【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第14話 狼、単騎で西へ――馬騰の拒絶

外伝 第14話 狼、単騎で西へ――馬騰の拒絶

 

 

涼州へ向けた出陣準備は、最後の段階へ入っていた。

 

許昌の西側に設けられた軍営では、数万の兵がそれぞれの役目を確認している。

 

歩兵は長期行軍を想定し、重すぎる装備を外された。

 

弓兵は乾いた風の中でも弦が緩まぬよう、替えの弦と油を多く持たされた。

 

騎兵には馬具だけでなく、蹄を守るための道具が配られている。

 

工兵は橋を架けるための縄や木材だけでなく、水脈を探すための器具まで荷へ積み込んだ。

 

医療隊は柳琳の指揮のもと、傷薬よりも先に腹を壊した者へ使う薬と、熱病を抑える薬を増やしている。

 

西方で兵を倒すものは。

 

敵の刃だけではない。

 

乾燥。

 

寒暖差。

 

水不足。

 

長い行軍。

 

見知らぬ土地へ入る不安。

 

それらすべてが、敵になる。

 

栄華は、兵糧と馬草の消費量を何度も計算し直していた。

 

華論は、涼州征討軍へ配属される各隊の連携訓練に追われている。

 

稟は、涼州の地形と馬騰軍の情報をまとめていた。

 

春蘭と霞は。

 

毎朝のように訓練場で顔を合わせ。

 

どちらが前衛を務めるべきかという名目で勝負を始めようとした。

 

そのたびに。

 

秋蘭と時雨が止めている。

 

「総大将」

 

軍営の大天幕。

 

稟が地図の上へ一本の木札を置いた。

 

「馬騰殿へ送る使者について、候補を三名まで絞りました」

 

「ああ」

 

時雨は答えた。

 

机の上には。

 

涼州征討に関わる竹簡が山のように積まれている。

 

以前なら。

 

一枚目を見ただけで顔をしかめていた。

 

今も。

 

面倒そうな表情は変わらない。

 

だが。

 

少なくとも。

 

必要な部分には目を通すようになっていた。

 

稟が差し出した竹簡も受け取り。

 

中へ書かれた名を確認する。

 

一人目は。

 

涼州との交易へ何度も関わった文官。

 

二人目は。

 

かつて馬騰の配下と会談した経験を持つ武官。

 

三人目は。

 

弁舌に長け、相手を怒らせず要求を伝えることのできる外交官。

 

どの者も。

 

使者として。

 

時雨より適している。

 

「この三名であれば」

 

稟は続ける。

 

「馬騰殿の前でも」

 

「魏の意向を誤解なく伝えることができるでしょう」

 

「護衛は」

 

時雨が尋ねる。

 

「二十名を予定しています」

 

「少ない」

 

「使者です」

 

「兵を多くつければ」

 

「威圧と受け取られます」

 

「道中は安全か」

 

「関中までは」

 

「魏軍の支配下です」

 

「そこから先も」

 

「馬騰殿の返答を求める正式な使者だと示せば」

 

「賊でない限り」

 

「攻撃される可能性は低いかと」

 

時雨は。

 

地図を見る。

 

許昌から長安。

 

そこから西。

 

馬騰の治める領域へ。

 

距離は長い。

 

往復すれば。

 

返答が届くまで。

 

かなりの日数を要する。

 

「遅いな」

 

時雨が言った。

 

稟の眉が僅かに動く。

 

「何がですか」

 

「返事が来るまで」

 

「その間に」

 

「軍は動かせない」

 

「使者の返答を待たず」

 

「長安までは進めます」

 

「だが」

 

時雨は。

 

馬騰の領地との境を指す。

 

「ここで止まる」

 

「兵が集まれば」

 

「馬騰は警戒する」

 

「話す前に」

 

「互いに戦う準備が進む」

 

「それを避けるための使者です」

 

「ああ」

 

「でも遅い」

 

稟は。

 

時雨の顔を見た。

 

この男が。

 

何かを考えている。

 

軍略勝負の後。

 

稟は。

 

時雨の僅かな変化へ。

 

以前より早く気づくようになった。

 

時雨は。

 

考えがまとまるほど。

 

口数が減る。

 

地図の一点だけを。

 

長く見る。

 

そして。

 

大抵。

 

正規の手順から外れた結論を口にする。

 

「総大将」

 

稟が静かに呼んだ。

 

「何だ」

 

「まさかとは思いますが」

 

「何をなさるおつもりですか」

 

「馬騰に会う」

 

「使者を送ります」

 

「俺が行く」

 

稟の動きが止まった。

 

大天幕の端で帳簿を確認していた栄華が。

 

勢いよく顔を上げる。

 

華論も。

 

手にしていた木札を落とした。

 

柳琳だけは。

 

驚きながらも。

 

まだ口を開かなかった。

 

「……今」

 

稟が確かめるように言った。

 

「何とおっしゃいました?」

 

「俺が使者になる」

 

「駄目です」

 

即答だった。

 

「まだ理由を言ってない」

 

「理由に関係なく駄目です」

 

「なぜ」

 

「あなたが総大将だからです!」

 

稟の声が。

 

いつもより大きくなる。

 

「涼州征討軍の全権を預かる者が」

 

「護衛二十名で敵地へ入るなど」

 

「認められるはずがありません!」

 

「まだ敵じゃない」

 

「これから敵になる可能性がある国です!」

 

「だから会う」

 

「話が繋がっていません!」

 

稟は。

 

珍しく。

 

明確な苛立ちを見せていた。

 

時雨は。

 

それでも平然としている。

 

「文官を送っても」

 

「馬騰は」

 

「曹操の言葉しか聞かない」

 

「なら」

 

「華琳様の書状を持たせます」

 

「文字だけだ」

 

「それが正式な外交です!」

 

「相手の顔が見えない」

 

「使者が見ます!」

 

「俺が見たい」

 

稟が。

 

言葉を失う。

 

栄華が立ち上がった。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「ご自分が」

 

「どれほど重要な立場か」

 

「理解しておられます?」

 

「ああ」

 

「いいえ」

 

栄華は断言した。

 

「まったく理解しておりません」

 

「あなたが捕らえられた場合」

 

「涼州軍は」

 

「総大将を人質として」

 

「魏へ無理な要求を出せます」

 

「殺された場合は」

 

「遠征軍全体の編制を」

 

「一から見直す必要がある」

 

「出陣は延期」

 

「準備した物資は余分に消費」

 

「兵の士気も下がる」

 

「華琳様の威信にも関わります!」

 

「捕まらない」

 

「そういう問題ではありませんわ!」

 

「殺されない」

 

「ですから!」

 

栄華は扇で机を叩いた。

 

「あなたの自信を」

 

「国家の計画へ組み込むなと」

 

「何度言えば分かるのです!」

 

華論も。

 

強く頷く。

 

「そうっすよ!」

 

「総大将が勝手にいなくなったら」

 

「部隊編制の確認」

 

「誰がするんすか!」

 

「華論」

 

「そうやって」

 

「すぐ人に任せる!」

 

「任せることを覚えろと言っただろ」

 

「この使い方は違うっす!」

 

時雨は。

 

柳琳を見る。

 

柳琳は。

 

他の三人と違い。

 

怒鳴ってはいない。

 

ただ。

 

静かに時雨を見ていた。

 

「柳琳は」

 

「何も言わないのか」

 

「言っても」

 

「もう行くと決めていますか?」

 

時雨は。

 

少し黙る。

 

「まだ」

 

「なら」

 

柳琳は。

 

ゆっくり時雨へ近づいた。

 

「行かないでください」

 

声は。

 

穏やかだった。

 

だからこそ。

 

他の者の怒声より。

 

重く届く。

 

「時雨が」

 

「馬騰殿の顔を見たいことは分かります」

 

「話して」

 

「戦わずに済む可能性を探したいことも」

 

「ですが」

 

「時雨が行けば」

 

「馬騰殿は」

 

「魏の総大将が」

 

「自分を脅しに来たと感じるかもしれません」

 

「使者としてではなく」

 

「敵将として見るかもしれない」

 

「それでも」

 

「行くのですか」

 

時雨は。

 

答えなかった。

 

馬騰の顔を見る。

 

その考えが。

 

敵意から出たものか。

 

恐怖から出たものか。

 

誇りか。

 

民を守るためか。

 

それを。

 

自分の目で確かめたい。

 

文書では分からない。

 

使者の報告でも。

 

完全には伝わらない。

 

言葉の間。

 

声の強さ。

 

目の動き。

 

何を守ろうとしているか。

 

時雨は。

 

それを見て。

 

戦うか決めたかった。

 

だが。

 

柳琳の言う通り。

 

時雨自身が行けば。

 

相手を刺激する可能性もある。

 

「それでも」

 

時雨は言った。

 

「行く」

 

稟の顔が厳しくなる。

 

「総大将」

 

「俺が」

 

時雨は続けた。

 

「馬騰へ」

 

「戦わずに済む道があると言う」

 

「文官に言わせれば」

 

「曹操が」

 

「弱気になったと思うかもしれない」

 

「俺が行けば」

 

「違う」

 

「戦う準備をした男が」

 

「それでも話しに来た」

 

「そう見える」

 

「危険です」

 

「ああ」

 

「危険だと理解した上で?」

 

「ああ」

 

稟は。

 

しばらく時雨を見ていた。

 

そして。

 

深く息を吐いた。

 

「では」

 

「華琳様の許可を得てください」

 

時雨の目が。

 

僅かに逸れた。

 

稟が。

 

それを見逃さなかった。

 

「総大将」

 

「何だ」

 

「華琳様へ」

 

「お話しするつもりは」

 

「ありましたか」

 

「帰ってから」

 

天幕の空気が。

 

凍りついた。

 

「帰ってから?」

 

稟の声が低くなる。

 

「先に言えば」

 

「止められる」

 

「当然です!」

 

栄華が叫ぶ。

 

「止められると分かっていて」

 

「黙って行くつもりでしたの!?」

 

「相談すれば」

 

「長くなる」

 

「そこですか!?」

 

華論が頭を抱える。

 

柳琳は。

 

目を閉じた。

 

怒っている。

 

他の者より。

 

静かに。

 

深く。

 

時雨は。

 

そのことへ気づいた。

 

だが。

 

考えを変えたわけではない。

 

「今日出る」

 

時雨が言った。

 

稟が。

 

机の前へ立つ。

 

「行かせません」

 

「命令か」

 

「軍師としての進言です」

 

「最後に決めるのは俺だ」

 

「以前」

 

稟は。

 

真っ直ぐ時雨を見る。

 

「私が理由を示せば」

 

「必ず聞くとおっしゃいました」

 

「ああ」

 

「華琳様へ無断」

 

「遠征軍へ代理指揮官を置かず」

 

「敵地へ入る」

 

「軍事的にも」

 

「政治的にも」

 

「危険が大きすぎます」

 

「それでも行くなら」

 

「なぜ」

 

「時雨殿自身でなければならないのか」

 

「私たちが納得できる理由を」

 

「お示しください」

 

時雨は。

 

稟の言葉を聞く。

 

頭ごなしではない。

 

止めるために。

 

理由を求めている。

 

それは。

 

時雨が。

 

稟へ頼んだことでもある。

 

自分が間違っていれば止めろ。

 

理由があるなら言え。

 

聞かずには決めない。

 

言ったのは。

 

時雨自身。

 

「馬騰が」

 

時雨は言う。

 

「文書だけで降るとは思えない」

 

「はい」

 

「使者を送れば」

 

「拒絶する」

 

「その返事を受けて」

 

「魏軍が動く」

 

「そうなれば」

 

「戦は決まる」

 

「ですが」

 

「俺が会えば」

 

時雨は。

 

涼州の地図へ指を置く。

 

「馬騰が」

 

「本当に」

 

「何を拒んでるか分かる」

 

「曹操へ従うことか」

 

「領地を奪われることか」

 

「民を魏へ渡すことか」

 

「それとも」

 

「俺たちを信用してないだけか」

 

「分かれば」

 

「戦い方を変えられる」

 

「馬騰だけを狙うか」

 

「豪族を分けるか」

 

「民を先に逃がすか」

 

「降伏条件を変えるか」

 

「戦う前に」

 

「その答えが欲しい」

 

稟は。

 

黙って聞いた。

 

危険。

 

だが。

 

理由はある。

 

時雨自身が。

 

相手を見れば。

 

得られる情報は。

 

普通の使者より多い。

 

その後の戦略へ。

 

大きく影響する。

 

「ならば」

 

稟が言う。

 

「護衛を増やしてください」

 

「多いと威圧になる」

 

「少なくとも」

 

「霞殿と秋蘭を」

 

「連れていくべきです」

 

「駄目だ」

 

「なぜ」

 

「霞は」

 

「馬騰軍の騎兵に知られてるかもしれない」

 

「流浪中」

 

「西へ行ったと言ってた」

 

「秋蘭は」

 

「魏の将だと知られている」

 

「俺だけでも」

 

「十分目立つ」

 

「これ以上は」

 

「話し合いにならない」

 

「では」

 

「護衛二十名で?」

 

「十名」

 

「減らさないでください!」

 

稟の声が。

 

再び大きくなる。

 

時雨は。

 

少し考えた。

 

「二十でいい」

 

「妥協する場所ではありません」

 

「でも行く」

 

稟は。

 

時雨を睨むように見た。

 

やがて。

 

諦めではなく。

 

決断をした顔になる。

 

「分かりました」

 

栄華と華論が。

 

同時に稟を見る。

 

「稟様!?」

 

「認めるのですか?」

 

「認めてはいません」

 

稟は答える。

 

「ですが」

 

「時雨殿が」

 

「総大将として決めた以上」

 

「私たちは」

 

「被害を減らす方法を考えるべきです」

 

「出発前に」

 

「代理指揮を定めます」

 

「華論殿」

 

「時雨殿が戻るまで」

 

「各部隊の調整を」

 

「了解っす」

 

華論は。

 

不満そうながらも頷く。

 

「栄華殿」

 

「護衛二十名分」

 

「馬と食料を」

 

「すぐ用意してください」

 

「……承知しましたわ」

 

栄華は。

 

時雨を睨む。

 

「ただし」

 

「何だ」

 

「帰還後」

 

「必ず華琳様へ」

 

「ご自分の口から報告なさってください」

 

「ああ」

 

「わたくしからも報告します」

 

「なぜ」

 

「あなたが」

 

「都合の悪い部分を省くからです!」

 

「省かない」

 

「信じられません!」

 

柳琳が。

 

時雨の前へ。

 

小さな薬袋を置いた。

 

「持っていってください」

 

「必要ない」

 

「持っていってください」

 

普段より。

 

少しだけ強い声。

 

時雨は。

 

薬袋を取った。

 

「ああ」

 

「怪我をしたら」

 

「隠さないでください」

 

「ああ」

 

「食事も」

 

「きちんと取ってください」

 

「ああ」

 

「必ず帰ってください」

 

時雨は。

 

柳琳を見る。

 

怒り。

 

心配。

 

その奥にある。

 

信頼。

 

総大将として。

 

決めたことを。

 

最後には受け入れている。

 

だからこそ。

 

帰れと。

 

強く言う。

 

「帰る」

 

時雨は答えた。

 

「二日で」

 

「無理です」

 

稟が即座に言う。

 

「馬を替える」

 

「それでも」

 

「往復には最低六日」

 

「なら六日」

 

時雨は。

 

机の上の竹簡を閉じる。

 

「七日目までに戻らなければ」

 

「軍を動かせ」

 

稟の表情が変わる。

 

「救出ですか」

 

「違う」

 

「出陣」

 

「俺が捕まったなら」

 

「交渉は終わりだ」

 

「馬騰は」

 

「魏と戦うと決めたことになる」

 

「その時は」

 

時雨は。

 

冷たい目で涼州を見る。

 

「予定通り攻めろ」

 

「俺を助けるために」

 

「作戦を変えるな」

 

誰も。

 

すぐには返事をしなかった。

 

時雨が捕らえられた時。

 

救わない。

 

総大将自身が。

 

そう命じている。

 

「嫌っす」

 

華論が言った。

 

時雨が彼女を見る。

 

「命令だ」

 

「嫌っす」

 

華論は。

 

正面から繰り返した。

 

「時雨を見捨てる命令なんか」

 

「聞けないっす」

 

「華論」

 

「でも」

 

華論は続ける。

 

「軍全体を危険にする救出も」

 

「しないっす」

 

「必ず」

 

「戦を進めながら」

 

「助ける方法を探すっす」

 

「それが」

 

「私の判断っす」

 

時雨は。

 

華論を見る。

 

任せる。

 

そう言った。

 

なら。

 

時雨がいない間の判断は。

 

華論と稟が決める。

 

自分の命令へ。

 

従うだけではない。

 

彼女たちの答えを。

 

受け入れなければならない。

 

「分かった」

 

時雨は言った。

 

「華論が決めろ」

 

華論は。

 

僅かに目を見開く。

 

そして。

 

力強く頷いた。

 

「任されたっす」

 

---

 

時雨は。

 

その日の昼前。

 

軍営を出た。

 

護衛は二十騎。

 

黒狼隊の中でも。

 

長距離の騎乗と。

 

敵地での潜行に慣れた者を選んだ。

 

旗は持たない。

 

魏軍の鎧も外した。

 

ただし。

 

使者であることを示す。

 

曹操の書状と。

 

魏の印は持っている。

 

時雨は。

 

黒い馬へ跨がり。

 

西を見た。

 

隣には。

 

護衛を率いる韓武。

 

「時雨様」

 

「何だ」

 

「本当に」

 

「華琳様へお伝えしなくてよろしいのですか」

 

「ああ」

 

「怒られますよ」

 

「知ってる」

 

「怖くないのですか」

 

「馬騰より」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「曹操の方が面倒だ」

 

韓武は。

 

返事に困った。

 

「それは」

 

「怒られますね」

 

「ああ」

 

短いやり取り。

 

時雨は。

 

馬を進めた。

 

二十一騎が。

 

許昌を離れる。

 

その姿を。

 

軍営の物見台から。

 

霞が見ていた。

 

隣には。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

「ほんまに行きよったな」

 

霞が言う。

 

「あの馬鹿め」

 

春蘭は。

 

腕を組み。

 

明らかに苛立っている。

 

「私がついていけば」

 

「万一の時も問題ないものを」

 

「姉者が行けば」

 

秋蘭が言う。

 

「会談ではなく」

 

「決闘になる」

 

「ならん!」

 

「馬騰が少しでも失礼な態度を取れば?」

 

「斬る!」

 

「やはり駄目だ」

 

霞が笑う。

 

「秋蘭の言う通りやな」

 

「貴様も同じだろう!」

 

「うちは」

 

「最初は我慢するで」

 

「最初だけではないか!」

 

「二回目で斬る」

 

「私より悪いではないか!」

 

二人が騒ぐ横で。

 

秋蘭は。

 

遠ざかる時雨の背中を見ていた。

 

「時雨は」

 

「何かを確かめに行った」

 

「ああ」

 

霞が。

 

少しだけ真剣な声へ戻る。

 

「馬騰が」

 

「どんな奴か」

 

「自分で見んと」

 

「戦い方決められへんのやろ」

 

「だが」

 

春蘭は。

 

時雨が消えた街道を見る。

 

「総大将が」

 

「勝手に敵地へ入るなど」

 

「許されることではない」

 

「ああ」

 

秋蘭は頷く。

 

「華琳様が知れば」

 

「相当にお怒りになるだろう」

 

三人は。

 

同時に。

 

許昌の方向を見た。

 

時雨が。

 

帰ってくるまで。

 

曹操へ知られずに済む可能性。

 

誰も。

 

あるとは思っていなかった。

 

---

 

許昌から長安を抜け。

 

さらに西へ。

 

時雨たちは。

 

昼夜を分けて進んだ。

 

馬を潰さない。

 

だが。

 

遅くもない。

 

途中。

 

関中の魏軍拠点で。

 

新しい馬と交換する。

 

食事は。

 

馬を休ませる間だけ。

 

眠るのも。

 

二刻ほど。

 

黒山にいた頃。

 

時雨は。

 

何度も。

 

同じような移動をした。

 

官軍が攻めてくれば。

 

一夜で。

 

三つの砦を回る。

 

援軍を出し。

 

退路を決め。

 

民を逃がす。

 

今は。

 

その時より。

 

身体へ疲労を感じる。

 

年齢のためではない。

 

背負うものが増えたためだ。

 

昔なら。

 

自分が死ねば。

 

その場で終わった。

 

今は。

 

自分が戻らなければ。

 

魏軍全体が動く。

 

曹操が怒る。

 

華論たちが。

 

自分を助ける方法を探す。

 

一人で行っているようで。

 

一人ではない。

 

だからこそ。

 

戻らなければならない。

 

三日目の夕方。

 

乾いた風が吹く土地へ入る。

 

大地の色が。

 

中原とは違う。

 

緑が減り。

 

土と岩が増える。

 

見渡す先。

 

低い山並み。

 

広い空。

 

遠くを進む騎馬の影。

 

涼州。

 

時雨は。

 

その土地の空気を吸う。

 

乾いている。

 

風の中へ。

 

馬。

 

土。

 

僅かな羊の匂い。

 

「見られています」

 

韓武が言う。

 

「ああ」

 

丘の上。

 

騎馬が数騎。

 

こちらを監視している。

 

姿を隠さない。

 

すでに。

 

時雨たちの接近は。

 

馬騰側へ伝わっている。

 

時雨は。

 

進む速度を変えなかった。

 

やがて。

 

前方から。

 

数十騎の騎馬隊が現れる。

 

全員。

 

騎乗したまま。

 

弓と槍を構えている。

 

中央の将が。

 

声を上げた。

 

「止まれ!」

 

時雨たちは。

 

馬を止める。

 

将が。

 

時雨を見る。

 

「何者だ」

 

「魏の使者」

 

時雨は答えた。

 

「名は」

 

「張燕」

 

騎馬隊の空気が変わる。

 

張燕。

 

黒山の頭領。

 

燕国の王。

 

魏の涼州征討軍総大将。

 

その名は。

 

すでに涼州へも届いていた。

 

「……総大将本人か」

 

「ああ」

 

「なぜ」

 

将は。

 

明らかに戸惑っている。

 

「使者として来る」

 

「馬騰に会いに来た」

 

「我らが主を」

 

「呼び捨てにするか」

 

「敵なら」

 

「もっと酷く呼ぶ」

 

将の眉が上がる。

 

韓武は。

 

内心で。

 

また話を難しくする。

 

そう思った。

 

だが。

 

時雨は。

 

相手を怒らせたいわけではない。

 

身分を飾り。

 

丁寧な言葉だけを並べる気がない。

 

自分が。

 

総大将として。

 

話しに来た。

 

そう伝えている。

 

「武器を預けろ」

 

涼州の将が言う。

 

「断る」

 

「なら通せない」

 

「俺は」

 

時雨は。

 

腰の剣へ。

 

手を置かないまま言う。

 

「二十騎しか連れてない」

 

「ここで戦えば」

 

「俺たちは死ぬ」

 

「武器を預けても」

 

「殺す気なら同じだ」

 

「違うか」

 

将は。

 

答えられなかった。

 

時雨は続ける。

 

「馬騰が」

 

「使者を武器ごと斬る奴なら」

 

「ここで帰る」

 

「その時は」

 

「次に来るのは魏軍だ」

 

脅し。

 

だが。

 

事実でもある。

 

将は。

 

しばらく時雨を見た。

 

そして。

 

部下へ合図を送る。

 

「待て」

 

数騎が。

 

馬を返す。

 

知らせへ走った。

 

時雨たちは。

 

涼州軍に囲まれたまま。

 

乾いた荒野へ立つ。

 

韓武が。

 

小声で言う。

 

「時雨様」

 

「何だ」

 

「やはり」

 

「普通の使者を送った方が」

 

「よかったのでは」

 

「今さらだな」

 

「本当に」

 

「今さらですが」

 

韓武は。

 

小さく息を吐く。

 

「曹操様がお怒りになる理由が」

 

「よく分かります」

 

「俺も分かる」

 

「分かっていて」

 

「なぜなさるのです」

 

「必要だから」

 

時雨の答えは。

 

変わらなかった。

 

しばらくして。

 

使いの騎馬が戻る。

 

「馬騰様がお会いになる」

 

将は言った。

 

「ただし」

 

「護衛は五名まで」

 

「残りはここで待て」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

韓武を含む五名だけを選ぶ。

 

残りへ。

 

ここで待てと命じた。

 

「七日目までに戻らなければ」

 

「長安へ帰れ」

 

「ですが」

 

「命令だ」

 

兵たちは。

 

不満を抱えながら。

 

頭を下げた。

 

時雨は。

 

涼州の騎馬隊へ囲まれ。

 

さらに西へ進んだ。

 

---

 

馬騰が待っていたのは。

 

巨大な城ではなかった。

 

低い丘の上へ築かれた。

 

堅牢な砦。

 

石と土を組み合わせた壁。

 

騎馬が。

 

すぐに出入りできる広い門。

 

内部には。

 

多くの馬。

 

兵の動き。

 

武器の音。

 

中原の城とは違う。

 

飾りより。

 

実戦を重視した場所。

 

時雨は。

 

砦の中央へある館へ案内された。

 

武器は。

 

最後まで預けなかった。

 

涼州の兵も。

 

無理に奪おうとはしない。

 

互いに。

 

相手が何をするか。

 

見ている。

 

館の広間。

 

その奥。

 

一人の女が立っていた。

 

堂々とした姿。

 

長く涼州を治めてきた者の目。

 

年齢を重ねた強さと。

 

疲労。

 

多くの戦いを見てきた者だけが持つ。

 

静かな圧力。

 

馬騰。

 

彼女の左右には。

 

涼州の将たち。

 

全員。

 

時雨へ鋭い視線を向けている。

 

「お前が」

 

馬騰が口を開いた。

 

「張燕か」

 

「ああ」

 

時雨は答える。

 

「礼を知らぬ男だと聞いていたが」

 

「噂は正しいようだな」

 

「馬騰も」

 

「思ったより普通だ」

 

周囲の将兵から。

 

殺気が上がる。

 

馬騰は。

 

片手を上げ。

 

それを制した。

 

「普通とは」

 

「どういう意味だ」

 

「角もない」

 

「牙もない」

 

「人だった」

 

一瞬。

 

広間が静かになる。

 

馬騰は。

 

やがて。

 

低く笑った。

 

「面白い男だ」

 

「だが」

 

「魏の総大将が」

 

「たった五人で私の前へ来るとは」

 

「愚かと言うべきか」

 

「豪胆と言うべきか」

 

「どちらでもいい」

 

時雨は。

 

懐から書状を出す。

 

「曹操からだ」

 

側近が。

 

時雨から書状を受け取り。

 

馬騰へ渡す。

 

馬騰は。

 

封を確かめる。

 

魏の印。

 

偽りではない。

 

書状を開き。

 

内容へ目を通す。

 

そこに書かれているのは。

 

三つ。

 

涼州軍は。

 

関中へ兵を出さないこと。

 

魏へ敵対する諸勢力と。

 

軍事同盟を結ばないこと。

 

魏と涼州の交易を開き。

 

馬と食料の取引を増やすこと。

 

それを受け入れるなら。

 

馬騰の地位と。

 

涼州の統治権を。

 

一定の条件で認める。

 

だが。

 

拒絶するなら。

 

魏は。

 

涼州を敵国と見なす。

 

従属。

 

完全な降伏ではない。

 

しかし。

 

曹操の下へ入ることを。

 

事実上求める内容。

 

馬騰は。

 

最後まで読み。

 

書状を畳んだ。

 

「曹操らしい」

 

時雨の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「知ってるのか」

 

「何度か」

 

「使者を通じて話したことがある」

 

「自分の欲しいものを」

 

「隠さぬ女だ」

 

「それは合ってる」

 

「お前は」

 

馬騰が尋ねる。

 

「この条件を」

 

「どう思う」

 

「悪くない」

 

周囲の将が。

 

再び時雨を睨む。

 

馬騰だけは。

 

表情を変えない。

 

「涼州を」

 

「魏へ売れと言う条件だぞ」

 

「違う」

 

「何が違う」

 

「馬騰が」

 

「涼州を治めることは変わらない」

 

「魏と戦わない」

 

「それだけだ」

 

「その代わり」

 

馬騰の声が。

 

少し低くなる。

 

「私は」

 

「曹操へ頭を下げる」

 

「必要なら」

 

「張燕」

 

馬騰の目が鋭くなる。

 

「お前は」

 

「国を捨てた男だったな」

 

広間の空気が変わった。

 

時雨は。

 

何も答えない。

 

馬騰は続ける。

 

「百万を超える民を従え」

 

「燕国を名乗り」

 

「王となった」

 

「それを」

 

「自ら解体し」

 

「曹操へ降った」

 

「ああ」

 

「だから」

 

「私にも同じことをしろと?」

 

「違う」

 

時雨は。

 

静かに答える。

 

「俺は」

 

「燕を続ければ」

 

「皆が死ぬと思った」

 

「だから終わらせた」

 

「馬騰が」

 

「涼州を続けても」

 

「民を守れると思うなら」

 

「続ければいい」

 

「ならば」

 

「なぜ魏へ従えと言う」

 

「魏と戦えば」

 

「守れないからだ」

 

馬騰の瞳へ。

 

怒りが宿る。

 

「我らが」

 

「魏に勝てぬと?」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

迷わず言った。

 

広間にいた将たちが。

 

一斉に武器へ手をかける。

 

馬騰は。

 

それを止めなかった。

 

ただ。

 

時雨を見据える。

 

「言うではないか」

 

「総大将」

 

「嘘を言っても」

 

「仕方ない」

 

「涼州軍は強い」

 

「騎兵も」

 

「地形も」

 

「魏より上」

 

「ならば」

 

「勝てるではないか」

 

「一度はな」

 

時雨は答えた。

 

「最初の戦」

 

「二度目」

 

「三度目」

 

「魏軍を追い返すことはできる」

 

「だが」

 

「魏は」

 

「河北を持ってる」

 

「中原も」

 

「人口も」

 

「食料も」

 

「兵も」

 

「涼州より多い」

 

「負けても」

 

「次を出せる」

 

「涼州は」

 

「一度大きく負ければ」

 

「次がない」

 

「長く戦えば」

 

「最後に負ける」

 

馬騰は。

 

歯を食いしばるように。

 

時雨を見る。

 

感情ではない。

 

事実。

 

だからこそ。

 

腹立たしい。

 

「それでも」

 

馬騰が言う。

 

「私は」

 

「曹操へ従わん」

 

はっきりとした言葉。

 

拒絶。

 

時雨は。

 

馬騰の顔を見る。

 

恐怖。

 

強がり。

 

そのどちらでもない。

 

誇り。

 

そして。

 

責任。

 

馬騰は。

 

自分の地位を守りたいだけではない。

 

「なぜだ」

 

時雨が尋ねる。

 

「魏が嫌いか」

 

「曹操を信用していない」

 

「どこが」

 

「曹操は」

 

馬騰は書状を机へ置く。

 

「天下を望んでいる」

 

「ああ」

 

「河北を取り」

 

「中原最大の国となり」

 

「次は涼州」

 

「我らが従えば」

 

「その次は南」

 

「やがて」

 

「すべてを曹操の法で縛る」

 

「それが」

 

「天下統一だ」

 

「そうだ」

 

「私は」

 

馬騰は。

 

強く言った。

 

「涼州を」

 

「中原の都合で変えさせる気はない」

 

「この地には」

 

「この地の生き方がある」

 

「部族」

 

「豪族」

 

「遊牧の民」

 

「国境を越えて生きる者」

 

「曹操の法が」

 

「正しいからといって」

 

「涼州でも正しいとは限らん」

 

時雨は。

 

黙って聞く。

 

馬騰の拒絶は。

 

単なる反抗ではない。

 

涼州を。

 

曹操へ渡せば。

 

秩序が変わる。

 

税。

 

軍。

 

法。

 

土地。

 

交易。

 

中原の基準で。

 

涼州が測られる。

 

馬騰は。

 

それを恐れている。

 

「曹操は」

 

時雨が言う。

 

「全部を同じにはしない」

 

「なぜ言い切れる」

 

「俺が」

 

「違うまま魏にいる」

 

馬騰の目が。

 

僅かに動く。

 

「黒山の者も」

 

時雨は続ける。

 

「すぐに魏兵と同じにはしてない」

 

「法は守らせる」

 

「だが」

 

「山の暮らし」

 

「砦の決まり」

 

「残せるものは残した」

 

「馬騰も」

 

「交渉できる」

 

「何を残す」

 

「何を変える」

 

「条件を出せ」

 

「そのために」

 

「俺が来た」

 

馬騰は。

 

時雨を長く見た。

 

「お前は」

 

「本気で」

 

「戦を避けるために来たのか」

 

「ああ」

 

「魏の総大将でありながら?」

 

「ああ」

 

「曹操の命令を」

 

「曲げるつもりか」

 

「違う」

 

時雨は答える。

 

「曹操は」

 

「後ろを静かにしろと言った」

 

「馬騰を殺せとは言ってない」

 

「涼州を焼けとも」

 

「戦わずに静かになるなら」

 

「それでいい」

 

「お前が」

 

「そう思っているだけではないのか」

 

「最後は」

 

「曹操が決める」

 

「俺は」

 

「持ち帰る」

 

「馬騰が」

 

「何を守りたいか」

 

「どこまでなら」

 

「受け入れるか」

 

「話せ」

 

馬騰は。

 

目を閉じた。

 

一瞬。

 

本当に。

 

考えた。

 

時雨には分かった。

 

この女は。

 

戦いたいわけではない。

 

魏へ勝てると。

 

盲目的に信じてもいない。

 

涼州の民が。

 

長い戦で苦しむことも知っている。

 

それでも。

 

従わない。

 

なぜなら。

 

一度頭を下げれば。

 

涼州が。

 

二度と自分たちの意思で。

 

道を選べなくなると。

 

考えているから。

 

やがて。

 

馬騰は。

 

目を開いた。

 

「返答は変わらん」

 

その声に。

 

迷いはなかった。

 

「私は」

 

「曹操へ従わない」

 

「魏の属国にもならん」

 

「関中へ」

 

「今すぐ兵を出すつもりはない」

 

「だが」

 

「魏から」

 

「兵をどこへ動かすな」

 

「誰と結ぶな」

 

「そう命じられるつもりもない」

 

「涼州のことは」

 

「涼州で決める」

 

「曹操の許可は」

 

「必要ない」

 

時雨は。

 

馬騰を見た。

 

「なら」

 

「戦になる」

 

「ああ」

 

馬騰は答えた。

 

「お前が」

 

「魏軍を率いて来るなら」

 

「私は迎え撃つ」

 

「降伏はしない」

 

「城を失っても?」

 

「しない」

 

「兵が死んでも?」

 

馬騰の目へ。

 

一瞬。

 

痛みが走る。

 

「それでもだ」

 

「民が巻き込まれても?」

 

「巻き込ませぬ」

 

「無理だ」

 

時雨の声が。

 

少し冷たくなる。

 

「戦になれば」

 

「巻き込まれる」

 

「畑が荒れる」

 

「馬が奪われる」

 

「水が汚れる」

 

「家が焼ける」

 

「兵だけで終わる戦なんてない」

 

馬騰は。

 

拳を握った。

 

「だからといって」

 

「戦わず従えば」

 

「その民が」

 

「涼州の民ではなくなる」

 

「それは違う」

 

「何が違う!」

 

馬騰の声が。

 

広間へ響く。

 

「国とは」

 

「土地だけではない!」

 

「誰の命令へ従うか」

 

「誰の法で生きるか」

 

「自ら決めることだ!」

 

「その権利を捨て」

 

「生き残ったとして」

 

「それを守ったと言えるのか!」

 

時雨は。

 

その怒りを。

 

真正面から受けた。

 

馬騰の言葉は。

 

かつての時雨自身へ。

 

向けられているようでもあった。

 

燕を解体した。

 

国を捨てた。

 

民を。

 

魏へ預けた。

 

それは。

 

守ったのか。

 

自分で選ぶ権利を。

 

奪ったのではないか。

 

時雨は。

 

何度も。

 

自分へ問い続けてきた。

 

答えは。

 

完全には出ていない。

 

「言える」

 

時雨は答えた。

 

馬騰が。

 

僅かに目を見開く。

 

「俺は」

 

「国より」

 

「生きてる奴を選んだ」

 

「燕の民が」

 

「魏の法で生きる」

 

「それが嫌な奴もいた」

 

「俺を恨む奴もいる」

 

「それでも」

 

「死ぬよりいいと思った」

 

「勝手な判断だ」

 

「ああ」

 

「王の傲慢だ」

 

「ああ」

 

「それでも」

 

時雨は。

 

低く言った。

 

「俺は選んだ」

 

「全員へ」

 

「好きにしろと言って」

 

「何も選ばないふりはできなかった」

 

「国を続ければ」

 

「死ぬ」

 

「だから終わらせた」

 

「馬騰」

 

「お前も」

 

「選べ」

 

「国の誇りを守るか」

 

「民の命を守るか」

 

「両方守れると思うな」

 

広間の空気が。

 

重く沈んだ。

 

馬騰は。

 

時雨を見ている。

 

憎しみではない。

 

理解し合えない者へ向ける目。

 

互いに。

 

守りたいものがある。

 

その優先が違う。

 

「お前は」

 

馬騰が言う。

 

「曹操へ降ったことを」

 

「後悔していないのか」

 

「してない」

 

「一度も?」

 

「ある」

 

馬騰の眉が動く。

 

「どちらだ」

 

「後悔はある」

 

「でも」

 

「戻さない」

 

時雨は答える。

 

「失ったものは多い」

 

「霞も」

 

「黒山を離れた」

 

「他の奴らも」

 

「別の道へ行った」

 

「俺を」

 

「王と呼ばなくなった」

 

「それでも」

 

「生きてる」

 

「また会える」

 

「それでいい」

 

馬騰は。

 

何も言わなかった。

 

長い沈黙。

 

やがて。

 

書状を手に取り。

 

時雨の前へ投げる。

 

「持ち帰れ」

 

書状が。

 

机を滑る。

 

「返答は拒絶だ」

 

「私は」

 

「曹操へ従わない」

 

「魏が攻めるなら」

 

「涼州のすべてをもって戦う」

 

時雨は。

 

書状を拾う。

 

破られてはいない。

 

馬騰は。

 

曹操そのものを侮辱するつもりはない。

 

ただ。

 

従わない。

 

その意思だけを。

 

はっきり示した。

 

「分かった」

 

時雨は言った。

 

「帰る」

 

「張燕」

 

「何だ」

 

「次に会う時は」

 

馬騰の声が。

 

鋭くなる。

 

「敵だ」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

迷わず頷いた。

 

「次は」

 

「軍を連れてくる」

 

「待っている」

 

「逃げるなら今だ」

 

「誰に言っている」

 

馬騰は。

 

僅かに笑った。

 

「黒山の狼」

 

「我ら涼州の騎馬を」

 

「山賊の策で止められると思うな」

 

時雨も。

 

ほんの僅かに口元を上げた。

 

「騎兵は」

 

「馬が走れる場所でしか強くない」

 

馬騰の笑みが消える。

 

「覚えておけ」

 

時雨は。

 

踵を返した。

 

広間を出る。

 

最後まで。

 

背中へ。

 

涼州の将たちの視線が刺さっていた。

 

それでも。

 

誰も。

 

武器を抜かなかった。

 

馬騰は。

 

使者として来た時雨を。

 

殺さなかった。

 

捕らえもしなかった。

 

それだけで。

 

分かることがある。

 

馬騰は。

 

卑劣な主ではない。

 

誇り高い。

 

責任感が強い。

 

涼州を。

 

自分のものではなく。

 

預かる土地だと思っている。

 

だから。

 

降らない。

 

なら。

 

戦う時は。

 

その誇りを利用できる。

 

民を盾にはしない。

 

使者を殺さない。

 

正面から。

 

涼州の力を見せようとする。

 

時雨が。

 

会って知りたかったこと。

 

その答えは。

 

得られた。

 

戦は。

 

避けられない。

 

だが。

 

戦い方は決まった。

 

---

 

時雨が許昌へ戻ったのは。

 

出発から六日後の夕方だった。

 

約束した日。

 

日が落ちる直前。

 

軍営の門へ。

 

二十一騎が姿を現す。

 

全員。

 

生きている。

 

怪我もない。

 

見張りの兵が。

 

声を上げる。

 

「総大将がお戻りになった!」

 

軍営へ。

 

一気に報告が走る。

 

最初に。

 

門まで来たのは霞だった。

 

「遅いわ!」

 

馬上の時雨へ。

 

いきなり怒鳴る。

 

「六日と言った」

 

「六日目の夜や!」

 

「夜にはなってない」

 

「細かいねん!」

 

霞は。

 

時雨の身体を。

 

上から下まで確認する。

 

「怪我は」

 

「ない」

 

「飯は」

 

「食った」

 

「ほんまか?」

 

「ああ」

 

「嘘やったら」

 

「柳琳に言うで」

 

「本当だ」

 

続いて。

 

華論。

 

稟。

 

栄華。

 

柳琳。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

次々と集まる。

 

全員。

 

安堵を見せる。

 

だが。

 

その安堵より。

 

強いものがある。

 

怒り。

 

「時雨」

 

栄華が。

 

扇を閉じた。

 

「何だ」

 

「ご無事で」

 

「本当によろしゅうございました」

 

「ああ」

 

「ですが」

 

栄華は。

 

美しい笑みを浮かべる。

 

「華琳様が」

 

「王宮でお待ちです」

 

時雨の動きが。

 

僅かに止まった。

 

「いつ知った」

 

稟が答える。

 

「出発の翌朝です」

 

「早いな」

 

「華琳様は」

 

「軍営の定期報告へ」

 

「必ず目を通されます」

 

「総大将が」

 

「どこにもいなければ」

 

「気づかれます」

 

「誰が言った」

 

華論が。

 

僅かに視線を逸らす。

 

「報告書に」

 

「書くしかなかったっす」

 

「そうか」

 

「時雨」

 

柳琳が。

 

穏やかに呼ぶ。

 

「何だ」

 

「怒られてください」

 

「ああ」

 

即答だった。

 

春蘭が。

 

腕を組む。

 

「覚悟しろ」

 

「華琳様は」

 

「六日間」

 

「一度も」

 

「機嫌が直っていない」

 

「そんなにか」

 

秋蘭が。

 

静かに言う。

 

「時雨」

 

「姉者は」

 

「かなり控えめに言っている」

 

霞が。

 

面白そうに笑う。

 

「うちも行ってええか?」

 

「駄目だ」

 

「なんでや」

 

「余計に面倒になる」

 

「見たいねんけどなあ」

 

「駄目だ」

 

時雨は。

 

馬を降りる。

 

手綱を兵へ預ける。

 

次に。

 

稟を見る。

 

「馬騰は」

 

「降らない」

 

周囲の空気が変わる。

 

「明日の軍議で話す」

 

「今は」

 

時雨は。

 

王宮の方角を見る。

 

「曹操のところへ行く」

 

「生きて帰れよ」

 

霞が言う。

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「馬騰より」

 

「難しいかもしれない」

 

春蘭が。

 

力強く頷いた。

 

「当然だ!」

 

「華琳様を怒らせたのだからな!」

 

時雨は。

 

小さく息を吐き。

 

王宮へ向かった。

 

---

 

曹操の私室。

 

扉の前には。

 

普段より多くの護衛が立っていた。

 

時雨が近づくと。

 

全員が。

 

僅かに表情を硬くする。

 

「華琳様が」

 

「お待ちです」

 

「ああ」

 

扉が開く。

 

部屋の中。

 

曹操は。

 

机へ向かっていた。

 

地図。

 

竹簡。

 

書類。

 

だが。

 

何も読んでいない。

 

時雨が入っても。

 

すぐには顔を上げなかった。

 

扉が閉まる。

 

部屋には。

 

二人だけ。

 

時雨は。

 

曹操の前まで歩く。

 

「帰った」

 

曹操は。

 

返事をしない。

 

「曹操」

 

沈黙。

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「悪かった」

 

曹操の指が。

 

僅かに動いた。

 

それでも。

 

顔を上げない。

 

「何が?」

 

冷たい声。

 

時雨は。

 

立ったまま答える。

 

「黙って行った」

 

「それだけ?」

 

「総大将なのに」

 

「敵地へ入った」

 

「それだけ?」

 

「護衛が少なかった」

 

「それだけ?」

 

時雨は。

 

さらに考える。

 

「曹操が」

 

「心配すると思ったのに」

 

「言わなかった」

 

曹操が。

 

ようやく顔を上げた。

 

蒼い瞳。

 

怒り。

 

六日間。

 

抑え続けた感情。

 

「思ったのね?」

 

「ああ」

 

「分かっていて?」

 

「ああ」

 

「私が止めるから」

 

「黙って出た」

 

「ああ」

 

「それで」

 

曹操は。

 

ゆっくり立ち上がる。

 

「帰ってきて」

 

「悪かったの一言で終わると思っているの?」

 

「思ってない」

 

「なら」

 

「どうするつもり?」

 

「怒られる」

 

曹操の眉が。

 

激しく動く。

 

「分かっているなら!」

 

声が。

 

部屋へ響く。

 

「最初から行かないで!」

 

時雨は。

 

黙って受ける。

 

曹操は。

 

机を回り。

 

時雨の前へ立つ。

 

「あなたは」

 

「涼州征討軍の総大将よ!」

 

「あなた一人の命ではない!」

 

「何万という兵の予定が」

 

「あなたを中心に組まれている!」

 

「捕らえられたら?」

 

「殺されたら?」

 

「使者として扱われなかったら?」

 

「馬騰が」

 

「あなたを人質に」

 

「涼州から手を引けと要求したら?」

 

「どうするつもりだったの!」

 

「断れと言った」

 

「誰に!」

 

「稟たちに」

 

曹操の顔から。

 

一瞬。

 

言葉が消える。

 

次に。

 

怒りが。

 

さらに深くなった。

 

「自分を」

 

「見捨てろと命じたの?」

 

「ああ」

 

「時雨!」

 

曹操の手が。

 

時雨の胸元を掴んだ。

 

「あなたは」

 

「何も分かっていない!」

 

「分かってる」

 

「分かっていない!」

 

曹操は。

 

時雨の衣を強く握る。

 

「あなたを見捨てて」

 

「私が」

 

「何事もなかったように」

 

「涼州へ軍を出せると思うの?」

 

「魏王なら」

 

「出せる」

 

時雨の言葉に。

 

曹操の目が揺れる。

 

「ああ」

 

時雨は続ける。

 

「曹操なら」

 

「俺一人のために」

 

「国を危険にはしない」

 

「そう信じてる」

 

「それを」

 

「信頼だと思っているの?」

 

「違うのか」

 

「残酷よ!」

 

曹操の声が。

 

震えた。

 

「私は」

 

「魏王である前に」

 

「あなたが帰るのを」

 

「待っている女でもあるの!」

 

時雨は。

 

言葉を失った。

 

曹操は。

 

顔を俯ける。

 

怒りの中へ。

 

六日分の恐怖が滲む。

 

「毎日」

 

「報告を待った」

 

「関中から」

 

「涼州から」

 

「使者が来るたび」

 

「あなたが捕らえられたという知らせかもしれない」

 

「首が送られてくるかもしれない」

 

「そう考えた」

 

「それでも」

 

「私は」

 

「軍を止められない」

 

「河北を止められない」

 

「あなたを探しに行くこともできない」

 

「分かる?」

 

「あなたは」

 

「私が」

 

「何もできない場所へ」

 

「勝手に行ったのよ」

 

時雨は。

 

曹操を見た。

 

怒られる。

 

それは。

 

分かっていた。

 

だが。

 

ここまでは。

 

考えていなかった。

 

曹操なら。

 

王として判断する。

 

自分が戻らなければ。

 

切り捨てる。

 

そう信じていた。

 

だが。

 

切り捨てられることと。

 

切り捨てても平気であることは違う。

 

以前。

 

時雨自身が知ったこと。

 

俺がいなくてもよいことと。

 

俺がいなくてよいことは違う。

 

同じだった。

 

曹操は。

 

時雨がいなくても。

 

国を動かせる。

 

それでも。

 

いなくなってよいわけではない。

 

「悪かった」

 

時雨は。

 

もう一度言った。

 

今度は。

 

先ほどより。

 

重く。

 

「それだけでは足りないわ」

 

「ああ」

 

「二度としないと約束して」

 

時雨は。

 

すぐには答えなかった。

 

曹操が顔を上げる。

 

「なぜ黙るの」

 

「必要なら」

 

「また行くかもしれない」

 

曹操の目が。

 

鋭くなる。

 

だが。

 

時雨は。

 

逃げずに続けた。

 

「でも」

 

「黙っては行かない」

 

「先に話す」

 

「反対されても?」

 

「ああ」

 

「説得する」

 

「私が許さなければ?」

 

「行かない」

 

曹操の指から。

 

僅かに力が抜ける。

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「命令だからではなく?」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「曹操が」

 

「待つから」

 

曹操の目が。

 

静かに揺れた。

 

時雨は。

 

胸元を掴む手へ。

 

自分の手を重ねる。

 

「俺は」

 

「自分が戻ればいいと思ってた」

 

「でも」

 

「戻るまで」

 

「曹操が待つことを」

 

「ちゃんと考えてなかった」

 

「悪かった」

 

曹操は。

 

しばらく。

 

時雨を見つめた。

 

やがて。

 

衣を掴んでいた手を離す。

 

「馬鹿」

 

「ああ」

 

「愚か者」

 

「ああ」

 

「最低」

 

「それは違う」

 

「今は反論しない!」

 

曹操の声が響く。

 

時雨は。

 

黙った。

 

曹操は。

 

小さく息を吐く。

 

「怪我は?」

 

「ない」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「柳琳に見せた?」

 

「まだ」

 

「今すぐ見せなさい」

 

「ああ」

 

「食事は?」

 

「食った」

 

「睡眠は?」

 

「少し」

 

「少しでは分からないわ」

 

「二刻ずつ」

 

曹操の眉が寄る。

 

「馬鹿」

 

「さっき聞いた」

 

「何度でも言うわ」

 

曹操は。

 

机へ戻る。

 

だが。

 

座らない。

 

「それで」

 

「馬騰は?」

 

時雨も。

 

表情を変える。

 

ここからは。

 

魏王と総大将の話。

 

「降らない」

 

「明確に?」

 

「ああ」

 

「曹操へ従わない」

 

「涼州のことは」

 

「涼州で決める」

 

「関中へ今すぐ攻める気はない」

 

「でも」

 

「魏から命令されるつもりもない」

 

曹操は。

 

静かに聞く。

 

「交渉の余地は」

 

「少ない」

 

「ない、ではないの?」

 

「馬騰は」

 

「魏の法で」

 

「涼州が変えられることを恐れてる」

 

「統治権を残すだけでは足りない」

 

「魏へ従った時点で」

 

「涼州が自分たちのものではなくなると思ってる」

 

「そう」

 

曹操は。

 

机上の地図を見る。

 

「馬騰らしいわね」

 

「知ってたのか」

 

「予想はしていた」

 

「なら」

 

「なぜ使者を送る」

 

「拒絶を」

 

「明確にさせるためよ」

 

曹操の指が。

 

涼州へ触れる。

 

「魏は」

 

「理由なく攻めるのではない」

 

「条件を示した」

 

「馬騰が拒んだ」

 

「だから戦う」

 

「他国も」

 

「魏の民も」

 

「それを知る必要がある」

 

時雨は。

 

少し目を細くする。

 

「最初から」

 

「降らないと思ってたな」

 

「ええ」

 

曹操は隠さない。

 

「でも」

 

「あなたが直接会ったことで」

 

「得たものはあるのでしょう?」

 

「ああ」

 

「話しなさい」

 

時雨は。

 

馬騰との会談を。

 

最初から伝えた。

 

使者を殺さない。

 

武器を無理に奪わない。

 

涼州の独自性を守ろうとしている。

 

誇り高い。

 

民を守る意志がある。

 

そして。

 

降伏する気は。

 

まったくない。

 

「馬騰は」

 

時雨が言う。

 

「民を盾にはしない」

 

「使者も殺さない」

 

「正面から」

 

「涼州の強さを見せようとする」

 

「なら」

 

曹操が尋ねる。

 

「どう戦う?」

 

「誇りを利用する」

 

時雨は。

 

地図上。

 

関中と涼州を結ぶ道へ指を置く。

 

「馬騰は」

 

「魏軍が来れば」

 

「騎兵を出す」

 

「城へ籠もるより」

 

「外で止める」

 

「涼州の騎兵が」

 

「中原の軍へ負けないと」

 

「示す必要があるから」

 

「誘える?」

 

「ああ」

 

「だが」

 

「正面からぶつからない」

 

「春蘭を見せる」

 

「霞を見せる」

 

「馬騰軍を」

 

「広い場所へ出させる」

 

「その後」

 

「馬を走れなくする」

 

曹操の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「どうやって?」

 

「今は言わない」

 

「なぜ」

 

「まだ決めてない」

 

「時雨」

 

曹操の声が低くなる。

 

「決める前に」

 

「必ず軍議で話す」

 

「ええ」

 

「勝手に現地へ行かない」

 

「ええ」

 

「曹操にも」

 

「先に言う」

 

曹操は。

 

少しだけ口元を緩めた。

 

「なら」

 

「今は許すわ」

 

「怒るのは終わりか」

 

「終わっていない」

 

時雨の顔が曇る。

 

「まだか」

 

「今夜」

 

「ここで」

 

「会談の内容を」

 

「一言も省かず」

 

「最初から最後まで話しなさい」

 

「今話した」

 

「足りないわ」

 

「何が」

 

「馬騰が」

 

「どんな顔で」

 

「何を言ったか」

 

「あなたが」

 

「何を考えたか」

 

「全部」

 

「長いぞ」

 

「六日待ったのよ」

 

曹操は。

 

時雨を睨む。

 

「一晩くらい」

 

「付き合いなさい」

 

時雨は。

 

小さく息を吐く。

 

「分かった」

 

「それから」

 

「まだあるのか」

 

「今夜は」

 

「私の目の届くところで眠りなさい」

 

「なぜ」

 

「また勝手にいなくならないように」

 

「行かない」

 

「信用できないわ」

 

「約束した」

 

「六日分の信用を失ったの」

 

時雨は。

 

返す言葉がなかった。

 

曹操は。

 

ようやく椅子へ座る。

 

「時雨」

 

「なんだ」

 

「お帰りなさい」

 

その声は。

 

先ほどまでの怒りとは違い。

 

小さく。

 

柔らかかった。

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

帰る場所。

 

待つ者。

 

戻った時。

 

その言葉を言う者。

 

「ただいま」

 

時雨は答えた。

 

曹操の瞳から。

 

ほんの僅かに。

 

張りつめていたものが消える。

 

だが。

 

すぐに。

 

いつもの強い顔へ戻った。

 

「では」

 

「最初から話しなさい」

 

「どこから」

 

「許昌を出たところから」

 

「そこからか」

 

「当然でしょう?」

 

「長すぎる」

 

「自業自得よ」

 

「面倒だな」

 

「時雨!」

 

曹操の声が。

 

部屋へ響く。

 

王宮の外。

 

夜の許昌は。

 

静かだった。

 

だが。

 

西では。

 

すでに。

 

戦の風が吹き始めている。

 

馬騰は。

 

降伏を拒んだ。

 

曹操へ従わない意思を。

 

明確に示した。

 

涼州のことは。

 

涼州で決める。

 

その誇りを守るため。

 

馬騰は。

 

魏と戦う道を選んだ。

 

そして。

 

時雨もまた。

 

その覚悟を。

 

自分の目で確かめた。

 

交渉は終わった。

 

次に向き合う時。

 

二人は。

 

使者と主ではない。

 

魏軍総大将と。

 

涼州の王。

 

敵として。

 

戦場へ立つ。

 

だが。

 

時雨は。

 

馬騰を憎んでいない。

 

馬騰も。

 

時雨を侮ってはいない。

 

互いに。

 

守りたいものがある。

 

その形が違う。

 

譲れない。

 

だから戦う。

 

涼州征討。

 

避けられぬ戦の幕は。

 

時雨が勝手に踏み込んだ西の地で。

 

誰にも止められない形となって。

 

静かに上がり始めていた。




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