外伝 第23話 江東の小覇王――孫策、許昌へ来たる
呉王孫策が建業を発った。
その報せが許昌へ届いた時、王宮の空気は一度、完全に止まった。
早馬を乗り継いできた斥候は、朝議の間へ入るなり膝をつき、息を整える間も惜しむように言った。
「曹操様。呉王孫策、自ら許昌へ向けて進んでおります」
曹操は王座に座ったまま、僅かに目を細めた。
「軍勢は」
「およそ二百」
「二百?」
桂花が眉を寄せる。
「呉王本人が敵国の都へ来るのに、たった二百?」
「はい。騎兵を中心とした護衛のみ。大型の荷車も攻城兵器も確認されておりません」
「偽装の可能性は」
稟が尋ねる。
「周辺に大軍が潜んでいる様子はありません。荊州方面、淮南方面も同時に調査しておりますが、呉軍の大規模な移動は確認できておりません」
「本当に来たのか」
春蘭が呟いた。
その声には驚きより、警戒と怒りが濃い。
前回、呉の使者は張燕を返せと要求した。
魏の将たちは激怒し、曹操は要求を拒絶した。
孫策が本気で婚約を主張するなら、自分で許昌へ来て時雨を説得してみせろ。
そう、曹操は言った。
挑発だった。
外交上の牽制でもあった。
だが、孫策は本当に来た。
国王自ら。
敵国最大の都へ。
僅かな護衛だけを連れて。
「華琳様」
秋蘭が静かに言う。
「孫策は、我らが拒めない形を選びました」
「どういう意味だ」
春蘭が妹を見る。
「大軍を率いれば侵攻となる。使者だけなら、再び同じ返答を返せる。だが、王本人が少数で来れば、門前払いをすれば魏の器量を問われる」
「ああ」
曹操が頷いた。
「しかも、婚約者へ会いに来た女という形を取っている」
桂花が苛立たしそうに扇を閉じる。
「外交ではなく私情に見せながら、その実、呉王として堂々と魏の都へ入る。失敗しても、恋に積極的な女王として笑って帰れる。成功すれば、時雨を連れていける」
「最初から」
風が眠そうな声で続けた。
「損をしにくい賭けですねー」
「本当に腹立たしい女ね」
桂花が吐き捨てる。
霞は、朝議の列の中で肩を揺らして笑っていた。
「何がおかしい」
時雨が見る。
「いやあ」
霞は楽しそうに答える。
「孫策らしい思てな」
「知ってるのか」
「噂だけや。けど、欲しいもんあるなら自分で取りに来る。そういう奴やって、江東じゃ有名や」
馬超も腕を組んだまま、斥候を見ている。
「たった二百で敵国へ来るのは、勇敢というより無謀だろう」
「馬超が言うか」
時雨が言った。
「何だ!」
「五千で魏軍の補給隊へ突っ込んだ」
「あれは戦だ!」
「似てる」
「似ていない!」
春蘭も馬超を見る。
「確かに似ているな」
「夏侯惇まで言うな!」
「誰が夏侯惇だ!」
「お前だ!」
二人の声が響く。
曹操は二人を一瞥しただけで、すぐ斥候へ視線を戻した。
「孫策の到着は」
「早ければ明日の夕刻。遅くとも明後日の朝には、許昌南門へ到着する見込みです」
「分かった。下がりなさい」
斥候が退出する。
朝議の間には、すぐに別の緊張が満ちた。
呉王孫策をどう迎えるか。
国賓として遇するのか。
婚約を主張する一個人として扱うのか。
敵国の王である以上、護衛を制限する必要がある。
だが、過度に警戒すれば魏が孫策を恐れているように見える。
荊州では劉備が劉表の後を継ぎ、北郷一刀がその隣で影響力を広げている。
そんな時に、魏と呉が時雨一人を巡って争っていると外へ見せることも危険だった。
「歓迎の形式は国賓に準ずるわ」
曹操が言った。
桂花がすぐに反応する。
「華琳様!」
「婚約を認めるという意味ではない」
「えぇ」
「孫策は呉王。本人が正式な国書を持ち、少数で来る以上、我らも王として遇する」
曹操の蒼い瞳が、僅かに冷たく光る。
「その上で、婚約を終わらせる」
時雨は曹操を見る。
「終わらせるのか」
「何?」
「俺が話す前に決めるなと言ってた」
曹操の眉が動く。
「あなたは破棄すると決めているのでしょう?」
「ああ」
「なら、終わらせるのよ」
「そうか」
「何か不満?」
「ない」
曹操は、僅かに息を吐く。
時雨は、自分のことになると驚くほど話が短い。
婚約。
他国の王。
南方の情勢。
普通ならば、もっと悩む。
少なくとも、相手の顔を見てから決めると言う者は多いだろう。
だが、時雨は最初から決めている。
孫策へは謝る。
必要な清算もする。
それでも呉へは行かない。
理由は、曹操の隣にいるから。
その一点だけは揺らがない。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「何だ」
「孫策が来たら、最初にあなたが迎えなさい」
朝議の間に、小さなざわめきが起きた。
春蘭が一歩前へ出る。
「華琳様、危険です!」
「呉王本人が、婚約者へ会いに来たのよ。時雨が姿を見せなければ、余計な挑発になるわ」
「しかし」
「護衛はつける」
曹操は春蘭を見る。
「春蘭、秋蘭、霞」
「はっ!」
「はい」
「おう」
「時雨と共に南門へ」
次に、桂花と稟。
「あなたたちは、孫策が持参する書状と婚約文書をその場で確認」
「御意!」
「承知しました」
「栄華」
「はい」
「燕と呉の交易記録、婚約によって生じた利益、清算可能な範囲をまとめて持ちなさい」
「すでに用意しておりますわ」
栄華は胸を張った。
時雨が見る。
「早いな」
「あなたが忘れていただけで、わたくしたちは働いております」
「ああ」
「そこで素直に頷くと、余計に腹が立ちます!」
曹操は、最後に時雨を見る。
「そして、時雨」
「何だ」
「勝手に孫策と二人きりにならない」
「ああ」
「城外へ連れ出されない」
「ああ」
「呉の宿へ行かない」
「ああ」
「馬へ一緒に乗らない」
時雨の眉が僅かに動く。
「なぜ増えた」
「必要だからよ」
「馬は別で乗る」
「そういう問題ではないわ!」
霞が堪えきれず笑う。
「華琳様、心配しすぎやない?」
曹操の目が、霞へ向く。
「霞」
「はい」
「あなたは、時雨と孫策が必要以上に近づかないよう見張りなさい」
「うちが?」
「適任でしょう?」
霞は、時雨を見る。
次に曹操。
口元が上がる。
「任せとき。婚約者同士、ええ雰囲気になったら、すぐ邪魔したるわ」
朝議の空気が凍る。
曹操の笑みが深くなる。
「訓練を、春蘭と二倍にする?」
「冗談や!」
「私は構わんぞ!」
春蘭が即座に答える。
「お前は黙っとれ!」
---
その日の午後。
許昌の南門周辺は、普段より厳重な警戒態勢へ入った。
だが、槍を並べ、兵を壁のように見せることはしない。
表向きは、他国の王を迎えるための儀礼。
門前の道は清められ、赤と黒の布が掛けられた。
魏の旗。
呉を歓迎するための空間。
市場も完全には閉じない。
民を遠ざけすぎれば、何か不穏なことが起きていると噂になる。
ただし、道沿いには黒狼隊が商人や荷運びに扮して配置されていた。
屋根の上には秋蘭の弓兵。
門内の路地には春蘭の兵。
霞の騎兵は、少し離れた厩舎で待機。
華論は人の流れを整理し、栄華は呉の一団が使う宿舎の費用と物資を確認している。
「歓迎する相手へ、そこまで帳簿を見るのか」
時雨が尋ねる。
栄華は扇を開いた。
「国賓だからこそです」
「過不足なく用意する。豪華すぎれば媚び。粗末なら侮辱。何をどれだけ出したか、すべて記録します」
「ああ」
「それから」
栄華は時雨を見る。
「時雨の衣服も、今日は正式なものを用意しました」
時雨の顔が曇る。
「今のでいい」
今着ているのは、黒に近い深い色の軍装。
動きやすい。
腰には剣。
呉王を迎えるには、十分に整っているように見える。
「駄目ですわ」
「なぜ」
「今日は呉王の婚約者として見られるのです」
「ああ」
「もっと嫌そうな顔をしなさいませ!」
「嫌だ」
「でしたら、なおさらです!」
栄華は、侍女へ合図する。
運ばれてきたのは、濃い黒を基調とした正式な衣。
銀の狼。
魏の紋。
燕王時代の意匠も、僅かに残してある。
「誰が作った」
時雨が尋ねる。
「わたくしです」
「栄華が?」
「設計と発注を行いました」
「婚約が分かった後?」
「ああ」
「そうです」
「早いな」
「呉王へ」
栄華の目が鋭くなる。
「今の時雨が、燕王のままではないと見せるためです」
時雨は衣を見る。
燕の黒狼。
魏の銀。
二つ。
片方だけではない。
自分が捨てた過去ではなく。
今へ続くものとして。
「着る」
時雨が言った。
栄華の表情が僅かに柔らかくなる。
「よろしい」
霞が横から覗き込む。
「おお、似合いそうやん」
「まだ着てない」
「孫策に見せるには、ええ服や」
時雨が霞を見る。
「なぜ」
「昔の婚約者が」
霞はにやにや笑う。
「今は別の女の色に染まっとるって、一目で分かるやろ」
栄華の扇が霞の頭へ飛んだ。
「痛っ!」
「下品な言い方をしないでくださいませ!」
「意味は同じやん!」
「同じではありません!」
時雨は、用意された衣を持つ。
「別の女?」
栄華と霞が同時に止まる。
「誰のことだ」
栄華は扇で顔を隠す。
霞は時雨を見て、深く溜息を吐いた。
「華琳様も苦労するな」
「なぜ」
「自分で考え」
「面倒だ」
「考えろ!」
---
孫策が許昌へ到着したのは、翌日の夕刻だった。
西へ傾いた日が、城壁を赤く染めている。
許昌の南へ続く街道。
最初に見えたのは、呉の赤い旗だった。
風を受けて大きく翻る。
その下。
およそ二百騎。
隊列は整っている。
だが、戦へ向かう軍の緊張とは違う。
先頭の女が、あまりにも堂々としているからだ。
孫策。
呉王。
江東の小覇王。
長い赤みを帯びた髪。
堂々とした姿勢。
馬上でも、周囲すべてを自分の庭のように見ている。
鎧は軽い。
だが、腰には剣。
笑っている。
敵国の巨大な城壁を前にして。
数え切れないほどの魏兵の視線を受けながら。
孫策は、楽しそうに笑っていた。
「ほんまに来たな」
霞が呟く。
時雨は南門の前に立っている。
正式な衣。
黒。
銀。
狼。
腰には剣。
左右に春蘭と秋蘭。
少し後ろに霞。
桂花、稟、栄華。
華論。
柳琳。
さらに、黒狼隊。
曹操はまだ城内にいる。
呉王を最初に迎えるのは、婚約者である時雨。
曹操の命令。
孫策の馬が、門前で止まった。
呉の騎兵も止まる。
埃がゆっくり沈む。
孫策は馬上から、魏の将たちを見回した。
春蘭。
秋蘭。
霞。
桂花。
栄華。
そして。
中央の時雨。
その目が、そこで止まった。
長く。
確かめるように。
「あなたが」
孫策が言った。
声は明るい。
「張燕?」
「ああ」
「ふうん」
孫策は時雨を上から下まで見る。
遠慮がない。
顔。
肩。
剣。
衣。
狼の紋。
魏の銀。
「思ってたより」
「普通ね」
時雨は孫策を見る。
ピンク、色の髪。
強い目。
笑み。
「孫策か」
「えぇ」
「思ってたより」
時雨も少し考える。
「笑ってるな」
孫策の眉が僅かに上がる。
次の瞬間。
声を上げて笑った。
「何それ!」
「初対面の婚約者に言うこと?」
「初対面だから」
「ああ」
「そうね」
孫策は馬から降りる。
手綱を護衛へ渡す。
そして。
迷わず。
時雨へ歩いてくる。
春蘭の手が、すぐ剣の柄へ動く。
秋蘭も、僅かに位置を変える。
霞は、笑っているようでいて、孫策の足運びを見ていた。
孫策は、その全てへ気づいている。
それでも止まらない。
時雨の前。
一歩。
近い。
さらに半歩。
「止まれ」
春蘭が言った。
孫策が春蘭を見る。
「あなたが夏侯惇?」
「春蘭と呼ぶな」
「呼んでないわよ」
「そうか」
春蘭は一瞬だけ言葉を失う。
霞が後ろで吹き出した。
孫策は再び時雨へ向き直る。
「顔を見せて」
「見えてる」
「近くで」
孫策の手が、時雨の顎へ伸びる。
その瞬間。
春蘭の剣が半ばまで抜かれた。
秋蘭の手も弓へ。
霞の飛龍偃月刀が僅かに持ち上がる。
栄華が一歩前へ出る。
桂花は殺気すら隠していない。
だが。
時雨自身が。
孫策の手首を掴んだ。
強くはない。
ただ。
それ以上近づけない。
「触るな」
孫策の目が。
僅かに光る。
怒りではない。
興味。
「へえ」
「嫌?」
「ああ」
「婚約者なのに?」
「初対面だ」
「それもそうね」
孫策は、あっさり手を引いた。
だが、笑みは深くなっている。
「私の手を止めた男、久しぶり」
「皆止めるだろ」
「呉だと、あまり止めないわ」
「王だからか」
「えぇ」
「つまらないな」
孫策の笑みが、一瞬止まる。
次に。
さらに楽しそうになる。
「あなた」
「本当に面白いわね」
「そうか」
「婚約を忘れてたくせに」
南門前の空気が、凍った。
呉の使者は、すべて伝えたらしい。
孫策の笑顔。
だが。
その奥。
確かな怒り。
「悪かった」
時雨は、すぐに言った。
孫策の眉が僅かに動く。
時雨は続ける。
「忘れてた」
「約束を軽く扱った」
「燕が」
「生き残るために」
「婚約を使った」
「それなのに」
「必要がなくなった後」
「覚えてなかった」
「俺が悪い」
春蘭たちも。
孫策の護衛も。
黙って聞く。
時雨は、言い訳しない。
孫策の目を見ている。
「それで?」
孫策が尋ねた。
「何を」
「謝って」
「終わり?」
「違う」
「婚約は破棄する」
孫策の笑みが消えた。
一瞬。
完全に。
夕方の風。
呉の旗。
魏の旗。
誰も動かない。
「会ってすぐ」
孫策が静かに言う。
「私を振るの?」
「ああ」
「私が、どんな女かも知らないのに?」
「ああ」
「顔も」
「今見た」
「強さも」
「噂だけ」
「国も」
「知ってる」
「なら」
孫策の声が、僅かに鋭くなる。
「なぜ?」
時雨は、少しも迷わなかった。
「もう選んでる」
孫策の目が細くなる。
「曹操を?」
「ああ」
「将として?」
「ああ」
「それだけ?」
時雨は答えようとする。
だが。
僅かに止まった。
孫策は、その間を見逃さない。
「それだけじゃないのね」
時雨の後ろ。
桂花の目が鋭くなる。
栄華の扇が止まる。
霞が、少し楽しそうに時雨を見る。
春蘭だけは胸を張っている。
「華琳様は特別だ!」
「春蘭」
秋蘭が姉を止める。
孫策は、春蘭の言葉へ笑った。
「そう」
「ああ」
「なら」
孫策は時雨へ、もう一歩だけ近づく。
今度は手を伸ばさない。
ただ。
正面から見上げる。
「私が」
「曹操より」
「あなたに選ばれる女だと」
「証明すればいい?」
「違う」
「何が」
「比べない」
孫策の目が僅かに動く。
「どうして」
「曹操を選んだ後に」
「他と比べる必要がない」
静かな言葉。
だが。
その場へいた全員へ届いた。
孫策は、しばらく時雨を見た。
怒るか。
笑うか。
剣を抜くか。
誰にも読めない。
やがて。
孫策は。
口元へ笑みを戻した。
「なるほど」
「何が」
「あなた」
孫策は楽しそうに言う。
「思ってたより、ずっと頑固」
「ああ」
「それに」
「何だ」
「曹操に惚れてるのね」
時雨の眉が動く。
「惚れる?」
「自分で分かってない?」
「ああ」
孫策は、堪えきれず笑った。
「最高!」
「何が」
「婚約者が」
「私を忘れて」
「他の女を選んで」
「しかも」
「自分が惚れてることに気づいてない!」
孫策は腹を抱えるように笑う。
春蘭の顔が赤くなる。
桂花も。
栄華も。
柳琳は、僅かに微笑んでいる。
霞は、完全に孫策へ同意しているような顔。
「時雨」
霞が言う。
「やっぱり」
「何だ」
「自分で考え」
「面倒だ」
孫策の笑いが、さらに大きくなる。
「曹操」
「苦労してそうね」
「してない」
時雨が答える。
「絶対してるわよ!」
孫策は、ようやく笑いを収める。
「でも」
声。
少しだけ。
真面目になる。
「私は」
「まだ婚約を破棄したつもりはない」
春蘭の剣が、また僅かに動く。
孫策は春蘭を見ない。
時雨だけを見る。
「あなたが忘れてたから」
「終わり?」
「今は別の女を選んだから」
「終わり?」
「私が」
「はい、分かりましたって」
「江東へ帰ると思う?」
「思わない」
孫策の眉が上がる。
「分かってるじゃない」
「霞が言った」
「張遼?」
「ああ」
霞が手を上げる。
「うちや」
孫策は霞を見る。
「あなた」
「前に洛陽で見たことあるわ」
「うちもや」
「今は魏?」
「ああ」
「自分で選んだ」
「そう」
孫策は、僅かに霞へ笑う。
「じゃあ」
「あなたも」
「私の婚約者を返す気はないのね」
「本人が」
「行かん言うとるからな」
「孫策が」
「自分で口説く分には」
「止めへんけど」
「霞!」
桂花が怒鳴る。
「ただし」
霞は言葉を続ける。
「時雨が嫌がったら」
「止める」
孫策は頷く。
「いいわ」
「そういうの」
「嫌いじゃない」
そして。
時雨へ戻る。
「張燕」
「何だ」
「許昌へ来る道で」
「いろいろ考えた」
「ああ」
「怒鳴ってやろうか」
「殴ろうか」
「そのまま馬へ乗せて」
「連れて帰ろうか」
春蘭の殺気が膨らむ。
孫策は。
今度こそ春蘭を見る。
「冗談よ」
「本当に?」
「半分」
「貴様!」
秋蘭が姉の前へ僅かに腕を出す。
孫策は笑う。
「でも」
「実際会ったら」
「少し変わった」
「何が」
「あなたを」
「無理に連れて帰っても」
「つまらない」
「そうか」
「ああ」
「私を見ない男を」
「隣に置いても」
「腹が立つだけ」
時雨は頷く。
「なら」
「破棄するか」
「しない」
時雨の眉が僅かに寄る。
孫策は楽しそうに続ける。
「あなたが」
「私を見るようにすればいい」
「見てる」
「そういう意味じゃないわ!」
時雨は少し黙る。
孫策は、完全に面白がっている。
「まず」
孫策が言う。
「曹操へ会わせて」
「もう待ってる」
「でしょうね」
「怒ってる?」
「たぶん」
「私に?」
「ああ」
「あなたに?」
「ああ」
孫策は声を上げて笑う。
「いいわ」
「楽しみ」
---
孫策一行は、南門で武器の扱いについて確認を受けた。
呉王本人の剣まで取り上げることはしない。
ただし、護衛の多くは武器を宿舎へ預ける。
城内へ入る者も限定。
孫策。
側近数名。
護衛の将。
ほか。
時雨は、孫策の隣ではなく。
少し前を歩く。
案内役。
春蘭と秋蘭が左右。
霞は孫策の近く。
桂花、稟、栄華は後方。
許昌の大通り。
民たちは、呉の旗へ驚きながらも道を開ける。
噂はすでに広がっている。
呉王孫策が。
張燕将軍へ会いに来た。
婚約者を迎えに来た。
曹操と孫策が。
一人の男を巡って争う。
話は。
実際より速く。
実際より派手に。
広がっていた。
道沿い。
黒い狼の木彫りを売る店。
店主が。
時雨へ気づく。
次に孫策。
目を大きくする。
「張燕将軍!」
声。
孫策の目が、時雨へ向く。
「今の」
「あなた?」
「ああ」
店主は、黒い狼の木彫りを掲げる。
「呉王様!」
「これが」
「張燕将軍の縁起物です!」
孫策は立ち止まった。
木彫りを見る。
愛嬌のある狼。
牙だけが大きい。
「似てない」
孫策が言う。
時雨も頷く。
「ああ」
店主の顔が引きつる。
「お二人とも!」
「愛嬌を入れてるんです!」
孫策は木彫りを手に取る。
「曹操も持ってる?」
時雨が少し考える。
「ああ」
「寝室に置くと言ってた」
孫策の目が。
僅かに光る。
「へえ」
曹操の寝室。
時雨の木彫り。
「私も買う」
春蘭の眉が動く。
「なぜだ!」
「婚約者の縁起物を」
「婚約者が買って何が悪いの?」
「時雨は」
「華琳様の!」
春蘭は、そこで言葉を止めた。
何と続けるか。
将。
所有物。
夫。
まだ決まっていない。
孫策は、その迷いを見て笑う。
「曹操の何?」
春蘭の顔が赤くなる。
「とにかく特別だ!」
「便利な言葉ね」
孫策は銭を払い、木彫りを買う。
包みを時雨へ渡した。
「持って」
「自分で持て」
「婚約者でしょう?」
「違う」
「まだ破棄してない」
「俺は破棄する」
「私はしてない」
「片方でできないのか」
「婚約は二人の約束よ」
「なら」
「俺が終わらせたいなら」
「半分は終わってる」
孫策は一瞬黙る。
次に。
楽しそうに笑った。
「本当に」
「変な理屈を出すわね」
「違うか」
「少しだけ合ってるのが腹立つ」
結局。
木彫りは。
呉の側近が持つことになった。
孫策は。
許昌の街を眺めながら歩く。
広い道。
市場。
荷車。
兵。
水路。
人。
豊か。
整っている。
だが。
息苦しいほど統制されてはいない。
商人は声を上げ。
子供は走り。
兵へ冗談を言う者もいる。
「いい都ね」
孫策が言った。
「ああ」
時雨が答える。
「好き?」
「前より」
「前?」
「最初は」
「俺の場所じゃなかった」
「今は?」
時雨は、少しだけ街を見る。
黒山の民。
魏の兵。
市場。
栄華が選んだ茶器。
曹操の庭。
「帰る場所」
孫策の目が。
僅かに細くなる。
時雨は。
呉へ行かない。
政治上の理由だけではない。
この都。
この国。
この人々。
すでに。
自分の帰る場所として。
根を下ろしている。
「そう」
孫策の声が。
少し静かになる。
「私が」
「遅かったのね」
時雨が孫策を見る。
孫策は笑っている。
だが。
先ほどまでより。
少しだけ。
寂しそうに見えた。
「悪かった」
時雨が言う。
孫策が目を向ける。
「何が」
「婚約した後」
「一度も」
「会いに行かなかった」
「えぇ」
「書状も」
「ほとんど送ってない」
「えぇ」
「死ぬと思ってた」
孫策の笑みが止まる。
「自分が?」
「ああ」
「燕は」
「長く持たないと思ってた」
「婚約を果たす前に」
「俺が死ぬか」
「国が消える」
「だから」
「先を考えなかった」
孫策は、しばらく何も言わない。
街の音。
人。
夕方。
「馬鹿ね」
やがて。
孫策が言った。
「私は」
孫策は前を見る。
「ちゃんと」
「あなたに会う気だった」
時雨は黙る。
「燕が」
「落ち着いたら」
「私も」
「江東を取ったら」
「会おうと思ってた」
「ああ」
「書状だけの婚約なんて」
「つまらないから」
「直接会って」
「嫌いだったら」
「その時やめればいいって」
孫策は笑う。
「でも」
「会う前に」
「あなたが国を消した」
「ああ」
「曹操へ行った」
「ああ」
「それでも」
「生きてると聞いた」
「涼州で」
「すごい戦をしたとも」
「ああ」
「だから」
「今度こそ会うって決めた」
孫策は、時雨を見る。
「忘れられてるとは」
「思わなかったけど」
「悪かった」
「何度謝るの?」
「必要なだけ」
孫策の目が僅かに揺れる。
時雨は。
謝罪を。
軽くしていない。
自分へ。
恋情はない。
婚約も破棄する。
それでも。
自分が利用した過去。
忘れた約束。
そこから逃げない。
「そういうところ」
孫策が言う。
「何だ」
「余計に」
「諦めにくくなる」
「なぜ」
「知らない」
「孫策も分からないのか」
「女にも」
「分からないことくらいあるわよ」
霞が、後ろから言う。
「時雨」
「何だ」
「今のは」
「それ以上聞かん方がええ」
「なぜ」
「ええから」
孫策が霞へ笑う。
「張遼」
「何?」
「あなた」
「分かってるわね」
「長い付き合いやからな」
「羨ましい」
霞の笑みが。
少しだけ。
止まる。
時雨は気づかない。
孫策は気づいた。
だが。
何も言わなかった。
---
王宮。
大広間。
曹操は、正式な装いで孫策を待っていた。
王座。
黄金の髪。
時雨から贈られた黒い櫛。
蒼い瞳。
左右に魏の主要な将と軍師。
孫策が入る。
赤。
魏の黒と金の中で。
強く目立つ。
時雨は。
孫策の少し前。
曹操の前へ進む。
「連れてきた」
曹操の眉が僅かに動く。
「ご苦労様」
その声。
平静。
だが。
時雨の衣。
孫策との距離。
すべて。
見ている。
孫策は曹操の前で膝をつかない。
国王同士。
頭だけを僅かに下げる。
「初めまして、曹操」
「初めまして、孫策」
二人。
笑み。
一見。
礼儀正しい。
だが。
大広間の全員が。
空気の冷たさを感じている。
「本当に来るとは思わなかったわ」
曹操が言う。
「来いって言ったのは、あなたでしょう?」
「挑発へ」
「すべて乗るの?」
「えぇ」
孫策は笑う。
「面白そうなら」
「国を空けて?」
「周瑜がいるもの」
「信頼しているのね」
「えぇ」
「あなたも」
孫策は時雨を見る。
「この男を」
「信頼してるから」
「総大将にしたんでしょう?」
曹操の目が僅かに細くなる。
「ええ」
「それ以上に」
「大切にしているわ」
「知ってる」
「使者から聞いた?」
「街を見れば分かる」
孫策は大広間の将たちを見る。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
華論。
栄華。
柳琳。
霞。
全員。
孫策を警戒している。
時雨を奪う女。
その一点だけで。
「ずいぶん」
孫策が楽しそうに言う。
「愛されてるのね」
時雨が少し顔をしかめる。
「違う」
一斉に。
魏の将たちの視線が。
時雨へ向く。
「違わないわよ!」
桂花が叫ぶ。
「何を」
「今、否定するところではないでしょう!」
栄華も扇を閉じる。
「皆が、どれほど心配していると思っていますの!」
「大げさだ」
「大げさではありません!」
孫策は、声を上げて笑う。
「すごい」
「曹操」
「あなたのところ」
「本当に面白いわ」
「笑いに来たの?」
曹操の笑みが、僅かに冷える。
「婚約者へ会いに来た」
孫策は即答する。
大広間の空気が張り詰める。
曹操も。
孫策も。
笑っている。
「時雨は」
曹操が言う。
「婚約を破棄すると伝えたはずよ」
「ああ」
「私へも」
「会ってすぐ言った」
「なら」
「帰る?」
「まだ」
孫策は。
堂々と答える。
「私が納得してない」
「婚約は」
曹操の声が低くなる。
「片方が拒絶しても」
「続けられるものではないわ」
「国同士の約束よ」
「燕はもうない」
「張燕はいる」
「今は魏の将よ」
「だから」
孫策は笑う。
「魏と呉の婚姻にすればいい」
「時雨を呉へ住まわせる形で?」
「えぇ」
「却下」
「早いわね」
「考える必要がないもの」
「時雨本人も」
「呉へ行かないと言ってる」
「ああ」
孫策は、時雨を見る。
「聞いた」
「でも」
「私も簡単には引かない」
「なぜ」
曹操が尋ねる。
「呉のため?」
「それも」
「張燕という将が欲しい?」
「それも」
「魏との繋がり?」
「それも」
「それだけ?」
孫策の笑みが。
僅かに変わる。
少しだけ。
素直なものへ。
「会いたかった」
大広間が静まる。
「昔」
「書状だけで婚約した男」
「百万の民を抱えた燕王」
「その国を捨てて」
「曹操を選んだ男」
「涼州軍を」
「殺さず崩した男」
孫策は時雨を見る。
「どんな男か」
「自分の目で見たかった」
「会って」
「どうだった」
曹操が尋ねる。
「思ってたより普通」
時雨が頷く。
「同じことを言われた」
「でも」
孫策は続ける。
「思ってたより面白い」
「思ってたより」
「頑固」
「思ってたより」
「自分を見てない」
曹操の目が僅かに動く。
「それは」
「私も知っているわ」
「えぇ」
「でしょうね」
「それから」
孫策の目が。
曹操へ向く。
「思ってたより」
「あなたに惚れてる」
曹操の表情が。
ほんの僅かに止まる。
大広間。
また。
静か。
時雨だけが。
少し眉を寄せる。
「孫策」
「何?」
「さっきも言った」
「えぇ」
「違うのか」
「自分で考えなさい」
孫策が言う。
曹操も。
同じ言葉を重ねる。
「そうね」
「自分で考えなさい」
「二人とも」
「面倒だな」
二人の王の笑みが。
同時に冷える。
「時雨」
「張燕」
呼ぶ声も。
同時。
春蘭が。
なぜか感動したように言う。
「息が合っております!」
「春蘭!」
桂花が怒鳴る。
孫策は。
曹操へ一歩近づく。
「一つ聞くわ」
「何?」
「あなた」
「張燕を」
「夫にするつもり?」
大広間の全員が。
固まった。
曹操の瞳が。
鋭くなる。
「婚約者を」
「奪うなら」
孫策は続ける。
「それくらいの覚悟があるのか」
「確認したい」
「時雨は」
曹操が言う。
「誰かの所有物ではないわ」
「知ってる」
「でも」
「あなたが」
「私から奪ったわけではない」
「本人が」
「あなたを選んだ」
「ああ」
孫策は頷く。
「それも知ってる」
「だから」
「あなたへ聞いてる」
「この男が」
「自分で未来を考えられないなら」
「あなたが」
「どこまで考えてるのか」
「知りたい」
曹操は。
すぐには答えなかった。
孫策の言葉。
挑発。
だが。
ただの挑発ではない。
時雨は。
未来を。
少しずつ。
考え始めた。
それでも。
婚姻。
一生。
そこまで。
まだ。
形にしていない。
曹操は。
夫になる道があると言った。
本気か。
孫策は。
その曖昧さを。
見抜いている。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「何だ」
「あなたは」
「どう思う」
時雨が。
少し顔をしかめる。
「俺へ聞くのか」
「あなたのことよ」
「ああ」
「私の夫になる道」
「嫌ではないと言ったわね」
孫策の眉が。
僅かに上がる。
「そこまで話してるの?」
「ああ」
時雨が答える。
「孫策が来る前」
「ああ」
「で?」
孫策が身を乗り出す。
「それ以上は」
「分からない」
孫策が。
一瞬。
目を閉じる。
次。
大きく息を吐く。
「本当に」
「この男」
「面倒ね」
曹操が。
静かに頷く。
「でしょう?」
初めて。
二人の王の声へ。
完全な同意があった。
時雨の眉が。
さらに寄る。
「なぜ」
「あなたのせいよ」
曹操と孫策。
また。
同時。
霞が。
腹を抱えて笑う。
「時雨」
「両方から」
「怒られとるやん!」
「何もしてない」
「それがあかん!」
孫策は。
笑いながら。
時雨の前へ来る。
「いいわ」
「何が」
「今日」
「答えを出さなくていい」
「婚約破棄も」
「すぐには認めない」
「どうする」
「三日」
時雨の目が。
僅かに動く。
「何が」
「三日間」
「許昌に滞在する」
曹操の表情が。
僅かに冷える。
孫策は続ける。
「その間」
「あなたと話す」
「魏も見る」
「曹操も見る」
「その上で」
「婚約をどうするか」
「もう一度話す」
「長い」
時雨が言う。
「三日よ!」
「休暇と同じだ」
「何の話?」
「前に」
「三日休んだ」
「長かった」
孫策は。
信じられないものを見る顔。
「あなた」
「三日の休みを」
「長いと思うの?」
「ああ」
「曹操」
孫策が見る。
「どう育てたら」
「こうなるの?」
「私が育てたわけではないわ!」
珍しく。
曹操が。
本気で言い返した。
「私も苦労しているの!」
「そう」
孫策は。
少しだけ。
曹操へ親近感を持ったような顔をする。
「大変ね」
「あなたに同情されたくない」
「でも」
「分かるわ」
「時雨」
曹操が言う。
「孫策の滞在は」
「三日間」
「認める」
「俺が決めるのか」
「あなたの予定を」
「三日間空けなさい」
「荊州」
「桂花たちが進める」
「黒狼隊」
「華論がいる」
「栄華との会計」
「終わってる」
「訓練」
「春蘭たちだけでできる」
「全部」
「俺がいなくても」
「できる」
曹操の声が。
僅かに柔らかくなる。
「ああ」
「でも」
「あなたがいなくてよいわけではない」
時雨は。
以前。
春蘭。
曹操。
何度も。
言われた言葉を思い出す。
「分かった」
「三日」
「孫策と話す」
春蘭の顔が。
一気に険しくなる。
「二人きりではない!」
「分かってる」
「私が護衛する!」
「夏侯惇がいたら」
孫策が言う。
「まともに話せない」
「何だと!」
「すぐ怒鳴るでしょう?」
「貴様が時雨へ近づかなければ怒鳴らん!」
「なら」
孫策は。
時雨へ。
わざと半歩近づく。
春蘭の剣が抜かれる。
「ほら」
「貴様!」
秋蘭が。
姉を押さえる。
「孫策」
時雨が言う。
「何?」
「遊ぶな」
「えぇ」
孫策は笑う。
「怒った?」
「面倒」
「それは怒ってるの?」
「違う」
「あなたの基準」
「分かりにくいわね」
曹操は。
二人を見ながら。
自分でも気づかないうちに。
指先へ力を入れていた。
孫策。
赤。
強い。
明るい。
時雨へ。
遠慮なく近づく。
曹操とは。
違う形で。
時雨を引っ張る女。
気に入らない。
だが。
見誤るつもりもない。
孫策は。
ただの恋敵ではない。
呉王。
戦。
政治。
感情。
全部。
同時に動かす女。
「孫策」
曹操が呼ぶ。
「何?」
「三日間」
「時雨と話すことは認める」
「ただし」
「私も同席する」
孫策の笑みが深くなる。
「ずっと?」
「可能な限り」
「朝も?」
「えぇ」
「食事も?」
「えぇ」
「街も?」
「えぇ」
「寝る時も?」
大広間が静まる。
曹操の笑みが。
完全に冷える。
「それは」
「私の管轄よ」
時雨の眉が。
僅かに動く。
「管轄?」
「時雨」
曹操が低く呼ぶ。
「黙って」
孫策は。
心から楽しそうに笑った。
「いいわ」
「三日」
「楽しみましょう」
---
その日の夜。
孫策のための歓迎の宴が開かれた。
正式な国賓として。
だが。
規模は大きすぎない。
呉と魏。
互いの主な者だけ。
曹操。
時雨。
孫策。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
華論。
栄華。
柳琳。
霞。
呉側からは。
数名の将と文官。
孫策は、時雨の向かいへ座ろうとした。
曹操が先に、時雨の隣へ座った。
孫策は笑う。
「露骨ね」
「席次よ」
「あなたの隣」
「魏の将として当然でしょう?」
「じゃあ」
孫策は。
時雨の反対側へ座る。
曹操の眉が僅かに動く。
時雨を挟み。
曹操。
時雨。
孫策。
桂花の顔が引きつる。
栄華も。
扇で口元を隠す。
霞は酒を飲む前から楽しそう。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「何だ」
「こちらを向きなさい」
「なぜ」
「話がある」
孫策が。
反対側から言う。
「張燕」
「何だ」
「私も話がある」
時雨は。
正面を見る。
「両方話せ」
二人の王が。
同時に。
時雨を睨む。
「何だ」
時雨が尋ねる。
「何でもないわ」
曹操が答える。
「本当に面白い」
孫策が笑う。
宴。
料理。
酒。
呉の者たちは。
許昌の豊かさを見る。
魏の者たちは。
孫策の豪快さを見る。
孫策は。
食事の最中。
何度も時雨へ話しかけた。
「好きな食べ物は」
「何でも」
「嫌いなもの」
「特にない」
「酒は」
「飲める」
「強い?」
「普通」
霞が割り込む。
「普通ちゃうで」
「そうなの?」
「飲んでも」
「顔変わらへん」
「面白くない」
孫策が言う。
「何が」
「酔った顔」
「見たいじゃない」
「なぜ」
「隙が見えるから」
時雨は。
孫策を見る。
「孫策は」
「隙が多い」
「へえ」
「今も」
「どこが」
「酒杯を」
「右へ置いた」
「えぇ」
「左から来たら」
「剣が遅れる」
孫策の目が。
僅かに光る。
「試す?」
「宴だ」
「だから?」
「戦わない」
「真面目ね」
「普通だ」
春蘭が。
身を乗り出す。
「時雨!」
「何だ」
「孫策が」
「勝負を望むなら」
「私が相手になる!」
孫策は春蘭を見る。
「あなたとも」
「いつかやりたい」
「今でもよいぞ!」
「姉者」
秋蘭が止める。
「宴で剣を抜くな」
「なら」
霞が言う。
「腕相撲にしたら?」
孫策の目が輝く。
「いいわね」
春蘭も拳を握る。
「受けて立つ!」
時雨は小さく息を吐く。
「騒ぐな」
「お前が言うか!」
馬超はいない。
だが。
いれば。
間違いなく加わっていた。
曹操は。
孫策を観察している。
人を惹きつける。
声。
笑い。
遠慮がない。
敵味方の境を。
一時的に薄くする。
春蘭すら。
怒りながら。
勝負へ乗りかけている。
これは。
孫策の力。
劉備とは違う。
劉備は。
守りたいと思わせる。
孫策は。
共に走りたいと思わせる。
危険。
だが。
明るい。
北郷一刀のような。
見えない怖さとは違う。
「曹操」
孫策が呼ぶ。
「何?」
「あなた」
「張燕のどこが好き?」
時雨の箸が止まる。
大広間。
静か。
桂花が。
酒を吹きそうになる。
栄華の扇が。
完全に止まる。
曹操は。
孫策を見る。
「随分と」
「直接聞くのね」
「えぇ」
「三日しかないもの」
「急がないと」
「話が進まない」
「そう」
曹操は。
時雨を見る。
本人。
逃げない。
だが。
明らかに。
困っている。
「時雨」
「何だ」
「あなたは」
「聞きたい?」
「何を」
「私が」
「あなたのどこを好きか」
時雨は。
少し考える。
「好きなのか」
曹操の目が。
僅かに大きくなる。
孫策が。
机を叩いて笑い始めた。
「ちょっと!」
「そこから!?」
「時雨!」
曹操の声が響く。
「何だ」
「私は」
「何度も!」
「あなたへ!」
「欲しいと!」
「大切だと!」
「言っているでしょう!」
「ああ」
「なら!」
時雨は。
少し。
曹操を見る。
「好きと」
「同じか」
曹操の動きが止まる。
「……ええ」
声。
先ほどより。
小さい。
「同じよ」
時雨は。
少しだけ。
目を細くする。
「そうか」
「それだけ?」
「ああ」
「何か」
「言うことはないの?」
「嬉しい」
曹操の蒼い瞳が。
僅かに揺れる。
孫策の笑いが止まる。
春蘭たちも。
時雨を見る。
「嬉しい?」
曹操が聞き返す。
「ああ」
「どうして」
「曹操に」
「選ばれてる」
「えぇ」
「それは」
「悪くない」
曹操の頬へ。
僅かな赤み。
孫策は。
時雨。
曹操。
二人を見る。
なるほど。
自分が遅かった。
それは。
確か。
二人の間には。
すでに。
多くの言葉。
戦。
帰還。
怒り。
休暇。
積み重なっている。
婚約書一枚で。
割り込めるほど。
薄くない。
それでも。
孫策は。
諦める性格ではない。
「じゃあ」
孫策が言う。
「張燕」
「何だ」
「私に好かれたら?」
「分からない」
「嬉しくない?」
「まだ」
「孫策を知らない」
孫策の目が。
僅かに細くなる。
拒絶ではない。
受け入れでもない。
知らないから。
分からない。
時雨らしい。
「なら」
孫策は笑う。
「三日で知ってもらう」
曹操の笑みが。
僅かに冷える。
「無理ね」
「どうして」
「時雨が」
「人を知るのに」
「三日で足りるはずがない」
「へぇ」
孫策は頷く。
「あなたは」
「どれくらいかかった?」
曹操は。
すぐには答えない。
出会い。
降伏。
反発。
約束。
戦。
真名。
帰還。
今も。
完全に。
分かったとは言えない。
「今も」
曹操が答える。
「知っている途中よ」
孫策の目が。
僅かに柔らかくなる。
「そう」
「なら」
「私も始めればいい」
曹操と孫策。
また。
視線。
火花。
時雨は。
二人の間で。
煮物を食べている。
「時雨」
栄華が呼ぶ。
「何だ」
「もう少し」
「状況を気にしてくださいませ」
「宴だろ」
「そういう意味ではありません!」
柳琳は。
その様子を見ながら。
僅かに笑う。
「時雨は」
「いつも通りですね」
稟が答える。
「それが」
「さらに火を大きくしているのですが」
風は。
眠そうに言う。
「三日間」
「許昌は」
「静かになりそうにないですねー」
---
宴の後。
孫策は。
用意された客殿へ案内された。
呉の護衛。
魏の警備。
両方。
必要以上に近づかず。
だが。
互いを。
見ている。
孫策は。
客室へ入る前。
廊下で。
時雨を呼び止めた。
「張燕」
「何だ」
「少し歩かない?」
時雨は。
曹操を見る。
少し離れた場所。
確実に。
聞いている。
「庭なら」
時雨が言う。
孫策の眉が上がる。
「いいの?」
「曹操」
時雨が呼ぶ。
「何?」
「庭」
「孫策と歩く」
曹操は。
一瞬。
何も言わない。
約束。
勝手に二人きりにならない。
相談する。
時雨は。
守っている。
「私も行くわ」
「ああ」
孫策が。
声を上げて笑う。
「本当に」
「ついてくるのね」
「当然でしょう?」
「いいわ」
「三人で歩きましょう」
夜。
王宮の庭。
月。
池。
木。
三人。
少し離れて。
春蘭。
秋蘭。
霞。
護衛。
二人きりではない。
だが。
近い。
孫策は。
池を見る。
「綺麗ね」
「えぇ」
曹操が答える。
「役に立たない庭だ」
時雨が言う。
曹操が時雨を見る。
「以前は」
「無駄だと言ったわね」
「ああ」
「今は?」
「必要」
孫策が。
時雨を見る。
「どうして」
時雨は。
池の水面へ目を向ける。
「何も」
「使わなくていい場所」
孫策は。
少し。
意外そうな顔をする。
曹操の目へ。
僅かな誇らしさ。
「曹操が教えた」
時雨が言う。
「そう」
孫策は。
二人を見る。
小さなこと。
庭。
休み。
だが。
そこにも。
二人の時間がある。
「ねえ」
孫策が言う。
「張燕」
「何だ」
「燕王だった頃」
「幸せだった?」
時雨は。
すぐには答えない。
百万の民。
山。
飢え。
官軍。
選択。
重さ。
「分からない」
「楽しかった?」
「分からない」
「じゃあ」
「今は?」
時雨は。
庭を見る。
曹操。
隣。
春蘭たち。
後ろ。
「前より」
「悪くない」
孫策は。
僅かに笑う。
「それなら」
「やっぱり」
「私は遅かった」
時雨が見る。
「何が」
「会うのが」
「ああ」
「でも」
孫策は。
月を見る。
「遅かったから」
「全部終わりとは」
「限らないわよね」
曹操の声が。
僅かに冷える。
「まだ言うの?」
「えぇ」
「私」
「諦め悪いもの」
「知ってる」
「会ったばかりでしょう?」
「霞が言った」
「張遼」
孫策は。
後ろを振り返る。
霞が。
わざとらしく。
空を見る。
「月きれいやなあ」
「聞いているわよ」
「何のことや」
孫策は笑う。
「張燕」
「何だ」
「三日間」
「私が」
「どんな女か見て」
「ああ」
「その後」
「婚約破棄を」
「もう一度話す」
「ああ」
「今より」
「私を好きになってるかもしれない」
「分からない」
「だから」
「楽しみなのよ」
孫策は。
時雨へ。
手を差し出す。
握手。
婚約者としてではない。
初めて会った者同士。
「改めて」
「孫策」
「真名は」
「まだ預けない」
「ああ」
「あなたも」
「時雨と呼ばれているのでしょう?」
「ああ」
「でも」
孫策は。
少し笑う。
「私は」
「まだ張燕と呼ぶ」
「なぜ」
「昔の婚約者として」
「まず」
「燕王だったあなたを知りたい」
時雨は。
孫策の手を見る。
次。
顔。
手を取る。
強い。
柔らかいだけではない。
剣を握る手。
孫策も。
時雨の手を握る。
硬い。
傷。
古い。
「よろしく」
孫策が言う。
「ああ」
「三日間」
「逃げないで」
「逃げない」
「本当に?」
「ああ」
「私が」
「二人で出かけようって」
「言っても?」
「曹操へ相談する」
孫策は笑う。
「満点ね」
曹操も。
少しだけ。
表情を柔らかくする。
「当然よ」
「あなたが褒められたみたいな顔ね」
「私が教えたもの」
「子供?」
「違うわ」
「でも」
「手がかかる」
孫策と曹操。
また。
同意。
時雨は。
二人を見る。
「似てるな」
二人の王が。
同時に。
時雨へ顔を向ける。
「どこが?」
声。
揃う。
霞が。
後ろで笑う。
春蘭も。
なぜか頷く。
「確かに似ている!」
「春蘭」
秋蘭が。
静かに言う。
「今は黙れ」
月。
三人。
忘れられた婚約。
今の選択。
まだ。
決着していない。
孫策は。
時雨を連れて帰るつもりで来た。
少なくとも。
建業を出た時は。
そうだった。
だが。
許昌で。
実際に時雨と会った。
曹操を見た。
魏の将たちを見た。
街を見た。
時雨が。
ここを帰る場所と呼ぶのを聞いた。
それでも。
諦めない。
ただし。
無理に奪えば。
時雨から嫌われる。
それも。
理解した。
だから。
三日。
話す。
見る。
自分を見せる。
そして。
選ばせる。
孫策らしい戦。
剣も。
軍も。
使わない。
女として。
王として。
張燕へ挑む。
曹操も。
受けて立つ。
時雨を。
物として取り合うのではない。
自分の隣が。
時雨の選ぶ場所だと。
見せつける。
そして。
時雨は。
その中央。
まだ。
自分が。
どれほど。
二人の王を。
本気にさせているか。
完全には。
理解していなかった。
建業から来た。
江東の小覇王。
孫策。
許昌で。
黒山の狼。
張燕。
時雨。
二人は。
初めて出会った。
古い婚約は。
紙の上の約束から。
初めて。
人と人の問題へ変わった。
三日間。
短い。
だが。
荊州。
劉備。
北郷一刀。
魏と呉。
南方の未来。
その全てを。
大きく動かすには。
十分な時間になるかもしれない。
夜の許昌。
月の下。
曹操と孫策。
二人の王の間で。
時雨は。
孫策の手を離した。
そして。
自分から。
曹操の隣へ戻った。
孫策は。
その一歩を見た。
笑った。
悔しそうに。
楽しそうに。
「いいわ」
小さく。
呟く。
「まずは」
「そこからね」
江東の小覇王の。
三日間の勝負が。
静かに。
始まった。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!
次の作品の主人公とルートは誰がいい?
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高順呂布ルート(ヒロイン恋、霞)
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朱霊曹操ルート(ヒロイン華琳、柳琳)
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周倉関羽ルート(ヒロイン愛紗)
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孫瑜孫権ルート(ヒロイン蓮華、粋怜)