第四十二話 崩壊する包囲網
夜の闇を焦がす炎が、袁紹軍の陣地を赤く染め上げていた。
燃え盛る兵糧庫。
響き渡る悲鳴。
飛び交う怒号。
そして何より、後方から現れた黒山軍の存在が、袁紹軍の兵士たちから冷静な判断力を奪っていた。
本来ならば五万を超える大軍である。
正面から戦えば黒山軍より遥かに有利だった。
だが戦場というものは、数字だけで決まるものではない。
混乱した軍は弱い。
恐怖に支配された軍はさらに弱い。
そして今の袁紹軍は、その両方に陥っていた。
「補給庫が燃えているぞ!」
「消火しろ!」
「敵襲だ!」
「違う! 呂布だ!」
「黒山軍も来ている!」
「どっちなんだ!」
指揮系統が乱れ始める。
伝令は錯綜し、命令は届かず、届いた頃には状況が変わっている。
戦場の悪夢だった。
そして、その中心には赤髪の鬼神がいた。
「……邪魔」
恋が方天画戟を振るう。
その一撃で三人の兵が吹き飛ぶ。
さらに馬を進める。
止まらない。
誰も止められない。
「呂布だぁぁぁ!」
「逃げろ!」
「無理だ!」
かつて虎牢関で連合軍を震え上がらせた鬼神。
その恐怖を知る者は少なくない。
しかも今回は城攻めの最中だった。
最強の武将が突然背後から現れるなど、悪夢以外の何物でもない。
「……進む」
恋は淡々としていた。
敵がいる。
倒す。
進む。
ただそれだけだった。
だが、その単純な行動だけで袁紹軍の戦列は次々と崩壊していく。
前線では城を包囲していた部隊が混乱し、後方では補給部隊が壊滅状態。
挟み撃ちにされるのではないかという恐怖が広がり始めていた。
そして、その恐怖をさらに煽っている男がいた。
「順調だな」
時雨は小高い丘の上から戦場を眺めていた。
隣には星と霞がいる。
「相変わらず性格悪い笑い方やな」
霞が呆れたように言う。
「そうか?」
「そうや」
星も苦笑した。
「敵が可哀想になってきた」
「敵に同情するなよ」
時雨は肩を竦める。
だが実際、ここまでは全て予定通りだった。
補給庫を焼く。
夜襲で混乱を起こす。
恋を突撃させる。
そして最後の一手。
「報告」
黒山兵が駆け寄る。
「配置完了しました」
「よし」
時雨が頷いた。
霞が嫌な予感しかしない顔をする。
「何仕込んだん?」
「大したことじゃない」
「その言い方が一番怖いんや」
時雨は笑った。
そして戦場の一角を指差す。
そこには袁紹軍の予備兵が集結していた。
数千人規模の部隊。
本来なら混乱を鎮める役目を持つ精鋭である。
「敵の最後の保険だ」
「せやな」
「だから潰す」
次の瞬間だった。
黒山軍の潜伏部隊が一斉に動き出す。
彼らは正面から襲わなかった。
代わりに大量の松明を振り回しながら、四方八方から角笛を鳴らし始めた。
さらに黒山兵たちは大声で叫ぶ。
「囲めぇぇぇ!」
「退路を断て!」
「敵は包囲したぞ!」
その声は夜の闇に響き渡った。
実際には包囲などしていない。
だが袁紹軍の兵士たちは違った。
「包囲された!?」
「嘘だろ!」
「逃げ道が無い!」
混乱した人間は、自分が信じたい情報を信じる。
そして恐怖している人間は、最悪の情報を信じる。
袁紹軍は完全にその状態だった。
「……最悪や」
霞が顔を覆う。
「また心理戦か」
「安上がりだからな」
時雨は平然としていた。
実際に包囲するより遥かに楽だ。
敵が勝手に包囲されたと思い込んでくれるのだから。
案の定、袁紹軍の隊列はさらに乱れ始めた。
「撤退だ!」
「逃げろ!」
「後ろにも敵がいる!」
兵士たちは我先にと逃げ始める。
本来なら将校たちが抑えるべきだった。
だが。
「落ち着きなさい!」
「袁紹様の命令を待つのです!」
叫んでも無駄だった。
恐怖は伝染する。
一人が逃げれば十人が逃げる。
十人が逃げれば百人が逃げる。
そして百人が逃げれば軍は崩壊する。
それが戦場だった。
袁紹の本陣でも事態は深刻だった。
「どういうことですの!?」
袁紹が机を叩く。
「何故こうなっていますの!」
将たちは答えられない。
誰も予想していなかった。
公孫瓚は籠城している。
勝利は目前。
そのはずだった。
なのに今は逆だ。
包囲する側が混乱し、追い詰められている。
「黒山軍です!」
「張燕です!」
「呂布もおります!」
報告が次々と飛び込む。
袁紹の顔が青ざめていく。
「何故あの賊がここにいますの!?」
答えは簡単だった。
公孫瓚を助けるため。
だが、その単純な事実が袁紹には受け入れ難かった。
そしてさらに悪い報告が入る。
「撤退する部隊が増えています!」
「止めなさい!」
「無理です!」
軍は既に崩れ始めていた。
完全な敗北ではない。
だが、このままでは本当に壊滅しかねない。
袁紹は歯を食いしばった。
屈辱だった。
賊ごときに。
張燕ごときに。
だが。
「……撤退しますわ」
苦渋の決断だった。
将たちが息を呑む。
「兵をまとめなさい」
「はっ!」
「ここで無理をしても意味がありませんわ」
冷静な判断ではあった。
このまま続ければ損害だけが増える。
ならば一度退くべきだ。
だが。
それは事実上の敗北宣言でもあった。
一方、城壁の上。
白蓮はその光景を見ていた。
袁紹軍が崩れていく。
退却を始める。
包囲網が解けていく。
「……本当にやった」
思わず呟く。
時雨が来てからまだ一日も経っていない。
それなのに戦況がひっくり返っていた。
「とんでもないなぁ……」
苦笑する。
正々堂々とは程遠い。
武人として褒められた戦い方ではない。
だが。
勝っている。
間違いなく。
「やっぱりアイツ」
白蓮は遠くで翻る黒山の旗を見る。
「戦だけは天才だな」
その頃、丘の上では。
「逃げ始めたぞ」
星が言った。
時雨は頷く。
「予定通りだ」
「追うんか?」
霞が尋ねる。
時雨は赤い目を細めた。
そして獰猛な笑みを浮かべる。
「当然」
逃げる敵を見逃すほど、張燕という男は優しくなかった。
こうして袁紹軍の包囲網は崩壊し、公孫瓚救出作戦は新たな局面へと進むのだった。
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