【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第17話 忠義の値札――涼州軍、崩壊

外伝 第17話 忠義の値札――涼州軍、崩壊

 

 

 

 

馬騰軍が陣を西へ移した翌朝。

 

平原には。

 

奇妙な静けさが残っていた。

 

魏軍は追わなかった。

 

霞の騎馬隊も。

 

秋蘭の弓兵も。

 

春蘭の主力も。

 

動かなかった。

 

目の前で。

 

敵が陣を畳み。

 

馬を引き。

 

荷をまとめ。

 

西へ退いていく。

 

追えば。

 

背へ食いつける。

 

隊列の整わないところを狙えば。

 

さらに多くの兵を倒せる。

 

それでも。

 

時雨は。

 

追撃を命じなかった。

 

「今なら叩けるぞ」

 

高台の上。

 

春蘭が。

 

遠ざかる馬騰軍を見ながら言った。

 

その手は。

 

すでに剣の柄へ置かれている。

 

命令が出れば。

 

すぐにでも。

 

先頭へ立って走るつもりだった。

 

「叩かない」

 

時雨は答える。

 

「なぜだ」

 

「敵は退いている」

 

「だからだ」

 

「だからこそ追うのだろう!」

 

「違う」

 

時雨は。

 

馬騰軍の後方を見る。

 

荷車。

 

負傷兵。

 

水袋。

 

歩兵。

 

動きの遅い者たちが。

 

長い列を作っている。

 

その左右には。

 

騎兵がいる。

 

追撃へ備えて。

 

槍を外へ向けている。

 

「馬騰は」

 

時雨が言う。

 

「俺たちが追うと思ってる」

 

「当然だ」

 

「ああ」

 

「だから」

 

「後ろへ」

 

「戦える兵を置いてる」

 

「追えば」

 

「そいつらが残る」

 

「残って」

 

「俺たちを止める」

 

「それでも」

 

春蘭は言う。

 

「私なら破れる」

 

「ああ」

 

「なら!」

 

「破った後」

 

時雨は。

 

春蘭を見る。

 

「何人死ぬ」

 

春蘭の口が止まる。

 

「馬騰軍は」

 

「退くために戦う」

 

「勝つためじゃない」

 

「時間を稼ぐためなら」

 

「兵を置いていく」

 

「俺たちが追えば」

 

「馬騰は」

 

「兵を捨てる理由を持てる」

 

「追わなければ」

 

「捨てられない」

 

春蘭の眉が寄る。

 

すぐには。

 

意味が分からなかった。

 

隣にいた秋蘭が。

 

静かに口を開く。

 

「追撃を受けないなら」

 

「殿軍は戦う必要がない」

 

「ああ」

 

時雨が頷く。

 

「馬騰は」

 

「全員を連れて下がるしかない」

 

「兵糧も」

 

「水も足りない状態で?」

 

「そうだ」

 

秋蘭の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「兵を減らせば」

 

「補給の負担も減る」

 

「だが」

 

「我々が追わなければ」

 

「兵を減らす機会がない」

 

「ああ」

 

霞が。

 

時雨を見る。

 

「敵を殺さんことで」

 

「敵の腹を」

 

「さらに減らすんか」

 

「ああ」

 

「味方を生かすためやなく」

 

「敵を生かして苦しめる」

 

「ああ」

 

霞は。

 

深く息を吐いた。

 

「朝から」

 

「ほんま外道やな」

 

「そうか」

 

「褒めてへんで」

 

「分かってる」

 

馬騰軍は。

 

四万を超えている。

 

兵。

 

馬。

 

負傷者。

 

避難してきた民。

 

軍に同行する商人。

 

鍛冶。

 

馬医者。

 

荷運び。

 

実際に食料と水を必要とする者は。

 

兵数より多い。

 

一人でも減れば。

 

負担は軽くなる。

 

だが。

 

馬騰は。

 

兵を見捨てる主ではない。

 

戦場なら。

 

殿軍として。

 

残せる。

 

魏軍を止めるため。

 

必要な犠牲だったと。

 

言える。

 

追撃がなければ。

 

その理由が消える。

 

全員を。

 

生かしたまま。

 

連れていかなければならない。

 

水を奪い。

 

食料を与え。

 

捕虜を返し。

 

今度は。

 

逃げる敵を。

 

殺さない。

 

一つ一つだけを見れば。

 

時雨は。

 

敵へ情けをかけているように見える。

 

だが。

 

それらは全て。

 

馬騰軍の負担を。

 

内側から増やすための策だった。

 

「時雨殿」

 

稟が。

 

地図を広げた。

 

「敵の移動先は」

 

「西方の谷と思われます」

 

「井戸が複数あり」

 

「馬騰軍四万を」

 

「数日支えることは可能です」

 

「数日か」

 

「はい」

 

「兵糧隊も」

 

「早ければ今日の夜」

 

「遅くとも明日の朝には」

 

「到着するでしょう」

 

「届かない」

 

時雨が言った。

 

稟の指が止まる。

 

「何をなさったのです」

 

「まだ何も」

 

「まだ?」

 

稟の表情が。

 

明らかに険しくなる。

 

「時雨殿」

 

「はい」

 

「今度は」

 

「何を考えておられるのですか」

 

時雨は。

 

馬騰軍の陣ではなく。

 

さらに西。

 

涼州各地へ続く道を見る。

 

「兵糧隊を」

 

「襲わない」

 

稟は。

 

少しだけ安心しかけた。

 

だが。

 

時雨の話が。

 

そこで終わるはずはない。

 

「通す」

 

「通すのですか」

 

「ああ」

 

「ただ」

 

「馬騰軍には渡さない」

 

稟の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

「どういう意味でしょう」

 

「途中で」

 

「持ち主に返す」

 

天幕へ集まっていた者たちが。

 

同時に。

 

時雨を見る。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

霞。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

誰も。

 

すぐには意味を理解できなかった。

 

「持ち主?」

 

華論が首を傾げる。

 

「兵糧を運んでいるのは」

 

「馬騰軍の輸送隊っすよ」

 

「積んでる食料は」

 

「誰のものだ」

 

「馬騰軍のものでは?」

 

「違う」

 

時雨は。

 

地図上。

 

いくつかの村と豪族領へ。

 

木札を置いた。

 

「豪族から集めた」

 

「村からも」

 

「部族からも」

 

「馬騰が徴発した食料だ」

 

「元は」

 

「そいつらのもの」

 

栄華の扇が。

 

ゆっくり止まる。

 

「まさか」

 

「ああ」

 

時雨は答えた。

 

「馬騰軍へ運ぶ途中で」

 

「道を開ける」

 

「護衛へ」

 

「好きな場所へ帰っていいと言う」

 

「荷も」

 

「元の領地へ戻せ」

 

「そう伝える」

 

稟の顔が。

 

僅かに青ざめる。

 

「兵糧隊を」

 

「奪うのではなく」

 

「解散させる?」

 

「ああ」

 

「馬騰殿へ届ければ」

 

「軍全体の食料になる」

 

「ですが」

 

「持ち帰れば」

 

「自分の村と家族の食料になる」

 

「ああ」

 

「輸送兵へ」

 

「選ばせるおつもりですか」

 

「ああ」

 

「自分たちが」

 

「飢える可能性を受け入れ」

 

「馬騰殿へ兵糧を運ぶか」

 

「命令へ背き」

 

「家族のもとへ持ち帰るか」

 

「ああ」

 

稟は。

 

言葉を失った。

 

霞が。

 

飛龍偃月刀の柄を握りながら。

 

低く言う。

 

「それ」

 

「兵糧隊だけの話やないな」

 

「ああ」

 

「村にも伝える気やろ」

 

「自分らの食料」

 

「馬騰へ渡したら」

 

「冬を越せんかもしれんって」

 

「ああ」

 

「取り戻してええって」

 

「ああ」

 

「魏軍が」

 

「襲わへんって」

 

「ああ」

 

霞は。

 

時雨を睨む。

 

「馬騰軍を」

 

「飢えさせるために」

 

「涼州の民へ」

 

「自分らだけ助かれって」

 

「言うんか」

 

「違う」

 

「何が違う」

 

「自分たちも助かれ、だ」

 

時雨は。

 

淡々と答えた。

 

「馬騰軍へ」

 

「全部渡して」

 

「村が飢えれば」

 

「軍が帰る場所がなくなる」

 

「どっちも死ぬ」

 

「なら」

 

「村の分は村へ戻す」

 

「馬騰軍は?」

 

「足りないなら」

 

「兵を減らす」

 

「どうやって」

 

「帰せばいい」

 

時雨は。

 

各豪族軍の駒を。

 

一つずつ。

 

馬騰本隊から離した。

 

「豪族兵も」

 

「部族兵も」

 

「自分の土地へ戻れば」

 

「食わせる兵が減る」

 

「馬騰直轄だけになれば」

 

「補給は足りる」

 

「つまり」

 

秋蘭が。

 

低い声で言う。

 

「馬騰へ」

 

「連合軍を解体しろと」

 

「迫るのだな」

 

「ああ」

 

「軍を解けば」

 

「戦えない」

 

「戦い続ければ」

 

「民の食料を奪う主になる」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

地図を見る。

 

「どっちを選んでも」

 

「今の馬騰軍は終わる」

 

大天幕の中へ。

 

冷たい沈黙が落ちた。

 

水を奪った。

 

食料を与えた。

 

捕虜を返した。

 

豪族へ。

 

帰る道を示した。

 

そして。

 

今度は。

 

馬騰軍へ届くはずの食料を。

 

奪わず。

 

燃やさず。

 

毒も入れず。

 

元の持ち主へ返す。

 

馬騰が。

 

民を守るために戦っているなら。

 

民から。

 

さらに食料を取り上げることはできない。

 

取り上げれば。

 

自ら掲げた大義を失う。

 

取らなければ。

 

軍を維持できない。

 

軍を維持するには。

 

豪族兵を帰すしかない。

 

帰せば。

 

馬騰軍の数は減る。

 

豪族たちは。

 

魏軍と戦う理由も失う。

 

降伏ではない。

 

裏切りでもない。

 

自分の民を守るために。

 

家へ帰るだけ。

 

その選択を。

 

時雨は。

 

誰にも罪を感じさせない形で。

 

与えようとしている。

 

「卑劣ですわ」

 

栄華が言った。

 

「ああ」

 

「本当に」

 

「言葉もありません」

 

「ああ」

 

「馬騰殿は」

 

「民を守る主であるほど」

 

「この策へ抗えない」

 

「ああ」

 

「悪評を恐れず」

 

「村から再び食料を奪えば」

 

「軍を維持できます」

 

「だが」

 

「それをすれば」

 

「自分が守ると言った涼州を」

 

「自ら苦しめる」

 

「ああ」

 

「何もしなければ」

 

「軍が崩れる」

 

「ああ」

 

栄華は。

 

時雨を睨み続ける。

 

「最初から」

 

「これが狙いでしたの?」

 

「全部じゃない」

 

「馬騰が」

 

「どこまで耐えるか見てた」

 

「捕虜を殺さなかった」

 

「水が足りなくても」

 

「兵を切り捨てなかった」

 

「魏の兵糧も」

 

「全部は使わなかった」

 

「馬超の軍が戻っても」

 

「罰しなかった」

 

時雨は。

 

馬騰軍を示す駒を見る。

 

「馬騰は」

 

「自分の都合で」

 

「民と兵を捨てられない」

 

「分かったから使う」

 

柳琳は。

 

ずっと。

 

黙っていた。

 

その顔には。

 

強い苦しさがある。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「兵糧を」

 

「村へ返すこと自体は」

 

「正しいと思います」

 

「ああ」

 

「ですが」

 

柳琳は。

 

時雨を見る。

 

「それを」

 

「馬騰軍を崩すために使う」

 

「人が」

 

「家族を守ろうとする心を」

 

「利用する」

 

「ああ」

 

「そこまでしなければ」

 

「勝てませんか」

 

「勝てる」

 

時雨は即答した。

 

柳琳の目が。

 

僅かに揺れる。

 

「正面から戦えば」

 

「春蘭」

 

「秋蘭」

 

「霞」

 

「俺もいる」

 

「勝てる」

 

「なら」

 

「何万人死ぬか分からない」

 

「馬騰軍も」

 

「魏軍も」

 

「豪族兵も」

 

「村へ戻れない」

 

時雨の声は。

 

静かだった。

 

「俺は」

 

「軍を壊したい」

 

「人を壊したいんじゃない」

 

「同じに見えます」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

否定しなかった。

 

「だから」

 

「嫌なら」

 

「止めろ」

 

柳琳は。

 

唇を結ぶ。

 

止めたい。

 

この策を。

 

人の心へ。

 

恐怖と疑いを植える戦いを。

 

だが。

 

止めた先に。

 

正面衝突がある。

 

春蘭が。

 

敵陣を斬り裂く。

 

秋蘭の矢が。

 

騎兵を射抜く。

 

霞と馬超が。

 

互いに死ぬまで武器を交える。

 

名も知らない兵たちが。

 

乾いた大地へ倒れる。

 

その未来を。

 

柳琳も。

 

見ないふりはできなかった。

 

「止めません」

 

やがて。

 

柳琳は答えた。

 

「でも」

 

「協力もしません」

 

「ああ」

 

「村へ返される食料が」

 

「本当に足りるか」

 

「病人や子供へ」

 

「きちんと届くか」

 

「私は」

 

「そちらを見ます」

 

「頼む」

 

「それから」

 

柳琳は。

 

時雨へ一歩近づく。

 

「この策で」

 

「心を壊された方を」

 

「時雨は」

 

「最後まで見てください」

 

「ああ」

 

「馬超もです」

 

時雨の目が。

 

僅かに動く。

 

「馬超が」

 

「母親を信じられなくなったら」

 

「時雨の責任です」

 

「ああ」

 

「兵が」

 

「主を恨んだまま」

 

「生きることになっても」

 

「ああ」

 

「本当に」

 

「背負えますか」

 

時雨は。

 

少しだけ。

 

答えを止めた。

 

背負う。

 

簡単な言葉。

 

だが。

 

人の心は。

 

帳簿のようには整理できない。

 

井戸のように。

 

泥を掻き出せば。

 

元へ戻るものでもない。

 

「分からない」

 

時雨は答えた。

 

柳琳が。

 

僅かに目を見開く。

 

「でも」

 

時雨は続ける。

 

「逃げない」

 

「俺がやったと」

 

「言う」

 

「恨まれる」

 

「殴られるなら」

 

「殴られる」

 

「殺しに来るなら」

 

「止める」

 

「それしかできない」

 

柳琳は。

 

長く。

 

時雨を見つめた。

 

「……分かりました」

 

完全に。

 

納得したわけではない。

 

それでも。

 

時雨が。

 

自分を正義だと思っていないこと。

 

傷を。

 

消せると思っていないこと。

 

それだけは。

 

受け取った。

 

「華琳様へ」

 

春蘭が言う。

 

「許可を求めるのだな」

 

「ああ」

 

「今から出す」

 

「返事が来るまで?」

 

「動かない」

 

春蘭は。

 

満足そうに頷いた。

 

霞が。

 

小さく笑う。

 

「ほんま」

 

「そこだけは」

 

「学んだな」

 

「何度も言うな」

 

「褒めとるんや」

 

「聞こえない」

 

「お前が鈍いんや」

 

栄華が。

 

曹操へ送る書状を用意する。

 

稟は。

 

作戦の詳細を書き始める。

 

華論は。

 

使者となる兵。

 

護衛。

 

豪族ごとの道。

 

必要な人数。

 

全てを整理する。

 

時雨の策は。

 

一人の思いつきから。

 

魏軍全体の作戦へ変わっていく。

 

そして。

 

それを。

 

最終的に許すか。

 

決めるのは。

 

曹操だった。

 

---

 

曹操からの返答は。

 

その日の夜。

 

予想より早く届いた。

 

伝令は。

 

魏軍が各地へ用意していた。

 

早馬の継ぎ所を使い。

 

一つの馬を潰さず。

 

次々に乗り換えてきた。

 

書状を受け取った時雨は。

 

主要な将を。

 

大天幕へ集めた。

 

封を切る。

 

魏王の印。

 

曹操の筆。

 

時雨は。

 

最初から。

 

声に出して読んだ。

 

馬騰軍へ運ばれる兵糧を。

 

元の村と豪族へ返す策を認める。

 

輸送兵へ。

 

帰還を強要してはならない。

 

馬騰軍へ届けると選んだ者は。

 

攻撃せず通すこと。

 

村へ返された兵糧を。

 

魏軍が徴収することは禁止。

 

兵糧の返還を受けた豪族と民へ。

 

即座に魏への服属を求めてはならない。

 

帰還した豪族兵の領地と民へ。

 

魏軍が侵入することを禁ずる。

 

そして。

 

最後に。

 

曹操は。

 

こう記していた。

 

『民を救うという名目で、その選択を奪えば、あなたは馬騰と変わらない』

 

時雨は。

 

一度。

 

読むのを止めた。

 

霞が。

 

書状を見る。

 

「続きあるやろ」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

再び読む。

 

『帰る者にも、残る者にも、自分で選ばせなさい』

 

『ただし、その選択の結果を利用することは許す』

 

『あなたはすでに十分外道よ。今さら綺麗なふりをする必要はないわ』

 

一瞬。

 

大天幕が。

 

完全に静まり返った。

 

次に。

 

霞が噴き出した。

 

「華琳様」

 

「分かっとるやん!」

 

「何をだ」

 

「お前が外道やって」

 

「曹操も認めた」

 

「今さらやな!」

 

春蘭は。

 

不満そうに眉を寄せる。

 

「華琳様は」

 

「時雨を辱めているのではない!」

 

「分かっとる」

 

「分かっておらん!」

 

「ほんなら」

 

「どういう意味や」

 

「それは」

 

春蘭は。

 

少し考える。

 

「……愛のある叱責だ!」

 

今度は。

 

秋蘭が額へ手を当てた。

 

栄華も。

 

扇で口元を隠す。

 

華論は。

 

笑うべきか。

 

止めるべきか。

 

困っている。

 

時雨だけが。

 

無表情だった。

 

「違うと思う」

 

「なぜだ!」

 

春蘭が怒鳴る。

 

「ただ外道と言われただけだ」

 

「そのまま受け取るな!」

 

「書いてある」

 

「時雨!」

 

柳琳は。

 

ほんの僅かに。

 

笑っていた。

 

重い作戦。

 

多くの人間の選択を。

 

利用する策。

 

それでも。

 

曹操の言葉は。

 

時雨へ。

 

一つの境界を示した。

 

強制しない。

 

帰れと脅さない。

 

残れば殺すとも言わない。

 

選択肢を。

 

見せる。

 

その結果を。

 

戦へ利用する。

 

外道。

 

だが。

 

人の意志まで。

 

奪う外道にはならない。

 

「始める」

 

時雨が言った。

 

笑いが止まる。

 

全員が。

 

総大将を見る。

 

「稟」

 

「はい」

 

「豪族ごとの書状」

 

「完成しています」

 

「条件は」

 

「軍を引けば」

 

「今年の税を免除」

 

「三年間」

 

「税率を固定」

 

「魏軍は」

 

「領地へ入らない」

 

「馬騰へ兵糧を送らない」

 

「魏軍へ攻撃しない」

 

「それだけです」

 

「曹操の印は」

 

「届いてる」

 

栄華が。

 

別の書状を掲げる。

 

「華琳様は」

 

「税と領地の保証についても」

 

「正式に認めてくださいました」

 

「使者へ」

 

「複製を持たせます」

 

「分かった」

 

「華論」

 

「はいっす」

 

「兵糧隊の位置は」

 

「三つに分かれてるっす」

 

「北道」

 

「中央道」

 

「南の谷道」

 

「全部合わせて」

 

「荷車五百以上」

 

「護衛」

 

「およそ四千」

 

「襲わない」

 

「はいっす」

 

「道を塞ぐだけ」

 

「護衛へ」

 

「馬騰軍へ行く道」

 

「村へ帰る道」

 

「両方開けるっす」

 

「ああ」

 

「霞」

 

「おう」

 

「北道」

 

「騎兵で先回り」

 

「威圧するな」

 

「武器も向けるな」

 

「難しい注文やな」

 

「できるか」

 

「やったる」

 

霞は。

 

飛龍偃月刀を担ぐ。

 

「ただ」

 

「向こうが斬りかかってきたら?」

 

「武器だけ落とせ」

 

「ほんま」

 

「簡単に言うな」

 

「できるだろ」

 

霞は。

 

一瞬。

 

目を丸くする。

 

次に。

 

口元を上げた。

 

「そら」

 

「うちやからな」

 

「春蘭」

 

「何だ」

 

「中央道」

 

「私もか」

 

「霞より」

 

「威圧しないようにしろ」

 

「なぜ私にだけ!」

 

「声が大きい」

 

「霞も大きいだろう!」

 

「うちは」

 

霞が笑う。

 

「愛想あるからな」

 

「どこにだ!」

 

「二人とも」

 

秋蘭が止める。

 

「任務前だ」

 

時雨は。

 

秋蘭を見る。

 

「秋蘭は南」

 

「弓兵を見せる」

 

「射るな」

 

「相手が攻撃しても?」

 

「足元だけ」

 

「ああ」

 

「了解した」

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「各村へ」

 

「医療隊を送る」

 

「食料が戻った後」

 

「隠してる病人がいないか見ろ」

 

「分かりました」

 

「ただし」

 

柳琳は。

 

強く付け加える。

 

「医療を」

 

「服従の条件にはしません」

 

「ああ」

 

「誰であっても治します」

 

「ああ」

 

「栄華」

 

「何でしょう」

 

「金」

 

栄華の眉が。

 

跳ね上がる。

 

「言葉が足りません!」

 

「補償」

 

「最初からそうおっしゃいませ!」

 

「兵糧を」

 

「馬騰軍へ渡すため」

 

「村が無理に出したものがある」

 

「返しても」

 

「足りないところがある」

 

「調べて」

 

「出せ」

 

「当然ですわ」

 

栄華は。

 

帳簿を開く。

 

「ですが」

 

「現金を直接配れば」

 

「略奪の的になります」

 

「穀物」

 

「種」

 

「家畜の餌」

 

「井戸の修繕」

 

「必要な形で支給します」

 

「ああ」

 

「それから」

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「勝手に」

 

「ご自分の金を使わないこと」

 

「使わない」

 

栄華の目が。

 

疑うように細くなる。

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

「全部」

 

「魏が払う」

 

その言葉へ。

 

栄華は。

 

少しだけ。

 

表情を柔らかくした。

 

「承知しましたわ」

 

「魏の戦ですもの」

 

「魏が支払います」

 

時雨は。

 

全員を見る。

 

「この策で」

 

「馬騰軍は崩れる」

 

「だが」

 

「崩れた兵を」

 

「追うな」

 

「帰る奴は帰す」

 

「武器を置く奴は生かす」

 

「馬騰のもとへ残る奴だけ」

 

「敵とする」

 

「了解!」

 

春蘭が。

 

力強く答える。

 

秋蘭。

 

霞。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

全員が。

 

それぞれ頷いた。

 

狼の牙が。

 

最後の場所へ。

 

向けられた。

 

---

 

北道を進む兵糧隊は。

 

涼州北部の豪族たちが。

 

集めたものだった。

 

荷車。

 

百八十。

 

麦。

 

乾燥肉。

 

豆。

 

馬草。

 

塩。

 

水袋。

 

村々の倉から。

 

冬を越すための備蓄まで。

 

一部が出されている。

 

馬騰軍を。

 

維持するため。

 

魏軍へ勝つため。

 

涼州を守るため。

 

そう言われ。

 

民は。

 

食料を渡した。

 

だが。

 

誰も。

 

余裕があるわけではない。

 

雨の少ない年。

 

収穫の悪い土地。

 

一袋の麦が。

 

一家の命になる。

 

それでも。

 

戦に負ければ。

 

全てを奪われる。

 

そう信じて。

 

差し出した。

 

兵糧隊を率いる豪族将は。

 

五十を過ぎた女だった。

 

馬騰と。

 

長い付き合いがある。

 

若い頃。

 

異民族の襲撃を。

 

共に退けた。

 

馬騰を。

 

主として信じている。

 

だから。

 

荷を運ぶ。

 

たとえ。

 

自分の領地で。

 

冬の食料が減っても。

 

今。

 

馬騰軍が崩れれば。

 

涼州全体が危ない。

 

そう考えていた。

 

北道。

 

岩の多い谷。

 

兵糧隊の前方へ。

 

紫の布が現れた。

 

最初は。

 

十騎。

 

次に。

 

百騎。

 

谷の左右。

 

高所にも。

 

騎馬が並ぶ。

 

張遼。

 

霞の隊。

 

兵糧隊の護衛が。

 

武器を構える。

 

「止まれ!」

 

豪族将が叫ぶ。

 

荷車が止まる。

 

霞は。

 

先頭へ進む。

 

飛龍偃月刀は。

 

背へ置いたまま。

 

手には持たない。

 

「その先」

 

霞が言う。

 

「馬騰軍まで行くつもりか」

 

「当然だ」

 

豪族将が答える。

 

「道を開けろ」

 

「開けるで」

 

護衛たちが。

 

僅かにざわめく。

 

霞は。

 

馬上から。

 

左右を指す。

 

「真っ直ぐ行けば」

 

「馬騰軍」

 

「右の道は」

 

「あんたらの領地へ戻る」

 

「どっちも」

 

「うちは邪魔せえへん」

 

豪族将の眉が寄る。

 

「何を企んでいる」

 

「うちに聞くな」

 

霞は。

 

一枚の書状を投げる。

 

豪族将が受け取る。

 

魏王曹操の印。

 

正式な書状。

 

内容。

 

今。

 

軍を引くなら。

 

今年の税は求めない。

 

三年間。

 

中原の税制を適用しない。

 

魏軍は。

 

領地へ入らない。

 

兵糧を。

 

馬騰軍へ送らないこと。

 

魏軍へ。

 

攻撃しないこと。

 

曹操への忠誠も。

 

降伏も。

 

求めない。

 

ただ。

 

兵と食料を。

 

自分の土地へ戻せ。

 

「馬騰様を」

 

豪族将が。

 

低く言う。

 

「裏切れと?」

 

「そうは書いてへん」

 

「同じだ!」

 

「違う」

 

霞の声が。

 

少し低くなる。

 

「馬騰についていって」

 

「兵も」

 

「食料も」

 

「全部失うんが忠義か」

 

「何だと」

 

「領地に」

 

「誰がおる」

 

「家族」

 

「老人」

 

「子供」

 

「馬騰へ飯届けた後」

 

「そいつら」

 

「何食うんや」

 

豪族将は。

 

答えない。

 

「魏軍は」

 

霞が続ける。

 

「その荷」

 

「奪わへん」

 

「うちらが食うわけでもない」

 

「持って帰れ言うとる」

 

「馬騰軍へ届けても」

 

「止めへん」

 

「ほんまに」

 

「選ぶんはあんたや」

 

「卑怯な」

 

豪族将の声が。

 

震える。

 

「卑怯やな」

 

霞は。

 

あっさり認めた。

 

「外道や」

 

「考えたんは時雨やし」

 

「せやけど」

 

霞は。

 

谷の横へ。

 

視線を向ける。

 

そこには。

 

魏兵はいない。

 

村人たちがいた。

 

兵糧を出した村から。

 

後を追ってきた者たち。

 

老人。

 

女。

 

少年。

 

武器は持っていない。

 

自分たちの食料が。

 

どこへ運ばれるのか。

 

見届けに来た。

 

あるいは。

 

時雨の使者から。

 

戻してもよいと聞き。

 

取り戻しに来た。

 

豪族将の顔が。

 

強張る。

 

「母様!」

 

村人の中から。

 

若い男が叫ぶ。

 

豪族将を。

 

母と呼んだ。

 

「村の倉が」

 

「空です!」

 

「このままでは」

 

「冬を越せません!」

 

「黙れ!」

 

豪族将が叫ぶ。

 

「今」

 

「馬騰様が敗れれば」

 

「冬どころではない!」

 

「でも!」

 

若い男は。

 

荷車を見る。

 

「あれは」

 

「俺たちが育てた麦です!」

 

「子供の分まで」

 

「全部持っていくのですか!」

 

護衛兵たちの顔が。

 

少しずつ変わる。

 

彼らも。

 

同じ領地の者。

 

家族がいる。

 

村がある。

 

兵糧を。

 

馬騰軍へ届けること。

 

それが。

 

涼州を守る道だと信じていた。

 

だが。

 

魏軍は。

 

領地へ入らないと言う。

 

三年間。

 

税を固定すると言う。

 

曹操の印まである。

 

本当に。

 

戦わなくても。

 

村を守れるかもしれない。

 

その可能性を。

 

見せられた。

 

「将軍」

 

一人の護衛兵が言う。

 

「我らは」

 

「どうすれば」

 

豪族将は。

 

返事ができない。

 

霞は。

 

何も言わず待つ。

 

急かさない。

 

脅さない。

 

飛龍偃月刀にも触れない。

 

だからこそ。

 

選択の重さが。

 

豪族将一人へ。

 

全て落ちる。

 

馬騰への忠義。

 

領民への責任。

 

戦に勝つ可能性。

 

冬を越せない現実。

 

やがて。

 

豪族将は。

 

目を閉じた。

 

「……半分だ」

 

霞の眉が。

 

僅かに動く。

 

「荷の半分を」

 

「馬騰様へ届ける」

 

「残り半分を」

 

「村へ返す」

 

霞は。

 

すぐには答えなかった。

 

時雨から。

 

選択を強要するなと。

 

命じられている。

 

全て帰せとも。

 

全て通せとも。

 

言われていない。

 

「ええで」

 

霞は答えた。

 

豪族将が。

 

驚いた顔をする。

 

「止めないのか」

 

「選んだんは」

 

「あんたや」

 

「ただ」

 

霞は。

 

真っ直ぐ豪族将を見る。

 

「馬騰軍まで行ったら」

 

「帰れんかもしれへん」

 

「分かってるな」

 

「ああ」

 

「分かっている」

 

「ほんなら」

 

「うちは止めへん」

 

兵糧隊は。

 

二つに分かれた。

 

九十台。

 

馬騰軍へ。

 

九十台。

 

村へ戻る。

 

兵も。

 

二つに分かれた。

 

母と共に。

 

馬騰軍へ向かう者。

 

家族と共に。

 

領地へ戻る者。

 

誰も。

 

裏切り者とは呼ばなかった。

 

呼べなかった。

 

同じ家族の中でさえ。

 

道が分かれたからだ。

 

時雨の策は。

 

軍を。

 

敵と味方に分けなかった。

 

もっと細かく。

 

家族。

 

村。

 

兵。

 

将。

 

一人一人へ。

 

別々の選択を突きつけた。

 

北道の兵糧は。

 

半分しか。

 

馬騰軍へ届かなかった。

 

---

 

中央道。

 

春蘭の前へ現れた兵糧隊は。

 

北よりも大きかった。

 

馬騰直轄領から。

 

集められた荷。

 

護衛も。

 

忠誠心の強い精鋭。

 

春蘭の旗を見るなり。

 

槍を構えた。

 

「夏侯惇!」

 

隊長が叫ぶ。

 

「我らの兵糧を」

 

「奪うつもりか!」

 

「奪わん!」

 

春蘭が叫び返す。

 

その声が大きすぎ。

 

相手の馬が。

 

僅かに身じろぎする。

 

時雨から。

 

威圧するなと言われた。

 

春蘭は。

 

思い出す。

 

少しだけ。

 

声を落とした。

 

本人としては。

 

かなり落としたつもりだった。

 

「道を選べ!」

 

それでも。

 

谷へ響いた。

 

「何?」

 

「真っ直ぐ進めば」

 

「馬騰軍だ!」

 

「左へ戻れば」

 

「お前たちの村へ帰れる!」

 

「どちらを選んでも」

 

「魏軍は攻撃せん!」

 

隊長が。

 

春蘭を睨む。

 

「曹操へ降れと?」

 

「違う!」

 

春蘭は答える。

 

「華琳様へ」

 

「無礼な口を利くな!」

 

時雨から。

 

余計なことを言うなと。

 

言われていた。

 

だが。

 

曹操を呼び捨てにされ。

 

黙っていられない。

 

隊長は。

 

僅かに眉を寄せる。

 

「敵将を」

 

「敬えと言うのか」

 

「華琳様は」

 

「中華の王となられる御方だ!」

 

「だが」

 

春蘭は。

 

一度言葉を止める。

 

時雨の策を。

 

自分なりに伝えなければならない。

 

「今は」

 

「お前たちへ」

 

「頭を下げろとは命じておられん!」

 

「兵を引き」

 

「魏軍へ刃を向けなければ」

 

「領地も」

 

「民も」

 

「守ると約束なさった!」

 

「華琳様は」

 

「約束を違えん!」

 

隊長が。

 

書状へ目を通す。

 

曹操の印。

 

条件。

 

税。

 

領地。

 

軍を引くだけ。

 

「信じられるか」

 

「ああ!」

 

「なぜ」

 

「華琳様だからだ!」

 

春蘭は。

 

何一つ迷わず答えた。

 

理屈ではない。

 

だが。

 

その声に。

 

嘘はなかった。

 

隊長は。

 

春蘭を見る。

 

魏軍最強の将。

 

曹操へ。

 

絶対の忠誠を誓う者。

 

その将が。

 

曹操は。

 

約束を破らないと断言している。

 

それは。

 

文書の印とは違う。

 

一人の武人の誇りを。

 

保証へ差し出している。

 

「夏侯惇」

 

隊長が言う。

 

「曹操が」

 

「約束を破った時」

 

「お前はどうする」

 

春蘭の目が。

 

鋭くなる。

 

「華琳様は破らん!」

 

「もしもだ」

 

「あり得ん!」

 

「それでも聞く」

 

春蘭は。

 

拳を握る。

 

曹操が。

 

約束を破る。

 

考えたくもない。

 

あり得ない。

 

だが。

 

相手は。

 

命を。

 

家族を。

 

国を預けるか迷っている。

 

「その時は」

 

春蘭は。

 

ゆっくり言った。

 

「私が」

 

「華琳様へ理由を尋ねる」

 

隊長が。

 

僅かに目を見開く。

 

春蘭が。

 

曹操へ。

 

理由を尋ねる。

 

以前の春蘭なら。

 

命令へ。

 

ただ従ったかもしれない。

 

だが。

 

時雨と出会い。

 

曹操自身から。

 

考えろと。

 

何度も言われた。

 

「それでも」

 

「理がなければ」

 

春蘭は続ける。

 

「私が」

 

「お前たちの前へ立つ」

 

「華琳様と戦うのか」

 

「違う!」

 

春蘭は即座に怒鳴る。

 

「華琳様が」

 

「誤ったまま進まぬよう」

 

「止めるのだ!」

 

言ってから。

 

春蘭自身。

 

僅かに驚いた。

 

自分が。

 

曹操を止める。

 

そんな言葉を。

 

口にする日が来るとは。

 

思わなかった。

 

だが。

 

曹操は。

 

盲目的な忠誠を。

 

望んでいない。

 

時雨も。

 

そう言った。

 

反対する意志を持ったまま。

 

共に立つ。

 

春蘭は。

 

少しずつ。

 

その意味を理解し始めている。

 

隊長は。

 

長く。

 

春蘭を見た。

 

そして。

 

後ろの兵たちを見る。

 

「我らは」

 

「馬騰様の直轄だ」

 

「はい」

 

「戻れば」

 

「臆病者と呼ばれる」

 

誰も。

 

返事をしない。

 

「だが」

 

隊長は。

 

荷車を見る。

 

「この兵糧は」

 

「領民から預かった」

 

「馬騰様を守るためではない」

 

「涼州を守るためだ」

 

「今」

 

「村へ戻すことが」

 

「涼州を守ることになるなら」

 

隊長は。

 

槍を下げた。

 

「我らは戻る」

 

護衛兵たちが。

 

静かに息を吐く。

 

決断。

 

裏切りではない。

 

自分たちが。

 

守るものを。

 

選び直した。

 

春蘭は。

 

道を開けた。

 

「行け!」

 

「魏軍は」

 

「お前たちを追わん!」

 

隊長は。

 

春蘭へ頭を下げなかった。

 

ただ。

 

槍を胸元へ立て。

 

武人として。

 

短く礼を示した。

 

春蘭も。

 

同じように剣を立てる。

 

中央道の兵糧。

 

全て。

 

馬騰軍へ届かなかった。

 

---

 

南の谷道。

 

秋蘭の前では。

 

戦いが起きた。

 

兵糧隊の護衛将が。

 

話を聞く前に。

 

矢を放ったからだ。

 

魏軍の罠。

 

騙されるな。

 

道を突破しろ。

 

その命令。

 

秋蘭は。

 

自分へ飛ぶ矢を。

 

身体を傾けて避けた。

 

背後の魏兵が。

 

弓を構える。

 

「射るな」

 

秋蘭が命じる。

 

「ですが!」

 

「足元だけだ」

 

魏軍の矢が飛ぶ。

 

馬の前。

 

地面。

 

荷車の車輪。

 

護衛兵を殺さない。

 

進む道だけを塞ぐ。

 

相手の矢は。

 

容赦なく飛ぶ。

 

魏兵の一人が。

 

肩を射抜かれる。

 

もう一人。

 

馬から落ちる。

 

それでも。

 

秋蘭は。

 

敵兵へ。

 

狙いを向けなかった。

 

護衛将の兜。

 

矢。

 

兜だけが飛ぶ。

 

次。

 

槍の穂先。

 

矢で弾く。

 

さらに。

 

荷車の旗。

 

根元から折る。

 

力の差。

 

明確。

 

殺そうと思えば。

 

いつでも殺せる。

 

それでも。

 

殺さない。

 

護衛将の顔へ。

 

恐怖が浮かぶ。

 

「なぜ」

 

「なぜ射たない!」

 

秋蘭は。

 

弓を下ろさず答える。

 

「選ばせるためだ」

 

「何を!」

 

「進むか」

 

「帰るか」

 

「我らは」

 

「馬騰様を裏切らん!」

 

「ああ」

 

秋蘭は。

 

静かに頷く。

 

「なら進め」

 

護衛将が。

 

言葉を失う。

 

「通すのか」

 

「ああ」

 

「だが」

 

「村へ帰る兵は」

 

「一人も止めない」

 

「何を言っている」

 

秋蘭は。

 

護衛兵たちへ。

 

声を向けた。

 

「馬騰のため」

 

「戦いたい者は進め」

 

「家族のため」

 

「食料を戻したい者は帰れ」

 

「どちらも」

 

「我らは攻撃しない」

 

護衛将が。

 

振り返る。

 

「聞くな!」

 

「これは敵の策だ!」

 

「隊列を崩すな!」

 

兵たちは。

 

動かない。

 

その中。

 

一人の兵が。

 

馬を後ろへ向けた。

 

「待て!」

 

護衛将が叫ぶ。

 

兵は。

 

震えながら答える。

 

「妻が」

 

「子を産んだばかりです」

 

「村の食料を」

 

「全部持ってきました」

 

「馬騰様を」

 

「信じていないわけではありません」

 

「ですが」

 

「私は」

 

「家族を飢えさせられません」

 

「貴様!」

 

護衛将が。

 

槍を向ける。

 

秋蘭の矢。

 

槍の柄へ刺さる。

 

護衛将の手から。

 

槍が落ちた。

 

「帰る者へ」

 

秋蘭の声が。

 

低くなる。

 

「武器を向けるな」

 

「これは」

 

「我らの軍の問題だ!」

 

「違う」

 

秋蘭は。

 

護衛将を見据える。

 

「今」

 

「その兵は」

 

「自分の道を選んだ」

 

「無理に進ませるなら」

 

「それは忠義ではない」

 

「人質だ」

 

護衛将の顔が。

 

歪む。

 

一人。

 

帰る。

 

次。

 

また一人。

 

荷車を。

 

後ろへ向ける。

 

全員ではない。

 

馬騰のもとへ。

 

進み続ける者もいる。

 

三分の一。

 

二分の一。

 

少しずつ。

 

隊列が。

 

二つに分かれる。

 

護衛将は。

 

止められない。

 

武器を向ければ。

 

同じ村の者へ。

 

刃を向けることになる。

 

時雨は。

 

魏軍へ。

 

敵を斬らせなかった。

 

その代わり。

 

涼州兵自身へ。

 

互いを止めるか。

 

選ばせた。

 

そして。

 

誰も。

 

仲間を斬れなかった。

 

南の兵糧隊。

 

六割が村へ戻った。

 

四割だけが。

 

馬騰軍へ向かった。

 

秋蘭は。

 

約束通り。

 

通した。

 

---

 

三つの兵糧隊。

 

馬騰軍へ届いたのは。

 

全体の三割にも満たなかった。

 

しかも。

 

届いた兵糧は。

 

同時ではない。

 

北道から。

 

九十台。

 

南から。

 

僅かな荷。

 

中央からは。

 

一台も来ない。

 

馬騰軍の陣では。

 

期待。

 

安堵。

 

失望。

 

怒り。

 

全てが。

 

短い間に繰り返された。

 

兵糧が来る。

 

そう聞き。

 

兵は。

 

器を準備した。

 

馬へ。

 

餌を与えられる。

 

そう思った。

 

だが。

 

届かない。

 

理由。

 

魏軍に奪われたのではない。

 

焼かれたのでもない。

 

運ぶ者が。

 

村へ帰った。

 

兵糧も。

 

村へ戻った。

 

馬騰のために。

 

命を懸けるより。

 

家族を選んだ。

 

「裏切り者だ!」

 

直轄軍の兵が叫ぶ。

 

「自分たちだけ」

 

「助かるつもりか!」

 

豪族軍の兵が。

 

叫び返す。

 

「我らの村の食料だ!」

 

「なぜ」

 

「お前たちのために」

 

「家族を飢えさせる!」

 

「馬騰様は」

 

「涼州を守るために戦っている!」

 

「その涼州の民を」

 

「今!」

 

「飢えさせているのは誰だ!」

 

喧嘩。

 

今度は。

 

小さく終わらなかった。

 

拳。

 

棒。

 

槍の柄。

 

兵同士。

 

殴り合う。

 

馬が騒ぐ。

 

荷車が倒れる。

 

食料袋が破れる。

 

僅かに届いた麦が。

 

地面へこぼれる。

 

兵が。

 

それを拾おうとする。

 

別の兵が。

 

奪う。

 

「やめろ!」

 

馬超が。

 

白馬で。

 

陣内へ入る。

 

茶色のポニーテールが。

 

激しく揺れる。

 

「全員!」

 

「武器を下ろせ!」

 

錦馬超の声。

 

以前なら。

 

それだけで。

 

兵は止まった。

 

今も。

 

多くは動きを止める。

 

だが。

 

全員ではない。

 

「馬超様!」

 

一人の豪族兵が叫ぶ。

 

「なぜ」

 

「我らだけ」

 

「食料を出さなければならないのです!」

 

「私たちの村は」

 

「すでに倉が空です!」

 

「魏軍は」

 

「兵を引けば」

 

「領地へ入らないと言っている!」

 

「なぜ」

 

「まだ戦うのです!」

 

馬超の顔が。

 

強張る。

 

「魏軍の言葉を」

 

「信じるのか!」

 

「信じたいのです!」

 

兵は。

 

泣くように叫んだ。

 

「戦わなくて済むなら!」

 

「家族を生かせるなら!」

 

「信じたい!」

 

馬超は。

 

言葉を失う。

 

卑怯。

 

外道。

 

張燕の策。

 

分かっている。

 

兵へ。

 

楽な道を見せる。

 

自分だけ。

 

家族だけ。

 

助かる道。

 

それを。

 

選ばせる。

 

だが。

 

兵が。

 

その道を選びたいと思うことまで。

 

責められるのか。

 

馬超には。

 

できなかった。

 

自分も。

 

兵を選んだ。

 

時雨を倒すことより。

 

五千を連れて帰ることを選んだ。

 

なら。

 

家族を守るため。

 

兵糧を戻す兵を。

 

臆病者と呼べない。

 

「翠!」

 

馬騰が。

 

陣の奥から現れる。

 

馬超は。

 

母を見る。

 

馬騰の顔には。

 

疲れが刻まれていた。

 

一晩。

 

ほとんど眠っていない。

 

将たちとの軍議。

 

豪族への説得。

 

兵糧の分配。

 

水。

 

負傷者。

 

全て。

 

馬騰一人へ。

 

集まっている。

 

「母様」

 

「兵を下がらせろ」

 

「ですが」

 

「ここは私が収める」

 

馬超は。

 

母の目を見る。

 

「どうやって」

 

馬騰は。

 

一瞬。

 

答えなかった。

 

力で。

 

抑える。

 

命令へ従わせる。

 

反対する者を捕らえる。

 

それなら。

 

軍の形は保てる。

 

だが。

 

時雨が。

 

待っている答えでもある。

 

馬騰が。

 

民を守る主ではなく。

 

自分の戦を続けるため。

 

兵と豪族を縛る主になれば。

 

魏軍の正しさが。

 

証明される。

 

「馬騰様!」

 

別の豪族将が。

 

馬を寄せる。

 

「我が軍は」

 

「これ以上戦えません」

 

「何を言う」

 

「兵糧がない」

 

「馬草も」

 

「水も足りない」

 

「領地では」

 

「魏軍が」

 

「井戸と街道の修理を始めたと」

 

「報告が来ています」

 

馬騰の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

「魏軍が?」

 

「はい」

 

「略奪ではなく」

 

「修繕を」

 

「兵を引いた豪族の村へ」

 

「柳琳殿の医療隊も入ったと」

 

「病人を治療しているそうです」

 

周囲の兵が。

 

ざわめく。

 

魏軍。

 

敵。

 

水を汚した軍。

 

だが。

 

同時に。

 

井戸を直す。

 

食料を返す。

 

病人を治す。

 

馬騰軍へいるより。

 

村へ戻った方が。

 

家族を守れる。

 

その現実が。

 

兵たちの前へ。

 

はっきり形を持ち始める。

 

「張燕」

 

馬騰が。

 

低く呟く。

 

怒りではない。

 

恐怖に近い。

 

時雨は。

 

戦場にいない。

 

魏軍も。

 

攻めてこない。

 

それでも。

 

馬騰軍は。

 

崩れ続けている。

 

「馬騰様」

 

豪族将が言う。

 

「我らへ」

 

「お暇を」

 

「領地へ戻り」

 

「民を守ります」

 

「今戻れば」

 

「魏へ各個に呑まれるぞ」

 

「それでも」

 

豪族将は。

 

苦しそうに答える。

 

「ここにいて」

 

「民を飢えさせるよりは」

 

「ましです」

 

馬騰は。

 

拳を握る。

 

「魏は」

 

「お前たちを利用する」

 

「分かっております」

 

「後で」

 

「約束を破るかもしれん」

 

「その時は」

 

豪族将は。

 

槍を立てる。

 

「また戦います」

 

「だが今は」

 

「馬騰様と共に戦う理由より」

 

「帰る理由の方が大きい」

 

その言葉。

 

馬騰の胸へ。

 

深く刺さった。

 

忠義がなくなったわけではない。

 

馬騰を嫌いになったのでもない。

 

ただ。

 

帰る理由の方が大きい。

 

時雨は。

 

裏切らせなかった。

 

嫌わせなかった。

 

忠義を。

 

別の大切なものと。

 

比べさせただけ。

 

民。

 

家族。

 

食料。

 

土地。

 

未来。

 

忠義より。

 

重いものを。

 

一人一人の前へ置いた。

 

「……行け」

 

馬騰が言った。

 

馬超が。

 

母を見る。

 

「母様!」

 

「行け!」

 

馬騰の声が。

 

陣へ響く。

 

「兵を連れ」

 

「領地へ戻れ」

 

「魏軍の言葉を」

 

「完全に信じるな」

 

「城壁を固めろ」

 

「民を守れ」

 

「ですが」

 

「これは命令だ」

 

豪族将は。

 

馬上から。

 

深く頭を下げた。

 

「必ず」

 

「また」

 

「馬騰様のもとへ」

 

馬騰は。

 

返事をしなかった。

 

また。

 

その日が。

 

来るかどうか。

 

分からない。

 

一つの豪族軍が。

 

陣を出る。

 

次。

 

それを見た別の軍も。

 

帰還を願い出る。

 

馬騰は。

 

一つずつ。

 

許した。

 

止めれば。

 

軍は残る。

 

だが。

 

心が離れる。

 

許せば。

 

軍は減る。

 

だが。

 

豪族との関係は。

 

完全には切れない。

 

時雨は。

 

馬騰へ。

 

最も苦しい選択だけを。

 

残した。

 

夕方までに。

 

七つの豪族軍。

 

およそ九千。

 

馬騰軍を離れた。

 

夜になる前。

 

さらに三千。

 

翌朝。

 

二つの部族軍。

 

六千。

 

自分たちの放牧地へ戻ると。

 

申し出た。

 

馬騰軍。

 

四万余。

 

一日で。

 

二万を切った。

 

戦っていない。

 

魏軍の死者。

 

一人もいない。

 

涼州軍の死者も。

 

ほとんどいない。

 

それでも。

 

軍は。

 

半分以下へ崩れた。

 

---

 

魏軍本陣。

 

高台から。

 

時雨たちは。

 

馬騰軍を離れる旗を見ていた。

 

北。

 

南。

 

西。

 

それぞれ。

 

別の道へ。

 

兵が流れていく。

 

逃亡ではない。

 

隊列を整え。

 

自分たちの旗を掲げ。

 

堂々と帰る。

 

魏軍は。

 

一つも追わない。

 

春蘭は。

 

長く。

 

その光景を見ていた。

 

「これが」

 

低く呟く。

 

「お前の勝ち方か」

 

「ああ」

 

「敵を」

 

「一人も斬らず」

 

「ああ」

 

「軍を半分にした」

 

「ああ」

 

春蘭は。

 

拳を握る。

 

喜びはない。

 

戦わずに勝つ。

 

兵法として。

 

最高の形。

 

だが。

 

見ているだけで。

 

胸が重くなる。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「私は」

 

「やはり」

 

「この策が嫌いだ」

 

「ああ」

 

「敵と」

 

「正面から戦った方が」

 

「気持ちはよい」

 

「ああ」

 

「だが」

 

春蘭は。

 

帰っていく涼州兵を見る。

 

「今日」

 

「あの者たちは死なずに済んだ」

 

「ああ」

 

「それは」

 

「悪くない」

 

時雨は。

 

春蘭を見る。

 

「それでいい」

 

「何がだ」

 

「嫌いなままで」

 

「結果だけ認めればいい」

 

春蘭は。

 

少し目を見開く。

 

そして。

 

鼻を鳴らした。

 

「偉そうに言うな」

 

「ああ」

 

「だが」

 

春蘭は。

 

僅かに口元を緩める。

 

「総大将としては」

 

「悪くない」

 

霞が。

 

すぐに横から口を挟む。

 

「春蘭が」

 

「時雨褒めたで」

 

「褒めておらん!」

 

「今のは褒めとった」

 

「黙れ!」

 

「照れとるんか」

 

「斬るぞ!」

 

「時雨」

 

霞が笑う。

 

「見たか」

 

「見てない」

 

「見とったやろ!」

 

秋蘭は。

 

二人を無視し。

 

敵陣を見る。

 

「馬騰直轄」

 

「馬超隊」

 

「一部の豪族」

 

「残る兵は」

 

「一万七千ほど」

 

「ああ」

 

「まだ」

 

「戦える数だ」

 

「ああ」

 

「特に」

 

秋蘭の目が。

 

白い馬旗へ向く。

 

「馬超の騎兵は」

 

「ほぼ全て残っている」

 

「ああ」

 

「次は」

 

「彼女が」

 

「軍を支える」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

馬超の旗を見る。

 

多くの軍が去った。

 

それでも。

 

馬超は残る。

 

母を。

 

見捨てない。

 

涼州を。

 

諦めない。

 

兵も。

 

馬超へついている。

 

馬騰軍は崩れた。

 

だが。

 

錦馬超の隊だけは。

 

逆に。

 

結束を強めていた。

 

他の者が去るほど。

 

自分たちが。

 

涼州を守らなければならない。

 

そう考える。

 

「まだ」

 

霞が言う。

 

「終わってへんな」

 

「ああ」

 

「馬超」

 

「残るで」

 

「ああ」

 

「どうする」

 

時雨は。

 

すぐに答えなかった。

 

馬超を。

 

殺すつもりはない。

 

だが。

 

ここまで来れば。

 

馬超自身が。

 

戦を選ぶ。

 

母と。

 

残った兵。

 

最後まで守ろうとする。

 

「馬騰へ」

 

時雨が言う。

 

「使者を出す」

 

「降伏勧告ですか」

 

稟が尋ねる。

 

「ああ」

 

「条件は」

 

「前と同じ?」

 

「違う」

 

時雨は。

 

地図へ。

 

一枚の白い札を置く。

 

「馬騰は」

 

「涼州の統治から退く」

 

「魏の監視下へ入る」

 

「命は取らない」

 

「馬超は」

 

「何を」

 

霞が尋ねる。

 

「軍を解く」

 

「それだけか」

 

「ああ」

 

「魏へ仕えろとは」

 

「今は言わない」

 

霞が。

 

時雨を見る。

 

「なんでや」

 

「馬超は」

 

「母を守るために残ってる」

 

「今」

 

「曹操へ従えと言えば」

 

「母を捨てろと同じになる」

 

「それは選ばない」

 

「相変わらず」

 

霞が。

 

僅かに笑う。

 

「変なとこで」

 

「優しいんか」

 

「違う」

 

「何が」

 

「今勧誘しても」

 

「断る」

 

「そっちかい!」

 

「後でいい」

 

「ほんま外道やな!」

 

時雨は。

 

返事をしなかった。

 

柳琳が。

 

馬超の旗を見つめる。

 

「馬超は」

 

「この降伏条件を」

 

「受け入れるでしょうか」

 

「受け入れない」

 

時雨は答える。

 

「なら」

 

「なぜ送るのです」

 

「馬騰へ」

 

「終わる道を見せる」

 

「今なら」

 

「兵も」

 

「馬超も」

 

「生きる」

 

「拒めば」

 

「次は戦う」

 

柳琳の表情が。

 

僅かに曇る。

 

「ついに」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

残った敵軍を見る。

 

「馬騰が」

 

「最後まで戦うなら」

 

「今度は」

 

「正面から終わらせる」

 

春蘭の目へ。

 

鋭い光が宿った。

 

霞も。

 

飛龍偃月刀を握る。

 

秋蘭は。

 

弓へ手を置く。

 

崩壊。

 

それでも。

 

残る者たち。

 

忠義。

 

誇り。

 

家族。

 

国。

 

その全てを。

 

まだ捨てない者。

 

時雨の策でも。

 

帰る道を選ばなかった兵。

 

なら。

 

次は。

 

武器で答えるしかない。

 

---

 

降伏勧告を受け取った馬騰は。

 

長い時間。

 

書状を見ていた。

 

軍帳の中。

 

馬超。

 

数名の将。

 

残った豪族。

 

皆。

 

馬騰の返答を待っている。

 

『馬騰は統治権を返上する』

 

『本人と一族の命は保証する』

 

『残存兵は武器を置き、各地へ帰還する』

 

『馬超および所属騎兵の罪は問わない』

 

『涼州の法、習慣、部族制度については、馬騰と各豪族の意見を聞いた上で改定する』

 

『拒絶するならば、次の戦で魏軍は全力を用いる』

 

前より。

 

厳しい。

 

だが。

 

滅ぼす条件ではない。

 

馬騰が。

 

権力を手放せば。

 

娘も。

 

兵も。

 

民も。

 

生きる。

 

「母様」

 

馬超が。

 

静かに呼ぶ。

 

「何だ」

 

「私は」

 

茶色のポニーテールが。

 

僅かに揺れる。

 

馬超の手は。

 

膝の上へ置かれている。

 

槍には触れていない。

 

「この条件を」

 

「受け入れても」

 

「母様を責めません」

 

周囲の将が。

 

馬超を見る。

 

「翠」

 

馬騰の声が。

 

僅かに掠れる。

 

「お前は」

 

「降れと言うのか」

 

「違います」

 

馬超は。

 

首を振る。

 

「私は」

 

「母様が決めた道を」

 

「最後まで共に行きます」

 

「戦うなら」

 

「戦います」

 

「降るなら」

 

「武器を置きます」

 

「ですが」

 

馬超は。

 

母を見る。

 

「私たちのために」

 

「戦わなければならないと」

 

「思わないでください」

 

馬騰の瞳が。

 

揺れた。

 

時雨は。

 

ここまで。

 

馬騰へ。

 

選択を迫り続けた。

 

国か。

 

民か。

 

誇りか。

 

命か。

 

戦うか。

 

退くか。

 

今。

 

最後に。

 

娘が。

 

選択を返した。

 

母様が選んでいい。

 

私たちを。

 

理由にしなくていい。

 

その優しさは。

 

馬騰にとって。

 

最も辛いものだった。

 

「私は」

 

馬騰が言う。

 

「涼州を守るために」

 

「戦ってきた」

 

「はい」

 

「曹操へ従えば」

 

「この土地が」

 

「中原の法へ呑まれると思った」

 

「はい」

 

「今も」

 

「その恐れは消えていない」

 

馬超は。

 

黙って聞く。

 

「だが」

 

馬騰は。

 

軍帳の外を見る。

 

去った兵。

 

戻らない兵糧。

 

静かになった陣。

 

「今」

 

「涼州を苦しめているのは」

 

「魏軍だけではない」

 

「私の戦もだ」

 

「母様」

 

「張燕は」

 

「それを」

 

「私へ見せつけた」

 

馬騰の拳が。

 

震える。

 

「卑怯に」

 

「外道な方法で」

 

「私が守ると言ったものを」

 

「一つずつ」

 

「私の前へ並べた」

 

「私は」

 

「どれも捨てられなかった」

 

「だから」

 

「軍を失った」

 

馬超は。

 

首を振る。

 

「母様が」

 

「兵を大切にしたからです」

 

「ああ」

 

馬騰は。

 

苦く笑う。

 

「張燕は」

 

「それを知っていた」

 

「私が」

 

「兵を斬れない」

 

「民から」

 

「最後の食料を奪えない」

 

「豪族を」

 

「無理に縛れない」

 

「それを」

 

「全部利用した」

 

「なら」

 

馬超は。

 

拳を握る。

 

「戦いましょう」

 

「正面から」

 

「今度こそ」

 

「私が」

 

「張燕を倒します」

 

馬騰は。

 

娘を見る。

 

若い。

 

強い。

 

眩しい。

 

涼州の未来。

 

この娘を。

 

自分の戦へ。

 

連れていくか。

 

生かすか。

 

最後の選択。

 

馬騰は。

 

目を閉じた。

 

長い。

 

沈黙。

 

外では。

 

風が吹いている。

 

かつて。

 

何度も。

 

馬へ乗り。

 

この風の中を走った。

 

異民族と戦った。

 

豪族をまとめた。

 

村を守った。

 

娘を育てた。

 

涼州は。

 

馬騰の全てだった。

 

だからこそ。

 

手放せない。

 

そう思っていた。

 

だが。

 

国とは。

 

誰か一人が。

 

抱え続けるものではない。

 

張燕は。

 

自分の国を終わらせた。

 

百万の民を。

 

別の未来へ渡した。

 

馬騰は。

 

それを。

 

逃げだと思っていた。

 

誇りを捨てた男。

 

曹操の下へ。

 

屈した男。

 

だが。

 

今。

 

自分が。

 

同じ場所へ立っている。

 

国を。

 

持ち続けること。

 

それで。

 

娘と民を死なせるのか。

 

国を手放し。

 

生かすのか。

 

「……返事を書く」

 

馬騰が言った。

 

馬超の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

「母様」

 

「翠」

 

馬騰は。

 

娘を見る。

 

「すまない」

 

「なぜ」

 

「お前へ」

 

「勝った涼州を」

 

「渡せなかった」

 

馬超の目へ。

 

涙が浮かぶ。

 

「そんなこと」

 

「でも」

 

馬騰は。

 

微笑んだ。

 

疲れた。

 

それでも。

 

母の顔。

 

「生きた涼州は」

 

「残せる」

 

馬超は。

 

耐えきれず。

 

母へ抱きついた。

 

「母様……!」

 

馬騰は。

 

娘の頭を撫でる。

 

茶色の髪。

 

幼い頃から。

 

何度も撫でた。

 

強くなれ。

 

涼州を守れ。

 

そう教えた。

 

だが。

 

今。

 

願うのは。

 

一つだけ。

 

生きろ。

 

「曹操へは」

 

馬超が。

 

母の胸元へ顔を伏せたまま言う。

 

「私が」

 

「頭を下げます」

 

馬騰の手が止まる。

 

「翠」

 

「母様の命を」

 

「兵の命を」

 

「守るためなら」

 

「私は」

 

「曹操へでも」

 

「張燕へでも」

 

「頭を下げます」

 

馬超は。

 

曹操を。

 

華琳とは呼ばない。

 

敵国の王。

 

自分たちの土地を。

 

奪おうとした女。

 

まだ。

 

真名を呼ぶほどの信頼も。

 

親しさもない。

 

それでも。

 

命を守るためなら。

 

曹操の前へ立つ。

 

その覚悟を。

 

馬超は決めた。

 

馬騰は。

 

娘を強く抱いた。

 

「お前は」

 

「本当に」

 

「強くなったな」

 

「まだです」

 

馬超は。

 

涙を拭う。

 

「私は」

 

「張燕に」

 

「一度も勝っていません」

 

「なら」

 

馬騰は。

 

小さく笑った。

 

「生きて」

 

「いつか勝て」

 

「はい」

 

「だが」

 

「今は」

 

馬騰は。

 

書状を手に取る。

 

「負けを認める」

 

その夜。

 

馬騰は。

 

曹操へ。

 

降伏を受け入れる書状を書いた。

 

---

 

翌朝。

 

馬騰軍の陣へ。

 

白旗が上がった。

 

魏軍本陣。

 

物見兵の声が。

 

響く。

 

「敵陣に白旗!」

 

「馬騰軍より」

 

「使者が参ります!」

 

春蘭が。

 

大きく目を見開く。

 

霞は。

 

黙って西を見る。

 

秋蘭は。

 

静かに息を吐いた。

 

華論は。

 

胸元へ手を置く。

 

栄華は。

 

帳簿を閉じた。

 

柳琳は。

 

目を伏せ。

 

小さく。

 

安堵の息を吐く。

 

稟は。

 

時雨を見る。

 

「総大将」

 

「ああ」

 

「涼州軍は」

 

「崩壊しました」

 

「違う」

 

時雨は答えた。

 

稟の眉が。

 

僅かに動く。

 

「違う?」

 

「軍を解いた」

 

「人は残ってる」

 

時雨は。

 

白旗を見る。

 

馬騰。

 

馬超。

 

残った兵。

 

豪族。

 

部族。

 

皆。

 

生きている。

 

国として。

 

軍として。

 

馬騰へ集まった形は。

 

終わった。

 

だが。

 

涼州そのものが。

 

消えたわけではない。

 

「時雨」

 

霞が言う。

 

「何だ」

 

「勝ったな」

 

「ああ」

 

「嬉しくないんか」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「分からない」

 

「またそれか」

 

「ああ」

 

「馬騰を」

 

「追い詰めた」

 

「馬超にも」

 

「母親と国を」

 

「選ばせた」

 

「豪族にも」

 

「家族と忠義を」

 

「比べさせた」

 

時雨は。

 

白旗から。

 

目を離さない。

 

「死ぬ奴は減った」

 

「でも」

 

「傷ついた奴は多い」

 

霞は。

 

しばらく。

 

何も言わなかった。

 

やがて。

 

時雨の肩を。

 

軽く叩く。

 

「ほんなら」

 

「これからや」

 

「何が」

 

「傷つけた分」

 

「戻すんやろ」

 

「ああ」

 

「うちも手伝ったる」

 

「なぜ」

 

「うちも」

 

「この策に乗った」

 

霞は。

 

苦く笑う。

 

「外道は」

 

「一人やない」

 

時雨の目が。

 

僅かに動く。

 

曹操の言葉。

 

魏軍全体で。

 

結果を背負え。

 

春蘭も。

 

秋蘭も。

 

華論も。

 

栄華も。

 

柳琳も。

 

稟も。

 

霞も。

 

皆。

 

自分の意志で。

 

この策へ加わった。

 

時雨一人の罪ではない。

 

一人で。

 

背負うことも。

 

許されない。

 

「そうか」

 

時雨が言う。

 

「ああ」

 

霞は答える。

 

「せやから」

 

「華琳様のとこ帰ったら」

 

「一緒に怒られたる」

 

「なぜ怒られる」

 

「こんな外道な策」

 

「二つも三つも使ったんや」

 

「絶対」

 

「後から何か言われるで」

 

「許可は取った」

 

「許可取っても」

 

「心配かけた言われるんが」

 

「お前やろ」

 

時雨は。

 

否定できなかった。

 

春蘭が。

 

二人の間へ割って入る。

 

「当然だ!」

 

「華琳様は」

 

「時雨が」

 

「どれほど心を削ったか」

 

「必ずお気づきになる!」

 

「そうか」

 

「そうだ!」

 

「なら」

 

「面倒だな」

 

「時雨!」

 

春蘭の怒声が。

 

魏軍本陣へ響く。

 

だが。

 

その声の中には。

 

戦が。

 

大きな殺戮へならず終わることへの。

 

安堵があった。

 

---

 

馬騰の使者は。

 

武器を持たず。

 

魏軍の大天幕へ入った。

 

書状。

 

馬騰の印。

 

降伏受諾。

 

統治権の返上。

 

軍の解散。

 

魏軍へ。

 

城と街道を開く。

 

ただし。

 

条件が一つ。

 

馬超と残存兵の命を。

 

必ず保証すること。

 

時雨は。

 

書状を読み。

 

短く答えた。

 

「分かった」

 

使者が。

 

顔を上げる。

 

「それだけですか」

 

「ああ」

 

「馬騰様は」

 

「涼州を」

 

「お渡しになるのです」

 

「ああ」

 

「何か」

 

「お言葉は」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「馬騰に伝えろ」

 

「何を」

 

「会いに行く」

 

周囲の将たちの顔が。

 

一斉に変わる。

 

霞が。

 

すぐに時雨の肩を掴む。

 

「待て」

 

「何だ」

 

「また」

 

「一人で行く気ちゃうやろな」

 

「行かない」

 

「ほんまか」

 

「ああ」

 

「誰連れてく」

 

「全員」

 

今度は。

 

別の意味で。

 

全員が驚いた。

 

「全員?」

 

春蘭が聞き返す。

 

「ああ」

 

「春蘭」

 

「秋蘭」

 

「霞」

 

「華論」

 

「栄華」

 

「柳琳」

 

「稟」

 

「皆で行く」

 

柳琳が。

 

僅かに微笑む。

 

「一人で」

 

「背負わないためですか」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

使者を見る。

 

「魏軍が」

 

「馬騰軍を壊した」

 

「俺一人じゃない」

 

「降伏を受けるのも」

 

「皆で行く」

 

使者は。

 

何も言わなかった。

 

ただ。

 

深く頭を下げた。

 

---

 

馬騰軍は。

 

最後まで。

 

隊列を保っていた。

 

武器は。

 

地面へ置かれている。

 

弓。

 

槍。

 

剣。

 

盾。

 

軍旗。

 

その前。

 

馬騰が立つ。

 

隣には。

 

馬超。

 

茶色の髪を。

 

高いポニーテールへ結んでいる。

 

白い馬は。

 

少し離れた場所へ繋がれていた。

 

馬超は。

 

武器を持っていない。

 

だが。

 

その目は。

 

まだ折れていない。

 

時雨を。

 

真っ直ぐ睨んでいる。

 

魏軍の将たちが。

 

時雨と共に進む。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

霞。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

背後には。

 

黒狼隊。

 

だが。

 

武器は構えていない。

 

時雨は。

 

馬騰の前へ止まる。

 

「久しぶりだな」

 

馬騰が言った。

 

「それほどでもない」

 

「お前にとっては」

 

「そうかもしれんな」

 

馬騰は。

 

僅かに笑った。

 

疲れた笑み。

 

だが。

 

負けを認めた者の。

 

静かな強さがある。

 

「張燕」

 

「何だ」

 

「私は」

 

「お前を」

 

「最後まで好きにはなれん」

 

「ああ」

 

「水を奪い」

 

「兵へ敵の飯を食わせ」

 

「豪族を」

 

「家族と忠義の間へ立たせた」

 

「ああ」

 

「卑劣で」

 

「外道だ」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

全て認める。

 

言い訳をしない。

 

「だが」

 

馬騰は。

 

背後の兵を見る。

 

「多くが生きた」

 

「ああ」

 

「死んで」

 

「誇りを守る道もあった」

 

「だが」

 

「お前は」

 

「その道を」

 

「選ばせなかった」

 

「選ばせた」

 

時雨は答える。

 

「死ぬ道も」

 

「残ってた」

 

「残った奴は」

 

「今ここにいる」

 

馬騰の目が。

 

僅かに細くなる。

 

確かに。

 

時雨は。

 

死ぬ道を。

 

完全には閉じなかった。

 

戦いたい者。

 

最後まで残る者。

 

その意志も。

 

奪ってはいない。

 

ただ。

 

生きる道を。

 

何本も。

 

何本も。

 

目の前へ置いた。

 

死を選ぶことが。

 

馬鹿らしくなるほど。

 

「残酷な男だ」

 

馬騰が言う。

 

「ああ」

 

「だが」

 

馬騰は。

 

僅かに頭を下げた。

 

「娘と兵を」

 

「生かしたことには」

 

「礼を言う」

 

馬超が。

 

驚いて母を見る。

 

時雨も。

 

すぐには答えない。

 

「礼はいらない」

 

「なぜ」

 

「魏のためにやった」

 

「曹操が」

 

「涼州を欲しがった」

 

「俺は」

 

「少ない死者で取った」

 

「それだけだ」

 

馬超の顔へ。

 

怒りが戻る。

 

「貴様!」

 

「母様の前で!」

 

「翠」

 

馬騰が止める。

 

だが。

 

馬超は。

 

時雨を睨み続ける。

 

「お前は」

 

「何も感じないのか!」

 

「感じる」

 

「なら!」

 

「言っても」

 

「変わらない」

 

時雨は。

 

馬超を見る。

 

「馬超」

 

「何だ!」

 

「お前は」

 

「兵を連れて帰った」

 

馬超の目が。

 

僅かに揺れる。

 

「何を」

 

「俺を倒すより」

 

「五千を選んだ」

 

「ああ」

 

「正しかった」

 

馬超が。

 

完全に止まる。

 

柳琳が。

 

僅かに。

 

時雨を見る。

 

いつか。

 

伝えてほしい。

 

そう頼んだ言葉。

 

時雨は。

 

今。

 

敵でなくなろうとしている馬超へ。

 

ようやく伝えた。

 

「私を」

 

馬超の声が。

 

少し震える。

 

「馬鹿にしているのか」

 

「してない」

 

「なら」

 

「なぜ」

 

「もっと早く言わなかった!」

 

「敵だった」

 

「今も!」

 

馬超は。

 

曹操の方角。

 

東を見る。

 

「私は」

 

「曹操へ」

 

「心から従ったわけではない!」

 

「分かってる」

 

「母様と」

 

「兵の命を守るためだ!」

 

「ああ」

 

「お前を」

 

「許したわけでもない!」

 

「ああ」

 

「必ず」

 

「いつか」

 

馬超は。

 

拳を握る。

 

「正面から」

 

「お前に勝つ!」

 

時雨は。

 

ほんの僅かに。

 

口元を緩めた。

 

「ああ」

 

「待ってる」

 

「笑うな!」

 

「笑ってない」

 

「笑った!」

 

「気のせいだ」

 

「絶対笑った!」

 

霞が。

 

横で声を上げて笑う。

 

「馬超」

 

「諦め」

 

「時雨は」

 

「こういう奴や」

 

「張遼!」

 

「次は」

 

「お前とも決着をつける!」

 

「ええで」

 

霞は。

 

飛龍偃月刀の柄を軽く叩く。

 

「ただし」

 

「今度は」

 

「戦やなく」

 

「試合でな」

 

馬超の表情が。

 

僅かに変わる。

 

戦ではない。

 

殺し合いではない。

 

いつか。

 

同じ空の下で。

 

武を競える可能性。

 

それは。

 

国が滅びる未来ではない。

 

生きて。

 

次へ進む未来。

 

馬超は。

 

すぐには答えなかった。

 

やがて。

 

小さく。

 

「……考えておく」

 

そう言った。

 

馬騰は。

 

そのやり取りを見て。

 

静かに目を細めた。

 

娘には。

 

まだ未来がある。

 

自分が。

 

国を失っても。

 

涼州の全てが。

 

終わるわけではない。

 

「張燕」

 

「何だ」

 

「曹操へ」

 

「伝えてくれ」

 

馬超の目が。

 

母へ向く。

 

馬騰は。

 

魏の王を。

 

真名では呼ばない。

 

馬超も。

 

呼ばない。

 

今はまだ。

 

曹操。

 

敵として戦い。

 

これから。

 

従うことになる王。

 

「私は」

 

馬騰が続ける。

 

「曹操へ降る」

 

「だが」

 

「涼州の民を」

 

「中原と同じ型へ」

 

「無理に押し込めるなら」

 

「何度でも反対する」

 

「ああ」

 

「必要なら」

 

「牢へ入れられても言う」

 

「ああ」

 

「それでもよいのか」

 

「曹操は」

 

時雨が答える。

 

「反対する奴を」

 

「側へ置く」

 

馬騰の眉が。

 

僅かに動く。

 

「お前のように?」

 

「ああ」

 

「それは」

 

馬騰は。

 

小さく笑う。

 

「相当に苦労するな」

 

「俺が?」

 

「曹操が、だ」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「そうかもしれない」

 

春蘭が。

 

すぐに怒鳴る。

 

「貴様!」

 

「華琳様へ」

 

「これ以上苦労をかけるな!」

 

「もう遅い」

 

「何だと!」

 

霞が。

 

また笑う。

 

緊張に満ちていた。

 

降伏の場。

 

だが。

 

僅かに。

 

人の声が戻る。

 

剣を置いた兵たちも。

 

その光景を見ている。

 

殺されない。

 

縛られない。

 

馬を奪われない。

 

魏軍は。

 

約束通り。

 

武器を置いた者へ。

 

水と食料を配り始める。

 

柳琳の医療隊が。

 

負傷者を診る。

 

栄華の役人が。

 

各隊の出身地と。

 

帰還先を記録する。

 

華論が。

 

混乱を避けるため。

 

部隊ごとに。

 

解散の順番を整える。

 

稟は。

 

馬騰の将たちから。

 

涼州各地の事情を聞く準備を始める。

 

春蘭と秋蘭は。

 

武器を置いた兵へ。

 

魏兵が無礼を働かないよう。

 

見張る。

 

霞は。

 

馬超の白馬を。

 

興味深そうに眺めている。

 

時雨一人ではない。

 

魏軍全体が。

 

戦後を始めていた。

 

馬騰軍。

 

崩壊。

 

だが。

 

虐殺ではない。

 

旗は下りた。

 

命は残った。

 

国は失われる。

 

民は生きる。

 

時雨が。

 

かつて。

 

自分の国へ選んだ道。

 

今度は。

 

馬騰へ。

 

選ばせた。

 

卑劣に。

 

外道に。

 

逃げ道を。

 

多すぎるほど用意して。

 

誇りだけで。

 

死ぬことを。

 

難しくして。

 

涼州征伐。

 

最大の戦は。

 

ついに。

 

大軍同士の決戦を行わぬまま。

 

終わりへ向かった。

 

魏軍が倒したのは。

 

馬騰軍の兵ではない。

 

一つの旗へ。

 

全てが従わなければならないという。

 

軍の形だった。

 

忠義へ値札をつけた。

 

家族。

 

食料。

 

村。

 

馬。

 

未来。

 

それらを。

 

忠義の隣へ並べ。

 

どちらが重いか。

 

一人一人へ。

 

選ばせた。

 

誰も。

 

裏切ったつもりはない。

 

誰も。

 

馬騰を憎んではいない。

 

それでも。

 

軍は崩れた。

 

だからこそ。

 

時雨の策は。

 

卑劣だった。

 

憎しみによる離反なら。

 

馬騰は敵を討てた。

 

恐怖による逃亡なら。

 

捕らえられた。

 

だが。

 

家族を守るため。

 

自分の村へ帰る者を。

 

馬騰は。

 

斬れなかった。

 

自らが。

 

民を守る主だったからこそ。

 

最後まで。

 

抗えなかった。

 

黒山の狼は。

 

馬騰の弱さを突いたのではない。

 

その優しさを。

 

責任を。

 

誇りを。

 

全て。

 

刃へ変えて。

 

馬騰自身へ向けた。

 

涼州軍は。

 

その刃によって。

 

内側から解かれた。

 

西の空へ。

 

夕日が沈む。

 

魏の旗。

 

馬騰の下ろされた旗。

 

馬超の白い馬旗。

 

三つの旗が。

 

同じ風を受けている。

 

まだ。

 

一つにはならない。

 

馬超は。

 

曹操を華琳とは呼ばない。

 

馬騰も。

 

曹操へ。

 

完全な信頼を預けてはいない。

 

時雨への憎しみも。

 

消えていない。

 

だが。

 

生きている。

 

生きていれば。

 

話せる。

 

反対できる。

 

戦った理由も。

 

負けた痛みも。

 

いつか。

 

言葉へ変えられる。

 

時雨は。

 

沈む夕日を見ながら。

 

小さく息を吐いた。

 

「終わったな」

 

霞が。

 

隣で言う。

 

「まだだ」

 

「何が残っとる」

 

「曹操へ」

 

「涼州を渡す」

 

「馬騰と」

 

「馬超も」

 

「許昌へ連れていく」

 

霞は。

 

時雨の顔を見る。

 

「ほんで?」

 

「怒られる」

 

「誰に」

 

「曹操」

 

霞は。

 

一瞬黙り。

 

次に。

 

腹を抱えて笑った。

 

「勝っても」

 

「そこは変わらへんのやな!」

 

「何が」

 

「お前の立場や!」

 

「許可は取った」

 

「せやけど」

 

「こんだけ自分削って」

 

「平気な顔しとったら」

 

「絶対怒られるで」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

否定できない。

 

曹操は。

 

結果だけを。

 

見る女ではない。

 

時雨が。

 

何を選び。

 

何を抱え。

 

何を隠したか。

 

そこまで。

 

見ようとする。

 

「面倒だな」

 

時雨が言う。

 

遠くで。

 

春蘭が振り返る。

 

「聞こえたぞ!」

 

「華琳様を面倒と言うな!」

 

「まだ何も言ってない」

 

「言っただろう!」

 

「聞き間違いだ」

 

「貴様!」

 

春蘭の怒声。

 

霞の笑い声。

 

秋蘭の溜息。

 

華論の。

 

止めに入る声。

 

栄華の。

 

帳簿を汚すなという叱責。

 

柳琳の。

 

怪我人の前で騒がないでくださいという穏やかな注意。

 

稟の。

 

軍議はまだ終わっていませんという冷静な言葉。

 

その全てが。

 

涼州の夕暮れへ響く。

 

馬超は。

 

少し離れた場所から。

 

その光景を見ていた。

 

魏軍。

 

曹操の軍。

 

自分たちを。

 

追い詰めた敵。

 

だが。

 

思っていたより。

 

ずっと。

 

人の声が多い。

 

一人の王へ。

 

黙って従うだけの軍ではない。

 

張燕へ。

 

将たちが怒り。

 

反対し。

 

それでも。

 

共に責任を負う。

 

母が。

 

恐れていた魏。

 

全てを。

 

同じ形へ押し込める国。

 

本当に。

 

そうなのか。

 

馬超の中へ。

 

また。

 

新しい疑問が生まれる。

 

それさえ。

 

時雨の策なのかもしれない。

 

そう思うと。

 

腹が立つ。

 

「張燕!」

 

馬超が。

 

遠くから叫ぶ。

 

時雨が。

 

振り返る。

 

「何だ」

 

「私は」

 

「まだ」

 

「お前を認めていないからな!」

 

「ああ」

 

「曹操にもだ!」

 

「ああ」

 

「必ず」

 

「自分の目で」

 

「魏がどんな国か確かめる!」

 

「ああ」

 

「そこで」

 

「民を苦しめる国だと分かったら」

 

「私は」

 

「もう一度戦う!」

 

時雨は。

 

馬超を見た。

 

茶色のポニーテール。

 

真っ直ぐな目。

 

折れていない。

 

それでいい。

 

「その時は」

 

時雨が答える。

 

「俺も反対する」

 

馬超の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

「曹操に?」

 

「ああ」

 

「お前は」

 

「曹操の将だろう!」

 

「ああ」

 

「なら」

 

「なぜ!」

 

「間違ってれば」

 

「言う」

 

「それでも進むなら」

 

「止める」

 

馬超は。

 

言葉を失った。

 

馬騰が。

 

時雨へ言った。

 

曹操へ。

 

何度でも反対する。

 

時雨も。

 

同じ。

 

魏へ従うとは。

 

意志を捨てることではない。

 

それを。

 

時雨自身が示している。

 

「……変な奴だ」

 

馬超が言った。

 

「ああ」

 

時雨は。

 

短く答える。

 

「でも」

 

「外道だ!」

 

「ああ」

 

「卑怯者だ!」

 

「ああ」

 

「絶対」

 

「いつか殴る!」

 

「武器は」

 

「置いたままにしろ」

 

「素手で殴る!」

 

「それならいい」

 

「いいのか!?」

 

霞が。

 

また笑い出す。

 

馬超の怒声も。

 

涼州の風へ混ざる。

 

軍は崩れた。

 

だが。

 

人は残った。

 

憎しみも。

 

怒りも。

 

誇りも。

 

全て。

 

生きたまま残った。

 

それが。

 

時雨の勝利だった。

 

そして。

 

最も。

 

外道な勝利でもあった。




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  • 高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
  • 朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
  • 周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
  • 孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)
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