第五十話 北方に集う影
幽州に春の気配が訪れていた。
長く厳しい冬が終わりを迎えようとしている。
雪に覆われていた大地から少しずつ緑が顔を出し、冷たい風にもどこか柔らかさが混じり始めていた。
公孫瓚の居城も以前の活気を取り戻しつつある。
壊れた城壁は修復され、兵士たちは訓練を再開し、城下町にも笑顔が戻ってきていた。
そんなある日のことだった。
城門前には一団の軍勢が整列していた。
劉備軍である。
徐州へ帰還する日がやってきたのだ。
「本当に帰っちゃうんだな」
白蓮が少し寂しそうに言った。
その前には桃香、愛紗、鈴々の三人。
反董卓連合以来の再会だったが、共に過ごした時間はあっという間だった。
「また来るよ!」
桃香が笑顔で答える。
「今度は戦じゃなくて遊びに!」
「それはいいな」
白蓮も笑った。
「その時は酒を用意しておく」
「鈴々は甘い物がいいのだ!」
鈴々が元気よく叫ぶ。
「肉も!」
「お前はそればっかりだな」
愛紗が呆れる。
いつものやり取りだった。
その様子を少し離れた場所から時雨たちも見ていた。
「帰るか」
時雨が呟く。
「少し寂しいな」
星が珍しく素直な感想を漏らした。
「桃香たちは賑やかだからな」
「確かに」
霞も頷く。
恋は無言だったが、どこか残念そうにも見えた。
やがて。
桃香が時雨の前へやって来た。
「時雨さん」
「あ?」
「ありがとう」
真っ直ぐな笑顔だった。
「色々教えてくれて」
「何も教えてねぇよ」
「そんなことないよ」
桃香は笑う。
「いっぱい助けてもらった」
時雨は肩を竦める。
そういう真っ直ぐな感謝は苦手だった。
「徐州行ったらどうするんだ」
「まだ分からない」
桃香は正直に答えた。
「でもちゃんと考える」
「ああ」
「逃げない」
その言葉に時雨は少しだけ笑った。
「なら大丈夫だ」
桃香も笑う。
愛紗と鈴々も挨拶を済ませる。
そして。
軍勢が動き始めた。
「行こう!」
桃香の声と共に。
徐州軍は南へ向かって進み始める。
白蓮はその姿が見えなくなるまで見送っていた。
時雨も黙って眺めている。
やがて。
軍勢は地平線の彼方へ消えた。
「行ったな」
白蓮が呟く。
「ああ」
「また会えるかな」
「会えるだろ」
乱世だ。
むしろ会いたくなくても会う。
それが英雄たちの運命だった。
そしてその頃。
遠く離れた冀州。
鄴。
巨大な城の一室で、一人の少女が飛び起きていた。
「いやぁぁぁぁぁっ!」
悲鳴。
汗だくの身体。
乱れた呼吸。
袁紹だった。
「はぁ……はぁ……」
息を整える。
まただった。
ここ数か月ずっと同じだ。
眠る。
夢を見る。
そして飛び起きる。
何度も。
何度も。
何度も。
夢の内容は決まっていた。
燃え上がる軍営。
敗走する兵士。
黒山軍の旗。
そして。
笑っている張燕。
あの男が夢に出る。
毎晩。
毎晩。
毎晩。
「またですの……」
袁紹は顔を覆った。
悔しかった。
情けなかった。
だが認めざるを得ない。
張燕という存在は心の傷になっていた。
戦場で敗れたことだけではない。
あの理解不能な思考。
常識が通じない戦い方。
何を考えているか分からない不気味さ。
それら全てが恐怖として残っていた。
「認めませんわ……」
震える声で呟く。
「認めませんわよ……」
だが。
認めようが認めまいが現実は変わらない。
張燕は健在だ。
黒山も健在だ。
公孫瓚も生きている。
このまま放置すれば。
いずれ再び力を蓄える。
そして今度こそ冀州の脅威になる。
袁紹はゆっくりと立ち上がった。
窓の外を見る。
夜空が広がっている。
「……そうですわ」
ぽつりと呟く。
「一人で駄目なら」
考えがまとまり始める。
冀州だけで足りないなら。
他の諸侯を巻き込めばいい。
黒山賊は元々賊だ。
張燕は危険人物だ。
そう訴えれば賛同する者もいるだろう。
そして公孫瓚も同罪だ。
賊と手を組んでいる。
名分はある。
十分にある。
「ふふ……」
袁紹の口元に笑みが浮かぶ。
久しぶりだった。
「そうですわ」
決意が固まる。
「連合ですわ」
かつて董卓を討つために諸侯が集まったように。
今度は別の敵を討つために集める。
公孫瓚。
そして張燕。
北方の脅威を排除するための連合軍。
「反公孫瓚連合……」
その名を呟く。
部屋の空気が変わる。
敗北から立ち直ったわけではない。
恐怖が消えたわけでもない。
だが。
恐怖を抱えたままでも動くことはできる。
袁紹は机へ向かった。
筆を取る。
そして次々と書状を書き始めた。
各地の諸侯へ。
協力を求めるために。
新たな戦の火種が生まれようとしていた。
一方その頃。
幽州。
城壁の上で酒を飲んでいた時雨は夜空を見上げていた。
「どうした」
星が聞く。
「いや」
時雨は酒を飲む。
「嫌な予感がする」
それだけだった。
根拠はない。
だが。
長年戦場で生きてきた勘が告げている。
まだ終わっていない。
むしろこれからだと。
北方の乱世は静かに動き始めていた。
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