外伝 第22話 忘れられた婚約――呉王の使者と、魏の大激怒
許昌へ近づく一団が、南門の兵に発見されたのは、荊州を巡る軍議が開かれた翌日の昼過ぎだった。
先頭に掲げられているのは、魏の旗ではない。
鮮やかな赤地に、猛虎を思わせる紋。
江東を支配する孫家――呉の旗だった。
馬は十数騎。供回りは少なく、軍勢と呼ぶほどではない。だが、先頭を進む女の背筋には、少人数で敵国の都へ乗り込む者とは思えないほどの自信があった。
門を守る兵は、槍を交差させて道を塞いだ。
「止まれ。所属と用向きを申せ」
呉の使者は馬を止めたものの、慌てる様子を見せなかった。魏兵を眺める目には警戒よりも、どこか試すような色が浮かんでいる。
「我らは呉王孫策様の使い。魏王曹操へ、正式な国書を届けに参った」
「国書?」
「ああ。急ぎの用だ」
使者はそこで一度言葉を切り、門の奥にそびえる許昌の城壁を見上げた。
「呉王の婚約者を、返してもらう」
門兵たちは、意味を理解できなかった。
魏に呉王の婚約者がいる。
そのような話は聞いたことがない。
呉の王族が人質として捕らえられたという記録もなければ、呉の貴族が魏へ亡命したという報告もない。
「婚約者の名は」
門兵が慎重に尋ねた。
使者は迷わず答えた。
「張燕」
南門の空気が、止まった。
黒山の狼。
涼州征伐軍総大将。
魏の将軍。
張燕。
真名を時雨。
許昌で知らぬ者はいない。
門兵の一人が、思わず隣の者を見た。隣もまた、同じように目を見開いている。
「……張燕将軍が?」
「ああ」
「呉王孫策の、婚約者?」
「そう申している」
使者の顔には、冗談を言っている様子などなかった。
「速やかに曹操へ伝えよ。張燕は本来、我らが呉王の夫となるべき男。魏が不当に留め置く道理はないとな」
南門の兵たちは、涼州軍の猛攻を受けた時よりも混乱した。
敵兵ならば槍を向ければよい。
間者ならば捕らえればよい。
だが、張燕将軍が呉王の婚約者であるという主張を持ってきた正式な使者へ、どう対処すればよいのか。
その答えを持つ者は、門には一人もいなかった。
ただ一つ。
この話を華琳様へ伝えた者が、最初に怒りを浴びる。
誰もが、それだけは理解していた。
---
同じ頃、時雨は王宮の一室で、荊州との国境へ設ける中立市場の配置図を華論と確認していた。
市場とは名ばかりの砦にすれば、荊州から逃げてくる民や商人は警戒する。しかし、守りを薄く見せすぎれば、北郷一刀の工作員に好き勝手される。
防壁は低く。
出入口は多く。
軍の詰所は市場から少し離す。
目立つ兵は減らし、代わりに商人や荷運び人へ扮した黒狼隊を内部へ置く。
華論は地図へ線を引きながら、何度も唸っていた。
「難しいっすねえ。守れるように作ると、どうしても砦っぽくなるっす」
「守ろうとするな」
時雨は短く答えた。
「何かあれば捨てる」
「市場ごとっすか?」
「ああ。守るのは人と情報だ。建物じゃない」
「でも、せっかく作った市場を毎回捨ててたら、栄華に殺されるっすよ」
「毎回捨てるとは言ってない」
「最初から捨てる可能性を考えてる時点で、十分怒られるっす」
華論の言葉が終わるより早く、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえた。
王宮では、理由なく走る者は少ない。
まして、魏の中枢に近い場所である。
時雨と華論が同時に顔を上げる。
扉が勢いよく開いた。
現れたのは桂花だった。
普段ならば、どれほど急いでいても最低限の姿勢を崩さない女が、今は肩で息をしている。手には一枚の報告書。顔は怒りで赤くなり、握られた紙が潰れかけていた。
「時雨!」
「何だ」
「何だ、ではないわよ!」
桂花は部屋へ入ると、時雨の前まで大股で歩み寄った。
「あなた、呉王と婚約しているの!?」
時雨は黙った。
華論も黙った。
廊下の外で、桂花を追ってきたらしい稟と風も足を止めた。
沈黙が長くなる。
桂花の目がさらに鋭くなる。
「答えなさい!」
「知らない」
「知らないとは何よ!」
「覚えてない」
桂花の顔から、怒りが一瞬だけ消えた。
代わりに浮かんだのは、純粋な困惑だった。
「婚約を?」
「ああ」
「忘れたの?」
「ああ」
「自分の婚約を!?」
「ああ」
桂花の手が震えた。
華論が小さく呟く。
「時雨なら、ありそうっすね……」
「ないわよ!」
桂花が振り返って怒鳴る。
「普通はないの! 国同士の婚約を忘れる男がどこにいるのよ!」
華論は時雨を指した。
「ここにいるっす」
「指を差すな」
時雨が言う。
桂花は額を押さえた。
怒りが大きすぎて、どこから問い詰めればよいのか分からないらしい。
稟が部屋へ入り、桂花の手から報告書を受け取った。
「呉の使者は、正式な国書を所持しています」
「内容は」
時雨が尋ねる。
「張燕は、燕王であった時代に呉王孫策と婚約を結んでいる。現在、張燕が魏へ仕えていることは承知しているが、婚約そのものは解消されていない。よって、呉王の婚約者として江東へ返還するよう求める――とのことです」
「返還?」
時雨の眉が僅かに動く。
「物みたいだな」
「そこへ腹を立てる前に、婚約していたか思い出しなさい!」
桂花の怒声が再び響いた。
時雨は腕を組み、記憶を探った。
燕王だった頃。
百万の民。
黒山の山々。
官軍との戦い。
周辺勢力との交渉。
食料。
塩。
鉄。
冬を越すための布。
多くの使者が来た。
多くの書状へ印を押した。
軍事同盟。
通行権。
交易。
相互不可侵。
援軍の約束。
その中に、江東から来た使者もいた。
孫家。
当時の呉は、今ほど大きくなかった。
孫策も、まだ呉王を名乗ってはいなかったはずだ。
「……あったかもしれない」
時雨が言った。
桂花の口が開いた。
「かもしれない!?」
「江東から使者が来た」
「何を話したのですか」
稟が冷静に尋ねる。
「塩と鉄」
「ほかには」
「船」
「ほかには」
「官軍が南から来た時、情報を流す約束」
「婚約は」
「最後に何か言われた」
「何と」
時雨は記憶をさらに辿る。
あの時。
燕は、国として極めて不安定だった。
領土の多くは山。
民は多い。
食料は足りない。
周囲から見れば、百万の賊を抱えた危険な土地。
同盟を結んでも、張燕が死ねば終わる。
江東の使者は、それでは弱いと言った。
血縁。
婚姻。
王と王の家を結ぶ約束。
そうすれば、互いに簡単には裏切れない。
時雨は、婚姻へ興味がなかった。
だが、婚約するだけで塩の価格が下がり、鉄の取引が安定し、南方からの情報を得られる。
民が生きる。
それなら構わない。
そう考えた。
「婚約すれば、塩を安くすると言われた」
桂花の顔が引きつった。
「塩で婚約したの!?」
「ああ」
「あなたという男は!」
「必要だった」
「その言葉で済ませるな!」
桂花の怒声に、王宮の廊下を歩いていた役人たちが足を速めて遠ざかる。
風は帽子の奥から、眠そうな声を出した。
「これは大変ですねー」
「風、何を落ち着いているのよ!」
「桂花ちゃんが二人分怒っているので、風は休んでおきますー」
「誰が二人分よ!」
「三人分かもしれませんねー」
「風!」
時雨は報告書を稟から受け取った。
国書の要約だけではない。
呉の使者が門前で口にした言葉も書かれている。
呉王の婚約者を返せ。
張燕は本来、孫策の夫となる男。
魏が留め置く道理はない。
時雨は紙を読み終えた。
「断ればいい」
桂花が時雨を睨む。
「誰が断ると思っているの?」
「曹操」
その名が出た瞬間。
部屋の空気が変わった。
桂花の怒りが、一瞬だけ別のものへ変わる。
恐怖に近い予感。
華論も、顔を引きつらせた。
「華琳様は」
稟が静かに言う。
「すでに報告を受けています」
時雨は稟を見る。
「反応は」
「使者を朝議の間へ通せ、と」
「それだけか」
「それだけです」
時雨は少し考えた。
曹操が怒っている時には、二種類ある。
一つは、表へ出る怒り。
声が鋭くなり、相手を逃がさない。
もう一つは、静かになる怒り。
笑みを浮かべ、必要なことだけを命じる。
後者の方が危険だった。
「行く」
時雨が立ち上がる。
桂花もすぐに続く。
「当然よ!」
「桂花も?」
「当たり前でしょう!」
「婚約してるのは俺だ」
「だから一人で行かせられないのよ!」
「なぜ」
「あなたが余計なことを言うからよ!」
「まだ言ってない」
「これまで散々言ってきたでしょう!」
桂花は時雨の袖を掴んだ。
まるで、朝議の間へ向かう途中で時雨が呉へ逃げ出すとでも思っているようだった。
反対側の袖を華論が掴む。
「私も行くっす」
「なぜ」
「何かあったら止めるっす」
「誰を」
「全員っす」
風が、ゆっくり後ろへ続く。
「風も見に行きますー」
「面白がってるな」
「そんなことはないですよー」
声が、明らかに楽しそうだった。
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呉の使者が朝議の間へ通された時、魏の将たちはすでに揃っていた。
曹操は王座。
黄金の髪には、時雨が贈った黒い櫛が使われている。蒼い瞳は穏やかに見えるが、室内の誰一人として、その穏やかさを信じていなかった。
春蘭は曹操の右。
秋蘭はその隣。
桂花、稟、風。
季衣、流琉。
華論、栄華、柳琳。
霞。
さらに、馬騰と馬超までいる。
本来ならば、呉の使者との外交へ馬騰たちを同席させる必要はない。
だが、あまりにも異常な内容だったため、涼州との統治会議に参加していた全員が、そのまま朝議の間へ集まってしまった。
時雨は曹操の近くに立っている。
普段と同じ。
頭を下げない。
だが、今日は周囲から向けられる視線が異様だった。
春蘭は怒っている。
桂花も怒っている。
栄華も怒っている。
季衣まで頬を膨らませている。
霞だけは、半分ほど面白がっているように見えた。
馬超は事情がよく分からないまま、時雨と曹操を交互に見ている。
呉の使者は堂々と進み、曹操の前で膝をついた。
「呉王孫策様の使者として、魏王曹操殿へご挨拶申し上げる」
「遠路、ご苦労様」
曹操の声は静かだった。
「国書を」
使者は封をされた書状を差し出す。
侍女が受け取り、曹操へ運ぶ。
曹操は封を確かめ、中身を開いた。
短い文。
儀礼的な挨拶。
涼州平定への祝辞。
荊州情勢についての遠回しな牽制。
そして、本題。
張燕の返還要求。
曹操は最後まで読むと、書状を丁寧に畳んだ。
「確認しましょう」
「ああ」
「呉は、我が将である張燕を、孫策の婚約者として引き渡すよう求めている」
「その通り」
「本人の意思は?」
呉の使者は、僅かに眉を動かした。
「婚約は、国家間の正式な約定。個人の気分で左右されるものではない」
朝議の間に、目には見えない火が走った。
最初に反応したのは春蘭だった。
「貴様!」
一歩前へ出る。
秋蘭が即座に姉の腕を掴んだ。
「姉者」
「離せ、秋蘭! 今の言葉、聞き捨てならん!」
春蘭は使者を睨みつける。
「時雨は物ではない! 引き渡せだと!? 本人の意思は関係ないだと!? 呉は魏の将を何だと思っている!」
使者は春蘭の怒気を受けても、姿勢を崩さなかった。
「国家の約定は、個人の意思より重い。それは魏にも理解できるはず」
「理解できるわけがないでしょう!」
今度は桂花だった。
「そもそも、燕国はすでに解体されている! 燕王張燕として結んだ約定を、魏将張燕へそのまま適用できると思っているの?」
「国が解体されても、人は残る。婚約した本人が生きている以上、約定も残る」
「詭弁よ!」
桂花の声が鋭くなる。
「燕国の権利も義務も、魏が継承したわけではない! 都合のよい部分だけを取り出して、時雨を呉の所有物のように扱わないで!」
「所有物とは申していない」
「返せと言ったでしょう!」
栄華が扇を開いた。
その動きは優雅だったが、目には冷たい怒りがある。
「仮に婚約が有効であるとしても、張燕は現在、魏から俸給を受け、魏軍の指揮権を持つ正式な将軍ですわ。軍事機密へ触れる立場の者を、他国から求められたからと差し出す国家がどこにありますの?」
「婚約者を不当に軍へ組み込んだのは魏だ」
栄華の扇が止まった。
「不当に?」
声が低くなる。
「時雨は、自ら魏を選びました。華琳様へ従うことを決め、魏のために働き、その功績によって地位を得たのです。それを不当と呼ぶなら、呉は時雨自身の選択を一切認めないということですわね」
「選択の前に、婚約がある」
「順番の話ではありません!」
栄華の声が朝議の間へ響く。
「時雨は自分で考え、自分で決める人間です! 古い書状一枚で、その意思を奪えると思わないでくださいませ!」
時雨は栄華を見た。
栄華は興奮している。
普段なら、国費や制度を根拠に話す女が、今日は時雨の意思を最初に持ち出した。
視線に気づいた栄華が振り返る。
「何ですの!」
「いや」
「今、何か余計なことを考えましたわね!」
「考えてない」
「嘘です!」
呉の使者は、魏の将たちの反応を見回した。
「ずいぶんと大切にされているようだな、張燕殿」
時雨は使者を見る。
「そうらしい」
「他人事のように言わないでくださいませ!」
栄華が怒鳴る。
霞が堪えきれずに笑った。
「時雨らしいわ」
「霞!」
桂花と栄華が同時に霞を睨む。
「何でうちまで怒られんねん!」
「笑う場面ではないでしょう!」
「いや、でもなあ」
霞は時雨へ顔を向けた。
「自分が婚約しとったこと忘れる奴、他におらんで」
「ああ」
「反省しろや!」
「何を」
「忘れたことや!」
馬超が、ようやく口を挟んだ。
「待て」
全員の視線が馬超へ向く。
「張燕は本当に婚約していたのか?」
「あったらしい」
時雨が答えた。
「らしい?」
「忘れてた」
馬超は無言になった。
隣にいる馬騰へ顔を向ける。
「母様」
「何だ」
「国同士の婚約は、忘れるものなのですか」
「普通は忘れん」
馬騰は即答した。
「そうですよね」
「ああ」
「なら、やはり張燕がおかしいのですね」
「ああ」
「聞こえてる」
時雨が言う。
馬超は時雨を睨む。
「聞かせている!」
季衣が手を上げた。
「あのさ」
「何?」
流琉が姉を見る。
「婚約って、結婚する約束だよね?」
「そうだと思う」
「じゃあ、時雨兄ちゃんは呉へ行っちゃうの?」
季衣の声には、純粋な不安があった。
朝議の間が静まる。
流琉も、時雨を見る。
柳琳も。
華論も。
春蘭は拳を握ったまま。
秋蘭は平静を保っているが、視線が鋭い。
桂花と栄華は、答えを急かすように時雨を見ている。
曹操だけは、何も言わない。
王座から、時雨を見ている。
時雨は迷わなかった。
「行かない」
季衣の顔が明るくなる。
「本当?」
「ああ」
「絶対?」
「ああ」
「よかった!」
季衣は胸を撫で下ろした。
流琉も小さく息を吐く。
春蘭は大きく頷いた。
「当然だ!」
まるで自分が決めたような声だった。
「時雨は華琳様の将! 呉などへ行く理由はない!」
呉の使者が時雨を見る。
「婚約を否定するのか」
「婚約したことは否定しない」
使者の目が僅かに細くなる。
「ならば」
「でも、今は曹操を選んでる」
朝議の間へ、短い言葉が落ちた。
使者は時雨を見つめる。
「燕王として結んだ約定より、曹操を選ぶと?」
「ああ」
「呉王孫策を捨てるということか」
「捨てるも何も」
時雨は少し考えた。
「ほとんど会ってない」
空気が止まった。
「会っていない?」
使者の声が低くなる。
「婚約の時」
「孫策様ご本人と会っていないのか」
「ああ」
「誰と約定を結んだ」
「使者」
「孫策様からの書状は」
「読んだ」
「内容を」
「塩と鉄」
桂花が額へ手を当てる。
栄華も扇で顔を隠した。
稟は静かに目を閉じる。
風だけが楽しそうに言う。
「時雨さんは、本当に婚約部分を読んでいなかった可能性がありますねー」
「読んだ」
時雨が言う。
「読んだのですかー」
「ああ」
「では、理解して押したので?」
「ああ」
「どうして忘れたのですー?」
「塩の方が大事だった」
ついに霞が声を上げて笑った。
「孫策より塩!」
「笑うな」
「無理や!」
馬超まで、呆れた顔で時雨を見ている。
「お前は呉王を何だと思っている」
「会ったことがない女」
「婚約者だろう!」
「そうらしい」
「他人事のように言うな!」
今度は馬超まで、魏の将たちと同じように怒鳴っていた。
呉の使者の頬が、僅かに引きつる。
孫策は呉王。
江東の小覇王。
民と将から愛され、敵から恐れられる女。
その婚約者である男が、婚約を忘れ、婚約相手を「会ったことがない女」と呼んでいる。
怒るべきか。
呆れるべきか。
使者自身にも分からないようだった。
「張燕殿」
使者は声音を整えた。
「孫策様は、婚約を忘れておられない」
「そうか」
「あなたが燕国を解体し、曹操へ下ったとの報告を受けても、すぐに約定を破棄されなかった」
「ああ」
「涼州征伐での働きを聞き、今こそ婚約を果たすべきだと判断された」
「なぜ今だ」
時雨が尋ねる。
この問いに、使者は僅かに笑った。
「魏が荊州を狙っているからだ」
朝議の空気が、瞬時に外交のものへ戻る。
曹操の蒼い瞳が鋭くなる。
桂花も、怒りの中で表情を変えた。
稟と風は互いに一度だけ視線を交わす。
呉が本当に欲しいのは、婚約者としての時雨だけではない。
魏と荊州。
劉備。
北郷一刀。
南方の情勢が動き始めた今、張燕という男の存在は、軍事的にも政治的にも大きすぎる。
涼州軍を大決戦なしで崩した総大将。
黒狼隊。
魏の内情を知る将。
曹操の隣に立つ男。
それが呉へ入れば、孫策は強大な力を得る。
逆に、魏から時雨を引き離せば、曹操は大きな支柱を失う。
婚約。
それは感情だけの話ではない。
南方の均衡を変える一手。
「荊州を狙う魏にとって」
使者は続けた。
「呉は敵にも味方にもなり得る」
「張燕殿が呉王の夫となれば、魏と呉は婚姻による繋がりを持つ」
「そうなれば、荊州の劉備と北郷一刀へ対し、南北から圧力をかけることも可能」
「魏にとっても、悪い話ではないはずだ」
曹操は、使者の話を最後まで聞いた。
「なるほど」
静かな声。
「孫策は、時雨を求めると同時に、魏との婚姻同盟を提案しているのね」
「その通り」
「時雨が呉へ移る形で?」
「ああ。呉王の夫が、魏へ住み続ける道理はない」
春蘭の足元で、床板が軋んだ。
力が入りすぎている。
「呉王の夫」
桂花が低く繰り返す。
「時雨が」
栄華の扇も微かに震えている。
華論は使者を見ながら、いつでも間へ入れるよう姿勢を変えた。
柳琳は怒鳴らない。
だが、穏やかな顔から笑みが消えていた。
霞は先ほどまでの笑いを収め、飛龍偃月刀へ手を添えている。
馬超は周囲を見回し、困惑した。
「なぜ」
小声で母へ尋ねる。
「魏の将たちは、ここまで怒っているのですか」
馬騰は、曹操と時雨を見た。
「張燕が、魏の将だからだ」
「それだけですか」
「それだけではないのだろう」
馬騰の声は静かだった。
「張燕は、自分がいなくても魏は動くと思っている」
「ああ」
「だが、魏の者たちは、張燕がいなくてよいとは思っていない」
馬超は以前、春蘭が泉で時雨へ怒鳴った言葉を思い出した。
お前がいなくても我らは動ける。
だが、お前がいなくてよいとは言っていない。
呉の要求は、魏から将軍を一人引き抜くというだけではない。
皆が帰る場所の一部を、持ち去ろうとしている。
そういうことなのかもしれない。
「返答を」
使者が曹操へ求めた。
曹操はすぐには答えなかった。
王座から立ち上がる。
ゆっくりと階段を下りる。
使者の前ではなく、時雨の隣へ立った。
黄金の髪。
黒い髪。
並ぶ。
前章で時雨が言った通り。
影でも。
前でも。
後ろでもない。
隣。
曹操は呉の使者を見る。
「まず、訂正しましょう」
「何を」
「張燕を返せ、という言葉よ」
曹操の声は穏やかだった。
「時雨は、呉から魏へ預けられた者ではない」
「燕王として、自ら国を解体し、自ら魏を選んだ」
「もともと呉の所有物ではない以上、返還という言葉は成立しない」
「婚約は」
「婚約と所有は別よ」
曹操は明確に言った。
「婚姻とは、二人の意思によって結ばれるもの」
「国家間の約定であろうと、本人を鎖で繋ぐ権利までは生まれない」
使者が眉を寄せる。
「王である曹操殿が、国家の約定より個人の意思を優先すると?」
「時と場合によるわ」
曹操は僅かに笑う。
「国のために、個人へ犠牲を求めることはある」
「私も王。その程度の綺麗事を言うつもりはない」
「でも」
蒼い瞳が、冷たく光る。
「時雨を呉へ渡すことで魏が得るものと、失うものを比べれば、答えは明らかよ」
「軍事上の理由か」
「それもある」
曹操は時雨を一度見た。
「けれど、それだけではない」
使者が黙る。
曹操は堂々と告げた。
「時雨は、私のものよ」
朝議の間が静まり返った。
時雨の眉が僅かに動く。
聞き慣れた言葉。
だが、公の場。
他国の使者。
魏の将たちが並ぶ前で、曹操は迷わず言った。
使者の目が鋭くなる。
「呉王の婚約者を、曹操殿の所有物だと?」
「あなたが先に、人を物のように返せと言ったのでしょう?」
曹操の笑みが深くなる。
「ならば、同じ言葉で返してあげる」
「時雨は私を選んだ」
「私の将として戦い、私の国へ帰り、私の隣に立つと決めた」
「その男を、古い婚約書一枚で連れ去れると思わないことね」
春蘭が大きく頷いた。
「その通りです、華琳様!」
「呉王が何者であろうと、時雨は渡さん!」
秋蘭も静かに使者を見る。
「我らの将を求めるなら、少なくとも本人を説得するべきだった」
「国書一枚で返せというのは、礼を欠いている」
桂花は腕を組んだ。
「礼どころではないわ。魏を見下しているのよ」
「華琳様が大切にしている将を、婚約者だから差し出せ?」
「冗談ではないわ!」
栄華も続く。
「時雨が呉へ移ることで失われる俸給、指揮権、部隊再編、涼州統治への影響、黒狼隊の扱い――何一つ具体的な提案がありません」
「婚約を盾に、人だけを持ち去る」
「国家間の交渉としても、あまりに粗雑ですわ」
華論が片手を上げる。
「黒狼隊も、絶対に納得しないっすよ」
「時雨だけ呉へ行けと言われても、たぶん全員ついて行こうとするっす」
「それは困る」
時雨が言う。
「何で時雨が困るんすか!」
「呉の食料が減る」
「そこっすか!?」
華論が頭を抱えた。
柳琳は使者へ穏やかに語りかける。
「時雨は、ようやく自分が戻る場所を見つけました」
「その場所を、本人の意思を無視して奪うことを、婚姻とは呼べないと思います」
静かな声。
だからこそ、使者もすぐには言い返せなかった。
霞は飛龍偃月刀の柄を肩へ乗せる。
「孫策に伝えとき」
「時雨欲しいんやったら、自分で来て口説けって」
「霞」
時雨が見る。
「何や」
「口説かれても行かない」
「ああ、知っとる」
霞は笑う。
「せやから、直接振られた方が諦めつくやろ」
使者の目が細くなる。
「孫策様が振られると?」
「もう振られとるやん」
霞は時雨を指した。
「本人、行かん言うとるで」
「張遼!」
使者の声へ怒りが混じる。
霞の笑みが消えた。
「今は魏将や」
「時雨と同じくな」
呉の使者は、魏の将たちを見回した。
全員。
怒っている。
誰一人として、張燕を外交上の駒として簡単に扱おうとしていない。
それどころか、本人以上に婚約の件へ腹を立てている。
異様な光景だった。
普通、他国の王との婚姻は利用価値を検討される。
誰と誰を結べば国が強くなるか。
本人の意思は、二の次になることも珍しくない。
だが、魏の者たちは、時雨を国の道具として差し出すことを拒んでいる。
それは、魏が優しい国だからではない。
曹操も明言した。
必要ならば、個人へ犠牲を求める。
ただ、時雨だけは渡さない。
その判断が、理と感情の両方から出ている。
「張燕殿」
使者は再び時雨を見る。
「孫策様へ、一度も会わずに婚約を破棄するつもりか」
「破棄する」
「即答だな」
「ああ」
「孫策様が、直接会談を求めても?」
「会うことはできる」
曹操の瞳が僅かに動いた。
魏の将たちも反応する。
使者の目へ、初めて希望の色が浮かぶ。
「なら」
「でも、婚約を果たすためじゃない」
時雨は続けた。
「忘れてたことは謝る」
「約束を破ることも謝る」
「必要なら、燕が婚約で得た利益の一部は返す」
栄華の扇が勢いよく開いた。
「勝手に返すと決めないでくださいませ!」
「ああ」
「相談する」
栄華の勢いが止まる。
「……よろしい」
時雨は使者へ視線を戻す。
「でも、呉へは行かない」
「理由は」
使者が尋ねた。
時雨は答える。
「曹操の隣にいるから」
曹操の蒼い瞳が、僅かに揺れた。
春蘭の顔が明るくなる。
桂花は複雑そうに唇を結び、栄華は扇で口元を隠した。
霞はにやにやと笑う。
風は小声で、「おやおやー」と呟いた。
時雨は続ける。
「燕王の時は、国を残すために婚約した」
「今は、燕はない」
「民は魏にいる」
「俺も、自分で魏にいる」
「婚約を結んだ時の理由がなくなった」
「それでも約束だけ守れと言うなら、俺一人が呉へ行くことになる」
「ああ」
「行く理由がない」
使者は時雨を見つめた。
理屈は明快。
燕のための婚約。
燕は解体。
民は魏。
時雨も魏を選択。
約束の前提が消えている。
だが、国家の約定は、前提が変わっただけで自動的に消えるものではない。
「呉は、簡単には認めない」
使者が言う。
「孫策様は、一度結んだ約束を軽く扱わない方だ」
「そうか」
「怒るだろう」
「ああ」
「場合によっては、魏との関係が悪化する」
「ああ」
「戦になる可能性もある」
その言葉へ、春蘭が一歩前へ出た。
今度は秋蘭も止めない。
「脅しか」
春蘭の声が低い。
「呉は、時雨を渡さなければ戦をすると言うのか」
「可能性を述べただけだ」
「同じだ!」
春蘭の手が剣の柄へかかる。
「華琳様の将を奪おうとし、断れば戦だと口にする!」
「ならば受けて立つ!」
「姉者」
秋蘭が呼ぶ。
だが、止める声ではない。
「戦を決めるのは華琳様だ」
「ああ!」
春蘭は曹操を見る。
「華琳様が命じられるなら、呉軍などこの私が打ち砕きます!」
「私もだ」
秋蘭も静かに言う。
「長江の向こうまで追い返そう」
華論が顔を引きつらせる。
「いきなり全面戦争にしないでほしいっす!」
「でも」
季衣が拳を握る。
「時雨兄ちゃんを連れていくなら、ボクも戦うよ!」
「季衣」
流琉が姉を見る。
「流琉は戦わないのか」
「戦います」
流琉は静かに答えた。
「でも、最初に話し合いをします」
「話しても時雨を渡せと言うなら?」
「その時は」
流琉の目が使者へ向く。
「止めます」
普段は穏やかな流琉の言葉にも、迷いはなかった。
柳琳は小さく息を吐いた。
「皆さん」
「何だ、柳琳」
春蘭が尋ねる。
「戦う前に、時雨へ確認するべきです」
全員が時雨を見る。
柳琳は時雨へ穏やかに尋ねた。
「時雨」
「何だ」
「孫策様との婚約について、少しでも迷っていますか」
「ない」
「呉へ行きたい気持ちは」
「ない」
「魏を離れるつもりは」
「ない」
「曹操の隣を離れるつもりは」
「ない」
曹操が時雨を見る。
最後の問いだけ、柳琳の口元へ僅かな笑みがあった。
「分かりました」
柳琳は使者へ向き直る。
「でしたら、私も反対します」
「時雨は行きません」
魏の将たちの意思が、完全に揃った。
時雨本人。
曹操。
武将。
軍師。
財務。
医療。
全員。
呉の要求を拒む。
使者は、しばらく何も言わなかった。
やがて、曹操へ向き直る。
「これが、魏の正式な返答と受け取ってよいか」
曹操は王座へ戻らない。
時雨の隣に立ったまま答えた。
「いいえ」
使者の眉が動く。
「まだ正式な返答ではない?」
「ああ」
曹操は国書を指先で持ち上げる。
「この書状には、あまりにも足りないものが多い」
「何が足りない」
「婚約を証明する正式な書類」
「燕と呉の間で交わされた条件」
「時雨が受け取った利益」
「呉が負った義務」
「婚約が成立する時期」
「破棄する場合の条件」
「孫策本人の意思」
「そして何より」
曹操の目が鋭くなる。
「時雨本人へ向けた言葉がない」
使者は黙る。
確かに国書は、国家間の要求として書かれている。
返還。
約定。
婚姻同盟。
政治上の利点。
だが、孫策が時雨をどう思っているのか。
なぜ今、婚約を果たしたいのか。
時雨へ何を伝えたいのか。
一つも書かれていない。
「婚約者を求める書状に」
曹操が言う。
「婚約者本人へ向けた言葉が一つもない」
「呉は、時雨が欲しいの?」
「張燕という将が欲しいの?」
「魏との繋がりが欲しいの?」
「それとも、昔の約束を守りたいだけ?」
「そこを明らかにしなさい」
曹操は国書を畳んだ。
「正式な返答は、その後よ」
「では」
使者が慎重に尋ねる。
「婚約そのものを、直ちに無効とはしない?」
曹操の笑みが深くなる。
「外交上の手続きとして、確認すると言っているだけよ」
「時雨を渡す可能性があるとは、一言も言っていない」
「むしろ」
蒼い瞳が冷たく光る。
「孫策が本気で時雨を求めるなら、私へ直接言いに来なさい」
朝議の間が、再び静まる。
「呉王本人を、許昌へ呼ぶと?」
「怖いの?」
曹操の挑発へ、使者の目が鋭くなる。
「孫策様が、恐れるとでも?」
「なら、問題ないでしょう」
曹操は微笑んだ。
「呉王孫策が許昌へ来て、時雨本人と話す」
「その場へ私も同席する」
「婚約をどう扱うか、三人で決めましょう」
「三人?」
時雨が曹操を見る。
「なぜ俺も数に入ってる」
朝議の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
桂花の顔が引きつる。
栄華が額へ手を当てる。
馬超は信じられないものを見る目で時雨を見た。
「お前の婚約だろう!」
「ああ」
「なら、お前が最初に入るだろう!」
「曹操と孫策で決めれば」
「時雨!」
曹操の声が低くなる。
「何だ」
「あなたの婚約を、私と孫策だけで決めてよいの?」
時雨は少し考える。
「駄目だな」
「なぜ最初に分からないのよ!」
「今分かった」
「本当に!」
桂花が叫ぶ。
「軍略では誰より先を読むくせに、どうして自分のことになるとそこまで鈍いの!」
風が、眠そうに頷いた。
「いつものことですねー」
「ああ」
稟も静かに同意した。
「いつものことです」
時雨は二人を見る。
「否定しろ」
「事実ですので」
稟は平然と答えた。
曹操は一度深く息を吐き、使者へ向き直った。
「呉へ戻り、孫策へ伝えなさい」
「張燕を返還せよという要求は拒否する」
「婚約の有効性については、正式な記録を確認した上で協議する」
「ただし」
曹操は、時雨の腕へ自分の手を添えた。
公の場。
呉の使者の前。
魏の将たちの前。
はっきりと。
「時雨本人が魏を離れないと決めている限り、私は誰にも渡さない」
使者は曹操の手を見る。
次に、時雨。
「張燕殿」
「何だ」
「その答えは、孫策様ご本人を前にしても変わらないか」
「ああ」
「孫策様が、呉王の地位も富も軍も、あなたと分かち合うと申されても?」
「ああ」
「江東の半分を任せると言われても?」
「いらない」
「魏で得られないものを、呉が与えると言っても?」
「魏で得られないもの?」
「呉王の夫としての地位だ」
時雨は僅かに曹操を見る。
「曹操」
「何?」
「夫の地位は」
「魏にないのか」
曹操の蒼い瞳が大きくなる。
春蘭たちも一斉に固まった。
使者まで、時雨が何を言い出したのか理解できず黙る。
時雨は純粋に聞いている。
呉王の夫。
それが、呉でしか得られない地位だと言われた。
ならば魏には、そのような地位が存在しないのか。
ただ、それだけ。
曹操の頬へ、ほんの僅かに赤みが差した。
「時雨」
「何だ」
「今、その話をするつもり?」
「使者が言った」
「使者のせいにしないで!」
桂花が叫ぶ。
栄華は扇で口元を隠しているが、耳が赤い。
霞は、今度こそ堪えられず、腹を抱えて笑い始めた。
「時雨!」
「お前、孫策との婚約が出てきた日に、華琳様へそれ聞くんか!」
「何が悪い」
「全部や!」
馬超は母へ顔を寄せる。
「母様」
「何だ」
「これは、どういう状況なのですか」
「私にも分からん」
馬騰は正直に答えた。
曹操は、しばらく時雨を見ていた。
やがて、口元へゆっくり笑みを浮かべる。
「あるわよ」
「何が」
「私の夫になるという道」
朝議の間から、音が消えた。
今度は、誰も笑わない。
曹操は時雨の腕へ添えた手へ、僅かに力を込める。
「ただし」
「魏王の夫という地位を、誰に与えるかは私が決める」
「今は?」
時雨が尋ねる。
曹操の目が細くなる。
「なりたいの?」
「分からない」
「時雨!」
曹操の怒声が響いた。
「聞いたから答えた」
「なら、少しは考えてから答えなさい!」
「今考える」
「ここで考えないで!」
先ほどまでの冷静な外交の空気が、完全に崩れた。
春蘭は、なぜか感極まったように拳を握っている。
「華琳様の夫!」
「時雨ならば、私も認めます!」
「春蘭!」
桂花が怒鳴る。
「勝手に認めないで!」
「なぜだ!」
「華琳様の婚姻よ!」
「華琳様がお望みなら、祝福するのが臣下だろう!」
「まだ、お望みとはおっしゃっていないでしょう!」
「先ほど、夫になる道があると!」
「道があるだけよ!」
栄華が低く呟く。
「ですが、否定はされませんでしたわね」
桂花が栄華を見る。
「栄華!」
「事実を申し上げただけです」
「あなた、妙に冷静ね!」
「冷静ではありません!」
栄華の扇が震えている。
柳琳は、困ったように微笑んだ。
「皆さん」
「今は呉の使者様がいらっしゃいます」
全員が止まる。
呉の使者は、何とも言えない表情で立っていた。
婚約者を返せと要求しに来た。
それが今、魏王と張燕の婚姻の可能性を、魏の将たちが激論する場へ変わっている。
「魏は」
使者が呟く。
「いつもこのようなのか」
霞が答えた。
「時雨が絡むと、大体こうなる」
「霞」
「何や」
「大体ではない」
「自覚ないんが一番怖いわ」
曹操は額を押さえた。
やがて、王としての姿勢を取り戻す。
「使者」
「はっ」
「先ほどの言葉は、今のところ外交上の返答には含めないこと」
「どの言葉だ」
「分かっているでしょう!」
使者の口元へ、僅かに笑みが浮かんだ。
初めて見せる、使者個人の表情だった。
「呉王孫策様へ、ありのまま報告するのが私の務め」
曹操の笑みが冷える。
「余計な部分まで伝えれば、次に許昌へ来た時の待遇を考えるわ」
「脅しか」
「可能性を述べただけよ」
先ほど使者が使った言葉を、そのまま返す。
使者は僅かに頭を下げた。
「承知した」
「ただし、孫策様は必ず張燕殿との会談を求めるだろう」
「それは受ける」
時雨が言った。
曹操が時雨を見る。
「私へ相談する前に決めないで」
「会うだけだ」
「どこで?」
「許昌」
「なぜ」
「俺が呉へ行けば」
曹操の目が鋭くなる。
時雨は続けた。
「戻ってこないと思われる」
曹操の瞳が僅かに揺れる。
「分かっているのね」
「ああ」
「なら、よいわ」
「孫策が来るなら、許昌で会談する」
「時雨は私の隣」
「ああ」
使者は二人を見る。
「その言葉、孫策様へ伝える」
「ああ」
時雨が答える。
曹操も頷いた。
「伝えなさい」
「張燕は、呉王の婚約者として返還される者ではない」
「会談を望むなら、孫策自身が許昌へ来ること」
「そして」
曹操は堂々と言い切った。
「私の隣にいる時雨を、自分の言葉で説得してみせなさいと」
挑戦。
呉王へ。
孫策へ。
使者は深く頭を下げた。
「確かに承った」
---
呉の使者が退出した後も、朝議の間の怒りは収まらなかった。
むしろ、他国の使者がいなくなったことで、全員が遠慮なく時雨へ怒りを向け始めた。
「時雨!」
春蘭が真っ先に迫る。
「何だ」
「なぜ婚約を黙っていた!」
「忘れてた」
「忘れるな!」
「分かった」
「今後は?」
「婚約しない」
「そういう意味ではない!」
桂花も時雨の前へ立つ。
「あなた、燕王だった頃の外交記録を全部出しなさい!」
「もう燕はない」
「だからこそよ!」
桂花は時雨の胸元を指差す。
「ほかにも忘れている約束があるかもしれないでしょう!」
「ないと思う」
「思うでは信用できない!」
栄華も頷く。
「婚約一つを忘れていた方の記憶など、財務上も外交上も信用できませんわ」
「財務に関係あるか」
「婚約によって塩と鉄の優遇を受けたのでしょう!」
「ああ」
「なら、清算が必要です!」
「返すのか」
「記録を確認してからです!」
「俺の俸給から」
「絶対に出させません!」
栄華の声が響く。
時雨は黙った。
前日に、勝手に自分の金を使わないと約束したばかり。
栄華は時雨の腰に下がる新しい財布を見る。
中には、栄華と曹操が入れた二枚の銭。
「その財布へ手をかけたら」
栄華が低く言う。
「本気で怒りますわよ」
「もう怒ってる」
「今以上にです!」
華論が、呆れと心配が混ざった顔で時雨を見る。
「時雨、本当にほかに婚約者いないっすよね?」
「分からない」
朝議の間が凍った。
「時雨」
華論の声が震える。
「そこは、いないって言ってほしかったっす」
「覚えてない」
「探すっす!」
華論は叫んだ。
「燕国の外交記録、全部探すっす!」
「倉庫のどこかにある」
「どこっすか!」
「分からない」
「何でっすか!」
「燕を解体する時、必要な書類だけ持ってきた」
桂花の顔から血の気が引く。
「婚約書を、必要ではないと判断したの?」
「ああ」
「あなたは!」
桂花が頭を抱える。
稟が静かに口を挟む。
「燕から許昌へ移された文書は、複数の倉庫へ分けて保管されています」
「行政文書」
「戸籍」
「土地」
「軍事」
「外交」
「分類作業が完全には終わっていません」
「探せば、呉との婚約書も見つかる可能性があります」
「すぐ探すわ!」
桂花が叫ぶ。
「外交文書は私が見る!」
「栄華!」
「交易と贈答の記録を調べなさい!」
「言われなくても行います!」
「稟!」
「当時の使者名と証人を!」
「承知しました」
「風!」
「ほかの婚約がないか調べなさい!」
風の帽子が僅かに動く。
「なぜ風が、時雨さんの婚約者探しをするのですー」
「見つけるのではないわ!」
桂花が怒鳴る。
「いないことを証明するのよ!」
「もし、いたら?」
「消す!」
「桂花」
稟が冷静に呼ぶ。
「外交記録を消してはいけません」
「分かっているわよ!」
明らかに分かっていない声だった。
季衣は時雨の袖を掴んだ。
「時雨兄ちゃん」
「何だ」
「本当に呉へ行かない?」
「ああ」
「孫策って人が、すごく綺麗でも?」
「ああ」
「すごく強くても?」
「ああ」
「美味しいものを、いっぱいくれても?」
「ああ」
「お肉も?」
「ああ」
季衣は安心して頷いた。
「なら大丈夫!」
「姉様」
流琉が小さく息を吐く。
「確認の基準がお肉なの?」
「大事だよ?」
馬超は腕を組みながら、時雨を睨んでいる。
「張燕」
「何だ」
「お前は、孫策と会ったら謝れ」
「ああ」
「忘れていたでは済まない」
「ああ」
「婚約を政治のために使ったのは、お前だ」
「ああ」
「今は必要ないから破棄するというのは、相手からすれば勝手だ」
「ああ」
「……分かっているのか」
「ああ」
時雨の声は短い。
だが、目は普段より僅かに重かった。
婚約に思い入れはない。
孫策へ恋情もない。
それでも、約束を結んだのは自分。
燕のために利用した。
利益を得た。
そして忘れた。
相手が覚えていたなら、時雨に非がないとは言えない。
「謝る」
時雨が言った。
「必要なものも返す」
「でも、呉へは行かない」
馬超は時雨を見る。
「そこだけは譲らないのだな」
「ああ」
「なぜ」
時雨は曹操を見た。
曹操は王座の前。
腕を組み、皆の怒りを見ている。
「帰る場所がある」
馬超は少し黙った。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
霞が時雨の肩へ腕を回そうとする。
「いやあ、でも時雨」
時雨が避ける。
霞の腕が空を切る。
「避けんなや」
「何だ」
「呉王の婚約者やったんやな」
「ああ」
「すごいやん」
「何が」
「北の燕王から、今度は呉王の旦那や」
「ならない」
「華琳様の旦那になる道もあるらしいし」
朝議の空気が、再び止まる。
曹操の目が霞へ向く。
「霞」
「何です、華琳様」
「今日の訓練」
「春蘭の相手を命じるわ」
「何でや!」
春蘭が剣の柄を握る。
「任せてください、華琳様!」
「霞を徹底的に鍛えます!」
「うち、何も悪いことしてへんやろ!」
「余計なことを言った」
時雨が言う。
「お前のせいや!」
「俺は聞いただけだ」
「それが一番あかんねん!」
柳琳は、騒ぐ霞たちから離れ、時雨の近くへ立った。
「時雨」
「何だ」
「本当に、忘れていただけですか」
時雨は柳琳を見る。
「何が」
「婚約を」
「ああ」
「忘れようとしたのではなく?」
時雨は少し考える。
燕王だった頃。
自分の婚姻。
未来。
家庭。
そのようなものを、考えたことがなかった。
明日、官軍に討たれるかもしれない。
冬に民が死ぬかもしれない。
食料が尽きるかもしれない。
自分が誰かと暮らす未来など、想像する意味がない。
婚約は、外交の道具。
塩と鉄を得る手段。
だから、書状へ印を押した後は、頭の中から消えた。
「自分が」
時雨が言う。
「婚約を果たす日が来ると思ってなかった」
柳琳の目が僅かに揺れる。
「死ぬと思っていたのですか」
「ああ」
周囲の声が、少しずつ静まった。
春蘭も。
霞も。
桂花も。
栄華も。
時雨を見る。
「燕が」
時雨は続ける。
「何年持つか分からなかった」
「俺も」
「いつ死ぬか分からなかった」
「婚約が必要になる前に」
「どちらかが滅ぶか」
「俺が死ぬと思ってた」
「だから」
「覚える必要がないと?」
柳琳が尋ねる。
「ああ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
忘れた。
鈍い。
無責任。
それだけではない。
時雨は、自分が婚姻する未来を最初から数えていなかった。
自分が生き残ることを、前提にしていなかった。
曹操の表情から、怒りが少しだけ消える。
代わりに、深い痛みが浮かんだ。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「何だ」
「今は?」
「何が」
「自分が」
曹操は真っ直ぐ尋ねた。
「誰かと未来を持つ日が来ると思っている?」
時雨は黙った。
以前なら。
分からない。
必要ない。
そう答えただろう。
だが、今は違う。
帰る場所。
休む時間。
自分の部屋。
曹操が眠る寝台。
栄華が選んだ茶器。
皆で囲んだ食卓。
次。
また作る料理。
未来。
意識せず。
すでに口にしている。
「前よりは」
時雨が答えた。
曹操の蒼い瞳が柔らかくなる。
「そう」
「ああ」
「なら」
曹操は時雨の前まで歩み寄った。
「忘れた婚約は、きちんと終わらせなさい」
「ああ」
「孫策へ、自分の言葉で伝える」
「ああ」
「逃げない」
「ああ」
「一人で呉へ行かない」
「ああ」
「私の隣で話す」
「ああ」
曹操は満足そうに頷く。
「よろしい」
「それまでは」
曹操は全員を見る。
「時雨の身辺警護を強化する」
時雨の眉が動く。
「なぜ」
「呉が強硬な手へ出る可能性があるからよ」
「使者は正式に来た」
「正式な使者を送ることと、裏で動かないことは別」
「ああ」
「春蘭」
「はっ!」
「時雨が王宮外へ出る時、護衛を」
「御意!」
「秋蘭」
「はっ」
「呉の間者が入り込んでいないか調べなさい」
「承知しました」
「桂花、稟、風」
「婚約書と、燕と呉の全記録を確認」
「御意!」
「華論」
「あいっす」
「黒狼隊へ、時雨本人を守る小隊を作らせなさい」
「分かったっす!」
「栄華」
「はい」
「呉との交易記録と、婚約による利益を計算」
「お任せくださいませ」
「柳琳」
「はい」
「時雨が逃げ出さないよう見ていなさい」
時雨が曹操を見る。
「なぜ柳琳だけ違う」
「あなたが、護衛を面倒がって勝手に動くからよ」
「動かない」
全員が時雨を見る。
信用していない目。
「本当に?」
柳琳が尋ねる。
「ああ」
「では」
柳琳は穏やかに笑った。
「華琳様へ、一日の行動予定を提出してください」
「監視だな」
「護衛です」
「同じだ」
「違います」
「何が」
「監視は疑うため」
柳琳は時雨を見る。
「護衛は、帰ってきてもらうためです」
時雨は黙った。
断りにくい言葉だった。
「分かった」
曹操は頷いた。
「これで決まりね」
「大げさだ」
「大げさではないわ!」
春蘭が怒鳴る。
「呉王が、時雨を奪おうとしているのだぞ!」
「奪われない」
「貴様が鈍いから心配なのだ!」
「孫策を見ても分からない」
「何が」
「会ってない」
「だからこそだ!」
春蘭の理屈は少しおかしい。
だが、勢いだけは強かった。
馬超が時雨を見ながら、小さく呟く。
「大変だな」
「ああ」
時雨が答える。
「他人事のように言うな」
「ああ」
「それもやめろ!」
---
呉の使者が許昌を発つ前、時雨は城門まで見送りに出た。
当然、一人ではない。
春蘭。
秋蘭。
華論。
黒狼隊十名。
少し離れた場所に、柳琳までいる。
さらに、なぜか栄華も来ていた。
「仕事は」
時雨が尋ねる。
「呉との交易記録を確認するため、使者の荷も見ます」
「そうか」
「決して」
栄華は扇を開く。
「あなたが、そのまま呉へ連れていかれないよう見張りに来たわけではありません」
「聞いてない」
「顔が聞いております!」
使者は馬へ乗る前、時雨の前へ立った。
「張燕殿」
「何だ」
「孫策様は、あなたが婚約を忘れていたと知れば、激怒されるだろう」
「ああ」
「私から、少し言葉を選んで伝えることもできる」
時雨は使者を見る。
「そのまま伝えろ」
「よいのか」
「ああ」
「忘れてた」
「約束を軽く扱った」
「俺が悪い」
「でも」
時雨は続ける。
「魏を離れないことも伝えろ」
「孫策様が、直接迎えに来ても?」
「ああ」
「軍を率いて来ても?」
春蘭の目が鋭くなる。
時雨は迷わない。
「止める」
「戦うのか」
「必要なら」
使者は時雨の目を見る。
そこに侮りはない。
孫策を軽く見ているわけではない。
婚約を笑っているのでもない。
自分の非を認め。
それでも。
今の選択を変えない。
「分かった」
使者は小さく頷いた。
「孫策様へ、全て伝える」
「それから」
使者の口元へ、僅かに笑みが浮かぶ。
「呉王は、あなたが思っているほど簡単に諦める方ではない」
「そうか」
「江東の小覇王と呼ばれた方だ」
「欲しいものは、自らの手で掴む」
「なら」
時雨は答えた。
「来ればいい」
春蘭が時雨を見る。
栄華も。
華論も。
使者の目が細くなる。
「挑発か」
「違う」
「会って」
「謝る」
「断る」
「それだけだ」
「孫策様を前にしても、その言葉を言えるとよいな」
使者は馬へ乗った。
呉の旗が翻る。
一団は南へ向かって進み始める。
その背を見送りながら、霞がいつの間にか時雨の横へ立っていた。
「どこから来た」
「見送りや」
「訓練は」
「春蘭から逃げてきた」
「霞!」
春蘭が怒鳴る。
「逃げたとは何だ!」
「休憩や、休憩!」
霞は時雨の肩を叩く。
「しかし、孫策かあ」
「知ってるのか」
「ああ」
霞の顔から、ふざけた笑みが少し消える。
「直接戦うたことはないけど、噂は聞いとる」
「強い?」
「強い」
「春蘭や馬超とは、また違う強さや」
「どう違う」
「楽しむんや」
霞は南へ消えていく呉の旗を見る。
「戦も」
「勝負も」
「危ない橋も」
「全部」
「笑って楽しむ」
「欲しいと思ったら」
「無理や言われても手伸ばす」
「せやから」
霞は時雨を見る。
「ほんまに来るかもしれんで」
「ああ」
「怖ないん?」
「何が」
「孫策に気に入られるん」
時雨は少し考える。
「忘れてたから」
「もう気に入られてないだろ」
霞が吹き出した。
「逆や!」
「何が」
「孫策みたいな奴は」
「自分との婚約忘れた男がおったら」
「余計に気にする!」
「なぜ」
「自尊心や!」
時雨には、よく分からない。
栄華が扇を強く閉じる。
「霞の言う通りですわ」
「栄華も?」
「ああ」
「呉王ともあろう方が、自分との婚約を塩より軽く扱われた」
「怒るだけで済めばよいですが」
「意地になって」
「必ず時雨を手に入れると言い出す可能性もあります」
「面倒だな」
「誰のせいですの!」
「昔の俺」
「今のあなたもです!」
華論が南を眺めながら呟く。
「これ」
「荊州攻める前に」
「呉王が許昌へ攻めてきたりしないっすよね」
「あり得る」
秋蘭が静かに答える。
「軍を率いてくるか」
「単身で来るか」
「どちらかは分からないが」
「孫策が、呉の利益だけでなく」
「女として張燕を求めるなら」
「通常の外交では読みにくい」
春蘭が胸を張る。
「来るなら来い!」
「時雨は渡さん!」
「姉者」
秋蘭が姉を見る。
「華琳様の許可なく、外交方針を決めるな」
「だが!」
「渡さないことは、すでに決まっている」
「ああ!」
春蘭は満足した。
時雨は、呉の旗が見えなくなった道を見る。
忘れていた婚約。
燕王だった自分が、民を生かすために結んだ約束。
相手は覚えていた。
自分は忘れた。
謝る必要がある。
だが、約束を果たすことはできない。
今の時雨には、別の選択がある。
自分で選んだ場所。
---
その夜。
曹操の私室。
時雨は、いつもより早く呼ばれていた。
机には荊州の地図。
その横に呉の地図。
さらに、使者が持ってきた国書。
曹操は寝台ではなく、椅子に座っている。
時雨は向かい。
二人きり。
「時雨」
「何だ」
「怒っているわ」
「ああ」
「何に怒っているか、分かる?」
「婚約を忘れたこと」
「それも」
「黙ってたこと」
「忘れていたのだから、黙っていたとは言わないわ」
「なら」
曹操は国書を指先で叩く。
「あなたが」
「自分の婚姻を」
「自分の未来として」
「一度も考えていなかったことよ」
時雨は黙る。
昼。
柳琳へ話した。
婚約を果たす前に死ぬと思っていた。
曹操も聞いていた。
「燕王だった頃」
曹操が言う。
「あなたは」
「自分の身体も」
「名も」
「婚姻も」
「全て」
「民を生かす道具として使った」
「ああ」
「それ自体を」
「責めるつもりはない」
「私も王」
「同じ立場なら」
「同じことをするかもしれない」
「でも」
曹操の目が鋭くなる。
「今も」
「同じだと思っているなら」
「許さない」
「同じじゃない」
「どう違うの」
時雨は少し考える。
以前。
自分の未来は、数えなかった。
今。
曹操の隣。
皆との食事。
自室。
茶器。
財布。
次の休暇。
荊州。
北郷一刀。
その先。
「次があると思ってる」
曹操の目が、僅かに柔らかくなる。
「何の?」
「戦の後」
「ああ」
「帰った後」
「ああ」
「曹操と」
「話すこと」
曹操は時雨を見る。
「それだけ?」
「皆と飯を食う」
「栄華と喧嘩する」
「春蘭と霞が騒ぐ」
「馬超が怒る」
「桂花が」
「俺へ説明しろと言う」
「ああ」
曹操の口元へ、小さな笑みが浮かぶ。
「よく分かっているわね」
「毎日だから」
「では」
曹操は少し身を乗り出す。
「婚姻は?」
時雨の動きが止まる。
「考えたことない」
「今、考えなさい」
「なぜ」
「呉王との婚約が出てきたからよ」
「破棄する」
「それで終わりではないわ」
「何が」
曹操は時雨を真っ直ぐ見る。
「孫策と婚約していたあなたが」
「それを破棄して」
「この先」
「誰とも婚姻しないとは限らないでしょう?」
「ああ」
「誰かに」
「求められるかもしれない」
「ああ」
「その度に」
「私は」
「今日のような思いをするの?」
時雨は、曹操の顔を見る。
怒り。
不満。
僅かな不安。
「嫌なのか」
「嫌よ」
即答。
「どうして」
曹操の眉が僅かに上がる。
「本当に聞くの?」
「ああ」
曹操は深く息を吐いた。
「時雨」
「何だ」
「あなたが」
「私以外の女の夫になるのが」
「嫌なのよ」
明確な言葉だった。
時雨は黙った。
曹操は逃がさない。
「意味は分かる?」
「ああ」
「本当に?」
「曹操が」
「俺を欲しい」
蒼い瞳が僅かに揺れる。
「ええ」
「将として?」
「それだけなら」
曹操は、時雨から贈られた櫛へ指を触れた。
「この櫛を」
「寝室へ置いたりしないわ」
以前。
時雨が水餃子の店で言った言葉を返す。
それだけなら、櫛は買わない。
時雨は意味を理解した。
完全に。
とは言えない。
だが。
「曹操」
「何?」
「俺が」
「呉へ行かないと言った時」
「嬉しかったか」
曹操は少しだけ目を細くする。
「ええ」
「夫の道があると言ったのも?」
「ああ」
「本気?」
曹操は時雨を見つめる。
からかいではない問い。
「あなたは?」
時雨はすぐに答えられない。
曹操の夫。
魏王の夫。
地位。
政治。
国。
それだけではない。
曹操の隣。
今より近い場所。
一生。
その言葉が、自分へどう繋がるのか。
まだ分からない。
「分からない」
時雨は正直に答えた。
曹操の目へ、僅かな不満。
だが、怒鳴らなかった。
「そう」
「でも」
時雨は続ける。
「嫌ではない」
曹操の表情が止まる。
「何が」
「曹操の夫になること」
時雨は曹操を見る。
「今すぐ」
「決めろと言われたら分からない」
「でも」
「嫌ではない」
曹操は、しばらく何も言わなかった。
やがて、椅子から立つ。
時雨の前へ来る。
黒い上衣を掴み、僅かに引く。
「時雨」
「何だ」
「今日は」
「それで許してあげる」
「何を」
「婚約を忘れていたこと」
「許すのか」
「完全には許さない」
「なら」
「これから」
曹操は時雨の胸へ額を預けた。
「忘れられないようにするもの」
時雨の手が、僅かに動く。
曹操の背へ置く。
「何を」
「私のことを」
「忘れてない」
「今はね」
「これからも」
「本当に?」
「ああ」
曹操は顔を上げる。
「孫策が来ても?」
「ああ」
「天下一の美女だったとしても?」
「ああ」
「呉の半分を与えると言っても?」
「ああ」
「あなたのために」
「毎日」
「山羊乳の煮込みを作ると言っても?」
時雨は少し考えた。
曹操の目が鋭くなる。
「なぜ考えるの!」
「料理できるか分からない」
「そこではないわ!」
「行かない」
「ああ」
「なら」
曹操は満足そうに笑う。
「よろしい」
「でも」
時雨が言う。
「孫策へは謝る」
曹操の笑みが、僅かに薄くなる。
「必要だな」
「ああ」
「約束したのは俺だ」
「ああ」
「曹操は」
「横にいてくれ」
曹操の目が、大きくなる。
時雨は続ける。
「一人で」
「昔の俺と」
「今の俺を」
「説明するのは面倒だ」
「私へ説明させるつもり?」
「ああ」
「本当に」
曹操は呆れたように言う。
「仕方のない男ね」
「駄目か」
「いいえ」
曹操は時雨の衣を掴んだまま、僅かに笑う。
「あなたが」
「私の隣で」
「孫策を断るなら」
「いくらでも説明してあげる」
「そうか」
「ああ」
「その代わり」
「何だ」
「今夜は」
「私の部屋から出ないこと」
「またか」
「婚約者を」
「呉へ返さないための警護よ」
「王宮の中だ」
「呉の間者が」
「寝室まで来るかもしれないでしょう?」
「来ない」
「分からない」
曹操は、休暇中の時雨の言葉をそのまま使った。
「分からないから備えるのよ」
時雨は反論できない。
「横暴だな」
「ええ」
曹操は笑う。
「あなたを渡さないためなら」
「いくらでも横暴になるわ」
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同じ夜。
長江の南。
建業。
呉王孫策は、まだ許昌からの返答を知らない。
広い執務室。
机には、魏の涼州平定を記した報告。
荊州で劉備が後継となったとの情報。
北郷一刀の動き。
そして。
張燕。
燕王だった男。
かつて、塩と鉄を条件に婚約を結んだ男。
孫策は窓辺で酒杯を傾けながら、一枚の古い書状を眺めていた。
張燕の印。
短い返答。
婚約を受け入れる。
条件。
塩。
鉄。
情報。
感情を思わせる言葉は、一つもない。
それでも。
孫策はその書状を捨てていなかった。
「涼州軍を崩した黒山の狼、ねえ」
孫策の口元へ、楽しそうな笑みが浮かぶ。
燕王だった頃には。
百万の民を抱える。
面白い男。
直接会う機会はなかった。
婚約も、国を繋ぐための約束。
いつか会えばよい。
そう思っていた。
だが。
燕は消えた。
張燕は曹操へ下った。
そして。
曹操の将として。
涼州を取った。
孫策は酒杯を机へ置く。
「私との婚約」
「覚えてるかしら」
笑う。
覚えている。
そう思っている。
少なくとも。
忘れるはずがない。
呉王との婚約。
孫家との約定。
それを忘れる男がいるなど。
想像すらしていなかった。
「曹操」
孫策は呟く。
「私の婚約者を」
「随分と気に入ったみたいね」
怒りよりも。
興味。
競争心。
欲しいもの。
強い男。
面白い男。
曹操が隣へ置くほどの男。
ならば。
なおさら。
自分の目で見たい。
古い婚約書だけで。
縛るつもりはない。
だが。
婚約を理由に。
会いに行くことはできる。
そして。
会って。
自分の方を選ばせればよい。
孫策は。
そう考えていた。
許昌で。
魏の将たちが。
大激怒したことも。
張燕本人が。
婚約を忘れていたことも。
まだ知らない。
知った時。
江東の小覇王が。
どのような顔をするか。
誰にも分からない。
ただ一つ。
間違いない。
呉王孫策は。
簡単には引かない。
曹操も。
絶対に渡さない。
そして。
時雨は。
過去に自分が結んだ約束と。
今、自分が選んだ場所の間へ。
立つことになる。
荊州。
劉備。
北郷一刀。
そこへ。
呉。
孫策。
忘れられた婚約。
南方の情勢は。
一枚の古い書状によって。
さらに複雑に。
さらに危険に。
そして。
魏の将たちにとっては。
何より腹立たしい形で。
動き始めた。
黒山の狼を巡り。
黄金の覇王と。
江東の小覇王。
二人の王が。
まだ顔を合わせる前から。
静かに。
牙を剥き始めていた。
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