
春蘭が言う。
「困るな」
霞も言う。
「なら」
「今日は終わり」
不満そうな二人。
だが。
命令へ逆らわない。
少なくとも。
今は。
霞は。
春蘭を見る。
「決着は」
「涼州の後やな」
春蘭は。
木剣を肩へ置く。
「逃げるなよ」
「そっちこそ」
二人の間に。
敵意とは違う。
奇妙な信頼が生まれている。
強い者同士。
一度。
武器を合わせれば分かる。
こいつは。
戦場で背を預けられるか。
霞は。
春蘭を認めた。
春蘭も。
霞を認めた。
「時雨」
霞が呼ぶ。
「何だ」
「この軍」
「悪ないな」
時雨は。
霞を見る。
「まだ一日だ」
「一日で分かることもある」
霞は。
訓練場を見渡す。
春蘭。
秋蘭。
華論。
稟。
柳琳。
遠くには。
曹操。
魏の兵。
黒狼隊。
燕とは違う。
だが。
戦が終わっても。
戻ってこられる場所。
同じ旗の下で。
次の日を迎えられる場所。
ここが。
そうなるかもしれない。
「仮は」
時雨が言う。
霞が振り返る。
「いつまでだ」
「気ぃ早いな」
「決めろ」
「涼州まで言うたやろ」
「終わるまでか」
「せや」
霞は。
少し笑う。
「せやけど」
「時雨」
「何だ」
「うちの騎馬隊」
「ちゃんと用意しとけよ」
「仮だろ」
「仮でも」
「戦場立つなら本気や」
霞は。
飛龍偃月刀を肩へ担ぐ。
「お前が」
「うちなら兵を連れて帰れる言うた」
「ほんなら」
「一人も置いていかんつもりで走ったる」
時雨の目が。
僅かに細くなる。
「ああ」
「頼む」
その言葉を聞き。
霞は。
満足そうに笑った。
流浪の飛将。
張遼。
行く先を決めず。
帰る場所を持たず。
戦場から戦場へ渡り歩いていた女。
その足が。
ようやく。
一つの道へ向いた。
涼州。
乾いた大地。
馬騰の騎馬軍。
魏軍にとって。
厳しい戦になる。
だが。
時雨の隣には。
再び。
あの飛将がいる。
燕の旗は。
もうない。
黒山へ戻ることもない。
それでも。
二人が共に戦った時間は消えない。
時雨が道を選び。
霞が。
その道を誰より速く駆ける。
かつてと同じ。
だが。
かつてとは違う。
今度は。
時雨一人の国ではない。
曹操が作る魏。
多くの将が。
役目を分け。
互いへ命を預ける国。
霞は。
まだ。
その一員ではない。
客将。
仮の立場。
いつでも去れる。
だが。
去れるからこそ。
残るかどうかを。
自分で選べる。
その日。
時雨は。
失ったはずの将と再会した。
だが。
取り戻したのではない。
過去の配下へ。
戻したのでもない。
一人の将として。
今の自分の隣へ。
新しく誘った。
「俺と来い」
その言葉へ。
霞は。
自分の意思で頷いた。
燕国の将軍だった張遼は。
魏軍客将として。
再び。
時雨の軍へ加わった。
そして。
西へ向かう軍の中。
最も速く。
最も鋭い一隊が。
静かに形を持ち始めていた。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!
次の作品の主人公とルートは誰がいい?
-
高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
-
朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
-
周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
-
孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)