外伝 第21話 南天の悪鬼――劉備と、天の御使い
涼州を得た魏は。
中華の北を。
ほぼ手中へ収めた。
河北。
并州。
幽州。
冀州。
青州。
兗州。
豫州。
司隷。
そして。
西方の涼州。
地図の上。
魏の色は。
大河の北から。
西の果てまで広がっている。
兵。
馬。
食料。
鉄。
人。
それら全てにおいて。
魏は。
中華最大の国となった。
かつて。
群雄の一つでしかなかった曹操は。
今や。
誰より広い土地を持ち。
誰より多くの民を抱え。
誰より巨大な軍を動かせる。
一番の国。
その言葉は。
誇張ではない。
だが。
大きくなることは。
強くなることと。
同じではなかった。
領地が増えれば。
守る場所も増える。
民が増えれば。
必要な食料も増える。
道を整え。
役人を送り。
異なる法と習慣を。
一つずつ。
魏の中へ組み込まなければならない。
涼州は。
まだ。
完全には落ち着いていない。
馬騰は。
許昌で。
涼州の統治について。
曹操たちと話し合いを続けている。
馬超は。
魏へ忠誠を誓ってはいない。
それでも。
涼州騎兵の再編。
軍馬の管理。
部族間の争い。
それらへ。
自分の意見を出し始めていた。
豪族たちも。
魏の約束が。
本当に守られるのか。
見ている。
税。
領地。
部族の習慣。
水。
牧草地。
一つでも。
魏が約束を違えれば。
再び。
火は上がる。
だから。
本来なら。
今は。
南へ目を向ける時ではない。
涼州を固める。
河北を整える。
軍を休ませる。
それが。
最も安全。
最も確実。
誰もが。
そう考える。
だが。
曹操は。
安全な道だけを。
選ぶ女ではない。
一番になった国は。
立ち止まれば。
次に。
全ての敵から。
一番大きな標的として見られる。
南方。
長江の北。
広大な荊州。
豊かな土地。
水路。
人口。
南北を繋ぐ交通の要。
そこを治めていた。
劉表が。
死んだ。
そして。
その後を。
劉備が継いだ。
---
その報せが。
許昌へ届いたのは。
時雨と栄華が。
遠征会計を巡って。
大喧嘩をした翌日だった。
王宮。
朝議の間。
正面には。
曹操。
黄金の髪。
蒼い瞳。
王座。
その左右。
魏の将と軍師。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
華論。
栄華。
柳琳。
霞。
そして。
少し離れた場所に。
馬騰と馬超。
涼州の今後を話すため。
正式な客将でも。
魏臣でもない立場で。
朝議へ呼ばれている。
時雨は。
曹操の近く。
だが。
他の将より。
僅かに前へ立っていた。
涼州征伐の総大将。
魏の将。
黒山の狼。
役目は。
終わっていない。
朝議の間へ。
斥候が入る。
膝をつく。
「華琳様」
「荊州より」
「急報にございます」
曹操の瞳が。
僅かに細くなる。
「読みなさい」
「はっ」
斥候は。
竹簡を開いた。
「荊州牧」
「劉表」
「病により死去」
その一言で。
朝議の空気が変わった。
劉表。
荊州を。
長く治めた者。
大きく攻めず。
大きく負けず。
豊かな土地を保ち続けた。
その死。
南の均衡が。
崩れる。
「後継は」
曹操が尋ねる。
斥候は。
僅かに。
息を整えた。
「劉備」
「字を玄徳」
「荊州の諸臣および」
「有力豪族の支持を受け」
「劉表の後を継ぎました」
春蘭の眉が。
大きく動く。
「劉備だと?」
「はい」
「劉表の子ではなく?」
秋蘭が尋ねる。
「はい」
「劉表の遺言があったとの噂」
「また」
「荊州の民から」
「劉備を望む声が」
「非常に強かったと」
「報告されております」
桂花の顔が。
険しくなる。
「民の声だけで」
「荊州の後継が決まるはずないでしょう」
「豪族は?」
「蔡家」
「蒯家」
「その他」
「主要な豪族の多くが」
「少なくとも表立っては」
「劉備へ反対しておりません」
「表立っては?」
桂花が。
言葉を拾う。
斥候は頷く。
「劉備の継承に」
「異を唱えた者の一部が」
「数日のうちに」
「姿を消したとの報告があります」
朝議の間。
静まる。
「殺されたのか」
春蘭が言う。
「不明です」
「処刑の記録はありません」
「牢へ入れられた記録も」
「確認できておりません」
「ただ」
「反対を口にしていた者たちが」
「急に」
「劉備へ忠誠を誓うか」
「家族ごと荊州を去るか」
「あるいは」
「行方不明になっております」
稟の目が。
鋭くなる。
「誰が動いた」
斥候は。
一瞬。
答えを躊躇した。
「申せ」
曹操の声。
低い。
「はっ」
「劉備の隣には」
「天の御使い」
「北郷一刀が」
「おります」
時雨の目が。
僅かに動いた。
天の御使い。
以前。
劉備へ繋がる使者が。
時雨を勧誘した時にも。
聞いた名。
天から来た男。
未来を知る。
民を救う。
新しい世を作る。
そう。
語られていた。
だが。
今回の斥候の声には。
尊敬ではなく。
恐れがあった。
「続けなさい」
曹操が言う。
「北郷一刀は」
「劉備の名のもと」
「荊州の軍」
「官吏」
「商人」
「豪族」
「宗教者」
「民衆組織」
「その全てへ」
「強い影響力を持っております」
「強いとは」
桂花が尋ねる。
「どの程度よ」
斥候は。
竹簡を持つ手へ。
力を入れた。
「北郷一刀の言葉一つで」
「数万の民が動きます」
「兵ではなく?」
稟が尋ねる。
「民です」
「橋を作れと言えば」
「工事へ集まり」
「食料を出せと言えば」
「自ら倉を開き」
「敵が来ると告げれば」
「村ごと移動する」
「そして」
「一刀様がお望みなら」
「命も差し出すと」
「公言する者すらおります」
春蘭が。
鼻を鳴らす。
「狂信ではないか」
「はい」
斥候は。
否定しなかった。
「荊州の一部では」
「天の御使いを」
「救世主と呼ぶ者がいる一方」
「別の呼び名もあります」
「何だ」
時雨が。
初めて口を開く。
斥候が。
時雨を見る。
「悪鬼」
短い言葉。
朝議の間へ落ちる。
「誰が呼んでいる」
時雨が尋ねる。
「北郷一刀へ」
「逆らった者たちです」
「生きている奴か」
斥候は。
少し黙った。
「少数です」
「大半は?」
「先ほど申し上げた通り」
「姿を消したか」
「口を閉ざしました」
時雨は。
竹簡を見る。
劉備。
仁徳。
民の支持。
その隣。
北郷一刀。
天の御使い。
悪鬼。
民を動かす。
反対者を消す。
ただの軍師ではない。
ただの男でもない。
国の中に。
もう一つ。
見えない国を持っている。
そんな存在。
「その北郷一刀とやら」
馬超が。
腕を組みながら言う。
「本当に」
「天から来たのか」
斥候は。
困ったように頭を下げる。
「それは」
「分かりません」
「未来を知るという噂」
「見たことのない道具を持つとの噂」
「病や農法について」
「中華にない知識を持つとの噂」
「数多くあります」
「噂ばかりだな」
馬超が言う。
「だが」
馬騰は。
静かに続ける。
「噂で」
「数万の民は動かん」
「何かがある」
「力か」
「知恵か」
「恐怖か」
「あるいは」
「その全てか」
曹操は。
斥候を見る。
「劉備本人は」
「どのように動いている」
「劉備は」
「荊州各地を巡り」
「民へ」
「劉表の遺志を継ぎ」
「戦のない荊州を守ると」
「語っております」
「貧民への施し」
「税の軽減」
「兵役の見直し」
「水路の整備」
「難民の受け入れ」
「すでに」
「いくつかの政策を」
「始めております」
栄華の目が。
帳簿を見る時と同じ。
冷たい計算へ変わる。
「財源は」
「荊州の備蓄と」
「豪族からの献金」
「商人組合の協力」
「さらに」
「北郷一刀が組織した」
「民衆からの小口の献納」
「小口?」
「一人一人は」
「僅かな量です」
「ですが」
「参加する者が」
「非常に多い」
「その結果」
「大豪族一つに匹敵する」
「金と物資が」
「集まっております」
栄華の顔が。
僅かに曇る。
強制徴収ではない。
自発的な献納。
民が。
自分から。
国へ金を出す。
それは。
税とは違う。
負担へ。
不満が向きにくい。
むしろ。
参加した者は。
自分も。
劉備の国を支えていると感じる。
国へ。
所属する感覚。
「悪質ね」
桂花が言った。
馬超が。
桂花を見る。
「施しをして」
「民から金を集めることが?」
「違うわ」
桂花は。
苛立ったように答える。
「民へ」
「自分たちも国を作る側だと」
「思わせることよ」
「それの何が悪い」
「強いのよ」
桂花の声が。
鋭くなる。
「とても」
「強い」
「王が命じ」
「民が従う国なら」
「王を倒せば終わる」
「役人が支配する国なら」
「役所を奪えば崩れる」
「でも」
「民一人一人が」
「自分の国だと思っているなら」
「城を取っても」
「終わらない」
「兵を倒しても」
「次の兵が」
「民の中から出てくる」
時雨は。
桂花を見る。
完全に。
同じことを考えていた。
涼州軍は。
馬騰へ忠義を集めていた。
だから。
忠義の隣に。
家族。
村。
食料。
置いた。
一人一人の優先を。
ずらした。
だが。
荊州は違う。
劉備へ従う。
それだけではない。
北郷一刀の影響で。
民自身が。
劉備の国を。
自分たちの国だと思っている。
もし。
本当に。
そうなら。
家族を守るため。
村へ戻れ。
その策すら。
効かない。
家族を守ることと。
劉備へ従うことが。
同じだから。
「斥候」
曹操が言う。
「北郷一刀の」
「具体的な行動を」
「話しなさい」
「はっ」
斥候は。
次の竹簡を開いた。
「北郷一刀は」
「劉表の死後」
「まず」
「襄陽の城門を」
「三日間閉ざしました」
「理由は」
稟が尋ねる。
「混乱を防ぐためと」
「公表しております」
「その間」
「城内の軍」
「役人」
「豪族の私兵」
「商人組合」
「全ての指揮系統を」
「一刀の部下が」
「確認」
「再編しております」
「部下とは」
「劉備の将か」
「一部は」
「関羽」
「張飛」
「趙雲」
「諸葛亮」
「龐統」
「しかし」
「それだけではありません」
「北郷一刀が」
「独自に育てた」
「名のない者たち」
「平民」
「元賊」
「商人」
「職人」
「医者」
「農民」
「その者たちが」
「城内の各所へ配置されました」
風の目が。
普段より。
僅かに開く。
「名前のない人たちを」
「使うのですねー」
「ああ」
時雨が答える。
「名のある将を」
「見てるだけでは」
「動きが読めない」
「はい」
風は。
扇で口元を隠す。
「面倒ですねー」
「かなり」
時雨は言った。
名もない。
役職もない。
だが。
北郷一刀個人へ忠誠を持つ者たち。
役所。
軍。
市場。
寺。
村。
あらゆる場所へ。
入り込んでいる。
それは。
兵ではない。
斥候。
工作員。
扇動者。
連絡役。
そして。
民。
敵と味方を。
外から。
見分けられない。
「次に」
斥候が続ける。
「北郷一刀は」
「荊州全土へ」
「劉表の死を」
「正式に知らせる使者を送りました」
「普通だな」
春蘭が言う。
「はい」
「ただし」
「使者は」
「同時に」
「各地へ」
「同じ文章」
「同じ言葉で」
「劉備を」
「荊州の新たな主と認めるよう」
「呼びかけました」
「各地の反応は」
「早い場所では」
「その日のうちに」
「遅くとも」
「五日以内に」
「主要な城のほとんどが」
「劉備支持を表明」
「反対した城は」
「三つ」
「その全てが」
「戦わず」
「門を開いております」
「なぜ」
秋蘭が尋ねる。
「城内で」
「反乱が起きました」
「誰が起こした」
「守備兵」
「民」
「役人」
「そして」
「城主の家族です」
朝議の間。
空気が。
さらに重くなる。
「家族?」
流琉が。
小さく言う。
「はい」
「北郷一刀は」
「城主の家族へ」
「劉備へ逆らえば」
「民が戦へ巻き込まれる」
「今なら」
「城主の地位と命を保証する」
「そう」
「先に伝えていたと」
「見られます」
「家族を」
「人質にしたのか」
馬超の声へ。
怒り。
「いいえ」
斥候は。
首を横へ振る。
「家族は」
「自由でした」
「だからこそ」
「自分の意志で」
「城主へ降伏を迫ったのです」
時雨の目が。
細くなる。
自分と。
似ている。
武器を向けない。
脅さない。
選ばせる。
家族。
民。
地位。
命。
忠義の隣へ。
別のものを置く。
ただし。
北郷一刀は。
敵国ではなく。
同じ荊州の内部で。
それを行った。
「悪鬼」
時雨が呟く。
「確かに」
馬超が。
時雨を見る。
「お前が言うと」
「妙に説得力があるな」
「ああ」
霞が笑う。
「外道同士」
「分かるんやろ」
「同じではない」
時雨は答える。
「何が違う」
馬超が尋ねる。
「まだ」
「分からない」
「なら」
「同じかもしれないだろう」
「ああ」
時雨は。
否定しなかった。
北郷一刀。
自分と似た策。
だが。
同じではない。
何か。
違和感。
まだ。
形にならない。
曹操は。
時雨の横顔を見る。
その目。
戦場の目。
休暇。
栄華との喧嘩。
少し。
人の中へ戻っていた男が。
また。
地図の向こうへ。
意識を向けている。
だが。
以前とは違う。
一人で。
沈んでいない。
朝議の場。
皆と共に。
考えている。
「斥候」
曹操が言う。
「劉備軍の兵数」
「およそ」
「十五万」
「ただし」
「正式な軍籍にない」
「民兵組織を含めれば」
「二十万を超える可能性があります」
「水軍は」
「荊州水軍」
「およそ五万」
「劉表時代の将兵を」
「ほぼそのまま」
「引き継いでおります」
「指揮官」
「黄祖は」
「劉表死去の前に」
「病没」
「現在は」
「旧荊州水軍の将に加え」
「北郷一刀が」
「新たな訓練法を」
「導入しているとのこと」
「新たな訓練法?」
「船を」
「単独で動かすのではなく」
「複数隻を」
「決められた間隔で組ませ」
「旗と音で」
「同時に動かす」
「また」
「弓兵」
「槍兵」
「火攻めの部隊を」
「役割ごとに分け」
「船上で」
「交代させる訓練を」
「行っております」
秋蘭が。
静かに言う。
「陸軍と」
「同じように」
「隊列と役割を」
「水上へ持ち込んでいる」
「はい」
「さらに」
「大型の船へ」
「小型船を繋ぎ」
「揺れを減らす工夫も」
「試していると」
「報告があります」
時雨の目が。
僅かに動く。
船を繋ぐ。
揺れを減らす。
利点。
兵が動きやすい。
馬を乗せやすい。
弓も。
射やすい。
欠点。
火。
方向転換。
一隻の混乱が。
全体へ広がる。
「危ないな」
時雨が言う。
「何がです?」
稟が尋ねる。
「船を繋ぐ」
「火に弱い」
「ああ」
「ですが」
稟は。
少し考える。
「北郷一刀が」
「それを知らぬとは」
「思えません」
「知ってる」
時雨は言う。
「なら」
「何か」
「対策がある」
火除け。
水。
濡れ布。
切り離す仕組み。
火船への監視。
あるいは。
火を使わせるための罠。
相手が。
未来の知識を持つなら。
有名な戦の失敗を。
知っている可能性すらある。
時雨は。
まだ。
北郷一刀が。
本当に未来を知るとは。
信じていない。
だが。
知らない前提で。
動く方が危険。
「華琳様」
桂花が。
曹操を見る。
「荊州は」
「今すぐ」
「討つべきです」
馬騰が。
桂花を見る。
「涼州が」
「まだ固まっていない」
「今」
「南へ大軍を動かせば」
「西が再び揺れるぞ」
「分かっているわ」
桂花が答える。
「でも」
「荊州を」
「劉備へ完全に固めさせれば」
「さらに危険になる」
「今なら」
「劉表死後の混乱が残っている」
「豪族も」
「全てが」
「心から劉備へ従っているわけではない」
「北郷一刀の組織も」
「完成していない」
「討つなら」
「今よ」
稟は。
静かに。
地図を見る。
「しかし」
「兵站が長い」
「涼州遠征から」
「帰還した兵も」
「十分には休めていません」
「荊州は」
「河川が多く」
「騎兵の力を」
「活かしにくい土地」
「魏軍は」
「陸戦では優位ですが」
「水戦では」
「荊州軍に劣ります」
「風は」
曹操が尋ねる。
風は。
帽子を。
僅かに持ち上げた。
「今すぐ」
「全軍で攻めるのは」
「少し怖いですねー」
「理由は」
「北郷一刀さんが」
「何を知っているか」
「分からないからです」
風は。
地図上。
荊州へ。
指を置く。
「兵数」
「城」
「水軍」
「食料」
「それは」
「調べられます」
「でも」
「民の中に」
「どれほど」
「北郷一刀さんの手があるか」
「分かりません」
「魏軍が」
「一歩入った瞬間」
「どの村が逃げ」
「どの橋が落ち」
「どの倉が燃え」
「どの民が兵になるか」
「読めないのです」
「そして」
風は。
時雨を見る。
「時雨さんの」
「得意なところを」
「向こうも」
「得意かもしれませんねー」
時雨は。
何も言わない。
敵の軍ではなく。
支えるものを狙う。
戦場を作らない。
勝利条件を。
無効にする。
相手の性格を。
使う。
もし。
北郷一刀も。
同じように考えるなら。
魏軍が。
荊州へ攻め込む前から。
すでに。
魏の中へ。
手を伸ばしている可能性がある。
「栄華」
時雨が呼ぶ。
「何ですの」
「荊州から」
「魏へ入る商人」
「増えてるか」
栄華の目が。
僅かに鋭くなる。
「確認します」
「すぐに」
栄華は。
後ろの役人へ。
短く指示する。
帳簿。
関所。
市場。
税。
金の流れ。
北郷一刀が。
民と商人へ影響力を持つなら。
人だけではない。
物。
金。
噂。
そこから。
国へ入る。
「華論」
「あいっす」
「黒狼隊の」
「補給担当」
「最近」
「新しく入った奴を」
「全部調べろ」
「了解っす」
「疑うんすか」
「全員」
「ああ」
華論は。
一瞬。
表情を固くする。
「分かったっす」
「ただ」
「昔からいる奴まで」
「疑いすぎないようにするっす」
「ああ」
「時雨」
柳琳が。
静かに呼ぶ。
「何だ」
「人を調べる時」
「最初から敵だと」
「決めないでください」
「ああ」
「怖がらせれば」
「本当に」
「敵へ逃げる方もいます」
「ああ」
「分かっているなら」
「よいです」
柳琳は。
僅かに頷く。
時雨は。
以前なら。
必要。
それだけで。
厳しく調べたかもしれない。
今は。
疑うことと。
敵と決めることを。
分ける。
完全ではない。
だが。
少しずつ。
「華琳様」
栄華の部下が。
急ぎ。
戻ってきた。
「何事ですの」
栄華が尋ねる。
「荊州からの商人」
「三か月前より」
「二割増えております」
「取扱品は」
「薬」
「布」
「茶」
「紙」
「そして」
「小型の農具」
「農具?」
時雨が言う。
「はい」
「安く」
「使いやすいとして」
「北方の村でも」
「売れ始めております」
栄華が。
竹簡を取る。
「価格は」
「原価に近い」
「利益が」
「ほとんどありませんわ」
「なぜ」
馬超が尋ねる。
栄華は。
答えず。
時雨を見る。
時雨が言う。
「売るためじゃない」
「入るため」
馬超の眉が寄る。
「どこへ」
「村」
「農家」
「倉」
「道」
「安い道具を売れば」
「商人は」
「村の中へ入れる」
「誰が」
「どれだけ畑を持ち」
「何を作り」
「食料が」
「どこへ集まるか」
「見られる」
「そんな」
「商人全てが」
「間者だというのか」
「違う」
時雨は言う。
「一人か二人でいい」
「他は」
「本当に商人」
「だから」
「見つけにくい」
稟が。
静かに息を吐く。
「すでに」
「入っていますね」
「ああ」
桂花の顔へ。
怒り。
「舐めた真似を」
「今すぐ」
「荊州商人を」
「全員調べるわ!」
「駄目だ」
時雨が言った。
桂花が。
鋭く振り返る。
「何ですって?」
「全員を止めれば」
「北郷一刀へ」
「気づいたと伝わる」
「では」
「放置するの?」
「違う」
時雨は。
地図ではなく。
帳簿を見る。
「買う」
「何を」
「農具」
「全部」
朝議の間。
一瞬。
静かになる。
栄華の扇が。
止まる。
「全部?」
「ああ」
「魏が?」
「ああ」
「その後」
「村へ配る」
「無料ではない」
「古い農具と交換」
「壊れ方」
「使い方」
「全部記録する」
「なぜ」
桂花が尋ねる。
時雨は答える。
「本当に」
「未来の知識で作った道具なら」
「構造を知る」
「魏でも作る」
「間者が混ざってるなら」
「国がまとめて買えば」
「商人が」
「村へ散らばれない」
「でも」
「完全に止めない」
「だから」
「気づいたか」
「向こうには」
「分かりにくい」
栄華が。
すぐに計算を始める。
「価格が低いなら」
「買い上げても」
「大きな負担にはなりません」
「古い農具を」
「回収すれば」
「鉄も再利用できる」
「農民から」
「使い勝手の報告を集めれば」
「改良も可能」
「ああ」
「分かりました」
栄華は。
時雨を見る。
昨日。
喧嘩したばかり。
必要な金。
勝手に使わず。
栄華へ相談する。
時雨は。
今。
最初に。
栄華を見た。
それだけで。
栄華の目が。
僅かに柔らかくなる。
「予算は」
「わたくしが作ります」
「ああ」
「任せる」
「ああ」
栄華の声が。
少し甘くなる。
「任されましたわ」
風が。
小さく。
「おやー」
と呟く。
栄華の扇が。
風へ向く。
「何か?」
「何でもありませんよー」
曹操は。
二人のやり取りを見ながら。
蒼い瞳へ。
僅かな笑みを浮かべる。
だが。
すぐに。
荊州の地図へ戻る。
「時雨」
「何だ」
「あなたは」
「今すぐ」
「荊州へ攻めるべきだと思う?」
全員の視線が。
時雨へ集まる。
曹操は。
すでに。
南を狙っている。
それは。
隠していない。
荊州。
豊か。
南進の要。
劉備へ与えたままでは。
いずれ。
魏へ刃を向ける。
さらに。
北郷一刀。
悪鬼。
時間を与えるほど。
民と国を。
深く結びつける。
今。
攻める。
理はある。
だが。
「攻めない」
時雨は言った。
桂花の眉が。
大きく上がる。
「なぜよ!」
「今なら」
「まだ」
「劉備の支配は」
「固まっていないのよ!」
「違う」
時雨は。
地図上。
襄陽。
江陵。
樊城。
新野。
複数の城へ。
指を置く。
「もう」
「固まり始めてる」
「だからこそ!」
「今」
「魏が攻めれば」
「劉備の支配が」
「もっと固まる」
桂花が。
言葉を止める。
「外敵」
時雨は続ける。
「魏」
「曹操」
「中原最大の国」
「それが攻めてくれば」
「劉備へ」
「従ってない豪族も」
「荊州を守るため」
「劉備へ集まる」
「民も」
「北郷一刀の言葉へ」
「従いやすくなる」
「今攻めるのは」
「劉備へ」
「国をまとめる理由を」
「与える」
稟が。
静かに頷く。
「共通の敵」
「ああ」
「魏が」
「自ら」
「作ることになる」
曹操は。
時雨を見る。
「では」
「待つの?」
「待たない」
「攻めない」
「でも」
「戦う」
春蘭の眉が寄る。
「どういう意味だ」
時雨は。
地図の外。
荊州の周辺へ指を動かす。
益州。
江東。
交州。
そして。
荊州内部。
「劉備が」
「荊州を継いだ」
「でも」
「劉表の子」
「親族」
「旧臣」
「全員が」
「本当に納得してるわけじゃない」
「ああ」
桂花が言う。
「だから」
「そこへ手を入れるのね」
「違う」
「反乱を起こさせる?」
「今はしない」
「なら」
「何をするのよ!」
「選ばせない」
時雨が言った。
「何を」
「北郷一刀は」
「人へ」
「選ばせてる」
「劉備か」
「戦か」
「民か」
「自分の地位か」
「選択肢を出して」
「自分の望む方へ」
「誘導してる」
「ああ」
「なら」
「俺たちは」
「選ばない奴を」
「増やす」
朝議の間。
静か。
意味。
すぐには。
分からない。
風だけが。
僅かに笑った。
「なるほどー」
「どういうことだ」
春蘭が尋ねる。
風は。
時雨を見る。
「説明は」
「時雨さんからどうぞー」
時雨は。
少し嫌そうな顔をする。
休暇前。
桂花たちとの軍略勝負。
説明するよう。
求められた。
少しずつ。
言葉にする。
約束。
「劉備へ従えば」
「民を守れる」
「魏へ降れば」
「地位を守れる」
「反抗すれば」
「消される」
「今の荊州は」
「そういう選択を」
「迫られてる」
「ああ」
「だから」
「どれも選ばなくていい場所を作る」
「場所?」
流琉が尋ねる。
「魏との境」
「中立の市」
「難民」
「商人」
「農民」
「逃げたい官吏」
「誰でも入れる」
「劉備へ敵対しなくていい」
「魏へ忠誠も要らない」
「税は」
「最低限」
「兵役なし」
「ただ」
「情報と物を」
「持ってくる」
栄華の目が。
鋭くなる。
「中立の市場を装った」
「情報の受け皿」
「ああ」
「荊州から」
「逃げる者を」
「魏へ直接入れず」
「境へ留める」
「その者たちから」
「北郷一刀が」
「何をしているか」
「集める」
「しかも」
稟が。
続ける。
「魏へ降った者ではないため」
「荊州側から見れば」
「裏切り者と」
「断定しにくい」
「ああ」
「北郷一刀が」
「排除しようとすれば」
「自ら」
「民を追い込むことになる」
「ああ」
桂花の目が。
少しずつ。
理解へ変わる。
「劉備の」
「仁徳を使うのね」
「劉備は」
「逃げる民を」
「無理に連れ戻せない」
「北郷一刀も」
「表では」
「できない」
「やれば」
「劉備の名が傷つく」
「ああ」
「でも」
「放置すれば」
「荊州の不満と情報が」
「魏の近くへ集まる」
「ああ」
「本当に」
桂花は。
時雨を睨む。
「性格が悪いわね」
「ああ」
「褒めていないわよ!」
「分かってる」
曹操は。
地図を見る。
中立の市。
国境。
情報。
民。
戦ではない。
だが。
侵攻より先に。
敵国の呼吸を。
外へ引き出す。
「北郷一刀が」
曹操が言う。
「その市へ」
「自分の者を入れるでしょうね」
「ああ」
時雨は頷く。
「入れさせる」
「何ですって?」
春蘭が言う。
「分かっていて」
「敵の間者を入れるのか」
「ああ」
「危険だ!」
「入られないと」
「何を見せたいか」
「分からない」
「間者が」
「何を聞き」
「何を買い」
「誰へ近づくか」
「見れば」
「北郷一刀が」
「何を欲しいか分かる」
秋蘭が。
静かに言う。
「敵の目を」
「こちらから観察する」
「ああ」
「偽の情報も」
「流せる」
「ああ」
曹操の口元へ。
僅かな笑み。
「面白いわ」
「でも」
「それだけでは」
「荊州は取れない」
「ああ」
「取るのは」
「後」
「今は」
「北郷一刀が」
「何者か知る」
時雨は。
地図。
襄陽。
そこに。
黒い駒を一つ置く。
北郷一刀。
天の御使い。
悪鬼。
未来を知る男。
民を動かす男。
反対者を。
消す男。
「相手が」
「俺と同じなら」
時雨が言う。
「先に」
「魏へ入ってる」
「ああ」
曹操が答える。
「そうでしょうね」
「だから」
「荊州を見る前に」
「魏の中を見る」
「栄華」
「はい」
「商人」
「金」
「物」
「全部」
「流れを調べる」
「任せなさいませ」
「桂花」
「何よ」
「荊州出身の官吏」
「兵」
「最近入った奴」
「洗う」
「言われなくてもやるわ!」
「でも」
「脅すな」
桂花の眉が跳ねる。
「分かっているわよ!」
「柳琳」
「はい」
「荊州から来た」
「難民」
「病人」
「話を聞く」
「ただし」
「無理には聞きません」
「ああ」
「風」
「はいですよー」
「噂」
「集める」
「悪鬼」
「天の御使い」
「救世主」
「全部」
「どの地域で」
「どの呼び名が多いか」
「調べますー」
「稟」
「はい」
「荊州の」
「軍の配置」
「城」
「橋」
「船」
「でも」
「表だけじゃなく」
「民兵の場所」
「分かる限り」
「承知しました」
「華論」
「あいっす」
「黒狼隊から」
「小隊を出す」
「国境の市」
「作る」
「防壁は」
「低く」
「門は」
「多く」
「兵は」
「見せすぎない」
「商人と民が」
「逃げやすい形」
「作るっす」
「栄華と」
「場所を決めるっすよ」
「ああ」
「霞」
「何や」
「荊州の」
「騎兵」
「知ってるか」
霞は。
少し考える。
「前に」
「流れとった時」
「何人か会うた」
「劉備のとこは」
「関羽」
「張飛」
「趙雲」
「陸でも」
「相当強いで」
「北郷一刀は」
「見たことあるか」
霞の顔から。
少しだけ。
笑みが消える。
「一回だけ」
朝議の全員が。
霞を見る。
「どこで」
時雨が尋ねる。
「洛陽が」
「まだ」
「完全に壊れる前や」
霞は。
遠い記憶を見るように。
目を細くする。
「董卓んとこおった頃」
「遠くで見た」
「普通の男やった」
「剣も」
「槍も」
「持ってへん」
「鎧も」
「似合ってなかった」
「せやけど」
霞は。
ゆっくり続ける。
「周りの奴が」
「みんな」
「あいつの顔見とった」
「関羽も」
「張飛も」
「趙雲も」
「軍師も」
「兵も」
「命令待っとるんやない」
「何を思っとるか」
「知りたがっとった」
「それが」
「気味悪かった」
「怖かった?」
馬超が尋ねる。
霞は。
少し考える。
「強い奴を見た時の怖さやない」
「あいつが」
「逃げろ言うたら」
「全員逃げる」
「死ね言うたら」
「全員死ぬ」
「笑え言うたら」
「泣いとっても笑う」
「そんな感じや」
朝議の間。
静まる。
悪鬼。
武ではない。
軍略だけでもない。
人の心へ。
入る。
その人間が。
自分で望んだと思う形で。
動かす。
「本人が」
時雨が言う。
「望んでるか」
「周りが」
「勝手に」
「望みを作ってるか」
「分からへん」
霞は答える。
「せやから」
「気味悪い」
曹操は。
霞を見る。
「今」
「私の臣として」
「北郷一刀と戦える?」
霞は。
曹操へ。
真っ直ぐ顔を向ける。
「戦えるで」
「華琳様」
「怖くないの?」
「怖い」
霞は。
迷わず答える。
「せやけど」
「うちは」
「今」
「自分で」
「華琳様のとこおる」
「北郷一刀に」
「何言われても」
「それだけは」
「変わらへん」
曹操の蒼い瞳が。
僅かに柔らかくなる。
「そう」
「頼りにしているわ」
霞は。
笑った。
「任せとき」
馬超は。
そのやり取りを見る。
真名。
華琳様。
霞は。
自分で。
預けた。
馬超は。
まだ。
曹操とは呼ぶ。
だが。
霞の言葉。
自分で。
ここにいる。
それが。
少し。
胸へ残った。
「曹操」
馬超が言う。
春蘭の眉が動く。
だが。
曹操は。
馬超を見るだけ。
「何?」
「私も」
「荊州の戦へ」
「連れていけ」
馬騰が。
娘を見る。
「翠」
「母様」
「私は」
「魏へ忠誠を誓っていません」
「ああ」
「ですが」
「涼州が」
「魏の一部として」
「守られるか」
「自分の目で見ると決めました」
「なら」
「魏が」
「次に何をするかも」
「見る必要があります」
馬超は。
時雨を見る。
「それに」
「張燕が」
「北郷一刀へ」
「どんな外道な策を使うか」
「見張る」
「俺へ?」
「ああ!」
「お前が」
「また」
「人の心を使い潰すなら」
「私が止める!」
時雨は。
少し考える。
「分かった」
「軽いな!」
「止められるなら」
「止めればいい」
「本当に」
「お前は!」
馬超の声が。
朝議へ響く。
春蘭が。
なぜか。
満足そうに頷く。
「よい心がけだ!」
「時雨は」
「放っておけば」
「何をするか分からん!」
「お前に」
「言われたくない!」
「何だと!」
「二人とも」
秋蘭が止める。
曹操は。
僅かに笑う。
「馬超」
「あなたの同行」
「今は認めないわ」
馬超の目が。
険しくなる。
「なぜ」
「まだ」
「荊州へ攻めるとは」
「決めていないから」
「なら」
「偵察でも」
「国境の市でも」
「何でも」
「待ちなさい」
曹操の声。
王のもの。
馬超は。
歯を食いしばる。
だが。
反発だけで。
言い返さない。
「……分かった」
「よろしい」
曹操は。
全員を見る。
「荊州」
「劉備」
「北郷一刀」
「今すぐ」
「大軍は動かさない」
桂花の顔が。
僅かに不満を示す。
曹操は。
続ける。
「しかし」
「放置もしない」
「国境に」
「中立の市を作る」
「荊州からの人と物を」
「受け入れる」
「商人を通じた」
「情報の流れを調べる」
「魏の内部へ」
「すでに入り込んだ」
「北郷一刀の影響も」
「洗い出す」
「その上で」
曹操は。
荊州の駒へ。
指を置く。
「取る」
短い。
強い。
言葉。
「荊州は」
「南を制するために必要」
「長江を越えるためにも」
「劉備へ」
「預けておくつもりはない」
「天の御使いが」
「本当に天から来た者であろうと」
「悪鬼であろうと」
「関係ない」
蒼い瞳。
誰より。
強い意志。
「私の道へ」
「立つなら」
「退かす」
「華琳様!」
春蘭が。
力強く応える。
「御意!」
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
華論。
栄華。
柳琳。
霞。
全員が。
頭を下げる。
「御意!」
時雨だけは。
頭を下げない。
曹操を見る。
「曹操」
「何?」
「北郷一刀は」
「たぶん」
「俺を知ってる」
朝議の空気が。
再び。
変わる。
「なぜ」
曹操が尋ねる。
「前」
「劉備の使者が」
「俺を勧誘した」
「ああ」
「俺が」
「曹操を選んだ理由も」
「聞いてた」
「燕の民」
「黒山」
「俺の考え方」
「ある程度」
「知ってる」
「そして」
「今」
「涼州で」
「俺が何をしたか」
「もう」
「荊州へ伝わってるはず」
曹操の目が。
鋭くなる。
「つまり」
「北郷一刀は」
「あなたの策を」
「警戒している」
「ああ」
「その上で」
「先に」
「商人を入れた可能性がある」
「ああ」
桂花が。
苛立ったように。
舌打ちする。
「なら」
「こちらの動きも」
「読まれている可能性があるわ」
「ああ」
「国境の市を作れば」
「それも」
「利用される」
「ああ」
「それでも作るの?」
「ああ」
時雨は。
黒い駒を見る。
北郷一刀。
「相手が」
「何をするか」
「見たい」
「危険よ」
桂花が言う。
「分かってる」
「罠かもしれない」
「ああ」
「その罠へ」
「わざと入るの?」
「入らないと」
「形が分からない」
曹操は。
時雨を見る。
その目。
危険を。
承知で。
相手へ近づこうとしている。
以前なら。
また。
一人で行く。
そう。
言い出したかもしれない。
曹操の指が。
王座の肘掛けを。
僅かに叩く。
「時雨」
「何だ」
「荊州へ」
「一人で行くことは」
「許さない」
時雨が。
僅かに眉を動かす。
「まだ言ってない」
「言う前に」
「止めているの」
「行くなら」
「許可を取る」
「ああ」
曹操は。
僅かに目を細くする。
「成長したわね」
「またか」
「でも」
「許可はしない」
「まだ」
「頼んでない」
「頼まれてもよ」
「なぜ」
「北郷一刀は」
曹操の声が。
少しだけ。
低くなる。
「あなたを」
「欲しがるかもしれないから」
朝議の間。
僅かな沈黙。
桂花の目が。
大きくなる。
霞が。
面白そうに。
時雨を見る。
馬超は。
意味が分からない顔。
「俺を?」
時雨が尋ねる。
「ああ」
曹操は答える。
「劉備の使者は」
「以前」
「あなたを勧誘した」
「北郷一刀が」
「自分と似た考えを持つ者を」
「隣へ置きたがる可能性はある」
「行かない」
時雨は。
即答した。
曹操の瞳が。
僅かに揺れる。
「理由は」
「曹操を選んだ」
「ああ」
「終わり」
短い。
迷いなし。
曹操の口元へ。
小さな笑み。
「そう」
「なら」
「よいわ」
桂花が。
少し。
悔しそうな顔。
霞は。
にやにやしている。
「何だ」
時雨が。
霞を見る。
「いや」
「華琳様」
「嬉しそうやなって」
曹操の笑みが。
僅かに冷たくなる。
「霞」
「何?」
「国境の市の」
「護衛隊長を」
「あなたへ任せようかしら」
「遠回しに」
「許昌から追い出そうとしとる?」
「気のせいよ」
「絶対」
「気のせいやない!」
朝議へ。
僅かな笑い。
だが。
その奥。
全員。
理解している。
次の敵。
劉備。
仁徳。
民の支持。
荊州。
豊かな国。
水軍。
そして。
北郷一刀。
天の御使い。
悪鬼。
魏が。
これまで戦った誰とも違う。
軍を倒せば。
終わる相手ではない。
城を取れば。
崩れる国でもない。
民の心。
希望。
恐怖。
信仰。
未来。
そういう。
目に見えないものを。
武器へ変える男。
時雨と。
同じように。
人を読み。
選択を作り。
戦わずに。
国を動かす。
だが。
時雨は。
まだ。
北郷一刀を。
同じとは思っていない。
一つ。
違う。
時雨は。
自分が。
外道だと認める。
憎まれることも。
責任も。
自分へ向ける。
北郷一刀は。
劉備の仁徳の影へ。
自分の悪意を。
隠しているように見える。
劉備が。
光。
北郷一刀が。
影。
民は。
光を見て。
影へ従う。
その形。
時雨は。
嫌いだった。
だが。
本当に。
そうなのか。
まだ。
分からない。
噂。
悪鬼。
救世主。
どちらも。
他人がつけた名。
本人の顔を。
時雨は知らない。
「曹操」
朝議が。
終わりかけた時。
時雨が呼ぶ。
「何?」
「北郷一刀と」
「会いたい」
朝議の全員が。
時雨を見る。
曹操の蒼い瞳が。
細くなる。
「一人で?」
「違う」
時雨は。
曹操を見る。
「曹操と」
短い沈黙。
曹操の眉が。
僅かに動く。
「なぜ」
「北郷一刀は」
「劉備の隣にいる」
「ああ」
「なら」
「俺も」
「曹操の隣で会う」
曹操の目へ。
一瞬。
柔らかな色。
すぐに。
消える。
王の顔。
「よいでしょう」
「ただし」
「会談を行うかは」
「私が決める」
「ああ」
「勝手に」
「荊州へ行かない」
「ああ」
「使者として」
「一人で向かわない」
「ああ」
「私へ」
「必ず相談する」
「ああ」
曹操は。
満足そうに頷く。
「なら」
「考えておくわ」
馬超が。
小さく。
霞へ尋ねる。
「なぜ」
「今のやり取りで」
「曹操は」
「嬉しそうなんだ」
霞は。
にやりと笑う。
「時雨が」
「一人で行かん言うたからや」
「それだけか」
「それだけやない」
「なら」
「何だ」
「隣で会う」
「言うたやろ」
馬超は。
しばらく。
時雨と曹操を見る。
「それの」
「何が特別なんだ」
霞は。
肩を竦める。
「そのうち分かる」
「お前まで」
「曹操と同じことを言うな!」
「魏におったら」
「よう聞く言葉やで」
---
朝議後。
曹操は。
時雨だけを。
私室へ呼んだ。
完全な二人きり。
机。
地図。
荊州。
北郷一刀。
黒い駒。
曹操は。
椅子へ座る。
時雨は。
向かい。
「時雨」
「何だ」
「本当に」
「北郷一刀へ」
「興味があるのね」
「ああ」
「自分と似ているから?」
「違う」
「何が」
「俺は」
「天から来たと言わない」
「ああ」
「民へ」
「希望を見せない」
曹操の眉が。
僅かに動く。
「あなたも」
「見せているわ」
「何を」
「生きる道を」
時雨は。
少し黙る。
「それは」
「希望ではない」
「では」
「何?」
「選択」
「ああ」
「同じでしょう?」
「違う」
時雨は。
地図を見る。
「希望は」
「正しい方へ」
「進めると思わせる」
「選択は」
「悪い方を」
「自分で選ばせる」
「俺は」
「後者」
曹操は。
時雨を見る。
自分を。
どこまでも。
暗い側へ置く。
だが。
以前ほど。
それを。
罰として言ってはいない。
事実として。
自分を見ている。
「北郷一刀は」
時雨が続ける。
「劉備がいる」
「劉備は」
「正しい方を見せる」
「北郷一刀が」
「悪い方を」
「全部消す」
「そうすれば」
「民は」
「自分で」
「正しい方を選んだと思う」
曹操の目が。
鋭くなる。
「最初から」
「選択肢が」
「一つしか残されていないのに」
「ああ」
「それが」
「悪鬼と呼ばれる理由?」
「たぶん」
「では」
「あなたと」
「何が違うの」
時雨は。
少し考える。
「俺は」
「選択肢を残す」
「馬騰にも」
「馬超にも」
「豪族にも」
「死ぬ道」
「帰る道」
「残る道」
「全部」
「嫌な道でも」
「残した」
「ああ」
「北郷一刀は」
「残してないかもしれない」
「逆らった奴が」
「消えてる」
「だから」
曹操は。
静かに言う。
「嫌いなのね」
「ああ」
時雨は。
迷わず答える。
「悪鬼だから?」
「違う」
「何が」
「悪鬼と呼ばれることを」
「劉備の影へ」
「隠してるなら」
「嫌いだ」
曹操は。
時雨を見る。
外道と呼ばれた男。
自分の名で。
策を行い。
恨まれることを受け入れた。
誰かの正しさへ。
隠れなかった。
だから。
劉備の仁徳の影で。
人を消す北郷一刀が。
許せない。
もし。
噂が真実なら。
「でも」
曹操が言う。
「本人と会うまでは」
「決めつけないのでしょう?」
「ああ」
「柳琳の教え?」
「皆の」
曹操の目が。
僅かに柔らかくなる。
「そう」
「よい答えね」
時雨は。
黒い駒を。
指で転がす。
「曹操」
「何?」
「劉備を」
「どう思う」
曹操は。
少し。
考える。
劉備。
かつて。
小さな勢力。
理想。
仁徳。
民へ。
手を伸ばす女。
曹操とは。
違う道。
「危険な女よ」
「強い?」
「本人は」
「春蘭ほど強くない」
「桂花ほど」
「政に長けてもいない」
「稟や風ほど」
「軍略もない」
「でも」
曹操は。
荊州の地図へ。
指を置く。
「人が」
「彼女のために」
「自分以上の力を出す」
「ああ」
「それが」
「最も危険」
「北郷一刀は」
「その力を」
「大きくする」
「ああ」
「だから」
「二人を」
「分けて考えない方がいい」
曹操は。
僅かに笑う。
「同じことを」
「考えていたわ」
劉備だけを。
倒しても。
北郷一刀が。
民をまとめるかもしれない。
北郷一刀だけを。
排除しても。
劉備の仁徳が。
民を燃え上がらせるかもしれない。
光と影。
二人。
一つの国。
「時雨」
「何だ」
「あなたは」
「私の影?」
時雨の眉が。
僅かに動く。
「違う」
「あら」
「即答?」
「ああ」
「なら」
「何?」
時雨は。
曹操を見る。
黄金の髪。
蒼い瞳。
王。
自分が選んだ女。
「隣」
曹操の瞳が。
僅かに揺れる。
「影ではなく?」
「ああ」
「後ろにも」
「いない」
「前にも」
「いない」
「隣」
時雨は。
淡々と言う。
「反対する」
「止める」
「必要なら」
「別の道を出す」
「影は」
「できない」
曹操は。
長く。
時雨を見つめた。
やがて。
ゆっくり。
笑みを浮かべる。
「そう」
「なら」
「北郷一刀へ」
「見せてあげましょう」
「何を」
「主の影に隠れる男と」
「主の隣へ立つ男の違いを」
時雨は。
黒い駒を。
地図へ戻す。
「まだ」
「隠れてるとは」
「決まってない」
「ああ」
曹操は答える。
「だから」
「確かめるのよ」
二人。
地図を見る。
荊州。
長江。
襄陽。
樊城。
新野。
江陵。
その先。
南方。
魏の次の道。
だが。
今回は。
大軍を。
すぐには動かさない。
先に。
目。
耳。
金。
物。
噂。
人。
戦場になる前の。
見えない戦。
始まる。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「何だ」
「今夜も」
「私の部屋へ来なさい」
時雨が。
僅かに顔をしかめる。
「なぜ」
「荊州について」
「続きを話すため」
「朝議で話した」
「足りないわ」
「何が」
「あなたが」
「北郷一刀へ」
「どれほど興味を持っているか」
「確かめる」
「なぜ」
曹操の目が。
僅かに細くなる。
「他の男のことを」
「あなたが」
「そこまで考えているのが」
「少し面白くないから」
時雨は。
意味を考える。
分からない。
「曹操」
「何?」
「北郷一刀は」
「敵だ」
「ええ」
「なら」
「考える」
「ああ」
「曹操も」
「劉備を考えてる」
曹操の笑みが。
少し冷える。
「時雨」
「何だ」
「今夜」
「必ず来なさい」
「理由が増えてない」
「来なければ」
「私が」
「あなたの部屋へ行くわ」
時雨は。
二日目の休暇を思い出す。
一人で眠れず。
曹操を呼んだ夜。
「分かった」
「行く」
曹操の機嫌が。
少し戻る。
「よろしい」
「それから」
「栄華と」
「茶を飲みすぎないこと」
「なぜ」
「夕食が入らなくなるからよ」
「関係ない」
「ああ」
「そういうことに」
「しておきましょう」
時雨には。
やはり。
意味が分からない。
---
その日の夕方。
許昌の南門近く。
荊州商人の荷が。
検められていた。
表向き。
通常の税検査。
農具。
布。
薬。
茶。
紙。
兵が。
乱暴に。
荷を開くことはない。
栄華の役人。
桂花の官吏。
黒狼隊。
柳琳の医療担当。
複数の者が。
別々の理由で。
同じ商人を見る。
その中。
一人の若い商人が。
許昌の城壁を見上げた。
普通の顔。
粗末すぎない服。
目立たない荷。
誰も。
特別とは思わない。
だが。
その男は。
荷車の底へ。
薄い紙を隠していた。
許昌。
城門。
兵数。
商人の流れ。
黒狼隊の位置。
張燕。
帰還。
涼州平定。
曹操との関係。
栄華との接触。
霞の魏加入。
馬騰と馬超。
細かい文字。
男は。
役人へ。
笑顔を向ける。
「農具です」
「荊州で」
「よく売れております」
検査の役人は。
頷く。
「魏が」
「まとめて買い上げることになった」
若い商人の目が。
ほんの僅かに動いた。
「全てですか」
「ああ」
「村へ」
「直接売る必要はない」
「代金は」
「国が払う」
「そうですか」
男は。
笑みを崩さない。
だが。
荷車の紐へ触れる指が。
一度だけ止まった。
遠く。
黒狼隊の兵。
その動きを見ていた。
何も言わない。
止めない。
商人を。
中へ通す。
その夜。
男は。
許昌の宿へ入った。
部屋。
一人。
隠した紙を出す。
新しい一文を加える。
『張燕、すでに我らの流れへ気づいた可能性あり』
少し考える。
さらに。
書く。
『曹操の影にあらず』
筆が止まる。
『隣に立つ』
男は。
紙を細く折る。
小さな筒へ入れる。
翌朝。
鳩。
南。
荊州へ。
飛ぶ。
---
襄陽。
城。
劉備の執務室。
柔らかな光。
劉備は。
民から届いた。
願い。
税。
水路。
食料。
一つずつ。
読んでいた。
その隣。
黒い髪。
異なる衣。
中華の者とは。
僅かに違う空気を持つ男。
北郷一刀。
机へ。
一羽の鳩が降りる。
一刀は。
足の筒を外す。
紙。
開く。
読む。
劉備が。
顔を上げる。
「一刀さん」
「魏から?」
「ああ」
「曹操さんは」
「どうしてるの?」
「涼州を取った」
「次は」
一刀は。
紙を見る。
「こっちだろうね」
劉備の顔へ。
僅かな不安。
「戦に」
「なるのかな」
「曹操が」
「荊州を欲しがるなら」
「避けるのは難しい」
「でも」
劉備は。
強く言う。
「民を」
「戦わせたくない」
「ああ」
一刀は。
穏やかに笑う。
「だから」
「戦わなくて済むようにする」
劉備は。
その笑顔を見て。
少し安心する。
「張燕さんも」
「魏にいるんだよね」
「ああ」
一刀の目が。
紙へ戻る。
『曹操の影にあらず』
『隣に立つ』
「会ってみたい?」
劉備が尋ねる。
一刀は。
少しだけ。
笑みを深くする。
「会いたいね」
「どうして?」
「俺と」
「似ていると言う人がいる」
「似てるの?」
「さあ」
一刀は。
窓の外を見る。
荊州の街。
民。
兵。
子供。
商人。
皆。
劉備の名を呼ぶ。
天の御使い。
一刀様。
救世主。
悪鬼。
呼び名。
いくつもある。
「たぶん」
一刀が言う。
「似ていない」
「そうなの?」
「ああ」
「張燕は」
「自分が悪者になる」
「俺は?」
劉備が。
無邪気に尋ねる。
一刀は。
劉備を見る。
柔らかく。
優しく。
笑う。
「桃香を」
「悪者にしない」
劉備。
真名。
桃香。
その名を呼ばれ。
劉備は。
少し笑う。
「うん」
「一刀さんは」
「優しいから」
一刀は。
答えない。
窓の外。
民。
その中。
劉備へ反対した者の家。
今は。
空。
誰もいない。
どこへ行ったか。
劉備は知らない。
知る必要もない。
一刀は。
紙を。
灯りへ近づける。
火。
文字。
燃える。
灰。
「曹操」
一刀が呟く。
「張燕」
火の中。
二つの名。
「来るなら」
「歓迎しよう」
声。
穏やか。
だが。
その目には。
温かさがなかった。
天の御使い。
北郷一刀。
民からは。
救世主。
敵からは。
悪鬼。
その男もまた。
北を見ていた。
最大の国。
魏。
黄金の覇王。
黒山の狼。
荊州を巡る戦は。
まだ。
一兵も動いていない。
それでも。
すでに始まっていた。
商人の荷の底。
民の噂。
国境の市場。
一枚の紙。
一羽の鳩。
目に見えない場所で。
二匹の獣が。
互いの匂いを。
嗅ぎ始める。
一人は。
外道と呼ばれ。
それを認める男。
一人は。
悪鬼と呼ばれ。
救世主の隣で笑う男。
張燕。
時雨。
北郷一刀。
二人が。
初めて顔を合わせる時。
荊州の運命だけではない。
劉備と曹操。
二つの国。
二つの理想。
その全てが。
大きく動く。
魏は。
南を狙う。
荊州は。
天の御使いを得た。
そして。
時雨は。
曹操の影ではなく。
隣に立ったまま。
南天の悪鬼へ。
牙を向け始めた。
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