第四十六話 黒山からの贈り物
冀州。
鄴。
北方最大の都と呼ばれるその都市には、普段なら活気と華やかさが満ちている。
広い街路。
賑わう市場。
行き交う商人たち。
そして巨大な城。
袁家四世三公の威光を示すような壮麗な都だった。
だが今、その空気は重かった。
幽州遠征の失敗。
その事実は既に冀州全土へ広まっている。
本来なら勝てるはずだった戦。
兵力も物資も勝っていた。
それなのに敗れた。
しかも相手は公孫瓚だけではない。
黒山賊。
張燕。
あの男の介入によって全てが狂わされたのだ。
城内の廊下を歩く文官や武官たちも、どこか元気がない。
声を潜め。
視線を逸らし。
誰もが機嫌の悪い主君を恐れていた。
そして。
玉座の間。
「気に入りませんわ」
袁紹は机を叩いた。
金色の縦ロールが揺れる。
その美しい顔には怒りが浮かんでいた。
「全く気に入りませんわ!」
周囲の家臣たちが身を縮める。
ここ数日、この光景を何度も見ていた。
「兵力はこちらが上」
袁紹が言う。
「補給も上」
「はい」
「兵糧も上」
「その通りです」
「なのに何故負けますの!?」
誰も答えられない。
答えは分かっている。
張燕。
だが、その名前を口にしたくなかった。
袁紹自身も同じだった。
思い出すだけで腹が立つ。
あの不遜な男。
賊の頭領。
名門でも何でもない成り上がり。
それなのに。
戦場では勝った。
「気に入りませんわ……」
袁紹は歯を噛み締めた。
屈辱だった。
公孫瓚ならまだいい。
だが張燕は別だ。
認めたくない。
認めたくないのに。
脳裏に焼き付いている。
燃え上がる補給庫。
崩壊する軍勢。
逃げ惑う兵士たち。
「次こそ……」
その時だった。
「袁紹様!」
兵士が慌てて飛び込んできた。
「何ですの」
「城門に荷車の列が!」
「荷車?」
袁紹が眉をひそめる。
「どこからですの?」
「黒山です!」
空気が止まった。
家臣たちが顔を見合わせる。
黒山。
張燕。
最悪の名前だった。
「……何を送ってきましたの」
「それが……」
兵士が困惑した顔をする。
「贈り物とのことです」
「贈り物?」
袁紹は不快そうな顔になる。
張燕からの贈り物。
嫌な予感しかしない。
「持ってきなさい」
数十分後。
城の中庭。
そこには十数台もの荷車が並んでいた。
それぞれ巨大な木箱を積んでいる。
異様な光景だった。
家臣たちも集まっている。
「随分ありますわね」
袁紹が呟く。
「手紙は?」
「こちらに」
兵士が一通の書状を差し出した。
袁紹は封を切る。
中身を見る。
そして。
顔が引き攣った。
『冀州牧殿へ』
『遠路はるばる幽州まで来てくれた礼だ』
『忘れ物を返す』
『張燕』
短い。
異様なほど短い。
だが。
それだけで嫌な予感が膨れ上がる。
「……開けなさい」
袁紹が命じた。
兵士が木箱へ近付く。
蓋を外す。
そして。
「うっ……!」
兵士が後ずさった。
顔色が真っ青になる。
「何ですの?」
袁紹が苛立つ。
「報告なさい!」
兵士は震えていた。
「し、死者です……」
「何?」
袁紹が近付く。
木箱の中を見る。
そして。
言葉を失った。
そこに入っていたのは。
戦死した冀州兵たちだった。
首だけが丁寧に収められている。
誰か分かるように。
誰一人取り違えないように。
まるで返却品のように。
整然と。
静かに。
そこにあった。
中庭が静まり返る。
誰も喋れない。
袁紹も。
家臣たちも。
ただ木箱を見つめる。
「……」
袁紹の手が震えた。
怒りではない。
初めて感じる感覚だった。
嫌悪。
不気味さ。
理解不能な恐怖。
張燕は何をしたかったのか。
挑発か。
脅しか。
違う。
もっと単純だった。
伝えているのだ。
――お前達は負けた。
――そして俺は忘れていない。
そう言っているようだった。
「全部……」
袁紹が掠れた声を出す。
「全部開けなさい」
命令が下る。
木箱が次々と開けられる。
中身は同じだった。
どれも戦死した冀州兵。
誰かの息子。
誰かの父。
誰かの友。
戦場で死んだ兵士たち。
それが返されてきた。
戦利品としてではない。
見せつけるために。
そして。
そこに込められた意思を、袁紹は理解してしまった。
張燕は自分を恐れていない。
冀州も。
袁家も。
名門も。
何も恐れていない。
だからこんな真似ができる。
「……狂ってますわ」
ぽつりと呟く。
誰も否定しなかった。
実際その通りだった。
普通の武将ならやらない。
普通の諸侯なら考えもしない。
だが張燕はやる。
平然と。
笑いながら。
それが怖かった。
兵力では勝てるかもしれない。
国力でも勝てるかもしれない。
だが。
あの男の思考だけは理解できない。
理解できない相手ほど恐ろしいものはない。
その夜。
袁紹は眠れなかった。
目を閉じる度に木箱が浮かぶ。
整然と並んだそれ。
そして短い手紙。
忘れ物を返す。
ただそれだけ。
だが。
その一文が妙に頭から離れない。
「張燕……」
窓の外を見る。
遠く北方。
黒山がある方角。
袁紹は知らず知らずのうちに拳を握っていた。
怒りか。
屈辱か。
それとも。
恐怖か。
本人にも分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
北方の戦いは終わっていない。
そして今。
冀州牧・袁紹の心には確かに刻まれた。
黒山の狼。
張燕という男への警戒と畏怖が。
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