外伝 第16話 錦馬超、荒野を裂く――狼が喰わせる敗北
馬騰軍先鋒が敗れた翌日。
涼州の風は。
昨日よりも強く吹いていた。
乾いた土を巻き上げ。
血の臭いも。
油の残り香も。
何もかもを。
東へ運んでいく。
魏軍が使用不能にした泉では。
華論の工兵隊が。
夜明け前から復旧作業を始めていた。
詰め込まれた石を取り除き。
濁った泥を掻き出し。
水の流れを確かめる。
完全に元へ戻るには。
まだ数日かかる。
だが。
水脈は壊れていない。
時雨が。
最初から命じていた通りだった。
南の川筋でも。
油が混ざった土を。
工兵が運び出している。
汚れた水は。
別の穴へ集め。
土へ染み込まないよう囲う。
使用した油の量は。
水を飲めなくするための最低限。
毒ではない。
人を殺すものでもない。
しかし。
それを知っていたとしても。
涼州の者たちが。
魏軍を許す理由にはならない。
水を奪われた。
それだけで。
十分だった。
捕虜となった涼州兵たちは。
魏軍の陣の一角へ集められている。
縄で縛られてはいない。
武器だけを取り上げられ。
水。
食料。
簡単な天幕。
負傷者には治療。
逃げようと思えば。
逃げられないこともない。
だが。
周囲には魏兵がいる。
それ以上に。
多くの者が。
自分の馬を置いて逃げることを拒んでいた。
魏軍は。
捕らえた軍馬を。
一頭も殺していない。
奪って。
自軍の馬へ変えることもしていない。
水を与え。
傷を確認し。
持ち主である捕虜の近くへ繋いでいる。
その扱いが。
涼州兵たちを。
余計に混乱させていた。
水を汚す外道。
馬を逃がし。
騎兵の誇りを踏みにじる卑怯者。
その一方で。
降った者を殺さない。
馬を奪わない。
怪我人を。
敵味方で分けず治療する。
憎むべき相手の形が。
一つに定まらない。
それも。
時雨の狙いだった。
敵が。
魏を完全な悪だと思えるなら。
戦う理由は強くなる。
捕虜になっても。
逃げて。
もう一度武器を持つ。
だが。
水を与えられ。
命を救われ。
馬まで返される。
その経験は。
心の中へ。
小さな迷いを生む。
外道だ。
しかし。
殺されなかった。
卑怯だ。
しかし。
自分たちが正面から戦っていれば。
もっと仲間は死んでいた。
魏へ降れば。
本当に涼州のすべてを奪われるのか。
そうではないのかもしれない。
その疑問は。
馬騰軍へ戻った時。
言葉になる。
噂になる。
軍を。
内側から鈍らせる。
剣より遅く。
毒より深く。
時雨は。
人の心へ。
迷いを植えていた。
「やっぱり外道やな」
魏軍本陣。
高台の上。
霞が言った。
紫の髪が。
乾いた風に揺れている。
飛龍偃月刀を肩へ担ぎ。
西の空を見ていた。
その隣。
時雨は。
黒い外套の裾を。
風へなびかせている。
「何が」
「捕虜への扱いや」
「普通だろ」
「普通の奴は」
霞は。
眼下の捕虜たちを指す。
「昨日まで殺し合っとった敵に」
「水飲ませて」
「飯食わせて」
「馬まで返す準備せえへん」
「降ったからだ」
「それだけちゃうやろ」
霞は。
時雨を横目で見る。
「帰すつもりや」
「ああ」
「いつ」
「馬騰が来る前」
霞の目が。
僅かに細くなった。
「敵本隊が来る前に」
「捕虜六千を解放するんか」
「ああ」
「武器も返す?」
「返さない」
「馬は」
「返す」
「食料は」
「一日分持たせる」
霞は。
少しの間。
何も言わなかった。
やがて。
低く笑う。
「えげつないな」
「なぜ」
「六千返したら」
「馬騰軍は兵が増える」
「ああ」
「せやけど」
「戻ってくる兵は」
霞は。
捕虜たちを見る。
「昨日」
「武器捨てて」
「魏から水もろた奴らや」
「ああ」
「時雨に恨みはある」
「でも」
「魏軍が」
「降った奴まで殺す軍やないと知っとる」
「ああ」
「そいつらが」
「涼州軍の中で」
「昨日のこと話す」
「水を汚されたことも」
「馬を助けられたことも」
「全部」
「ああ」
「馬騰軍の中」
「ぐちゃぐちゃになるで」
「そうなるといい」
霞の笑みが消える。
「狙っとるくせに」
「いい、だけか」
「絶対そうなるとは」
「限らない」
「せやけど」
「なるように仕向ける」
「ああ」
時雨は。
平然と頷いた。
霞は。
長く息を吐く。
「ほんま」
「うちが知っとる時雨より」
「性格悪なっとらんか?」
「昔からだ」
「いや」
「昔はもうちょい」
「分かりやすかったで」
「砦燃やすとか」
「道崩すとか」
「官軍の飯だけ盗むとか」
「今は」
霞は。
自分の胸元を指で叩く。
「人の中を壊しにいっとる」
時雨は。
答えなかった。
否定できない。
黒山の頃。
時雨が相手にしていたのは。
官軍。
賊。
豪族。
小さな集団。
敵の指揮系統は。
単純だった。
頭を倒す。
食料を奪う。
道を塞ぐ。
それで崩れた。
今は違う。
馬騰軍には。
国がある。
歴史がある。
豪族。
部族。
兵。
民。
それぞれ。
異なる思いを持ちながら。
涼州という一つの名へ集まっている。
外から砕くには。
多くの血が要る。
なら。
内側の違いを。
広げればいい。
同じ旗の下へいる者たちへ。
本当に。
最後まで。
同じものを守るつもりか。
問い続ける。
「嫌か」
時雨が尋ねた。
霞は。
少し考える。
「嫌や」
「ああ」
「でも」
霞は。
西を見る。
「正面から」
「馬騰軍全部とぶつかるより」
「死ぬ奴は減る」
「ああ」
「それも分かる」
「なら」
「せやから嫌なんや」
霞は。
眉を寄せた。
「間違っとるなら」
「止められる」
「でも」
「正しいところがあるから」
「腹立つ」
時雨は。
ほんの少し。
口元を緩めた。
「春蘭と同じだな」
「誰がや!」
霞が即座に怒鳴る。
その声に反応し。
少し離れた場所で兵を見ていた春蘭が。
振り返った。
「何の話だ!」
「呼んでへん!」
「私の名を出しただろう!」
「耳だけはええな!」
「だけとは何だ!」
二人が。
互いに睨み合う。
時雨は。
小さく息を吐いた。
その時。
高台の下から。
魏兵が駆け上がってくる。
「総大将!」
「西方より砂煙!」
「敵軍と思われます!」
時雨の表情が。
変わった。
霞と春蘭も。
同時に西を見る。
地平の向こう。
土煙。
一つではない。
大きな塊が。
平原全体へ。
広がっている。
蹄の音は。
まだ届かない。
だが。
地面が。
僅かに震え始めていた。
馬騰軍本隊。
予想より早い。
「数は」
時雨が尋ねる。
「現在確認中!」
「先頭だけで」
「一万を超えています!」
「旗は」
「馬の旗!」
「それと」
兵は。
一度息を整える。
「錦の縁取りを施した」
「白い馬旗がございます!」
霞の目が。
鋭く細くなる。
「錦馬超」
時雨が霞を見る。
「知ってるのか」
「名前だけや」
霞は。
飛龍偃月刀を肩から下ろす。
「馬騰の娘」
「涼州の若い連中の中じゃ」
「一番の使い手らしい」
「馬騰軍の先頭走って」
「何度も異民族の騎馬を破った」
「まだ若いが」
「馬上なら」
「涼州で一番や言う奴もおる」
春蘭の目へ。
強い光が宿る。
「一番?」
「ああ」
霞が笑う。
「気になるやろ」
「当然だ!」
春蘭が剣へ手を置く。
「時雨!」
「私を出せ!」
「まだだ」
「なぜだ!」
「見てから決める」
「何を見る!」
「馬超」
時雨は。
西から迫る土煙を見る。
「馬騰ではなく」
「馬超が先頭にいる理由」
---
馬騰軍は。
魏軍の前方。
およそ二里の位置で停止した。
その数。
四万余。
先鋒の敗残兵。
周辺豪族の騎兵。
馬騰直轄軍。
さらに。
各地から集まった歩兵と弓兵。
水場を奪われた怒り。
仲間を捕らえられた恥。
涼州の土地へ。
中原の軍が踏み込んだことへの敵意。
すべてが。
巨大な軍勢となって。
魏軍の前へ現れた。
その先頭。
白い馬。
赤茶色の鬣を持つ。
大柄な軍馬。
乗るのは。
若い女だった。
茶色の髪。
高く結ばれた長いポニーテールが。
風を受けて大きく揺れている。
白と赤を基調とした軽装の鎧。
肩。
胸。
腰。
騎乗の動きを妨げない形。
手には。
長槍。
細身に見える。
だが。
柄も穂先も。
実戦用の重さを持っている。
背後には。
錦の縁取りを施した旗。
馬の紋。
涼州の兵たちが。
その姿を見るだけで。
声を上げた。
「馬超様!」
「錦馬超!」
「馬超様が来たぞ!」
歓声。
怒号。
一つになり。
平原を揺らす。
若い女。
馬超。
その存在は。
ただの将ではない。
水を奪われ。
先鋒を失い。
魏軍の卑劣さへ怒りながらも。
どこか。
恐れを抱き始めていた涼州兵へ。
再び。
戦う力を与える旗だった。
錦馬超がいる。
涼州最強の騎馬将がいる。
なら。
魏軍など恐れる必要はない。
黒山の狼も。
夏侯惇も。
張遼も。
馬上で。
馬超へ勝てるはずがない。
そう信じさせる。
若さ。
武勇。
血筋。
全てを備えた。
涼州の希望。
「なるほど」
稟が呟く。
時雨の隣。
高台から。
敵陣を見ている。
「馬騰殿は」
「兵の士気を立て直すため」
「馬超を前へ出した」
「ああ」
「先鋒敗北の責任を」
「若い英雄の勝利で」
「上書きするつもりでしょう」
「それだけじゃない」
時雨が言う。
稟が。
僅かに顔を向ける。
「他にも?」
「馬超は」
「怒ってる」
時雨は。
遠く。
白馬の上にいる女を見る。
距離がある。
表情まで。
はっきりとは見えない。
だが。
槍の持ち方。
馬を止める時の強さ。
敵陣へ向ける姿勢。
全身へ。
怒りが出ている。
「若いからでしょうか」
「違う」
時雨は答える。
「捕虜になった兵を」
「助けに来た」
稟の目が。
僅かに動く。
「捕虜奪還?」
「ああ」
「それなら」
「本隊が陣を整える前に」
「馬超だけが」
「先へ出ている理由も分かる」
時雨は。
敵陣を見る。
馬騰軍全体は。
まだ。
完全に整っていない。
長距離を。
急いで進んだ。
豪族軍も。
到着した順に並んでいる。
本来なら。
半日。
あるいは一日かけて。
隊列を組む。
だが。
馬超は。
待てなかった。
捕らえられた兵たちが。
殺されるかもしれない。
馬を奪われるかもしれない。
そう考え。
先へ来た。
「外道な策が」
霞が。
低い声で言う。
時雨を見る。
「効きすぎたんちゃうか」
「何が」
「馬超は」
「うちらが捕虜を盾にする思っとる」
「ああ」
「せやから」
「怒っとる」
「ああ」
「若い」
「強い」
「兵から人気ある」
「そんな奴が」
「怒りで飛び出した」
霞は。
嫌な予感を覚えた顔をする。
「時雨」
「お前」
「また何かする気やろ」
「ああ」
「何を」
時雨は。
答える代わりに。
捕虜たちの方を見た。
霞の目が。
大きくなる。
「まさか」
「今返す」
霞は。
言葉を失った。
春蘭。
秋蘭。
稟。
華論。
栄華。
柳琳。
集まっていた全員が。
時雨を見る。
「敵軍が目の前にいるのですよ」
栄華が言う。
「その中へ」
「六千の兵と馬を返すおつもりですの?」
「ああ」
「敵戦力を」
「増やすことになります」
「ああ」
「今ですの?」
「今だからだ」
時雨は。
馬超を指す。
「馬超は」
「捕虜を救いに来た」
「なら」
「返す」
春蘭の眉が。
深く寄る。
「なぜだ」
「戦う理由を消す」
「馬超は」
「捕虜を救うために来た」
「捕虜がいなければ」
「前へ出る理由がない」
「それだけか」
秋蘭が尋ねた。
時雨は。
少しだけ。
彼女を見る。
「違う」
秋蘭は。
やはり、という顔をした。
時雨は。
捕虜の解放を命じた。
---
涼州兵六千。
一日分の食料。
水。
返却される軍馬。
ただし。
武器と鎧の一部は返さない。
戦場へ。
すぐに戻れない程度。
だが。
自分たちで。
歩いて帰ることはできる。
捕虜たちは。
戸惑っていた。
敵本隊が。
目の前に来た。
今。
自分たちは。
交渉材料になる。
普通なら。
盾。
人質。
あるいは。
降伏を求めるための道具。
だが。
魏軍は。
門を開いた。
「帰れ」
黒狼隊の韓武が言う。
涼州兵たちは。
動かない。
罠か。
背中から。
矢を射るのか。
地雷でも。
落とし穴でも。
仕掛けているのか。
時雨が。
捕虜たちの前へ歩く。
一人の兵が。
強く睨む。
昨日。
時雨の足元へ。
唾を吐いた男だった。
「何のつもりだ」
男が尋ねる。
「馬騰軍が来た」
時雨は答える。
「見れば分かる」
「お前たちを」
「助けに来た」
男の目が。
僅かに動く。
「だから帰れ」
「俺たちを」
「盾にしないのか」
「しない」
「交換条件は」
「ない」
「嘘をつけ」
男は。
声を荒らげる。
「魏軍が」
「何の見返りもなく」
「六千を返すはずがない!」
「見返りはある」
周囲が。
静まる。
時雨は。
涼州兵たちを見る。
「帰って」
「昨日のことを話せ」
「何を」
「全部」
「水を奪ったこと」
「武器を捨てれば」
「殺されなかったこと」
「馬を返されたこと」
「傷を治されたこと」
「俺が外道だったことも」
「全部だ」
男は。
時雨を睨む。
「それが」
「見返りか」
「ああ」
「俺たちに」
「魏へ降れと言わせるつもりか」
「言わなくていい」
「なら」
「見たことを」
「そのまま話せ」
時雨は。
遠くの馬超を見る。
「それで」
「馬超が」
「何を選ぶか見る」
男の背筋へ。
冷たいものが走った。
自分たちが。
戦場へ戻る。
それだけで。
馬騰軍に。
何かが起きる。
時雨は。
それを狙っている。
だが。
何を狙っているのか。
完全には分からない。
「お前は」
男が言う。
「俺たちを」
「まだ駒として使うのか」
「ああ」
時雨は。
迷わず答えた。
「だが」
「生きた駒だ」
「嫌なら」
「ここへ残れ」
「魏へ降るなら」
「飯は出す」
「帰るなら」
「道を開ける」
「選べ」
かつて。
馬騰へ突きつけた選択。
今度は。
捕虜一人一人へ渡す。
強制はしない。
だが。
どの選択も。
時雨の策の中へある。
帰れば。
馬騰軍へ。
迷いを持ち込む。
残れば。
魏が。
降伏者を受け入れる証明になる。
どちらでも。
魏のためになる。
逃げ道を残しながら。
逃げた先すら。
自分の策へ繋げる。
それこそ。
黒山で。
時雨が。
長く生き残った理由だった。
やがて。
一人の兵が。
馬へ乗った。
次。
また一人。
六千の捕虜たちは。
少しずつ。
魏軍の陣を出る。
列となり。
馬騰軍へ向かう。
武器はない。
白い布を掲げている。
馬超が。
その動きへ気づいた。
白馬を。
一歩進める。
「止まれ!」
その声は。
遠くからでも。
はっきり聞こえた。
若く。
強い声。
涼州の兵が。
動きを止める。
馬超は。
数騎だけを連れ。
捕虜の列へ近づいた。
魏軍から。
矢の届く距離。
秋蘭が。
静かに弓へ手を置く。
「射つな」
時雨が言う。
「分かっている」
秋蘭は。
弓を下ろさない。
だが。
矢もつがえない。
馬超は。
戻ってきた兵の前へ。
馬を止めた。
「お前たち!」
「無事か!」
涼州兵たちの顔が。
一斉に歪む。
「馬超様!」
「申し訳ありません!」
「我らは!」
「いい!」
馬超は。
強く言った。
「生きて帰った!」
「それでいい!」
その言葉へ。
涼州兵たちが。
涙を流す。
馬超は。
一人ずつ見る。
傷。
水袋。
返された馬。
縄の跡がない腕。
後ろ。
魏軍は。
追ってこない。
弓も。
射らない。
馬超の顔へ。
僅かな戸惑いが浮かんだ。
「なぜ」
低く。
呟く。
捕虜だった男が。
答えた。
「張燕が」
「帰れと」
馬超の目が。
鋭くなる。
「何を要求された」
「何も」
「嘘だ」
「本当です」
「なら」
「なぜ」
男は。
少しだけ。
魏軍の方を見る。
時雨と。
目が合う。
遠い。
それでも。
黒い男が。
こちらを見ていることは分かる。
「見たことを」
男が言う。
「全部話せと」
「何を」
「水を汚したこと」
「降った者を」
「殺さなかったこと」
「馬を返したこと」
「全部です」
馬超は。
強く手綱を握った。
怒りが。
消えたわけではない。
むしろ。
さらに複雑になる。
水を奪った。
許せない。
仲間を捕らえた。
討つべき敵。
だが。
その仲間を。
何の条件もなく返した。
なぜ。
「馬超様」
兵が。
声を落とす。
「魏軍は」
「我らが思っていたのとは」
「少し違います」
その一言。
小さい。
だが。
時雨が待っていた言葉。
馬超の顔が変わる。
兵が。
魏を擁護した。
水を奪われた。
仲間も死んだ。
それでも。
完全な敵ではないと。
口にした。
「違わない!」
馬超は。
強く叫んだ。
「奴らは」
「涼州の水を汚した!」
「お前たちを捕らえた!」
「魏は敵だ!」
「はい」
兵は。
頭を下げる。
だが。
声には。
以前のような強さがない。
「敵です」
「しかし」
「降った我らへ」
「水をくれました」
馬超は。
返す言葉を失った。
時雨は。
遠くから。
その様子を見ている。
霞が。
低く呟いた。
「外道や」
「ああ」
「捕虜返して」
「馬超を助けたように見せて」
「ああ」
「実際は」
霞の目が。
細くなる。
「馬超の兵に」
「馬超へ反論させた」
「ああ」
「自分で言わせたんや」
「ああ」
「魏は」
「ただの悪やないって」
時雨は。
短く頷く。
馬超の強さ。
兵からの信頼。
それを。
正面から壊すのは難しい。
なら。
信頼している兵自身へ。
疑問を口にさせる。
馬超が。
魏は敵だと叫ぶほど。
兵たちは。
自分たちが受けた扱いとの違いに気づく。
指導者の言葉と。
自分の目で見た現実。
その間に。
小さな亀裂が生まれる。
「馬超を」
霞が言う。
「討つ気ないやろ」
「ああ」
「むしろ」
「生かして」
「もっと苦しませる気や」
「違う」
「何が違う」
「選ばせる」
「同じや!」
霞が。
時雨を睨む。
「若い奴に」
「自分の母親と」
「自分の兵と」
「涼州の誇りと」
「全部乗せて」
「選べ言うとるんやぞ!」
「ああ」
「それを」
「非道言うねん!」
時雨は。
否定しなかった。
「そうだな」
霞の言葉が止まる。
時雨は。
白馬の女を見る。
「でも」
「馬超が」
「ただ強いだけなら」
「倒せばいい」
「兵が」
「あいつを信じてる」
「馬騰の次を」
「背負えると思ってる」
「だから」
「倒すだけじゃ終わらない」
「何をする気や」
「馬超に」
時雨は。
低く言った。
「涼州を」
「負けさせる」
---
捕虜を受け取った馬超は。
軍へ戻らなかった。
白馬を。
魏軍の前へ進めた。
一騎。
後ろの護衛が。
止めようとする。
「馬超様!」
「危険です!」
「来るな!」
馬超は。
槍を掲げる。
魏軍の前。
矢の間合い。
それでも。
止まらない。
茶色のポニーテールが。
風へ大きく揺れる。
「張燕!」
声が。
平原を裂いた。
「出てこい!」
魏軍の兵が。
ざわめく。
春蘭が。
前へ出ようとする。
「私が行く!」
「待て」
時雨が止める。
「だが」
「呼ばれたのは俺だ」
「罠かもしれん」
「ああ」
「なら!」
「話を聞く」
時雨は。
黒い馬へ乗る。
護衛をつけない。
霞が。
馬の前へ立った。
「時雨」
「何だ」
「さっき」
「勝手に行かんって」
「華琳様に約束した言うてたな」
「ああ」
「今」
「敵将の前へ」
「一人で行こうとしてへんか」
「軍の前だ」
「同じや!」
「見えてる」
「見えてたらええんか!」
霞が。
馬の手綱を掴む。
時雨は。
少し考える。
「霞も来い」
「最初からそう言え!」
霞は。
自分の馬へ飛び乗る。
春蘭も。
当然のように前へ出た。
「私も行く!」
「春蘭は残れ」
「なぜだ!」
「馬超が」
「話す前に」
「春蘭と戦い始める」
「始めん!」
「絶対始めるやろ」
霞が言う。
「貴様に言われたくない!」
「二人とも残れ」
秋蘭が。
静かに言った。
「時雨と霞だけで十分だ」
春蘭が。
不満そうに唸る。
だが。
曹操の命令を受けた総大将。
その判断へ。
最後には従う。
「必ず戻れ」
春蘭が言う。
「ああ」
「勝手に敵陣へ行くな」
「ああ」
「馬超と戦うなら」
「私を呼べ」
「必要なら」
「必要だ!」
時雨は。
返事をせず。
馬を進めた。
霞も。
横へ並ぶ。
二騎。
魏軍の陣を離れる。
その前方。
一騎。
錦馬超。
三人は。
両軍の中間で止まった。
互いに。
声が届く距離。
馬超は。
時雨を睨む。
若い顔。
まだ。
少女と呼べるほどの年齢。
だが。
目には。
戦場を知る者の強さがある。
怒り。
悲しみ。
責任。
兵を率つ者としての誇り。
そのすべてが。
隠されず。
まっすぐ出ている。
「お前が」
馬超が言う。
「張燕か」
「ああ」
「水を汚したのも」
「お前か」
「ああ」
「仲間を捕らえたのも」
「ああ」
「なぜ返した!」
「助けに来たから」
馬超の眉が。
強く寄る。
「ふざけるな!」
「私は」
「お前に情けをかけられに来たんじゃない!」
「分かってる」
「なら」
「なぜ!」
「必要なくなった」
馬超の顔が。
完全に怒りへ染まる。
「仲間を!」
「物のように言うな!」
「物じゃない」
「人だから返した」
「同じだ!」
馬超の槍先が。
時雨へ向く。
霞が。
僅かに飛龍偃月刀を動かす。
時雨は。
止めなかった。
「私と戦え!」
馬超が叫ぶ。
「お前が勝てば」
「私は退く!」
「私が勝てば」
「魏軍は涼州から出ていけ!」
霞の目が。
僅かに鋭くなる。
一騎打ち。
涼州らしい。
武によって。
道を決める。
自分が。
最強であるという自信。
そして。
兵を救うため。
戦全体を。
自分一人の勝負へ変えようとする覚悟。
春蘭なら。
喜んで受ける。
霞も。
個人としてなら。
受けたい。
だが。
時雨は。
「断る」
即答だった。
馬超の動きが止まる。
「……何?」
「やらない」
「怖いのか!」
「ああ」
馬超の目が。
一瞬。
見開かれる。
霞まで。
横で時雨を見る。
「馬超は強い」
時雨は続ける。
「馬上なら」
「俺が負けるかもしれない」
「だからやらない」
馬超の怒りへ。
困惑が混ざる。
「卑怯者!」
「ああ」
「武人の誇りもないのか!」
「ない」
「貴様!」
馬超が。
槍を握る手へ力を込める。
「お前のような男が」
「総大将だと!」
「魏軍は」
「恥を知らないのか!」
「知ってる」
「でも」
時雨は。
馬超を見る。
「俺一人の勝負で」
「五万の兵の道は決めない」
「私も」
「涼州を背負っている!」
「だから駄目だ」
「何が!」
「馬超が負けたら」
「馬騰は退くのか」
馬超の言葉が。
止まる。
「馬騰が」
「そう命じたのか」
「それは」
「違うだろ」
時雨は。
冷静に続ける。
「馬超が勝っても」
「曹操は退かない」
「俺が負けても」
「次の総大将が来る」
「春蘭」
「秋蘭」
「霞」
「魏には」
「まだ将がいる」
「だから」
「一騎打ちに意味はない」
馬超は。
唇を噛む。
その通り。
自分が勝てば。
魏軍が引く。
その約束を。
曹操はしていない。
馬騰も。
馬超が負ければ退くとは。
言っていない。
一騎打ちは。
自分の怒りを。
満たすだけ。
「それでも」
馬超は言う。
「お前は」
「私が倒す!」
「いつかはな」
「今だ!」
「今は」
時雨は。
馬超の後ろ。
涼州軍を見る。
「軍を戻せ」
「断る!」
「水が足りない」
「新しい水場を確保した!」
「どこだ」
馬超は。
一瞬黙る。
軍の情報。
敵へ話すものではない。
時雨は。
その沈黙だけで。
十分だった。
「西の谷か」
馬超の目が。
僅かに動く。
霞が。
時雨を見る。
「分かるんか」
「馬騰軍が」
「北へ寄ってる」
「ああ」
「西谷の井戸やろな」
霞も。
敵陣の僅かな偏りへ気づく。
時雨は。
馬超を見る。
「水は」
「何万の馬へ足りる」
「足りる!」
「嘘だ」
「嘘ではない!」
「なら」
「豪族軍が」
「水の順番で揉めてないか」
馬超の目が。
揺れた。
小さく。
だが。
確かに。
時雨は。
見逃さない。
「揉めてない!」
「そうか」
「何だ!」
「なら」
時雨は。
平然と言った。
「食料を送る」
馬超。
霞。
二人とも。
動きが止まる。
「……何を」
馬超が。
低く尋ねる。
「魏軍の兵糧を」
「馬騰軍へ送る」
「毒でも入れる気か!」
「入れない」
「信じると思うか!」
「味見をさせる」
「捕虜から戻った兵へ」
「魏軍で食べた物と」
「同じか確かめさせろ」
馬超は。
理解できないものを見る目で。
時雨を見た。
敵へ。
食料を送る。
今から。
戦おうとしている相手へ。
「何が目的だ」
「腹が減ってるだろ」
「ふざけるな!」
「急いで来た」
時雨は。
馬騰軍の陣を見る。
「兵糧隊が遅れてる」
「持ってきた分も」
「昨日の馬と」
「逃げた先鋒へ使った」
「今夜」
「全軍へ十分な飯は出ない」
馬超の顔が。
強張る。
当たっていた。
馬騰軍は。
急ぎすぎた。
先鋒敗北の報。
水場を失った知らせ。
捕虜六千。
馬超が。
救援を急がせ。
馬騰も。
娘と兵の怒りを止められず。
本隊を東へ出した。
だが。
兵糧。
馬草。
天幕。
全てが。
軍の速度へ追いついていない。
「だから」
時雨は言う。
「送る」
「敵からの飯など」
「誰が食うか!」
「食わなければ」
「腹が減るだけだ」
「貴様!」
馬超が。
槍を動かす。
霞が。
即座に飛龍偃月刀を構える。
刃と槍。
互いに。
届く距離。
「やめろ」
時雨が言う。
「霞」
「でも」
「下げろ」
霞は。
馬超を睨みながら。
ゆっくり刀を下げる。
「馬超」
時雨は続ける。
「戻れ」
「今夜」
「兵糧を送る」
「食うかどうかは」
「馬騰が決めればいい」
「断る!」
「馬騰に聞け」
「必要ない!」
「馬超が」
「総大将か」
その一言に。
馬超は。
完全に止まった。
馬騰軍の主は。
馬騰。
馬超ではない。
兵から慕われ。
錦馬超と呼ばれていても。
最後の決断は。
母がする。
「馬騰に」
「聞いてから断れ」
時雨は言う。
「それが嫌なら」
「馬超が」
「馬騰に代わって」
「涼州の全部を背負え」
馬超の顔へ。
怒りと。
迷いが浮かぶ。
時雨は。
それ以上言わない。
馬を返す。
「待て!」
馬超が叫ぶ。
時雨は。
振り返らない。
「逃げるのか!」
「ああ」
「卑怯者!」
「ああ」
「外道!」
「ああ」
「必ず!」
「お前を倒す!」
時雨は。
馬を進めながら。
片手だけを上げた。
「待ってる」
馬超の怒声が。
背中へ届く。
霞は。
時雨と並んで走る。
しばらく。
何も言わない。
魏軍が近づいた頃。
ようやく。
口を開いた。
「食わせるって」
「そういうことか」
「ああ」
「敵に飯送って」
「ああ」
「何を壊す」
「馬騰軍」
「どうやって」
時雨は。
前を見る。
「食う奴と」
「食わない奴に分ける」
霞の目が。
細くなる。
「……ほんまに」
「外道やな」
---
魏軍の天幕へ戻ると。
主要な将たちが。
すぐに集まった。
時雨が。
馬騰軍へ。
兵糧を送る。
その一言で。
天幕は。
前回以上に静まり返った。
「敵軍へ」
栄華が。
ゆっくり確認する。
「我が軍の兵糧を」
「与える?」
「ああ」
「時雨」
栄華の声が。
低くなる。
「あなた」
「わたくしが」
「兵糧の計算へ」
「どれほど時間をかけたか」
「理解しておられます?」
「ああ」
「一日ごとの消費」
「損失」
「腐敗」
「予備」
「馬草」
「帰路」
「全てを計算しました」
「ああ」
「それを」
栄華は。
扇で机を叩く。
「敵へ渡すと!」
「全部じゃない」
「当然ですわ!」
栄華の声が響く。
「全部渡したら」
「わたくしがあなたを斬ります!」
春蘭が。
僅かに目を見開く。
「栄華」
「何です」
「斬るなら」
「私が先だ」
「順番の話ではありません!」
華論が。
両手を上げる。
「落ち着くっす!」
「まず」
「どれくらい送る気っすか?」
「一万五千人分」
今度は。
全員が黙った。
「一万五千……」
華論が繰り返す。
「馬騰軍は」
「四万以上いるっすよ」
「ああ」
「全員分じゃない」
「ああ」
稟が。
策を理解し始める。
その表情が。
少しずつ。
険しくなる。
「意図的に」
「足りない量を送る」
「ああ」
「なぜです?」
柳琳が尋ねる。
時雨は。
地図へ。
馬騰軍の各部隊を示す駒を並べた。
馬騰直轄。
馬超の騎馬隊。
北方豪族。
西方部族。
先鋒敗残兵。
歩兵。
弓兵。
輸送隊。
一つの軍。
だが。
中身は。
一つではない。
「全員分あれば」
時雨が言う。
「皆で食う」
「一人分もなければ」
「捨てる」
「少しだけあるから」
「誰へ配るか決める必要がある」
稟の目が。
細くなる。
「馬騰殿へ」
「選ばせる」
「ああ」
「直轄軍へ配れば」
「豪族が怒る」
「豪族へ配れば」
「馬超の兵が怒る」
「先鋒から戻った兵へ配れば」
「昨日負けた者を優遇したと言われる」
「傷病兵へ配れば」
「戦える兵が腹を空かせる」
「馬へ回せば」
「人が食えない」
「人へ回せば」
「馬が動けない」
天幕の中へ。
冷たいものが広がる。
水不足。
兵糧不足。
もともと。
馬騰軍の中へ。
不安がある。
そこへ。
敵から。
一万五千人分だけの食料が届く。
捨てるには惜しい。
食べるには。
全軍へ足りない。
誰かへ渡せば。
渡されなかった者が怒る。
平等に分ければ。
量が少なすぎ。
腹は満たされない。
そして。
魏軍の食料を口にした。
その事実だけで。
馬騰軍内部から。
裏切り者と呼ばれる可能性もある。
「さらに」
時雨は続ける。
「荷へ」
「札をつける」
「何と書くのです」
稟が尋ねた。
「昨日」
「魏から水を受けた兵へ」
「生きて帰った祝いだ」
霞が。
顔をしかめた。
「最悪やな」
「ああ」
「馬超が」
「救った兵への飯」
「そう見せるんか」
「ああ」
「馬騰が」
「別の部隊へ回したら?」
「馬超の兵が」
「自分たちの飯を奪われたと思う」
「その兵へ配れば?」
「他の豪族が」
「降った奴ばかり優遇すると思う」
「捨てたら?」
「戻った兵が」
「自分たちのための食料を」
「馬騰が捨てたと思う」
「どれ選んでも」
霞は。
低く言う。
「馬騰か」
「馬超への不満になる」
「ああ」
柳琳が。
時雨を見る。
「食料そのものへ」
「毒は?」
「入れない」
「腐った物も?」
「入れない」
「普通の」
「魏兵が食べる物と」
「同じ物を送る」
「なぜです」
「疑われるから」
時雨は答える。
「毒があれば」
「皆が食わない」
「腐っていれば」
「魏が悪いで終わる」
「何もないから」
「捨てにくい」
柳琳は。
目を伏せた。
「毒より」
「酷いですね」
「ああ」
時雨は。
否定しない。
「身体ではなく」
「心を壊す」
「ああ」
「兵糧を」
「与える形で」
「ああ」
栄華は。
机上の数字を見る。
一万五千人分。
魏軍の備蓄から。
出せない量ではない。
長期戦を想定し。
多めに運んでいる。
関中から。
追加の輸送も可能。
だが。
敵へ渡す。
その費用は。
決して小さくない。
「栄華」
時雨が呼ぶ。
「……何です」
「出せるか」
栄華は。
時雨を睨んだ。
「出せます」
「そうか」
「ですが」
栄華は。
強く言う。
「出したくはありません」
「ああ」
「兵が」
「自分たちの食事を」
「敵へ奪われたと感じる可能性があります」
「ああ」
「説明が必要です」
「する」
「時雨が?」
「ああ」
栄華の目が。
僅かに変わる。
以前の時雨なら。
説明を。
他の者へ任せたかもしれない。
命令だから従え。
結果を見れば分かる。
そう言った。
今は。
自分で説明すると答えた。
「では」
栄華は。
帳簿へ手を伸ばす。
「出しますわ」
「一万五千人分」
「ただし」
「最も新しい兵糧ではなく」
「三日以内に消費すべき分から」
「それなら」
「我が軍の損失も抑えられます」
「腐ってないか」
「当然です」
栄華は。
怒りを込めて答える。
「わたくしが」
「腐った兵糧を」
「帳簿へ残すと思いますの?」
「思わない」
「なら」
「聞かないでくださいませ!」
華論が。
荷車の数を計算する。
「百二十台くらい必要っす」
「護衛は」
「つけない」
時雨が答える。
「敵に奪われるっすよ」
「奪わせる」
「誰へ運ばせるんすか」
「捕虜から戻った兵へ」
「まだ」
「馬騰軍の前にいる者がいる」
稟が。
すぐに理解する。
「彼らへ」
「魏軍からの荷だと知らせ」
「自分たちで」
「馬騰軍へ運ばせる」
「ああ」
「魏兵が運べば」
「敵は警戒する」
「自軍の兵が運べば」
「受け入れざるを得ない」
「ああ」
稟は。
しばらく。
地図を見つめた。
「時雨殿」
「何だ」
「この策」
「馬騰殿が」
「すぐに見抜く可能性があります」
「ああ」
「それでも?」
「見抜いても」
「食料は残る」
「捨てるか」
「配るか」
「見抜いただけでは」
「選ばなくていい理由にならない」
稟の背へ。
冷たいものが走る。
策を。
見破れば。
避けられる。
普通は。
そうだ。
だが。
時雨の策は。
見破っても。
問題が消えない。
食料は。
現実にある。
自軍は。
腹を空かせている。
誰かが。
食べたいと思う。
誰かが。
毒を恐れる。
誰かが。
敵の施しを受けるなと怒る。
誰かが。
兵を飢えさせる主へ不満を持つ。
策略だと。
全員へ説明しても。
空腹までは消えない。
「非道です」
稟が言った。
「ああ」
「先の水攻めより」
「さらに」
「ああ」
「ですが」
稟は。
地図を見たまま続ける。
「効果はあるでしょう」
「それが」
「一番嫌です」
時雨は。
僅かに目を細くした。
稟も。
霞と同じことを言う。
間違っていれば。
拒絶できる。
だが。
正しい部分がある。
兵を多く救う可能性がある。
だから。
捨てきれない。
「華琳様へ」
春蘭が言った。
「報告するのか」
「ああ」
「返事を待つ?」
「待つ」
時雨は答える。
全員の表情が。
僅かに変わった。
「本当に?」
霞が尋ねる。
「ああ」
「馬騰軍は」
「今夜すぐには動けない」
「兵糧が来るまで」
「陣を整える」
「半日はある」
「最速の伝令なら」
「許可を待てる」
春蘭は。
満足そうに頷く。
「よし」
「何が」
「華琳様との約束を守った」
「当たり前だ」
「貴様の場合は」
「褒めるべきことだ!」
「子供か」
「誰がだ!」
天幕へ。
僅かな笑いが生まれる。
重い空気。
非道な策。
その中でも。
皆。
時雨が。
少しずつ変わっていることへ気づいていた。
---
曹操からの返答は。
翌朝。
太陽が昇る前に届いた。
伝令は。
馬から降りた直後。
膝をついた。
それでも。
書状だけは。
両手で高く掲げる。
時雨は。
大天幕で封を開いた。
将たちが。
黙って見守る。
書かれていた言葉は。
前回よりも短い。
敵へ兵糧を与える策を許可する。
毒。
腐敗。
虚偽の薬物。
いかなる害も加えてはならない。
魏兵へ。
策の目的を説明すること。
兵糧の不足が生じた場合。
関中の備蓄から補充する。
そして。
最後。
時雨は。
一瞬。
読むのを止めた。
「何や」
霞が言う。
「また」
「何か書かれとるんか」
時雨は。
最後の一文を読む。
「あなたが」
「自分を外道と呼ぶことは許す」
「でも」
「私の軍を」
「あなた一人の罪から」
「除外することは許さない」
「魏軍が行う策なら」
「魏軍全体で結果を背負いなさい」
静寂。
曹操は。
また。
時雨の逃げ道を塞いだ。
自分一人が。
悪名を背負う。
魏軍は。
命令へ従っただけ。
曹操は。
知らなかった。
そういう形を。
許さない。
兵糧を運ぶ兵も。
策を認めた将も。
許可した曹操も。
皆。
この策へ関わる。
だからこそ。
使った後。
一緒に。
壊したものを戻す。
憎しみへ向き合う。
時雨一人を。
外道として。
切り離さない。
「華琳様らしいな」
秋蘭が言った。
春蘭は。
強く頷く。
「当然だ!」
「時雨だけに」
「勝手なことをさせるものか!」
「勝手ではない」
時雨が言う。
「そういう意味ではない!」
霞は。
書状を見ながら。
僅かに笑う。
「時雨」
「何だ」
「ええ主やな」
「ああ」
「即答やな」
「ああ」
「それだけは」
霞は。
少し遠くを見る。
「迷わへんのやな」
時雨は。
返事をしなかった。
迷わない。
曹操を。
選んだことだけは。
---
兵糧を積んだ荷車は。
昼前。
魏軍の陣を出た。
百二十台。
白い布。
武器を持たない。
荷を運ぶのは。
前日に解放された涼州兵の一部。
時雨の言葉を。
馬騰軍へ伝える役目も与えられた。
「この兵糧は」
「昨日魏軍から解放された兵へ」
「生還を祝うため送る」
「毒はない」
「魏兵が食べる物と同じ」
「食べるか」
「捨てるか」
「誰へ配るか」
「馬騰が決めろ」
馬騰軍は。
荷車を止めた。
周囲へ。
弓兵。
騎兵。
槍兵。
罠を警戒する。
荷を開く。
穀物。
乾燥肉。
豆。
塩。
馬へ与えるための。
僅かな麦。
どれも。
普通の兵糧。
捕虜から戻った兵が。
先に食べる。
毒はない。
腹も壊さない。
そこへ。
馬騰が現れた。
馬超も。
隣にいる。
母。
娘。
同じ茶系統の髪。
だが。
馬騰の髪には。
戦と統治の年月が刻まれている。
馬超は。
まだ若い。
怒りを。
隠すこともできない。
馬騰は。
荷車を見る。
次に。
戻った兵を見る。
「張燕からか」
「はい」
兵が答える。
「何を言われた」
「見たことを」
「すべて話せと」
「それだけか」
「はい」
「この兵糧は」
「我らのためだと」
「昨日」
「水を受け」
「生きて帰った祝いだと」
馬騰の表情が。
僅かに変わる。
策。
すぐに気づく。
これは。
善意ではない。
時雨は。
馬騰軍へ。
食料を与えたいのではない。
食料を。
誰へ与えるか。
馬騰に選ばせたい。
「燃やせ」
馬騰が言った。
周囲の将が。
一瞬。
動きを止める。
馬超も。
母を見る。
「母様」
「燃やせ」
馬騰は。
もう一度命じる。
「敵からの施しだ」
「口にするな」
「ですが」
一人の豪族将が。
声を上げた。
「兵は」
「昨日から」
「十分な食事を取れておりません」
「我が隊の馬も」
「餌が足りず」
「燃やすくらいなら」
「毒見をした後」
「使うべきでは」
「魏の策だ」
馬騰が言う。
「食えば」
「軍の中へ」
「必ず争いが起こる」
「しかし」
別の将も。
荷を見る。
「兵糧隊が到着するのは」
「早くても明日の夕刻」
「今夜」
「兵へ何を食わせるのです」
「残る分を」
「平等に分ける」
「それでは」
「一人一食にも足りません!」
馬騰の目が。
険しくなる。
すでに。
始まっている。
時雨の狙い。
燃やす。
正しい。
食料へ手を出せば。
軍が割れる。
だが。
腹を空かせた兵の前で。
食料を焼く。
それは。
主として。
簡単な命令ではない。
「母様」
馬超が言う。
「戻った兵に」
「食べさせてやればいい」
馬騰が。
娘を見る。
「なぜだ」
「張燕は」
馬超は。
言葉を選ぶ。
「あいつらへ」
「送ったと言っている」
「受け取らなければ」
「戻った兵を」
「私たちが見捨てたことになる」
その言葉。
時雨の罠。
馬騰には分かった。
「翠」
馬騰が。
低く呼ぶ。
真名。
娘へだけ向けた。
「これは」
「お前たちのための食料ではない」
「では」
「何のためです」
「我らを分けるためだ」
馬超。
真名、翠は。
黙る。
馬騰は。
周囲の将たちを見る。
「戻った者へ配れば」
「他の兵が不満を持つ」
「全軍へ分ければ」
「量が足りず」
「敵の施しを受けたという事実だけが残る」
「一部の豪族へ渡せば」
「他が疑う」
「だから」
「燃やす」
理屈は。
正しい。
将たちも。
理解する。
だが。
兵糧を見る。
腹を空かせた兵を見る。
馬を見る。
理解と納得は。
同じではない。
「馬騰様」
捕虜から戻った兵が。
声を上げた。
昨日。
時雨の足元へ唾を吐いた男。
「我らは」
「魏軍へ降ったのではありません」
「分かっている」
「敵の食料を受け取ったからといって」
「涼州を裏切るわけでもありません」
「分かっている」
「では」
男は。
強く言う。
「なぜ」
「我らが生きるための食料を」
「燃やすのです!」
周囲が。
静まった。
馬超が。
男を見る。
馬騰も。
男を見る。
「魏の策だからだ」
「ならば!」
兵の声が。
震える。
「我らが」
「魏の策へ」
「負けないことを示せばよい!」
「食っても」
「馬騰様へ従う!」
「涼州のために戦う!」
「それではいけないのですか!」
馬騰は。
答えられなかった。
食べれば。
必ず裏切る。
そう言えば。
兵を信じていないことになる。
食べても。
忠義は変わらない。
それを認めれば。
敵からの食料を。
軍へ入れることになる。
どちらを選んでも。
傷が残る。
時雨は。
馬騰へ。
剣を向けていない。
それでも。
馬騰は。
追い詰められていた。
「母様」
馬超が。
再び口を開く。
「私が責任を持つ」
馬騰の目が。
娘へ向く。
「何をする」
「戻った兵へ」
「食料を配る」
「他の部隊には」
「私の隊の兵糧を回す」
「それで」
「不公平をなくす」
周囲の将が。
ざわめく。
馬超の隊。
錦馬超の精鋭。
戦の中核。
その兵糧を。
他へ回す。
自分の兵を。
飢えさせる。
「駄目だ」
馬騰が言う。
「なぜ!」
「お前の騎兵は」
「明日」
「最前線へ出る」
「食わせないわけにはいかない」
「なら」
「私は食べません!」
馬超は。
胸を張る。
「私の分も」
「兵へ回す!」
「翠」
「私が決めます!」
母と娘。
視線がぶつかる。
その周囲。
戻った兵。
豪族。
直轄軍。
誰もが。
二人を見ている。
時雨の策は。
馬騰軍を。
食う者と。
食わない者に分けるだけではない。
馬騰と馬超。
母と娘。
主と後継者。
その間へも。
僅かな違いを作る。
馬騰は。
策を見抜き。
軍全体を守るため。
食料を捨てたい。
馬超は。
目の前の兵を守るため。
食べさせたい。
どちらも。
兵を思っている。
だからこそ。
ぶつかる。
「……一部だけ使う」
馬騰が。
最後に言った。
苦い判断。
「戻った兵へ」
「最低限を配る」
「残りは」
「倉へ封じる」
「兵糧隊が到着するまで」
「誰にも触れさせるな」
完全に。
燃やせなかった。
完全に。
配ることもできなかった。
最も。
中途半端な選択。
だが。
現実の主が選べるのは。
大抵。
そういう道だった。
馬超は。
僅かに安堵した。
戻った兵たちも。
頭を下げる。
しかし。
他の豪族軍は。
自分たちには。
食料が回らないことを知る。
馬超の隊から。
分ける案も。
採用されなかった。
馬超だけが。
情を見せた。
馬騰は。
それを止めた。
その印象が。
軍の中へ残る。
時雨の兵糧は。
腹を満たすより先に。
疑いを育てた。
---
その夜。
馬騰軍では。
火が少なかった。
兵糧を節約するため。
煮炊きを減らした。
兵は。
僅かな粥を分け合う。
戻った兵の一部だけが。
魏軍から送られた。
乾燥肉と豆を口にする。
匂い。
周囲へ広がる。
食べていない兵が。
見る。
何も言わない。
だが。
目が変わる。
「魏の飯はうまいか」
一人が言う。
冗談のような声。
しかし。
中へ。
棘がある。
「生きて帰った祝いだそうだ」
戻った兵が答える。
「敵から祝いをもらうとは」
別の兵が笑う。
「お前たち」
「魏の兵にでもなったのか」
「違う!」
「なら」
「食うなよ」
喧嘩。
小さい。
すぐに止められる。
だが。
別の場所でも。
同じような言い争いが始まる。
馬騰直轄軍は。
豪族軍が。
命令を聞かないと疑う。
豪族軍は。
直轄軍だけが。
隠して食料を持っているのではと疑う。
馬超の騎馬隊は。
自分たちの将が。
兵へ食料を分けようとしたことを誇る。
他の隊は。
馬超隊だけが。
特別扱いされるのではと警戒する。
食料は。
まだ。
大半が倉へ封じられている。
誰も食べていない。
それでも。
存在するだけで。
軍を割っていく。
時雨が送ったのは。
穀物ではない。
選択。
疑問。
不公平。
主への不満。
兵への不信。
形のない刃。
見えない毒。
馬騰は。
夜の天幕で。
一人。
地図を見ていた。
向かいには。
馬超。
翠。
黙って座っている。
「怒っているか」
馬騰が尋ねる。
「何にです」
「私が」
「食料を配らなかったことに」
「……少し」
馬超は。
正直に答える。
「ですが」
「母様の理由も分かります」
「そうか」
「張燕は」
馬超の拳が。
膝の上で握られる。
「許せません」
「ああ」
「水を汚し」
「仲間を捕らえ」
「今度は」
「食料で」
「私たちを馬鹿にする」
「ああ」
「明日」
馬超は。
顔を上げる。
「私に」
「先鋒を任せてください」
馬騰の目が。
僅かに細くなる。
「何をする」
「魏軍の補給隊を叩きます」
「奴らが」
「食料を武器にするなら」
「その食料を」
「自分たちも食べられなくしてやる」
「怒りで動くな」
「怒りだけではありません!」
馬超は。
強く言う。
「魏軍は」
「私たちが」
「正面から挑むと思っている」
「張燕は」
「私が」
「馬鹿正直に突撃すると」
「見下している」
「だから」
「正面には出ません」
馬騰は。
娘を見る。
若い。
真っ直ぐ。
怒りを。
隠せない。
だが。
戦い方まで。
単純ではない。
「北へ回ります」
馬超は続ける。
「魏軍の後方」
「長安から来る補給路」
「そこを切る」
「張燕は」
「私たちへ兵糧を送った」
「それだけ」
「自軍の備蓄に余裕があるということ」
「なら」
「次の輸送隊は」
「守りが薄いかもしれない」
馬騰の目が。
僅かに変わる。
理がある。
魏軍は。
自軍の食料を敵へ送った。
余裕を見せた。
その余裕こそ。
逆襲の機会。
「兵は」
「五千」
馬超が言う。
「全員」
「速い馬だけを選びます」
「夜のうちに北へ」
「丘陵を回り」
「明日の夕方」
「魏軍補給隊を襲う」
「成功すれば」
「張燕の策は」
「自分へ返ります」
馬騰は。
しばらく考えた。
魏軍本隊へ。
正面から攻める。
それは。
時雨が待っている。
前日の先鋒敗北。
同じ失敗を。
繰り返すわけにはいかない。
馬超の策。
速さを生かす。
涼州軍らしい戦。
「許可する」
馬騰が言った。
馬超の顔が。
僅かに明るくなる。
「ただし」
「深追いするな」
「補給隊を叩いたら」
「すぐ戻れ」
「分かっています」
「張遼が」
「追ってくる可能性がある」
馬超の目へ。
強い光が宿る。
「来るなら」
「望むところです」
「翠」
馬騰の声が。
僅かに低くなる。
「戦うなとは言わん」
「だが」
「勝つために戦え」
「自分が」
「強いと示すためではない」
「はい」
馬超は。
深く頭を下げた。
「涼州を守るため」
「必ず」
「魏軍の補給を断ちます」
錦馬超。
若い英雄。
怒りだけではない。
兵を思い。
母を信じ。
涼州を守るため。
初めて。
時雨へ。
策で逆襲する。
---
翌日。
魏軍後方。
長安から。
新たな補給隊が進んでいた。
荷車。
三百。
兵糧。
馬草。
矢。
薬。
栄華が。
数日前に手配した。
追加物資。
護衛は。
三千。
決して少なくない。
だが。
広い平原では。
五千の騎兵へ襲われれば。
守り切るのは難しい。
補給隊は。
北の丘陵へ差しかかる。
見通しが悪い。
道は。
緩やかに曲がる。
隊列が。
長く伸びる。
先頭と最後尾。
互いに。
すぐには見えない。
その時。
丘の上。
白い旗が上がった。
錦。
馬。
「敵襲!」
護衛兵の声。
次の瞬間。
地面が震える。
丘を下る。
涼州騎兵。
先頭。
白馬。
茶色のポニーテール。
長槍。
馬超。
「全軍!」
馬超が叫ぶ。
「荷車へ火を放て!」
「兵を追うな!」
「食料だけを焼け!」
魏軍の護衛隊長が。
目を見開く。
水を汚した時雨。
それへ対する。
馬超の答え。
兵を多く殺すのではない。
魏軍が。
敵へ食料を送るほど。
余裕を見せるなら。
その余裕を。
根元から燃やす。
涼州騎兵は。
荷車の側面へ。
一気に突入した。
矢。
火。
油を染み込ませた布。
荷へ投げる。
炎。
乾いた空気。
瞬く間に。
車へ燃え移る。
「消せ!」
魏兵が叫ぶ。
だが。
水は少ない。
飲料用。
消火へ使えば。
行軍できない。
馬超の騎兵は。
止まらない。
荷車を。
次々と燃やす。
護衛兵が。
槍を構える。
馬超は。
正面から。
その陣へ突っ込む。
長槍。
一閃。
槍の穂先を。
跳ね上げる。
石突き。
盾兵の肩へ。
叩き込む。
人が倒れる。
だが。
馬超も。
兵を殺しすぎない。
狙いは。
物資。
時雨が。
水と食料を。
兵の命を奪わず武器にした。
馬超も。
同じ方法で返す。
「錦馬超を」
「舐めるな!」
白馬が。
炎の間を駆ける。
長槍が。
補給隊の旗を。
根元から断ち切る。
魏兵の目へ。
恐怖と。
驚きが浮かぶ。
若い。
だが。
強い。
速い。
迷いがない。
馬上。
涼州の大地。
馬超は。
霞にも。
春蘭にも劣らぬほど。
輝いていた。
補給隊の中央。
栄華は。
馬車の上で。
燃える荷を見ていた。
「来ましたわね」
その声は。
驚いていない。
隣。
華論も。
槍を持って立っている。
「時雨の読み通りっす」
二人は。
この補給隊にいた。
偶然ではない。
時雨が。
送った。
「本当に」
華論が。
馬超の姿を見る。
「補給隊を狙ってきたっす」
「当然ですわ」
栄華は答える。
「敵へ兵糧を与えれば」
「こちらの備蓄へ」
「余裕があると考える」
「そして」
「時雨が」
「最も守りたいものは」
「兵の命」
「なら」
「補給を狙えば」
「時雨を動かせる」
「馬超は」
「そう考えた」
華論は。
僅かに顔をしかめる。
「全部」
「時雨が言ってた通りっす」
「あの方は」
栄華の声へ。
不満が混ざる。
「人の考えを読むことだけは」
「異常ですわ」
「そこだけっすか?」
「書類と礼儀については」
「異常ではなく不足です」
「厳しいっすね」
「事実です」
馬超は。
補給隊の中央へ迫る。
白馬。
炎。
槍。
その姿へ。
華論が。
武器を構えた。
「止めるっすか」
「いいえ」
栄華が答える。
「まだです」
「でも」
「燃えてるっすよ!」
「燃えてよい荷です」
華論が。
栄華を見る。
「中身」
栄華は。
冷静に言う。
「古い藁」
「湿った木」
「砂袋」
「燃えやすくするため」
「表面だけ油を塗った布」
「食料は?」
「三十台だけ」
華論の目が。
大きくなる。
「残りは」
「昨日の夜」
「南の道へ移しました」
「聞いてないっす!」
「時雨の命令です」
「敵の間者に」
「気づかれないよう」
「知る者を減らしました」
「私にも?」
「華論は」
「顔へ出ますもの」
「出ないっす!」
「出ます」
馬超は。
補給隊を焼いている。
だが。
焼いているのは。
ほとんどが。
偽の荷。
時雨は。
馬超が。
補給を狙うと読んでいた。
いや。
狙わせた。
兵糧を敵へ送る。
魏軍には。
まだ食料があると見せる。
追加の補給隊を。
わざと。
北の目立つ道へ通す。
護衛も。
少なすぎず。
多すぎず。
襲えば勝てる。
そう思わせる。
馬超は。
罠へ入った。
しかし。
時雨の狙いは。
馬超の隊を。
ここで包囲し。
全滅させることではない。
「馬超が」
栄華が。
静かに呟く。
「本物の食料がないと気づくまで」
「あとどれほどです?」
「もうすぐっす」
華論が答える。
火。
荷車。
表面。
袋が裂ける。
中から。
穀物ではなく。
砂がこぼれる。
一人の涼州兵が。
叫んだ。
「馬超様!」
「この荷!」
「兵糧ではありません!」
馬超の動きが止まる。
別の荷車。
槍で。
袋を裂く。
藁。
石。
砂。
食料ではない。
「罠だ!」
馬超が叫ぶ。
「全軍!」
「離脱しろ!」
判断が速い。
迷わない。
火を放った時と同じ。
即座に。
隊を引こうとする。
だが。
その時。
北の丘陵。
西。
東。
三方向から。
旗が上がった。
黒。
銀の狼。
黒狼隊。
さらに。
紫の布。
霞の騎馬隊。
そして。
高台。
時雨の総大将旗。
馬超の顔が。
怒りへ染まる。
「張燕!」
「やっぱり」
霞が。
飛龍偃月刀を肩へ担ぎ。
馬超の前へ出る。
「馬鹿正直に来たな」
「張遼!」
馬超の槍が。
霞へ向く。
「貴様も」
「あの男の外道な策に従うのか!」
「せや」
霞は答える。
「気に食わんけどな」
「なら!」
「なぜ!」
「兵を」
「生かすためや」
霞の目が。
鋭くなる。
「うちの兵も」
「お前の兵も」
「できるだけ」
「生きて帰すためや」
「馬鹿にするな!」
馬超は。
白馬を前へ出す。
「戦場で」
「命を惜しんで」
「何が守れる!」
霞の表情が。
変わった。
かつて。
自分も。
似たようなことを考えていた。
戦は。
命を懸けるもの。
強い者が勝つ。
死ぬ覚悟がない者は。
戦場へ立つな。
だが。
流浪の果て。
時雨との再会。
魏軍。
霞は。
少しずつ。
違うものを知り始めている。
命を懸けることと。
命を捨てることは違う。
「命惜しんで」
霞が言う。
「何が悪い」
馬超の目が。
僅かに見開かれる。
「兵は」
「死ぬために」
「ついてきたんちゃう」
「勝って」
「帰るためや」
「涼州の兵も」
「同じちゃうんか」
「黙れ!」
馬超が。
槍を繰り出す。
霞の飛龍偃月刀が。
受け止める。
金属音。
火花。
白馬と。
黒鹿毛。
二頭が。
すれ違う。
馬超。
反転。
速い。
霞も。
すぐに向きを変える。
二人の武器が。
再びぶつかる。
長槍。
飛龍偃月刀。
錦馬超。
飛将張遼。
涼州の若き最強。
流浪を終えようとする歴戦の将。
互いに。
馬上。
譲らない。
馬超の槍は。
真っ直ぐ。
速い。
無駄がない。
怒りに任せているように見えて。
技は乱れていない。
馬と。
完全に一つになっている。
腰。
肩。
腕。
馬の速度を。
槍先へ。
そのまま乗せる。
霞は。
力を正面から受けない。
長い柄を使い。
軌道を逸らす。
間合い。
馬超の槍より。
飛龍偃月刀が僅かに長い。
だが。
馬超は。
その長さへ入ることを恐れない。
一度引き。
次。
低く。
馬の首すれすれから突く。
霞が。
身体を反らす。
穂先が。
鎧の胸元を掠める。
「やるやん!」
霞が笑う。
「笑うな!」
馬超が叫ぶ。
「私は本気だ!」
「うちもや!」
飛龍偃月刀。
横薙ぎ。
馬超が。
槍の柄で受ける。
衝撃。
白馬が。
二歩。
横へ流れる。
だが。
馬超は落ちない。
「重っ」
馬超の口から。
思わず声が漏れる。
霞が。
大きく笑う。
「飛将舐めんな!」
「舐めてない!」
「でも倒す!」
馬超は。
再び前へ。
二人の周囲。
両軍の騎兵は。
動けない。
将同士の一騎打ち。
だが。
時雨は。
勝負を。
最後まで続けさせるつもりはなかった。
「華論」
高台。
時雨が呼ぶ。
「はいっす」
「合図」
華論が。
赤旗を上げる。
次の瞬間。
黒狼隊が。
包囲を閉じる。
ただし。
槍を向けない。
弓も引かない。
道を。
一つだけ残す。
西。
馬騰軍本隊へ戻る道。
「霞!」
時雨の声。
霞が。
馬超の槍を弾き。
大きく距離を取る。
「終わりや!」
「逃げるのか!」
馬超が追おうとする。
その前へ。
黒狼隊の盾が並ぶ。
攻撃しない。
ただ。
進路を塞ぐ。
別の方向。
西だけが。
開いている。
馬超は。
周囲を見る。
自分の隊。
五千。
大きな損害はない。
偽の荷を焼いた。
補給隊を。
叩いたと思った。
だが。
戦果はない。
魏軍の包囲。
完全ではない。
逃げ道を。
意図的に残している。
「また」
馬超が。
時雨を見る。
「私たちを」
「逃がす気か」
「ああ」
時雨は答えた。
「なぜだ!」
「戻って」
「見たことを話せ」
馬超の顔が。
歪む。
捕虜へ。
同じことを言った。
そして。
その言葉が。
馬騰軍へ。
迷いを運んだ。
今度は。
馬超自身へ。
同じ役目を与える。
「ふざけるな!」
馬超が叫ぶ。
「私は」
「お前の駒じゃない!」
「ああ」
時雨は。
静かに答える。
「だから」
「自分で選べ」
「ここで戦うか」
「兵を連れて帰るか」
「ここで戦えば」
「お前は」
「霞と戦える」
「俺も狙える」
「だが」
「後ろの兵は」
「黒狼隊と」
「華論の兵に囲まれる」
「勝っても」
「半分は帰れない」
馬超は。
周囲を見る。
魏軍。
包囲。
逃げ道。
兵。
自分を信じ。
ここまでついてきた。
涼州騎兵。
「それとも」
時雨は続ける。
「兵を連れて帰るか」
「帰れば」
「馬騰軍へ」
「本物の補給隊が」
「南を通ったと伝えられる」
馬超の目が。
大きくなる。
「本物の」
「兵糧は」
「南へ?」
「ああ」
「貴様!」
「言っていいのか」
霞が。
時雨を見る。
時雨は。
馬超から。
目を離さない。
「いい」
「馬超が」
「本隊へ戻って」
「今から南へ行っても」
「間に合わない」
「もう」
「長安側の砦へ入った」
馬超の拳が。
震える。
完全に。
読まれていた。
自分が。
補給を狙うこと。
北を選ぶこと。
急ぐこと。
罠へ気づけば。
すぐ退くこと。
全て。
「私を」
馬超が言う。
声が。
低くなる。
「馬鹿にしているのか」
「してない」
「なら」
「なぜ!」
「強いからだ」
時雨は答えた。
「馬超は」
「正面へ来ても強い」
「補給を狙う頭もある」
「判断も速い」
「だから」
「戦って倒すより」
「選ばせる」
「何を」
「兵を取るか」
「勝負を取るか」
時雨は。
馬超を見る。
「錦馬超」
「お前が」
「涼州の将なら」
「選べ」
馬超の唇が。
強く噛まれる。
戦いたい。
時雨を。
倒したい。
霞と。
決着をつけたい。
外道へ。
正面から。
武で勝ちたい。
だが。
後ろには。
五千の兵。
ここで。
自分が戦い続ければ。
包囲が閉じる。
兵が死ぬ。
母は。
勝つために戦えと言った。
強さを示すためではない。
馬超は。
目を閉じる。
短い。
一瞬。
そして。
槍を下げた。
「全軍!」
その声は。
怒りで震えていた。
それでも。
将として。
はっきりしている。
「退く!」
涼州騎兵が。
動く。
西へ。
開かれた道。
黒狼隊は。
攻撃しない。
霞も。
追わない。
馬超は。
最後に。
時雨を見る。
「張燕!」
「ああ」
「私は」
「必ず」
「お前に勝つ!」
「ああ」
「こんな策ではなく!」
「正面から!」
「ああ」
「逃げるな!」
「必要なら戦う」
「必要に決まっている!」
馬超の叫び。
どこか。
春蘭に似ている。
時雨は。
僅かに。
目を細くした。
馬超は。
隊を率い。
西へ走る。
一人も。
置いていかない。
負傷者も。
馬へ乗せる。
魏軍は。
追撃しない。
戦果。
偽の荷車。
焼失。
魏軍死者。
僅か。
涼州軍死者。
僅か。
馬超軍。
五千。
ほぼ全てが。
生きて帰る。
見た目だけなら。
引き分け。
補給隊を焼いた馬超の勝ちとも言える。
だが。
馬超は知った。
焼いたのは偽物。
本物は。
別の道。
自分の行動は。
最初から読まれていた。
それでも。
時雨は。
自分を倒さなかった。
兵を殺さなかった。
逃がした。
その事実が。
馬超の誇りへ。
最も深く刺さる。
敗北よりも。
屈辱的な形で。
---
馬超が戻った時。
馬騰軍の空気は。
さらに悪くなっていた。
食料を食べた者。
食べなかった者。
食べた者を。
裏切り者と呼ぶ者。
馬騰の判断へ。
不満を抱く者。
馬超の情を。
評価する者。
若い娘へ。
軍を任せすぎだと考える豪族。
錦馬超こそ。
兵の心を分かっていると。
囁く兵。
そこへ。
馬超が。
補給隊襲撃から戻る。
戦果は。
荷車百二十台を焼いた。
表向きには。
大きい。
兵から。
歓声が上がる。
だが。
馬超の顔は。
晴れない。
馬騰が。
娘を迎える。
「翠」
「はい」
「成功したか」
馬超は。
すぐには答えない。
周囲には。
将たち。
兵たち。
期待の目。
錦馬超が。
魏軍の食料を焼いた。
張燕へ。
一矢報いた。
そう信じている。
「荷車は」
馬超が言う。
「焼きました」
歓声。
だが。
続く言葉。
「ですが」
馬超は。
拳を握る。
「大半は」
「偽物でした」
歓声が。
止まる。
「本物の補給は」
「南の道を通り」
「すでに魏軍の砦へ入ったそうです」
「誰から聞いた」
馬騰が尋ねる。
馬超の顔が。
さらに歪む。
「張燕からです」
将たちが。
ざわめく。
「敵の言葉を信じるのか」
一人の豪族が言う。
「罠だ」
「我らを動揺させるための嘘だ」
馬超が。
その将を見る。
「偽物だったことは」
「私の目で確認した!」
「では」
別の将が言う。
「張燕は」
「なぜ本物の場所を話した」
馬超は。
答えられない。
その疑問こそ。
時雨の狙い。
本物の補給路を。
すでに安全へ入った後で教える。
真実。
だが。
敵が教えた。
だから。
疑われる。
馬超が。
真実を話すほど。
周囲が。
馬超と時雨の間に。
何かあるのではと疑う。
「まさか」
誰かが呟く。
「馬超様を」
「わざと逃がしたのでは」
「何だと!」
馬超が睨む。
「いえ」
兵は。
慌てて頭を下げる。
「ただ」
「五千の兵が」
「包囲されながら」
「ほぼ無傷で戻られたので」
「張燕が」
「何かを」
「仕掛けたのではと」
馬超の顔から。
血の気が引く。
仕掛けた。
その通り。
殺されなかった。
逃げ道を与えられた。
情報まで渡された。
戻って。
話せと。
言われた。
自分は。
時雨の駒ではない。
そう叫んだ。
だが。
今。
時雨の望んだ通り。
馬騰軍へ戻り。
見たことを話している。
「違う!」
馬超は叫ぶ。
「私は」
「自分で兵を連れて帰った!」
「張燕に」
「逃がされたのではない!」
「翠」
馬騰が。
静かに呼ぶ。
馬超の声が止まる。
母の目。
責めてはいない。
だが。
何があったか。
正確に聞こうとしている。
「天幕で話せ」
「……はい」
馬超は。
顔を俯ける。
歓声で迎えられるはずだった帰還。
それが。
疑問。
不安。
噂へ変わる。
錦馬超。
涼州の希望。
その光へ。
時雨は。
泥を塗っていない。
傷もつけていない。
ただ。
影を作った。
兵を生かし。
馬超を生かし。
戻した。
それだけで。
馬超の周囲へ。
疑いが生まれた。
まさに。
外道。
殺すより。
残酷な策だった。
---
魏軍本陣。
夕刻。
戦果報告。
偽の補給隊。
損失。
荷車百二十台。
うち。
実際の食料三十台。
馬草十台。
残りは。
偽物。
魏兵死者。
二十七。
負傷。
百余。
馬超軍。
死者。
三十余。
負傷。
百五十ほど。
全て。
想定より少ない。
栄華は。
帳簿を閉じる。
「費用だけを見れば」
「決して小さくありません」
「ですが」
「本物の輸送隊は無事」
「馬超軍へ」
「大きな損害を与えず」
「退けた」
「軍事的には」
「成功ですわ」
華論も。
部隊報告をまとめる。
「黒狼隊と」
「霞の騎馬隊」
「連携問題なしっす」
「包囲も」
「逃走路も」
「予定通り」
「ただ」
「兵の中には」
「なぜ馬超を逃がしたか」
「分からない者も多いっす」
「説明する」
時雨が言う。
「何と?」
稟が尋ねる。
「馬超軍を」
「殺せた」
「でも」
「殺さなかった」
「次に」
「降伏を受け入れやすくするため」
「それで」
「納得するでしょうか」
「しなくても」
「言う」
時雨は答えた。
稟は。
少しだけ頷く。
「馬騰軍の動きは」
秋蘭が報告する。
「今のところない」
「ただ」
「陣内の火が」
「昨夜より少ない」
「食料不足は」
「続いているようだ」
「送った兵糧は」
「使ったか」
「一部のみ」
「多くは」
「陣の中央へ封じられている」
時雨は。
地図を見る。
馬騰は。
正しく判断した。
完全に配れば。
軍が割れる。
完全に捨てれば。
兵の不満が増える。
一部だけ。
最小限。
中途半端。
だが。
それが。
現実的な最善。
時雨は。
馬騰の苦しさを。
理解していた。
「次は」
春蘭が尋ねる。
「どうする」
「馬騰軍は」
「まだ四万以上」
「馬超も健在」
「今度こそ」
「正面から来るかもしれん」
「来ない」
時雨は答える。
「なぜ分かる」
「馬騰が止める」
「二度」
「俺の策に乗った」
「次は」
「動かない」
霞が。
地図へ身を乗り出す。
「ほんなら」
「こっちから行くんか」
「行かない」
「何やねん」
「待つ」
「何を」
時雨は。
馬騰軍の駒。
周囲。
各地の豪族軍。
その一つを。
指で示す。
「帰る奴」
稟の目が。
鋭くなる。
「兵糧不足で?」
「それだけじゃない」
時雨は答える。
「水を奪われた」
「先鋒が降った」
「捕虜が返された」
「敵の飯を食った」
「馬超が」
「補給隊を焼いたが」
「罠だった」
「馬騰軍の中で」
「誰が」
「どこまで戦うか」
「分からなくなってる」
「豪族は」
「自分の土地を守るために来た」
「馬騰の誇りのために」
「全部死ぬつもりはない」
「では」
柳琳が尋ねる。
「離反を待つのですか」
「違う」
「帰るだけだ」
「裏切らなくていい」
「魏へ降らなくてもいい」
「自分の村へ」
「兵を連れて戻る」
「それを」
「許すと伝える」
稟が。
息を呑む。
「馬騰軍の」
「各豪族へ」
「使者を?」
「ああ」
「内容は」
「今帰るなら」
「追わない」
「領地も」
「民も」
「奪わない」
「馬騰へ」
「兵を出さないだけでいい」
春蘭が。
眉を寄せる。
「それでは」
「馬騰を裏切れと」
「言っているのと同じだ」
「ああ」
「卑怯だ」
「ああ」
春蘭は。
拳を握る。
だが。
以前のように。
すぐ反発はしなかった。
策を。
好んでいない。
しかし。
何を目的としているか。
理解し始めている。
「時雨」
柳琳が。
静かに呼ぶ。
「何だ」
「馬超は」
「どうするのです」
「何が」
「このままでは」
「馬超は」
「自分が戻ったことで」
「軍が乱れたと思います」
「ああ」
「兵を救った判断を」
「後悔するかもしれません」
時雨は。
少しだけ沈黙する。
「それでも」
「選んだのは馬超だ」
「そうですが」
柳琳は。
時雨を見る。
「時雨が」
「選ばせた」
「ああ」
「彼女は」
「まだ若い」
「若くても」
「将だ」
「厳しいですね」
「ああ」
時雨は。
白い馬旗の駒を見る。
「でも」
「兵を捨てなかった」
「俺を倒すより」
「兵を帰す方を選んだ」
「ああ」
「なら」
時雨の声が。
僅かに変わる。
「将として」
「間違ってない」
柳琳の目が。
少し柔らかくなる。
「それを」
「本人へ伝えるおつもりは?」
「今はない」
「なぜ」
「敵だから」
柳琳は。
小さく息を吐いた。
「時雨らしいですね」
「ああ」
「でも」
柳琳は。
僅かに笑う。
「いつか」
「伝えてあげてください」
時雨は。
返事をしなかった。
そのいつかが。
来るかどうか。
まだ分からない。
次に会えば。
馬超は。
本気で時雨を殺しに来る。
時雨も。
必要なら。
馬超を倒す。
戦とは。
そういうもの。
それでも。
時雨の中で。
錦馬超への評価は。
すでに決まっていた。
強い。
速い。
判断が早い。
兵を見捨てない。
誇りに。
縛られながら。
最後には。
兵を選べる。
馬騰より。
若い。
未熟。
だが。
涼州の次を。
担える将。
だからこそ。
殺さず。
壊さず。
自分で。
今の涼州を疑わせる。
外道。
非道。
時雨自身。
そう思う。
だが。
馬超まで殺せば。
涼州は。
誇りを失うだけではない。
未来まで失う。
それを避けるため。
時雨は。
馬超へ。
最も残酷な役目を与えた。
自分の母。
自分の国。
自分の兵。
その全てを。
見た上で。
何を守るか。
選ばせる。
「総大将」
稟が。
新しい竹簡を開く。
「各豪族への使者」
「すぐに準備します」
「ああ」
「どの程度の条件を」
「出しますか」
「曹操へ」
「従えとは言わない」
稟が。
僅かに目を見開く。
「では」
「何を」
「兵を引け」
「村へ帰れ」
「魏軍へ攻撃しない」
「補給を馬騰へ送らない」
「それだけだ」
「領地と地位は?」
「今のまま」
「税も?」
「今年は取らない」
栄華の扇が。
止まった。
「今」
「何と」
「今年は」
「魏へ税を払わなくていい」
「時雨!」
栄華の声が。
天幕を揺らす。
「勝手に」
「税を免除しないでくださいませ!」
「必要だ」
「必要でも!」
「華琳様の許可が要ります!」
「ああ」
「今から聞く」
栄華の動きが。
僅かに止まる。
前なら。
すでに使者を出した後。
あるいは。
策を実行してから。
曹操へ報告していた。
今は。
先に聞く。
栄華は。
怒りを。
少しだけ抑える。
「……よろしいでしょう」
「ですが」
「今年の税免除だけでは」
「来年以降の不安が残ります」
「何が」
「魏へ降った後」
「重税を課されるのではないかと」
「そう考えれば」
「豪族は動きません」
時雨は。
栄華を見る。
「どうする」
「わたくしに聞くのです?」
「ああ」
「珍しいですわね」
「分からないからな」
栄華は。
ほんの僅かに。
満足そうな顔をした。
「三年間」
「税率を固定します」
「涼州の収穫量と」
「家畜数を調べるまでは」
「中原基準を適用しない」
「水場復旧と」
「街道整備へ使う分は」
「税から差し引く」
「それを」
「正式な保証として」
「華琳様の印で出すべきです」
時雨は。
すぐに頷く。
「それでいく」
「華琳様がお認めになれば、です」
「ああ」
「勝手に決めない」
「学びましたわね」
「うるさい」
「褒めておりますのよ」
「そう聞こえない」
「あなたが鈍いのです」
霞が。
二人のやり取りを見ながら笑う。
「時雨」
「何だ」
「魏来て」
「ほんま良かったな」
「なぜ」
「前やったら」
「税のことなんか」
「全部自分で適当に決めとったやろ」
「適当じゃない」
「山羊何頭おるかで決めてたやん」
「分かりやすい」
「国の税やないで」
「山賊の取り立てや」
「同じだ」
「違うわ!」
天幕へ。
少しだけ。
明るい空気が戻る。
だが。
外では。
馬騰軍が。
静かに崩れ始めている。
水。
食料。
誇り。
信頼。
一つずつ。
剣を使わず。
時雨の牙が。
食い込んでいく。
---
その夜。
馬超は。
眠れなかった。
天幕の外。
兵の声。
小さな言い争い。
誰かが。
魏の食料を食べた。
誰かが。
食べていない。
豪族軍の一つが。
明朝。
自分たちの土地へ戻るらしい。
そんな噂。
母は。
軍議から戻らない。
将たちは。
何度も。
天幕へ出入りしている。
馬超は。
白馬の側へ座っていた。
馬の鬣を。
ゆっくり撫でる。
「私は」
小さく呟く。
「間違ったのか」
馬は。
答えない。
ただ。
馬超の肩へ。
鼻先を寄せる。
「兵を」
「連れて帰った」
「それは」
「間違ってない」
自分へ言い聞かせる。
張燕に。
選ばされた。
戦うか。
兵を帰すか。
兵を選んだ。
それを。
後悔してはいけない。
だが。
帰ったことで。
疑われた。
張燕の策へ。
利用された。
自分が。
見たことを話した。
それが。
軍へ迷いを広げた。
「錦馬超」
背後から。
馬騰の声。
馬超は。
すぐに立ち上がる。
「母様」
馬騰は。
娘の隣へ来る。
同じ馬を見る。
「眠れんか」
「はい」
「私もだ」
「豪族は」
馬超が尋ねる。
「何と言っています」
「三つの軍が」
「兵を退きたいと」
「そんな!」
「自分の土地を」
「守るためだと言っている」
「魏軍が」
「村へ手を出さないと」
「保証したらしい」
「信じるのですか!」
「信じたいのだ」
馬騰は答える。
「皆」
「戦いたくない理由を」
「探している」
馬超は。
拳を握る。
「弱気な」
「違う」
馬騰は。
静かに言った。
「兵を持つ豪族は」
「自分の民も持つ」
「兵が死ねば」
「畑を耕す者が減る」
「馬が死ねば」
「交易が止まる」
「彼らも」
「守ろうとしている」
「なら」
「涼州は」
「一つではないのですか」
馬騰は。
すぐには答えなかった。
「一つだ」
やがて言う。
「だが」
「一つの中には」
「多くの違いがある」
「張燕は」
「そこを突いている」
馬超は。
唇を噛む。
「卑怯です」
「ああ」
「外道です」
「ああ」
「正面から戦えば」
「私たちが勝つ!」
「だから」
馬騰は。
娘を見る。
「正面からは来ない」
馬超の目が。
揺れる。
「翠」
「はい」
「お前は」
「今日」
「兵を連れて帰った」
「はい」
「正しい判断だ」
馬超が。
顔を上げる。
「ですが」
「張燕に利用されました」
「それでもだ」
馬騰は。
強く言う。
「将は」
「敵の策を避けるために」
「兵を捨ててよいわけではない」
「お前は」
「五千を帰した」
「それは」
「恥ではない」
馬超の目へ。
僅かに涙が浮かぶ。
すぐに。
顔を背ける。
「泣いてません」
「何も言っていない」
「なら」
「見ないでください」
馬騰は。
小さく笑った。
だが。
その笑みは。
すぐに消える。
「明日」
「軍を西へ下げる」
馬超が。
振り返る。
「退くのですか」
「敗走ではない」
「水と兵糧を確保できる場所へ」
「陣を移す」
「ここで」
「戦い続ければ」
「張燕の思う通りになる」
馬超は。
悔しそうに。
東を見る。
魏軍の火。
遠い。
その中に。
張燕がいる。
「必ず」
馬超が言う。
「次は」
「私が勝ちます」
「ああ」
馬騰は頷く。
「だが」
「張燕だけを見るな」
「なぜ」
「奴は」
「自分を見させる」
「怒りも」
「憎しみも」
「全て」
「自分へ集める」
「その間に」
「別の場所を奪う」
馬超は。
今日の戦を思い出す。
時雨。
黒い馬。
静かな目。
逃げ道。
選べ。
その言葉。
「なら」
「どうすれば」
「張燕を見ずに」
「魏軍全体を見る」
馬騰は答える。
「曹操を見ろ」
「張燕は」
「曹操の将だ」
「どれほど勝手に見えても」
「最後には」
「曹操の望む場所へ」
「道を作っている」
「なら」
「張燕を倒しても」
「魏は止まらない」
「その通りだ」
馬超は。
黙る。
一騎打ちで。
時雨を倒す。
それだけでは。
涼州を守れない。
時雨自身に。
言われたこと。
母からも。
同じ答え。
武だけでは。
勝てない。
錦馬超。
自分の強さへ。
絶対の自信があった。
だが。
初めて。
槍では届かない敵に出会った。
怒りを。
利用される。
兵への思いを。
利用される。
正しささえ。
利用される。
それでも。
馬超は。
折れなかった。
「母様」
「何だ」
「私は」
「もっと強くなります」
「ああ」
「槍だけではなく」
「軍を」
「国を守れるように」
馬騰は。
娘の頭へ。
手を置いた。
「期待している」
涼州の夜。
母と娘。
二人の影が。
小さな火へ揺れる。
その向こう。
魏軍の陣でも。
時雨が。
同じ西の空を見ていた。
馬超は。
兵を選んだ。
馬騰は。
娘を認めた。
なら。
次の策は。
さらに難しくなる。
だが。
時雨は。
僅かに。
口元を上げていた。
「嗤ってるんか」
隣。
霞が言う。
「違う」
「いや」
「今」
「ちょっと笑ったで」
「そうか」
「何が嬉しい」
時雨は。
馬騰軍の火を見る。
少しずつ。
西へ動き始めている。
退却。
いや。
陣の移動。
馬騰は。
時雨の狙いへ気づいた。
水と兵糧を確保できる場所へ下がる。
正しい。
「馬騰が」
「退く」
「ああ」
「何で嬉しい」
「兵が」
「死なない」
霞は。
時雨を見る。
外道。
非道。
敵の心を壊す。
若い馬超を。
苦しめる。
それでも。
最後に。
この男が見ているのは。
死者の数。
帰る兵。
「ほんま」
霞が呟く。
「分かりにくい奴やな」
「ああ」
「でも」
霞は。
西へ動く敵の火を見る。
「馬超」
「ええ将になるで」
「ああ」
「敵やけど」
「ああ」
「欲しいんちゃうか」
時雨は。
僅かに黙った。
「何が」
「馬超や」
「魏へ」
霞が。
面白そうに笑う。
「勧誘する気やろ」
「まだだ」
「まだ?」
「ああ」
「今は」
「俺を憎んでる」
「なら」
「いつ」
時雨は。
西の空を見る。
「涼州が」
「負けた後」
霞は。
しばらく時雨を見る。
そして。
呆れたように。
笑った。
「ほんまに」
「外道やな」
「ああ」
時雨は。
否定しなかった。
錦馬超。
茶色の髪を。
高く結んだ。
涼州の若き猛将。
怒りと誇り。
真っ直ぐな槍。
兵を捨てない心。
その全てを。
時雨は見た。
そして。
殺さなかった。
勝たせもしなかった。
自ら選ばせ。
帰らせ。
迷わせた。
馬騰軍の逆襲は。
魏軍の偽の補給隊を焼いた。
だが。
同時に。
時雨が用意した。
さらに深い罠へ。
錦馬超自身が。
踏み込む結果となった。
水を奪う。
食料を与える。
捕虜を返す。
逃げ道を開く。
一見。
矛盾した策。
その全てが。
同じ目的へ繋がっている。
敵へ。
死ぬ以外の道を見せる。
その道を選んだ者と。
戦い続ける者を分ける。
国を。
外から砕くのではない。
中にいる者へ。
本当に。
何を守りたいのか。
問い続ける。
黒山の狼の策は。
外道で。
非道だった。
だが。
その牙が狙うものは。
敵の命ではない。
敵が。
戦い続ける理由。
涼州征伐。
最初の大きな逆襲は。
錦馬超という。
新たな英雄を。
戦場へ引き出した。
そして。
時雨は。
その英雄へ。
最初の敗北を与えた。
武ではなく。
策によって。
命ではなく。
誇りを残したまま。
選択の重さを。
背負わせることで。
西の夜。
馬超は。
再び立ち上がる。
次は。
槍だけではない。
軍を率い。
国を見て。
張燕へ勝つために。
黒山の狼も。
それを待っている。
次に。
どちらが。
相手の道を読み切るか。
涼州の戦は。
血よりも先に。
互いの心と誇りを削りながら。
さらに深い場所へ。
進み始めていた。
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