外伝 第15話 渇いた大地に狼は嗤う――涼州征伐、開戦
外伝 第15話 渇いた大地に狼は嗤う――涼州征伐、開戦
涼州征伐軍が許昌を発った朝。
空には。
雲一つなかった。
東の地平から昇る太陽が。
幾万もの鎧を照らす。
魏の旗。
曹の旗。
夏侯の旗。
黒狼隊の黒旗。
そして。
客将として軍へ加わった張遼の隊には。
まだ主家を示す旗がなかった。
霞自身が。
いらん。
そう言ったからだ。
「うちはまだ客将や」
「魏の旗を背負うかどうかは」
「涼州が終わってから決める」
その言葉を。
曹操は認めた。
だから。
霞の騎馬隊は。
隊の所在を示す小さな紫布だけを槍先へ結んでいる。
正式な旗ではない。
それでも。
紫の布が風へなびくたび。
燕国を知る者たちは。
かつての飛将が戻ったことを理解した。
軍勢は。
長い列となって。
西へ進む。
先頭には。
華論が整理した工兵と斥候。
続いて。
霞の騎馬隊。
中央に。
春蘭が率いる主力歩兵。
秋蘭の弓兵。
稟の軍師隊。
医療隊と輸送隊。
後方を。
黒狼隊が守っている。
総大将である時雨は。
全軍の中央にはいなかった。
先頭でもない。
後方でもない。
ある時は。
街道脇の高台から隊列を眺め。
ある時は。
輸送隊の横を歩き。
ある時は。
最後尾まで馬を走らせる。
総大将の旗だけが。
軍の中を絶えず移動していた。
「落ち着きがありませんわね」
輸送隊の荷車へ並走しながら。
栄華が言った。
美しく整えられた軍装。
その腰には。
武器より先に。
帳簿と筆を入れた袋がある。
「総大将は」
「全軍中央で」
「どっしり構えているものではありませんの?」
「見えない場所がある」
時雨は答えた。
「報告を聞けばよいでしょう」
「見る方が早い」
「それでは」
「報告役が育ちません」
時雨は。
僅かに栄華を見る。
「見るなと言うのか」
「見た後で」
「報告との違いを確認なさいませ」
栄華は。
前方の荷車を扇で示す。
「たとえば」
「先ほど」
「三台目の車輪が僅かに傾いていることへ」
「お気づきでした?」
「ああ」
「では」
「なぜ報告を待たないのです」
「壊れたら遅い」
「報告前に」
「あなたが直させれば」
「担当者は」
「自分が見落としたことに気づきません」
時雨は。
少し黙る。
栄華の言葉にも。
理がある。
黒山では。
時雨が見つけ。
時雨が命じ。
すぐに直した。
速い。
だが。
時雨がいなければ。
誰も気づかない形になる。
それを。
魏で繰り返すわけにはいかない。
「分かった」
時雨は答えた。
「報告を待つ」
栄華の眉が。
僅かに上がる。
「本当に?」
「ああ」
「では」
「三台目の車輪について」
「今は何も言わず」
「待ってくださいませ」
「ああ」
二人は。
しばらく。
荷車と並んで進んだ。
半刻後。
若い輸送隊長が。
慌てた様子で馬を寄せる。
「総大将!」
「何だ」
「第三列の荷車一台に」
「車軸の異常がございます」
「次の休止地点で」
「車輪を交換したく」
「許可を願います」
時雨は。
栄華を見る。
栄華は。
僅かに笑っている。
「許可する」
時雨が言う。
「遅れは」
「予備の車輪があります」
「隊列全体への影響はありません」
「分かった」
「任せる」
輸送隊長は。
頭を下げ。
隊へ戻った。
栄華が。
扇を開く。
「いかがです?」
「悪くない」
「それだけ?」
「栄華が正しかった」
栄華の動きが。
僅かに止まる。
「……最初から」
「そうおっしゃいなさいませ」
「今言った」
「今後も続けてください」
時雨は。
返事をせず。
前方を見る。
栄華は。
小さく息を吐いた。
だが。
不満そうではなかった。
時雨が。
自分一人の目だけへ頼らず。
他の者へ任せようとしている。
少しずつ。
本当に。
魏の総大将へ変わっている。
少なくとも。
この時までは。
皆が。
そう考えていた。
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軍は。
長安へ到着した。
許昌を出てから。
予定より一日遅い。
雨ではない。
敵襲でもない。
途中。
一つの村で。
熱病が広がっていた。
軍の進軍路からは。
少し外れている。
本来なら。
通り過ぎても。
作戦へ影響はない。
時雨は。
柳琳の医療隊から。
三百名を分けた。
病人を隔離し。
水を煮沸し。
村の井戸を調べ。
薬を配る。
その結果。
半日の遅れ。
翌日の行軍速度も落ち。
長安到着が一日延びた。
栄華は。
兵糧の消費量を計算し直した。
華論は。
全隊の予定を組み替えた。
稟は。
馬騰軍に。
進軍速度を測られる危険を指摘した。
それでも。
誰も。
村を見捨てろとは言わなかった。
総大将が。
兵を帰すと言った。
民から奪わないと言った。
病に倒れた者も。
敵ではない。
なら。
救う。
それが。
涼州征伐軍の方針だと。
兵たちは理解し始めていた。
長安城外。
魏軍大営。
中央の天幕には。
主要な将が集まっている。
時雨。
春蘭。
秋蘭。
霞。
華論。
栄華。
柳琳。
稟。
韓武。
石剛。
机の中央へ。
関中から涼州へ続く地図が広げられていた。
馬騰軍の位置は。
すでに判明している。
魏軍が長安へ入るより前。
馬騰は。
国境付近へ騎兵二万を進めた。
後方には。
歩兵と弓兵。
各地の豪族軍。
合わせて。
四万以上。
全軍では。
魏より少ない。
だが。
涼州の地形で戦うなら。
数字以上の力を持つ。
「敵先鋒は」
稟が木札を置く。
「国境西方の平原へ布陣」
「およそ一万二千」
「別働の騎馬隊が」
「北方と南方へ」
「それぞれ四千」
「本隊は」
「さらに西へ二日ほどの位置」
「馬騰自身は?」
時雨が尋ねる。
「本隊にいると思われます」
「思われる?」
「総大将旗は確認されています」
「ですが」
「影武者の可能性を否定できません」
「馬騰は」
「そういうことをするか」
「戦になれば」
「主君として」
「あらゆる手段を用いるでしょう」
稟は。
時雨を見る。
「時雨殿も」
「軍略勝負では」
「影武者を使われました」
「ああ」
「なら」
「馬騰殿も同じです」
春蘭が。
腕を組む。
「どちらでもよい」
全員の視線が。
春蘭へ向く。
「影武者であろうと」
「本物であろうと」
「目の前の敵を倒せば」
「最後には馬騰が出てくる」
霞が。
楽しそうに笑う。
「単純やけど」
「間違ってへんな」
「単純とは何だ!」
「褒めとるんや」
「ならばよい!」
秋蘭が。
小さく息を吐く。
稟は。
春蘭の意見を否定しなかった。
敵兵を減らせば。
馬騰は。
どこかで。
自ら動かなければならない。
問題は。
そこへ至るまでに。
魏軍がどれほど失うか。
「敵先鋒を」
華論が言う。
「まず叩くっすか?」
「ああ」
時雨は答えた。
「でも」
「普通には戦わない」
春蘭の眉が上がる。
「またか」
「何だ」
「貴様は」
「正面から戦うことを」
「本当に嫌うな」
「嫌いじゃない」
「なら」
「勝てるならやる」
「勝てる!」
「損害が出る」
春蘭は。
言葉を止める。
馬騰軍先鋒。
一万二千。
騎兵中心。
魏軍が正面から。
同数以上を出せば。
勝てる可能性は高い。
春蘭。
霞。
秋蘭。
魏の猛将を並べれば。
撃破できる。
だが。
千。
二千。
あるいは。
それ以上。
失う。
勝つために。
必要な損害。
戦ならば。
そう言える。
だが。
時雨は。
必要という言葉を。
簡単には使わない。
「総大将」
稟が尋ねる。
「どのような策を?」
時雨は。
すぐに答えなかった。
地図を見る。
敵先鋒の陣。
北へ。
低い丘陵。
南へ。
乾いた川筋。
西へ。
広い平原。
騎兵が。
最も力を発揮する場所。
時雨が。
馬騰へ言った。
騎兵は。
馬が走れる場所でしか強くない。
だから。
敵は。
走れる場所へ出ている。
「稟」
時雨が呼ぶ。
「はい」
「この辺りの村」
「人はいるか」
稟は。
地図の印を確認する。
「国境周辺の村の多くは」
「馬騰軍の命令で」
「西へ避難しています」
「ですが」
「完全ではありません」
「老人」
「病人」
「家畜を捨てられない者」
「数百名は残っていると」
「北の丘は」
「放牧地か」
「はい」
「馬騰軍が」
「軍馬の一部を放しています」
「数は」
「少なくとも三千」
「水場は」
「丘の裏側に」
「小さな泉が二つ」
「他には」
「南の川筋」
「現在は地表に水がありませんが」
「掘れば地下水が出ます」
時雨は。
地図の上へ。
指を置いた。
丘。
泉。
放牧馬。
乾いた川。
避難しきれない村人。
「華論」
「はいっす」
「工兵を二つに分ける」
「一つは」
「北の丘へ」
「夜のうちに回す」
「もう一つは」
「南の川筋」
「何をするっすか?」
時雨は。
淡々と答えた。
「北の泉を潰す」
天幕が。
静まった。
「……潰す?」
柳琳が。
小さく繰り返す。
「ああ」
「石と泥を入れる」
「飲めなくする」
「待ってください」
柳琳の声が。
僅かに強くなる。
「その水は」
「軍馬だけが飲むものではありません」
「分かってる」
「放牧民も」
「避難していない村の方も使います」
「ああ」
「それを」
「使えなくするのですか」
「ああ」
時雨の返事は。
変わらない。
栄華の扇が。
ゆっくり閉じられる。
稟も。
時雨の顔を見ている。
「南は」
華論が尋ねる。
普段の明るさが。
声から消えている。
「何をするっすか」
「水が出る場所を」
「全部掘る」
「井戸を作るんすか」
「逆だ」
時雨は。
乾いた川筋へ。
黒い駒を並べた。
「涼州軍へ」
「水が出ると分かるようにする」
「そして」
「先に油を流す」
誰も。
すぐには意味を理解しなかった。
霞の目が。
最初に細くなる。
「水場に」
「油入れる気か」
「ああ」
「飲めんように?」
「ああ」
柳琳が。
机へ手を置く。
「駄目です」
明確な拒絶。
「それは」
「敵兵だけを苦しめる策ではありません」
「馬も」
「民も」
「旅人も」
「すべて」
「水を飲めなくなります」
「一時的だ」
「一時的でも!」
柳琳の声が響く。
天幕の外。
近くを通る兵が。
一瞬。
足を止めた。
「水を奪うことは」
「命を奪うことと同じです」
「分かってる」
「分かっていて?」
「ああ」
時雨は。
地図から目を上げる。
柳琳を見る。
「だからやる」
「どうしてですか」
「馬騰軍を」
「平原から動かす」
「水がなければ」
「軍馬を置けない」
「先鋒は」
「西へ下がる」
「本隊の水場へ集まる」
稟が。
策の先を読む。
「敵軍を」
「一か所へ集中させる?」
「ああ」
「しかし」
「集中すれば」
「敵兵は増えます」
「戦いにくくなるのでは」
「逆だ」
時雨は答える。
「動ける場所が減る」
「何万の馬がいても」
「水場は増えない」
「一か所へ集まれば」
「飲ませる順番で揉める」
「豪族軍」
「馬騰の直轄」
「部族」
「同じ軍でも」
「自分の馬を先にしたい」
「命令へ不満が出る」
霞の顔から。
笑みが消えていた。
騎兵を知る者だからこそ。
時雨の策が。
どれほど嫌らしいか分かる。
馬は。
兵の武器ではない。
相棒。
財産。
家族。
涼州の者にとって。
自分の足より大事な存在。
水が足りない。
誰の馬へ。
先に飲ませる。
それだけで。
軍の中へ亀裂が入る。
「それだけやないやろ」
霞が言う。
時雨を見る目は。
鋭い。
「まだ何かある」
「ああ」
時雨は。
北の丘へ。
別の駒を置く。
「放牧馬を」
「全部逃がす」
「奪うんやなく?」
「奪わない」
「縄を切る」
「音を立てる」
「西へ追う」
春蘭が。
眉を寄せる。
「敵本隊の方角へ?」
「ああ」
「三千の馬が」
「突然本隊へ走れば」
「陣が乱れる」
「止めるため」
「騎兵を出す」
「そこを」
「霞が叩く」
霞の目が。
僅かに細くなる。
「散った馬の中で」
「敵騎兵とやれ言うんか」
「ああ」
「馬騰軍は」
「自分の馬を斬れない」
「霞は」
「斬らなくていい」
「人だけ落とせ」
春蘭が。
机へ拳を置く。
「待て」
全員が。
春蘭を見る。
「それでは」
春蘭は。
低い声で言う。
「敵は」
「まともに戦うことすらできない」
「ああ」
「馬を逃がされ」
「水を奪われ」
「混乱したところを襲う」
「ああ」
「卑怯だ」
天幕が。
静まる。
春蘭が。
時雨の策を。
はっきりと非難した。
「それがどうした」
時雨が答える。
春蘭の目が。
見開かれる。
「何だと」
「卑怯なら」
「やらないのか」
「当然だ!」
「正面から戦って」
「魏兵が千人死んでも?」
春蘭の言葉が止まる。
「二千なら」
時雨は続ける。
「三千なら」
「春蘭は」
「卑怯じゃない戦いのために」
「そいつらを死なせるのか」
「私は」
「先頭へ立つ!」
「春蘭が生きても」
「後ろの兵は死ぬ」
「それは!」
「戦だから仕方ない?」
時雨の声は。
静かだった。
怒鳴らない。
だが。
一つずつ。
逃げ道を潰す。
「俺は」
「仕方ないで」
「兵を殺したくない」
「敵も」
「味方も」
「少ない方がいい」
「そのためなら」
「卑怯でも」
「外道でも」
「俺がやる」
春蘭は。
拳を握る。
納得はできない。
正面から。
力で破る。
敵も。
その覚悟で出ている。
互いの武を尽くし。
勝った者が進む。
それが。
春蘭の戦。
誇り。
だが。
時雨の言葉も。
間違ってはいない。
正々堂々と戦うため。
死ななくてよい兵を死なせる。
それが。
本当に正しいのか。
春蘭には。
すぐに答えられなかった。
「時雨殿」
稟が口を開く。
「水場を潰す策は」
「軍事上」
「効果が高いでしょう」
「ですが」
「戦後へ」
「深い禍根を残します」
「分かってる」
「涼州の民は」
「魏軍を」
「水を汚した軍として憎む」
「ああ」
「馬騰殿は」
「民を守るための戦だと訴える」
「それを」
「私たち自身が証明することになります」
「ああ」
「それでも?」
「ああ」
時雨は。
迷わない。
「ただし」
「潰すのは」
「二日だけだ」
「二日?」
「柳琳」
時雨が呼ぶ。
柳琳は。
険しい顔のまま。
時雨を見る。
「何ですか」
「別の水を用意する」
「誰のために?」
「民」
「敵兵にも」
「降るなら渡す」
柳琳の眉が。
僅かに動く。
時雨は。
南の川筋から。
東へ少し離れた谷を指した。
「ここに」
「古い井戸がある」
「稟の地図にはない」
稟が。
驚いて地図を見る。
「なぜご存じなのです」
「馬騰のところへ行く途中」
「商隊が」
「南へ回ってた」
「理由を聞いた」
「古い井戸がある」
「ただ」
「水量が少ない」
「軍全体には足りない」
「村人と」
「小さな隊なら飲める」
「では」
柳琳が言う。
「そちらを」
「民へ知らせるのですか」
「ああ」
「戦の前に」
「黒狼隊を村へ入れる」
「魏軍が」
「北の泉と川筋を使えなくする」
「その前に」
「村人を古井戸へ逃がす」
「嫌がる者は」
「連れていかない」
「だが」
「水がなくなることは話す」
柳琳は。
時雨を見つめる。
完全な無差別ではない。
民へ。
別の道を用意する。
だが。
それでも。
生活の場を追われる。
家畜。
畑。
家。
すべてを置き。
魏軍の都合で。
移動させられる。
「避難へ応じた民には」
時雨が続ける。
「食料を渡す」
「家畜の餌も」
「戦が終わった後」
「泉を掘り直す」
「油を流した場所は」
「土を入れ替える」
「費用は」
時雨は。
栄華を見る。
栄華の顔が。
明らかに険しくなった。
「魏が出す」
「当然ですわ」
栄華は答える。
「当然?」
時雨の眉が。
僅かに動く。
「ええ」
栄華は。
扇を強く握ったまま。
言葉を続ける。
「あなたが」
「どうしても」
「その非道な策を用いるのであれば」
「壊したものを戻す費用は」
「すべて魏軍が負担します」
「民へ」
「一文たりとも出させません」
「ああ」
「家畜が死ねば補償」
「畑が荒れれば種を支給」
「井戸を戻すまで」
「水の輸送を続ける」
「ああ」
「その全てを」
「正式な命令書へ記してください」
「ああ」
栄華は。
時雨を睨む。
「後から」
「聞いていないとは」
「言わせませんわ」
「言わない」
「そして」
「この策の費用が」
「どれほどになるか」
「必ず最後まで見ていただきます」
「分かった」
栄華の怒りは。
収まっていない。
だが。
総大将の策として。
実行するための形を整え始めている。
華論も。
難しい顔で地図を見る。
「工兵は」
「動かせるっす」
「ただ」
「泉を完全に壊すなら」
「戻すのに時間かかるっすよ」
「完全には壊さない」
時雨は答える。
「水脈は残す」
「入口を塞ぐ」
「泥を混ぜる」
「二日で」
「使えないようにする」
「戦後」
「掘り直せる程度」
華論は。
少しだけ安心したように息を吐く。
だが。
すぐに顔を引き締める。
「分かったっす」
「工兵へ説明するっす」
「でも」
「嫌がる兵もいると思うっすよ」
「ああ」
「無理にやらせない」
「志願で選ぶ」
「実行した奴の名は」
「記録しない」
稟の目が。
僅かに細くなる。
「罪を」
「総大将一人で背負うおつもりですか」
「ああ」
「命令は俺だ」
「やった兵を」
「涼州へ恨ませない」
「その代わり」
稟は。
時雨を真っ直ぐ見る。
「時雨殿が」
「水を奪った外道として」
「すべての憎悪を受ける」
「ああ」
「それでよいと?」
「いい」
「よくありません」
柳琳が。
静かに言った。
時雨が彼女を見る。
「俺を」
「民が恨む」
「それで」
「魏へ降るなら」
「曹操を憎まなくていい」
「あなたは」
柳琳の声が。
震える。
「また」
「自分一人を」
「犠牲にすればよいと思っている」
「違う」
「何が違うのです」
「俺が死ぬわけじゃない」
「同じです」
柳琳は。
時雨を見据える。
「命だけではありません」
「名も」
「心も」
「信頼も」
「失えば」
「戻らないものがあります」
「時雨は」
「自分が嫌われることを」
「軽く考えすぎです」
「軽くはない」
「では」
「どうして」
「平気な顔で」
「すべて自分へ向けようとするのです」
時雨は。
すぐに答えられなかった。
平気ではない。
涼州の民に。
外道と呼ばれる。
憎まれる。
子供に。
石を投げられる。
それを。
想像できないわけではない。
だが。
曹操が。
涼州を治める時。
最初から。
水を奪った王として憎まれるより。
時雨一人へ。
憎しみが向いた方がいい。
魏軍も。
命令へ従っただけ。
曹操も。
知らなかった。
そういう形にすれば。
戦後。
まだ。
やり直せる。
「柳琳」
時雨が言う。
「なんですか」
「俺は」
「総大将だ」
「はい」
「勝つ方法だけじゃなく」
「戦後」
「誰が嫌われるかも」
「決める」
「それが」
「俺で済むなら」
「俺がいい」
柳琳は。
目を伏せた。
理解できないわけではない。
むしろ。
理解できてしまう。
だから。
止めきれない。
それでも。
認めたくない。
時雨が。
帰る場所を得た後も。
自分を。
捨てる駒のように使うことを。
「華琳様は」
柳琳が言う。
「この策を」
「ご存じですか」
時雨の動きが。
ほんの僅かに止まった。
全員が。
その変化を見た。
霞が。
低い声で言う。
「時雨」
「まさか」
「まだ言うてへんのか」
「今決めた」
「ほんなら」
霞は。
机を指で叩く。
「今から言え」
「遅い」
「何が」
「返事を待てば」
「馬騰軍が動く」
「もう動いてる」
「せやからって」
「前のこと忘れたんか!」
霞の声が。
天幕へ響く。
「勝手に馬騰んとこ行って」
「華琳様に怒られたばっかりやろ!」
「今回は」
「俺が行くわけじゃない」
「そういう問題ちゃう!」
「策は」
「現地で決めると言った」
「でも」
「先に話すとも言った」
「全部決める前に」
「曹操へ使者を出す」
「ほんまやな?」
「ああ」
「返事来るまで」
「やらへんのやな?」
時雨は。
答えなかった。
霞の目が鋭くなる。
「時雨」
「返事」
「待てない」
霞が。
飛龍偃月刀の柄へ手を置いた。
春蘭も。
時雨を睨んでいる。
「貴様」
「華琳様との約束を」
「また破るつもりか」
「違う」
「何が違う!」
「先に報告する」
「だが」
「許可を待つとは言ってない」
「同じだ!」
「違う」
「時雨!」
春蘭が。
机を叩いた。
「華琳様は」
「お前を信じて」
「総大将へした!」
「その信頼を」
「都合よく使うな!」
時雨の目が。
僅かに細くなる。
春蘭の言葉。
重い。
曹操の信頼。
だから。
任された。
大きな裁量。
戦場で。
一つ一つ許可を待たず。
決めるため。
だが。
その自由を。
曹操が嫌う策へ使う。
それは。
信頼に応えることか。
裏切ることか。
「春蘭」
時雨が言う。
「なんだ」
「曹操が」
「駄目だと言えば」
「この策は使わない」
春蘭の目が。
僅かに動く。
「本当に?」
「ああ」
「ただ」
「返事が来るまで」
「敵を動かさないため」
「別の策を使う」
「何をする」
「偽の陣を作る」
時雨は。
平原東側の丘へ。
魏軍駒を並べる。
「春蘭の旗を」
「中央へ出す」
「霞の騎馬を」
「南へ見せる」
「秋蘭の弓兵を」
「北へ」
「攻めるように見せる」
「だが」
「前へは出ない」
「敵が」
「陣を固めるようにする」
稟が。
すぐに策を理解する。
「三方向から攻めるように見せ」
「馬騰軍先鋒を」
「現在地へ拘束する」
「ああ」
「その間に」
「使者を許昌へ」
「最速で送る」
「返答を待つ」
時雨は。
春蘭を見る。
「これでいいか」
春蘭は。
すぐには答えなかった。
時雨が。
譲った。
自分一人で。
決めたことを押し通さず。
曹操へ許可を求める。
戦機を逃さないための。
代わりの策も出した。
「……よい」
春蘭は。
低く答える。
「だが」
「華琳様がお許しにならなければ」
「絶対に使うな」
「ああ」
霞も。
時雨から手を離す。
「ほんまに」
「面倒な男やな」
「霞に言われたくない」
「うちは」
「酒と喧嘩以外は」
「ちゃんと言うこと聞くで」
「ほとんど駄目だろ」
「何やと!」
緊張が。
僅かに緩む。
だが。
策そのものへの。
嫌悪と重さは残った。
時雨は。
使者を呼ぶ。
曹操へ送る書状。
自分の策を。
一つも隠さず書かせる。
北の泉を使えなくする。
南の水場へ油を流す。
放牧馬を逃がす。
馬騰軍を。
水場へ集中させ。
豪族と部族の不満を煽る。
その上で。
混乱した騎馬隊を叩く。
民には。
別の水場と食料を用意。
戦後は。
魏の費用で復旧する。
策の責任は。
総大将張燕が負う。
最後の一文へ。
時雨は。
自分で筆を取った。
曹操へ。
許可を求める。
その文字を書くことは。
時雨にとって。
敵陣へ入るより。
難しかった。
---
二日後。
魏軍は。
国境平原の東へ布陣した。
馬騰軍先鋒と。
互いの旗が見える距離。
春蘭の大旗は。
軍中央。
最も目立つ場所へ立つ。
その前へ。
重装歩兵。
まるで。
正面から突破するための布陣。
南では。
紫布をなびかせる。
霞の騎馬隊。
広く散開し。
いつでも。
敵側面へ走れるように見せている。
北の丘には。
秋蘭の弓兵。
高所を取り。
敵騎馬を射る構え。
馬騰軍は。
動かなかった。
動けなかった。
中央を春蘭が攻める。
南から霞が回る。
北から秋蘭が射る。
そう見える。
どこか一つへ。
兵を寄せれば。
別の場所が破られる。
だから。
三方向へ。
均等に備える。
時雨の狙い通り。
「ほんまに」
霞が。
敵陣を見ながら笑う。
「出てこんな」
「ああ」
時雨は。
馬上から。
平原全体を見る。
「華琳様の返事は」
秋蘭が尋ねる。
「まだだ」
「いつ届く」
「早くて明日」
「敵が動けば?」
「その時は変える」
春蘭が。
少し離れた場所から。
時雨を睨む。
「勝手に動くなよ」
「春蘭に言われたくない」
「私は」
「華琳様の命令へ従う!」
「俺もだ」
「ならよい!」
霞が。
二人を見る。
「何や」
「似た者同士やな」
「違う!」
春蘭が即座に怒鳴る。
時雨は。
無視した。
夕方。
敵陣から。
小さな騎馬隊が出る。
挑発。
魏軍の前へ近づき。
矢の届かない距離を走る。
涼州兵が。
槍を掲げ。
声を上げる。
「魏の臆病者!」
「黒山の鼠!」
「曹操の犬!」
兵の間へ。
怒りが走る。
春蘭の眉が。
大きく動く。
「時雨」
「駄目だ」
「まだ何も言っていない!」
「出るな」
「奴らは」
「華琳様を侮辱した!」
「聞こえなかった」
「私は聞いた!」
「春蘭」
秋蘭が。
姉の馬の手綱を掴む。
「挑発だ」
「分かっている!」
「分かっていて乗るな」
「乗っていない!」
「馬を進めた」
「一歩だけだ!」
「それを乗ると言う」
霞が。
腹を抱えて笑う。
「春蘭」
「分かりやすすぎやろ」
「貴様!」
時雨は。
挑発を続ける騎兵を見る。
戦意。
高い。
誇り。
魏軍を。
中原の臆病者と。
見下している。
馬騰の言葉。
涼州の騎馬を。
山賊の策で止められると思うな。
その自信。
その誇りを。
時雨は。
壊すつもりだった。
正面からではない。
最も。
受け入れがたい方法で。
「秋蘭」
「なんだ」
「旗の横」
「赤い布の騎兵」
秋蘭が。
目を細くする。
「隊長格だな」
「射てるか」
「ああ」
「殺すな」
「馬から落とせ」
「腕か」
「旗を持つ手」
秋蘭は。
弓を取る。
距離。
遠い。
風。
西から。
乾いた風。
敵騎兵は。
走っている。
秋蘭は。
一度だけ息を止めた。
矢。
放つ。
騎兵の手から。
旗が飛ぶ。
次の瞬間。
兵が。
馬上で姿勢を崩し。
地へ落ちた。
致命傷ではない。
腕。
矢が貫いている。
涼州兵の声が止まる。
秋蘭の矢は。
届かないと思われた場所から。
隊長を落とした。
「次」
時雨が言う。
「黄色い布」
秋蘭は。
もう一本。
矢をつがえる。
「殺すな?」
「ああ」
「では」
矢が飛ぶ。
今度は。
馬の手綱。
革だけを切った。
騎兵の制御を失った馬が。
急に向きを変える。
後ろの二騎とぶつかり。
三人が地へ転がった。
魏軍から。
笑いが起きる。
涼州兵の顔へ。
怒りと恥が浮かぶ。
春蘭が。
満足そうに胸を張る。
「見たか!」
「秋蘭の弓を!」
「姉者」
秋蘭が言う。
「射たのは私だ」
「私の妹だ!」
「だから何だ」
霞は。
時雨を見る。
「挑発返しだけか」
「今日はな」
時雨は答える。
「敵を」
「もっと怒らせる」
「明日まで」
「ここにいさせる」
「性格悪いなあ」
「ああ」
霞は。
僅かに笑った。
だが。
その笑みの奥へ。
不安がある。
曹操が。
許すか。
許さないか。
時雨の非道な策。
それを。
魏王が。
どう判断する。
霞は。
まだ。
曹操を完全には知らない。
時雨は。
曹操なら。
戦を終わらせるため。
許すかもしれないと考えている。
同時に。
民へ害が及ぶ策を。
拒む可能性もある。
どちらでも。
従う。
そう約束した。
夜。
両軍は。
互いに火を焚く。
平原へ。
無数の灯り。
魏軍の大天幕。
時雨は。
一人で地図を見ていた。
外から。
足音。
「入るわよ」
返事を待たず。
栄華が入ってくる。
手には。
一枚の竹簡。
時雨が顔を上げる。
「返事か」
「いいえ」
栄華は答える。
「本日の支出です」
「今か」
「今だからですわ」
栄華は。
竹簡を机へ置く。
「偽陣のために使用した」
「松明」
「旗」
「木材」
「兵への追加食」
「合計」
「予定より増えております」
「必要経費だ」
「分かっております」
「では」
「何だ」
栄華は。
時雨の向かいへ座る。
「眠れないのでしょう?」
時雨は。
少し黙る。
「眠れる」
「嘘ですわ」
「なぜ」
「同じ地図を」
「半刻以上」
「一度も動かしておりません」
時雨は。
地図へ視線を落とす。
確かに。
何も考えていなかった。
いや。
考えていた。
曹操の返答。
許可。
拒絶。
どちらが来る。
「怖いのです?」
栄華が尋ねる。
「何が」
「華琳様に」
「否定されることが」
時雨は。
答えない。
栄華は。
静かに続ける。
「あなたは」
「策が使えなくなることより」
「華琳様に」
「そんな男だとは思わなかったと」
「言われることを恐れている」
時雨の目が。
僅かに細くなる。
「違う」
「そうですか?」
「ああ」
「なら」
「なぜ」
「ご自分の責任だと」
「何度も書状へ書き加えたのです」
「命令したのは俺だ」
「華琳様は」
「あなたを総大将へ任命しました」
栄華は。
時雨を真っ直ぐ見る。
「責任を」
「切り離せるはずがありません」
「分かってる」
「分かっていませんわ」
栄華の言葉は。
曹操と似ていた。
だが。
声は。
怒りより。
静かな厳しさ。
「あなたが」
「何をしても」
「自分一人で背負えば」
「華琳様へ迷惑をかけない」
「そう考えておられる」
「ああ」
「それが」
「最も華琳様を傷つけるのです」
時雨は。
何も言わない。
「華琳様は」
栄華が続ける。
「ご自分が」
「共に責任を負う者として」
「扱われないことを嫌います」
「それは」
「魏王だからではありません」
「あなたが」
「華琳様を信じながら」
「痛みだけは預けないからです」
「痛みを」
「預けてどうする」
「分けるのです」
「減らない」
「一人で持つより」
「折れにくくなります」
時雨は。
地図を見た。
涼州。
馬騰。
民。
水。
外道。
憎しみ。
すべて。
自分が持てばよいと思った。
だが。
曹操は。
それを。
許さないかもしれない。
「栄華」
「何です」
「俺は」
「この策が正しいと思ってる」
「ええ」
「でも」
「曹操が」
「駄目だと言えば」
「使わない」
「ええ」
「それで」
「兵が多く死んでも」
「後悔しないか」
栄華は。
少しだけ目を伏せる。
「しますわ」
「なら」
「ですが」
栄華は。
すぐに顔を上げる。
「華琳様と」
「共に決めた結果なら」
「受け入れます」
「受け入れる?」
「納得するとは言っておりません」
「後悔もします」
「死んだ兵を思い」
「別の策があったのではないかと」
「何度も考えるでしょう」
「それでも」
「一人の独断で」
「国の道を決めるよりよい」
時雨は。
栄華を見る。
魏。
一人の国ではない。
曹操の国。
だが。
曹操一人だけの国でもない。
時雨も。
将たちも。
兵も。
民も。
それぞれ。
決断の重さを持つ。
「分かった」
時雨が言う。
「何が」
「一人で」
「背負わない」
栄華の眉が。
僅かに上がる。
「本当ですの?」
「ああ」
「では」
「華琳様が」
「この策を許可した場合」
「華琳様にも」
「罪を背負わせるのです?」
時雨は。
少し黙る。
「……ああ」
「嫌そうですわね」
「嫌だ」
「ですが」
「やる」
栄華は。
ほんの僅かに笑った。
「少しは」
「総大将らしくなりましたわ」
「前から総大将だ」
「地位の話ではありません」
栄華は立ち上がる。
「眠りなさいませ」
「まだ」
「明日」
「華琳様から返答が届けば」
「どのような内容でも」
「忙しくなります」
「ああ」
「時雨」
栄華が。
天幕を出る前に振り返る。
「何だ」
「華琳様を」
「信じて差し上げてください」
時雨は。
返事をしなかった。
だが。
栄華は。
それ以上を求めず。
外へ出た。
---
翌日の昼。
許昌からの使者が到着した。
馬を二度替え。
ほとんど眠らず。
西へ走り続けた伝令。
軍営へ入るなり。
馬から転げ落ちる。
兵へ支えられながら。
一枚の封書を差し出した。
魏王の印。
曹操の書状。
主要な将が。
大天幕へ集まる。
時雨は。
封を切った。
全員が。
息を潜めて見ている。
時雨は。
書状を読む。
短い。
曹操らしく。
必要なことだけ。
書かれている。
時雨の表情は。
変わらない。
「何て?」
霞が待ちきれず尋ねる。
時雨は。
書状を机へ置いた。
「許可する」
天幕の空気が。
僅かに震える。
柳琳が。
目を伏せる。
春蘭は。
拳を握る。
稟は。
静かに息を吐いた。
「ただし」
時雨が続ける。
「条件がある」
「何でしょう」
栄華が尋ねる。
時雨は。
書状を読む。
「一つ」
「民へ」
「必ず別の水を用意する」
「一つ」
「泉と川は」
「戦後」
「魏の責任で元へ戻す」
「一つ」
「毒は使わない」
「飲めば死ぬものを」
「水へ入れることは禁止」
「一つ」
「降伏した敵兵には」
「水を与える」
「一つ」
「この策を」
「馬騰軍の全体へ」
「一度だけ事前に知らせる」
稟の目が。
僅かに見開かれる。
「知らせる?」
「ああ」
「魏軍は」
「明日の夜までに」
「平原から退けと要求する」
「退けば」
「水場には手を出さない」
「残るなら」
「使えなくする」
「選ばせる」
春蘭が。
曹操の意図を理解する。
「華琳様は」
「騙し討ちを許されなかった」
「ああ」
時雨は答える。
「それでも残れば」
「馬騰軍が選んだことになる」
「最後」
時雨は。
書状の末尾を見る。
筆跡。
強く。
僅かに紙へ食い込んでいる。
「何と?」
柳琳が尋ねる。
時雨は。
少し黙った。
「読め」
霞が言う。
「華琳様からやろ」
「皆に聞かせるための書状や」
時雨は。
最後の一文を読む。
「この策の罪を」
「あなた一人のものとすることは許さない」
「実行するなら」
「魏王曹操の命令として行いなさい」
静寂。
誰も。
すぐには声を出せなかった。
時雨は。
書状を見ている。
曹操は。
時雨の意図を。
見抜いた。
自分一人が。
外道として。
憎まれる。
曹操を。
魏を。
そこから切り離す。
許さない。
そう書いた。
使うなら。
共に背負う。
曹操自身が。
水を奪う命令を出す。
魏王として。
責任を負う。
「時雨」
柳琳が呼ぶ。
「何だ」
「華琳様は」
「分かっておられます」
「ああ」
「あなたが」
「何をしようとしていたか」
「ああ」
「なら」
柳琳は。
少しだけ。
悲しそうに笑う。
「今度は」
「一人ではありませんね」
時雨は。
しばらく。
答えなかった。
やがて。
書状を丁寧に畳む。
懐へ入れる。
「ああ」
短い返事。
だが。
その声は。
いつもより。
僅かに重かった。
「始める」
時雨が言う。
全員の顔が。
総大将へ向く。
「涼州軍へ」
「最後の勧告を出す」
「明日の夜までに」
「平原から下がれ」
「下がれば」
「追わない」
「水場にも触れない」
「残れば」
「北の泉」
「南の川」
「両方使えなくする」
「華論」
「はいっす」
「工兵を準備」
「了解っす」
「黒狼隊」
「村へ入れ」
韓武と石剛が。
同時に頭を下げる。
「民を古井戸へ逃がす」
「家畜も」
「運べるだけ運ぶ」
「拒む者へ」
「無理はするな」
「食料と水を置いていけ」
「はっ」
「栄華」
「避難民の補償」
「水の輸送」
「必要な金を出せ」
「承知しましたわ」
「柳琳」
「避難した民を見ろ」
「病人」
「老人」
「子供を先に」
「はい」
「稟」
「勧告文」
「敵の豪族ごとに送れ」
「馬騰だけへ送るな」
稟の目が。
僅かに鋭くなる。
「馬騰殿が」
「情報を止める可能性を?」
「ああ」
「各軍が」
「自分で選べるようにする」
「承知しました」
「春蘭」
「何だ」
「中央へ立て」
「一歩も進むな」
春蘭の眉が。
僅かに上がる。
「戦わないのか」
「敵が残れば」
「戦う」
「だが」
「先に動くな」
「敵が水を求め」
「陣を崩すまで待て」
「……御意」
春蘭は。
まだ。
策を好んでいない。
それでも。
曹操が許可した。
総大将が決めた。
なら。
従う。
「秋蘭」
「ああ」
「工兵を守れ」
「敵が出れば」
「殺す前に」
「馬を止めろ」
「承知した」
「霞」
「おう」
「放牧馬を逃がす」
「敵陣へ追え」
「その後」
「馬を回収しに出た騎兵を」
「横から叩け」
「殺しすぎるな」
霞は。
飛龍偃月刀を肩へ担ぐ。
「難しい注文やな」
「できるか」
「誰に言うとる」
霞は。
鋭く笑う。
「馬を散らして」
「人だけ落とす」
「飛将の技」
「見せたるわ」
時雨は。
全員を見渡す。
「この策は」
「綺麗じゃない」
「ああ」
「涼州の民に」
「恨まれる」
「魏軍の中にも」
「嫌う奴が出る」
「俺も」
「好きでやるわけじゃない」
時雨は。
僅かに言葉を止める。
「だが」
「正面から戦うより」
「死ぬ奴は少ない」
「俺は」
「そっちを選ぶ」
「従えない奴は」
「今言え」
誰も。
声を出さない。
迷い。
嫌悪。
恐れ。
それぞれ。
持っている。
それでも。
誰も離れない。
春蘭が。
最初に口を開く。
「時雨」
「何だ」
「私は」
「この策を好かん」
「ああ」
「卑怯だとも思う」
「ああ」
「だが」
春蘭は。
真っ直ぐ時雨を見る。
「華琳様がお認めになり」
「お前が」
「兵を生かすために使うと言うなら」
「私は従う」
「ただし」
「敵が正面へ出た時は」
「私へ任せろ」
「ああ」
「その時は」
「好きに戦え」
春蘭の口元へ。
強い笑みが浮かぶ。
「任せろ!」
霞が。
続く。
「うちも」
「水を潰すんは好かん」
「ああ」
「馬を苦しめるんは」
「もっと好かん」
「ああ」
「せやけど」
霞は。
時雨を見る。
「正面からやったら」
「うちの騎馬も」
「ぎょうさん死ぬ」
「魏の馬も」
「涼州の馬も」
「死ぬ」
「ああ」
「ほんなら」
「終わらせるためにやる」
「ただし」
霞の声が。
僅かに低くなる。
「逃がした馬」
「戦の後」
「ちゃんと持ち主へ返せ」
「ああ」
「死んだ馬の分も」
「補償や」
「栄華」
「言われなくても」
栄華が答える。
「計上しますわ」
「ええ女やな」
「お嬢ちゃんと呼ばなければ」
「もう少し早く気づけたでしょうね」
霞は笑う。
柳琳も。
静かに言った。
「私は」
「最後まで反対です」
時雨が彼女を見る。
「ですが」
柳琳は続ける。
「実行されるなら」
「一人でも多く」
「水を失う方を救います」
「降伏した敵兵も」
「魏兵と同じように治療します」
「ああ」
「時雨が」
「水を与えるなと命じても」
「従いません」
「命じない」
「なら」
柳琳は。
僅かに目を細くする。
「必ず守ってください」
「約束する」
稟は。
竹簡へ。
命令を書き始める。
華論は。
隊ごとの移動を整理する。
栄華は。
補償費用と水の輸送量を計算。
秋蘭は。
地形と射線を確認。
春蘭は。
自分の部隊へ戻る準備。
霞も。
笑みを消し。
騎馬隊の位置を見直す。
策は。
もう。
時雨一人のものではない。
皆が。
自分の役目を持ち。
自分の責任を負う。
曹操も。
遠い許昌から。
罪を分けている。
時雨は。
地図を見る。
「明日の夜」
低く。
告げる。
「涼州の馬から」
「水を奪う」
---
勧告は。
馬騰軍の各隊へ届けられた。
魏軍総大将張燕より。
明日。
日没までに。
国境平原より撤退せよ。
撤退するなら。
追撃しない。
水場。
放牧地。
村。
いずれへも手を出さない。
残るなら。
魏軍は。
北の泉と。
南の川筋を。
軍用に使用できない状態へする。
避難していない民には。
別の水場と食料を用意する。
降伏した兵には。
水と治療を与える。
これは。
脅しではない。
宣告である。
涼州軍の反応は。
怒りだった。
水を奪う。
涼州で。
それ以上の侮辱は少ない。
臆病者。
外道。
山賊。
人の道を外れた者。
張燕を殺せ。
魏軍を一人も帰すな。
その声が。
敵陣へ広がる。
一部の豪族は。
退くことを考えた。
だが。
馬騰は。
全軍へ命じた。
退くな。
魏の脅しへ屈するな。
水場は。
涼州のもの。
魏軍が。
手を出す前に。
正面から打ち破る。
時雨の予想通り。
誇りは。
退却を許さなかった。
翌日。
日が落ちる。
馬騰軍は。
一兵も退かなかった。
時雨は。
高台から。
敵陣を見る。
火。
馬。
旗。
何万もの命。
最後の時刻。
「総大将」
稟が言う。
「期限です」
「ああ」
「始めますか」
時雨は。
少しだけ。
目を閉じた。
曹操。
許可。
罪を。
一人へ渡すことは許さない。
その言葉を。
胸の中で繰り返す。
目を開く。
「始めろ」
狼が。
牙を見せた。
---
夜。
北の丘。
黒狼隊と工兵が。
音を立てず。
斜面を上る。
放牧地を守る涼州兵は。
少ない。
魏軍が。
正面から攻めると考え。
主力は平原へ集まっている。
秋蘭の弓兵が。
闇の中。
丘の周囲へ展開。
見張りへ。
矢を向ける。
殺さない。
武器。
足元。
松明。
敵の動きを止める場所だけ。
矢が飛ぶ。
松明が落ちる。
暗闇。
混乱。
工兵が。
泉へ入る。
石。
泥。
木材。
水の出口を塞ぐ。
水脈そのものは壊さない。
だが。
表へ出る水は。
濁り。
使えなくなる。
同時に。
黒狼隊が。
放牧馬を囲う縄へ近づく。
三千を超える軍馬。
人の気配へ気づき。
不安そうに蹄を鳴らす。
韓武が。
時雨から預かった命令を思い出す。
傷つけるな。
火を近づけるな。
西へ走らせろ。
韓武は。
縄を切る。
石剛たちが。
布を広げ。
東と北を塞ぐ。
兵が。
地面を叩き。
音を上げる。
驚いた馬が。
走り出す。
一頭。
十頭。
百頭。
やがて。
地面そのものが震える。
三千の馬が。
西へ。
馬騰軍本隊の方向へ。
闇の中を走る。
その先。
紫の布。
霞の騎馬隊が。
左右へ広く展開していた。
「来たで」
霞は。
飛龍偃月刀を握る。
暗闇の向こう。
無数の馬。
その後ろから。
馬を止めるために。
涼州騎兵が出る。
敵は。
自分たちの軍馬を守ろうとしている。
殺せない。
強く追い立てられない。
混乱。
霞が。
刀を掲げた。
「聞け!」
魏の騎兵が。
飛将を見る。
「馬は斬るな!」
「手綱も狙うな!」
「人だけ落とせ!」
「敵が落ちたら」
「追撃せえへん!」
「馬を西へ流せ!」
「行くで!」
紫の布が。
闇を裂く。
霞の騎馬隊。
敵の横腹へ。
突入。
飛龍偃月刀が。
月光を受ける。
一閃。
敵騎兵の槍だけが飛ぶ。
柄を返す。
胸を打つ。
馬上から。
人だけが落ちる。
霞の後ろ。
魏騎兵も。
命令通り。
敵兵を馬上から引きずり下ろし。
そのまま走り抜ける。
殺すためではない。
戦列を消す。
馬と人を分ける。
涼州騎兵は。
反撃できない。
周囲を走るのは。
自分たちの馬。
槍を振れば。
馬へ当たる。
矢を射れば。
軍馬を殺す。
進めない。
止まれない。
霞の隊だけが。
混乱の隙間を。
魚のように抜ける。
「外道やな!」
霞が。
走りながら笑う。
その笑みは。
楽しさだけではない。
苦さ。
怒り。
それでも。
前へ進む覚悟。
「せやけど」
「負けるよりましや!」
飛龍偃月刀が。
敵将の武器を弾く。
霞は。
石突きで。
その腹を打つ。
将が落馬。
「寝とけ!」
紫の隊が。
闇へ消える。
後へ残るのは。
地面へ倒れた兵。
走り去る馬。
壊れた隊列。
そして。
敵陣へ向かう。
三千の軍馬。
---
南の川筋。
魏の工兵が。
乾いた地面を掘る。
地下水。
少しずつ。
穴へ溜まる。
涼州軍の斥候が。
その動きを見つける。
水場。
魏軍が。
新しい水を探している。
すぐに。
敵先鋒へ報告が走る。
時雨は。
それを止めなかった。
むしろ。
見つけさせた。
水がある。
そう思わせる。
掘った穴へ。
油を流す。
大量ではない。
人を殺す毒でもない。
だが。
飲めない。
匂い。
濁り。
馬は嫌がる。
水を。
使えなくするには。
それで十分。
工兵が。
退く。
直後。
涼州騎兵が現れる。
魏軍を追い払った。
そう思う。
水を見つける。
だが。
馬が。
鼻を近づけ。
すぐに顔を背ける。
兵が。
手ですくう。
油。
怒号。
「魏軍が水を汚した!」
声が。
夜へ広がる。
時雨の名が。
呪いのように叫ばれる。
黒山の外道。
狼。
水を腐らせる者。
その怒りは。
魏軍本陣まで届いた。
時雨は。
高台で聞いていた。
隣には。
柳琳。
本来なら。
医療隊へいるはずだった。
だが。
今夜だけは。
時雨の側へ来た。
「聞こえますか」
柳琳が言う。
「ああ」
「時雨の名を」
「叫んでいます」
「ああ」
「辛くありませんか」
時雨は。
少しだけ黙る。
「辛い」
柳琳が。
時雨を見る。
「なら」
「そう言ってください」
「ああ」
時雨は。
敵陣の火を見る。
「辛い」
二度。
言った。
その言葉へ。
柳琳は。
僅かに目を伏せる。
「ですが」
時雨は続ける。
「止めない」
「分かっています」
「嫌いか」
「この策は嫌いです」
「俺は」
柳琳は。
すぐには答えない。
「今は」
「少し嫌いです」
正直な言葉。
時雨は。
僅かに目を細くする。
「そうか」
「ですが」
柳琳は。
時雨の隣から離れない。
「嫌いだから」
「一人にはしません」
「なぜ」
「時雨が」
「本当に外道になってしまわないように」
柳琳は。
敵陣を見る。
「誰かが」
「側で」
「嫌だと言い続ける必要があります」
「面倒だな」
「ええ」
柳琳は。
少しだけ笑う。
「時雨が」
「私たちへしていることと同じです」
時雨は。
返事をしなかった。
だが。
追い払わなかった。
---
夜明け前。
馬騰軍先鋒は。
異常へ気づいた。
北の泉。
濁り。
南の川筋。
油。
放牧馬。
大半が本隊方向へ逃走。
軍馬へ。
与えられる水が足りない。
一日。
耐えられる。
二日。
馬が弱る。
三日。
軍として動けなくなる。
先鋒の将たちは。
退却を提案した。
だが。
退けば。
魏の脅しへ屈したことになる。
水を汚され。
逃げた。
涼州騎兵の誇りが。
壊れる。
さらに。
後ろには。
馬騰本隊。
放牧馬の群れが。
陣へ流れ込み。
混乱している。
水場の順番を巡り。
各豪族軍が揉め始める。
馬騰直轄軍へ。
水を優先。
そういう命令が出た。
噂が。
瞬く間に広がる。
馬騰は。
自分の馬だけを守る。
豪族の馬を。
見捨てるつもりだ。
事実ではない。
だが。
水が足りない。
それだけで。
人は疑う。
時雨は。
水だけを奪ったのではない。
信頼へ。
乾きを作った。
夜明け。
敵先鋒が。
動く。
魏軍へ。
突撃。
水場を奪い返すため。
時雨を殺すため。
怒りのまま。
正面へ出る。
「来たぞ!」
物見兵の声。
春蘭は。
すでに。
剣を握っていた。
「待ちくたびれた!」
「春蘭」
時雨が呼ぶ。
「何だ!」
「まだ待て」
「なぜだ!」
「敵の馬が」
「疲れてない」
「もっと走らせる」
時雨は。
主陣の旗を。
僅かに後ろへ下げる。
魏軍中央。
後退。
敵には。
怯えたように見える。
涼州騎兵が。
勢いを増す。
「逃げるな!」
「張燕を殺せ!」
「水を取り戻せ!」
怒号。
蹄。
土煙。
一万を超える騎兵が。
魏軍へ迫る。
春蘭の額へ。
汗が浮かぶ。
恐怖ではない。
待つことへの苛立ち。
「時雨!」
「まだ」
「もう弓が届く!」
秋蘭が言う。
「まだ射るな」
「了解した」
秋蘭は。
動かない。
敵。
八百歩。
六百。
五百。
四百。
魏軍の兵へ。
緊張が走る。
騎兵の突撃。
地面の震え。
身体へ響く。
逃げたい。
だが。
春蘭が前にいる。
時雨の旗がある。
皆。
動かない。
三百。
時雨が。
右手を上げる。
「秋蘭」
「ああ」
「馬の前」
秋蘭が。
弓を掲げる。
「放て!」
矢。
空へ。
敵兵を狙わない。
騎馬隊の前方。
地面へ。
無数の矢が突き刺さる。
馬が。
驚き。
足を緩める。
後続が。
詰まる。
勢いが。
僅かに崩れる。
「華論!」
「今っす!」
工兵が。
縄を引く。
薄く土を被せられていた。
浅い溝。
騎兵を殺す深さではない。
だが。
全速で走る馬が。
足を止めるには十分。
先頭の馬が。
跳ぶ。
後ろは見えない。
隊列が乱れる。
騎兵の塊が。
ばらける。
「春蘭!」
「待っていた!」
春蘭が。
剣を掲げる。
「全軍!」
「前へ!」
重装歩兵。
盾を並べる。
だが。
馬へ槍を突き刺さない。
斜めに立て。
進路を狭める。
敵騎兵が。
自然に。
中央へ寄せられる。
そこへ。
春蘭。
先頭。
剣を振る。
敵将の槍ごと。
横へ弾く。
人が。
馬上から吹き飛ぶ。
「馬は狙うな!」
春蘭が叫ぶ。
「敵兵だけを落とせ!」
正々堂々と。
敵を斬りたい。
そう思っていた春蘭。
だが。
時雨の命令通り。
馬を守る。
兵を。
殺すのではなく。
落とす。
敵兵は。
水不足。
夜の混乱。
怒りの突撃。
すでに。
冷静さを失っている。
一度。
馬上から落ちれば。
立て直せない。
魏兵が。
囲む。
武器を奪う。
「降れ!」
「武器を捨てれば」
「水を与える!」
叫び。
涼州兵の顔が揺れる。
水。
その一言。
喉が乾いている。
馬も。
疲れている。
それでも。
誇りが邪魔をする。
時雨が。
高台へ姿を見せた。
黒い髪。
黒い鎧。
総大将旗。
敵兵の怒りが。
一斉に時雨へ向く。
「張燕!」
「外道!」
「降りて来い!」
「卑怯者!」
時雨は。
声を張る。
「俺が」
「水を奪った!」
戦場が。
一瞬。
静まる。
魏兵も。
敵兵も。
総大将を見る。
「曹操でも」
「魏兵でもない!」
「命令したのは俺だ!」
春蘭が。
僅かに顔を上げる。
柳琳の目が。
細くなる。
曹操の書状。
罪を一人のものとすることは許さない。
それでも。
時雨は。
自分が命じたと叫ぶ。
だが。
今度は。
曹操を隠すためではない。
敵の怒りを。
自分へ集めるため。
戦場で。
一つの目標へまとめるため。
「俺を殺したいなら」
時雨が続ける。
「武器を捨てろ!」
敵兵が。
意味を理解できず。
ざわめく。
「降った奴は」
「水を飲ませる!」
「馬にも与える!」
「傷を治す!」
「その後」
「俺のところへ来い!」
「文句も」
「恨みも」
「全部聞く!」
「だが」
時雨の声が。
低く。
戦場へ落ちる。
「武器を持ったまま来るなら」
「ここで倒す!」
「選べ!」
敵兵の中で。
最初に。
槍が落ちた。
一人。
若い騎兵。
馬が。
口から泡を吹いている。
兵は。
泣きそうな顔で。
武器を捨てた。
「馬へ」
「水を」
魏兵が。
すぐに動く。
用意されていた水袋。
馬へ。
少しずつ飲ませる。
次。
別の兵が。
剣を捨てる。
さらに。
一人。
十人。
百人。
武器が。
地面へ落ちる。
それを見て。
まだ戦う者の心が揺れる。
自分だけ。
戦い続ける意味。
馬を。
乾きで死なせる意味。
馬騰への忠義。
涼州の誇り。
それと。
目の前の命。
時雨は。
馬騰へ。
同じ問いをした。
国の誇りか。
民の命か。
今。
涼州兵一人一人へ。
同じ選択を突きつけている。
外道。
非道。
水を奪い。
選ばせる。
それでも。
生きる道だけは。
必ず残す。
やがて。
敵先鋒の多くが。
武器を捨てた。
抵抗を続けた隊は。
春蘭と秋蘭によって。
分断された。
霞の騎馬隊が。
後方へ回り。
退路を塞ぐ。
殺戮にはならない。
逃げる者は。
西へ逃がした。
追撃しない。
時雨の命令。
戦が終わった時。
朝日は。
すでに高く昇っていた。
馬騰軍先鋒。
一万二千。
死者。
三百に届かない。
負傷者。
千余。
捕虜。
六千以上。
残る者は。
本隊へ退却。
魏軍。
死者。
七十余。
負傷。
四百。
正面から戦えば。
双方。
何千も死んだはずの戦。
勝利。
圧勝。
だが。
魏兵から。
歓声は上がらなかった。
敵を倒した喜びより。
目の前へ広がる光景の方が。
重かった。
水を求め。
武器を捨てた敵兵。
疲れ切った馬。
泥で濁った泉。
油の臭いが残る川筋。
そして。
外道と呼ばれる総大将。
時雨は。
捕虜の列へ歩く。
敵兵の視線。
憎しみ。
侮蔑。
恐怖。
誰も。
頭を下げない。
一人の兵が。
時雨の足元へ唾を吐いた。
魏兵が。
その男を押さえようとする。
「触るな」
時雨が止める。
兵は。
時雨を睨む。
「外道め」
「ああ」
「水を汚すなど」
「人のすることではない」
「ああ」
「必ず」
「馬騰様がお前を殺す」
「ああ」
時雨は。
否定しない。
「水を飲め」
「貴様からの施しなど!」
「なら」
「馬へ飲ませろ」
男の目が揺れる。
自分の馬。
すでに。
魏兵が水を与えている。
馬は。
必死に飲む。
男は。
口を閉じた。
時雨は。
次へ歩く。
柳琳が。
負傷者を診ている。
魏兵。
涼州兵。
分けない。
傷の重い順。
「時雨」
柳琳が呼ぶ。
「何だ」
「こちらへ」
「まだ」
「来てください」
強い声。
時雨は。
柳琳の前へ行く。
柳琳は。
時雨の右腕を見る。
鎧の隙間。
薄く血が流れている。
戦闘中。
敵の矢が掠めた。
本人は。
気にしていなかった。
「怪我を隠さないと」
「約束しました」
「忘れてた」
「嘘です」
柳琳は。
時雨の腕を取る。
傷を洗う。
薬。
布。
「痛みますか」
「少し」
「本当ですか」
「ああ」
「今」
「何が一番痛いですか」
時雨は。
敵兵を見る。
濁った泉を見る。
兵の憎しみを見る。
「分からない」
柳琳の手が。
一瞬止まる。
「そうですか」
「でも」
「終わった」
「いいえ」
柳琳は。
傷を巻きながら答える。
「始まったばかりです」
時雨が。
彼女を見る。
「この策で」
「戦は終わっていません」
「涼州の方々の憎しみは」
「これから残ります」
「それを」
「戻すのも」
「時雨の役目です」
「ああ」
「泉も」
「川も」
「人の心も」
柳琳は。
布を結ぶ。
「最後まで」
「治してください」
時雨は。
敵兵たちを見る。
「できるか」
「できるかではありません」
柳琳は。
真っ直ぐ答える。
「やるのです」
「時雨が」
「始めたのですから」
時雨は。
少し黙った後。
頷いた。
「ああ」
「やる」
---
戦勝の報告は。
すぐに許昌へ送られた。
馬騰軍先鋒を撃破。
捕虜六千。
魏軍損害。
軽微。
国境平原を確保。
だが。
報告書には。
勝利だけではなく。
すべて書かれた。
水場を使えなくしたこと。
放牧馬を逃がしたこと。
馬騰軍内部へ。
混乱と不信を起こしたこと。
敵兵から。
強い憎悪を向けられていること。
時雨は。
一つも省かなかった。
最後。
自分の署名を書く。
隣で。
稟が見ている。
「時雨殿」
「何だ」
「この勝利を」
「どう評価しますか」
「勝った」
「それだけですか」
「兵が」
「多く生きた」
「では」
「成功?」
時雨は。
筆を置く。
「まだだ」
「なぜ」
「馬騰は」
「もっと怒る」
「次は」
「本隊が来る」
「ああ」
「それに」
時雨は。
天幕の外を見る。
水を運ぶ魏兵。
捕虜へ。
食事を配る兵。
壊した泉へ。
すでに工兵が入り。
復旧の準備を始めている。
「こいつらが」
「魏を憎んだままだ」
「それを」
「変えるまで」
「成功じゃない」
稟は。
時雨の横顔を見る。
策を。
使った。
結果。
圧勝。
だが。
時雨は。
誇らない。
むしろ。
勝利へ。
苦いものを感じている。
「時雨殿」
「何だ」
「次も」
「同じ策を使えますか」
時雨は。
すぐに答えない。
「必要なら」
「使う」
「迷わず?」
「迷う」
時雨は答えた。
「迷って」
「それでも」
「死ぬ奴が少ないなら使う」
稟は。
静かに頷く。
「総大将とは」
「残酷な役目ですね」
「ああ」
「それでも」
「華琳様は」
「時雨殿へ託した」
「ああ」
「理由が」
「少し分かった気がします」
時雨は。
稟を見る。
「何が」
「時雨殿は」
「非道な策を」
「楽しめない」
「楽しめる者なら」
「危険です」
「使えない者なら」
「兵を救えない」
「嫌いながら」
「必要なら使い」
「使った後も」
「壊したものを見続ける」
「華琳様は」
「それができる者として」
「あなたを選んだのでしょう」
時雨は。
返事をしなかった。
自分が。
そんなに立派な者だとは。
思わない。
ただ。
他に。
道が見つからなかった。
それだけ。
「時雨!」
天幕の外から。
春蘭の声。
布が開く。
春蘭。
霞。
秋蘭。
三人が入る。
「敵本隊が動いた!」
春蘭が言う。
「馬騰自身が」
「こちらへ向かっている!」
稟の表情が変わる。
時雨は。
地図へ向き直る。
「兵数は」
秋蘭が答える。
「騎兵二万五千」
「歩兵一万以上」
「さらに」
「周辺の豪族軍が」
「次々と合流している」
霞が。
飛龍偃月刀を肩へ置く。
「怒っとるで」
「そらもう」
「涼州全部が」
「時雨を殺せ言うとる」
「ああ」
時雨は。
驚かない。
予想通り。
馬騰は。
出てくる。
時雨を。
討つため。
水を奪った外道を。
涼州の誇りを傷つけた男を。
「どうする」
春蘭が尋ねる。
「今度は」
「正面から来るぞ」
時雨は。
地図を見る。
馬騰本隊。
怒り。
豪族。
騎兵。
すべて。
集まる。
一つの場所へ。
軍略勝負と同じ。
敵へ。
守るものを増やさせ。
動きを縛る。
だが。
今回。
盤上の駒ではない。
人。
馬。
民。
憎しみ。
自分が。
生み出したもの。
「退く」
時雨が言う。
春蘭の目が。
大きくなる。
「何?」
「一度」
「長安方向へ退く」
「敵を」
「追わせる」
霞が。
目を細くする。
「どこまで」
時雨は。
地図上。
細い山道へ。
指を置く。
平原から。
関中へ戻る途中。
両側を。
低い崖に挟まれた。
長い隘路。
「ここ」
稟が。
地図を見る。
「騎兵が」
「隊列を広げられない場所」
「ああ」
「まさか」
「馬騰軍全体を」
「ここへ入れるおつもりですか」
「全部は無理だ」
「先頭だけでいい」
「馬騰が」
「俺を追えば来る」
春蘭が。
時雨を見る。
「お前自身を」
「囮にするのか」
「ああ」
「華琳様は」
「許されると思うか」
「今度は」
時雨は。
机の端へ置いた。
曹操の書状へ触れる。
「先に言う」
霞が。
小さく笑う。
「少しは学んだな」
「ああ」
「せやけど」
霞は。
時雨の顔を見る。
「また外道な策やろ」
時雨は。
地図上の隘路を見つめる。
「今度は」
「水じゃない」
「ほんなら何や」
「食料」
「どうする」
「馬騰軍へ」
時雨の目が。
冷たく細くなる。
「食わせる」
誰も。
意味を理解できない。
時雨は。
ゆっくり。
黒い駒を。
山道へ並べた。
「食わせて」
「動けなくする」
「涼州征伐は」
「始まったばかりだ」
平原の外。
西から。
砂煙が上がっている。
馬騰軍本隊。
国を守るため。
誇りを守るため。
水を奪った狼を殺すため。
東へ。
向かっている。
そして。
黒山の狼は。
自分へ集めた憎しみを見ながら。
次の罠を。
静かに考えていた。
涼州の者たちは。
まだ知らない。
水を奪う策は。
始まりにすぎない。
張燕という男は。
勝つためなら。
城を捨てる。
国を捨てる。
自分の名すら捨てる。
そして。
敵を生かすために。
敵から。
最も大切なものを奪う。
その非道さを。
魏軍の将たちでさえ。
まだ。
すべては知らなかった。次章では、怒りに駆られた馬騰本隊を隘路へ誘い込み、時雨が兵糧を「与える」ことで涼州軍を内側から崩す策へ続きます。
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高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
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朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
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孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)