第五十一話 届かぬ檄文
冀州。
鄴。
北方最大の都市として知られるこの地では、春の訪れと共に慌ただしい日々が続いていた。
その中心にいるのは当然ながら袁紹だった。
彼女は今、大きな決断を下していた。
反公孫瓚連合。
そしてその実態は、公孫瓚の背後にいる張燕を討つための連合軍である。
公孫瓚単独ならまだいい。
だが今の幽州には黒山軍がいる。
あの張燕がいる。
袁紹はそれを危険視していた。
いや。
危険視という言葉では足りない。
恐れていた。
本人は絶対に認めないだろうが、心の奥底では確実に恐怖を抱いていた。
だからこそ。
動いた。
冀州だけでは足りない。
ならば諸侯を集める。
名分もある。
張燕は賊だ。
公孫瓚は賊と結んでいる。
これほど分かりやすい大義名分はない。
袁紹はそう考えた。
そして。
檄文は各地へ送られた。
徐州。
兗州。
豫州。
荊州。
揚州。
北方のみならず各地へ使者が走る。
内容は単純だった。
公孫瓚と張燕を討つ。
北方の平和を守る。
そのために力を貸してほしい。
そう書かれていた。
袁紹自身は自信があった。
少なくとも何人かは応じる。
そう思っていた。
だが。
現実は違った。
最初に返事が届いたのは数日後だった。
袁紹は期待していた。
玉座の間。
家臣たちも集まっている。
「来ましたわね」
袁紹が笑う。
「当然ですわ」
縦ロールを揺らしながら胸を張る。
「この袁本初の呼びかけですもの」
そして書状を開く。
読む。
数秒後。
笑顔が消えた。
「……何ですのこれ」
そこに書かれていたのは丁重な断りだった。
事情がある。
協力できない。
健闘を祈る。
そんな内容である。
袁紹は顔を引き攣らせた。
「たまたまですわ」
そう言い聞かせる。
だが。
次の日。
また断りが届く。
さらに翌日。
また断り。
また断り。
また断り。
また断り。
「……」
玉座の間の空気が重い。
家臣たちも何も言えない。
十通。
二十通。
三十通。
届く返事は全て同じだった。
断り。
それだけだった。
袁紹は机に突っ伏した。
「何故ですの……」
声に力がない。
「何故ですのぉ……」
本気で理解できなかった。
張燕は賊だ。
公孫瓚は賊と組んでいる。
名分は十分ある。
なのに。
誰も動かない。
誰も賛同しない。
その理由を家臣の一人が恐る恐る口にした。
「袁紹様」
「何ですの」
「皆様……」
言いづらそうだった。
「張燕殿と戦いたくないのかと」
沈黙。
空気が凍る。
「は?」
袁紹の笑顔が怖い。
だが家臣は続けた。
「実際、反董卓連合でも」
「……」
「今回の幽州戦でも」
「……」
「張燕殿の戦い方は有名になっております」
有名。
その表現はかなり優しい。
実際には悪名だった。
外道。
卑劣。
非道。
何をするか分からない。
常識が通じない。
そんな噂が各地へ広がっている。
特に冀州戦での出来事は衝撃的だった。
補給庫襲撃。
夜襲。
心理戦。
敗走軍への徹底追撃。
そして。
大量の首を送り返した件。
あれは噂として各地へ伝わっていた。
「……」
袁紹は黙る。
思い出してしまった。
あの木箱。
あの光景。
あの短い手紙。
忘れ物を返す。
たったそれだけだった。
だが。
今でも夢に出る。
毎晩のように。
「そんな理由で!」
袁紹が立ち上がる。
「そんな理由で名門袁家の要請を断りますの!?」
叫ぶ。
だが。
誰も反論できなかった。
実際その通りだからだ。
張燕と戦う利益がない。
しかも危険。
なら関わりたくない。
多くの諸侯はそう考えていた。
さらに言えば。
公孫瓚は被害者に見える。
最初に攻めたのは袁紹だからだ。
わざわざ協力する理由がない。
「ありえませんわ……」
袁紹は椅子へ座り込んだ。
力が抜ける。
思っていた以上に状況が悪かった。
冀州軍は敗北した。
兵の補充も必要だ。
財政も回復していない。
だから連合軍を作ろうとした。
だが誰も来ない。
誰も動かない。
「まさか……」
袁紹は気付いてしまった。
張燕は何もしていない。
いや。
正確にはした。
だが今は何もしていない。
それなのに。
その存在だけで周囲を動かしている。
恐怖。
それだけで。
「ふざけないでくださいまし……」
声が震える。
怒りだった。
悔しさだった。
そして。
ほんの少しの恐怖だった。
一方その頃。
幽州。
城壁の上。
時雨は昼寝をしていた。
「頭領」
「んー」
「起きてください」
「面倒」
黒山兵が困った顔をする。
「報告です」
「何だ」
「袁紹が連合軍を集めようとしたらしいです」
時雨は目を開けた。
「へぇ」
「ですが誰も集まらなかったそうです」
「そうか」
それだけだった。
驚きもしない。
焦りもしない。
酒を飲む。
「頭領」
「あ?」
「大丈夫なんですか」
兵士は心配そうだった。
だが。
時雨は笑った。
「問題ねぇ」
「何故です」
「俺だったら参加しねぇから」
あまりにも身も蓋もない理由だった。
兵士は苦笑する。
確かに。
張燕相手の戦など御免被りたい。
そう思う者は多いだろう。
「白馬娘には伝えとけ」
「何をです?」
「しばらく平和だってな」
春風が吹く。
遠くには復興する幽州の街。
そして。
遠く離れた冀州では、一人の名門諸侯が静かに追い詰められていた。
兵力ではない。
財力でもない。
たった一人の男が生み出した恐怖によって。
張燕。
黒山の狼。
その名は今や戦場だけではなく、諸侯たちの心の中にまで深く刻まれていたのである。
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