【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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外伝 第18話 凱旋する狼――勝利の褒美と、帰る場所

外伝 第18話 凱旋する狼――勝利の褒美と、帰る場所

 

 

 

 

涼州軍が武器を置いた翌朝。

 

魏軍の陣に。

 

勝鬨は上がらなかった。

 

戦が終わった。

 

敵の総大将が降った。

 

涼州を治めていた馬騰が統治権を返上し、その娘である錦馬超も槍を置いた。

 

本来なら。

 

兵たちは旗を振り。

 

太鼓を鳴らし。

 

酒を求める。

 

大勝利だと。

 

互いの肩を叩き合う。

 

だが。

 

この戦で。

 

魏軍は。

 

敵の城壁を破っていない。

 

数万の軍勢を。

 

正面から打ち倒したわけでもない。

 

敵将の首を。

 

高く掲げたわけでもない。

 

水を奪い。

 

食料を与え。

 

捕虜を帰し。

 

豪族へ。

 

家族と忠義を選ばせた。

 

その結果。

 

一つだった軍は。

 

剣を交えることなく。

 

内側から解けていった。

 

勝った。

 

確かに。

 

勝った。

 

だが。

 

胸を張って。

 

敵を踏みつけるような勝利ではない。

 

魏兵の多くは。

 

自分たちが。

 

何へ勝ったのか。

 

まだ。

 

完全には理解できていなかった。

 

敵兵へ勝ったのか。

 

馬騰へ勝ったのか。

 

涼州の誇りへ勝ったのか。

 

それとも。

 

戦い続けようとする。

 

人の心へ。

 

勝ったのか。

 

朝日が。

 

乾いた大地を照らす。

 

魏軍の陣では。

 

すでに。

 

戦後の作業が始まっていた。

 

武器を置いた涼州兵は。

 

部隊ごとに分けられ。

 

名。

 

出身地。

 

所属していた豪族。

 

家族の有無。

 

帰る場所。

 

それらを。

 

一人ずつ記録されている。

 

栄華が。

 

作らせた名簿。

 

華論が。

 

混乱なく人を動かすために。

 

隊列を組み直す。

 

柳琳は。

 

負傷者の診察を続けている。

 

魏兵。

 

涼州兵。

 

区別しない。

 

傷の重さだけを見る。

 

秋蘭は。

 

武器の回収場所を見張っていた。

 

降伏した兵の武器を。

 

魏兵が勝手に持ち去らないため。

 

春蘭は。

 

周囲を巡回している。

 

勝者となった兵が。

 

敗者へ侮辱を向けないよう。

 

自ら。

 

強い目で見て回る。

 

霞は。

 

馬超の騎馬隊と共に。

 

逃げた軍馬を集めていた。

 

白馬。

 

黒馬。

 

栗毛。

 

鹿毛。

 

数千頭。

 

混ざり合った馬を。

 

持ち主へ戻す。

 

軍馬は。

 

物資ではない。

 

涼州の兵にとって。

 

家族であり。

 

生き方そのもの。

 

一頭でも。

 

無関係な者へ渡れば。

 

新たな恨みが生まれる。

 

そのことを。

 

霞は。

 

誰より理解していた。

 

そして。

 

時雨は。

 

陣の中央にいなかった。

 

戦後処理を。

 

将たちへ任せ。

 

一人。

 

北の泉にいた。

 

魏軍が。

 

一時的に使用不能へした水場。

 

工兵による復旧は。

 

ほとんど終わっている。

 

石は除かれ。

 

泥も。

 

可能な限り掻き出された。

 

水は。

 

まだ少し濁っている。

 

だが。

 

底から。

 

新しい水が。

 

絶えず湧いていた。

 

時雨は。

 

泉の縁へしゃがみ。

 

水面を見ていた。

 

風が吹く。

 

僅かに。

 

水が揺れる。

 

映る自分の顔も。

 

崩れる。

 

「こんなところにおったんか」

 

後ろから。

 

霞の声がした。

 

時雨は。

 

振り返らない。

 

「馬は」

 

「ほとんど戻した」

 

霞が答える。

 

「持ち主分からん奴は」

 

「一か所に集めとる」

 

「後で」

 

「馬超と確認するわ」

 

「ああ」

 

「華論が」

 

「総大将見つからんって」

 

「困っとったで」

 

「探さなくていい」

 

「言うたけど」

 

「聞くと思うか?」

 

「思わない」

 

霞は。

 

時雨の横へ来た。

 

泉を見る。

 

「戻ったな」

 

「ああ」

 

「まだ濁っとるけど」

 

「ああ」

 

「飲めるんか」

 

「柳琳が」

 

「煮れば大丈夫だと言ってた」

 

「ほんなら」

 

霞は。

 

腰を下ろした。

 

二人。

 

並んで。

 

水を見る。

 

黒山の頃。

 

こんなことが。

 

何度もあった。

 

戦の後。

 

時雨が。

 

一人で。

 

焼けた村。

 

崩した道。

 

埋めた井戸。

 

そういう場所へ戻る。

 

誰にも言わず。

 

何もせず。

 

ただ。

 

見ている。

 

霞は。

 

その度。

 

酒を持って。

 

隣へ座った。

 

話しかけても。

 

返事は少ない。

 

それでも。

 

一人にしておくと。

 

時雨は。

 

夜が明けても。

 

同じ場所へいる。

 

「酒は」

 

時雨が尋ねる。

 

霞が。

 

目を丸くする。

 

「何で」

 

「持ってないんかって?」

 

「ああ」

 

「朝から飲む思われとる?」

 

「飲むだろ」

 

「飲むけど」

 

霞は。

 

腰の水袋を振る。

 

「今は水や」

 

「軍律あるからな」

 

「珍しい」

 

「うちを何やと思っとる」

 

「酒で動く奴」

 

「大体合っとるけど!」

 

霞は。

 

水袋を時雨へ投げる。

 

時雨が受け取る。

 

一口。

 

飲む。

 

冷たい。

 

新しい泉の水ではない。

 

魏軍の水。

 

安全を確認されたもの。

 

「時雨」

 

霞が言った。

 

「何だ」

 

「勝ったんやで」

 

「ああ」

 

「馬騰は降った」

 

「ああ」

 

「馬超も」

 

「ああ」

 

「魏軍は」

 

「大して死んでへん」

 

「ああ」

 

「涼州軍も」

 

「何万も死なずに済んだ」

 

「ああ」

 

「ほんなら」

 

霞は。

 

時雨の横顔を見る。

 

「何で」

 

「そんな顔しとる」

 

時雨は。

 

自分が。

 

どんな顔をしているのか。

 

分からなかった。

 

平常。

 

いつも通り。

 

そう思っている。

 

だが。

 

霞には。

 

違って見えるらしい。

 

「普通だ」

 

「普通ちゃう」

 

「何が」

 

「戦の前より」

 

霞は。

 

少し考える。

 

「静かすぎる」

 

「前から静かだ」

 

「そういう意味やない」

 

霞は。

 

泉へ小石を投げる。

 

波紋。

 

濁った水面へ。

 

円が広がる。

 

「黒山ん時も」

 

「お前」

 

「酷い策使った後」

 

「こうなっとった」

 

時雨は。

 

何も答えない。

 

「道崩して」

 

「官軍ごと谷に閉じ込めた時」

 

「敵が」

 

「飢えて降ってきた後」

 

「一人で崩した場所見とった」

 

「ああ」

 

「冬に」

 

「村へ火をつけた時もや」

 

「あれは」

 

「住民を先に逃がした」

 

「分かっとる」

 

霞は答える。

 

「官軍に」

 

「冬営させんためやった」

 

「人も死んでへん」

 

「でも」

 

「お前」

 

「三日間」

 

「焼け跡から離れへんかった」

 

時雨は。

 

泉を見る。

 

覚えている。

 

雪。

 

焦げた木。

 

黒い柱。

 

火をつけたのは。

 

時雨。

 

住民を逃がし。

 

食料を隠し。

 

官軍が。

 

その村へ陣を置けないようにした。

 

結果。

 

官軍は撤退。

 

黒山の民は助かった。

 

春になり。

 

村も建て直した。

 

策としては。

 

正しかった。

 

それでも。

 

燃える家を。

 

見ていた子供の顔が。

 

残った。

 

正しい。

 

必要。

 

少ない犠牲。

 

そう言えば。

 

すべて。

 

終わる。

 

だが。

 

焼かれた側にとって。

 

必要だったかどうかは関係ない。

 

水を汚された涼州の者も。

 

同じ。

 

「今回も」

 

霞が言う。

 

「必要やった」

 

「ああ」

 

「うちも」

 

「そう思う」

 

「ああ」

 

「せやけど」

 

「正しかったから」

 

霞は。

 

低く続ける。

 

「痛くないわけちゃう」

 

時雨は。

 

返事をしなかった。

 

その沈黙が。

 

答えだった。

 

「馬超へ」

 

時雨が。

 

不意に言った。

 

「何や」

 

「間違ってないと言った」

 

「ああ」

 

「俺は」

 

「間違ってないか」

 

霞は。

 

少し。

 

驚いた顔をした。

 

時雨が。

 

他人へ。

 

自分の判断を。

 

尋ねる。

 

黒山にいた頃なら。

 

ほとんどなかった。

 

時雨は。

 

一人で決めた。

 

迷っても。

 

見せなかった。

 

正しいかどうかは。

 

結果で測る。

 

そういう男だった。

 

「分からん」

 

霞は答えた。

 

時雨が。

 

僅かに目を動かす。

 

「分からない?」

 

「ああ」

 

「正しいとこもある」

 

「間違っとるとこもある」

 

「外道や」

 

「卑怯や」

 

「馬騰と馬超を」

 

「ぎりぎりまで追い詰めた」

 

「兵も」

 

「仲間を疑った」

 

「豪族も」

 

「忠義と家族比べさせられた」

 

「ああ」

 

「でも」

 

霞は。

 

時雨を見る。

 

「みんな生きとる」

 

「それも本当や」

 

「ああ」

 

「せやから」

 

「分からん」

 

霞は。

 

少し笑った。

 

「ただ」

 

「一つだけ」

 

「間違っとることあるで」

 

「何だ」

 

「勝った後」

 

「一人でここ来たことや」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「見る必要があった」

 

「一人で見る必要はない」

 

「霞は来た」

 

「うちだけやない」

 

霞は。

 

親指で。

 

後ろを示した。

 

「何が」

 

時雨が振り返る。

 

泉から。

 

少し離れた坂。

 

そこに。

 

何人も立っていた。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

全員。

 

何とも言えない顔で。

 

時雨を見ている。

 

「いつから」

 

時雨が尋ねる。

 

「村焼いた話の辺りっす」

 

華論が答える。

 

「聞くな」

 

「聞こえたっす!」

 

「盗み聞きですわね」

 

栄華が。

 

華論へ冷たい目を向ける。

 

「栄華も聞いてたっす!」

 

「わたくしは」

 

「時雨を探していただけです」

 

「同じっす!」

 

柳琳が。

 

静かに坂を下りる。

 

時雨の前へ来る。

 

「腕を」

 

「何だ」

 

「見せてください」

 

「怪我は治った」

 

「見せてください」

 

声は。

 

穏やか。

 

だが。

 

逆らえない。

 

時雨は。

 

袖を上げる。

 

馬超軍との戦で負った。

 

矢の掠り傷。

 

傷口は閉じている。

 

腫れも少ない。

 

柳琳は。

 

指で。

 

周囲を確かめる。

 

「熱はありません」

 

「ああ」

 

「痛みは」

 

「ない」

 

「嘘ですね」

 

「少し」

 

「身体の痛みではありません」

 

時雨は。

 

柳琳を見る。

 

柳琳は。

 

泉へ視線を向けた。

 

「ここへ来た理由です」

 

「ああ」

 

「何が痛いのですか」

 

時雨は。

 

答えない。

 

春蘭たちも。

 

急かさない。

 

風。

 

水。

 

鳥の声。

 

戦場だった場所へ。

 

少しずつ。

 

普通の音が戻っている。

 

「分からない」

 

時雨が言った。

 

柳琳は。

 

頷く。

 

「そうですか」

 

「でも」

 

「それでよいと思います」

 

「なぜ」

 

「今すぐ」

 

「名前をつけなくても」

 

「痛いことが分かっていれば」

 

「無理に動かなくて済みます」

 

「動く必要がある」

 

「今日は」

 

「ありません」

 

華論が。

 

強く頷く。

 

「戦後処理」

 

「私たちでやってるっす」

 

「確認は」

 

「終わったら報告するっす」

 

「栄華」

 

時雨が見る。

 

「帳簿は」

 

「問題ありません」

 

栄華は答える。

 

「補償額も」

 

「水場復旧費用も」

 

「捕虜の帰還費用も」

 

「すべて計上しております」

 

「まだ」

 

「村ごとの調査が」

 

「必要だろ」

 

「それは」

 

「現地の役人へ任せます」

 

「信用できるか」

 

「信用できるよう」

 

「監査役もつけます」

 

「時雨が」

 

「一軒ずつ回る必要はありませんわ」

 

稟も。

 

手にした竹簡を掲げる。

 

「馬騰殿との」

 

「今後の統治に関する話し合いも」

 

「本日は行いません」

 

「なぜ」

 

「馬騰殿も」

 

「休ませる必要があります」

 

「軍を解いた直後だ」

 

「だからです」

 

稟は。

 

静かに言う。

 

「彼女は」

 

「国を失った直後です」

 

「正しい判断を」

 

「今すぐ求めるべきではありません」

 

時雨は。

 

何も言えない。

 

自分が。

 

休む理由には納得しない。

 

だが。

 

馬騰を休ませる理由なら。

 

理解できる。

 

「時雨」

 

秋蘭が呼ぶ。

 

「何だ」

 

「姉者が」

 

「朝から三度」

 

「お前を探している」

 

「なぜ」

 

「勝利の報告を」

 

「共に聞くためだ」

 

春蘭が。

 

僅かに顔を逸らす。

 

「別に」

 

「貴様と一緒でなければ」

 

「聞けないわけではない」

 

「なら」

 

「帰る」

 

時雨が。

 

泉へ視線を戻す。

 

春蘭の眉が。

 

激しく上がる。

 

「そういう意味ではない!」

 

「何が」

 

「総大将が」

 

「勝手にいなくなれば」

 

「皆が困ると言っている!」

 

「もう戦は終わった」

 

「終わった後もだ!」

 

春蘭は。

 

時雨の前へ進む。

 

「お前は」

 

「必要な時だけ」

 

「総大将ではない!」

 

「勝った後」

 

「兵の前へ立つのも」

 

「将の役目だ!」

 

「俺がいなくても」

 

「またそれか!」

 

春蘭の怒声が。

 

泉へ響く。

 

鳥が。

 

一斉に飛び立った。

 

「お前がいなくても」

 

「我らは動ける!」

 

「ああ」

 

「だが!」

 

春蘭は。

 

時雨の胸を指差す。

 

「お前がいなくてよいとは」

 

「言っていない!」

 

時雨の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

以前。

 

曹操へ。

 

同じことを言われた。

 

俺がいなくてもよいことと。

 

俺がいなくてよいことは違う。

 

時雨自身も。

 

そう気づいた。

 

だが。

 

また。

 

同じことをしている。

 

皆へ任せる。

 

それを。

 

自分がいなくなる理由へ使う。

 

「時雨」

 

華論が言う。

 

「兵たち」

 

「待ってるっす」

 

「何を」

 

「総大将の言葉っす」

 

「必要ない」

 

「必要あるっす!」

 

華論の声も。

 

珍しく強い。

 

「今回の戦」

 

「みんな」

 

「迷いながら戦ったっす」

 

「水を潰すのも」

 

「敵へ食料送るのも」

 

「逃げる敵を追わないのも」

 

「何でやるか」

 

「時雨が説明した」

 

「ああ」

 

「だから」

 

「兵は従ったっす」

 

「勝った後」

 

「それが」

 

「本当に良かったのか」

 

「皆」

 

「まだ分からないっす」

 

時雨は。

 

魏軍の陣の方を見る。

 

ここから。

 

兵の姿は。

 

小さくしか見えない。

 

「俺にも」

 

「分からない」

 

「ああ」

 

華論は。

 

頷いた。

 

「それを」

 

「言えばいいっす」

 

「総大将が」

 

「全部分かってる必要ないっす」

 

「でも」

 

「迷ってるなら」

 

「一緒に迷うって」

 

「言ってほしいっす」

 

時雨は。

 

しばらく。

 

誰の顔も見なかった。

 

泉を見る。

 

濁り。

 

それでも。

 

水は湧く。

 

完全に。

 

元へ戻ったわけではない。

 

だが。

 

戻ろうとしている。

 

「分かった」

 

時雨が言う。

 

「戻る」

 

春蘭が。

 

満足そうに頷く。

 

「最初からそうしろ!」

 

「うるさい」

 

「何だと!」

 

霞が笑う。

 

「ほら」

 

「元に戻った」

 

「何が」

 

「時雨の顔や」

 

「変わってない」

 

「変わっとる」

 

霞は。

 

時雨の背を。

 

強く叩いた。

 

「帰るで」

 

「ああ」

 

一人ではない。

 

時雨は。

 

将たちと共に。

 

泉を離れた。

 

---

 

魏軍本陣。

 

中央の広場。

 

数万の兵が。

 

並んでいた。

 

涼州の兵たちは。

 

少し離れた場所にいる。

 

すでに。

 

敵ではない。

 

だが。

 

まだ。

 

魏兵でもない。

 

武器を置き。

 

自分たちの将である。

 

馬騰と馬超の近くに集まっている。

 

時雨が。

 

将たちと共に現れる。

 

魏兵の視線が。

 

一斉に向く。

 

総大将。

 

黒山の狼。

 

この戦で。

 

一度も。

 

大声で。

 

全軍を鼓舞しなかった男。

 

勇ましい言葉も。

 

天下を取るという理想も。

 

口にしなかった。

 

ただ。

 

死ぬな。

 

奪うな。

 

命令へ疑問があれば言え。

 

そう言った。

 

そして。

 

誰より非道な策を。

 

自ら選んだ。

 

時雨は。

 

兵の前へ立つ。

 

高い台には。

 

上がらない。

 

同じ地面。

 

同じ高さ。

 

華論が。

 

少し離れた場所から。

 

時雨へ合図する。

 

話せ。

 

時雨は。

 

兵を見る。

 

顔。

 

一人一人は。

 

分からない。

 

数が多い。

 

だが。

 

その中には。

 

水場を潰した工兵がいる。

 

捕虜へ水を与えた兵がいる。

 

敵の矢を受けながら。

 

反撃を足元へ留めた弓兵がいる。

 

追撃できる敵を。

 

追わずに見送った騎兵がいる。

 

偽の補給隊で。

 

馬超軍の攻撃を受けた者もいる。

 

自分の行いが。

 

正しいのか。

 

迷いながら。

 

命令へ従った者たち。

 

「勝った」

 

時雨が言う。

 

声は。

 

大きくない。

 

だが。

 

静まった広場へ。

 

届く。

 

「馬騰は降った」

 

「涼州軍は」

 

「武器を置いた」

 

「魏軍の勝ちだ」

 

兵たちの顔へ。

 

僅かな動き。

 

まだ。

 

歓声はない。

 

「でも」

 

時雨は続ける。

 

「俺は」

 

「この勝ち方が」

 

「正しかったか」

 

「分からない」

 

兵の中へ。

 

ざわめきが起きる。

 

総大将が。

 

自分の策を。

 

疑っている。

 

勝利の直後に。

 

それを口にした。

 

「敵の水を奪った」

 

「食料を使って」

 

「仲間同士へ」

 

「疑わせた」

 

「豪族へ」

 

「馬騰と家族を」

 

「比べさせた」

 

「卑怯だ」

 

「外道だ」

 

「そう言われた」

 

「その通りだと思う」

 

涼州兵たちの視線が。

 

さらに鋭くなる。

 

馬超も。

 

時雨を見ている。

 

「でも」

 

時雨は。

 

全員を見る。

 

「正面から戦えば」

 

「ここにいる奴の中で」

 

「何千人かは死んだ」

 

「涼州の兵も」

 

「何千人か死んだ」

 

「馬も」

 

「もっと死んだ」

 

「村も」

 

「焼けたかもしれない」

 

「だから」

 

「俺は」

 

「あの策を選んだ」

 

時雨は。

 

一度。

 

息を止める。

 

「後悔はある」

 

「でも」

 

「やらなければよかったとは」

 

「まだ思ってない」

 

「これから」

 

「壊した水場を戻す」

 

「食料を失った村へ返す」

 

「俺たちを憎む奴の話も聞く」

 

「それを全部やって」

 

「その後で」

 

「良かったか」

 

「悪かったか」

 

「また考える」

 

兵たちは。

 

黙って聞いている。

 

時雨は。

 

魏兵を見る。

 

「命令へ従った奴へ」

 

「俺は」

 

「悪くないとは言わない」

 

「自分で」

 

「嫌だったと思うなら」

 

「嫌だったと言え」

 

「俺が間違っていたと思うなら」

 

「そう言え」

 

「だが」

 

「命令したのは俺だ」

 

「責任から」

 

「逃げるつもりはない」

 

次に。

 

涼州兵を見る。

 

「お前たちへ」

 

「許せとも言わない」

 

「魏へ感謝しろとも」

 

「曹操へすぐ従えとも言わない」

 

「恨むなら恨め」

 

「文句があるなら」

 

「俺へ言え」

 

「ただ」

 

「魏軍の兵へ」

 

「勝手に刃を向けるな」

 

「こいつらは」

 

「俺の命令へ従った」

 

「やるなら」

 

「俺へ来い」

 

一人で。

 

背負う。

 

その言葉へ。

 

後ろにいた春蘭の眉が動く。

 

曹操の命令。

 

魏軍全体で責任を背負え。

 

また。

 

時雨が。

 

自分一人へ集めようとしている。

 

春蘭が。

 

前へ出ようとした。

 

だが。

 

先に。

 

別の声が上がった。

 

「違うっす!」

 

華論。

 

時雨が振り返る。

 

華論は。

 

時雨の横へ立つ。

 

「水場を潰す部隊」

 

「私が作ったっす」

 

「工兵へ」

 

「壊しすぎるなって」

 

「命令したのも私っす」

 

「だから」

 

「時雨一人の責任じゃないっす」

 

栄華も。

 

前へ出る。

 

「兵糧を敵へ送る費用を認め」

 

「補償制度を作ったのは」

 

「わたくしですわ」

 

「止めることもできました」

 

「それでも」

 

「兵の損害が減ると判断し」

 

「実行へ加わりました」

 

「責任は」

 

「わたくしにもあります」

 

稟が。

 

時雨の隣へ並ぶ。

 

「策を」

 

「軍事的に有効と認め」

 

「各豪族へ送る書状を作ったのは」

 

「私です」

 

「時雨殿一人が」

 

「全てを背負うことは」

 

「事実に反します」

 

秋蘭も。

 

前へ。

 

「私は」

 

「工兵を守り」

 

「帰る兵を通した」

 

「自分で考え」

 

「命令へ従った」

 

「時雨だけの罪ではない」

 

春蘭は。

 

胸を張る。

 

「私は」

 

「この策を嫌った!」

 

時雨が。

 

僅かに春蘭を見る。

 

「だが!」

 

春蘭は続ける。

 

「華琳様が認め」

 

「兵を生かすためだと理解し」

 

「自分の意志で従った!」

 

「責任を」

 

「総大将一人へ押しつけるほど」

 

「魏の将は」

 

「卑怯ではない!」

 

霞も。

 

笑いながら。

 

時雨の反対側へ立つ。

 

「うちは」

 

「馬逃がして」

 

「馬超の隊を罠へ入れた」

 

「時雨に言われたからだけやない」

 

「その方が」

 

「生きて帰る兵が多い思ったからや」

 

「せやから」

 

「恨むなら」

 

「うちにも来い」

 

「ただし」

 

「喧嘩なら」

 

「負けへんで」

 

「霞」

 

秋蘭が。

 

静かに注意する。

 

「余計だ」

 

「大事やろ」

 

柳琳は。

 

最後に。

 

前へ出た。

 

時雨の顔を見る。

 

「私は」

 

「最後まで」

 

「策が嫌でした」

 

「ああ」

 

「今も」

 

「好きではありません」

 

「ああ」

 

「ですが」

 

「傷ついた方を治療し」

 

「壊されたものを戻す役目を」

 

「引き受けました」

 

「それも」

 

「この戦の一部です」

 

柳琳は。

 

涼州兵たちを見る。

 

「皆様の怒りを」

 

「時雨一人へ向ければ」

 

「楽かもしれません」

 

「ですが」

 

「魏軍は」

 

「一人で戦ったのではありません」

 

「私たち全員が」

 

「選びました」

 

「だから」

 

「皆様が」

 

「何を失い」

 

「何を怒っているか」

 

「私たち全員で聞きます」

 

静寂。

 

魏軍の将たちが。

 

時雨の両側へ並ぶ。

 

総大将を。

 

守るためではない。

 

責任へ。

 

共に立つため。

 

魏兵たちの中から。

 

一人の兵が。

 

声を上げた。

 

「俺もだ!」

 

黒狼隊の兵。

 

韓武。

 

時雨が見る。

 

「泉へ」

 

「石を入れたのは俺たちです!」

 

「嫌でした!」

 

「でも」

 

「正面から戦えば」

 

「昔からの仲間が死ぬと思った!」

 

「だからやった!」

 

次。

 

工兵。

 

「俺もです!」

 

「捕虜に水をやりました!」

 

「敵へ食わせるなって」

 

「思った奴もいた!」

 

「でも」

 

「総大将が」

 

「降った者は敵じゃないと言った!」

 

「俺は」

 

「それを正しいと思った!」

 

さらに。

 

別の声。

 

次。

 

次。

 

兵たちが。

 

自分のしたことを。

 

口にしていく。

 

誰かへ命じられただけではない。

 

自分で。

 

何を思い。

 

何を選んだか。

 

その言葉が。

 

広場へ広がる。

 

時雨は。

 

黙っていた。

 

一人で。

 

背負うつもりだった。

 

自分が。

 

外道と呼ばれればいい。

 

だが。

 

皆は。

 

それを許さない。

 

曹操と同じ。

 

責任を。

 

分けるのではない。

 

自分の分を。

 

それぞれ持つ。

 

時雨から。

 

奪い取るように。

 

「時雨」

 

春蘭が。

 

小声で呼ぶ。

 

「何だ」

 

「これでも」

 

「自分一人の責任と言うか」

 

時雨は。

 

答えなかった。

 

言えない。

 

事実ではない。

 

皆。

 

自分で。

 

選んだ。

 

「分かった」

 

時雨は。

 

兵たちへ向き直る。

 

「訂正する」

 

広場が。

 

少し静まる。

 

「この戦は」

 

「俺一人でやったんじゃない」

 

「魏軍がやった」

 

「責任も」

 

「魏軍全体にある」

 

「でも」

 

「総大将は俺だ」

 

「最後に」

 

「判断した責任だけは」

 

「俺が持つ」

 

春蘭は。

 

僅かに頷く。

 

それなら。

 

よい。

 

全てではない。

 

自分の分だけ。

 

「これから」

 

時雨は続ける。

 

「涼州を戻す」

 

「戦が終わっても」

 

「俺たちの仕事は終わらない」

 

「帰るまでに」

 

「井戸を直す」

 

「道を直す」

 

「村へ」

 

「食料を返す」

 

「馬を返す」

 

「約束を守る」

 

「それができた時」

 

「初めて」

 

「勝ったと言える」

 

今度。

 

兵たちの中から。

 

声が上がる。

 

歓声ではない。

 

力強い返事。

 

「応!」

 

一人。

 

次。

 

次。

 

広がる。

 

「応!」

 

「応!」

 

魏兵。

 

黒狼隊。

 

工兵。

 

輸送兵。

 

医療隊。

 

数万の声。

 

地面を揺らす。

 

勝鬨ではない。

 

これから。

 

戦後へ向き合うための声。

 

涼州兵たちは。

 

その光景を見ていた。

 

敵だった軍。

 

勝者。

 

だが。

 

自分たちの痛みを。

 

なかったことにはしない。

 

正しかったと。

 

一方的に押しつけない。

 

それでも。

 

自分たちの選択を。

 

逃げずに語る。

 

馬騰は。

 

静かに目を閉じた。

 

馬超は。

 

拳を握ったまま。

 

時雨を見る。

 

憎い。

 

今も。

 

卑怯。

 

外道。

 

許したわけではない。

 

だが。

 

少しだけ。

 

分かった。

 

時雨一人が。

 

異常なのではない。

 

魏軍は。

 

異なる考えを持つ者たちが。

 

互いに反対し。

 

怒り。

 

それでも。

 

一つの結果を。

 

共に引き受ける軍。

 

曹操の軍。

 

馬騰が恐れていた。

 

一つの法。

 

一つの意思へ。

 

全てを押し込める軍とは。

 

少し違う。

 

「張燕」

 

馬超が。

 

声を上げた。

 

時雨が。

 

彼女を見る。

 

「何だ」

 

「私は」

 

「まだ」

 

「お前の策を認めない!」

 

「ああ」

 

「正しかったとも」

 

「言わない!」

 

「ああ」

 

「だが」

 

馬超は。

 

周囲の魏将たちを見る。

 

「お前一人が」

 

「卑怯だったわけじゃないことは」

 

「分かった」

 

霞が。

 

笑う。

 

「うちら全員」

 

「卑怯やって?」

 

「そういう意味ではない!」

 

馬超が怒鳴る。

 

「お前は黙れ!」

 

「何でや!」

 

「話がややこしくなる!」

 

「馬超に言われたないわ!」

 

「翠」

 

馬騰が。

 

穏やかに止める。

 

馬超は。

 

口を閉じる。

 

だが。

 

時雨から。

 

目を逸らさない。

 

「曹操が」

 

馬超は言った。

 

「本当に」

 

「お前たちの言葉を聞く王なのか」

 

「ああ」

 

「異論を」

 

「許すのか」

 

「ああ」

 

「涼州の法も」

 

「話を聞くと」

 

「約束した」

 

「ああ」

 

「なら」

 

馬超は。

 

強く言う。

 

「私は」

 

「曹操へ直接確かめる」

 

「そうしろ」

 

「お前を通さずにだ!」

 

「ああ」

 

「止めるなよ!」

 

「止めない」

 

時雨の返事が。

 

あまりに短い。

 

馬超は。

 

逆に腹が立った。

 

「もっと何かないのか!」

 

「何が」

 

「私は」

 

「曹操へ」

 

「お前の悪口も言うぞ!」

 

「好きにしろ」

 

「お前の策が」

 

「どれほど外道だったか!」

 

「ああ」

 

「私を」

 

「どれほど馬鹿にしたかも!」

 

「馬鹿にはしてない」

 

「した!」

 

「してない」

 

「した!」

 

二人の言い争い。

 

霞が笑う。

 

春蘭は。

 

時雨へ味方すべきか。

 

馬超を叱るべきか。

 

迷っている。

 

秋蘭は。

 

また。

 

額へ手を当てた。

 

栄華が。

 

小さく息を吐く。

 

柳琳は。

 

僅かに笑った。

 

戦は。

 

終わった。

 

本当に。

 

少しずつ。

 

そう感じられるようになっていた。

 

---

 

魏軍は。

 

涼州へ。

 

さらに二十日滞在した。

 

約束を。

 

形へするため。

 

壊した泉。

 

乾いた川筋。

 

避難させた村。

 

食料を返した豪族領。

 

すべてを確認する。

 

時雨は。

 

本来なら。

 

全ての場所へ。

 

自分で行こうとした。

 

当然。

 

止められた。

 

「一日二か所までです」

 

柳琳が言った。

 

「少ない」

 

「一か所へ減らしますか?」

 

「二か所でいい」

 

「睡眠は」

 

「取る」

 

「何刻」

 

「三刻」

 

「足りません」

 

「四刻」

 

「六刻」

 

「長い」

 

「では七刻」

 

「増えた」

 

「交渉です」

 

「脅しだろ」

 

「時雨が」

 

「聞かないからです」

 

柳琳は。

 

穏やかに笑った。

 

だが。

 

譲らない。

 

結果。

 

時雨は。

 

夜の見回りを禁止された。

 

代わりに。

 

華論と霞が。

 

交代で行う。

 

書類は。

 

稟と栄華が。

 

必要なものだけへ絞った。

 

春蘭と秋蘭は。

 

現地の治安維持。

 

魏兵と涼州兵の間へ。

 

争いが起きないよう。

 

巡回する。

 

馬超は。

 

最初。

 

魏軍の戦後処理を。

 

信用していなかった。

 

井戸を直す。

 

食料を返す。

 

税を免除する。

 

口だけ。

 

そう思っていた。

 

だから。

 

自分の目で見るため。

 

時雨たちの作業へ。

 

何度も同行した。

 

ある村。

 

魏軍が。

 

油の混じった土を取り除いている。

 

工兵が。

 

泥だらけになり。

 

川筋を掘る。

 

華論も。

 

自分で水の流れを確認する。

 

馬超は。

 

腕を組み。

 

その様子を見ていた。

 

「遅い」

 

華論が。

 

振り返る。

 

「何がっすか」

 

「作業だ」

 

「もっと人を増やせば」

 

「早く終わる」

 

「増やしすぎると」

 

「土が崩れるっす」

 

「なら」

 

「私の兵を使え」

 

華論が。

 

少し驚く。

 

「いいんすか?」

 

「涼州の川だ」

 

馬超は。

 

当然のように答える。

 

「魏軍だけに」

 

「任せられるか」

 

「それは」

 

「助かるっす」

 

華論は。

 

すぐに。

 

仕事を分ける。

 

馬超の騎馬兵。

 

普段。

 

土木作業には慣れていない。

 

だが。

 

馬を扱うため。

 

力がある。

 

土を運ぶ。

 

石を退ける。

 

馬超も。

 

槍ではなく。

 

鋤を持った。

 

「馬超様!」

 

兵が。

 

慌てる。

 

「我らがやります!」

 

「私も」

 

「涼州の者だ!」

 

「それに」

 

馬超は。

 

少し離れた場所。

 

時雨を見る。

 

時雨は。

 

地図と。

 

水路を見比べている。

 

自分で土を運ぼうとした。

 

だが。

 

栄華へ。

 

総大将の仕事ではないと止められた。

 

今は。

 

不満そうに。

 

作業を見ている。

 

「張燕に」

 

馬超が言う。

 

「私だけ」

 

「何もしていないと」

 

「思われたくない」

 

時雨が。

 

僅かに顔を上げる。

 

「思わない」

 

「聞いていたのか!」

 

「声が大きい」

 

「お前に言われたくない!」

 

「俺は大きくない」

 

「態度がだ!」

 

華論が。

 

笑いを堪える。

 

馬超が。

 

睨む。

 

「何がおかしい」

 

「春蘭と」

 

「似てると思っただけっす」

 

「誰がだ!」

 

「何を騒いでいる!」

 

遠くから。

 

春蘭の声。

 

馬超の顔が。

 

さらに険しくなる。

 

「本当に似てない!」

 

華論は。

 

今度こそ。

 

声を出して笑った。

 

別の村。

 

柳琳の医療隊。

 

病人。

 

戦とは関係なく。

 

以前から。

 

身体を悪くしていた老人。

 

魏軍の薬師が。

 

診察する。

 

馬超は。

 

天幕の入口から。

 

それを見ていた。

 

「金は」

 

馬超が尋ねる。

 

柳琳が。

 

顔を上げる。

 

「何がですか」

 

「治療代だ」

 

「取らないのか」

 

「今は」

 

「魏軍の戦後支援です」

 

「無料です」

 

「後で」

 

「税へ上乗せするつもりでは」

 

柳琳は。

 

少し困ったように笑う。

 

「栄華に聞いてください」

 

「私は」

 

「金のことには詳しくありません」

 

「そうか」

 

「ですが」

 

柳琳は。

 

老人へ薬を渡す。

 

「治した後で」

 

「払えなければ捕らえるようなことは」

 

「絶対にさせません」

 

馬超は。

 

柳琳を見る。

 

優しい。

 

だが。

 

弱くない。

 

時雨の策へ。

 

反対した。

 

それでも。

 

傷ついた者を救うため。

 

最後まで側へいた女。

 

馬超は。

 

何となく。

 

時雨が。

 

この女の言葉を聞く理由が。

 

少し分かった。

 

「柳琳」

 

「はい」

 

「張燕は」

 

馬超は。

 

少し言葉を止める。

 

「いつも」

 

「ああなのか」

 

「ああ、とは?」

 

「自分が」

 

「全部悪いように言う」

 

柳琳の手が。

 

僅かに止まる。

 

「ええ」

 

「昔からだそうです」

 

「何で」

 

「自分が悪いことにすれば」

 

「他の方が」

 

「憎まれなくて済むと」

 

「思っているのだと思います」

 

「馬鹿だな」

 

「ええ」

 

柳琳は。

 

迷わず答えた。

 

馬超が。

 

僅かに目を見開く。

 

「否定しないのか」

 

「しません」

 

柳琳は。

 

穏やかに笑う。

 

「時雨は」

 

「とても賢い方です」

 

「でも」

 

「自分のことになると」

 

「驚くほど馬鹿です」

 

「……そうか」

 

馬超は。

 

少しだけ。

 

納得した。

 

「だから」

 

柳琳は続ける。

 

「皆で見ています」

 

「一人で」

 

「悪い人にならないように」

 

「魏軍の将は」

 

「暇なのか」

 

「忙しいですよ」

 

「ですが」

 

柳琳は。

 

時雨がいる方向を見る。

 

「必要なことです」

 

馬超も。

 

同じ方を見る。

 

時雨は。

 

今度は。

 

栄華に。

 

何か叱られている。

 

「勝手に」

 

「補償対象を増やさないでくださいませ!」

 

「必要だ」

 

「必要かどうかを」

 

「調査してから決めるのです!」

 

「家畜が死んだ」

 

「では」

 

「死んだ理由を」

 

「確認なさいませ!」

 

「水がなかったからだ」

 

「本当に?」

 

栄華は。

 

帳簿を開く。

 

「その家畜は」

 

「戦の前から病気だったと」

 

「村人自身が申告しています」

 

時雨が黙る。

 

「何でも」

 

「魏軍の責任にしないでくださいませ」

 

「違うのか」

 

「違うものは違います」

 

「ですが」

 

「病気の家畜が死んだことで」

 

「耕作へ支障が出るのも事実」

 

「だから」

 

「全額補償ではなく」

 

「新しい家畜を購入するための」

 

「低利の貸付と」

 

「餌の支給を行います」

 

「金を取るのか」

 

「返済は」

 

「収穫が戻ってから」

 

「三年後より」

 

「無理なら延長」

 

「その方が」

 

「他の村との公平を保てます」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「分かった」

 

「最初から」

 

「聞いてくださいませ」

 

栄華は。

 

怒りながらも。

 

時雨の案を。

 

完全には捨てない。

 

現実的な形へ。

 

変える。

 

馬超は。

 

そのやり取りを見ていた。

 

時雨が。

 

すべてを決めているのではない。

 

反対される。

 

止められる。

 

訂正される。

 

それでも。

 

総大将として。

 

皆の意見を聞く。

 

馬超が。

 

想像していた。

 

曹操の軍とは違う。

 

一つの命令へ。

 

全てが黙って従う。

 

そんな軍ではなかった。

 

「変な軍だ」

 

馬超が呟く。

 

柳琳が。

 

僅かに笑う。

 

「そうかもしれません」

 

「でも」

 

「私は好きです」

 

馬超は。

 

答えなかった。

 

まだ。

 

好きとは。

 

言えない。

 

だが。

 

嫌いだと。

 

迷わず言えるほどでもなくなっていた。

 

それが。

 

さらに。

 

腹立たしい。

 

---

 

涼州の戦後処理が。

 

最低限の形を整えた後。

 

魏軍は。

 

東へ向けて出発した。

 

馬騰。

 

馬超。

 

残った側近たちも。

 

共に許昌へ向かう。

 

捕虜として。

 

縄で繋がれてはいない。

 

馬も。

 

武器を除けば。

 

取り上げられていない。

 

馬騰は。

 

魏軍の監視下。

 

馬超も。

 

自由に隊を離れることはできない。

 

だが。

 

待遇は。

 

客将に近い。

 

春蘭は。

 

不満を示した。

 

「甘すぎる」

 

時雨が。

 

馬上から見る。

 

「何が」

 

「馬超に」

 

「武器を持たせている」

 

「槍は預かってる」

 

「短剣がある」

 

「食事用だ」

 

「殺そうと思えば」

 

「人は箸でも殺せる!」

 

「春蘭ならな」

 

「私の話ではない!」

 

馬超は。

 

少し前を。

 

白馬で進んでいる。

 

腰には。

 

小さな短剣。

 

確かに。

 

戦闘用にも使える。

 

だが。

 

時雨は。

 

取り上げなかった。

 

「馬超は」

 

時雨が言う。

 

「逃げない」

 

「なぜ分かる」

 

「馬騰がいる」

 

「母を置いて逃げない」

 

「なら」

 

春蘭は。

 

僅かに声を落とす。

 

「馬騰を連れて逃げるかもしれん」

 

「やらない」

 

「なぜだ」

 

「逃げれば」

 

「涼州の約束が消える」

 

「馬超は」

 

「自分の土地を危険にしない」

 

春蘭は。

 

馬超を見る。

 

あの若い女。

 

強い。

 

真っ直ぐ。

 

兵を見捨てない。

 

その性格を。

 

時雨は。

 

信用している。

 

敵だった者。

 

自分を殺すと叫んだ者。

 

それでも。

 

相手の意志を信じる。

 

春蘭には。

 

少し理解しにくい。

 

「お前は」

 

「人を信用しすぎではないか」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「俺が?」

 

「ああ」

 

「曹操には」

 

「逆を言われた」

 

「何と」

 

「人を信用しないと」

 

春蘭は。

 

少し考える。

 

「どちらだ」

 

「分からない」

 

時雨は答える。

 

「人が」

 

「何を選ぶかは信用してない」

 

「でも」

 

「何を捨てられないかは」

 

「信用してる」

 

春蘭は。

 

さらに分からない顔をする。

 

秋蘭が。

 

隣から口を挟む。

 

「時雨は」

 

「善意を信用しているのではない」

 

「ああ」

 

「相手の執着を」

 

「信用している」

 

「ああ」

 

「馬超は」

 

「母と涼州を捨てない」

 

「だから逃げない」

 

「そうだ」

 

春蘭は。

 

納得したような。

 

していないような顔。

 

「やはり」

 

「性格が悪いな」

 

「ああ」

 

「なぜ」

 

「素直に認める!」

 

「霞にも言われた」

 

「私が先に気づいた!」

 

「張り合うな」

 

「張り合っていない!」

 

前方。

 

馬超が。

 

振り返る。

 

「うるさい!」

 

春蘭が。

 

即座に怒鳴り返す。

 

「貴様に言われたくない!」

 

「朝から」

 

「ずっと叫んでいるだろう!」

 

「私は」

 

「時雨へ注意している!」

 

「聞いてないぞ!」

 

「聞いている!」

 

「聞いていない!」

 

「何だと!」

 

二人の声が。

 

街道へ響く。

 

霞が。

 

馬超へ馬を寄せる。

 

「似とるやろ」

 

「似てない!」

 

「息ぴったりやで」

 

「どこがだ!」

 

「ほら」

 

「同時に怒鳴った」

 

「張遼!」

 

馬超の手が。

 

腰の短剣へ向く。

 

霞が。

 

大げさに手を上げる。

 

「怖い怖い」

 

「許昌着いたら」

 

「槍返してもろて」

 

「正式に試合しよな」

 

「誰がお前と!」

 

「やらへんの?」

 

「やる!」

 

「どっちやねん」

 

馬超が。

 

顔を赤くする。

 

少し離れた場所。

 

馬騰が。

 

娘の姿を見ていた。

 

負けた。

 

国を失った。

 

許昌へ。

 

曹操の前へ連れていかれる。

 

それでも。

 

娘は。

 

声を出している。

 

怒っている。

 

張遼と。

 

夏侯惇へ言い返している。

 

生きている。

 

馬騰は。

 

小さく。

 

息を吐いた。

 

「どうした」

 

隣。

 

時雨が。

 

いつの間にか。

 

馬を寄せていた。

 

馬騰は。

 

少し驚く。

 

「何でもない」

 

「そうか」

 

「お前は」

 

馬騰が。

 

前を見る。

 

「いつも」

 

「人の顔を見ているのか」

 

「ああ」

 

「嫌な男だ」

 

「ああ」

 

「否定せんのか」

 

「同じことを」

 

「何度も言われた」

 

馬騰は。

 

僅かに笑った。

 

「時雨」

 

初めて。

 

馬騰が。

 

張燕ではなく。

 

真名を呼んだ。

 

時雨の目が。

 

僅かに動く。

 

「何だ」

 

「私の真名は」

 

「まだ預けん」

 

「ああ」

 

「曹操へも」

 

「馬超も」

 

「そうだろう」

 

「翠の真名を」

 

馬騰は。

 

少し声を低くする。

 

「本人の許可なく呼ぶな」

 

「ああ」

 

「この前」

 

「私が呼んだのを聞いていたな」

 

「ああ」

 

「絶対に呼ぶな」

 

「ああ」

 

「……本当に」

 

「分かっているのか」

 

「分かってる」

 

「ならよい」

 

馬騰は。

 

少しだけ。

 

肩の力を抜いた。

 

「なぜ」

 

時雨が尋ねる。

 

「何が」

 

「真名」

 

「俺へは」

 

「呼んだ」

 

馬騰は。

 

しばらく。

 

答えなかった。

 

「お前は」

 

「私から」

 

「国を奪った」

 

「ああ」

 

「同時に」

 

「娘を生かした」

 

「ああ」

 

「好きではない」

 

「ああ」

 

「信用も」

 

「まだしていない」

 

「ああ」

 

「だが」

 

馬騰は。

 

時雨を見る。

 

「お前が」

 

「自分の意志で」

 

「私と話したことだけは」

 

「信じる」

 

「だからだ」

 

時雨は。

 

短く頷いた。

 

「分かった」

 

それ以上。

 

何も言わない。

 

礼も。

 

感謝も。

 

言わない。

 

馬騰には。

 

それが。

 

かえって楽だった。

 

---

 

許昌へ近づくにつれ。

 

道沿いに。

 

人が増えた。

 

魏軍の勝利。

 

涼州平定。

 

その報せは。

 

すでに。

 

都へ届いている。

 

村人。

 

商人。

 

子供。

 

老人。

 

街道沿いへ並び。

 

魏軍を迎える。

 

旗。

 

花。

 

食料。

 

水。

 

戦から戻る兵へ。

 

声をかける。

 

「お帰りなさい!」

 

「魏軍万歳!」

 

「華琳様万歳!」

 

「涼州平定、おめでとうございます!」

 

春蘭は。

 

胸を張る。

 

「聞いたか!」

 

「華琳様を讃えている!」

 

「ああ」

 

時雨は。

 

少しだけ。

 

馬の位置を。

 

列の内側へ移す。

 

目立たない場所。

 

総大将旗から。

 

離れようとする。

 

華論が。

 

すぐに気づく。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「どこ行くっすか」

 

「後ろ」

 

「駄目っす」

 

「なぜ」

 

「総大将なんだから」

 

「先頭っす」

 

「春蘭がいる」

 

「春蘭様は」

 

「先鋒の将っす」

 

「霞も」

 

「客将っす」

 

「馬超」

 

「降伏した側っす!」

 

「秋蘭」

 

「諦めろ」

 

秋蘭が。

 

静かに言った。

 

「今日だけは」

 

「前へ出ろ」

 

「嫌だ」

 

「華琳様が」

 

春蘭が。

 

強く言う。

 

「許昌の城門で」

 

「お待ちだ!」

 

時雨の動きが止まる。

 

「曹操が?」

 

「ああ!」

 

「凱旋する総大将を」

 

「自ら迎えると」

 

「おっしゃった!」

 

「聞いてない」

 

「言えば」

 

春蘭は。

 

少し得意そうに。

 

時雨を見る。

 

「逃げるからだ!」

 

「逃げない」

 

「今」

 

「後ろへ行こうとしただろう!」

 

「場所を変えるだけだ」

 

「それを逃げると言う!」

 

霞が。

 

馬超へ小声で言う。

 

「見とき」

 

「時雨」

 

「華琳様見えたら」

 

「もっと逃げようとするで」

 

「なぜだ」

 

馬超が尋ねる。

 

「怒られるからや」

 

「勝ったのに?」

 

「勝ったからや」

 

「意味が分からない」

 

「うちも最初は」

 

「分からんかった」

 

霞は。

 

楽しそうに笑う。

 

「でも」

 

「おもろいで」

 

時雨が。

 

振り返る。

 

「聞こえてる」

 

「聞かせとる」

 

「霞」

 

「何や」

 

「後で訓練」

 

「何でや!」

 

「暇そうだから」

 

「客将酷使すんな!」

 

馬超は。

 

二人を見る。

 

本当に。

 

総大将と客将なのか。

 

黒山の王。

 

流浪の飛将。

 

そう聞いていた二人とは。

 

少し違う。

 

だが。

 

その軽いやり取りの奥に。

 

長い信頼があることは。

 

馬超にも分かった。

 

許昌の城壁が。

 

見えてくる。

 

巨大。

 

高い。

 

涼州の砦とは違う。

 

多くの人。

 

物。

 

富。

 

魏の中心。

 

城門の前。

 

兵と民。

 

道の左右へ並ぶ。

 

その中央。

 

黄金の髪。

 

蒼い瞳。

 

曹操が立っていた。

 

後ろには。

 

桂花。

 

風。

 

季衣。

 

流琉。

 

ほか。

 

許昌へ残っていた将や文官。

 

曹操は。

 

王宮ではなく。

 

城門の外で。

 

遠征軍を待っていた。

 

時雨の姿を。

 

見つける。

 

その目が。

 

僅かに細くなる。

 

時雨は。

 

思わず。

 

馬の速度を落とした。

 

春蘭が。

 

後ろから。

 

時雨の馬の尻へ。

 

自分の馬を寄せる。

 

「進め」

 

「近い」

 

「逃がさん」

 

「逃げない」

 

「なら進め!」

 

時雨の馬が。

 

前へ押される。

 

「春蘭」

 

「何だ」

 

「覚えてろ」

 

「華琳様の御前で」

 

「脅すな!」

 

曹操の前。

 

魏軍が止まる。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

霞。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

一斉に。

 

馬を降りる。

 

膝をつく。

 

「華琳様!」

 

春蘭が。

 

力強く声を上げる。

 

「涼州征討軍」

 

「ただいま帰還いたしました!」

 

曹操は。

 

春蘭たちを見る。

 

次に。

 

時雨を見る。

 

時雨は。

 

馬から降りている。

 

だが。

 

膝はつかない。

 

いつも通り。

 

曹操を。

 

真っ直ぐ見ている。

 

「帰った」

 

時雨が言う。

 

周囲の文官。

 

民。

 

馬騰。

 

馬超。

 

多くの視線が。

 

二人へ集まる。

 

曹操は。

 

しばらく。

 

何も言わなかった。

 

その沈黙だけで。

 

時雨は。

 

怒っていると分かった。

 

だが。

 

今は。

 

公の場。

 

魏王として。

 

曹操は。

 

感情を。

 

表へ出さない。

 

「ええ」

 

曹操は。

 

静かに答える。

 

「お帰りなさい」

 

その声へ。

 

時雨の目が。

 

僅かに動く。

 

馬騰の時と違う。

 

曹操の。

 

お帰りなさい。

 

帰る場所へ。

 

戻った者へ向ける言葉。

 

「ただいま」

 

時雨が答えた。

 

曹操の瞳へ。

 

ほんの僅かに。

 

柔らかな色が浮かぶ。

 

だが。

 

すぐに。

 

王の顔へ戻る。

 

「涼州征討軍総大将」

 

「張燕」

 

「ああ」

 

「返事は」

 

「はい、と言いなさい!」

 

桂花が。

 

曹操の後ろから叫ぶ。

 

時雨が。

 

桂花を見る。

 

「桂花」

 

「何よ!」

 

「元気そうだな」

 

「誰のせいで!」

 

桂花の顔が。

 

赤くなる。

 

「あなたが」

 

「華琳様へ」

 

「毎日のように」

 

「心配を!」

 

「桂花」

 

曹操が。

 

短く呼ぶ。

 

桂花は。

 

口を閉じる。

 

それでも。

 

時雨を。

 

強く睨んでいる。

 

曹操は。

 

改めて。

 

時雨を見る。

 

「涼州征討軍総大将」

 

「張燕」

 

「はい」

 

少し遅れて。

 

時雨が答える。

 

曹操の眉が。

 

僅かに動く。

 

「よろしい」

 

「あなたは」

 

「馬騰軍を降伏させ」

 

「涼州を」

 

「魏の支配下へ置いた」

 

「我が軍の損害は」

 

「当初の想定を」

 

「大きく下回る」

 

「敵軍と民の損害も」

 

「最小限へ抑えた」

 

「この功績」

 

「魏王曹操の名において」

 

「高く評価する」

 

周囲から。

 

歓声が上がる。

 

魏軍の兵。

 

許昌の民。

 

「華琳様万歳!」

 

「魏軍万歳!」

 

「張燕将軍万歳!」

 

時雨の顔が。

 

僅かに曇る。

 

万歳。

 

名を呼ばれる。

 

旗。

 

歓声。

 

苦手。

 

曹操は。

 

その顔を見て。

 

ほんの僅かに。

 

口元を上げた。

 

「時雨」

 

公の場。

 

それでも。

 

曹操は。

 

真名を呼ぶ。

 

「前へ」

 

「ここでいい」

 

「前へ」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

周囲。

 

逃げ道はない。

 

春蘭。

 

霞。

 

華論。

 

全員。

 

後ろで。

 

見張っている。

 

時雨は。

 

曹操の前へ進む。

 

近い。

 

曹操は。

 

一歩。

 

時雨へ寄る。

 

「頭を下げなさい」

 

「なぜ」

 

「褒賞を与えるのよ」

 

「いらない」

 

「公の場で」

 

「拒むつもり?」

 

時雨は。

 

周囲を見る。

 

民。

 

兵。

 

馬騰。

 

馬超。

 

ここで。

 

曹操へ逆らえば。

 

魏王の威信に関わる。

 

「……分かった」

 

時雨は。

 

僅かに頭を下げた。

 

曹操は。

 

自ら。

 

黒い外套を。

 

時雨の肩へかけた。

 

魏の紋。

 

銀の刺繍。

 

総大将の功績を。

 

認める証。

 

「張燕」

 

曹操が言う。

 

「あなたへ」

 

「涼州平定の第一功を認める」

 

「官位」

 

「領地」

 

「金」

 

「望むものを」

 

「一つ与えましょう」

 

時雨は。

 

顔を上げる。

 

「いらない」

 

広場が。

 

再び静まる。

 

桂花の額へ。

 

青筋が浮かぶ。

 

「時雨!」

 

曹操の声にも。

 

僅かな怒り。

 

「一つ」

 

「選びなさい」

 

「必要ない」

 

「選びなさい」

 

拒めない声。

 

時雨は。

 

少し考える。

 

官位。

 

いらない。

 

領地。

 

いらない。

 

金。

 

使い方が分からない。

 

だが。

 

何か。

 

選ばなければ。

 

曹操は。

 

引かない。

 

「涼州に」

 

時雨が言う。

 

曹操の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「何?」

 

「今回」

 

「食料を失った村がある」

 

「馬も」

 

「家畜も」

 

「道も」

 

「まだ戻ってない」

 

「褒美の分を」

 

「そっちへ回せ」

 

曹操は。

 

時雨を見つめる。

 

予想していた。

 

この男なら。

 

そう言う。

 

自分のために。

 

何かを求めない。

 

褒美すら。

 

他人へ渡す。

 

以前なら。

 

曹操は。

 

それを。

 

美徳として。

 

半分は認めたかもしれない。

 

だが。

 

今は違う。

 

「却下よ」

 

時雨の眉が。

 

動く。

 

「なぜ」

 

「涼州の復旧費は」

 

「魏が別に支払う」

 

「あなたの褒美ではないわ」

 

「同じ金だ」

 

「違う」

 

曹操は。

 

はっきり言う。

 

「国の責任で払う金と」

 

「あなたの功績へ与える褒美は」

 

「別のものよ」

 

「でも」

 

「選びなさい」

 

時雨は。

 

黙る。

 

栄華が。

 

後ろで。

 

小さく頷いている。

 

曹操の言葉へ。

 

完全に同意。

 

柳琳も。

 

時雨を見る。

 

自分のために。

 

受け取れ。

 

そういう目。

 

「なら」

 

時雨は。

 

再び考える。

 

欲しいもの。

 

ない。

 

いや。

 

一つ。

 

「休み」

 

曹操が。

 

僅かに目を見開く。

 

「何ですって?」

 

「三日」

 

「書類も」

 

「軍議もなし」

 

「寝る」

 

周囲が。

 

静まり返る。

 

次に。

 

風が。

 

柔らかな声で言った。

 

「おお」

 

「時雨さんが」

 

「自分から休みを求めましたよー」

 

稟も。

 

驚いている。

 

桂花は。

 

口を開けたまま。

 

言葉が出ない。

 

春蘭が。

 

感動したように。

 

時雨を見る。

 

「成長したな!」

 

「子供扱いするな」

 

「いや」

 

「これは褒めるべきだ!」

 

華論が。

 

強く頷く。

 

「本当っす!」

 

「三日じゃなく」

 

「七日にするっす!」

 

「増やすな」

 

柳琳は。

 

穏やかに笑う。

 

「五日では?」

 

「三日」

 

「六日」

 

「なぜ増える」

 

曹操は。

 

しばらく。

 

時雨を見ていた。

 

そして。

 

ゆっくり。

 

笑みを浮かべる。

 

「よいでしょう」

 

「三日間」

 

「公務を免除する」

 

「ただし」

 

「条件がある」

 

時雨の顔が。

 

僅かに曇る。

 

「何だ」

 

「三日間」

 

「私の許可なく」

 

「王宮の外へ出ないこと」

 

「なぜ」

 

「休ませるためよ」

 

「王宮だと」

 

「休めない」

 

「どうして?」

 

「曹操がいる」

 

曹操の笑みが。

 

深くなる。

 

「なおさら」

 

「よく休めるでしょう?」

 

「逆だ」

 

「決定よ」

 

「褒美になってない」

 

「あなたが」

 

「望みを正しく使えないからよ」

 

周囲。

 

笑いを堪える者。

 

堪えられない者。

 

霞は。

 

完全に笑っている。

 

「やっぱり」

 

「怒られとるやん!」

 

「まだ怒られてない」

 

時雨が言う。

 

曹操は。

 

蒼い瞳を。

 

時雨へ向ける。

 

「そうね」

 

声。

 

柔らかい。

 

だからこそ。

 

時雨の背へ。

 

嫌な予感が走る。

 

「まだよ」

 

時雨が。

 

少しだけ。

 

目を逸らした。

 

---

 

曹操は。

 

次に。

 

馬騰と馬超の前へ進んだ。

 

時雨への褒賞。

 

凱旋軍への言葉。

 

それを終え。

 

ここから。

 

魏王と。

 

降伏した涼州の主との対面。

 

馬騰は。

 

曹操を見る。

 

黄金の髪。

 

蒼い瞳。

 

小柄。

 

だが。

 

存在感は。

 

誰より大きい。

 

書状。

 

使者。

 

時雨の言葉。

 

何度も。

 

曹操の意志へ触れてきた。

 

だが。

 

直接会うのは。

 

これが初めて。

 

馬騰は。

 

ゆっくり膝をつく。

 

馬超も。

 

隣で。

 

歯を食いしばりながら。

 

同じように膝をついた。

 

「馬騰」

 

曹操が呼ぶ。

 

「はい」

 

「あなたの降伏」

 

「正式に受け入れます」

 

「涼州の統治権は」

 

「魏が預かる」

 

「あなたと一族の命」

 

「武器を置いた兵の命」

 

「そして」

 

「魏軍へ攻撃しないと誓った」

 

「各豪族の領地と地位」

 

「書状で示した通り」

 

「保証しましょう」

 

「感謝します」

 

馬騰は。

 

深く頭を下げた。

 

曹操は。

 

次に。

 

馬超を見る。

 

「錦馬超」

 

馬超の肩が。

 

僅かに動く。

 

「はい」

 

「顔を上げなさい」

 

馬超は。

 

ゆっくり。

 

曹操を見る。

 

敵国の王。

 

母を降伏させた女。

 

張燕を。

 

総大将へ任命した女。

 

この戦の。

 

最も上にいた者。

 

「私を」

 

曹操が尋ねる。

 

「恨んでいる?」

 

周囲が。

 

静まる。

 

馬超は。

 

正直に答えるか。

 

迷った。

 

だが。

 

時雨は。

 

直接確かめろと言った。

 

反対があるなら。

 

言え。

 

それが。

 

本当に許されるのか。

 

最初の機会。

 

「はい」

 

馬超は答えた。

 

春蘭の眉が。

 

大きく動く。

 

「貴様!」

 

「春蘭」

 

曹操が止める。

 

「黙っていなさい」

 

「ですが、華琳様!」

 

「よいのよ」

 

曹操は。

 

馬超から目を離さない。

 

「何を恨んでいるの」

 

「涼州へ」

 

馬超は。

 

拳を膝の上で握る。

 

「兵を向けたこと」

 

「母様へ」

 

「降伏を迫ったこと」

 

「張燕に」

 

「あのような策を使わせたこと」

 

「最後は」

 

曹操が。

 

僅かに目を細くする。

 

「違うわ」

 

馬超の眉が寄る。

 

「何がです」

 

「時雨へ」

 

「あの策を使わせたのではない」

 

曹操は。

 

静かに答える。

 

「考えたのは時雨」

 

「私が許可した」

 

「魏軍の将たちも」

 

「自分の意志で加わった」

 

「責任は」

 

「それぞれにある」

 

「私一人でも」

 

「時雨一人でもない」

 

「なら」

 

馬超は。

 

強く言う。

 

「曹操も」

 

「外道な策だと」

 

「分かっていて認めたのですか」

 

「ああ」

 

曹操は。

 

迷わなかった。

 

「認めたわ」

 

馬超の目が。

 

僅かに揺れる。

 

「民が」

 

「水を失うと分かっていて?」

 

「代わりの水を用意すること」

 

「戦後に必ず戻すこと」

 

「毒を使わないこと」

 

「退く道を」

 

「先に示すこと」

 

「それを条件に」

 

「認めた」

 

「なぜ」

 

「正面から戦うより」

 

曹操の声が。

 

僅かに低くなる。

 

「死者が少ないと判断したからよ」

 

時雨と。

 

同じ答え。

 

「それでも」

 

馬超は。

 

食い下がる。

 

「涼州の兵は」

 

「誇りを傷つけられました」

 

「ええ」

 

「仲間同士で」

 

「疑うことになった」

 

「ええ」

 

「母様も」

 

「苦しんだ!」

 

「ええ」

 

曹操は。

 

全て。

 

受け止める。

 

逃げない。

 

否定しない。

 

「なら!」

 

馬超の声が。

 

城門前へ響く。

 

「なぜ」

 

「そんな平気な顔ができる!」

 

時雨の目が。

 

僅かに曹操へ向く。

 

馬超が。

 

時雨へ。

 

何度も投げた問い。

 

何も感じないのか。

 

平気なのか。

 

曹操は。

 

しばらく。

 

馬超を見る。

 

「平気ではないわ」

 

静かな声。

 

馬超が。

 

僅かに目を見開く。

 

「私は」

 

曹操は続ける。

 

「魏の王よ」

 

「自分の判断で」

 

「人が死ぬ」

 

「傷つく」

 

「国がなくなる」

 

「平気でなければ」

 

「王になれないと言う者もいるでしょう」

 

「でも」

 

「私は」

 

「平気になりたいとは思わない」

 

「痛みが分からなくなれば」

 

「より簡単に」

 

「人を捨てるから」

 

馬超は。

 

曹操を見る。

 

想像していた。

 

冷酷な覇王。

 

天下のため。

 

何でも切り捨てる女。

 

確かに。

 

曹操は。

 

必要なら。

 

非道な策も認める。

 

だが。

 

それを。

 

何も感じずに選ぶわけではない。

 

「ただし」

 

曹操の目が。

 

鋭くなる。

 

「痛いからといって」

 

「決断を他人へ押しつけるつもりもない」

 

「涼州を攻めると決めたのは私」

 

「時雨を総大将にしたのも私」

 

「策を認めたのも私」

 

「だから」

 

「あなたが恨むなら」

 

「私も恨みなさい」

 

馬超は。

 

言葉を失う。

 

時雨と同じ。

 

いや。

 

時雨が。

 

曹操に似たのか。

 

曹操が。

 

時雨を選んだのか。

 

責任から。

 

逃げない。

 

憎まれることを。

 

避けない。

 

ただ。

 

時雨は。

 

自分一人へ。

 

集めようとする。

 

曹操は。

 

それを。

 

皆で持てと言う。

 

「馬超」

 

曹操が。

 

改めて呼ぶ。

 

「何です」

 

「あなたは」

 

「私を」

 

「華琳と呼ぶ必要はない」

 

馬超の目が。

 

僅かに動く。

 

真名。

 

魏軍の将たちは。

 

華琳様と呼ぶ。

 

だが。

 

馬超は。

 

曹操。

 

そう呼んでいる。

 

「真名は」

 

曹操が続ける。

 

「信頼を預ける名」

 

「今のあなたが」

 

「私を信頼していないことは分かっている」

 

「無理に呼ばせても」

 

「意味はないわ」

 

馬超は。

 

少しだけ。

 

曹操への見方を変えた。

 

服従を求める。

 

頭を下げさせる。

 

真名まで。

 

奪う。

 

そう思っていた。

 

だが。

 

曹操は。

 

呼ぶなと言う。

 

信頼していないなら。

 

真名を使うな。

 

その線を。

 

自分から引いた。

 

「では」

 

馬超が言う。

 

「曹操」

 

春蘭の肩が。

 

大きく動く。

 

だが。

 

曹操が。

 

先に頷く。

 

「ええ」

 

「それでよいわ」

 

「私は」

 

馬超は。

 

真っ直ぐ言う。

 

「まだ」

 

「曹操へ忠誠を誓いません」

 

「構わない」

 

「涼州の民を」

 

「苦しめるなら」

 

「反対します」

 

「そうしなさい」

 

「母様を」

 

「不当に扱うなら」

 

「許しません」

 

「ええ」

 

「張燕が」

 

「また外道な策を使うなら」

 

時雨が。

 

僅かに馬超を見る。

 

「私が止めます!」

 

「それは」

 

曹操は。

 

少しだけ笑った。

 

「期待しているわ」

 

時雨の眉が動く。

 

「曹操」

 

「何?」

 

「増やすな」

 

「何を」

 

「俺を止める奴」

 

「必要でしょう?」

 

「もういる」

 

「多い方がよいわ」

 

「面倒だ」

 

馬超が。

 

時雨を睨む。

 

「私は」

 

「お前のために止めるんじゃない!」

 

「ああ」

 

「涼州のためだ!」

 

「ああ」

 

「分かっているのか!」

 

「ああ」

 

「その返事が腹立つ!」

 

曹操の口元へ。

 

僅かな笑み。

 

「気が合いそうね」

 

「誰とです!」

 

馬超が尋ねる。

 

曹操は。

 

春蘭を見る。

 

馬超も。

 

同じ方向を見る。

 

春蘭が。

 

何も理解せず。

 

胸を張っている。

 

「何です、華琳様!」

 

馬超の顔が。

 

引きつる。

 

「似ていません!」

 

「何の話だ!」

 

「お前には関係ない!」

 

「何だと!」

 

霞の笑い声が。

 

城門前へ響いた。

 

---

 

凱旋の式が終わると。

 

馬騰と馬超は。

 

王宮の客室へ案内された。

 

牢ではない。

 

だが。

 

護衛はつく。

 

馬騰は。

 

翌日から。

 

涼州の統治について。

 

曹操。

 

桂花。

 

稟。

 

栄華らと。

 

話し合う予定。

 

馬超は。

 

当面。

 

軍籍を持たない。

 

客将でもない。

 

降伏した将。

 

だが。

 

涼州騎兵の解散。

 

帰還。

 

軍馬の管理について。

 

協力を求められている。

 

一方。

 

時雨は。

 

曹操の命令通り。

 

王宮から出ることを禁じられた。

 

褒賞として。

 

三日の休み。

 

そのはずだった。

 

だが。

 

凱旋式が終わった直後。

 

曹操の私室へ。

 

連行された。

 

自分の足で歩いている。

 

だが。

 

前に春蘭。

 

後ろに秋蘭。

 

左右に。

 

霞と桂花。

 

逃げ道を。

 

完全に塞がれている。

 

「大げさだ」

 

時雨が言う。

 

「貴様が」

 

春蘭が答える。

 

「逃げるからだ!」

 

「逃げない」

 

「先ほど」

 

「厩へ向かおうとしたでしょう」

 

桂花が。

 

冷たい声で言う。

 

「馬を見に行くだけだ」

 

「王宮から出るつもりだったわね!」

 

「少し」

 

「それを逃げると言うのよ!」

 

霞が。

 

後ろから笑う。

 

「諦め」

 

「うちも」

 

「華琳様に」

 

「絶対逃がすな言われとる」

 

「客将だろ」

 

「今は」

 

「もう違うで」

 

時雨が。

 

僅かに振り返る。

 

「何?」

 

霞は。

 

懐から。

 

一枚の木札を出す。

 

正式な将符。

 

魏軍のもの。

 

「さっき」

 

「正式に任命された」

 

「聞いてない」

 

「言うてへんからな」

 

「なぜ」

 

「驚かせよう思て」

 

「驚いてない」

 

「ちょっと目動いたで」

 

「気のせいだ」

 

「お前も馬超と同じこと言うなあ」

 

「誰があいつと同じだ」

 

「ほら」

 

「似とる」

 

桂花が。

 

苛立った声を出す。

 

「廊下で騒がないで!」

 

「霞!」

 

「あなたは」

 

「正式な魏将になったなら」

 

「少しは礼儀を覚えなさい!」

 

「桂花」

 

「何や」

 

「真名呼びでええんか」

 

桂花の顔が。

 

一瞬。

 

固まる。

 

霞は。

 

悪意なく。

 

真名を呼んだ。

 

時雨から。

 

魏軍の主な将たちの名を。

 

聞いていた。

 

「なっ」

 

桂花の顔が。

 

真っ赤になる。

 

「誰が!」

 

「あなたに!」

 

「真名を呼ぶ許可を!」

 

「時雨が呼んどるから」

 

「ええんか思った」

 

「時雨は特別なのよ!」

 

廊下が。

 

静まる。

 

桂花自身も。

 

何を言ったか気づく。

 

時雨。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

霞。

 

全員が。

 

桂花を見る。

 

「何よ!」

 

桂花が叫ぶ。

 

「何も」

 

時雨が答える。

 

「見るな!」

 

「見てない」

 

「見てるでしょう!」

 

霞が。

 

面白そうに笑う。

 

「桂花」

 

「うちの真名は霞や」

 

「預けたるから」

 

「うちも呼んでええ?」

 

「いらないわよ!」

 

「でも」

 

「魏の仲間やろ」

 

桂花が。

 

言葉を止める。

 

霞は。

 

笑っている。

 

ふざけているように見える。

 

だが。

 

真名を預ける。

 

その言葉だけは。

 

軽くない。

 

流浪していた将が。

 

魏へ。

 

正式に加わる。

 

仲間として。

 

桂花へ。

 

一歩近づこうとしている。

 

桂花は。

 

しばらく。

 

霞を睨んだ。

 

「……勝手にしなさい」

 

「ほんなら」

 

「桂花」

 

「調子に乗るな!」

 

「難しい奴やなあ」

 

「あなたに言われたくないわ!」

 

時雨が。

 

小さく息を吐く。

 

「進んでいいか」

 

「誰のせいで止まったと思っているの!」

 

「霞」

 

「何でうちや!」

 

騒ぎながら。

 

一行は。

 

曹操の私室へ着いた。

 

扉が開く。

 

曹操は。

 

一人で待っていた。

 

机。

 

地図。

 

時雨から届いた。

 

戦の報告書。

 

全て。

 

綺麗に並べられている。

 

「全員」

 

曹操が言う。

 

「ご苦労様」

 

「時雨を置いて」

 

「下がりなさい」

 

春蘭が。

 

心配そうに。

 

時雨を見る。

 

「華琳様」

 

「何?」

 

「必要であれば」

 

「私も」

 

「一緒に叱られます!」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

曹操は。

 

少しだけ。

 

春蘭へ笑みを向ける。

 

「必要ないわ」

 

「でも」

 

「私が」

 

「時雨と話すの」

 

「二人で」

 

春蘭は。

 

僅かに頬を赤くする。

 

「御意!」

 

何を想像したのか。

 

急に。

 

素直に下がる。

 

秋蘭は。

 

姉の背を押す。

 

桂花も。

 

時雨を。

 

最後に一度睨み。

 

部屋を出る。

 

霞は。

 

時雨の肩を叩く。

 

「生きて帰れよ」

 

「戦場じゃない」

 

「戦場より」

 

「危ないやろ」

 

「霞」

 

曹操が。

 

笑顔で呼ぶ。

 

「はい、華琳様」

 

正式に。

 

魏将となった霞。

 

初めて。

 

自然に。

 

華琳様と呼ぶ。

 

「早く出なさい」

 

「御意!」

 

霞は。

 

すぐに扉の外へ逃げた。

 

扉が閉まる。

 

部屋。

 

二人。

 

曹操。

 

時雨。

 

沈黙。

 

時雨は。

 

立っている。

 

曹操は。

 

椅子へ座っている。

 

机の上。

 

報告書。

 

水場の策。

 

食料の策。

 

捕虜解放。

 

偽の補給隊。

 

豪族軍解体。

 

全て。

 

時雨自身の文字と。

 

稟たちの記録で。

 

残されている。

 

「座りなさい」

 

曹操が言う。

 

時雨は。

 

椅子へ座る。

 

向かい。

 

曹操は。

 

書類を一枚取る。

 

「涼州征討」

 

「総大将としての報告を」

 

「改めて聞くわ」

 

「もう書いた」

 

「あなたの口から」

 

時雨は。

 

小さく息を吐く。

 

「馬騰は降った」

 

「知っているわ」

 

「涼州軍は解散」

 

「それも」

 

「豪族は」

 

「魏へ敵対しない条件で」

 

「領地へ戻した」

 

「ええ」

 

「水場は」

 

「ほとんど復旧」

 

「食料の補償も」

 

「栄華が進めてる」

 

「ええ」

 

「終わり」

 

曹操の眉が。

 

僅かに上がる。

 

「まだあるでしょう」

 

「何が」

 

「あなたのことよ」

 

時雨は。

 

黙る。

 

「怪我は」

 

「治った」

 

「睡眠は」

 

「取った」

 

「何刻」

 

「日による」

 

「最低は」

 

時雨が。

 

僅かに目を逸らす。

 

「時雨」

 

「一刻」

 

曹操の瞳が。

 

冷たくなる。

 

「何日」

 

「三日」

 

「連続?」

 

「ああ」

 

「食事は」

 

「食った」

 

「何を」

 

「干し肉」

 

「他には」

 

「水」

 

曹操が。

 

ゆっくり。

 

書類を机へ置く。

 

「あなた」

 

「何を約束したか」

 

「覚えている?」

 

「ああ」

 

「黙って行かない」

 

「それも」

 

「怪我を隠さない」

 

「それも」

 

「私が待つことを」

 

「考える」

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

「考えた」

 

「どこが?」

 

「毎日」

 

「報告を送った」

 

「ええ」

 

「策も」

 

「先に許可を取った」

 

「ええ」

 

「怪我も」

 

「柳琳に見せた」

 

「ええ」

 

「帰った」

 

「ああ」

 

「なら」

 

「問題ない」

 

曹操は。

 

時雨を見つめる。

 

蒼い瞳。

 

怒っている。

 

だが。

 

以前。

 

無断で馬騰へ会いに行った時とは。

 

少し違う。

 

あの時は。

 

恐怖。

 

戻らないかもしれない。

 

何もできない。

 

その怒り。

 

今回は。

 

時雨は。

 

報告した。

 

相談した。

 

許可を取った。

 

約束を。

 

守った。

 

それでも。

 

曹操は怒っている。

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「泉へ」

 

「一人で行ったそうね」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「誰から」

 

「全員から」

 

「多いな」

 

「聞いたのではないわ」

 

曹操は。

 

低く言う。

 

「皆が」

 

「それぞれ」

 

「同じことを報告したの」

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

霞。

 

全員。

 

時雨が。

 

一人で。

 

泉へ行った。

 

それを。

 

曹操へ伝えた。

 

告げ口ではない。

 

心配。

 

「なぜ」

 

曹操が尋ねる。

 

「泉を見たかった」

 

「なぜ」

 

「戻ったか」

 

「確認するため」

 

「本当に?」

 

時雨は。

 

答えない。

 

曹操は。

 

椅子から立つ。

 

机を回り。

 

時雨の前へ。

 

「立ちなさい」

 

時雨が。

 

少し警戒する。

 

「なぜ」

 

「いいから」

 

時雨は。

 

立ち上がる。

 

曹操は。

 

時雨の外套へ手を伸ばす。

 

凱旋式で。

 

自ら与えた。

 

銀の刺繍。

 

功績を示す外套。

 

留め具を外し。

 

時雨の肩から。

 

ゆっくり取る。

 

次に。

 

鎧の紐。

 

「曹操」

 

「黙って」

 

「何を」

 

「鎧を脱がせるの」

 

「なぜ」

 

「怪我を確認するため」

 

「柳琳が見た」

 

「私は見ていない」

 

「必要ない」

 

「あるわ」

 

時雨は。

 

抵抗しない。

 

曹操が。

 

鎧を外す。

 

上衣。

 

右腕。

 

矢傷。

 

すでに。

 

薄い痕。

 

肩。

 

古い傷。

 

背中。

 

黒山の頃から。

 

積み重なった。

 

無数の痕。

 

今回のものは。

 

多くない。

 

だが。

 

痩せている。

 

出陣前より。

 

明らかに。

 

「体重が落ちたわね」

 

曹操が言う。

 

「少し」

 

「どれくらい」

 

「分からない」

 

「柳琳の報告では」

 

曹操は。

 

時雨の脇腹へ。

 

指を触れる。

 

「出陣前より」

 

「かなり落ちているそうよ」

 

「動ける」

 

「動けるかではない」

 

曹操の指が。

 

時雨の胸元へ。

 

僅かに触れる。

 

鼓動。

 

速くはない。

 

だが。

 

身体は。

 

疲れている。

 

「眠れないの?」

 

「眠れる」

 

「嘘」

 

「少しは」

 

「目を閉じれば」

 

「何が見える」

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

問い。

 

直接。

 

逃がさない。

 

「泉」

 

「それから」

 

「馬超」

 

「それから」

 

「馬騰」

 

「それから」

 

時雨は。

 

黙る。

 

曹操は。

 

待つ。

 

「涼州の兵」

 

「何をしている」

 

「俺を見てる」

 

「どんな目で」

 

「分からない」

 

「嘘」

 

時雨の眉が。

 

僅かに動く。

 

「憎んでる」

 

曹操は。

 

さらに尋ねる。

 

「他には」

 

「家族を選んだ奴が」

 

「馬騰へ謝ってる」

 

「他には」

 

「食料を持って帰った兵が」

 

「冬を越せたか」

 

「分からない」

 

「他には」

 

「馬超が」

 

「自分のせいで」

 

「軍が壊れたと思ってる」

 

曹操は。

 

時雨の顔を見る。

 

「他には」

 

「水を」

 

時雨の声が。

 

僅かに低くなる。

 

「子供が」

 

「飲めないって」

 

「泣いてる」

 

「実際に見たの?」

 

「見てない」

 

「なら」

 

「頭の中にいるのね」

 

「ああ」

 

曹操は。

 

ようやく。

 

時雨の胸元から手を離す。

 

「あなたは」

 

「策を使った後」

 

「起こらなかった最悪まで」

 

「全部」

 

「自分の中へ作っている」

 

「何が」

 

「もし」

 

「代わりの水が足りなかったら」

 

「もし」

 

「食料を返せなかったら」

 

「もし」

 

「豪族同士が殺し合っていたら」

 

「もし」

 

「馬超が兵を捨てて」

 

「あなたへ向かっていたら」

 

「もし」

 

「馬騰が」

 

「民から最後の食料を奪っていたら」

 

「そういうものを」

 

「全部」

 

「考えているのでしょう」

 

「ああ」

 

「なぜ」

 

「次に」

 

「同じ間違いをしないため」

 

「違うわ」

 

曹操は。

 

時雨の胸へ。

 

もう一度。

 

手を当てる。

 

「自分を罰しているのよ」

 

時雨の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「違う」

 

「策が成功した」

 

「多くの兵が生きた」

 

「馬騰も」

 

「馬超も生きている」

 

「涼州の民も」

 

「国を失ったけれど」

 

「虐殺はされなかった」

 

「あなたは」

 

「それを喜ぶことが怖い」

 

時雨は。

 

何も言えない。

 

「喜べば」

 

曹操は続ける。

 

「自分が」

 

「他人を苦しめることを」

 

「楽しんだように思える」

 

「だから」

 

「勝利を喜ばない」

 

「休まない」

 

「眠らない」

 

「壊した場所へ行く」

 

「痛いままでいれば」

 

「自分が外道にならないと」

 

「そう思っている」

 

時雨は。

 

曹操を見下ろす。

 

蒼い瞳。

 

怒り。

 

悲しみ。

 

理解。

 

「違うかしら」

 

長い沈黙。

 

時雨は。

 

答えを探す。

 

否定。

 

できない。

 

自分が。

 

痛みを忘れれば。

 

次は。

 

もっと簡単に。

 

同じ策を使うかもしれない。

 

水を奪う。

 

食料で疑わせる。

 

家族と忠義を。

 

比べさせる。

 

人を。

 

駒として見る。

 

だから。

 

忘れない。

 

苦しいままでいる。

 

それが。

 

必要だと思った。

 

「忘れたくない」

 

時雨が言う。

 

曹操の目が。

 

少しだけ。

 

柔らかくなる。

 

「忘れなくてよいわ」

 

「なら」

 

「でも」

 

曹操は。

 

時雨の上衣を掴む。

 

「苦しみ続けることと」

 

「忘れないことは」

 

「同じではない」

 

「違うのか」

 

「違うわ」

 

曹操の声が。

 

強くなる。

 

「あなたが」

 

「倒れるまで苦しめば」

 

「涼州の民が救われるの?」

 

「違う」

 

「馬超の痛みが減る?」

 

「減らない」

 

「馬騰の国が戻る?」

 

「戻らない」

 

「なら」

 

「あなたが」

 

「自分を傷つけ続ける意味はない」

 

「でも」

 

「痛みは」

 

曹操は。

 

時雨の胸元を。

 

強く引く。

 

二人の距離が。

 

近くなる。

 

「私へ渡しなさい」

 

時雨の目が。

 

僅かに動く。

 

「どうやって」

 

「話すのよ」

 

「全部」

 

「見たこと」

 

「考えたこと」

 

「怖かったこと」

 

「後悔していること」

 

「私が」

 

「許可した策なのだから」

 

「私にも」

 

「聞く権利がある」

 

「増えるだけだ」

 

「何が」

 

「曹操の痛みが」

 

「ああ」

 

曹操は。

 

迷わず頷く。

 

「増えるわ」

 

「なら」

 

「それが何?」

 

時雨が。

 

言葉を失う。

 

「私は」

 

曹操は。

 

蒼い瞳で。

 

時雨を射抜く。

 

「あなたの主よ」

 

「あなたが」

 

「私のために」

 

「国を取り」

 

「兵を生かし」

 

「自分だけ」

 

「痛みを持って帰る」

 

「そんな勝手を」

 

「認めると思う?」

 

「曹操には」

 

「国がある」

 

「あなたも」

 

「その国の一部よ」

 

「違う」

 

「何が」

 

「国は」

 

「人より大きい」

 

「ええ」

 

「だから」

 

「俺一人のことへ」

 

「時間を使う必要は」

 

「あるわ」

 

曹操は。

 

即答した。

 

「時雨」

 

「あなたは」

 

「百万の民を」

 

「私へ預けた」

 

「ああ」

 

「なら」

 

「あなた自身も」

 

「その中へ入れなさい」

 

「俺は」

 

「預けてない」

 

曹操の眉が。

 

僅かに上がる。

 

「何ですって?」

 

「俺が」

 

「曹操を選んだ」

 

「ああ」

 

「でも」

 

「自分を預けたわけじゃない」

 

「そう」

 

曹操は。

 

ゆっくり笑う。

 

「なら」

 

「今から預けなさい」

 

「嫌だ」

 

「命令よ」

 

「それは」

 

「命令できない」

 

「できるわ」

 

「できない」

 

「できる」

 

「無理だ」

 

「時雨」

 

「何だ」

 

「私のものになったと」

 

「最初に言ったのは」

 

「あなたでしょう?」

 

時雨の動きが。

 

止まる。

 

かつて。

 

曹操の前。

 

自分で言った。

 

俺は曹操のものになった。

 

百万の民。

 

燕。

 

すべてを差し出し。

 

自分も。

 

その責任ごと。

 

曹操へ。

 

預ける。

 

その意味を。

 

時雨自身。

 

完全には理解していなかった。

 

曹操は。

 

忘れていない。

 

「それは」

 

時雨が言う。

 

「将として」

 

「都合がいい言い訳ね」

 

曹操は。

 

時雨の衣を引いたまま。

 

一歩。

 

さらに近づく。

 

「あなたは」

 

「自分が傷つく時だけ」

 

「私のものではないと言う」

 

「戦う時は」

 

「曹操のため」

 

「勝つ時は」

 

「曹操の軍」

 

「でも」

 

「苦しむ時だけ」

 

「自分一人」

 

「そんなもの」

 

「許さない」

 

時雨は。

 

何も言えなかった。

 

曹操の手。

 

離れない。

 

「時雨」

 

声が。

 

少し。

 

柔らかくなる。

 

「勝利を」

 

「喜びなさい」

 

「無理だ」

 

「今すぐ」

 

「笑えとは言わない」

 

「なら」

 

「生きて帰ったことを」

 

「認めなさい」

 

「帰った」

 

「ええ」

 

「皆も」

 

「帰った」

 

「ええ」

 

「馬超も」

 

「馬騰も」

 

「生きている」

 

「ええ」

 

「それは」

 

曹操は。

 

ゆっくり言う。

 

「あなたが」

 

「望んだ結果でしょう」

 

「ああ」

 

「なら」

 

「そのことだけは」

 

「よかったと」

 

「言いなさい」

 

時雨は。

 

目を閉じる。

 

泉。

 

泣く子供。

 

馬超。

 

馬騰。

 

豪族。

 

兵。

 

それらと共に。

 

生きて戻った。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

霞。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

魏兵。

 

黒狼隊。

 

多くの者。

 

死なずに。

 

許昌へ帰った。

 

「よかった」

 

時雨が言う。

 

声。

 

小さい。

 

だが。

 

曹操には。

 

届く。

 

「もう一度」

 

「よかった」

 

曹操の手から。

 

少し。

 

力が抜ける。

 

「ええ」

 

「それでよいの」

 

曹操は。

 

時雨の胸元へ。

 

額を預けた。

 

ほんの一瞬。

 

魏王ではない。

 

待っていた女。

 

帰ってきた男へ。

 

触れる。

 

「お帰りなさい」

 

凱旋式でも。

 

言った言葉。

 

だが。

 

今度は。

 

二人だけ。

 

時雨は。

 

曹操の金色の髪を見る。

 

「ただいま」

 

曹操の肩から。

 

ようやく。

 

張り詰めていたものが抜ける。

 

時雨は。

 

少し迷った後。

 

曹操の背へ。

 

手を置いた。

 

強くは抱かない。

 

ただ。

 

ここにいると。

 

伝える程度。

 

曹操は。

 

しばらく。

 

動かなかった。

 

やがて。

 

顔を上げる。

 

蒼い瞳。

 

僅かに。

 

赤い。

 

「では」

 

曹操が言う。

 

「話しなさい」

 

「何を」

 

「涼州で」

 

「あなたが見たこと」

 

「今話した」

 

「足りないわ」

 

「長い」

 

「三日間」

 

「休みなのでしょう?」

 

「休ませる気がないな」

 

「話し終えたら」

 

「眠らせてあげる」

 

「ここで?」

 

「ええ」

 

「自室へ戻る」

 

「駄目よ」

 

「なぜ」

 

「私の目の届くところで」

 

「眠るという約束でしょう?」

 

「してない」

 

「今したわ」

 

「してない」

 

「私が決めた」

 

時雨の顔が。

 

僅かに曇る。

 

曹操の口元へ。

 

久しぶりに。

 

いつもの。

 

悪戯めいた笑みが戻る。

 

「それとも」

 

「また」

 

「勝手にいなくなるの?」

 

「行かない」

 

「信用が足りないわ」

 

「報告した」

 

「心を隠したでしょう?」

 

時雨は。

 

黙る。

 

曹操は。

 

勝ち誇ったように。

 

椅子へ座る。

 

「ほら」

 

「反論できない」

 

「面倒だな」

 

「誰が?」

 

「曹操」

 

「時雨」

 

曹操の声が。

 

低くなる。

 

「褒美の休暇を」

 

「四日に増やすわよ」

 

「なぜ」

 

「一日ごとに」

 

「失礼な言葉を一つ減らしなさい」

 

「減らさない」

 

「では五日」

 

「増やすな」

 

「六日」

 

「曹操」

 

「七日」

 

「分かった」

 

「何が?」

 

「面倒じゃない」

 

曹操は。

 

満足そうに。

 

微笑む。

 

「よろしい」

 

「では」

 

「最初から」

 

時雨は。

 

小さく息を吐く。

 

「どこから」

 

「許昌を出た朝から」

 

「長すぎる」

 

「私は」

 

「あなたが帰るまで」

 

「ずっと待ったのよ」

 

曹操の声が。

 

少しだけ。

 

静かになる。

 

「同じだけ」

 

「付き合いなさい」

 

時雨は。

 

曹操を見る。

 

拒めない。

 

命令だからではない。

 

待っていた。

 

その言葉を。

 

もう。

 

軽く扱えない。

 

「ああ」

 

時雨は。

 

椅子へ座り直した。

 

「出発の日」

 

「春蘭と霞が」

 

「朝から喧嘩してた」

 

「そこから?」

 

「曹操が」

 

「最初からと言った」

 

「言ったけれど」

 

曹操は。

 

僅かに額へ手を当てる。

 

「本当に」

 

「最初から話すのね」

 

「ああ」

 

「よいわ」

 

「続けなさい」

 

時雨は。

 

涼州で起きたことを。

 

話し始めた。

 

街道。

 

熱病の村。

 

長安。

 

馬騰軍の先鋒。

 

水場。

 

兵たちの反対。

 

曹操の返答。

 

馬超の怒り。

 

白い馬。

 

霞との戦い。

 

食料。

 

豪族。

 

降伏。

 

泉。

 

一つずつ。

 

言葉へする。

 

途中。

 

何度も。

 

止まる。

 

曹操は。

 

急かさない。

 

問いかける。

 

何を思った。

 

なぜ選んだ。

 

怖くなかったのか。

 

後悔しているか。

 

時雨は。

 

分からない時は。

 

分からないと答えた。

 

痛かった時は。

 

痛かったと言った。

 

正しかったと思うところ。

 

間違っていたかもしれないところ。

 

一人では。

 

言葉にできなかったものを。

 

少しずつ。

 

曹操へ渡した。

 

夜が深くなる。

 

灯火。

 

小さく揺れる。

 

話の途中。

 

時雨の声が。

 

次第に遅くなる。

 

「時雨?」

 

返事がない。

 

曹操が。

 

机越しに見る。

 

時雨は。

 

椅子へ座ったまま。

 

目を閉じていた。

 

眠っている。

 

話しながら。

 

力が抜けた。

 

曹操は。

 

しばらく。

 

その顔を見ていた。

 

戦場では。

 

誰より冷静。

 

剣でも。

 

弓でも。

 

軍略でも。

 

魏の将たちを圧倒する男。

 

涼州では。

 

数万の軍を。

 

大決戦なしで崩壊させた。

 

黒山の狼。

 

外道。

 

非道。

 

そう呼ばれた男。

 

今は。

 

ただ。

 

疲れて眠る。

 

一人の男。

 

曹操は。

 

立ち上がる。

 

時雨の腕を。

 

自分の肩へ回す。

 

「重いわね」

 

当然。

 

返事はない。

 

寝台まで。

 

どうにか運ぶ。

 

本当なら。

 

護衛を呼べばよい。

 

だが。

 

呼ばない。

 

自分で。

 

時雨を横にする。

 

上掛け。

 

胸元まで。

 

かける。

 

時雨は。

 

起きない。

 

ここまで。

 

深く眠るのは。

 

許昌へ来てから。

 

初めてかもしれない。

 

曹操は。

 

寝台の端へ座る。

 

黒い髪へ。

 

指を触れる。

 

「本当に」

 

小さく呟く。

 

「手のかかる男」

 

時雨の顔。

 

苦しそうではない。

 

少なくとも。

 

今は。

 

泉も。

 

馬超も。

 

泣く子供も。

 

見ていないようだった。

 

「時雨」

 

曹操は。

 

眠る男へ。

 

静かに言う。

 

「あなたの勝利を」

 

「私は誇るわ」

 

「外道な策も」

 

「卑劣な判断も」

 

「全部」

 

「正しかったとは言わない」

 

「でも」

 

「逃げずに」

 

「選んだことを」

 

「誇る」

 

曹操の指が。

 

時雨の頬へ。

 

僅かに触れる。

 

「だから」

 

「帰ってきなさい」

 

「何度でも」

 

「痛みを持ったままでよい」

 

「迷ったままでもよい」

 

「私のところへ」

 

「帰ってきなさい」

 

時雨は。

 

眠っている。

 

返事はない。

 

それでも。

 

曹操は。

 

聞こえているように。

 

微笑んだ。

 

---

 

翌朝。

 

王宮の廊下。

 

春蘭。

 

秋蘭。

 

桂花。

 

霞。

 

華論。

 

栄華。

 

柳琳。

 

稟。

 

なぜか。

 

全員が。

 

曹操の私室前へ集まっていた。

 

「何をしている」

 

秋蘭が尋ねる。

 

「時雨が」

 

春蘭は。

 

扉を見つめる。

 

「無事か確認している」

 

「昨日」

 

「生きて帰れと言ったからな!」

 

「姉者」

 

「華琳様の私室だ」

 

「分かっている!」

 

「なら」

 

「離れろ」

 

「嫌だ!」

 

桂花は。

 

春蘭とは反対側で。

 

扉へ耳を寄せようとしている。

 

「桂花殿」

 

稟が言う。

 

「何を」

 

「静かに!」

 

桂花が。

 

低い声で怒る。

 

「中から」

 

「何も聞こえないのよ!」

 

霞が。

 

面白そうに笑う。

 

「時雨」

 

「ほんまに」

 

「生きとるんか?」

 

「華琳様が」

 

「時雨を殺すはずないでしょう!」

 

桂花が怒鳴る。

 

「何してるかは」

 

「分からんけどな」

 

「霞!」

 

「お静かに」

 

柳琳が。

 

穏やかに言う。

 

「時雨は」

 

「眠っているかもしれません」

 

「時雨が?」

 

華論が。

 

驚く。

 

「こんな時間まで?」

 

「それなら」

 

柳琳は。

 

少しだけ。

 

嬉しそうに笑う。

 

「よいことです」

 

扉の向こう。

 

寝台。

 

時雨が。

 

ゆっくり目を開ける。

 

見慣れない天井。

 

いや。

 

何度か見た。

 

曹操の私室。

 

時雨は。

 

身体を起こそうとする。

 

胸元。

 

重い。

 

曹操が。

 

隣で眠っていた。

 

時雨の上衣を。

 

片手で掴んだまま。

 

逃げないように。

 

いつの間にか。

 

一緒の寝台へ入ったらしい。

 

時雨は。

 

少し考える。

 

手を外そうとする。

 

曹操の指へ触れた瞬間。

 

「どこへ行くの」

 

目は。

 

閉じたまま。

 

声だけ。

 

「起きてたのか」

 

「今起きたわ」

 

「手を離せ」

 

「嫌」

 

「水を飲む」

 

「そこにある」

 

寝台の横。

 

水差し。

 

用意されている。

 

「外へ」

 

「出ないで」

 

「褒美の休みだ」

 

「ええ」

 

「なら」

 

「寝なさい」

 

「寝た」

 

「足りない」

 

「何刻」

 

「まだ」

 

「四刻ほど」

 

「十分だ」

 

「足りない」

 

曹操が。

 

目を開く。

 

蒼い瞳。

 

寝起きでも。

 

強い。

 

「今日は」

 

「何もしない」

 

「馬騰との軍議」

 

「桂花たちが進める」

 

「馬超は」

 

「春蘭と霞が」

 

「訓練場へ連れていくでしょう」

 

「危険だ」

 

「秋蘭がいる」

 

「華論も」

 

「栄華も」

 

「柳琳も」

 

「稟も」

 

「皆」

 

「自分の役目をしている」

 

曹操は。

 

時雨の上衣を。

 

さらに強く掴む。

 

「あなたの役目は」

 

「休むこと」

 

「退屈だ」

 

「なら」

 

「私と話しなさい」

 

「昨日話した」

 

「途中で寝たわ」

 

「どこまで」

 

「馬超へ」

 

「食料を送ったところ」

 

「まだ長いな」

 

「ええ」

 

曹操は。

 

僅かに笑う。

 

「今日は」

 

「その続き」

 

「嫌だ」

 

「褒美よ」

 

「罰だろ」

 

「両方ね」

 

時雨は。

 

小さく息を吐く。

 

扉の外。

 

春蘭たちの声。

 

聞こえている。

 

「時雨!」

 

春蘭が。

 

扉越しに叫ぶ。

 

「無事なら返事をしろ!」

 

時雨が。

 

曹操を見る。

 

「返事」

 

「しなくてよいわ」

 

「騒ぐ」

 

「いつものことよ」

 

「華琳様!」

 

今度は。

 

桂花。

 

「そろそろ」

 

「朝議のお時間です!」

 

曹操の顔が。

 

僅かに曇る。

 

「面倒ね」

 

時雨の眉が動く。

 

「今」

 

「面倒と言ったな」

 

「言っていないわ」

 

「言った」

 

「聞き間違いよ」

 

「俺には」

 

「言うなと」

 

「私が言うのはよいの」

 

「横暴だな」

 

「王ですもの」

 

曹操は。

 

時雨の衣から。

 

ようやく手を離す。

 

起き上がる。

 

黄金の髪。

 

少し乱れている。

 

時雨が。

 

その髪を見る。

 

「何?」

 

「乱れてる」

 

曹操の目が。

 

僅かに細くなる。

 

「直しなさい」

 

「なぜ」

 

「言った責任よ」

 

「侍女を」

 

「呼ばない」

 

「曹操」

 

「何?」

 

「褒美を変える」

 

「何に?」

 

「三日間」

 

「自室で寝る」

 

「却下」

 

「即答か」

 

「当然でしょう?」

 

曹操は。

 

櫛を。

 

時雨へ差し出す。

 

「早くなさい」

 

時雨は。

 

櫛を見る。

 

次に。

 

曹操。

 

扉。

 

逃げられない。

 

受け取る。

 

曹操は。

 

時雨へ背を向け。

 

寝台の端へ座る。

 

長い金髪。

 

朝の光。

 

時雨は。

 

不慣れな手で。

 

ゆっくり。

 

櫛を通す。

 

強く引けば。

 

曹操が怒る。

 

慎重。

 

「下手ね」

 

「なら」

 

「やめる?」

 

「やめない」

 

「そう」

 

曹操の声へ。

 

小さな満足がある。

 

扉の外。

 

霞が。

 

声を潜めるつもりもなく言う。

 

「何しとるんやろな」

 

桂花が。

 

真っ赤な顔で。

 

「考えるな!」

 

「でも」

 

「華琳様」

 

「朝議遅れるで」

 

「時雨のせいや!」

 

「何でや」

 

「絶対そうよ!」

 

秋蘭は。

 

深く息を吐く。

 

「今日は」

 

「朝議の開始を」

 

「少し遅らせた方がよさそうだな」

 

柳琳が。

 

穏やかに頷く。

 

「ええ」

 

「時雨も」

 

「少しは休めたようですから」

 

栄華は。

 

扇を開く。

 

「ですが」

 

「休暇後には」

 

「涼州征伐の最終会計を」

 

「すべて確認していただきますわ」

 

華論が。

 

苦笑する。

 

「休み明け」

 

「大変そうっすね」

 

稟は。

 

静かに答えた。

 

「それでよいのです」

 

「戻った後の仕事がある」

 

「帰る場所とは」

 

「そういうものでしょう」

 

扉の向こう。

 

時雨は。

 

曹操の髪を梳いている。

 

戦場では。

 

剣を握った手。

 

弓を引いた手。

 

地図へ。

 

外道な策を描いた手。

 

今は。

 

黄金の髪を。

 

傷つけないよう。

 

慎重に。

 

櫛を通している。

 

涼州征伐。

 

魏の勝利。

 

馬騰の降伏。

 

馬超の怒り。

 

国を失った者たち。

 

生きて戻った兵。

 

すべて。

 

まだ。

 

終わってはいない。

 

涼州を。

 

魏の中へ迎える。

 

法を整える。

 

水場を直す。

 

豪族と話す。

 

馬騰の知恵を借りる。

 

馬超へ。

 

新たな道を選ばせる。

 

やるべきことは。

 

山ほどある。

 

だが。

 

今だけ。

 

時雨は。

 

戦場にいない。

 

総大将でもない。

 

黒山の狼でも。

 

外道の軍師でもない。

 

曹操の前へ。

 

帰ってきた男。

 

そして。

 

曹操は。

 

魏王でありながら。

 

その男を。

 

待っていた女。

 

「時雨」

 

曹操が呼ぶ。

 

「何だ」

 

「次は」

 

「どこへ行くつもり?」

 

時雨の手が。

 

僅かに止まる。

 

「まだ決めてない」

 

「勝手に決めないで」

 

「ああ」

 

「私へ相談して」

 

「ああ」

 

「私が」

 

「駄目と言ったら?」

 

時雨は。

 

少し考える。

 

「理由を聞く」

 

「それから?」

 

「納得すれば」

 

「行かない」

 

「納得しなければ?」

 

「話す」

 

「それでも」

 

「私が駄目と言ったら?」

 

時雨は。

 

櫛を。

 

最後まで通す。

 

曹操の髪。

 

綺麗に整った。

 

「戻ってこられない場所なら」

 

時雨は言う。

 

「行かない」

 

曹操の目が。

 

僅かに見開かれる。

 

背を向けている。

 

時雨には。

 

見えない。

 

だが。

 

その声が。

 

少し柔らかくなった。

 

「そう」

 

短い言葉。

 

時雨は。

 

櫛を置く。

 

「終わった」

 

曹操は。

 

振り返る。

 

時雨を見る。

 

「ええ」

 

「上出来よ」

 

「下手と言った」

 

「最初はね」

 

「今は?」

 

「少しだけ」

 

曹操は。

 

微笑む。

 

「私の側にいる男らしくなったわ」

 

時雨は。

 

僅かに顔をしかめる。

 

「意味が分からない」

 

「そのうち分かるわ」

 

「分からなくていい」

 

「駄目よ」

 

「なぜ」

 

「これからも」

 

「側にいるのだから」

 

時雨は。

 

すぐには答えなかった。

 

涼州。

 

国。

 

戦。

 

帰還。

 

多くを。

 

失わせた。

 

多くを。

 

生かした。

 

その全てを抱え。

 

それでも。

 

帰る。

 

曹操のところへ。

 

魏へ。

 

春蘭たちのいる場所へ。

 

自分がいなくても。

 

動く国。

 

だが。

 

自分がいなくてよいわけではない場所。

 

「ああ」

 

時雨は答えた。

 

「いる」

 

曹操の瞳が。

 

柔らかく細められる。

 

外。

 

朝の許昌。

 

城門は開き。

 

人々が行き交う。

 

新たに。

 

涼州を加えた魏。

 

中原最大の国。

 

その先。

 

まだ。

 

天下には。

 

多くの勢力が残る。

 

南。

 

西南。

 

荊州。

 

益州。

 

孫家。

 

劉備。

 

次に。

 

曹操が。

 

どこへ目を向けるか。

 

まだ。

 

誰も知らない。

 

だが。

 

少なくとも。

 

一つだけ。

 

決まっている。

 

次の道を。

 

曹操は。

 

一人では選ばない。

 

時雨へ相談する。

 

時雨も。

 

勝手に消えない。

 

反対し。

 

迷い。

 

ぶつかり。

 

それでも。

 

同じ場所へ戻る。

 

黒山の狼は。

 

涼州を喰らい。

 

魏へ帰った。

 

その牙には。

 

まだ。

 

敵の憎しみが残っている。

 

その胸には。

 

自ら選んだ策の痛みも残る。

 

だが。

 

もう。

 

一人で。

 

泉を見続けることはない。

 

傷を。

 

分ける者がいる。

 

責任へ。

 

並ぶ者がいる。

 

帰りを。

 

待つ女がいる。

 

涼州征伐。

 

完全終結。

 

魏は。

 

河北と中原に加え。

 

西方へ続く。

 

広大な涼州を手に入れた。

 

そして。

 

曹操は。

 

勝利よりも大切なものを。

 

再び。

 

自分のもとへ迎えた。

 

時雨。

 

黒山の狼。

 

外道と呼ばれた男。

 

それでも。

 

帰ってくることを。

 

選んだ男を。




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次の作品の主人公とルートは誰がいい?

  • 高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
  • 朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
  • 周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
  • 孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)
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