【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第13話 流浪の飛将――再会、張遼

外伝 第13話 流浪の飛将――再会、張遼

 

 

涼州征討軍の編制が始まってから、十日が過ぎた。

 

許昌の軍営には、朝から夜まで人と物が行き交っている。

 

集められた兵の選別。

 

部隊ごとの再編。

 

武器と防具の点検。

 

遠征に必要な兵糧、水袋、薬、馬草、天幕、荷車。

 

進軍路の候補となる街道や山道の調査。

 

馬騰へ送る使者の選定。

 

交渉が決裂した場合を想定した作戦立案。

 

涼州は遠い。

 

ただ兵を並べ、号令をかければ出陣できる戦ではなかった。

 

中原の豊かな土地とは違い、西へ進むほど水場は減り、街道は細くなる。昼は乾いた風が肌を裂き、夜は骨まで冷える。食料があっても、水が尽きれば兵は動けない。人が耐えられても、馬が倒れれば軍の足が止まる。

 

しかも、相手は馬騰。

 

涼州を長く治め、西方の騎馬軍を束ねてきた将である。

 

地の利は向こうにある。

 

兵の多くは幼い頃から馬に乗り、広い荒野を自分の庭のように駆ける。正面から追えば逃げられ、退けば背を襲われる。補給路が伸びれば、細い部分だけを切られる。

 

そのような敵を相手に、魏軍が中原と同じ戦い方をすれば、勝てたとしても多くの兵を失う。

 

だからこそ。

 

総大将となった時雨は、出陣前の準備に時間を使っていた。

 

使わされていた、と言った方が正確かもしれない。

 

「時雨様」

 

軍営の中央に設けられた大天幕。

 

その中で、華論が分厚い竹簡を抱えて立っていた。

 

「昨日頼まれた部隊編制案っす」

 

「ああ」

 

「歩兵三万二千、騎兵一万、弓兵八千、工兵三千、輸送と医療を合わせて五千っす」

 

時雨は机の上へ広げられた名簿を見る。

 

文字が多い。

 

非常に多い。

 

部隊名。

 

兵数。

 

隊長。

 

副長。

 

出身地。

 

旧所属。

 

使用武器。

 

騎乗経験。

 

長期遠征経験。

 

負傷歴。

 

過去に涼州や関中へ行ったことがある者には、別の印まで付けられている。

 

「全部読むのか」

 

「総大将なんだから当然っす」

 

「華論が読んだだろ」

 

「私は整理したっす」

 

「なら問題ない」

 

「あるっすよ!」

 

華論が机へ両手をつく。

 

金色の髪を結んだ横髪が、その勢いで揺れた。

 

「最終的に決めるのは時雨っす!」

 

「華論の案でいい」

 

「そう言って」

 

華論は目を細くした。

 

「後で急に変えるつもりっすね?」

 

「必要なら」

 

「ほら!」

 

天幕の端では、栄華が帳簿を確認していた。

 

その手が止まる。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「必要なら、ではありませんわ」

 

栄華は扇を閉じ、時雨へ向き直る。

 

「部隊を一つ動かすだけでも、兵糧と馬草の配分が変わります」

 

「分かってる」

 

「分かっている方は、華論が十日かけて作った編制を、必要ならの一言では崩しません」

 

「崩す時は先に言う」

 

「いつ」

 

「崩す前」

 

「当たり前ですわ!」

 

柳琳が、少し離れた場所で苦笑している。

 

負傷兵用の薬と包帯を確認していた彼女は、二人へ湯を入れた杯を差し出した。

 

「少し休んではどうですか」

 

「まだ始めたばかりっすよ」

 

華論が答える。

 

「時雨がちゃんと竹簡を読むまで、休めないっす」

 

「読んでる」

 

「一枚目から進んでないっす」

 

「兵数は分かった」

 

「名前も見てほしいっす!」

 

「戦場で全員の名は呼べない」

 

「そういう問題じゃないっす!」

 

時雨は小さく息を吐く。

 

総大将となってから。

 

軍議が増えた。

 

竹簡も増えた。

 

確認することも増えた。

 

黒山では、自分の目で見た。

 

砦を歩き。

 

兵と話し。

 

食料庫を確かめ。

 

道を覚えた。

 

誰が速く走れる。

 

誰が弓を使える。

 

誰が臆病で。

 

誰が無茶をする。

 

書かれていなくても分かった。

 

だが。

 

今回率いる兵は、五万を超える。

 

一人ずつ会うことはできない。

 

だから。

 

文字で見る。

 

報告を聞く。

 

他人の目を借りる。

 

それが。

 

大軍を率いるということなのだろう。

 

まだ慣れない。

 

だが。

 

嫌だからと避けることはできない。

 

自分が知らないまま出した命令で。

 

誰かが死ぬ。

 

それだけは。

 

避けなければならない。

 

時雨は竹簡を手に取った。

 

二枚目へ進もうとした時。

 

天幕の外から。

 

馬の蹄の音が聞こえた。

 

一騎ではない。

 

数騎。

 

かなり速い。

 

続いて。

 

見張りの声。

 

「止まれ!」

 

「ここから先は涼州征討軍の軍営だ!」

 

少し間が空く。

 

次に聞こえたのは。

 

女の声だった。

 

「分かっとる!」

 

「せやから来た言うとるやろ!」

 

時雨の手が止まる。

 

聞き覚えのある声。

 

強く。

 

明るく。

 

騒がしい。

 

一度聞けば忘れにくい。

 

時雨は。

 

ゆっくり顔を上げた。

 

「どうしたっすか?」

 

華論が尋ねる。

 

時雨は答えず。

 

天幕の入口を見る。

 

外では。

 

見張りと女が言い争っていた。

 

「名を名乗れ!」

 

「さっきから名乗っとるやろ!」

 

「張遼や!」

 

「耳ついとらんのか!」

 

華論の表情が変わる。

 

栄華も。

 

柳琳も。

 

入口へ視線を向けた。

 

張遼。

 

その名を。

 

魏の将が知らないはずはない。

 

并州の出身。

 

若くして戦場へ立ち。

 

数々の軍を渡り歩いた勇将。

 

騎兵の扱いに長け。

 

長大な偃月刀を振るい。

 

敵陣へ単騎で切り込むことすら恐れない。

 

そして。

 

かつて。

 

燕国の将軍だった女。

 

黒山の張燕が。

 

百万の民と百を超える砦をまとめ。

 

一つの国として燕を名乗った時期。

 

張遼は。

 

その軍の中核を担っていた。

 

黒山の将たちの中でも。

 

時雨から離れた場所へ。

 

独立して軍を預けられた数少ない者。

 

速く。

 

強く。

 

豪胆。

 

敵へ容赦はないが。

 

降った兵を無闇に斬ることはなく。

 

酒を飲めば。

 

身分の違いも忘れて騒ぐ。

 

燕の騎馬隊を率い。

 

官軍の包囲を何度も破った。

 

黒山の者たちは。

 

彼女を。

 

飛将と呼んだ。

 

だが。

 

燕国が解体された日。

 

張遼は。

 

魏へ降らなかった。

 

時雨の命令へ反抗したわけではない。

 

魏を憎んだわけでもない。

 

ただ。

 

自分が。

 

魏の法と軍律の中で。

 

生きられるとは思えない。

 

そう言った。

 

時雨は。

 

止めなかった。

 

燕を解いた。

 

全員へ。

 

自分の道を選ばせた。

 

魏へ入る者。

 

故郷へ帰る者。

 

商人になる者。

 

農民になる者。

 

どこか別の主へ仕える者。

 

張遼は。

 

どれも選ばなかった。

 

武器と馬だけを持ち。

 

一人で山を下りた。

 

どこへ行くかも決めず。

 

ただ。

 

強い相手と戦い。

 

面白い戦場を探す。

 

そう笑って。

 

流浪の身となった。

 

それから。

 

時雨は。

 

霞と会っていない。

 

「入れろ」

 

時雨が言う。

 

天幕の外が静かになる。

 

見張りが戸惑った声を返した。

 

「ですが」

 

「知ってる奴だ」

 

「時雨様が?」

 

「ああ」

 

「通せ」

 

しばらくして。

 

天幕の布が。

 

乱暴に開かれた。

 

朝の光を背に。

 

一人の女が立っていた。

 

紫の髪。

 

長く伸びた髪を、高い位置で無造作にまとめている。旅の埃を被りながらも、その色は鮮やかだった。

 

身に着けているのは。

 

使い込まれた軽装の鎧。

 

肩や腰には細かな傷。

 

何度も直した跡がある。

 

背には。

 

身の丈を超える長大な武器。

 

幅広い刃。

 

龍を思わせる装飾。

 

飛龍偃月刀。

 

燕国の将だった頃から。

 

霞が振るい続けてきた武器。

 

女は。

 

天幕の中へ一歩入る。

 

時雨を見つけた。

 

その顔から。

 

先ほどまでの苛立ちが消える。

 

代わりに。

 

驚き。

 

懐かしさ。

 

喜び。

 

それらが混ざった笑みが浮かぶ。

 

「……ほんまにおった」

 

時雨も。

 

女を見る。

 

少し痩せた。

 

頬。

 

腕。

 

以前より。

 

余分なものが削ぎ落とされている。

 

だが。

 

目の光は変わらない。

 

「久しぶりだな」

 

時雨が言う。

 

女は。

 

数歩進んだ。

 

「久しぶりやな」

 

「時雨」

 

真名。

 

華論たちの視線が。

 

僅かに動く。

 

張遼は。

 

迷うことなく。

 

時雨の真名を呼んだ。

 

それだけで。

 

二人の関係が。

 

浅いものではないと分かる。

 

時雨も。

 

その呼び方を止めなかった。

 

「霞」

 

時雨が呼ぶ。

 

霞の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「おう」

 

短い返事。

 

それだけで。

 

長い空白が。

 

少し埋まった。

 

華論が。

 

時雨と霞を見比べる。

 

「知り合いっていうか」

 

「相当深い知り合いっすね?」

 

「ああ」

 

時雨は答える。

 

「燕の将だった」

 

「うちや」

 

霞は胸を張る。

 

「元、やけどな」

 

栄華が。

 

冷静な目で霞を見る。

 

「張遼殿」

 

「并州の飛将」

 

「燕国騎馬軍の将軍」

 

「その方で間違いありませんの?」

 

「せや」

 

霞は。

 

栄華を見る。

 

「うちのこと知っとるんか」

 

「名のある将ですもの」

 

「へえ」

 

霞は口元を上げる。

 

「魏のお嬢ちゃんは」

 

「話が分かるやん」

 

栄華の眉が。

 

僅かに上がる。

 

「お嬢ちゃん?」

 

「ちゃうんか?」

 

「時雨」

 

栄華が。

 

低い声で呼ぶ。

 

「何だ」

 

「この方へ」

 

「魏軍の礼節を説明していただけます?」

 

「無理だ」

 

即答だった。

 

霞が。

 

声を上げて笑う。

 

「相変わらずやなあ!」

 

「時雨!」

 

栄華の声が響く。

 

柳琳が。

 

慌てて間へ入る。

 

「まあまあ」

 

「遠くから来られたようですし」

 

「まずはお水を」

 

「おお」

 

霞は。

 

柳琳から差し出された杯を受け取る。

 

一息で飲み干した。

 

「助かるわ」

 

「三日くらい」

 

「まともな水飲めへんかったからな」

 

柳琳の表情が変わる。

 

「三日も?」

 

「井戸はあったんやけど」

 

「旅商人に先越されてな」

 

「馬に飲ませたら」

 

「うちの分なくなってもうた」

 

「馬を優先したのですか」

 

「そらそうや」

 

霞は当然のように答える。

 

「あいつ倒れたら」

 

「うち歩かなあかんやろ」

 

「そこですか」

 

柳琳は困ったように笑う。

 

それでも。

 

すぐに二杯目の水を注いだ。

 

「座れ」

 

時雨が言う。

 

霞は。

 

空いている椅子を見る。

 

だが。

 

すぐには座らなかった。

 

代わりに。

 

時雨の前まで歩く。

 

近い。

 

手を伸ばせば。

 

互いの肩へ届く距離。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「ほんまに」

 

霞は。

 

時雨の顔をじっと見る。

 

「曹操んとこにおるんやな」

 

「ああ」

 

「黒山も」

 

「燕も」

 

「ほんまに全部解いたんやな」

 

「ああ」

 

「未練ないんか」

 

時雨は。

 

少しだけ沈黙した。

 

ない。

 

そう言えば。

 

嘘になる。

 

燕には。

 

黒山には。

 

多くのものがあった。

 

失った者。

 

守れなかった者。

 

笑った者。

 

共に戦った者。

 

生まれた子。

 

死んだ老人。

 

作った砦。

 

焼かれた村。

 

すべて。

 

時雨の中に残っている。

 

だが。

 

戻りたいとは思わない。

 

戻れば。

 

また。

 

同じ形になる。

 

時雨一人へ。

 

すべてを集める国。

 

時雨が倒れれば。

 

崩れる国。

 

それを。

 

もう一度作るつもりはなかった。

 

「ある」

 

時雨は答える。

 

霞の眉が。

 

僅かに動く。

 

「でも」

 

「戻さない」

 

「なんでや」

 

「終わらせたからだ」

 

時雨は。

 

真っ直ぐ霞を見る。

 

「俺が」

 

「終わらせると決めた」

 

「皆に」

 

「別の道を選ばせた」

 

「今さら」

 

「俺が寂しいからって」

 

「戻せない」

 

霞は。

 

何も言わない。

 

しばらく。

 

時雨の目を見ていた。

 

やがて。

 

小さく笑う。

 

「せやな」

 

その笑みには。

 

懐かしさと。

 

少しの寂しさがあった。

 

「そういう奴やったな」

 

霞は。

 

ようやく椅子へ座る。

 

飛龍偃月刀を。

 

椅子の脇へ立てかけた。

 

華論が。

 

その大きさを見て。

 

目を丸くしている。

 

「それ」

 

「本当に振り回せるんすか?」

 

「なんや」

 

霞が笑う。

 

「試してみるか?」

 

「遠慮するっす」

 

「ええ判断や」

 

霞は。

 

気楽に答えた。

 

時雨は。

 

彼女の鎧を見る。

 

傷が多い。

 

刃によるもの。

 

矢が擦ったもの。

 

獣に付けられたような跡。

 

いずれも。

 

新しくはない。

 

しかし。

 

手入れが足りない。

 

金がなかったのだろう。

 

武器だけは。

 

よく整えられている。

 

霞らしい。

 

自分の食事より。

 

馬と武器を優先する。

 

「何をしてた」

 

時雨が尋ねる。

 

「流浪や」

 

霞は答える。

 

「それは知ってる」

 

「せやから」

 

「流浪しとったんや」

 

「どこで」

 

「并州行ったり」

 

「幽州回ったり」

 

「北の方で異民族と喧嘩したり」

 

「西の商隊を護衛したり」

 

「賊退治したり」

 

「逆に賊扱いされたり」

 

華論が。

 

最後の言葉へ反応する。

 

「何やったんすか?」

 

「関所の役人が」

 

「通行料を十倍払え言うてきたから」

 

「門ごと吹き飛ばした」

 

「賊っす!」

 

「せやけど」

 

「後で近くの村から酒もろたで」

 

「村人は喜んどった」

 

「役人が悪かったんすかね……」

 

華論が。

 

判断に困る顔をした。

 

栄華は。

 

明らかに頭痛を覚えている。

 

「通行料を払わず」

 

「関所を破壊」

 

「それを武勇談として話す」

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「本当に」

 

「この方を燕の将軍になさっていたのですか」

 

「ああ」

 

「よく国が成り立っていましたわね」

 

「うちだけやないで」

 

霞が笑う。

 

「黒山には」

 

「もっと酷い奴もぎょうさんおった」

 

「否定できない」

 

時雨が答える。

 

「否定してくださいませ!」

 

栄華の声が響いた。

 

霞は。

 

楽しそうに笑う。

 

だが。

 

その笑いが収まった後。

 

一瞬。

 

表情が空白になる。

 

流浪。

 

自由。

 

好きに戦い。

 

好きに進む。

 

霞が。

 

望んで選んだ道。

 

しかし。

 

どこにも根を張らない生き方は。

 

自由であると同時に。

 

帰る場所を持たない生き方でもある。

 

戦が終われば。

 

次へ行く。

 

酒を飲む相手ができても。

 

別れる。

 

商隊を守り。

 

町を救い。

 

名を知られても。

 

そこは。

 

霞の居場所にはならない。

 

時雨は。

 

そのことへ気づいた。

 

霞は。

 

燕を出た時。

 

笑っていた。

 

だが。

 

今日。

 

本当に偶然。

 

許昌の軍営へ来たのか。

 

「なぜここへ来た」

 

時雨が尋ねる。

 

霞は。

 

杯を口へ運ぼうとして。

 

止めた。

 

「噂聞いたんや」

 

「何の」

 

「魏が涼州攻めるって」

 

天幕の空気が。

 

僅かに変わる。

 

まだ。

 

正式な布告前。

 

軍内では。

 

準備が進んでいる。

 

だが。

 

詳細は。

 

広く知られていない。

 

「どこで聞いた」

 

栄華が尋ねる。

 

その声には。

 

魏の財務官ではなく。

 

情報流出を警戒する将の鋭さがあった。

 

霞は。

 

気にせず答える。

 

「許昌の外れの酒場や」

 

「酒場?」

 

「商人が喋っとった」

 

「関中に馬草が集められとる」

 

「長安の倉が増築されとる」

 

「西へ行く荷車の値段が上がっとる」

 

「せやから」

 

「魏が西へ大軍出すんちゃうかってな」

 

栄華は黙る。

 

秘密が漏れたわけではない。

 

大軍を動かす準備は。

 

隠し切れない。

 

物が動く。

 

人が集まる。

 

金が流れる。

 

それを見れば。

 

鋭い商人は気づく。

 

「それだけか」

 

時雨が尋ねる。

 

「もう一つ」

 

霞は。

 

時雨を見る。

 

「総大将が」

 

「黒山の張燕らしいって」

 

華論が。

 

僅かに息を呑む。

 

霞は。

 

続けた。

 

「剣で夏侯惇を倒して」

 

「弓で夏侯淵に勝って」

 

「魏の軍師三人まとめて負かした男」

 

「曹操が」

 

「そいつに涼州攻めを任せるらしい」

 

「酒場で」

 

「みんな好き勝手言うとったわ」

 

「黒山の化け物やとか」

 

「曹操を誑かした男やとか」

 

「実は山を割れるとか」

 

時雨の眉が動く。

 

「まだ残ってるのか」

 

「何がや」

 

「山を割る噂」

 

「割れへんのか?」

 

「割れない」

 

霞は。

 

少し残念そうな顔をした。

 

「なんや」

 

「昔より強なった聞いたから」

 

「できるようになったんかと思ったわ」

 

「なるか」

 

「時雨なら」

 

「そのうちやりそうやけどな」

 

「やらない」

 

霞は笑う。

 

そして。

 

時雨へ視線を戻した。

 

「せやから」

 

「見に来た」

 

「何を」

 

「お前が」

 

霞は。

 

ゆっくり言う。

 

「どんな顔で」

 

「魏の総大将やっとるんか」

 

時雨は。

 

返事をしなかった。

 

霞も。

 

すぐには続けない。

 

燕の将軍だった頃。

 

霞は。

 

時雨の命令で戦った。

 

命令だからではない。

 

時雨が。

 

誰を生かそうとしているか。

 

知っていたから。

 

どれほど無茶な策でも。

 

最後には。

 

帰る道を用意する。

 

それを信じていた。

 

だが。

 

今。

 

時雨が率いるのは。

 

燕軍ではない。

 

魏軍。

 

曹操の軍。

 

かつて燕と敵対した。

 

中原最大の国。

 

その軍の頂点へ立つ時雨を。

 

霞は。

 

自分の目で確かめに来た。

 

「見てどうだ」

 

時雨が尋ねる。

 

「変わったな」

 

霞は答える。

 

「どこが」

 

「前より」

 

「顔が面倒そうや」

 

華論が。

 

思わず吹き出した。

 

栄華も。

 

僅かに口元を押さえる。

 

時雨は。

 

無表情で霞を見る。

 

「昔も同じだ」

 

「昔はもっと酷かった」

 

「いつも」

 

「全部自分で決めて」

 

「勝手にいなくなって」

 

「帰ってきたら」

 

「傷増えとって」

 

「聞いても何も言わへん」

 

「今は」

 

霞は。

 

机の上の竹簡を見る。

 

「嫌そうな顔しながら」

 

「ちゃんと他の奴と相談しとる」

 

「成長したんやな」

 

「子供みたいに言うな」

 

「黒山おった頃は」

 

「似たようなもんやったやろ」

 

「霞よりは大人だった」

 

「なんやと?」

 

二人の視線がぶつかる。

 

しばらく。

 

無言。

 

次の瞬間。

 

霞が笑った。

 

時雨の口元も。

 

ほんの僅かに緩む。

 

天幕の中へ。

 

黒山にいた頃の空気が。

 

一瞬だけ戻った。

 

同じ火を囲み。

 

次の戦場を話し。

 

食料が足りず。

 

誰かが酒を盗み。

 

霞が騒ぎ。

 

時雨が止める。

 

失われた時間。

 

戻らない場所。

 

だが。

 

記憶まで消えたわけではない。

 

「時雨」

 

霞が言う。

 

「お前」

 

「ほんまに涼州行くんやな」

 

「ああ」

 

「馬騰と戦うんか」

 

「まだ決まってない」

 

「攻めるんちゃうんか」

 

「先に話す」

 

「話して」

 

「向こうが戦うなら」

 

「戦う」

 

霞は。

 

少し考える。

 

「相変わらずやな」

 

「何が」

 

「戦う言うて軍集めといて」

 

「戦わん道も残すとこや」

 

「あった方がいい」

 

「戦好きには」

 

「つまらんやろ」

 

「霞は」

 

「戦いたいだけか」

 

時雨の声が。

 

少し低くなる。

 

霞の笑みが。

 

僅かに薄くなった。

 

「昔は」

 

「そう思っとった」

 

「強い奴と戦って」

 

「勝って」

 

「酒飲めたら」

 

「それでええって」

 

「今は違うのか」

 

霞は。

 

杯の中を見る。

 

水面へ。

 

自分の顔が。

 

小さく映る。

 

「分からん」

 

その答えは。

 

霞らしくなかった。

 

いつも。

 

迷わない。

 

考える前に動く。

 

自分が楽しいか。

 

面白いか。

 

それで決める。

 

そんな女が。

 

分からないと口にした。

 

「流浪して」

 

霞は続ける。

 

「いろんな戦場行った」

 

「強い奴もおった」

 

「面白い戦もあった」

 

「負けかけたことも」

 

「死にかけたことも」

 

「何回もある」

 

「でも」

 

「勝っても」

 

「終わったら」

 

「次の場所探すだけや」

 

「誰か助けても」

 

「その町に残るわけやない」

 

「兵率いても」

 

「戦が終わったら解散」

 

「また一人や」

 

霞は。

 

自嘲するように笑った。

 

「自由って」

 

「ええもんやと思っとった」

 

「実際」

 

「気楽や」

 

「命令されへん」

 

「好きな時に戦える」

 

「嫌なら逃げられる」

 

「せやけど」

 

「どこ行っても」

 

「自分が要る場所やない」

 

「自分がおっても」

 

「おらんでも」

 

「変わらん場所ばっかりや」

 

華論たちは。

 

黙っていた。

 

時雨も。

 

言葉を挟まない。

 

霞が。

 

黒山を離れてから。

 

何を見たのか。

 

何を失ったのか。

 

話すまで待った。

 

「燕がおった頃は」

 

霞は。

 

時雨を見る。

 

「うちが戦う意味」

 

「考えんでも分かった」

 

「時雨が」

 

「守りたい奴がおって」

 

「うちは」

 

「邪魔する敵を斬る」

 

「勝ったら」

 

「帰る場所があった」

 

「酒飲む相手がおった」

 

「次の日も」

 

「同じ旗の下におる奴がおった」

 

「でも」

 

「燕は終わった」

 

「ああ」

 

「うちが選んで出ていった」

 

「ああ」

 

「お前は止めへんかった」

 

「ああ」

 

「ちょっとくらい」

 

霞は。

 

苦笑する。

 

「止めてほしかったんやけどな」

 

時雨の目が。

 

僅かに動く。

 

「言わなかっただろ」

 

「言えるかいな」

 

「なんで」

 

「格好悪いやろ」

 

「霞が?」

 

「そこ疑うとこちゃうやろ!」

 

霞の声が天幕へ響く。

 

華論が。

 

小さく笑う。

 

柳琳は。

 

穏やかな目で二人を見ていた。

 

時雨は。

 

霞から視線を外さない。

 

「止めても」

 

「出ただろ」

 

「まあな」

 

霞は答える。

 

「でも」

 

「止められたことは」

 

「残ったかもしれん」

 

時雨は。

 

その言葉を受け止める。

 

時雨は。

 

燕を解体した時。

 

皆へ自由を与えた。

 

自分へ従えとは言わなかった。

 

好きな道を選べ。

 

そう命じた。

 

それが。

 

正しいと思っていた。

 

だが。

 

自由にすることと。

 

突き放すことは。

 

似ている。

 

選ばせることへ責任を持たず。

 

好きにしろと言えば。

 

相手は。

 

自分が必要とされていないと。

 

感じることもある。

 

霞は。

 

そうだったのかもしれない。

 

燕がなくなり。

 

時雨が。

 

魏へ行くと決めた。

 

自分も来いと。

 

言われなかった。

 

だから。

 

霞は。

 

自分が。

 

時雨の新しい道には必要ないのだと。

 

考えた。

 

「悪かった」

 

時雨が言う。

 

霞の顔が止まる。

 

「……何がや」

 

「止めなかった」

 

「なんや急に」

 

「俺は」

 

時雨は。

 

静かに続ける。

 

「皆が」

 

「自分で決めるべきだと思った」

 

「俺が」

 

「燕を終わらせたのに」

 

「また俺へ従えって言うのは」

 

「違うと思った」

 

「ああ」

 

「でも」

 

「霞が」

 

「俺に言われるのを待ってたなら」

 

「気づかなかった」

 

霞は。

 

何も言えなかった。

 

時雨が。

 

自分の非を。

 

こうして言葉にする。

 

黒山にいた頃なら。

 

なかったことではない。

 

だが。

 

滅多になかった。

 

間違いを認めても。

 

多くは。

 

次の行動で示した。

 

言葉にする前に。

 

一人で背負った。

 

今の時雨は。

 

違う。

 

自分の見落としを。

 

相手へ伝える。

 

「ほんま」

 

霞が。

 

小さく笑う。

 

「変わったなあ」

 

「そうか」

 

「前やったら」

 

「黙って酒持ってきて終わりや」

 

「それでよかっただろ」

 

「よくないわ!」

 

「飲んでた」

 

「飲むけど!」

 

霞は。

 

声を上げた。

 

だが。

 

その目は。

 

少し赤くなっていた。

 

泣く女ではない。

 

少なくとも。

 

人前では。

 

時雨は。

 

気づかないふりをした。

 

霞も。

 

目元を拭わない。

 

そのまま。

 

時雨を見た。

 

「それで」

 

霞が言う。

 

「今さら」

 

「止めるんか?」

 

「止めない」

 

「なんやねん!」

 

霞が机を叩く。

 

「さっきの話」

 

「何やったんや!」

 

「昔の話だ」

 

「今は違う」

 

「何が違うんや!」

 

時雨は。

 

霞の目を見る。

 

「今は」

 

「勧誘する」

 

天幕の中が。

 

静まり返った。

 

霞の表情から。

 

怒りが消える。

 

「……何て?」

 

「霞」

 

時雨は。

 

真名を呼ぶ。

 

「俺と来い」

 

短い言葉。

 

飾りはない。

 

遠回しでもない。

 

命令でもない。

 

だが。

 

時雨が。

 

張遼を必要としている。

 

それだけは。

 

はっきり伝わる言葉だった。

 

霞は。

 

しばらく動かなかった。

 

「どこへ」

 

やがて。

 

低い声で尋ねる。

 

「涼州」

 

「それから」

 

「魏」

 

「うちに」

 

「曹操へ仕えろ言うんか」

 

「ああ」

 

「燕やない」

 

「ああ」

 

「お前の国でもない」

 

「ああ」

 

「それでも?」

 

「それでも」

 

時雨は。

 

迷わず答える。

 

「俺は今」

 

「魏の将だ」

 

「曹操のために戦う」

 

「霞にも」

 

「そうしてほしい」

 

霞は。

 

目を細くする。

 

「時雨のためやなく?」

 

「俺のためでもある」

 

「どっちやねん」

 

「両方だ」

 

時雨は。

 

机上の涼州地図へ手を置いた。

 

「涼州軍は」

 

「騎兵が強い」

 

「春蘭は正面から壊せる」

 

「秋蘭は止められる」

 

「華論は軍をまとめる」

 

「でも」

 

「敵と同じ速さで」

 

「敵の騎兵を追える将が足りない」

 

霞の目が。

 

地図へ向く。

 

「うちを」

 

「騎兵隊の将にするんか」

 

「ああ」

 

「魏軍の?」

 

「ああ」

 

「何人や」

 

「まだ決めてない」

 

「そこは決めとけや!」

 

「霞を見つけてなかった」

 

「見つけたから決める」

 

「無茶苦茶やな」

 

「できるか」

 

霞は。

 

すぐに答えなかった。

 

立てかけてある。

 

飛龍偃月刀を見る。

 

その武器を握り。

 

何度も時雨のために戦った。

 

山道。

 

谷。

 

雪。

 

夜襲。

 

撤退戦。

 

霞の騎馬隊は。

 

時雨が描いた道を。

 

誰より速く走った。

 

「うちは」

 

霞が言う。

 

「魏の軍律なんか知らんで」

 

「覚えろ」

 

「礼儀もない」

 

「知ってる」

 

「命令無視するかもしれん」

 

「理由があれば聞く」

 

「面白そうな敵見つけたら」

 

「勝手に追うかもしれん」

 

「止める」

 

「止まらんかったら?」

 

「馬を奪う」

 

霞は。

 

一瞬。

 

黙る。

 

そして。

 

大きく笑った。

 

「やっぱり」

 

「時雨やな!」

 

笑い声。

 

天幕の外まで聞こえるほど。

 

霞は。

 

腹を抱える。

 

目元に浮かんでいたものも。

 

そのまま笑いへ変わった。

 

「うちの馬奪う言える奴」

 

「お前くらいや!」

 

「追わなければ奪わない」

 

「追う前提やんけ!」

 

「霞だからな」

 

「信用ないなあ!」

 

「ある」

 

時雨は答える。

 

霞の笑いが。

 

僅かに止まる。

 

「あるから」

 

時雨は続ける。

 

「来いと言ってる」

 

「霞なら」

 

「魏軍の騎兵を預けられる」

 

「俺の命令で」

 

「敵の横へ回れる」

 

「危なくなれば」

 

「帰ってこられる」

 

「兵を」

 

「連れて帰れる」

 

「それができる将を」

 

「俺は知ってる」

 

「霞だ」

 

霞は。

 

もう笑わなかった。

 

その言葉を。

 

一つずつ。

 

受け取っている。

 

戦が強いから。

 

武勇があるから。

 

名前が知られているから。

 

それだけではない。

 

兵を連れて帰れる。

 

時雨にとって。

 

それは。

 

将へ向ける。

 

最も大きな信頼だった。

 

霞は。

 

顔を伏せる。

 

紫の髪が。

 

その表情を少し隠す。

 

「ずるいわ」

 

「何が」

 

「そんなん言われたら」

 

霞は。

 

小さく息を吐く。

 

「断りにくいやろ」

 

「断るのか」

 

「まだ答えてへん」

 

「早く決めろ」

 

「急かすなや!」

 

霞は顔を上げる。

 

そこには。

 

もう迷いより。

 

いつもの強い光があった。

 

「一つ聞く」

 

「何だ」

 

「時雨」

 

霞は。

 

まっすぐ問いかける。

 

「お前は」

 

「曹操に」

 

「ほんまに従っとるんか」

 

「ああ」

 

「利用されとるだけやないんか」

 

「違う」

 

「言い切れるんか」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

迷わなかった。

 

「俺が選んだ」

 

「曹操は」

 

「俺に命令する」

 

「だが」

 

「俺の考えも聞く」

 

「間違ってると思えば」

 

「反対していいと言ってる」

 

「俺が」

 

「曹操を捨てないと決めた」

 

「だから従ってる」

 

霞は。

 

時雨の顔を見る。

 

嘘ではない。

 

脅されてもいない。

 

縛られてもいない。

 

時雨自身が。

 

選び。

 

そこへ立っている。

 

「曹操は」

 

霞が尋ねる。

 

「お前のこと」

 

「何や思っとる」

 

「魏の将」

 

「それだけか?」

 

「私のものだと言う」

 

霞の目が。

 

細くなる。

 

「……何やて?」

 

「守る側へ置くって意味だ」

 

「ほんまか?」

 

「ああ」

 

「時雨」

 

華論が。

 

少し困った顔で言う。

 

「その説明だけだと」

 

「余計ややこしくなるっす」

 

「事実だ」

 

「事実でも言い方あるっす!」

 

霞は。

 

時雨をじっと見ていた。

 

そして。

 

口元を上げる。

 

「なるほどなあ」

 

「何が」

 

「いや」

 

「おもろいことになっとるな思て」

 

「何が面白い」

 

「その曹操に」

 

「会わせてや」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「今?」

 

「今や」

 

「忙しい」

 

「時雨を総大将にするくらいや」

 

「うち一人会う時間くらい作れるやろ」

 

栄華が。

 

静かに口を挟む。

 

「華琳様へお目通りを願うのであれば」

 

「正式な手続きを」

 

「分かった分かった」

 

霞は手を振る。

 

「ほんなら」

 

「その正式な何とかしてや」

 

「時雨」

 

栄華が見る。

 

時雨は。

 

少し考える。

 

霞を。

 

魏へ勧誘する。

 

なら。

 

最後に決めるのは。

 

曹操だ。

 

総大将として。

 

連れていきたい将を選ぶ。

 

そう言われた。

 

だが。

 

魏の将になるなら。

 

曹操の前へ出なければならない。

 

「曹操へ伝える」

 

時雨が言う。

 

霞は。

 

満足そうに頷いた。

 

「頼むわ」

 

「その前に」

 

「何や」

 

「答え」

 

霞は。

 

少しだけ目を見開く。

 

「来るのか」

 

時雨が尋ねる。

 

「まだ曹操に会ってへん」

 

「会った後で断るのか」

 

「それは」

 

「分からん」

 

「今決めろ」

 

「お前」

 

霞は。

 

呆れた顔をする。

 

「勧誘下手になったな」

 

「前からだ」

 

「前は」

 

「黙って戦場連れてったやろ」

 

「ついてきた」

 

「説明なかったやん!」

 

「それでも来た」

 

「来たけど!」

 

霞は。

 

頭を掻く。

 

面倒そうに。

 

それでも。

 

口元へ笑みを浮かべる。

 

「ほんなら」

 

「仮や」

 

「仮?」

 

「曹操に会って」

 

「気に食わんかったら」

 

「出ていく」

 

「それでええなら」

 

「涼州まで」

 

「お前についてったる」

 

時雨は。

 

霞を見る。

 

「仮でいい」

 

「ええんか?」

 

「ああ」

 

「戦えば分かる」

 

「何が」

 

「霞が」

 

「魏にいるべきか」

 

「俺と一緒に戦えるか」

 

「涼州で」

 

「確かめればいい」

 

霞は。

 

目を細くした。

 

「ほんま」

 

「変わらんな」

 

「変わったと言っただろ」

 

「変わったけど」

 

「変わらん」

 

霞は笑う。

 

「せやから」

 

「ついてったる」

 

時雨は。

 

短く頷いた。

 

「ああ」

 

「頼む」

 

その瞬間。

 

天幕の中に。

 

新しい将が。

 

加わった。

 

まだ。

 

正式な魏将ではない。

 

将符も。

 

官位もない。

 

だが。

 

時雨の中では。

 

すでに決まっていた。

 

涼州征討軍。

 

騎馬隊の先頭。

 

敵の騎兵を追い。

 

側面を裂き。

 

退路を確保する者。

 

張遼。

 

真名。

 

霞。

 

かつて。

 

燕国の飛将と呼ばれた女。

 

---

 

曹操への謁見は。

 

その日の夕刻に行われた。

 

王宮の一室。

 

曹操は。

 

報告を受けると。

 

予定を少しだけ動かした。

 

時雨が。

 

連れていきたい将を見つけた。

 

しかも。

 

それが張遼だと知ると。

 

すぐに会うと答えた。

 

部屋には。

 

曹操。

 

時雨。

 

霞。

 

そして。

 

護衛として春蘭と秋蘭。

 

軍師として稟。

 

記録役として華論。

 

桂花は。

 

河北の役人との会合があり。

 

風は。

 

許昌外の情報網を確認するため不在。

 

栄華と柳琳も。

 

軍営へ残っている。

 

霞は。

 

部屋へ入るなり。

 

曹操を見た。

 

小柄。

 

美しい金髪。

 

堂々とした姿。

 

椅子へ座っているだけで。

 

部屋の中心が。

 

そこへ定まる。

 

霞は。

 

多くの主を見てきた。

 

戦場で。

 

酒場で。

 

客将として。

 

護衛として。

 

偉そうに振る舞う者。

 

強さを見せつける者。

 

金と兵を誇る者。

 

だが。

 

曹操は。

 

何も誇っていない。

 

自分が。

 

この場所の主であることを。

 

疑っていないだけだった。

 

「あなたが張遼ね」

 

曹操が言う。

 

「せや」

 

春蘭の眉が。

 

激しく動く。

 

「貴様!」

 

「華琳様へ何という口の利き方だ!」

 

霞は。

 

春蘭を見る。

 

「なんや」

 

「自分が夏侯惇か」

 

「私を知っているのか」

 

「酒場で聞いた」

 

「時雨に剣で負けた奴やろ」

 

春蘭の顔が。

 

真っ赤になる。

 

「貴様!」

 

「表へ出ろ!」

 

「ええで」

 

霞は。

 

楽しそうに飛龍偃月刀へ手を伸ばす。

 

「ちょうど」

 

「魏の将がどんだけ強いか」

 

「見たかったとこや」

 

「望むところだ!」

 

「春蘭」

 

曹操が呼ぶ。

 

春蘭の動きが止まる。

 

「……はい、華琳様」

 

「座りなさい」

 

「ですが!」

 

「座りなさい」

 

「御意……」

 

春蘭は。

 

不満を隠せないまま。

 

元の位置へ戻る。

 

霞が。

 

時雨へ小声で言う。

 

「おもろい奴やな」

 

「聞こえているぞ!」

 

「聞こえるよう言うたんや」

 

「霞」

 

時雨が止める。

 

「何や」

 

「後にしろ」

 

「後ならええんか」

 

「訓練場でやれ」

 

「時雨!」

 

春蘭が再び怒鳴る。

 

秋蘭は。

 

静かに額へ手を当てた。

 

曹操は。

 

僅かに笑みを浮かべている。

 

「張遼」

 

「霞でええ」

 

部屋が静まる。

 

曹操の目が。

 

少し細くなる。

 

真名を。

 

自分から許す。

 

それは。

 

好意か。

 

豪胆さか。

 

あるいは。

 

形式を気にしていないだけか。

 

「真名を」

 

曹操が言う。

 

「私へ預けるの?」

 

「時雨が仕えとる主や」

 

霞は答える。

 

「それに」

 

「うちを使うか決めるんやろ」

 

「名前隠して話す方が」

 

「面倒や」

 

曹操は。

 

しばらく霞を見る。

 

「分かったわ」

 

「では」

 

「霞」

 

「あなたも」

 

「私を曹操と呼ぶつもり?」

 

霞は。

 

時雨を見る。

 

「こいつはそう呼んどるんやろ?」

 

「時雨は特別よ」

 

曹操は即答した。

 

霞の口元が。

 

面白そうに上がる。

 

春蘭と秋蘭の視線が。

 

僅かに曹操へ向く。

 

時雨は。

 

特に反応しない。

 

「ほんなら」

 

霞は考える。

 

「華琳様、でええんか」

 

「ええ」

 

曹操は。

 

満足そうに頷いた。

 

「魏の将たちは」

 

「皆そう呼ぶわ」

 

「まだ魏の将やないけどな」

 

「そうね」

 

曹操は。

 

霞を真っ直ぐ見る。

 

「時雨から」

 

「あなたを涼州征討軍へ加えたいと聞いた」

 

「うちも」

 

「仮でついてく言うた」

 

「仮?」

 

「華琳様が」

 

「気に食わんかったらやめる」

 

春蘭が。

 

再び反応する。

 

だが。

 

曹操が先に口を開いた。

 

「構わないわ」

 

今度は。

 

霞が驚いた。

 

「ええんか?」

 

「私も」

 

「あなたが気に入らなければ」

 

「正式には任じないもの」

 

曹操は微笑む。

 

「互いに」

 

「見極めればよいでしょう?」

 

霞の目が。

 

少し変わる。

 

気に入らなければ去れ。

 

そう突き放すのではない。

 

自分も選ぶ。

 

お前も選べ。

 

対等とは違う。

 

主と将。

 

立場は明確。

 

だが。

 

霞の意思を。

 

最初から奪おうとはしない。

 

「おもろいな」

 

霞が呟く。

 

「何が?」

 

「時雨が」

 

「ここ選んだ理由」

 

「ちょっと分かった気するわ」

 

曹操の目が。

 

僅かに柔らかくなる。

 

「そう」

 

「なら」

 

「私からも聞きましょう」

 

「あなたは」

 

「何のために戦う?」

 

霞は。

 

少し黙った。

 

以前なら。

 

面白いから。

 

そう答えた。

 

強い相手と戦いたい。

 

自分の力を試したい。

 

酒をうまく飲みたい。

 

それでよかった。

 

だが。

 

今。

 

その答えだけでは。

 

足りないことを知っている。

 

「まだ」

 

霞は答える。

 

「分からん」

 

春蘭の眉が寄る。

 

稟は。

 

黙って霞を見る。

 

曹操は。

 

続きを待った。

 

「戦うんは好きや」

 

霞は言う。

 

「強い奴と斬り合うんも」

 

「騎馬で敵陣抜けるんも」

 

「勝って酒飲むんも好きや」

 

「せやけど」

 

「それだけで」

 

「どこまでも行けるとは」

 

「今は思ってへん」

 

「なら」

 

曹操が尋ねる。

 

「何を探しているの」

 

「帰る場所」

 

霞は。

 

少し照れたように笑う。

 

「かもしれんな」

 

時雨の目が。

 

僅かに動く。

 

曹操は。

 

霞の答えを。

 

笑わなかった。

 

「魏が」

 

「その場所になると思う?」

 

「分からん」

 

「時雨がおる」

 

「今んとこ」

 

「それだけや」

 

「十分ね」

 

曹操は。

 

静かに言う。

 

「最初は」

 

「それだけで」

 

霞は。

 

曹操を見る。

 

「華琳様は」

 

「うちに何させたい」

 

「涼州軍の騎兵を破る」

 

曹操は即答した。

 

「馬騰軍は」

 

「騎馬の機動力を使い」

 

「正面を避け」

 

「側面と補給路を狙うでしょう」

 

「魏軍の中で」

 

「それを追い」

 

「同じ速度で戦える将が必要」

 

「時雨は」

 

「あなたならできると言った」

 

霞は。

 

時雨を見る。

 

「言うたな」

 

「ああ」

 

「うちが失敗したら?」

 

「時雨の責任」

 

曹操が答える。

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「曹操」

 

「何?」

 

「霞の責任でもある」

 

「当然よ」

 

曹操は。

 

僅かに笑う。

 

「でも」

 

「霞を選ぶのは時雨」

 

「時雨を総大将へしたのは私」

 

「責任は」

 

「上へも繋がる」

 

霞は。

 

そのやり取りを見ていた。

 

主が。

 

将へすべてを押しつけない。

 

将も。

 

主へすべてを任せない。

 

互いに。

 

自分の分を持つ。

 

黒山とは違う。

 

時雨一人へ。

 

すべてが集まっていた燕とは違う。

 

「ええ国やな」

 

霞が呟く。

 

春蘭が。

 

即座に胸を張る。

 

「当然だ!」

 

「華琳様の国だからな!」

 

「春蘭」

 

「はい!」

 

「あなたが誇ることではないわ」

 

「なぜです!」

 

霞が。

 

また笑った。

 

「ほんま」

 

「おもろいなあ」

 

曹操は。

 

机の上へ。

 

一枚の木札を置いた。

 

まだ。

 

正式な将符ではない。

 

仮任命を示す札。

 

「張遼」

 

曹操の声が。

 

少しだけ改まる。

 

「涼州征討が終わるまで」

 

「あなたを」

 

「魏軍客将として迎える」

 

「騎馬軍を預けるかは」

 

「訓練と実戦で判断する」

 

「異論は?」

 

霞は。

 

木札を見る。

 

燕の将軍だった時。

 

時雨から。

 

正式な任命を受けたことはない。

 

いつの間にか。

 

兵が集まり。

 

いつの間にか。

 

将と呼ばれていた。

 

黒山では。

 

それでよかった。

 

だが。

 

魏では。

 

誰が。

 

何を任せるか。

 

言葉と形で示す。

 

霞は。

 

木札へ手を伸ばした。

 

「異論なしや」

 

それを受け取り。

 

少し重さを確かめる。

 

「涼州まで」

 

「時雨についてく」

 

「ほんで」

 

「魏が」

 

「うちの帰る場所になるか」

 

「見させてもらうわ」

 

曹操は頷く。

 

「ええ」

 

「見極めなさい」

 

「ただし」

 

「何や」

 

「魏軍へいる間は」

 

「軍律へ従うこと」

 

霞の顔が。

 

露骨に曇る。

 

「どこまで?」

 

「すべてよ」

 

「勝手な出撃は禁止」

 

「略奪禁止」

 

「捕虜への私刑禁止」

 

「命令なく隊を離れることも禁止」

 

「酒は?」

 

「出陣中は制限する」

 

「帰るわ」

 

霞は。

 

木札を机へ戻そうとする。

 

時雨が。

 

その手首を掴んだ。

 

「待て」

 

「酒あかんのやろ?」

 

「禁止とは言ってない」

 

「制限や」

 

「同じや!」

 

「違う」

 

「どんくらい飲める」

 

曹操は。

 

呆れたように息を吐く。

 

「任務へ支障が出ない範囲」

 

「曖昧やな」

 

「霞」

 

時雨が言う。

 

「飲んでいい」

 

「時雨!」

 

曹操の声が響く。

 

「任務の後なら」

 

時雨は続ける。

 

「最初からそう言いなさい!」

 

曹操が怒る。

 

霞は。

 

木札を握りしめたまま。

 

声を上げて笑った。

 

「よっしゃ!」

 

「ほんなら決まりや!」

 

「時雨」

 

霞は。

 

立ち上がる。

 

「うちを使うんやったら」

 

「一番速い馬と」

 

「一番強い奴」

 

「用意しとけ」

 

「馬は用意する」

 

「強い奴は」

 

時雨は。

 

春蘭を見る。

 

春蘭の目が。

 

鋭く光る。

 

霞も。

 

同じ方向を見る。

 

「なるほど」

 

霞が笑う。

 

「おるやん」

 

「すぐそこに」

 

春蘭は。

 

剣の柄へ手をかける。

 

「今度こそ表へ出ろ!」

 

「望むところや!」

 

「二人とも」

 

曹操が止める。

 

「今は駄目よ」

 

春蘭と霞が。

 

同時に曹操を見る。

 

「なぜです、華琳様!」

 

「なんでや!」

 

「日が落ちるわ」

 

「明日の朝」

 

曹操は。

 

二人を見比べる。

 

「訓練場で」

 

「正式に試合を許可する」

 

二人の表情が。

 

同時に明るくなる。

 

「御意!」

 

「話分かるやん、華琳様!」

 

「ただし」

 

曹操は続ける。

 

「時雨が立会人」

 

時雨の顔が曇る。

 

「なぜ俺だ」

 

「総大将でしょう?」

 

「二人が怪我をしないように」

 

「止めなさい」

 

「無理だ」

 

「止めるのよ」

 

霞が。

 

時雨の肩を叩く。

 

「頼んだで」

 

「霞が止まれ」

 

「無理や」

 

「なら試合をするな」

 

「それはもっと無理や」

 

春蘭も頷く。

 

「その通りだ!」

 

「同意するな」

 

秋蘭は。

 

静かに息を吐いた。

 

稟は。

 

すでに。

 

明日の予定へ。

 

試合の項目を書き加えている。

 

曹操は。

 

騒がしくなる部屋の中で。

 

時雨と霞を見ていた。

 

燕国を解いた日。

 

別々の道へ進んだ二人。

 

一人は。

 

魏へ入り。

 

曹操の将となった。

 

一人は。

 

どこにも属さず。

 

戦場から戦場へ流れた。

 

その二人が。

 

涼州を前に。

 

再び並ぶ。

 

それは。

 

燕が戻るということではない。

 

過去へ帰ることでもない。

 

終わった国を。

 

作り直すのではない。

 

別々の道を歩いた二人が。

 

新しい場所で。

 

もう一度。

 

共に戦うことを選ぶ。

 

過去に縛られず。

 

過去を捨てず。

 

その先へ進む。

 

曹操は。

 

それを。

 

悪くないと思った。

 

---

 

翌朝。

 

許昌の訓練場には。

 

多くの兵が集まっていた。

 

噂は。

 

一晩で広がった。

 

涼州征討軍へ。

 

新しい客将が入った。

 

張遼。

 

かつて。

 

燕国の飛将と呼ばれた女。

 

その張遼が。

 

魏の夏侯惇と試合をする。

 

兵たちは。

 

見ずにはいられない。

 

時雨は。

 

訓練場の中央へ立っていた。

 

その左右。

 

春蘭。

 

霞。

 

春蘭は木剣。

 

霞は。

 

飛龍偃月刀と同じ重さに作られた。

 

訓練用の長柄武器。

 

二人とも。

 

朝から。

 

異様に機嫌がいい。

 

「決まりは」

 

時雨が言う。

 

「寸止め」

 

「無理だ」

 

春蘭が答える。

 

「無理やな」

 

霞も答える。

 

「なら」

 

「鎧を着けろ」

 

「動きにくい」

 

「重いわ」

 

「怪我するぞ」

 

「せん!」

 

「せえへん!」

 

息まで合っている。

 

時雨は。

 

小さく息を吐いた。

 

「どちらかが倒れたら終わり」

 

「ああ!」

 

「分かった!」

 

「追撃なし」

 

二人は答えない。

 

「返事」

 

「分かった!」

 

「分かったわ!」

 

明らかに。

 

分かっていない。

 

時雨は。

 

周囲を見る。

 

秋蘭。

 

華論。

 

柳琳。

 

稟。

 

さらに。

 

曹操まで来ている。

 

桂花と風も。

 

少し離れた場所から見ていた。

 

栄華は。

 

壊される可能性がある訓練設備の費用を。

 

すでに心配している。

 

「始め」

 

時雨が言った。

 

次の瞬間。

 

二人が動いた。

 

春蘭の木剣。

 

霞の長柄。

 

正面から。

 

激突する。

 

乾いた音が。

 

訓練場へ響いた。

 

力。

 

速さ。

 

気迫。

 

春蘭は。

 

魏軍屈指の猛将。

 

霞は。

 

燕国の飛将。

 

互いに。

 

一歩も退かない。

 

木剣が。

 

横から霞の肩を狙う。

 

霞は。

 

長柄の中央で受ける。

 

そのまま。

 

柄を滑らせ。

 

先端を春蘭の足元へ払う。

 

春蘭が跳ぶ。

 

着地と同時に。

 

上段から斬り下ろす。

 

霞は。

 

一歩横へずれ。

 

長柄を回転させる。

 

大きな武器。

 

本来なら。

 

動きが読まれやすい。

 

だが。

 

霞は。

 

長さを弱点にしない。

 

遠心力を使い。

 

止めず。

 

次の攻撃へ繋げる。

 

横薙ぎ。

 

切り上げ。

 

石突き。

 

突き。

 

春蘭は。

 

すべてを受け。

 

避け。

 

前へ進む。

 

霞の間合いの内側。

 

そこへ入れば。

 

春蘭が有利。

 

霞は。

 

入らせない。

 

二人の攻防が。

 

激しくなる。

 

兵たちから。

 

歓声が上がる。

 

「ええやん!」

 

霞が叫ぶ。

 

「さすが魏の猛将や!」

 

「当然だ!」

 

春蘭も叫び返す。

 

「貴様も」

 

「口だけではないようだな!」

 

「まだ半分も出してへんで!」

 

「私もだ!」

 

明らかに。

 

寸止めを忘れている。

 

時雨は。

 

二人の足を見る。

 

次に。

 

武器の軌道。

 

霞が。

 

一歩踏み込む。

 

春蘭が。

 

正面から迎える。

 

このままでは。

 

互いの肩へ。

 

攻撃が入る。

 

時雨は。

 

二人の間へ入った。

 

右手で。

 

春蘭の木剣を掴む。

 

左足で。

 

霞の柄を踏み止める。

 

二人の動きが。

 

同時に止まった。

 

「終わり」

 

時雨が言う。

 

春蘭と霞は。

 

目を見開く。

 

「まだだ!」

 

「まだや!」

 

「同時に当たる」

 

「私の方が速い!」

 

「うちの方が先や!」

 

「両方怪我する」

 

「それくらい!」

 

「平気や!」

 

時雨は。

 

春蘭の木剣を離し。

 

霞の長柄から足を退ける。

 

「涼州へ行く前に」

 

「二人とも使えなくなるなら」

 

「次から試合は禁止」

 

二人は。

 

同時に黙った。

 

「それは困る」

 

春蘭が言う。

 

「困るな」

 

霞も言う。

 

「なら」

 

「今日は終わり」

 

不満そうな二人。

 

だが。

 

命令へ逆らわない。

 

少なくとも。

 

今は。

 

霞は。

 

春蘭を見る。

 

「決着は」

 

「涼州の後やな」

 

春蘭は。

 

木剣を肩へ置く。

 

「逃げるなよ」

 

「そっちこそ」

 

二人の間に。

 

敵意とは違う。

 

奇妙な信頼が生まれている。

 

強い者同士。

 

一度。

 

武器を合わせれば分かる。

 

こいつは。

 

戦場で背を預けられるか。

 

霞は。

 

春蘭を認めた。

 

春蘭も。

 

霞を認めた。

 

「時雨」

 

霞が呼ぶ。

 

「何だ」

 

「この軍」

 

「悪ないな」

 

時雨は。

 

霞を見る。

 

「まだ一日だ」

 

「一日で分かることもある」

 

霞は。

 

訓練場を見渡す。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

華論。

 

稟。

 

柳琳。

 

遠くには。

 

曹操。

 

魏の兵。

 

黒狼隊。

 

燕とは違う。

 

だが。

 

戦が終わっても。

 

戻ってこられる場所。

 

同じ旗の下で。

 

次の日を迎えられる場所。

 

ここが。

 

そうなるかもしれない。

 

「仮は」

 

時雨が言う。

 

霞が振り返る。

 

「いつまでだ」

 

「気ぃ早いな」

 

「決めろ」

 

「涼州まで言うたやろ」

 

「終わるまでか」

 

「せや」

 

霞は。

 

少し笑う。

 

「せやけど」

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「うちの騎馬隊」

 

「ちゃんと用意しとけよ」

 

「仮だろ」

 

「仮でも」

 

「戦場立つなら本気や」

 

霞は。

 

飛龍偃月刀を肩へ担ぐ。

 

「お前が」

 

「うちなら兵を連れて帰れる言うた」

 

「ほんなら」

 

「一人も置いていかんつもりで走ったる」

 

時雨の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「ああ」

 

「頼む」

 

その言葉を聞き。

 

霞は。

 

満足そうに笑った。

 

流浪の飛将。

 

張遼。

 

行く先を決めず。

 

帰る場所を持たず。

 

戦場から戦場へ渡り歩いていた女。

 

その足が。

 

ようやく。

 

一つの道へ向いた。

 

涼州。

 

乾いた大地。

 

馬騰の騎馬軍。

 

魏軍にとって。

 

厳しい戦になる。

 

だが。

 

時雨の隣には。

 

再び。

 

あの飛将がいる。

 

燕の旗は。

 

もうない。

 

黒山へ戻ることもない。

 

それでも。

 

二人が共に戦った時間は消えない。

 

時雨が道を選び。

 

霞が。

 

その道を誰より速く駆ける。

 

かつてと同じ。

 

だが。

 

かつてとは違う。

 

今度は。

 

時雨一人の国ではない。

 

曹操が作る魏。

 

多くの将が。

 

役目を分け。

 

互いへ命を預ける国。

 

霞は。

 

まだ。

 

その一員ではない。

 

客将。

 

仮の立場。

 

いつでも去れる。

 

だが。

 

去れるからこそ。

 

残るかどうかを。

 

自分で選べる。

 

その日。

 

時雨は。

 

失ったはずの将と再会した。

 

だが。

 

取り戻したのではない。

 

過去の配下へ。

 

戻したのでもない。

 

一人の将として。

 

今の自分の隣へ。

 

新しく誘った。

 

「俺と来い」

 

その言葉へ。

 

霞は。

 

自分の意思で頷いた。

 

燕国の将軍だった張遼は。

 

魏軍客将として。

 

再び。

 

時雨の軍へ加わった。

 

そして。

 

西へ向かう軍の中。

 

最も速く。

 

最も鋭い一隊が。

 

静かに形を持ち始めていた。




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