外伝 第25話 小覇王の猛追――馬上に揺れる恋の行方
夜明け前の許昌は、静かだった。
王宮の高い屋根。
薄暗い回廊。
夜露を残した庭。
まだ大半の者が眠っている刻限であり、朝議の準備へ動き始めた侍女や下働きの姿も少ない。
だが。
王宮の一角だけは。
夜が明ける前から、異様な緊張に包まれていた。
厩舎。
魏王が所有する軍馬。
将軍たちの愛馬。
伝令用の速馬。
荷を運ぶための馬。
数十頭が並ぶ広い場所で、秋蘭は一頭ずつ馬の脚を確認していた。
蹄。
関節。
呼吸。
毛並み。
鞍。
鐙。
手綱。
異常がないか。
細かく調べる。
その隣には霞。
さらに少し離れた場所に春蘭が立ち、腕を組んで孫策の滞在する客殿の方角を睨んでいた。
「まだ来ないのか」
春蘭が言った。
「日の出まで時間がある」
秋蘭は馬の前脚へ触れながら答える。
「孫策は勝負を朝から行うと言っただけで、夜明け前から厩舎へ来るとは言っていない」
「しかし、奇襲を仕掛けるかもしれん」
「何の奇襲だ」
「時雨への奇襲だ!」
春蘭の声へ驚き、近くの馬が鼻を鳴らした。
秋蘭は馬の首を優しく撫でる。
「姉者。声を抑えろ」
「私は普段通りだ!」
「馬が怯えている」
「む……」
春蘭は口を閉じた。
数秒。
再び、客殿の方角を見る。
「孫策は卑怯だ」
「何がだ」
「時雨が女の胸へ弱いと分かった途端、そこを攻めてきた」
霞が壁へ背中を預けたまま、楽しそうに笑う。
「弱点を見つけたら使う。時雨と似たようなもんやろ」
「違う!」
「どこが違うん?」
「時雨の策は戦に勝つためだ!」
「孫策も勝負に勝つためや」
「不埒な勝負と戦を一緒にするな!」
霞は肩を揺らした。
「時雨が聞いたら、必要なら何でも使え言うんちゃうか?」
「言うかもしれん」
春蘭の勢いが僅かに落ちる。
「だが、今回は時雨自身が狙われている。ならば話は別だ」
秋蘭は別の馬へ移りながら、静かに口を開いた。
「姉者は、時雨を守りたいのか」
「当然だ」
「孫策から?」
「当然だ!」
「華琳様のために?」
「当然だ!」
「自分のためではなく?」
春蘭が止まった。
霞が横目で春蘭を見る。
秋蘭は姉を見ず、馬の蹄を調べ続けている。
「何を言っている」
「確認しただけだ」
「私は華琳様の剣。華琳様の大切な者を守るのは当然の役目だ」
「そうか」
秋蘭はそれ以上追及しなかった。
だが。
霞の口元には。
何かを理解した者の笑みが浮かんでいた。
「何だ、霞」
「別に」
「今、笑っただろう!」
「いつも笑っとるで」
「私を馬鹿にした笑いだ!」
「気のせいや」
「王が気のせいと言えば通ると思うな!」
「うちは王ちゃうで」
春蘭が言葉に詰まる。
秋蘭は小さく息を吐いた。
「姉者」
「何だ」
「今日の任務を確認する」
「孫策の不埒な攻撃から時雨を守る!」
「違う」
「何が違う!」
「馬場および競走路の安全確認。呉王と時雨の護衛。勝負中に不正や外部からの妨害が起きないよう警戒する。それが任務だ」
「同じではないか」
「全く違う」
秋蘭は淡々と答えた。
霞は、選ばれた二頭の馬を見る。
一頭。
黒。
脚が長い。
身体は引き締まり、無駄な脂肪がない。
時雨が涼州遠征で使っていた馬ではない。
許昌の厩舎にいる中で、短距離から中距離の速さに優れた馬。
もう一頭。
赤みを帯びた栗毛。
孫策のために用意された。
気性は強い。
扱う者を選ぶ。
だが、乗り手が恐れなければ、凄まじい速度を出す。
「ええ馬やな」
霞が言った。
「どちらが勝つと思う」
秋蘭が尋ねる。
「馬だけなら互角」
霞は黒馬と栗毛を順番に見る。
「乗り手なら、時雨の方が少し上やろな」
「孫策も、相当乗り慣れていると聞く」
「江東は北ほど騎馬が主役やない。それでも、小覇王を名乗る女や。馬から落ちるような下手ではないやろ」
春蘭が鼻を鳴らす。
「ならば時雨が勝つ」
「何で決めつけるん?」
「時雨だからだ」
「理由になっとらん」
「私と秋蘭に勝った男だぞ!」
「馬の勝負やろ」
「時雨なら勝つ!」
霞は笑った。
だが。
やがて。
黒馬を見ながら。
少しだけ真面目な表情になる。
「ただ」
「何だ」
「時雨は勝負になると、相手の癖を使う」
「それがどうした」
「孫策は、勝つためなら危ない道へも飛び込む」
霞は競走路へ視線を向けた。
許昌の西側。
城壁の外。
緩やかな丘。
林。
川沿い。
魏軍の騎馬訓練へ使われる道。
秋蘭が事前に確認し、危険な穴や崩れた場所は塞がせている。
それでも。
馬の勝負。
何が起きるかは分からない。
「二人とも」
霞が言った。
「勝とうとしたら、止まらへんかもしれんで」
秋蘭は静かに頷いた。
春蘭は拳を握る。
「危険なら私が止める」
「どうやって?」
「馬で追いつく!」
「姉者の馬術で?」
秋蘭の問い。
春蘭が固まる。
春蘭は馬へ乗れないわけではない。
軍を率いる将として十分な技量はある。
だが。
精密な騎乗。
速度の調整。
馬上での判断。
それらは秋蘭や霞に劣る。
「……走って追う」
「無理やろ」
「やってみなければ分からん!」
「分かる」
二人の声が重なった。
春蘭の顔が赤くなる。
「お前たち!」
その時。
厩舎の入口から声が聞こえた。
「朝から騒がしいな」
時雨。
黒い髪。
普段着。
深緑の帯。
腰には短剣だけ。
曹操との約束を守っている。
その隣。
曹操。
黄金の髪。
朝議へ出る時より軽い衣だが、王としての品は崩れていない。
さらに後ろ。
桂花。
稟。
風。
栄華。
柳琳。
華論。
季衣。
流琉。
魏の主要な者たちが、またほとんど揃っていた。
霞は呆れたように全員を見る。
「皆、ほんまに暇なん?」
「暇ではないわ!」
桂花が即座に答える。
「荊州への対応も、国境市場の設置も、役人へ指示を出してきたのよ!」
「そこまでして見る必要あるん?」
「時雨が孫策にどのような願いを要求されるか、確認する必要があるでしょう!」
「華琳様が禁止事項を決めとったやん」
「孫策が素直に守ると思っているの!?」
桂花の問いへ。
霞は少し考える。
「守らんかもしれんな」
「でしょう!」
栄華は帳簿を抱えている。
時雨が見る。
「馬の勝負に帳簿が必要か」
「必要です」
「何の」
「馬の使用記録。競走路整備費。護衛兵の手当。呉王へ貸し出す馬の価値。万一、馬が負傷した場合の補償」
「勝負を見るためではないのか」
栄華の扇が開く。
「職務ですわ!」
華論が後ろから小声で言う。
「一番早く準備してたっす」
栄華の扇が華論の頭を打つ。
「痛いっす!」
「余計なことを言わないでくださいませ!」
時雨は栄華を見る。
「見たかったのか」
「違います!」
「そうか」
「納得しないでください!」
曹操は厩舎へ並ぶ二頭の馬を見る。
「秋蘭」
「はい」
「状態は?」
「双方とも問題ありません。競走路も夜明け前に再確認しました」
「不正の仕掛けは」
「見つかっておりません」
「孫策側の者が馬へ近づいた形跡は?」
「ありません」
曹操は頷いた。
それから。
時雨を見る。
「勝つつもり?」
「ああ」
「孫策の願いが分からないのに?」
「負けなければいい」
「随分と単純ね」
「勝負だからな」
曹操は小さく息を吐く。
時雨。
戦場では。
複数の策を重ねる。
相手が何を望むか。
どこへ逃げるか。
何を捨てられないか。
全て考える。
だが。
純粋な勝負になると。
妙に真っ直ぐ。
勝てばよい。
そう考える。
「時雨」
曹操は。
時雨の帯を掴み。
僅かに自分へ引き寄せた。
「何だ」
「孫策が」
「走りながら」
「胸元を見せても」
「前を見ること」
周囲。
一斉に沈黙。
時雨の眉が。
大きく寄る。
「しないだろ」
「分からないわ」
「馬から落ちる」
「だから」
曹操は真剣な表情で言う。
「あなたが見れば危険なのよ」
「見ない」
「本当に?」
「ああ」
「約束して」
「前を見る」
「私を見る必要はないわよ」
「曹操は走らないだろ」
「念のためよ」
時雨は少し考える。
「分かった」
曹操の表情が僅かに和らぐ。
それを見ていた霞が、秋蘭へ小声で言う。
「華琳様」
「時雨が孫策の胸を見る心配より」
「自分を見ろって言いたいんちゃう?」
秋蘭は。
僅かに曹操を見る。
「否定はできない」
春蘭が二人の間へ顔を出す。
「何を話している」
「姉者には」
「まだ早い話だ」
「私は年上だ!」
「そういう意味ではない」
---
「ずいぶんと大人数ね」
明るい声が厩舎へ響いた。
全員が入口へ視線を向ける。
孫策。
赤みのある桃色の髪。
昨日よりも動きやすい衣。
馬上勝負のための短い上着。
脚を動かしやすい袴。
腰には剣。
胸元は。
昨日ほど大胆には開いていない。
だが。
身体の線を隠す気もない。
歩くたび。
豊かな胸が。
僅かに揺れる。
時雨は。
一度。
孫策の顔を見る。
次。
すぐに馬へ視線を移した。
露骨。
昨日より。
明らかに。
意識している。
孫策の口元が上がる。
「張燕」
「何だ」
「今」
「逃げた?」
「馬を見た」
「私から?」
「違う」
「胸から?」
曹操の目が細くなる。
時雨は黒馬の首を撫でる。
「勝負する気がないなら帰る」
「あるわよ」
孫策は楽しそうに笑う。
「昨日より」
「意識してるのね」
「してない」
「嘘」
「馬を見る」
「私を見て」
時雨は孫策を見る。
顔。
目。
それより下へ。
絶対に動かさない。
「見てる」
「頑張ってるわね」
「何が」
孫策は時雨の前へ歩み寄る。
時雨。
動かない。
曹操の目。
鋭い。
春蘭。
剣へ手。
桂花。
怒鳴る準備。
栄華。
扇。
霞。
笑い。
全員が。
孫策の次の動きを見ている。
孫策は。
時雨の目の前で止まった。
距離。
近い。
だが。
触れない。
昨日。
時雨が決めた境界。
そこは越えない。
「張燕」
「何だ」
「今日は」
「胸で攻めない」
「そうか」
「残念?」
「違う」
「少しも?」
「ああ」
孫策の眉が僅かに上がる。
「本当に?」
時雨は。
少しだけ。
孫策の胸元へ目を落としそうになり。
止めた。
孫策は。
その僅かな動きだけで満足したように笑う。
「今ので十分」
「何が」
「秘密」
曹操が時雨の腕を掴んだ。
「孫策」
「何?」
「勝負を始めるのでしょう?」
「ええ」
「なら」
曹操は孫策と時雨の間へ立つ。
「早く馬へ乗りなさい」
「焦ってる?」
「予定を守らせているだけよ」
「そう」
孫策は。
曹操の肩越しに時雨を見る。
「勝ったら」
「私の願い」
「聞いてね」
「ああ」
「時雨」
曹操が振り返る。
「何だ」
「簡単に返事をしないで」
「約束した」
「内容を聞いていないでしょう」
「禁止されてること以外なら」
「孫策」
曹操は低い声で呼ぶ。
「何?」
「禁止事項を確認するわ」
孫策は馬へ近づきながら肩を竦める。
「婚約を受け入れろは禁止」
「呉へ来いも禁止」
「身体へ触れさせろも禁止」
「二人きりになれも禁止」
「同じ寝台で眠れも禁止」
「増えてる」
時雨が言う。
「必要だからよ」
曹操は孫策を睨む。
「口づけも禁止」
孫策が止まる。
「それは」
「身体へ触れるに入るでしょう?」
「念のため明確にするの」
「抱きつくのも?」
「禁止」
「腕を組むのは?」
「禁止」
「膝枕」
「禁止」
「髪を撫でてもらう」
「禁止」
「食べさせてもらう」
「禁止」
「曹操」
時雨が呼ぶ。
「何?」
「全部言うまで終わらないのか」
「孫策が」
「抜け道を探すからよ」
孫策は。
楽しそうに笑う。
「よく分かってるじゃない」
「あなたの考えなど」
「分かりやすいわ」
「でも」
孫策は。
栗毛の馬の鞍へ手を置く。
「私が勝った後」
「願いを聞いて」
「曹操が止められない内容だったら?」
曹操の蒼い瞳が僅かに細くなる。
「その時は」
「時雨が決める」
「そう」
孫策は。
満足そうに頷く。
「なら」
「問題ないわ」
時雨は。
黒馬へ乗る。
鐙へ足。
身体を軽く持ち上げ。
無駄のない動きで鞍へ収まる。
黒馬が。
僅かに首を振る。
時雨は。
手綱を引きすぎない。
馬の呼吸へ。
自分の身体を合わせる。
その姿を。
孫策は見た。
先ほどまでの笑み。
少しだけ変わる。
女として。
男へ向ける目。
それだけではない。
戦士が。
強い相手を見る目。
「綺麗に乗るのね」
孫策が言った。
「普通だ」
「普通じゃない」
霞が横から言う。
「時雨は」
「馬が嫌がることをせえへん」
「馬へ合わせる?」
孫策が尋ねる。
時雨は黒馬の首を撫でる。
「馬にも」
「走り方がある」
「無理に動かせば」
「一度は速い」
「でも」
「長く持たない」
孫策は。
少し。
目を細くする。
「人と同じ?」
「ああ」
「あなたは」
孫策は栗毛へ乗りながら尋ねる。
「人にも」
「同じように合わせるの?」
「必要なら」
「曹操にも?」
時雨は曹操を見る。
「曹操は」
「合わせない」
曹操の眉が動く。
孫策は笑う。
「どうして」
「自分で走る」
曹操の蒼い瞳が。
僅かに柔らかくなる。
「俺が」
時雨は続ける。
「合わせようとすると」
「引っ張られる」
「不満?」
曹操が尋ねる。
「違う」
「では」
「それでいい」
孫策は。
二人を見る。
ほんの短い会話。
だが。
そこに。
二人の関係が出ている。
曹操は。
時雨へ従う女ではない。
時雨が。
手綱を握る相手でもない。
自分で進む。
時雨も。
隣で進む。
どちらかが。
どちらかを。
支配しているのではない。
それでも。
互いを選んでいる。
「難しいわね」
孫策が呟いた。
時雨が見る。
「何が」
「あなたを」
「曹操から奪うこと」
「無理だ」
「それを」
「決めるのは早い」
「もう決めた」
「私が決めてない」
「孫策」
曹操が声をかける。
「勝負の前から」
「時雨の気を散らさないで」
「あなたも」
「さっきから話してたでしょう?」
「私はよいの」
「横暴」
「王ですもの」
孫策は笑う。
「やっぱり」
「私たち」
「少し似てるかも」
曹操の表情が固まる。
時雨が。
孫策を見る。
「認めたな」
「張燕」
「何だ」
「今のは忘れて」
「婚約と同じか」
孫策の笑みが。
一瞬。
引きつる。
「それは忘れないで!」
「どっちだ」
「内容で分けなさい!」
霞が。
声を上げて笑う。
「二人とも」
「時雨相手やと」
「よう似た反応するなあ」
曹操と孫策。
同時に霞を見る。
「霞」
「張遼」
「何や」
「黙りなさい」
「黙って」
命令。
重なる。
霞は肩を竦めた。
「ほらな」
---
競走路の起点は。
許昌の西門を出た先。
広い平地。
そこから。
緩やかな丘を越える。
林の横を抜け。
浅い川へ沿って走り。
折り返し地点の旗を回って戻る。
距離は。
長すぎない。
短すぎない。
馬の速さだけでなく。
乗り手の判断。
坂。
曲がり道。
足場。
全て。
試される。
魏軍の騎馬兵が。
定期的に訓練へ使う道。
道沿いには。
秋蘭の弓兵。
黒狼隊。
霞の騎兵。
孫策の護衛。
一定の間隔で配置されている。
不測の事態へ備える。
起点。
時雨と孫策。
二頭。
並ぶ。
曹操は少し離れた場所。
春蘭。
秋蘭。
霞。
桂花。
稟。
風。
栄華。
柳琳。
華論。
季衣。
流琉。
見守る。
「本当に」
時雨が周囲を見る。
「全員いるな」
「当然よ」
桂花が答える。
「あなたが負けた時」
「孫策の不当な要求を」
「即座に却下するためよ」
「不当かどうか」
「俺が決める」
「あなたは」
「自分に関する判断が甘いの!」
「そうか」
「認めないで!」
孫策は。
手綱を握りながら。
時雨へ顔を向ける。
「張燕」
「何だ」
「私が勝ったら」
「驚いてね」
「なぜ」
「願いの内容」
「驚くものか」
「秘密」
「今言え」
「嫌」
「面倒だな」
「楽しみでしょう?」
「違う」
孫策は。
笑う。
「私は楽しみ」
時雨は。
前を見る。
競走路。
風。
土。
丘。
黒馬の呼吸。
孫策の栗毛。
足。
筋肉。
馬の癖。
孫策。
姿勢。
重心。
時雨は。
すでに。
勝つために見ている。
孫策は。
その横顔を見る。
自分の胸へ。
意識を向けた時雨。
困り。
視線を逃がした男。
今。
馬上。
別人のように。
集中している。
「張燕」
「何だ」
「私を見て」
「勝負中だ」
「始まってない」
時雨は孫策を見る。
「何だ」
孫策は。
身体を。
ほんの少し。
前へ傾ける。
馬上。
衣。
胸元。
僅かに強調される。
時雨の視線。
一瞬。
下へ。
すぐに。
前。
「卑怯だな」
孫策の目が。
大きくなる。
次。
笑み。
「効いた?」
「ああ」
「正直ね」
「次は見ない」
「見てもいいのに」
「落馬する」
「私が?」
「俺が」
孫策は。
声を上げて笑った。
「そこまで!?」
「集中が切れる」
曹操の目が。
完全に冷える。
「孫策」
「何?」
「今の時点で」
「反則負けにしてもよいのよ」
「まだ始まってないでしょう?」
「始まる前から」
「時雨の集中を乱した」
「戦なら」
「当然の策よ」
時雨が曹操を見る。
「曹操」
「何?」
「始まる前なら」
「問題ない」
孫策の笑みが深くなる。
「さすが」
「張燕」
「ただし」
時雨は孫策を見る。
「次から」
「同じ策は効かない」
「試す?」
「見ない」
「自信があるの?」
「ああ」
「なら」
孫策は。
胸を張る。
意図的。
時雨は。
前だけを見る。
全く。
動かない。
孫策の口元が上がる。
「本当に見ない」
「ああ」
「少し寂しい」
「勝負だ」
「そうね」
孫策の声。
楽しさ。
少しだけ。
別の感情。
女として見てほしい。
だが。
勝負では。
自分の力を見てほしい。
矛盾。
それでも。
孫策は。
両方を望む。
秋蘭が。
開始位置へ立った。
片手。
上げる。
「規則を確認する」
全員。
静かになる。
「折り返し地点の赤旗を右回りで通過し、同じ道を戻る。道を外れ、明確な近道を使った場合は失格」
孫策が時雨を見る。
「抜け道は禁止ね」
「ああ」
「相手の馬を傷つける行為も禁止。武器の使用も禁止。意図的な接触も禁止」
「胸を使うのは?」
孫策が尋ねる。
秋蘭の表情。
動かない。
「走行中に」
「意図して時雨の視界を妨げた場合」
「妨害と見なす」
「厳しいわね」
「当然だ」
曹操が答える。
時雨が。
小さく息を吐く。
「始めろ」
「焦ってる?」
孫策が笑う。
「馬が待ってる」
「そう」
孫策は。
栗毛の首へ手を置く。
「勝ちましょう」
馬へ。
静かに語る。
時雨も。
黒馬の耳元へ。
短く。
「行くぞ」
黒馬が。
低く鼻を鳴らす。
秋蘭の手が。
振り下ろされた。
「始め!」
二頭。
地面を蹴った。
土。
跳ねる。
風。
裂ける。
最初。
孫策が前へ出た。
栗毛。
瞬発力。
強い。
孫策も。
最初から。
速度を惜しまない。
時雨は。
半馬身。
後ろ。
無理に追わない。
黒馬の歩幅。
呼吸。
合わせる。
孫策が。
僅かに後ろを見る。
「遅い!」
声。
風へ流れる。
時雨は答えない。
前。
孫策。
馬。
道。
見る。
平地。
終わり。
緩い上り。
栗毛の速度。
少し落ちる。
孫策。
身体を前へ。
馬の負担を減らす。
上手い。
時雨は。
黒馬を。
孫策の通った跡へ。
そのまま入れない。
少し右。
土。
硬い場所。
選ぶ。
黒馬の脚。
沈まない。
差。
縮まる。
孫策が気づく。
笑う。
さらに。
速度を上げる。
丘。
頂。
下り。
孫策。
一気に。
先へ。
危険。
だが。
栗毛の勢いを。
殺さない。
時雨は。
一瞬だけ。
手綱を抑える。
黒馬。
下りへ入る。
遅れる。
春蘭が。
遠くから叫ぶ。
「時雨!」
秋蘭は。
姉を見る。
「まだだ」
「しかし!」
「時雨は」
「下りで無理をしない」
霞が笑う。
「孫策は」
「勢いを使って距離を取る」
「時雨は」
「馬の脚を残す」
「どちらが正しい」
桂花が尋ねる。
「最後まで見んと分からん」
下り。
終わり。
林。
細い道。
曲がり。
孫策は。
先頭。
有利。
だが。
林の中。
栗毛の速度を。
落とさざるを得ない。
木。
影。
足元。
見えにくい。
孫策の肩が。
動く。
馬を。
左。
右。
巧みに導く。
速い。
時雨。
後ろ。
差。
一馬身。
二馬身ではない。
一定。
孫策が。
後ろへ声を投げる。
「もっと近くへ来て!」
「前を見ろ」
「私の背中」
「見てる?」
「ああ」
「胸は?」
「見えない」
孫策が。
吹き出す。
馬上。
身体が。
僅かに揺れる。
栗毛。
横へ。
時雨の目が。
鋭くなる。
「笑うな」
「誰のせい!」
「孫策」
「あなたよ!」
林。
出口。
浅い川。
川沿いの道。
広い。
時雨が。
黒馬へ。
僅かに脚を当てる。
ここまで。
残した力。
黒馬。
加速。
差。
一気に。
縮まる。
孫策が横を見る。
時雨。
並ぶ。
黒馬。
栗毛。
二頭。
呼吸。
地響き。
「来たわね!」
「ああ」
「私の横」
「好き?」
「走りやすい」
「そういうことじゃない!」
孫策は。
栗毛へ。
さらに指示。
再加速。
時雨も。
合わせる。
二頭。
並んだまま。
川。
光。
風。
孫策の髪。
後ろへ流れる。
桃色。
赤。
笑顔。
時雨は。
前だけ。
見る。
だが。
視界の端。
孫策。
強い。
楽しそう。
馬も。
応える。
無理に。
支配していない。
荒い。
大胆。
それでも。
馬を。
信じている。
「張燕!」
「何だ」
「楽しい?」
時雨は。
少し考える。
速度。
風。
競う相手。
危険。
だが。
戦ではない。
誰も。
死なない。
ただ。
勝つ。
「悪くない」
孫策の笑顔が。
さらに大きくなる。
「私は!」
「すごく楽しい!」
二頭。
競る。
折り返し。
近い。
赤旗。
孫策。
外側。
時雨。
内側。
右回り。
時雨の方が。
小さく回れる。
だが。
内側は。
土が柔らかい。
秋蘭。
事前に確認。
危険ではない。
しかし。
速度が落ちる。
孫策は。
外側から。
速度を保って回る。
時雨は。
内側。
黒馬の身体を。
無理に傾けない。
一瞬。
孫策が前。
時雨。
旗を回った直後。
黒馬。
再加速。
差。
半馬身。
帰り。
正面。
互いの顔。
一瞬。
近い。
すれ違いではない。
同じ方向。
隣。
「張燕!」
孫策が叫ぶ。
「私が勝ったら!」
「今言うのか」
「願い!」
「何だ」
「私の真名を!」
風。
声。
途切れそうになる。
孫策は。
さらに大きく言う。
「受け取って!」
時雨の目が。
僅かに動いた。
真名。
命。
心。
預ける。
婚約を受け入れろ。
ではない。
呉へ来い。
でもない。
触れろ。
でもない。
孫策という女を。
知れ。
名前の奥まで。
入れ。
その願い。
「勝つ前に言うな」
時雨が答える。
「驚いた?」
「ああ」
「なら」
「半分成功!」
「勝ってない」
「今から勝つ!」
孫策は。
速度を上げる。
栗毛。
応える。
時雨の黒馬も。
並ぶ。
帰り道。
川沿い。
林。
再び。
孫策。
今度は。
少し違う。
往路。
先行。
逃げ。
帰路。
時雨を。
意識しすぎている。
横。
見る。
距離。
確認。
時雨が。
どこにいる。
その視線。
増える。
時雨は。
前。
孫策ではなく。
道。
馬。
見る。
林。
入口。
時雨が。
僅かに先へ。
孫策。
追う。
細い道。
並べない。
孫策。
後ろ。
時雨の背中。
黒い髪。
深緑の帯。
馬へ合わせる身体。
無駄がない。
「張燕!」
「何だ」
「背中!」
「何が」
「ずるい!」
「意味が分からない」
「追いたくなる!」
時雨は。
一瞬。
後ろを見る。
孫策。
笑う。
だが。
目。
本気。
女として。
王として。
戦士として。
追っている。
時雨は。
前へ戻る。
「なら」
「追え」
孫策の胸。
強く鳴る。
その言葉。
挑発。
許可。
拒絶ではない。
「言ったわね!」
栗毛。
加速。
林の出口。
孫策。
横へ出る。
再び並ぶ。
丘。
上り。
往路で。
孫策が先。
帰路。
馬の疲れ。
栗毛。
僅かに呼吸。
乱れる。
黒馬。
まだ。
一定。
時雨。
前。
半馬身。
孫策。
歯を食いしばらない。
笑う。
馬の首を撫でる。
「もう少し」
栗毛。
応える。
孫策。
時雨へ。
追いつく。
「馬を」
時雨が言う。
「無理させるな」
「してない」
「呼吸が乱れてる」
「この子は」
「まだ行ける」
「孫策が」
「行きたいだけだ」
孫策の目が。
僅かに細くなる。
時雨。
馬だけではない。
孫策自身。
見ている。
勝ちたい。
追いつきたい。
それが。
馬へ。
伝わっている。
「なら」
孫策が言う。
「あなたが」
「止めて」
「勝負中だ」
「勝って」
「止めて」
時雨は。
前を見る。
丘。
頂。
下り。
その先。
平地。
終点。
往路。
孫策は。
下りを。
勢いで走った。
帰路。
馬。
疲れている。
同じ走り。
危険。
孫策は。
それでも。
速度を上げようとする。
時雨が。
黒馬を。
僅かに孫策側へ。
寄せる。
接触。
しない。
ただ。
進路。
狭める。
孫策。
驚く。
「何を!」
「速度を落とせ」
「妨害?」
「違う」
「近いわよ!」
「前を見ろ」
孫策は。
時雨の胸元。
ではなく。
顔を見る。
距離。
近い。
馬上。
互い。
腕を伸ばせば。
届きそう。
時雨は。
孫策を。
外側へ。
安全な道へ。
誘導する。
自分が。
内側。
柔らかい土。
速度。
少し落ちる。
孫策の栗毛。
硬い道。
脚。
安定。
下り。
無事。
抜ける。
その瞬間。
孫策が。
時雨より。
半馬身前へ出た。
「張燕!」
「何だ」
「今」
「私を助けた?」
「馬を守った」
「私じゃなく?」
「両方」
孫策の目が。
僅かに揺れる。
「勝負なのに?」
「ああ」
「私が」
「そのまま勝つかもしれないのに?」
「ああ」
「どうして」
「怪我をさせる勝負じゃない」
時雨の黒馬。
柔らかい土から。
硬い道へ。
戻る。
遅れ。
一馬身。
終点。
近い。
平地。
孫策。
先頭。
栗毛。
疲れ。
それでも。
残り。
走れる。
時雨。
後ろ。
黒馬。
まだ。
力。
ある。
孫策が。
前を見る。
終点の旗。
勝てる。
このまま。
行けば。
勝てる。
時雨が。
自分を助けたことで。
生まれた差。
使う。
勝負。
なら。
当然。
だが。
胸の奥。
引っかかる。
時雨は。
孫策が。
自分へ勝つことより。
孫策と馬が。
傷つかないことを選んだ。
外道。
卑劣。
敵を壊す。
そう聞いた男。
今。
遊びの勝負で。
相手を壊す道を選ばない。
孫策は。
後ろを見る。
時雨。
追う。
黒馬。
速い。
それでも。
まだ。
一馬身。
「張燕!」
「前を見ろ!」
「勝ちたい?」
「ああ」
「私も!」
孫策は。
前へ戻る。
栗毛へ。
最後。
指示。
馬。
応える。
終点。
迫る。
時雨も。
黒馬の首へ。
身体を近づける。
脚。
最後の加速。
差。
縮む。
一馬身。
半馬身。
孫策。
時雨。
並ぶ。
旗。
十歩。
五歩。
二頭。
同時。
線を越える。
土煙。
風。
歓声。
季衣が叫ぶ。
「どっち!?」
春蘭も。
前へ出る。
「時雨だ!」
「いや」
秋蘭は。
終点の目印。
確認。
騎兵。
左右。
旗を持つ者。
証言。
僅かな差。
本当に。
僅か。
秋蘭は。
二頭が速度を落とすのを待つ。
孫策。
時雨。
馬を止める。
互い。
呼吸。
馬。
汗。
孫策。
笑う。
時雨。
無表情。
だが。
目。
少し。
楽しんでいる。
「結果は」
曹操が尋ねる。
秋蘭は。
一度。
時雨。
孫策。
見る。
「孫策の勝ちです」
空気。
動く。
孫策の笑顔が。
大きくなる。
春蘭の顔が。
固まる。
桂花が。
声を上げる。
「本当に!?」
「僅かだが」
秋蘭は答える。
「孫策の馬の鼻先が」
「先に線を越えた」
春蘭が。
時雨へ駆け寄る。
「なぜだ!」
「何が」
「なぜ負けた!」
「孫策が速かった」
「違う!」
春蘭は。
丘の方角を指す。
「途中で孫策を助けたからだろう!」
孫策の笑みが。
僅かに止まる。
時雨は。
黒馬から降りる。
馬の首。
汗。
呼吸。
確認。
「勝負だ」
「だからこそ!」
春蘭が叫ぶ。
「敵を助けて負けるなど!」
「敵じゃない」
時雨が答えた。
短い。
孫策の目が。
時雨へ向く。
「何?」
時雨は。
孫策を見る。
「孫策は」
「今は敵じゃない」
孫策は。
何も言わない。
時雨は続ける。
「婚約の話は別」
「勝負は勝負」
「怪我をさせて勝つ必要はない」
「でも」
孫策が尋ねる。
「私が怪我をしても」
「自分で選んだことだと」
「放っておくこともできたでしょう?」
「ああ」
「しなかった」
「ああ」
「どうして」
時雨は。
少し考える。
必要。
ない。
それだけではない。
孫策。
まだ。
知らない女。
だが。
嫌いではない。
強い。
笑う。
時雨へ。
真っ直ぐ来る。
約束を。
忘れた自分へ。
怒りながら。
会いに来た。
怪我をして。
よい相手ではない。
「孫策だから」
時雨が答えた。
孫策の呼吸が。
一瞬。
止まる。
曹操の蒼い瞳も。
僅かに揺れた。
春蘭。
桂花。
栄華。
霞。
皆。
時雨を見る。
「どういう意味?」
孫策が。
ゆっくり尋ねる。
「馬だけなら」
「止めなかった」
「乗り手が」
「孫策だったから」
「止めた」
孫策は。
時雨を見つめる。
胸へ。
猛攻。
女として。
意識させる。
それより。
今の一言。
遥かに。
効いた。
自分だから。
助けた。
婚約者だから。
ではない。
呉王だから。
でもない。
孫策だから。
時雨が。
会って。
見て。
知り始めた。
自分。
「張燕」
孫策の声が。
少しだけ。
弱くなる。
「それ」
「ずるい」
「何が」
「知らない」
孫策は。
顔を逸らした。
耳。
僅かに。
赤い。
霞が。
口元を上げる。
「小覇王が」
「攻められとるな」
孫策が霞を見る。
「誰が!」
「孫策が」
「攻めてたはずやろ?」
「今も私が攻めてる!」
「顔赤いで」
「走ったからよ!」
春蘭が。
時雨へ詰め寄る。
「それでも」
「勝負は負けだ!」
「ああ」
「願いを」
「聞くのか」
「ああ」
曹操が。
一歩前へ出る。
視線。
孫策。
「約束は約束よ」
声。
平静。
だが。
硬い。
「孫策」
「何?」
「願いを言いなさい」
「禁止事項へ触れるなら」
「認めない」
孫策は。
馬から降りる。
少し。
脚。
揺れる。
時雨が。
すぐに。
手を伸ばそうとし。
止める。
触れない約束。
孫策は。
その動きを見る。
「支えて」
「自分で立てる」
「張燕」
「何だ」
「脚が」
「少し痺れた」
時雨は。
柳琳を見る。
「柳琳」
「はい」
孫策が。
慌てて言う。
「待って」
「何だ」
「勝者の願い」
「支えて」
曹操の目が。
鋭くなる。
「身体へ触れさせる願いは禁止よ」
「違うわ」
孫策は。
曹操を見る。
「今のは」
「願いじゃない」
「なら」
「断る」
時雨が言った。
孫策の頬が。
僅かに膨らむ。
「冷たい」
「柳琳がいる」
「専門家より」
「婚約者がいい」
「婚約は」
「半分終わってる」
「残り半分は?」
「今から話す」
「そう」
孫策は。
自分の脚へ。
少し力を入れる。
本当に。
軽い痺れ。
転ぶほどではない。
歩ける。
時雨が。
孫策の様子を見ている。
心配。
隠しているつもり。
だが。
見える。
孫策は。
胸の奥。
温かくなる。
「願い」
曹操が促す。
「早く言いなさい」
孫策は。
時雨へ向き直った。
笑み。
いつもの。
大胆なもの。
だが。
その奥。
先ほどより。
柔らかい。
「張燕」
「何だ」
「私の真名を」
「受け取って」
周囲。
静かになる。
春蘭の顔。
険しい。
桂花。
目を見開く。
栄華の扇。
止まる。
霞。
笑み。
消える。
呉王。
孫策。
真名。
それは。
軽い願いではない。
身体へ触れることより。
重い。
婚約を受け入れることとは違う。
だが。
拒絶しにくい。
真名を許す。
命。
心。
信頼。
相手へ。
自分の最も深い部分を預ける。
曹操の声が。
静かに落ちる。
「孫策」
「何?」
「その意味を」
「分かって言っているの?」
「当然でしょう」
孫策は。
曹操から目を逸らさない。
「私は」
「呉王」
「真名を預ける相手を」
「軽く選ぶつもりはない」
「時雨へ」
「婚約を強制するためでもない」
「呉へ連れて帰るための」
「鎖にも使わない」
「なら」
曹操が問う。
「何のため?」
孫策は。
時雨を見る。
「私を」
「忘れられないようにするため」
時雨の目が。
僅かに動く。
孫策は続ける。
「一度」
「婚約を忘れられた」
「もう一度」
「同じことをされたくない」
声。
いつもの豪快さ。
少し。
薄い。
「張燕は」
「今」
「曹操を選んでる」
「それは分かった」
「許昌を」
「帰る場所だと思ってる」
「それも分かった」
「私を」
「無理に連れて帰れば」
「嫌われる」
「それも分かった」
「でも」
孫策は。
自分の胸へ。
手を置く。
今度は。
時雨を誘惑するためではない。
心。
そこにあるものを。
確かめるように。
「私も」
「あなたを」
「忘れたくない」
「あなたにも」
「私を忘れてほしくない」
「だから」
「真名を受け取って」
時雨は。
孫策を見る。
孫策。
呉王。
婚約者。
知らない女。
そう。
思っていた。
だが。
昨日。
今日。
話した。
笑った。
怒った。
戦った。
走った。
自分を。
見せようとしていた。
胸を。
武器にした。
だが。
それだけではない。
強さ。
国。
民。
過去。
未来。
全部。
時雨へ。
向けた。
時雨は。
曹操を見る。
曹操。
蒼い瞳。
厳しい。
だが。
止めない。
「曹操」
「何?」
「決めていいのか」
曹操の眉が。
僅かに寄る。
「私へ」
「許可を求めることではないわ」
「ああ」
「ただし」
曹操は。
時雨を真っ直ぐ見る。
「真名を受け取る意味を」
「軽く考えないこと」
「ああ」
「孫策の心を受け取る」
「それは」
「私を裏切ることではない」
「でも」
「曖昧な態度で」
「期待だけを持たせることは」
「許さない」
「ああ」
孫策が。
曹操を見る。
「意外」
「何が」
「止めると思った」
曹操は。
小さく息を吐く。
「止めたいわ」
「でしょうね」
「でも」
曹操は続ける。
「時雨が」
「誰かの心を受け取るかどうかは」
「時雨が決めること」
「私は」
「時雨の選択を信じる」
時雨の目が。
僅かに柔らかくなる。
孫策は。
曹操を見つめた。
恋敵。
奪う相手。
そう。
思っていた。
だが。
曹操は。
時雨を囲い込むだけではない。
独占欲。
強い。
孫策へ。
敵意。
ある。
それでも。
時雨の選択を。
自分の都合だけで奪わない。
「強いわね」
孫策が言った。
曹操の目が細くなる。
「あなたに」
「褒められる筋合いはないわ」
「褒めてるの」
「なら」
「受け取っておく」
孫策は。
少し笑う。
時雨は。
再び。
孫策を見る。
「孫策」
「何?」
「真名を」
「受け取る」
孫策の目が。
大きくなる。
魏の将たち。
息。
止まる。
時雨は続ける。
「でも」
「婚約を」
「受け入れる意味ではない」
「分かってる」
「呉へ行く意味でもない」
「分かってる」
「曹操を」
「選んだことも」
「変わらない」
孫策の笑みが。
僅かに。
痛む。
それでも。
消えない。
「分かってる」
三度目。
自分へ。
言い聞かせるように。
それから。
孫策は。
真っ直ぐ。
時雨の目を見る。
「私の真名は」
声。
柔らかく。
強い。
「雪蓮」
時雨は。
その名を。
受け取る。
雪。
蓮。
江東の王。
小覇王。
孫策。
その奥。
女。
一人。
「雪蓮」
時雨が呼んだ。
孫策。
雪蓮。
呼ばれた瞬間。
胸の内。
何か。
強く。
揺れた。
自分から。
許した。
望んだ。
それでも。
実際に。
時雨の声で。
真名を呼ばれる。
想像より。
遥かに。
近い。
「もう一度」
雪蓮が言った。
「なぜ」
「聞きたい」
「雪蓮」
今度。
少し。
ゆっくり。
雪蓮の目が。
柔らかく細くなる。
「張燕」
「何だ」
「私も」
「あなたの真名を」
「呼びたい」
魏の将たち。
再び。
緊張。
時雨。
真名。
時雨。
それは。
すでに。
曹操。
春蘭。
秋蘭。
桂花。
稟。
風。
季衣。
流琉。
華論。
栄華。
柳琳。
霞。
魏の者たちへ預けられている。
だが。
呉王へ。
雪蓮へ。
預ける。
意味。
違う。
「時雨」
曹操が呼ぶ。
「何だ」
「よく考えなさい」
「ああ」
雪蓮も。
すぐには。
迫らない。
待つ。
時雨は。
雪蓮を見る。
真名を預ける。
信用。
命。
全てではない。
だが。
大きい。
婚約を忘れた。
それでも。
雪蓮は。
時雨へ。
自分の名を預けた。
時雨が。
返さない。
それも。
選べる。
だが。
一方だけ。
受け取る。
それは。
時雨のやり方ではない。
「呼べ」
時雨が言った。
雪蓮の目が。
揺れる。
「本当に?」
「ああ」
「後悔しない?」
「分からない」
雪蓮が笑う。
「そこは」
「しないと言うところでしょう?」
「まだ」
「雪蓮を」
「全部知らない」
「そうね」
「でも」
時雨は続ける。
「信用しないなら」
「真名は受け取らない」
雪蓮の笑み。
ゆっくり。
柔らかくなる。
「時雨」
初めて。
雪蓮が。
その名を呼ぶ。
張燕。
ではない。
燕王。
でもない。
呉王の婚約者。
でもない。
時雨。
一人の男。
雪蓮の声。
明るい。
だが。
僅かに。
震えている。
時雨は。
静かに答える。
「ああ」
それだけ。
だが。
雪蓮には。
十分だった。
「時雨」
「何だ」
「時雨」
「聞こえてる」
「もう一回」
「多い」
「だって」
雪蓮は笑う。
「ずっと」
「呼んでみたかったもの」
「昨日知っただろ」
「真名を?」
「ああ」
「でも」
「呼ぶのは別」
雪蓮は。
嬉しそうに。
もう一度。
「時雨」
時雨は。
少し。
顔をしかめる。
「何だ」
そのやり取り。
曹操の胸。
複雑。
真名。
時雨。
雪蓮。
呼び合う。
止めたくはない。
止めるべきでもない。
だが。
面白くない。
非常に。
「雪蓮」
曹操が呼ぶ。
雪蓮が。
動きを止める。
周囲。
完全に。
静か。
曹操が。
雪蓮。
真名。
呼んだ。
「誰が」
雪蓮の目が。
鋭くなる。
「私の真名を」
「呼んでよいと言ったの?」
曹操は。
僅かに笑う。
「時雨へ」
「許したのでしょう?」
「あなたには許してない」
「では」
「私にも許しなさい」
「どうして」
「時雨の前で」
「いつまでも」
「孫策と呼ぶのは」
「距離があるようで」
「不公平だからよ」
雪蓮は。
曹操を見る。
数秒。
次。
笑った。
「嫌」
曹操の笑みが。
冷える。
「何ですって?」
「華琳様!」
春蘭が。
剣へ手をかける。
秋蘭が。
姉を止める。
霞は。
腹を抱え始める。
「雪蓮」
時雨が呼ぶ。
雪蓮がすぐに振り返る。
「何?」
「曹操にも」
「許せ」
「どうして」
「面倒だから」
雪蓮の笑みが。
固まる。
曹操の眉が。
僅かに上がる。
「時雨」
雪蓮が低く呼ぶ。
「何だ」
「もう少し」
「私の真名を」
「特別に扱って」
「特別だ」
「どこが」
「許した奴しか呼べない」
「そういう意味じゃない!」
時雨は。
少し考える。
「雪蓮が」
「曹操を」
「華琳と呼べばいい」
今度。
曹操が固まった。
周囲。
息を呑む。
雪蓮の目が。
楽しそうに光る。
「へえ」
「時雨」
曹操が。
静かに呼ぶ。
「何だ」
「勝手に」
「私の真名を」
「他人へ許さないで」
「ああ」
「今の提案は」
「忘れなさい」
「婚約と同じか」
「それは忘れないで!」
雪蓮が。
ついに。
声を上げて笑った。
曹操の顔。
僅かに赤い。
「最高」
雪蓮が言う。
「何が」
「華琳」
場。
凍る。
春蘭の剣。
一気に抜かれる。
「貴様!」
「待て!」
曹操の声。
春蘭。
止まる。
剣。
半ば。
曹操は。
雪蓮を睨む。
雪蓮。
笑っている。
「許していないわ」
「時雨が」
「提案した」
「私が断ったでしょう?」
「でも」
雪蓮は。
時雨の隣へ。
半歩。
近づく。
触れない。
「時雨の大切な女を」
「私も知りたい」
曹操の目。
僅かに変わる。
挑発。
だけではない。
雪蓮。
時雨の世界へ。
入りたい。
魏。
許昌。
将たち。
曹操。
全部。
見たい。
自分を。
時雨へ知ってもらうだけではなく。
時雨が。
何を大切にしているか。
自分も。
知ろうとしている。
「勝手な女ね」
曹操が言う。
「知ってる」
雪蓮は答える。
「あなたもでしょう?」
「否定はしないわ」
「なら」
雪蓮は。
曹操へ。
手を差し出す。
「私の真名」
「呼んでいい」
曹操の眉が。
僅かに動く。
「代わりに」
「あなたの真名も」
「私へ許して」
「嫌よ」
「即答?」
「あなたが」
「時雨へ近づくために」
「私の真名まで利用しそうだから」
「するかも」
「雪蓮」
時雨が言う。
「何?」
「素直すぎる」
「時雨に言われたくない」
曹操は。
雪蓮の手を見る。
取る必要はない。
真名。
許す必要もない。
国王同士。
敵にも。
味方にもなる。
今。
婚約者を巡る。
競争相手。
だが。
荊州。
劉備。
北郷一刀。
魏と呉。
いずれ。
同じ側へ立つ可能性。
ある。
そして。
雪蓮は。
危険。
奔放。
だが。
卑怯に。
隠す女ではない。
「分かったわ」
曹操が言った。
春蘭の目が。
大きくなる。
「華琳様!」
曹操は。
春蘭を見ない。
雪蓮だけを見る。
「あなたへ」
「私の真名を許す」
「ただし」
「時雨を奪うために」
「利用するなら」
「二度と呼ばせない」
雪蓮の笑みが。
深くなる。
「分かった」
「私の真名は」
曹操は。
堂々と言う。
「華琳」
雪蓮は。
一度。
目を閉じる。
次。
開く。
「華琳」
声。
先ほどまでより。
少し。
真面目。
「よろしく」
曹操。
華琳。
その名を。
受け取る。
「雪蓮」
曹操も呼ぶ。
二人の王。
魏王。
呉王。
真名。
預け合う。
恋敵。
政治的な競争相手。
そして。
今。
互いを。
一人の女として。
認めた。
春蘭。
感動。
「華琳様!」
桂花。
複雑。
「何で」
「こうなるのよ……」
霞。
大笑い。
「時雨が真ん中おると」
「敵同士まで」
「真名預け合うんか!」
時雨は。
曹操と雪蓮を見る。
「よかったな」
二人。
同時に。
時雨へ顔を向ける。
「誰のせいだと思っているの?」
「誰のせいだと思ってるの?」
声。
揃う。
時雨は。
少し考える。
「俺か」
「そうよ!」
「そう!」
今度も。
揃う。
霞。
笑いすぎて。
地面へしゃがむ。
「やっぱり」
「似とる!」
「似てない!」
二人の王。
また。
揃う。
---
勝負は終わった。
だが。
雪蓮の猛攻は。
終わっていない。
むしろ。
真名を預けたことで。
さらに。
距離を。
縮めようとしていた。
王宮へ戻る道。
雪蓮は。
時雨の横。
華琳は。
反対側。
三人。
並ぶ。
春蘭。
秋蘭。
霞。
その後ろ。
さらに。
桂花たち。
「時雨」
雪蓮が呼ぶ。
「何だ」
「さっきの勝負」
「私が勝った」
「ああ」
「願いも」
「叶った」
「ああ」
「だから」
雪蓮は。
笑う。
「褒美を」
「追加して」
華琳の目が。
鋭くなる。
「願いは一つでしょう」
「褒美は」
「願いと別」
「同じよ」
「違う」
「雪蓮」
「何?」
「調子に乗らないことね」
「華琳」
「何?」
「時雨以外に」
「真名を呼ばれると」
「妙な感じ」
華琳の眉が動く。
「私もよ」
「でも」
雪蓮は笑う。
「嫌じゃない」
「私は」
「少し嫌よ」
「正直ね」
「あなたへは」
「隠す必要がないもの」
「そう」
雪蓮は。
嬉しそう。
華琳は。
僅かに。
困った顔。
時雨が。
二人を見る。
「仲良くなったな」
「なってない!」
「なってないわ!」
声。
揃う。
時雨は頷く。
「そうか」
「そこで納得しないで!」
華琳が言う。
雪蓮も。
時雨へ。
顔を近づける。
「時雨」
「何だ」
「褒美」
「ない」
「冷たい」
「願いは叶えた」
「なら」
雪蓮は。
少し考える。
「私から」
「時雨へ」
「褒美をあげる」
「いらない」
「まだ」
「何か言ってない」
「何だ」
雪蓮は。
自分の胸元へ。
指を置く。
華琳の殺気。
すぐに。
膨らむ。
雪蓮は。
楽しそうに笑う。
「冗談」
「本当か」
時雨が尋ねる。
雪蓮は。
少し考える。
「半分」
「雪蓮」
華琳の声。
低い。
「残り半分を」
「今すぐ捨てなさい」
「時雨にも」
「同じこと言われた」
「なら」
「言うことを聞きなさい」
「二人から言われると」
「少し嬉しい」
「なぜ」
時雨が尋ねる。
雪蓮は。
時雨を見る。
「私を」
「止めようとしてるから」
「止めてる」
「そう」
「放っておかれない」
「それが嬉しい」
時雨は。
少し黙る。
雪蓮。
王。
人から。
止められない。
皆。
従う。
自由。
欲しいもの。
取りに行く。
だが。
時雨。
華琳。
止める。
嫌なら。
嫌。
危険なら。
危険。
間違いなら。
違う。
言う。
それを。
雪蓮は。
求めている。
「雪蓮」
「何?」
「危ないことをしたら」
「止める」
雪蓮の目が。
僅かに柔らかくなる。
「絶対?」
「ああ」
「呉に帰っても?」
時雨は。
少し考える。
距離。
魏。
呉。
簡単ではない。
「届くなら」
「止める」
雪蓮は。
笑う。
小覇王の笑み。
ではない。
女。
一人。
「約束よ」
「ああ」
華琳は。
そのやり取りを。
黙って聞いている。
時雨。
雪蓮へ。
真名。
約束。
自分が。
知らないところで。
繋がりが増える。
胸。
苦しい。
だが。
時雨は。
華琳の隣を。
離れていない。
雪蓮へ。
心を預けられた。
だから。
受け取った。
それだけ。
華琳を。
捨てたわけではない。
「時雨」
華琳が呼ぶ。
「何だ」
「私が」
「危険なことをした時も」
「止める?」
時雨は。
華琳を見る。
「今も」
「止めてる」
華琳の表情が。
僅かに柔らかくなる。
「そうね」
「止められているわね」
雪蓮は。
二人を見る。
やはり。
積み重ね。
深い。
それでも。
入る余地。
全くないわけではない。
時雨は。
一人の心を受け取ったから。
別の心を。
捨てる男ではない。
むしろ。
受け取ったもの。
全て。
守ろうとする。
危険。
それが。
時雨の弱さ。
同時に。
強さ。
「時雨」
雪蓮が呼ぶ。
「何だ」
「私の胸と」
「華琳の胸」
華琳の目が。
一瞬で。
鋭くなる。
「どっちが好き?」
時雨の足が止まる。
全員。
止まる。
華琳。
雪蓮。
見つめる。
逃げ道。
ない。
昨日。
比べない。
そう。
答えた。
今日も。
同じ。
「比べない」
時雨が言った。
雪蓮が。
少し笑う。
「やっぱり」
「なら」
雪蓮は。
時雨の前へ。
回り込む。
胸。
近い。
触れない。
ぎりぎり。
「私の胸は」
「好き?」
時雨は。
目を逸らす。
「嫌いじゃない」
「好き?」
「たぶん」
雪蓮の笑みが。
一気に。
明るくなる。
華琳の顔。
引きつる。
「時雨」
「何だ」
「たぶん、とは何?」
「触ってないから」
全員。
沈黙。
華琳の頬。
赤い。
雪蓮。
目。
輝く。
春蘭。
口。
開く。
秋蘭。
目を閉じる。
桂花。
真っ赤。
栄華の扇。
震える。
霞。
再び。
地面へしゃがむ。
「時雨!」
華琳が叫ぶ。
「何だ」
「なぜ!」
「同じ答えを!」
「雪蓮にもするの!」
「同じ質問だから」
「私は!」
「私よ!」
「知ってる」
「なら!」
雪蓮が。
声を上げて笑う。
「華琳」
「何よ!」
「時雨」
「平等ね」
「嬉しくないわ!」
「私は嬉しい」
「なぜ!」
「好きかもしれないって」
「言われたもの」
雪蓮は。
時雨へ。
さらに近づこうとする。
時雨が。
額へ手を置く。
止める。
雪蓮の顔。
時雨の手。
距離。
胸。
触れない。
「近い」
時雨が言う。
雪蓮は。
額を押さえられたまま。
笑う。
「嫌?」
「困る」
「好きかもしれないから?」
「ああ」
雪蓮の目が。
僅かに。
見開かれる。
華琳も。
時雨を見る。
時雨は。
額を押さえたまま続ける。
「昨日より」
「雪蓮を知った」
「強い」
「馬へ無理させる」
「危ない」
「笑う」
「止めても」
「また来る」
「でも」
「約束は守る」
雪蓮は。
時雨を見つめる。
「胸以外も」
「見てる」
時雨が言った。
雪蓮の笑み。
消える。
驚き。
次。
柔らかく。
戻る。
「そう」
声。
静か。
「それなら」
雪蓮は。
自分から。
一歩下がる。
時雨の手。
離れる。
「今日は」
「それでいい」
華琳は。
雪蓮を見る。
雪蓮。
本当に。
嬉しそう。
胸で。
時雨の視線を。
奪う。
それを。
楽しんでいた。
だが。
本当に欲しかった言葉。
胸以外も見ている。
自分を。
見ている。
それ。
「雪蓮」
華琳が呼ぶ。
「何?」
「今日は」
「あなたの勝ちね」
周囲。
驚く。
雪蓮も。
僅かに目を見開く。
「認めるの?」
「馬の勝負だけよ」
「ほかは?」
「認めないわ」
雪蓮が笑う。
「素直じゃない」
「あなたほど」
「単純ではないの」
「華琳」
「何?」
「時雨に」
「好きって言わせた?」
華琳の頬が。
僅かに赤くなる。
「あなたには関係ないわ」
「まだ?」
「関係ないと言っているでしょう!」
「なら」
雪蓮は。
時雨へ。
笑顔。
向ける。
「私が先に」
「言わせるかも」
華琳の殺気。
膨らむ。
「雪蓮」
「何?」
「今夜」
「客殿から」
「一歩でも出たら」
「春蘭を配置するわ」
「それ」
「警備じゃなく」
「監禁でしょう?」
「国賓の安全確保よ」
「横暴」
「王ですもの」
「私も王だけど?」
「ここは魏よ」
「なるほど」
雪蓮は。
楽しそうに笑う。
「なら」
「明日は」
「もっと攻める」
「滞在は三日」
華琳が言う。
「明日が最後よ」
雪蓮の笑みが。
僅かに変わる。
最後。
三日。
二日目。
終わり。
残る。
一日。
婚約。
決着。
荊州。
魏と呉。
時雨。
「そうね」
雪蓮は。
時雨を見る。
「明日が」
「最後」
時雨は。
雪蓮を見る。
昨日。
知らない女。
今日。
真名を預け合った。
馬で走った。
助けた。
胸以外も。
見た。
明日。
婚約を終わらせる。
それは。
変わらない。
だが。
雪蓮との繋がり。
全て。
終わらせるわけではない。
「雪蓮」
「何?」
「明日」
「婚約の話をする」
雪蓮の笑みが。
少し薄くなる。
「分かってる」
「逃げない」
「私も」
「終わった後」
時雨は続ける。
「勝負する」
雪蓮の目が。
僅かに大きくなる。
「何の?」
「剣」
「昨日」
「言った」
「婚約が終わった後」
「俺とやる」
雪蓮の笑みが。
戻る。
強い。
明るい。
小覇王。
「覚えてたのね」
「ああ」
「婚約は忘れたのに?」
「悪かった」
雪蓮は。
少し黙る。
次。
笑った。
「許さない」
「そうか」
「だから」
「何度でも謝って」
「ああ」
「何度でも」
「私を見て」
「ああ」
「何度でも」
「雪蓮って呼んで」
時雨は。
雪蓮を見る。
「雪蓮」
「もう一回」
「多い」
「お願い」
「雪蓮」
雪蓮の笑顔。
柔らかい。
華琳は。
その隣。
面白くない。
だが。
雪蓮の気持ちを。
否定はしない。
時雨の腕へ。
自分の腕を絡める。
雪蓮の目が。
鋭くなる。
「華琳」
「何?」
「それは禁止事項では?」
「私には適用されないわ」
「ずるい」
「私は」
華琳は。
時雨へ。
僅かに身体を寄せる。
豊かな胸。
時雨の腕へ。
触れる。
時雨の身体が。
固まる。
雪蓮の目が。
大きくなる。
華琳。
勝ち誇る。
「選ばれているもの」
時雨が。
華琳を見る。
「わざとか」
「何が?」
「胸」
華琳の頬へ。
僅かな赤み。
それでも。
腕を離さない。
「偶然よ」
「嘘だな」
「王が」
「偶然と言っているわ」
雪蓮は。
反対側。
時雨の腕へ。
近づく。
時雨が。
すぐに。
一歩。
華琳ごと。
横へ避ける。
「雪蓮」
「何?」
「触るのは禁止」
「華琳は?」
「曹操は」
「選んでる」
雪蓮の頬が。
僅かに膨らむ。
「またそれ」
「ああ」
「いつか」
雪蓮は。
挑むように笑う。
「私にも」
「同じことを言わせる」
「分からない」
「いいわ」
雪蓮は。
時雨から離れ。
一人。
先へ歩く。
桃色の髪。
背中。
強い。
だが。
少しだけ。
寂しい。
「雪蓮」
時雨が呼ぶ。
雪蓮が振り返る。
「何?」
「明日」
「逃げるな」
雪蓮の目が。
僅かに揺れる。
婚約を。
終わらせる話。
逃げるな。
それだけではない。
剣の勝負。
時雨と。
向き合う。
「時雨こそ」
雪蓮は笑う。
「私から」
「逃げないで」
「ああ」
夕方。
許昌。
三日間。
二日目。
孫策――雪蓮の猛攻。
胸。
言葉。
馬。
真名。
全て。
時雨へ向けた。
勝負は。
雪蓮の勝ち。
願い。
真名。
時雨は受け取った。
そして。
自分の真名も預けた。
婚約。
まだ。
終わっていない。
だが。
二人の関係は。
婚約書だけで繋がるものではなくなった。
雪蓮は。
時雨の婚約者である前に。
時雨が。
名を知った女になった。
時雨も。
雪蓮にとって。
過去の約束の相手ではなく。
自分を助け。
自分を見て。
自分の名を呼ぶ男になった。
華琳は。
その全てを。
隣で見ていた。
嫉妬。
怒り。
不安。
ある。
それでも。
時雨を信じる。
時雨は。
華琳を選んでいる。
胸へ弱くても。
雪蓮へ心を預けられても。
その選択だけは。
変わらない。
だが。
最後の一日。
雪蓮が。
どのような猛攻へ出るか。
誰にも。
分からない。
小覇王。
諦めない。
欲しいものへ。
全力で手を伸ばす。
婚約を終わらせる前に。
時雨の心へ。
自分の居場所を。
作る。
それが。
雪蓮の。
最後の勝負。
そして。
時雨自身も。
気づき始めていた。
女性の胸へ弱い。
その事実より。
もっと。
厄介なこと。
真っ直ぐ。
自分を求め。
何度拒まれても。
笑って追ってくる女を。
完全には。
突き放せない。
黒山の狼は。
外道な策で。
百万の敵を崩せる。
だが。
桃色の髪を揺らし。
自分の名を呼ぶ小覇王へ。
どの言葉を使えば。
傷つけず。
約束を終わらせられるのか。
その答えだけは。
まだ。
見つけられずにいた。
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