外伝 第19話 三日間の休戦――狼の休日
涼州征伐から凱旋した翌朝。
時雨は。
見慣れない天井を見ていた。
正確には。
見たことのある天井だった。
曹操の私室。
王宮の奥。
魏の主以外は。
許可なく入ることのできない場所。
その中でも。
最も私的な寝室。
時雨は。
そこで目を覚ました。
身体の下には。
柔らかすぎる寝台。
黒山で使っていた。
硬い木床でもなければ。
遠征中の。
薄い敷物でもない。
身体が沈む。
寝返りを打つだけで。
布が。
僅かに音を立てる。
眠りやすいはずだった。
だが。
時雨には。
落ち着かない。
自分の身体が。
地面から離れているような感覚。
敵襲があっても。
すぐに立てない。
そう考えてしまう。
戦は終わった。
許昌。
王宮。
曹操の寝室。
敵襲など。
まず起こらない。
頭では。
分かっている。
それでも。
身体に染みついたものは。
一晩では変わらない。
時雨は。
ゆっくり上体を起こした。
身体が重い。
痛みではない。
長く眠った後の。
鈍い重さ。
窓から入る光を見る。
朝。
だが。
いつもの時間ではない。
日が。
すでに高い。
「遅いな」
小さく呟く。
普段なら。
日の出前に起きる。
遠征中は。
さらに早い。
夜明け前。
最も。
兵の気が緩む時間。
その頃には。
見張りを確認し。
斥候の報告を受け。
前日の消費物資を見ていた。
今日は。
何もしていない。
起きた時には。
すでに。
朝議が始まっている時刻を過ぎている。
身体が。
反射的に動く。
時雨は。
寝台から降りようとした。
その瞬間。
袖が引かれた。
「どこへ行くの」
横から。
眠そうな声。
時雨が見る。
曹操が。
隣で横になっていた。
黄金の髪。
寝起きのため。
僅かに乱れている。
蒼い瞳は。
半分ほどしか開いていない。
だが。
時雨の袖を掴む手には。
しっかり力が入っていた。
「朝議」
「終わったわ」
「何?」
「もう昼前よ」
時雨は。
窓を見る。
確かに。
光が強い。
朝と呼ぶには。
遅すぎる。
「起こせ」
「嫌よ」
「なぜ」
「休暇だから」
曹操は。
時雨の袖を離さない。
むしろ。
僅かに引く。
「三日間」
「公務をしない」
「軍議へ出ない」
「書類を読まない」
「王宮から出ない」
「それが」
「あなたの褒美でしょう?」
「最後は」
「曹操が勝手につけた」
「あら」
曹操の目が。
少しだけ開く。
「褒美を与えるのは私よ」
「望んだものと違う」
「あなたが望んだのは休み」
「ええ」
「だから」
「休ませているの」
「王宮から出ないのは」
「休みと関係ない」
「あるわ」
曹操は。
平然と言い切る。
「あなたは」
「外へ出れば」
「必ず何か見つける」
「壊れた壁」
「怪我をした兵」
「困っている商人」
「訓練を怠ける兵」
「そして」
「自分の仕事ではないものまで」
「勝手に背負う」
「だから」
「出さない」
時雨は。
否定しようとした。
だが。
思い当たるものが多い。
許昌へ来てから。
市場へ出れば。
荷車の車軸を見た。
兵舎へ行けば。
装備の不足を見た。
城壁を歩けば。
見張りの配置を直した。
偶然会った。
元黒山の民から。
生活の相談を受けたこともある。
どれも。
放っておく理由がなかった。
だから。
動いた。
だが。
曹操から見れば。
休まない理由を。
拾い歩いているように見えるらしい。
「水を飲む」
時雨が言った。
「そこにあるわ」
寝台脇。
水差し。
時雨は。
曹操に袖を掴まれたまま。
腕を伸ばす。
届かない。
「離せ」
「逃げない?」
「水を飲むだけだ」
「その後は?」
「服を着る」
「なぜ」
「起きたから」
「もう一度寝なさい」
「眠くない」
「嘘ね」
「なぜ分かる」
「目の下に」
「まだ疲れが残っているもの」
曹操は。
ようやく。
時雨の袖を離した。
ただし。
自分も起き上がる。
時雨が逃げないよう。
見張るつもりらしい。
時雨は。
水を飲む。
冷たい。
よく冷やされている。
遠征中。
水は。
飲めるだけで十分だった。
冷たさ。
器。
香り。
そんなものは。
気にしない。
だが。
今は。
僅かに果実の香りがする。
「何か入ってる」
「柑橘よ」
曹操が答える。
「柳琳が」
「食欲の落ちている者へよいと」
「用意させたの」
「食欲はある」
「昨日」
「夕食を食べずに寝たでしょう」
「話してた」
「途中で寝たのよ」
「仕方ない」
「だから」
曹操は。
時雨の頬へ。
指を伸ばす。
「今日は」
「きちんと食べさせるわ」
時雨は。
僅かに顔を引く。
「自分で食う」
「ええ」
「自分で」
「私の前で」
「必要ない」
「必要よ」
「なぜ」
「あなたが」
「食べたと言っても」
「信用できないから」
時雨は。
曹操を見る。
「信用がないな」
「誰のせい?」
「分からない」
「時雨」
曹操の声が。
少し低くなる。
時雨は。
水をもう一口飲んだ。
「俺だ」
「よろしい」
曹操は。
満足そうに頷く。
その瞬間。
部屋の扉が。
外から叩かれた。
「華琳様!」
春蘭の声。
朝から。
よく響く。
「お目覚めでしょうか!」
曹操の眉が。
僅かに寄る。
「起きているわ」
「時雨は!」
「生きている」
「本当ですか!」
「姉者」
扉の向こう。
秋蘭の声。
「華琳様が」
「嘘をおっしゃる理由はない」
「しかし」
「時雨は」
「昨日から返事をしていない!」
「寝ていたのだろう」
「それでも!」
時雨は。
曹操を見る。
「入れればいい」
「嫌よ」
「なぜ」
「せっかく」
「二人で静かに過ごしているのに」
扉の向こう。
声が止まった。
聞こえている。
曹操は。
聞こえるように。
言った。
時雨の眉が。
僅かに動く。
「静かじゃない」
「誰のせいかしら」
「春蘭」
「違うわ」
曹操は。
寝台から降りる。
薄い寝衣。
黄金の髪。
朝の光を受ける。
その姿は。
王座にいる時と。
全く違う。
だが。
態度だけは。
いつも通り。
堂々としている。
「春蘭」
曹操が。
扉へ向かって言う。
「時雨は休暇中よ」
「三日間」
「軍務に関する話を」
「一切持ち込まないこと」
「御意!」
「それから」
「見舞いも必要ないわ」
扉の向こう。
春蘭が。
僅かに息を呑む気配。
「ですが!」
「必要ない」
「しかし!」
「春蘭」
曹操の声が。
低くなる。
「御意……」
春蘭の声。
露骨に。
落ち込んでいる。
足音。
離れていく。
もう一つ。
秋蘭の足音も。
続く。
時雨は。
扉を見る。
「可哀想だな」
曹操が振り返る。
「誰が?」
「春蘭」
「時雨」
「何だ」
「あなたは」
「自分を見舞いたがる者へ」
「可哀想という言葉を使うのね」
「何が悪い」
「別に」
曹操は。
僅かに笑う。
「少し」
「嬉しいだけよ」
「意味が分からない」
「そのうち分かるわ」
曹操は。
部屋の奥へ進む。
侍女を呼ぶ。
朝食。
いや。
時刻としては。
昼食に近い。
すぐに。
料理が運ばれてきた。
粥。
焼いた魚。
青菜。
煮た豆。
卵。
温かい汁物。
遠征帰りの身体へ。
負担をかけないもの。
だが。
量は。
少なくない。
時雨は。
膳を見る。
次に。
曹操を見る。
「多い」
「あなたの身体に必要な量よ」
「誰が決めた」
「柳琳と流琉」
「二人か」
「栄華も」
「なぜ栄華が」
「あなたが」
「食事を残した場合の損失まで」
「計算していたわ」
「そこまでいるか」
「必要なのよ」
曹操は。
自分も。
時雨の向かいへ座る。
侍女を下がらせる。
二人だけ。
時雨は。
箸を取った。
曹操は。
食べない。
時雨を見る。
「何だ」
「食べて」
「見てなくても食う」
「見ていたいの」
「なぜ」
「本当に食べるか」
「確認するため」
「面倒だな」
曹操の目が。
僅かに細くなる。
「休暇を」
「四日にする?」
時雨は。
魚を口へ入れた。
「面倒じゃない」
「よろしい」
食事。
静か。
ではない。
曹操が。
一つずつ確認する。
「魚は?」
「食える」
「味は」
「悪くない」
「青菜は」
「食える」
「粥は」
「普通」
「時雨」
「何だ」
「もう少し」
「食事を楽しめないの?」
「食ってる」
「生きるために」
「流し込んでいるだけでしょう」
「同じだ」
「違うわ」
曹操は。
自分の箸を取り。
魚の一部を。
時雨の粥へ乗せた。
「味わって食べなさい」
「食ってる」
「今」
「三度しか噛まなかった」
「見てたのか」
「ええ」
「暇だな」
曹操の笑みが。
僅かに引きつる。
「五日にする?」
「味わう」
時雨は。
今度は。
意識して噛む。
魚。
塩。
僅かな香草。
焼けた皮。
脂。
遠征中の。
干し肉とは違う。
「どう?」
曹操が尋ねる。
「うまい」
「最初から」
「そう言えばよいのよ」
「最初は分からなかった」
「何が」
「味」
曹操は。
時雨を見る。
冗談ではない。
本当に。
最初の数口は。
味を認識していなかった。
腹へ入れる。
必要なだけ。
それが。
染みついている。
「時雨」
曹操が。
少し声を落とす。
「休暇中の決まりを」
「増やすわ」
「もう増やすな」
「食事は」
「必ず」
「味を一つ言うこと」
「何だそれ」
「訓練よ」
「休みじゃないのか」
「休むための訓練」
「矛盾してる」
「あなたには」
「必要なの」
時雨は。
納得しない。
だが。
曹操は。
取り消さない。
結局。
時雨は。
一品ごとに。
感想を言わされた。
粥は。
柔らかい。
青菜は。
少し苦い。
豆は。
甘い。
汁は。
温かい。
卵は。
流琉が作った方がうまい。
最後の一言で。
曹操の眉が動いた。
「なぜ」
「流琉の料理と比べるの」
「作ったのが流琉じゃないから」
「分かるの?」
「ああ」
「何が違う」
「火の入れ方」
曹操は。
少し。
悔しそうな顔をした。
自分で作ったわけではない。
それでも。
なぜか。
負けたように感じたらしい。
「では」
曹操が言う。
「明日は」
「流琉に作らせるわ」
「曹操が食わせるんじゃないのか」
「時雨」
曹操の瞳が。
鋭くなる。
「言い方」
「曹操が」
「一緒に食うんじゃないのか」
「ええ」
曹操は。
少しだけ。
満足そうに笑った。
「もちろんよ」
---
食事が終わる。
時雨は。
立ち上がった。
曹操も。
すぐに顔を上げる。
「どこへ」
「部屋へ戻る」
「自室へ?」
「ああ」
「何をするの」
「剣の手入れ」
「駄目よ」
「なぜ」
「休暇だから」
「剣の手入れは」
「軍務じゃない」
「あなたの場合」
「剣を見れば」
「素振りを始める」
「始めない」
「本当に?」
「ああ」
「何回」
「一回も振らない?」
時雨は。
少し黙る。
一回も。
振らない。
その発想が。
なかった。
「数回」
「駄目」
「身体が鈍る」
「三日で鈍らないわ」
「分からない」
「鈍ったとしても」
「春蘭と秋蘭を圧倒した人間が」
「少しくらい鈍った方がよいのよ」
「なぜ」
「あの二人が」
「落ち込むから」
「鍛えればいい」
「時雨」
曹操が。
深く息を吐く。
「あなたは」
「他人にも厳しいけれど」
「自分には」
「さらに厳しいわね」
「普通だ」
「普通ではない」
「なら」
「何をすればいい」
その問い。
曹操は。
少しだけ。
目を見開いた。
時雨が。
休み方を。
聞いた。
自分で。
何をすべきか分からず。
相手へ尋ねた。
曹操の口元へ。
ゆっくり。
笑みが浮かぶ。
「そうね」
「まず」
「何もしないこと」
「無理だ」
「即答しないで」
「何もしないのは」
「何をする」
「言葉がおかしいわ」
「座ってればいいのか」
「ええ」
「どこで」
「ここで」
曹操は。
窓辺を示す。
椅子。
小さな卓。
庭が見える。
王宮の中庭。
池。
木々。
花。
手入れされた景色。
「座って」
「庭を見るの」
「何のために」
「何のためでもない」
時雨の顔が。
僅かに険しくなる。
敵の策を。
聞いた時より。
難しい顔。
曹操は。
笑いを堪える。
「そんな顔をしないで」
「難しい」
「軍略より?」
「ああ」
「そう」
曹操は。
ついに。
声を立てて笑った。
涼州軍四万を崩した男が。
庭を見ることへ。
困っている。
「笑うな」
「無理よ」
「曹操」
「だって」
曹操は。
時雨の腕を引く。
窓辺の椅子へ座らせる。
自分も。
隣へ座る。
「何もしなくてよいの」
「庭がある」
「ええ」
「見る必要があるのか」
「見てもよい」
「見なくてもよい」
「なら」
「何を」
「ただ」
「ここにいなさい」
時雨は。
庭を見る。
池。
水面。
小さな魚。
風。
葉。
鳥。
平和。
整いすぎている。
黒山の景色とは違う。
黒山は。
もっと荒い。
岩。
木。
斜面。
獣。
人が。
生きるために。
山へ食らいついていた。
許昌の王宮の庭は。
人が。
余裕を持つために作られている。
役に立たない。
食べられる実も少ない。
防壁にもならない。
井戸でもない。
兵の訓練場でもない。
だからこそ。
何のためにあるのか。
時雨には。
分かりにくい。
「無駄だな」
時雨が言った。
曹操は。
怒らなかった。
「そうね」
「認めるのか」
「ええ」
「この庭は」
「国を強くしない」
「兵を増やさない」
「倉を満たさない」
「敵を倒さない」
「なら」
「でも」
曹操は。
池の魚を見る。
「私は好きよ」
「なぜ」
「役に立たないから」
時雨が。
曹操を見る。
「分からない」
「国を治めていると」
曹操は。
静かに続ける。
「何を見ても」
「使い道を考えるようになる」
「人を見れば」
「どこへ置くか」
「土地を見れば」
「何を育てるか」
「道を見れば」
「軍と物資を」
「どう運ぶか」
「すべて」
「国のために使う」
「ああ」
「でも」
「それだけでは」
「自分まで」
「国の道具になる」
時雨は。
何も言わない。
曹操が。
王として。
自分自身すら。
使おうとすること。
時雨には分かる。
自分も。
同じだから。
「この庭は」
曹操が言う。
「私が」
「何かへ使わなくても」
「そこにある」
「花は」
「私へ忠誠を誓わない」
「魚は」
「命令を聞かない」
「木は」
「魏の未来を考えない」
「それでも」
「眺めていてよい」
「だから」
「必要なのよ」
「役に立たないのに」
「ええ」
曹操は。
時雨を見る。
「人にも」
「そういう時間が必要なの」
時雨は。
庭へ視線を戻す。
何にも。
使わなくてよい時間。
何かを。
考えなくてもよい景色。
理解は。
まだできない。
だが。
否定もしなかった。
二人は。
しばらく。
何も話さなかった。
最初。
時雨は。
池の水量を見た。
排水。
雨が降った場合。
溢れるか。
庭を守る兵の配置。
外から。
入り込める場所。
考えた。
その度。
曹操が。
横から言う。
「考えない」
「何を」
「警備」
「考えてない」
「目が」
「壁を見ている」
時雨は。
池へ戻す。
次。
魚。
何匹いる。
食べられるか。
「食べられないわよ」
「言ってない」
「顔に出ている」
「出てない」
「出ているわ」
しばらくして。
時雨は。
諦めた。
何も。
考えないことを。
諦める。
代わりに。
葉が揺れるのを見る。
風。
同じ形に。
二度と動かない。
規則がない。
敵意もない。
命令もない。
ただ。
揺れる。
いつの間にか。
時雨の肩から。
少し力が抜けた。
曹操は。
何も言わなかった。
気づいている。
だが。
指摘すれば。
時雨が。
また身体を固くする。
だから。
黙る。
時雨も。
曹操が。
黙っていることへ気づく。
いつもなら。
何かを言う。
からかう。
命じる。
問い詰める。
今日は。
言わない。
ただ。
隣にいる。
「曹操」
時雨が呼ぶ。
「何?」
「朝議」
「どうした」
「桂花たちへ任せている」
「問題ないのか」
「ないわ」
「何かあれば」
「持ってくる」
「持ってこないよう」
「命じたもの」
「なぜ」
「私も」
曹操は。
僅かに笑う。
「休暇にしたから」
「曹操も?」
「半日だけね」
「三日じゃないのか」
「三日も休めば」
「魏が止まるわ」
「止まらない」
曹操が。
時雨を見る。
「何?」
「桂花」
「稟」
「風」
「栄華」
「皆いる」
「曹操がいなくても」
「三日なら動く」
曹操の目が。
僅かに細くなる。
「それは」
「私がいなくてもよいという意味?」
時雨は。
すぐに。
首を横へ振った。
「違う」
「曹操がいなくても」
「動くことと」
「曹操がいなくていいことは違う」
曹操の顔が。
僅かに止まる。
いつか。
自分が。
時雨へ伝えた言葉。
俺がいなくてもよいことと。
俺がいなくてよいことは違う。
時雨は。
それを。
曹操へ返した。
「そう」
曹操の声が。
少し柔らかくなる。
「なら」
「今日くらいは」
「休んでもよいかしら」
「ああ」
「あなたが」
「許してくれるの?」
「俺が決めることじゃない」
「時雨」
「何だ」
「そういうところよ」
曹操は。
笑う。
時雨には。
意味が分からない。
だが。
今度は。
聞かなかった。
二人は。
庭を見る。
昼を過ぎ。
光が。
少しずつ。
傾いていく。
時雨は。
いつの間にか。
椅子へ深く座っていた。
戦場では。
絶対に取らない姿勢。
背中を。
完全に預ける。
曹操は。
それを見て。
静かに満足した。
---
午後。
最初の侵入者が現れた。
「失礼しますわ!」
扉が開く。
栄華。
手には。
大きな包み。
後ろに。
華論。
柳琳。
「何をしに来たの」
曹操が。
明らかに不満そうな声を出す。
「時雨の休暇へ」
「必要なものを届けに参りましたの」
栄華は。
全く怯まない。
「必要なもの?」
「ええ」
包みを開く。
中から。
衣服。
三組。
柔らかな普段着。
黒。
灰。
濃い青。
軍装ではない。
官服でもない。
動きやすい。
だが。
戦うための服ではない。
「何だ」
時雨が尋ねる。
「休暇用の衣服ですわ」
栄華が答える。
「持ってる」
「どちらに?」
「部屋」
「全て」
「軍装か」
「黒山時代から使っている」
「擦り切れた服でしょう?」
「着られる」
「着られることと」
「休暇に適していることは別です」
時雨は。
衣服を見る。
違いが。
よく分からない。
「同じだ」
「違いますわ!」
栄華は。
一着を広げる。
「こちらは」
「肩と腕へ余裕を持たせ」
「身体を締めつけない仕立て」
「布も」
「肌触りの柔らかなもの」
「寝台や椅子で過ごしても」
「皺になりにくい」
「隠し武器を入れる場所は」
「ありません」
時雨の眉が動く。
「駄目だ」
「なぜですの!」
「短剣が入らない」
「休暇へ短剣は要りません!」
「何かあれば」
「王宮内で」
「何が起こるのです!」
「分からない」
「分からないから持つ」
栄華が。
額へ手を当てる。
「華琳様」
「何とかおっしゃってくださいませ」
曹操は。
衣服を見る。
「悪くないわね」
「でしょう?」
「時雨」
曹操が言う。
「着替えなさい」
「嫌だ」
「命令よ」
「休暇だろ」
「休暇中も」
「私の命令は有効よ」
「横暴だ」
「王ですもの」
時雨は。
逃げ道を探す。
ない。
栄華。
曹操。
二人。
どちらも。
引くつもりはない。
華論が。
小さく笑う。
「諦めた方がいいっすよ」
「華論」
「何っすか」
「後で訓練」
「休暇中っす!」
「休み明け」
「何で私だけ!」
「笑ったから」
「厳しいっす!」
柳琳は。
穏やかに。
時雨の前へ。
小さな袋を置く。
「こちらも」
「何だ」
「香草です」
「眠る前」
「湯へ入れてください」
「薬か」
「薬ではありません」
「身体を緩めるためのものです」
「必要ない」
「使ってください」
「命令か」
柳琳は。
少しだけ。
考える。
「お願いです」
時雨は。
袋を見る。
命令なら。
断る理由がある。
必要がない。
そう言える。
だが。
お願い。
柳琳は。
時雨が。
その言葉へ弱いことを。
分かっている。
「分かった」
時雨が答える。
柳琳は。
嬉しそうに微笑む。
栄華が。
扇を開く。
「柳琳へは」
「素直ですのね」
「何が」
「わたくしの衣服は」
「嫌だと」
「柳琳の香草は」
「すぐ受け取った」
「衣服は」
「武器が入らない」
「まだ言いますの!」
曹操は。
栄華の持ってきた服から。
濃い青を選ぶ。
「これがよいわ」
「黒ではなく?」
栄華が尋ねる。
「ええ」
「時雨は」
「黒ばかり着るもの」
「似合う」
時雨が言う。
「黒は」
「汚れが目立たないだけでしょう」
「便利だ」
「今日は」
「青にしなさい」
「なぜ」
曹操は。
時雨の目を見る。
「私が見たいから」
時雨は。
一瞬。
黙った。
実用。
必要性。
そのどちらでもない理由。
だが。
今日。
庭で。
曹操は。
役に立たないものにも。
意味があると言った。
時雨は。
濃い青の服を見る。
「分かった」
栄華の目が。
大きくなる。
「今」
「承諾しましたの?」
「ああ」
「華琳様が」
「見たいとおっしゃっただけで?」
「ああ」
栄華は。
時雨を見る。
次に。
曹操を見る。
「……そうですの」
なぜか。
僅かに。
面白くなさそう。
華論が。
その表情へ気づき。
口元を緩める。
栄華の扇が。
すぐに華論の額を叩いた。
「痛いっす!」
「余計な顔をしないでくださいませ」
「何も言ってないっす!」
「顔が言っております」
時雨は。
服を持つ。
「どこで着替える」
曹操が。
当然のように答える。
「ここで」
「曹操」
「何?」
「栄華たちがいる」
「では」
「隣の部屋で」
「華琳様」
栄華が。
慌てる。
「わたくしたちは」
「もう下がりますわ!」
「なぜ」
「なぜでもです!」
栄華は。
華論の背を押す。
柳琳も。
小さく頭を下げる。
「時雨」
「夕食前に」
「少し診察へ参ります」
「休暇だ」
「診察は休暇に含まれます」
「含まれない」
「華琳様」
「含まれるわ」
「二人で決めるな」
三人は。
部屋を出ていく。
扉が閉まる。
曹操は。
青い衣服を。
時雨へ渡す。
「着替えなさい」
「隣で」
「ここでよいでしょう?」
「駄目だ」
「どうして」
「見たいのは」
「着た後だろ」
曹操は。
少し。
意外そうな顔をする。
「ええ」
「なら」
「待て」
時雨は。
隣室へ入る。
扉を閉める。
曹操は。
一人。
小さく笑った。
以前なら。
理由が分からない。
必要がない。
そう言い続け。
最後まで拒んだ。
今は。
曹操が見たい。
それだけで。
着ることを選んだ。
変化。
小さい。
だが。
曹操にとっては。
涼州を得たこととは。
別の意味で。
嬉しい。
しばらくして。
時雨が戻る。
濃い青。
柔らかな衣。
帯も。
軍装より軽い。
黒い髪。
青い布。
普段の鋭さが。
少しだけ。
和らいで見える。
腰には。
何もない。
剣も。
短剣も。
時雨自身。
落ち着かないのか。
右手が。
何度か。
腰へ動きかける。
曹操は。
最初。
何も言わなかった。
じっと。
時雨を見る。
「何だ」
「似合うわ」
「ああ」
「それだけ?」
「何を言えばいい」
「私が」
「見たいと言った理由を」
「聞かないの?」
「似合うからだろ」
曹操の目が。
僅かに見開かれる。
「時雨」
「何だ」
「休暇が終わるまでに」
「もう少し」
「鈍い男ではなくなるかもしれないわね」
「意味が分からない」
「前言撤回よ」
曹操は。
深く息を吐く。
「やはり鈍いわ」
「なぜ」
「自分で考えなさい」
時雨は。
考える。
戦場なら。
相手の意図。
すぐに読む。
馬超の行動。
豪族の迷い。
馬騰の弱点。
全て。
考える。
だが。
曹操が。
自分へ。
青い服を着せたかった理由。
分からない。
「曹操の色に近いからか」
曹操の瞳が。
僅かに動く。
「蒼い目」
時雨が続ける。
「それに合わせた」
完全な正解ではない。
だが。
大きく。
外れてもいない。
曹操は。
少しだけ。
視線を逸らした。
「……そういうことに」
「しておきましょう」
「違うのか」
「もう答えないわ」
曹操は。
窓辺へ戻る。
時雨も。
隣へ座る。
青い衣。
武器のない腰。
何もしない時間。
最初の休日は。
そうして。
ゆっくり過ぎた。
夜。
柳琳の診察。
栄華が作った。
休暇用の食事表。
華論が。
兵舎から。
絶対に軍務ではないと主張する。
黒狼隊の兵たちの寄せ書きを持ってきた。
内容。
ほとんどが。
総大将。
寝てください。
飯を食ってください。
勝手に見回りへ来ないでください。
最後。
韓武の字。
三日くらい。
俺たちを信用してください。
時雨は。
長く。
その一文を見た。
「何て書いてあるの?」
曹操が尋ねる。
「見れば分かる」
「あなたの口から聞きたい」
時雨は。
少し黙る。
「三日くらい」
「俺たちを信用しろ」
「そう」
曹操は。
寄せ書きを見る。
「できそう?」
「分からない」
「なら」
「明日も練習ね」
「休暇じゃないのか」
「信用して休むための練習よ」
「訓練ばかりだな」
曹操は。
笑った。
---
休暇。
二日目。
時雨は。
日の出前に目を覚ました。
昨日より。
身体は軽い。
隣。
曹操は。
まだ眠っている。
時雨は。
静かに。
寝台から降りようとした。
昨日と違い。
袖は掴まれていない。
逃げられる。
別に。
逃げるわけではない。
少し。
中庭を歩く。
王宮の中。
外へは出ない。
約束も。
破らない。
そう考える。
足を床へ下ろす。
「どこへ」
曹操の声。
目を閉じたまま。
時雨の動きが止まる。
「起きてたのか」
「今起きたわ」
「昨日も言った」
「ええ」
「中庭」
「一人で?」
「ああ」
「駄目よ」
「王宮から出ない」
「約束は守ってる」
「休む約束もあるでしょう」
「歩くだけだ」
曹操は。
目を開く。
「何のために」
「身体を動かす」
「何のために」
「鈍らないように」
「却下」
「なぜ」
「まだ」
「軍務の身体から」
「戻っていないから」
「戻す必要はない」
「あるわ」
曹操は。
起き上がる。
時雨を見る。
「今日は」
「別のことをしましょう」
「何を」
「街を見る」
時雨の眉が。
僅かに動く。
「王宮から出るのか」
「私の許可なく」
「出てはいけないと言ったの」
「私と一緒なら」
「出てもよいわ」
「昨日」
「出さないと言った」
「予定を変えたの」
「なぜ」
「時雨」
曹操は。
少し。
呆れたように言う。
「あなたを」
「三日間」
「部屋へ閉じ込めれば」
「休暇が終わった瞬間」
「反動で」
「許昌中を歩き回るでしょう」
時雨は。
否定できない。
すでに。
見たい場所が。
いくつもある。
涼州兵の宿舎。
黒狼隊。
霞の正式配属。
馬騰との話し合い。
馬超の訓練。
市場の物価。
帰還した兵の家族。
「顔に出ているわ」
曹操が言う。
「出てない」
「出ている」
「だから」
「今日は」
「私と街へ出る」
「ただし」
「軍務は禁止」
「視察も禁止」
「問題を見つけても」
「その場で解決しない」
「無理だ」
「なら出さない」
時雨は。
曹操を見る。
街。
外。
問題を見つけても。
解決しない。
それは。
ただ庭を見るより。
難しい。
「曹操が」
「やればいい」
「何を」
「問題があれば」
「曹操が決める」
曹操の目が。
僅かに細くなる。
「私へ任せるの?」
「ああ」
「今日は」
「曹操がいる」
「そう」
曹操は。
ゆっくり笑った。
「なら」
「よいでしょう」
---
二人が。
王宮の外へ出ることは。
当然。
簡単ではなかった。
魏王曹操。
涼州征伐の総大将張燕。
その二人が。
揃って。
許昌の街へ。
休暇だから出る。
護衛なし。
許されるはずがない。
「私が護衛します!」
春蘭が。
真っ先に名乗り出た。
「姉者だけでは」
「目立ちすぎる」
秋蘭が言う。
「私も行こう」
「うちも行くで」
霞が。
当然のように。
加わる。
「街で」
「うまい酒探したいし」
「休暇の目的が違う」
秋蘭が。
冷静に返す。
「それから」
「馬超も連れていきましょう!」
春蘭が。
なぜか提案する。
「なぜ」
時雨が尋ねる。
「昨日から」
「訓練場へ行きたいと」
「うるさい!」
廊下の向こう。
馬超の声。
「聞こえているぞ!」
茶色のポニーテール。
普段着。
だが。
腰には。
まだ武器がない。
怒りながら。
こちらへ歩いてくる。
「私は」
「張遼と勝負をするため」
「訓練場へ行きたいと言っただけだ!」
「休暇の日に」
「勝負するな」
時雨が言う。
「お前の休暇だろう!」
「霞も」
「一応」
「凱旋後の休養日だ」
「うちは」
霞が笑う。
「勝負してもええで」
「霞」
時雨が見る。
「何や」
「休め」
霞が。
目を丸くする。
「お前に言われたくないわ!」
「今日は」
「俺も休む」
「明日は?」
「分からない」
「そこや!」
曹操は。
集まった者たちを見る。
春蘭。
秋蘭。
霞。
馬超。
さらに。
少し離れた場所には。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
華論。
栄華。
柳琳。
なぜか。
全員。
出かける気でいる。
「全員で行くつもり?」
曹操が尋ねる。
桂花が。
胸を張る。
「当然です!」
「華琳様が」
「街へお出になるのですから!」
「でも」
「それでは」
「視察になるでしょう」
全員が。
僅かに黙る。
確かに。
魏の主要な将と軍師。
ほぼ全員。
街へ出れば。
休暇ではない。
大行列。
民も。
商人も。
緊張する。
「では」
風が。
ゆっくり手を上げる。
「くじ引きにしましょうかー」
「何?」
桂花が。
風を見る。
「護衛役を」
「公平に決めるのです」
「華琳様と」
「時雨さんを」
「陰から見守る役を二人」
「一緒に歩く役を一人」
「残りは」
「王宮でお留守番ですねー」
「なぜ」
「一人だけ」
「一緒に歩けるのよ!」
桂花が叫ぶ。
風は。
袖の中から。
細長い木片を出した。
すでに。
用意していた。
「最初から」
「こうなると思っていたのか」
稟が尋ねる。
「何となくですよー」
「風」
桂花が。
木片を見る。
「印を」
「細工していないでしょうね」
「もちろんです」
風は。
柔らかく微笑む。
怪しい。
だが。
他に。
まとまる方法がない。
結果。
一緒に歩く役。
流琉。
陰から護衛する役。
秋蘭。
霞。
春蘭は。
外れた。
「なぜだ!」
王宮の廊下が。
揺れる。
「引き直しを要求する!」
「姉者」
秋蘭が言う。
「くじは公平だ」
「私は」
「華琳様の一番の護衛だぞ!」
「声が大きすぎて」
「陰から守れないっす」
華論の一言。
春蘭が。
華論を睨む。
「今」
「何と言った」
「何も言ってないっす!」
「言っただろう!」
「時雨!」
春蘭が。
助けを求めるように。
時雨を見る。
時雨は。
少し考える。
「春蘭は」
「今日は休め」
春蘭の目が。
僅かに見開かれる。
「私を」
「心配しているのか」
「ああ」
春蘭の顔が。
一瞬で。
明るくなる。
「そうか!」
「ならば」
「今日は休む!」
あまりに。
簡単。
馬超が。
呆れた顔をする。
「単純だな」
「何だと!」
「休むのではなかったのか」
「貴様が」
「無礼を言うからだ!」
「ほら」
「休めていない」
時雨が言う。
春蘭は。
口を閉じた。
「……休む」
大人しく。
廊下の端へ下がる。
馬超は。
さらに。
驚いた顔。
「あれでいいのか」
「ああ」
「魏軍最強の将だろう」
「ああ」
「大丈夫なのか」
「強いから」
「問題ない」
「そういう問題か?」
流琉は。
三人の前へ。
小さな包みを持って立つ。
「華琳様」
「時雨」
「準備できました」
今日。
流琉は。
将としてではなく。
案内役。
料理を知り。
市場を知る。
許昌の店へ。
詳しい。
曹操が。
選んだわけではない。
くじ。
だが。
結果として。
最も。
休暇らしい人選だった。
「行きましょう」
曹操が言う。
時雨。
流琉。
三人。
少し離れて。
姿を隠した秋蘭と霞。
許昌の街へ。
出る。
---
曹操と時雨は。
目立たない服を着ていた。
曹操は。
金髪を。
普段とは違う形で結び。
頭巾で一部を隠している。
豪商の娘。
そう見える衣装。
時雨も。
昨日。
栄華が用意した。
濃い青の普段着。
剣はない。
短剣も。
持っていない。
代わりに。
流琉が。
護身用の小刀を。
自分の腰へ差している。
「本当に」
時雨が言う。
「曹操に見えない」
曹操の眉が。
僅かに上がる。
「褒めているの?」
「分からない」
「時雨」
「悪くない」
「最初から」
「そう言いなさい」
曹操は。
少しだけ。
機嫌を直す。
許昌の大通り。
人。
商人。
荷車。
露店。
香辛料。
焼いた肉。
菓子。
布。
陶器。
金属。
声。
活気。
凱旋軍が戻った翌日。
街全体。
祝勝の空気が残っている。
店先へ。
魏の旗。
黒い狼を描いた。
小さな旗まである。
時雨が。
足を止める。
「何だ」
露店。
黒い木彫りの狼。
口を開き。
牙を見せている。
「黒山の狼だよ!」
店主が。
声を上げる。
時雨たちが。
本人だとは気づかない。
「涼州の大軍を」
「一度も大戦せずに降した」
「張燕将軍!」
「今」
「許昌で一番人気の縁起物さ!」
時雨は。
木彫りを見る。
似ていない。
狼というより。
犬。
牙だけ。
大きい。
「不細工だな」
時雨が言う。
店主の顔が。
僅かに険しくなる。
「何だと?」
「狼に見えない」
「兄さん」
「分かってないね!」
店主は。
木彫りを掲げる。
「張燕将軍は」
「見た目は恐ろしいが」
「民には優しい!」
「だから」
「少し愛嬌を入れてるんだ!」
曹操が。
口元を。
扇で隠す。
流琉も。
笑いを堪えている。
「愛嬌」
時雨が呟く。
「ないな」
「あるわよ」
曹操が言う。
「どこに」
「今も」
「木彫りへ」
「真剣に腹を立てているところ」
「腹は立ててない」
「では」
店主が。
三人を見る。
「一つどうだい?」
「安くするよ!」
時雨は。
いらないと。
言おうとした。
曹操が。
先に。
銭を置く。
「いただくわ」
「毎度!」
店主が。
木彫りを包む。
時雨が。
曹操を見る。
「何に使う」
「部屋へ飾る」
「どこに」
「私の寝室」
「なぜ」
「本物が」
「いない時に見るため」
流琉が。
僅かに頬を赤くする。
時雨は。
木彫りを見る。
次に。
曹操。
「俺がいる時は」
「いらないのか」
曹操の動きが。
一瞬。
止まる。
蒼い瞳が。
時雨へ向く。
「ええ」
声。
少しだけ。
柔らかい。
「本物がいるなら」
「必要ないわ」
時雨は。
小さく頷く。
「なら」
「遠征中だけだな」
曹操は。
何も言わない。
ただ。
包みを。
大切そうに。
流琉へ預けた。
「時雨」
流琉が尋ねる。
「何だ」
「今の」
「わざとですか?」
「何が」
「いえ」
流琉は。
小さく笑う。
「何でもありません」
三人は。
市場を進む。
時雨は。
つい。
物価を見る。
麦。
塩。
肉。
涼州征伐前より。
僅かに上がっている。
軍の遠征。
物資需要。
凱旋。
祝い。
市場へ。
影響が出る。
「塩が高い」
時雨が言う。
曹操が。
すぐに横を見る。
「視察は禁止」
「見えた」
「解決しようとしない」
「理由を聞くだけ」
「駄目」
「なぜ」
「今日は」
「買い物をする日だから」
「何を買う」
曹操は。
時雨を見る。
「あなたが欲しいもの」
「ない」
「探しなさい」
「必要なものはある」
「欲しいものよ」
「違うのか」
「違うわ」
時雨は。
市場を見る。
武器。
必要。
新しい弓弦。
必要。
黒狼隊の装備。
必要。
遠征用の靴。
必要。
だが。
自分が。
欲しいもの。
考える。
分からない。
「流琉」
時雨が呼ぶ。
「はい」
「欲しいものは」
「どうやって決める」
流琉は。
少し驚く。
曹操も。
黙って。
二人の会話を聞く。
「そうですね」
流琉は。
周囲を見る。
「見た時に」
「心が少し動くもの」
「役に立つかではなく」
「手元に置きたいと思うもの」
「食べ物なら」
「もう一度食べたいもの」
「そういうものだと思います」
「心が動く?」
「はい」
時雨は。
露店を見る。
布。
動かない。
飾り。
動かない。
陶器。
割れにくさを見る。
それは。
欲しいではなく。
必要性。
菓子。
甘い。
なくても困らない。
楽器。
使えない。
香。
戦場では邪魔。
どれも。
考えれば。
不要になる。
「ない」
時雨が言う。
曹操は。
少し。
残念そうな顔をする。
だが。
流琉は。
笑う。
「今すぐ」
「見つけなくてもいいと思います」
「そうか」
「はい」
「それに」
流琉は。
一つの店を指す。
「欲しいものではなく」
「誰かへ渡したいものから」
「探すのもよいですよ」
曹操の眉が。
僅かに動く。
「流琉」
「はい」
「余計な助言は」
「いらないわ」
「なぜですか?」
「何でもない」
時雨は。
店を見る。
髪飾り。
櫛。
腕輪。
装飾品。
女性向け。
色とりどり。
役には立たない。
少なくとも。
戦には。
だが。
時雨の目が。
一つの櫛へ止まった。
黒い木。
細かな。
銀の装飾。
派手ではない。
光へ当てれば。
僅かに。
狼の毛並みのような模様が見える。
「それ?」
曹操が尋ねる。
「ああ」
「誰へ?」
時雨は。
曹操を見る。
「曹操」
曹操の瞳が。
僅かに見開かれる。
「昨日」
「髪を梳いた」
「ああ」
「使ってた櫛は」
「金が多すぎる」
「そう」
「これは」
「壊れにくそうだ」
曹操は。
一瞬。
言葉を失う。
選んだ理由。
美しいから。
似合うから。
ではない。
壊れにくい。
時雨らしい。
それでも。
自分へ。
何かを選んだ。
誰かに命じられず。
必要性でもなく。
手元に置いてほしいと。
思った。
「いただくわ」
曹操が言う。
「まだ買ってない」
「買うのでしょう?」
「ああ」
時雨は。
店主へ。
代金を尋ねる。
自分の懐。
栄華から。
渡されている俸給。
以前。
山羊乳の煮込みを作るため。
使った。
まだ。
多く残っている。
時雨は。
代金を払う。
曹操は。
横から出さない。
これは。
時雨が。
自分の金で。
自分の意思で。
買うもの。
小さな箱。
櫛。
時雨は。
曹操へ渡す。
「何か」
「言うものではないの?」
曹操が尋ねる。
「何を」
「贈り物でしょう?」
「そうだな」
「なら」
時雨は。
少し考える。
「使え」
曹操の笑みが。
僅かに固まる。
「時雨」
「何だ」
「もう一度」
「使ってほしい」
「誰が?」
「曹操」
「なぜ?」
時雨は。
櫛を見る。
「似合うと思った」
曹操の表情が。
止まる。
今度こそ。
正解。
曹操は。
箱を受け取る。
「ええ」
「使うわ」
声。
いつもより。
静か。
流琉は。
二人から。
少し視線を外す。
陰。
建物の屋根。
霞が。
秋蘭へ小声で言う。
「今の見た?」
「ああ」
「時雨」
「やればできるやん」
「本人は」
「何も分かっていないだろう」
「そこが」
「時雨やな」
二人。
護衛。
完全に。
覗き見になっている。
馬超も。
なぜか。
少し離れた店の陰にいた。
くじへ外れたはず。
「何をしている」
霞が尋ねる。
馬超が。
肩を跳ねさせる。
「偶然だ!」
「王宮に」
「残っとったはずやろ」
「許昌の街を」
「自分で見る必要がある!」
「ほんなら」
「何で」
「華琳様と時雨の後つけとる」
「同じ道だっただけだ!」
秋蘭が。
静かに口へ指を当てる。
「声が大きい」
馬超が。
慌てて口を閉じる。
三人の前方。
時雨が。
僅かに振り返った。
気づいたか。
霞たちは。
すぐに身を隠す。
時雨は。
何も言わず。
前へ戻る。
「気づかれた?」
馬超が尋ねる。
「ああ」
秋蘭が答える。
「では」
「なぜ言わない」
「休暇だからだろう」
「どういう意味だ」
「私たちが」
「ついてきたいなら」
「好きにさせている」
霞が。
僅かに笑う。
「ほんま」
「変わったな」
---
昼。
流琉が。
勧めた店へ入る。
大きくはない。
庶民の食堂。
店主は。
曹操に気づかない。
流琉は。
何度か来たことがあるらしい。
「ここの水餃子が」
「美味しいんです」
「流琉が作る方が」
「うまいだろ」
時雨が言う。
流琉は。
困ったように笑う。
「食べる前から」
「決めないでください」
曹操も。
時雨を見る。
「今日の決まり」
「味を言う」
「ああ」
水餃子。
湯気。
皮。
肉。
野菜。
香草。
時雨は。
一つ。
口へ入れる。
噛む。
昨日より。
ゆっくり。
曹操が。
見ている。
「どう?」
「熱い」
「味は」
「肉が強い」
「他には」
「皮が」
「少し厚い」
流琉が。
興味深そうに聞く。
「嫌ですか?」
「違う」
「噛み応えがある」
「それから」
時雨は。
もう一つ食べる。
「香草が」
「後に残る」
「うまい」
流琉の顔が。
明るくなる。
「よかったです!」
曹操も。
満足そう。
「上達したわね」
「何が」
「味わうこと」
「食っただけだ」
「昨日は」
「三度しか噛まなかったでしょう」
「数えるな」
三人は。
食事を続ける。
周囲。
庶民の会話。
涼州の勝利。
帰ってきた兵。
商売。
家族。
その中。
一人の男が。
声を上げて笑う。
「張燕将軍ってのは」
「相当な化け物らしいな!」
別の男。
「夏侯惇将軍を」
「剣で倒して」
「夏侯淵将軍にも」
「弓で勝ったって話だ!」
「軍師三人相手の」
「軍略勝負にも勝ったんだろ?」
「しかも」
「涼州軍を」
「飯食わせて降したって!」
笑い。
驚き。
噂。
尾ひれ。
時雨は。
黙って聞く。
「どんな顔だろうな」
「大男に決まってる!」
「狼の毛皮を被って」
「人の骨を首から下げてるって聞いたぞ!」
曹操が。
水を吹き出しそうになる。
流琉は。
俯き。
肩を震わせる。
時雨は。
自分の青い衣を見る。
首。
骨はない。
「違うな」
小さく呟く。
男たちが。
時雨へ目を向ける。
「何がだい?」
「張燕は」
時雨が言う。
「骨を下げてない」
曹操が。
机の下で。
時雨の足を踏む。
「痛い」
「時雨」
曹操が。
小声で言う。
「黙って」
男は。
不思議そうな顔。
「兄さん」
「張燕将軍を見たことがあるのか?」
時雨は。
曹操を見る。
黙れ。
そういう目。
「遠くから」
「へえ!」
「どんな男だ?」
時雨は。
少し考える。
「普通」
「そんなわけあるか!」
男たちが笑う。
「普通の男が」
「涼州軍を崩せるかよ!」
「きっと」
「目だけで人を殺すような奴だ!」
「あと」
「女嫌いらしいぞ」
別の男が言う。
曹操の笑みが。
止まる。
「どうして?」
曹操が。
思わず尋ねる。
声。
僅かに冷たい。
「いつも」
「女将軍に囲まれてるのに」
「誰にも手を出さないって話だ!」
「どんな美女を与えられても」
「断るらしい!」
「へえ」
曹操の声が。
さらに低くなる。
時雨は。
餃子を食べる。
「噂だ」
「何が?」
曹操が。
笑顔で尋ねる。
「全部」
「では」
「女嫌いではない?」
「違う」
「そう」
「どんな女が好きなの?」
時雨の箸が止まる。
流琉も。
僅かに動きを止める。
周囲の男たちは。
勝手に話を続けている。
曹操の問いは。
小声。
時雨へだけ。
「分からない」
「本当に?」
「ああ」
「金髪は?」
「珍しい」
「蒼い目は?」
「綺麗だと思う」
曹操の瞳が。
僅かに大きくなる。
「小柄な女は?」
「動きやすそうだ」
曹操の眉が動く。
「気が強い女は?」
「春蘭か」
「なぜ春蘭が出るの!」
「気が強い」
「私の話よ!」
時雨は。
曹操を見る。
「曹操は」
「気が強いというより」
「我が強い」
「同じでしょう!」
店の客たちが。
こちらを見る。
曹操は。
すぐに。
声を抑える。
流琉が。
笑いを堪えられない。
「流琉」
曹操が。
冷たい目を向ける。
「申し訳ありません」
「でも」
「時雨らしいと思って」
「何が」
「言葉が」
「少し足りないところです」
時雨は。
水餃子を。
もう一つ食べる。
「曹操は」
「嫌いじゃない」
曹操の動きが。
止まる。
流琉も。
完全に。
静かになる。
「何?」
曹操が。
聞き返す。
時雨は。
餃子を飲み込む。
「女嫌いじゃないかと」
「聞いたから」
「曹操は嫌いじゃない」
「好き?」
「選んだ」
「それは」
「主としてでしょう?」
「それだけなら」
時雨は。
曹操を見る。
「櫛は買わない」
曹操は。
言葉を失った。
時雨は。
また食事へ戻る。
自分が。
何を言ったのか。
半分ほどしか。
理解していない。
だが。
曹操には。
十分だった。
流琉は。
黙って。
水を飲む。
店の外。
壁の向こう。
霞が。
両手で。
口を押さえている。
声を出せば。
見つかる。
秋蘭は。
珍しく。
目を見開いていた。
馬超は。
顔を真っ赤にしている。
「なっ」
「何なんだ!」
「何を聞かされているんだ、私は!」
霞が。
小声で笑う。
「ええもん聞いたな」
「よくない!」
「ほんなら帰る?」
馬超は。
少し迷う。
「……許昌を」
「見る必要がある」
「せやな」
霞の笑みが。
深くなる。
---
午後。
時雨は。
一つの問題を見つけた。
市場の端。
荷車。
車輪。
罅。
積まれた陶器。
このまま。
石畳の段差へ入れば。
壊れる。
時雨の足が。
自然に。
そちらへ向く。
曹操が。
袖を掴んだ。
「駄目」
「車輪が」
「見えているわ」
「壊れる」
「そうね」
「なら」
「今日は」
「あなたが直す日ではない」
「陶器が割れる」
「店主が困る」
「ええ」
時雨は。
曹操を見る。
「曹操」
「何?」
「任せる」
曹操の瞳が。
僅かに動く。
時雨は。
問題を。
見つけた。
自分で。
動こうとした。
だが。
止まった。
曹操へ。
渡した。
「流琉」
曹操が呼ぶ。
「はい」
「あの荷車の持ち主へ」
「車輪を確認するよう」
「伝えて」
「分かりました」
流琉が。
走る。
店主へ話す。
店主は。
最初。
首を傾げる。
車輪を見る。
罅。
顔が青くなる。
すぐに。
荷を下ろし。
修理へ取りかかる。
時雨は。
その様子を見る。
「済んだわ」
曹操が言う。
「ああ」
「あなたが」
「手を出さなくても」
「済んだ」
「ああ」
「どう?」
時雨は。
少し考える。
「遅い」
「時雨」
「でも」
「済んだ」
「ええ」
「俺がやらなくても」
曹操が。
僅かに笑う。
「そうよ」
「あなたが」
「気づいたことは」
「誰かへ渡してもよい」
「その者が」
「できるなら」
「任せればよい」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「では」
曹操は。
時雨の腕を。
僅かに引く。
「先へ行きましょう」
時雨は。
荷車を。
一度だけ振り返る。
店主。
修理。
問題ない。
それ以上。
見ない。
歩く。
曹操と。
流琉と。
共に。
休む。
それは。
何も見ないことではない。
何も考えないことでもない。
気づいても。
全てを。
自分の手へ抱えないこと。
時雨は。
その形を。
少しだけ。
理解し始めていた。
---
夕方。
王宮へ戻る。
春蘭が。
門で待っていた。
休むよう言われたはず。
完全武装。
「なぜ」
時雨が尋ねる。
「何がだ」
「休んでない」
「休んでいた!」
「鎧を着て」
「立ってる」
「華琳様の御帰還を」
「待つことが」
「私の休みだ!」
「違うと思う」
「何だと!」
秋蘭と霞も。
少し遅れて。
姿を現す。
護衛任務。
気づかれていたことを。
二人とも。
理解している。
時雨は。
何も言わない。
馬超は。
さらに遅れて。
別の門から戻ろうとした。
時雨が見る。
馬超の動きが止まる。
「何だ」
「ついてきたな」
「違う!」
「声を聞いた」
「誰の!」
「馬超」
「なぜ」
「何も言わなかった!」
「休暇だから」
「意味が分からない!」
曹操が。
馬超を見る。
「街はどうだった?」
馬超が。
一瞬。
言葉に詰まる。
「……賑やかだった」
「そう」
「民は」
馬超は。
少し考える。
「曹操を」
「恐れているだけではなかった」
春蘭が。
胸を張る。
「当然だ!」
「華琳様は」
「民から敬愛されている!」
「お前に聞いていない!」
「何だと!」
馬超は。
曹操へ向き直る。
「それから」
「張燕の」
「変な木彫りが売られていた」
霞が。
噴き出す。
「見たんか!」
「あれ」
「全然似てへんやろ」
「お前も見たのか」
「護衛やからな」
時雨が。
霞を見る。
「買うか」
「何を」
「木彫り」
「いらんわ!」
「酒を持たせれば」
「霞に似る」
「狼やなくなるやろ!」
皆の声。
王宮の門前。
賑やか。
曹操は。
買った木彫りを。
大切そうに。
流琉から受け取る。
春蘭が。
目を見開く。
「華琳様!」
「それは!」
「時雨の木彫りよ」
「私も欲しいです!」
「自分で買いなさい」
「どこですか!」
馬超が。
呆れた顔。
「本当に」
「これが魏軍最強の将なのか」
秋蘭が。
静かに答える。
「強さには関係ない」
「ああ」
時雨も頷く。
「問題ない」
春蘭は。
自分が。
褒められたと判断した。
「当然だ!」
馬超は。
さらに。
理解できない顔になった。
休暇。
二日目。
時雨は。
街を歩いた。
問題を見つけ。
一つだけ。
他人へ任せた。
曹操へ。
櫛を贈った。
食事を。
味わった。
自分が。
嫌いではない相手を。
言葉へした。
そして。
夜。
曹操の私室ではなく。
自分の部屋へ戻ると。
主張した。
「駄目よ」
曹操は。
即答した。
「なぜ」
「休暇は」
「私の監視下で過ごす」
「昨日も聞いた」
「なら」
「理解しているでしょう」
「自室でも寝る」
「眠れないでしょう」
「眠れる」
「本当に?」
「ああ」
「では」
「今夜は試してみましょう」
曹操は。
意外にも。
認めた。
ただし。
条件。
寝る前に。
柳琳から受け取った。
香草入りの湯へ入る。
食事を。
すべて食べる。
剣を。
部屋へ持ち込まない。
夜中。
一度でも。
部屋から出れば。
残りの休暇は。
曹操の寝室。
時雨は。
同意した。
自室。
久しぶり。
涼州へ出る前から。
ほとんど使っていない。
整えられている。
塵もない。
寝台。
机。
椅子。
剣掛け。
だが。
剣は。
春蘭に預けられた。
「なぜ私が」
春蘭は。
剣を。
大切そうに抱えている。
「預かるのだ」
「曹操が」
「一番信用できると」
「そうか!」
春蘭は。
一瞬。
嬉しそうになる。
「だが」
すぐに。
表情を引き締める。
「時雨」
「何だ」
「夜中に」
「剣を取りに来ても」
「渡さんぞ」
「ああ」
「本当か」
「ああ」
「窓から入っても」
「渡さん!」
「窓から行かない」
「屋根からでも!」
「行かない」
「床下からでも!」
「春蘭」
「何だ」
「休め」
春蘭は。
黙る。
「……分かった」
剣を持ち。
戻っていく。
時雨は。
一人。
部屋へ入った。
静か。
曹操の寝室とは違う。
誰もいない。
自分の場所。
本来なら。
落ち着くはず。
だが。
妙に。
広く感じる。
机の上。
何もない。
書類も。
地図も。
置かれていない。
曹操の命令。
全て。
持ち去られた。
時雨は。
寝台へ座る。
横になる。
目を閉じる。
眠れない。
香草の湯。
身体は。
温かい。
食事も。
十分。
疲れも。
残っている。
それでも。
眠りへ入れない。
静かすぎる。
遠征中。
外では。
見張りの声。
馬。
兵の寝息。
火の音。
いつでも。
何かがあった。
曹操の寝室では。
曹操の呼吸。
衣擦れ。
時折。
寝返り。
今。
何もない。
時雨は。
目を開ける。
天井。
自分の部屋。
戻ったはずの場所。
だが。
帰ってきた感じがしない。
「面倒だな」
呟く。
立ち上がろうとする。
駄目。
夜中。
部屋から出れば。
曹操の勝ち。
勝ち負けではない。
それでも。
出たくない。
時雨は。
もう一度。
横になる。
しばらく。
耐える。
眠れない。
目を閉じる。
涼州。
泉。
馬超。
兵。
目を開ける。
暗い部屋。
また閉じる。
今度。
扉の向こう。
小さな音。
時雨の目が開く。
誰か。
気配。
敵ではない。
分かる。
扉が。
僅かに開く。
黄金の髪。
曹操。
寝衣。
灯りも持たず。
部屋へ入ってくる。
「何をしてる」
時雨が尋ねる。
「眠れているか」
「見に来たの」
「眠れた」
「嘘」
曹操は。
寝台へ近づく。
「目が」
「完全に開いているわ」
「今起きた」
「私が入る前から」
「気配を追っていたでしょう」
時雨は。
黙る。
曹操は。
寝台の端へ座る。
「戻る?」
「どこへ」
「私の部屋」
「負けたようで嫌だ」
曹操の眉が。
僅かに上がる。
「勝負だったの?」
「違う」
「なら」
「戻りましょう」
時雨は。
動かない。
「曹操」
「何?」
「ここで寝ろ」
曹操の目が。
僅かに見開かれる。
「私が?」
「ああ」
「あなたの部屋で?」
「ああ」
「どうして」
時雨は。
少し考える。
「自室で」
「寝たい」
「でも」
「一人だと」
「眠れない」
曹操の表情が。
完全に止まる。
時雨は。
言葉を続ける。
「曹操の部屋へ行けば」
「俺が移動したことになる」
「だから」
「曹操が来ればいい」
しばらく。
沈黙。
次の瞬間。
曹操が。
笑い始めた。
声を抑える。
だが。
肩が揺れる。
「何がおかしい」
「全部よ」
「何が」
「本当に」
「あなたは」
「妙なところで」
「負けず嫌いね」
「違う」
「ええ」
「違うことにしておくわ」
曹操は。
寝台へ入る。
時雨の隣。
自分の寝室ではない。
時雨の部屋。
時雨の寝台。
「狭いわね」
「曹操の寝台が広すぎる」
「王の寝台ですもの」
「一人には広い」
曹操の動きが。
僅かに止まる。
「なら」
「これからも」
「あなたが使えばよいでしょう?」
「自分の部屋がある」
「今夜は」
「私を呼んだくせに」
「眠るためだ」
「ああ」
曹操は。
時雨の上衣を。
軽く掴む。
「分かっているわ」
時雨は。
目を閉じる。
今度。
曹操の呼吸が聞こえる。
隣。
温度。
気配。
少しずつ。
身体から。
力が抜ける。
曹操は。
眠りへ落ちていく時雨を見る。
自分を。
必要だと言った。
直接ではない。
一人では眠れない。
だから来い。
不器用。
自分勝手。
時雨らしい。
それでも。
以前の時雨なら。
一晩中。
眠らず耐えた。
誰にも言わなかった。
今は。
曹操を呼んだ。
「お休みなさい」
曹操が言う。
「時雨」
返事。
ない。
すでに。
眠っている。
休暇。
二日目。
終わり。
---
三日目。
時雨は。
静かに目を覚ました。
曹操は。
まだ隣にいる。
今回は。
逃げようとはしなかった。
起き上がる。
窓。
夜明け前。
身体。
軽い。
頭も。
昨日より。
静か。
涼州の光景。
消えてはいない。
だが。
目を閉じれば。
すぐ現れるほどではなくなった。
時雨は。
曹操を見る。
寝ている。
黄金の髪。
昨日贈った櫛は。
まだ使っていない。
箱。
曹操の寝台ではなく。
時雨の机へ。
置かれている。
「なぜ」
時雨が。
小さく呟く。
「何が?」
曹操が答える。
また。
目を閉じたまま。
「起きてるのか」
「今起きたわ」
「嘘だな」
「あなたに言われたくない」
曹操は。
ゆっくり目を開く。
「三日目ね」
「ああ」
「今日が終われば」
「休暇も終わる」
「ああ」
「何をしたい?」
時雨は。
すぐに答えなかった。
一日目。
何もしない。
庭。
衣服。
食事。
二日目。
街。
櫛。
人へ任せる。
今。
三日目。
最後。
何をしたい。
曹操は。
待つ。
時雨が。
自分で。
望みを言うまで。
「皆と」
時雨が言う。
「飯を食う」
曹操の目が。
僅かに柔らかくなる。
「皆?」
「ああ」
「春蘭」
「秋蘭」
「桂花」
「稟」
「風」
「季衣」
「流琉」
「華論」
「栄華」
「柳琳」
「霞」
「馬騰」
「馬超」
曹操の眉が。
僅かに動く。
「馬騰と馬超も?」
「ああ」
「なぜ」
「休暇だから」
「意味が分からないわ」
「軍議じゃない」
「飯を食うだけ」
「それに」
時雨は。
少し考える。
「馬超が」
「魏を」
「自分の目で見ると言った」
「ああ」
「なら」
「見せる」
「軍議じゃない魏を」
曹操は。
時雨を見る。
宴。
勝利を誇る宴ではない。
降伏を祝う宴でもない。
同じ卓。
敵だった者。
味方。
将。
軍師。
ただ。
食べる。
話す。
時雨は。
それを望んだ。
「よいでしょう」
曹操が言う。
「ただし」
時雨が。
少し警戒する。
「何だ」
「料理は」
「あなたも作りなさい」
「なぜ」
「休暇でしょう?」
「作るのか」
「黒山の料理を」
「食べさせて」
「山羊乳の煮込み」
「あれは」
「栄華と柳琳に作った」
曹操の目が。
僅かに細くなる。
「知っているわ」
声。
静か。
危険。
「どうして」
「私には」
「残り物だったのかしら」
「残ったから」
「時雨」
「今度は」
「最初から」
「曹操の分も作る」
曹操の目が。
僅かに和らぐ。
「私の分を」
「一番に取り分けなさい」
「順番に意味があるのか」
「あるわ」
「分かった」
曹操は。
満足そうに笑った。
「では」
「皆を呼びましょう」
---
王宮の厨房。
その日。
異様な光景が広がっていた。
時雨。
鍋の前。
普段着。
袖を上げている。
流琉。
隣。
料理全体の指揮。
季衣。
食材を運ぶ。
華論。
大量調理用の。
炉と鍋の配置。
栄華。
費用と分量の計算。
柳琳。
食事制限のある者へ。
別の鍋を用意。
曹操。
厨房の入口。
見ている。
何もしていない。
正確には。
時雨が。
自分の分を。
一番に取り分けるか。
監視している。
「曹操」
時雨が呼ぶ。
「何?」
「邪魔だ」
厨房の空気が。
一瞬。
凍る。
春蘭が。
入口から叫ぶ。
「貴様!」
「華琳様へ何を!」
「春蘭も邪魔だ」
「何だと!」
「声で」
「流琉の指示が聞こえない」
「姉者」
秋蘭が。
春蘭の肩を掴む。
「外へ出よう」
「だが!」
「厨房は」
「我々の戦場ではない」
流琉が。
申し訳なさそうに。
頭を下げる。
「すみません」
「華琳様」
「春蘭様」
「今は」
「少しだけ」
「静かにしていただけると」
春蘭の顔が。
驚愕へ変わる。
流琉に。
厨房から。
追い出された。
「流琉まで……」
「姉者」
「行くぞ」
秋蘭が。
引きずっていく。
曹操は。
動かない。
「私は」
「ここにいるわ」
流琉も。
曹操までは。
追い出せない。
時雨は。
諦める。
「時雨」
流琉が呼ぶ。
「牛乳を」
「少しずつ入れてください」
「ああ」
「一度に入れると」
「分離します」
「ああ」
鍋。
肉。
根菜。
豆。
山羊乳。
許昌では。
山羊乳が。
十分に手に入らなかった。
代わりに。
牛乳を多く使い。
山羊乳を。
僅かに混ぜる。
黒山で。
完全に同じ味ではない。
だが。
時雨は。
何度も味を見る。
「どうですか?」
流琉が尋ねる。
「違う」
「何が」
「甘い」
「牛乳が多いからですね」
「塩を」
「少しだけ」
栄華が。
帳簿から顔を上げる。
「入れすぎないでくださいませ」
「分かってる」
「前回」
「最後に」
「予定より多く使いました」
「覚えてるのか」
「当然ですわ」
「一匙分まで」
「記録しております」
霞が。
厨房の外から。
顔を出す。
「まだかー?」
「腹減ったでー」
「霞」
栄華が。
冷たく言う。
「入ってくるなら」
「薪を運びなさい」
「客やで、うち」
「魏将ですわ」
「休みやろ」
「働かない者へ」
「食事はありません」
霞は。
すぐに。
薪を持つ。
「どこ置く?」
「素直だな」
馬超が。
霞の後ろから言う。
「飯かかっとるからな」
「情けない」
「ほんなら」
「馬超はいらんの?」
「食べる!」
「似た者同士だな」
時雨が言う。
「誰がだ!」
「どっちが!」
霞と馬超。
同時。
華論が笑う。
「本当に」
「似てるっす」
「華論!」
「何っすか!」
今度は。
厨房。
賑やか。
休暇。
静かでなくても。
よい。
軍議ではない。
怒号があっても。
誰も死なない。
食事が。
少し遅れるだけ。
時雨は。
鍋を混ぜる。
味を見る。
「流琉」
「はい」
「これでいい」
流琉も。
一口。
味を見る。
「美味しいです」
「前とは違う」
「でも」
「今日の味です」
「今日の?」
「同じ料理でも」
「場所や」
「一緒に作る方が違えば」
「味も変わります」
「だから」
流琉は。
笑う。
「前と違っても」
「よいと思います」
時雨は。
鍋を見る。
黒山の冬。
山羊乳。
雪。
腹を空かせた。
子供。
兵。
皆で。
一つの鍋を囲んだ。
今。
許昌。
王宮。
曹操。
春蘭たち。
馬騰。
馬超。
敵だった者も。
同じ料理を食べる。
同じではない。
同じにする必要もない。
「そうか」
時雨が言う。
流琉は。
頷いた。
料理が。
完成する。
時雨は。
器を取る。
最初。
一杯。
曹操へ。
「曹操」
曹操が。
入口から。
近づく。
時雨は。
器を渡す。
「一番だ」
曹操は。
受け取る。
「ええ」
「約束通りね」
その笑みは。
魏王のものではない。
素直に。
嬉しそう。
「味は」
「前と違う」
「そう」
「でも」
時雨は。
鍋を見る。
「悪くない」
曹操は。
一口。
食べる。
ゆっくり。
味わう。
「美味しいわ」
「ああ」
「あなたは?」
「後で食う」
曹操の眉が。
僅かに動く。
「一緒に」
「今食べなさい」
「皆の分を」
「流琉たちがやる」
流琉が。
すぐに頷く。
「はい」
「時雨も」
「食べてください」
時雨は。
自分の器へ。
煮込みを入れる。
曹操の隣。
同時に。
食べる。
「どう?」
曹操が尋ねる。
今日の決まり。
味を言う。
時雨は。
少し考える。
「甘い」
「ああ」
「前より」
「柔らかい」
「それから」
時雨は。
厨房にいる者たちを見る。
流琉。
季衣。
華論。
栄華。
柳琳。
霞。
馬超。
外。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
馬騰。
待っている。
「前より」
「うまい」
曹操が。
僅かに笑う。
「そう」
「なら」
「休暇の最後の食事に」
「相応しいわね」
---
王宮の中庭。
大きな卓。
ただし。
正式な宴ではない。
席次。
曖昧。
曹操。
時雨。
その隣。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
華論。
栄華。
柳琳。
霞。
さらに。
馬騰。
馬超。
魏の文官。
護衛。
最低限。
楽師はいない。
演説もない。
褒賞も。
降伏の確認もない。
ただ。
食事。
時雨の作った煮込み。
流琉の料理。
季衣が。
味見と言って減らした肉。
栄華が。
予定外として記録した分。
霞が。
運びながら一切れ盗み。
馬超へ見つかり。
喧嘩になった焼き鳥。
全て。
卓へ並ぶ。
「華琳様」
春蘭が言う。
「本日は」
「何の宴でしょうか」
「宴ではないわ」
曹操が答える。
「時雨の休暇の食事よ」
「なら」
春蘭は。
時雨を見る。
「なぜ私たちが?」
「時雨が呼んだの」
春蘭の顔が。
明るくなる。
「時雨が?」
「ああ」
時雨は答える。
「なぜだ」
「一緒に食うため」
「そうか!」
春蘭は。
胸を張る。
「ならば」
「遠慮なくいただく!」
「姉者」
秋蘭が言う。
「最初から」
「遠慮するつもりはなかっただろう」
「何を言う!」
「華琳様の御前だぞ!」
馬超が。
煮込みを食べる。
最初。
警戒。
次。
僅かに目を見開く。
「どうだ」
霞が尋ねる。
「普通だ」
「嘘やな」
「なぜだ!」
「今」
「目変わったで」
「変わってない!」
時雨が。
馬超を見る。
「味は」
「なぜ」
「お前に言わなければならない!」
「今日の決まりだ」
「知らない!」
曹操が。
僅かに笑う。
「馬超」
「一つ」
「味を言いなさい」
馬超は。
曹操を見る。
まだ。
華琳とは呼ばない。
「曹操まで」
「何なんだ」
「休暇の決まりよ」
「張燕の休暇だろう!」
「この料理を食べる者は」
「全員参加」
「横暴だ!」
「王ですもの」
馬超は。
納得しない。
だが。
周囲。
全員。
自分を見る。
「……肉が」
馬超が言う。
「柔らかい」
「それから」
曹操が促す。
「まだあるのか!」
「あるわ」
馬超は。
もう一口食べる。
「乳の甘さが」
「少し強い」
「ああ」
時雨が頷く。
「牛乳が多い」
「山羊乳だけなら」
「もっと癖がある」
「そうなのか」
「ああ」
「黒山では」
「冬に食べた」
馬超の目が。
僅かに動く。
時雨の過去。
山。
冬。
生きるための料理。
自分たちを。
外道な策で倒した男。
今は。
自分へ。
同じ鍋の料理を出している。
馬超は。
器を見る。
「張燕」
「何だ」
「なぜ」
「私たちまで呼んだ」
「ああ」
「質問に答えろ」
「休暇だから」
「それは聞いた!」
馬騰が。
静かに。
娘を見る。
「翠」
真名。
母だけが呼ぶ。
「食事の場だ」
「軍議ではない」
「今は」
「深く考えず」
「食べればよい」
馬超は。
少し不満そう。
だが。
母の言葉へ。
頷く。
「……分かりました」
曹操は。
馬騰を見る。
「味は?」
馬騰は。
僅かに笑った。
「私もですか」
「ええ」
「今日の決まりだそうよ」
馬騰は。
煮込みを味わう。
「素朴だ」
時雨が見る。
「悪い意味ではない」
馬騰は続ける。
「腹へ残る」
「寒い土地には」
「よい料理だろう」
「ああ」
「涼州でも」
「山羊乳は使う」
「香辛料を」
「もう少し加えれば」
「合うかもしれん」
時雨は。
少し考える。
「次」
「作る時に入れる」
馬超が。
母を見る。
「次?」
馬騰も。
僅かに目を見開く。
時雨の言葉。
次。
また。
同じ卓へ。
呼ぶつもりなのか。
ただ。
料理の話をしているだけかもしれない。
時雨自身。
そこまで考えていない。
だが。
曹操は。
聞き逃さなかった。
「ええ」
曹操が言う。
「次は」
「涼州風にしましょう」
馬騰は。
曹操を見る。
敵だった王。
まだ。
信頼を預けていない。
それでも。
次。
そう言う。
涼州の味を。
魏の卓へ。
入れる。
一方的に。
魏へ変えるのではない。
涼州のものも。
魏へ加える。
小さな。
食事の話。
だが。
馬騰には。
統治の話より。
強く届いた。
「その時は」
馬騰が言う。
「私が」
「香辛料を選ぼう」
曹操の瞳が。
僅かに細くなる。
「楽しみにしているわ」
馬超は。
母と曹操を見る。
すぐに。
仲間になるわけではない。
真名も。
預けない。
恨みも。
消えない。
だが。
次の食事。
その程度の未来なら。
想像してもよい。
そう思った。
「私は」
馬超が言う。
「もっと肉を入れたい」
栄華が。
即座に反応する。
「費用が増えますわ」
「少しくらい」
「よいだろう!」
「大人数の料理で」
「少しくらいは」
「大きな額になるのです」
「魏は」
「一番の国なのだろう!」
「一番の国でも」
「無駄遣いはしません!」
「肉は無駄ではない!」
季衣が。
強く頷く。
「そうだよ!」
「お肉は大事だよ!」
流琉が。
姉を止める。
「季衣」
「栄華さんの話も聞いて」
「でも」
「お肉が多い方が」
「美味しいよ?」
栄華が。
扇を開く。
「では」
「一人分の肉を増やす代わり」
「他の材料を」
「どの程度減らすか」
「計算しましょう」
馬超が。
身を乗り出す。
「豆を減らせ!」
時雨が。
すぐに言う。
「駄目だ」
「なぜ」
「腹持ちが悪くなる」
「では」
「野菜を!」
柳琳が。
穏やかに止める。
「野菜も必要です」
「では」
「どうすればいい!」
風が。
眠そうな声で言う。
「お肉を」
「薄く切ればよいのではー」
全員が。
少し黙る。
栄華が。
計算する。
「可能ですわね」
「量を増やさず」
「数を増やせます」
馬超の顔が。
明るくなる。
「それでいこう!」
桂花が。
額へ手を当てる。
「何の軍議よ、これは」
稟が。
小さく笑う。
「肉の軍略勝負ですね」
「軍略にしないで!」
食卓。
笑い。
言い争い。
食事。
時雨は。
その中心ではない。
曹操の隣。
静かに食べている。
だが。
何度も。
声をかけられる。
味は。
次は。
何を入れる。
誰が作る。
時雨は。
答える。
短く。
時折。
少し長く。
自分が。
呼んだ者たち。
自分がいなくても。
魏は動く。
食事も。
続く。
だが。
時雨が呼んだから。
今。
この卓がある。
それを。
時雨自身も。
少しだけ理解した。
食事の後。
季衣が。
腹を抱えて。
芝生へ寝転がる。
流琉が。
行儀を注意する。
霞が。
酒を出そうとし。
栄華に没収される。
春蘭が。
馬超へ。
食後の勝負を申し込む。
秋蘭が。
二人とも休めと止める。
桂花は。
曹操の隣へ座ろうとするが。
時雨がいるため。
僅かに不満そう。
風は。
時雨の肩へ。
もたれようとし。
曹操に。
無言で阻止される。
稟は。
その様子を見ながら。
静かに茶を飲む。
華論は。
黒狼隊へ。
料理を持ち帰る分を。
流琉と分けている。
柳琳は。
馬騰と。
涼州の薬草について話す。
敵だった者。
味方。
真名を預けた者。
まだ。
預けていない者。
全てが。
同じ庭へいる。
時雨は。
空を見る。
夕方。
休暇。
最後の日。
終わろうとしている。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「何だ」
「三日間」
「どうだった?」
時雨は。
すぐに答えない。
何もしない。
難しかった。
庭。
意味が分からなかった。
食事。
味を言わされた。
青い服。
武器がなく。
落ち着かなかった。
街。
櫛。
問題を。
曹操へ任せた。
自室。
一人では眠れなかった。
曹操を呼んだ。
皆と。
食事。
今。
「疲れた」
時雨が答える。
曹操の眉が。
僅かに動く。
「休暇なのに?」
「ああ」
「戦より?」
「種類が違う」
曹操は。
小さく息を吐く。
「他には?」
時雨は。
卓を見る。
皆。
まだ。
騒いでいる。
馬超が。
春蘭と。
口論。
霞が煽る。
栄華が。
酒を隠す。
季衣。
寝ている。
流琉。
片づけ。
柳琳。
微笑む。
「悪くなかった」
曹操は。
時雨を見る。
「もう一度」
「悪くなかった」
「それだけ?」
時雨は。
曹操を見る。
「また」
「やってもいい」
曹操の目が。
柔らかく細められる。
「そう」
「ああ」
「では」
「次は」
「五日間にしましょう」
「長い」
「七日?」
「増やすな」
「十日」
「曹操」
「何?」
「三日でいい」
曹操は。
笑う。
「考えておくわ」
「三日だ」
「王が決めることよ」
「横暴だな」
「ええ」
曹操は。
時雨の腕へ。
僅かに身体を寄せる。
周囲には。
皆がいる。
公の場ではない。
だが。
完全な二人きりでもない。
それでも。
曹操は。
隠さない。
「時雨」
「何だ」
「休み方は」
「分かった?」
時雨は。
少し考える。
「全部を」
「自分でやらない」
「ああ」
「味を」
「一つは見る」
「ああ」
「何もしない時間も」
「必要」
「ああ」
「一人で」
「眠れなければ」
曹操の口元が。
僅かに上がる。
時雨は。
続ける。
「呼ぶ」
「誰を?」
「曹操」
曹操の蒼い瞳が。
一瞬。
柔らかく揺れる。
「合格よ」
「何の」
「休暇の訓練」
「やはり訓練だったのか」
「あなたには」
「そう言った方が」
「分かりやすいでしょう?」
時雨は。
否定しない。
確かに。
分かりやすい。
三日間。
休むための訓練。
剣を置く。
任せる。
味わう。
欲しいものを探す。
誰かへ。
贈る。
一人で眠れないと。
認める。
皆と。
食べたいと。
言う。
戦場では。
必要のないことばかり。
だが。
生きて帰った後には。
必要なこと。
「明日から」
時雨が言う。
「軍務へ戻る」
「ああ」
曹操が答える。
「最初は」
「涼州の統治について」
「馬騰と話す」
「ああ」
「馬超の扱いも」
「決める」
「ああ」
「霞の正式配属」
「ああ」
「黒狼隊の再編」
「ああ」
「栄華へ」
「遠征費の確認」
遠く。
栄華の耳が動く。
「聞こえておりますわ!」
「休暇明け」
「最初に来てくださいませ!」
時雨が。
そちらを見る。
「分かった」
曹操は。
時雨の袖を。
軽く引く。
「でも」
「今日が終わるまでは」
「休暇よ」
「まだ終わってないのか」
「日が沈むまで」
時雨は。
西を見る。
太陽。
まだ。
半分。
地平へ残っている。
「何をする」
「庭を見る?」
「昨日見た」
「では」
曹操は。
時雨の肩へ。
頭を預ける。
「このまま」
「皆を見ていましょう」
「何のために」
「何のためでもなく」
時雨は。
周囲を見る。
役に立たない時間。
無駄な会話。
肉を。
増やすかどうか。
誰が。
誰に似ているか。
木彫りが。
不細工か。
酒を。
隠した場所。
そんなこと。
国を強くしない。
天下へ近づかない。
兵も増えない。
それでも。
時雨は。
席を立たなかった。
曹操の重み。
肩。
隣。
皆の声。
夕日。
三日間。
戦わない。
決めない。
背負わない。
完全には。
できなかった。
だが。
少しは。
できた。
「時雨」
曹操が。
目を閉じたまま呼ぶ。
「何だ」
「お休みなさい」
「まだ夕方だ」
「少しだけよ」
「朝まで寝るぞ」
「それでもよいわ」
曹操の声が。
小さくなる。
時雨は。
動かない。
曹操が。
肩へ寄りかかったまま。
眠る。
周囲。
春蘭が。
気づく。
声を出そうとする。
秋蘭が。
姉の口を押さえる。
霞も。
馬超へ。
静かにするよう。
指を立てる。
馬超は。
納得しない顔。
だが。
声は抑える。
桂花は。
複雑な表情で。
曹操を見る。
それでも。
起こさない。
風。
季衣。
すでに寝ている。
流琉が。
薄い上掛けを持ってくる。
時雨へ渡す。
時雨は。
曹操の肩へ。
そっとかける。
「時雨も」
流琉が。
小声で言う。
「休んでください」
「ああ」
時雨は。
椅子へ。
深く座る。
曹操の頭が。
落ちないよう。
僅かに姿勢を変える。
空。
朱色。
やがて。
紫。
夜。
王宮の庭。
灯りが。
一つずつ。
ともされる。
誰も。
急いで動かない。
休暇の終わりを。
惜しむように。
静かに。
同じ場所へいる。
黒山の狼は。
三日間。
牙を収めた。
完全には。
休めなかった。
休み方も。
下手だった。
庭を見ながら。
警備を考え。
市場では。
車輪の罅を見つけ。
食事へ。
兵糧の量を重ねた。
それでも。
剣を振らなかった。
軍議へ出なかった。
問題を。
曹操へ任せた。
自分の俸給で。
櫛を買った。
味を。
うまいと言った。
一人では眠れないと認め。
皆と食べたいと望んだ。
以前の時雨なら。
決して。
口にしなかった言葉。
帰る場所を得た男が。
初めて。
その場所へ。
身体だけではなく。
心を休ませようとした。
三日間。
短い。
だが。
時雨にとって。
一つの戦より。
長い三日。
明日。
また。
地図が広げられる。
魏の次の道。
涼州。
馬騰。
馬超。
南の国々。
天下。
曹操は。
時雨へ相談する。
時雨は。
反対するかもしれない。
冷たい策を出すかもしれない。
また。
自分一人で。
背負おうとするかもしれない。
だが。
今度は。
知っている。
疲れた時。
休んでよい。
任せてよい。
何も生まない時間にも。
意味がある。
そして。
一人で眠れない夜には。
呼べばよい。
自分が選んだ。
黄金の髪と。
蒼い瞳の女を。
夕日が。
完全に沈む。
時雨の三日間の休日は。
静かに。
終わった。
その夜。
曹操は。
時雨の肩で眠り。
時雨は。
誰にも急かされず。
皆の声を聞きながら。
目を閉じた。
戦のない夜。
勝つ必要のない時間。
黒山の狼が。
ほんの僅かに。
ただの時雨へ戻る。
そんな。
三日間だった。
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