第四十四話 黒山の恐怖
袁紹軍の敗走は続いていた。
夜襲による混乱。
補給庫の焼失。
呂布の突撃。
そして星と霞による神速の追撃。
本来ならば五万を超える大軍だったはずの袁紹軍は、今や敗残兵の集まりのようになっていた。
兵たちは疲れ切っている。
まともに眠れていない。
食料も不足している。
何より恐怖が広がっていた。
敵が強いからではない。
張燕がいるからだ。
何をしてくるか分からない。
それが兵たちの心を蝕んでいた。
「急げ!」
「街道を進め!」
「立ち止まるな!」
将校たちは必死に隊列を維持しようとする。
だが兵士たちの目には既に生気がなかった。
後ろを振り返る者。
暗闇を警戒する者。
風の音に怯える者。
全員が同じだった。
黒山軍が怖い。
それだけだった。
その頃。
街道の先。
両側を山に挟まれた峡谷に黒山兵たちが潜んでいた。
「頭領」
「ん?」
「本当にやるんですか」
「何を今更」
時雨は笑った。
兵士たちは顔を見合わせる。
やはり。
いつもの顔だった。
ろくでもないことを考えている顔である。
星は腕を組んで溜息を吐いた。
「敵に同情したくなってきた」
「するな」
「毎回言っている気がする」
「気のせいだ」
霞は苦笑していた。
恋だけは無表情で空を見上げている。
「時雨」
「あ?」
「敵、来る」
その言葉通りだった。
遠くから松明の光が見える。
袁紹軍だ。
疲労した兵たちが街道を進んでいる。
「始まるな」
時雨の口元が歪んだ。
それを見た黒山兵たちが一歩下がる。
敵よりも頭領の方が怖い。
それが黒山軍だった。
袁紹軍先頭。
将校たちは周囲を警戒していた。
「伏兵は?」
「確認できません!」
「黒山軍の姿は?」
「ありません!」
報告に将校は少し安心する。
追撃はあるだろう。
だが、このまま抜けられるかもしれない。
そう思った。
だが。
その瞬間だった。
峡谷の上から無数の松明が現れた。
「なっ!?」
兵士たちが凍り付く。
左右の崖。
上を見れば黒山兵。
数え切れないほどの松明。
まるで山全体が敵になったような光景だった。
「伏兵だ!」
「囲まれた!」
「黒山軍だぁ!」
悲鳴が響く。
だが実際には違った。
崖の上にいる黒山兵はそれほど多くない。
松明を大量に並べているだけだ。
しかし兵士たちは冷静に判断できない。
既に心が折れかけているのだ。
そこへ。
ドォォォォン!
太鼓の音が響いた。
一つ。
二つ。
三つ。
山々に反響し、まるで何万もの軍勢がいるように聞こえる。
「包囲された!」
「終わりだ!」
「逃げろ!」
恐怖が一気に広がる。
将校たちが叫ぶ。
「落ち着け!」
「敵は少数だ!」
だが兵士たちは聞かない。
既に張燕という名前そのものが恐怖になっていた。
すると。
崖の上に一人の男が現れた。
赤い瞳。
無精髭。
酒瓶を持ったままの男。
張燕。
時雨だった。
「よう」
その声は大きくない。
だが静まり返った峡谷によく響いた。
「随分慌ててるじゃねぇか」
兵士たちの顔が青くなる。
黒山の頭領。
袁紹軍を崩壊させた男。
その本人が目の前にいる。
「せっかく逃げるならよ」
時雨は笑った。
「もう少し堂々と逃げろよ」
その言葉に兵士たちの怒りと恐怖が入り混じる。
だが誰も反論できない。
反論する勇気がなかった。
時雨は酒を一口飲んだ。
そして。
「お前ら」
静かな声で言った。
「振り返ってみろ」
兵士たちが恐る恐る後ろを見る。
そこには。
黒山軍の旗。
さらにその前に立つ二人の武将。
星と霞。
神速の騎馬隊を率いている。
逃げ道。
それも塞がれていた。
「ひっ……」
誰かが声を漏らす。
前は山。
後ろは追撃軍。
完全包囲された。
そう思い込んだ。
実際には違う。
横道はある。
抜けられる場所もある。
だが誰も冷静に考えられない。
恐怖が判断力を奪っていた。
それを見た時雨は満足そうに頷く。
「よし」
「何がよしなんだ」
星が呆れる。
「そろそろ限界だ」
時雨は言った。
「戦って勝つより怖がらせた方が早い」
まさに張燕らしい考えだった。
そして。
限界を迎えたのは袁紹軍だった。
「逃げろぉぉ!」
一人が走る。
すると十人が走る。
百人が走る。
千人が走る。
大軍が雪崩を起こしたように崩壊した。
もはや軍ではない。
ただの群衆だった。
「終わったな」
霞が呟く。
「ああ」
星も頷く。
兵士たちは武器を捨てて逃げている。
戦意など残っていない。
そして遠く離れた本陣。
袁紹も報告を受けていた。
「敗走兵が止まりません!」
「何ですって!?」
「黒山軍に包囲されたとの噂が広がっています!」
袁紹は机を叩いた。
「噂ですわよね!?」
「そのはずです!」
「そのはずって何ですの!」
誰も答えられない。
現場は混乱している。
情報も錯綜している。
だが一つだけ確かなことがあった。
袁紹軍は完全に戦意を失っている。
袁紹は歯を食いしばった。
悔しい。
兵力では勝っていた。
物資でも勝っていた。
だが負けた。
黒山賊に。
張燕に。
「覚えてなさい……」
その言葉は震えていた。
一方。
丘の上で時雨は空を見上げていた。
雪が降り始める。
白い雪が肩に落ちる。
「終わったな」
ぽつりと呟く。
星が隣に立った。
「公孫瓚は助かった」
「ああ」
「満足か?」
時雨は少し考えた。
そして笑う。
「まぁな」
白馬将軍は生き残った。
幽州も守られた。
それで十分だった。
遠くでは黒山兵たちが勝利に沸いている。
雪の降る北の大地で。
黒山の狼は再び牙を見せつけたのだった。
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