【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第四十三話 神速の追撃

第四十三話 神速の追撃

 

 

 袁紹軍の撤退は始まっていた。

 

 夜明け前。

 

 雪混じりの冷たい風が吹き抜ける平原を、大軍が慌ただしく移動していく。

 

 本来ならば整然とした退却になるはずだった。

 

 だが現実は違う。

 

 補給庫は燃えた。

 

 夜襲で混乱した。

 

 さらに呂布という鬼神が暴れ回った。

 

 兵士たちの心は既に折れかけていた。

 

「急げ!」

 

「隊列を崩すな!」

 

「落ち着け!」

 

 将たちが必死に叫ぶ。

 

 しかし後方から聞こえる黒山軍の鬨の声が、その努力を無意味なものへ変えていた。

 

 兵士たちの脳裏には同じ考えしかない。

 

 ――早く逃げたい。

 

 それだけだった。

 

 そんな袁紹軍の後方を、二つの影が見つめていた。

 

「見事な敗走ぶりだな」

 

 水色の髪を風になびかせながら星が笑う。

 

 その隣。

 

 紫髪の女も肩を竦めた。

 

「ボロボロやなぁ」

 

 霞。

 

 元董卓軍の将。

 

 そして神速と呼ばれた騎馬武者。

 

「さて」

 

 星が槍を肩に担ぐ。

 

「時雨の命令は聞いているな?」

 

「もちろんや」

 

 霞が獰猛な笑みを浮かべた。

 

「逃がさん、やろ?」

 

 二人の視線が交わる。

 

 次の瞬間。

 

 馬が駆け出した。

 

 疾風。

 

 まさに神速だった。

 

 黒山軍の騎馬隊がそれに続く。

 

「来たぞぉぉ!」

 

「敵騎兵だ!」

 

「追撃だぁ!」

 

 袁紹軍の後方が悲鳴に包まれる。

 

 だが遅い。

 

 星の槍が閃く。

 

 先頭の兵士が吹き飛ぶ。

 

 霞の槍が唸る。

 

 隊列が裂ける。

 

 二人は止まらない。

 

 まるで嵐だった。

 

「遅いぞ!」

 

 星が笑う。

 

「その程度の足で逃げられると思うか!」

 

 兵士たちは恐怖する。

 

 追いつかれる。

 

 逃げられない。

 

 その恐怖がさらに混乱を生む。

 

「散るな!」

 

「隊列を保て!」

 

 将校が叫ぶ。

 

 だが。

 

「ほな失礼するで!」

 

 霞が馬を滑り込ませた。

 

 袁紹軍の中央を横切る。

 

 それだけで隊列が崩れる。

 

 後続の兵士たちがぶつかり合う。

 

 転倒する。

 

 さらに混乱。

 

「こりゃ酷いな」

 

 星は苦笑した。

 

 だが手は止めない。

 

 追撃とはそういうものだ。

 

 一度崩れた軍は脆い。

 

 徹底的に圧力をかければ、勝手に崩壊していく。

 

 そして。

 

 その様子を遠くから眺めている男がいた。

 

「順調だな」

 

 時雨だった。

 

 丘の上。

 

 黒山軍本陣。

 

 その赤い瞳が戦場を見渡している。

 

「追撃始まっとるな」

 

 隣に立つ恋が静かに頷く。

 

「速い」

 

「ああ」

 

 星も霞も騎馬戦の達人だ。

 

 逃げる敵を追うことに関しては、北方でも指折りの腕前だった。

 

 だが。

 

 時雨が見ているのはそこではなかった。

 

「時雨」

 

 恋が聞く。

 

「何考えてる?」

 

 時雨は笑った。

 

「次だ」

 

「次?」

 

「ああ」

 

 戦はまだ終わっていない。

 

 袁紹軍は退却している。

 

 だが主力は健在だ。

 

 このまま逃がせば、いずれ体勢を立て直す。

 

「だからもう一押し必要だ」

 

 恋が首を傾げる。

 

 時雨は地図を広げた。

 

「ここだ」

 

 指差した場所は峡谷だった。

 

 幽州へ続く街道の途中。

 

 両側を山に挟まれた細い道。

 

「ここを通る」

 

「うん」

 

「通らせる」

 

 時雨の口元が歪む。

 

 その笑みに、近くにいた黒山兵たちが少し距離を取った。

 

 嫌な予感しかしない。

 

「頭領」

 

 一人の兵士が恐る恐る聞く。

 

「また何かやるんですか?」

 

「またとは何だ」

 

「顔がそう言ってます」

 

「失礼な」

 

 だが否定はしなかった。

 

 むしろ。

 

「準備は?」

 

「完了してます」

 

「よし」

 

 兵士が報告する。

 

 時雨は満足そうに頷いた。

 

 恋がじっと見つめる。

 

「何準備したの?」

 

「内緒」

 

「怪しい」

 

「いつものことだ」

 

 遠くでは星と霞の追撃が続いている。

 

 敗走する袁紹軍。

 

 それを追い立てる神速の騎馬隊。

 

 そして。

 

 その先には時雨が仕掛けた新たな罠が待っていた。

 

「白馬娘」

 

 時雨は空を見上げる。

 

「助けるなら徹底的にな」

 

 雪雲が流れていく。

 

 戦はまだ終わらない。

 

 むしろ。

 

 張燕という男にとっては、ここからが本番だった。




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