第五十二話 消えぬ悪夢
鄴の夜は静かだった。
本来ならば。
だが袁紹にとって夜は最も嫌な時間になっていた。
眠れない。
眠ろうとしても眠れない。
ようやく眠れても悪夢を見る。
気が付けば汗だくになって飛び起きている。
そんな日々が続いていた。
反公孫瓚連合。
その計画は完全に失敗した。
誰一人として呼びかけに応じなかった。
名門袁家の威光。
四世三公の誇り。
そんなものは何の役にも立たなかった。
現実は残酷だった。
諸侯たちは皆知っている。
張燕という男の存在を。
そして関わることの危険さを。
「……どうしてこうなりましたの」
袁紹は一人呟く。
部屋には誰もいない。
机の上には山のような書類。
だが手を付ける気力が湧かなかった。
鏡を見る。
顔色が悪い。
目の下には隈ができている。
以前のような自信に満ちた姿はどこにもなかった。
「最初から……」
ぽつりと呟く。
「最初から幽州なんて狙わなければ……」
言葉にした瞬間、自分で驚いた。
後悔している。
認めたくないが事実だった。
公孫瓚との戦。
勝てると思った。
勝って当然だと思った。
だが結果は違う。
そして全ての始まりはそこだった。
もし攻めていなければ。
もし欲を出さなければ。
今頃はこんな思いをしなくて済んだかもしれない。
「……」
袁紹は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは張燕の顔。
笑っている。
いつも笑っている。
何を考えているか分からない笑み。
それが恐ろしかった。
数日後。
袁紹はついに決断した。
家臣たちを集める。
「同盟を結びますわ」
その言葉に全員が目を見開いた。
「ど、どことですか?」
「幽州ですわ」
静まり返る。
誰も予想していなかった。
「公孫瓚殿と?」
「そうですわ」
袁紹は頷いた。
「争っても得るものはありません」
敗北を認めたわけではない。
だがこれ以上続ける意味もない。
幽州と冀州。
北方の二大勢力が争い続ければ疲弊するだけだ。
ならば和解した方がいい。
「使者を送りなさい」
袁紹は命じた。
「同盟の提案ですわ」
数日後。
冀州からの使者団が出発した。
礼儀正しく。
正式な使節として。
幽州へ向かう。
誰もがこれで北方が安定するかもしれないと思った。
だが。
数日経っても戻らない。
一週間経っても戻らない。
十日経っても連絡がない。
家臣たちは不安になり始めた。
そして。
ある日の昼。
鄴の城門前に荷車が現れた。
「……何ですの?」
報告を受けた袁紹が顔をしかめる。
まただった。
嫌な予感しかしない。
中庭へ向かう。
そこには数台の荷車。
積まれているのは大きな木箱。
見覚えがあった。
嫌になるほど。
「まさか……」
家臣たちの顔色も青い。
兵士が木箱を確認する。
そして。
真っ青になって後ずさった。
「報告しなさい!」
袁紹が叫ぶ。
兵士は震えながら答えた。
「し、使者団です……」
空気が凍った。
木箱の中には使者たちの亡骸が収められていた。
丁寧に。
まるで荷物のように。
袁紹は言葉を失った。
木箱の上には書状が置かれている。
震える手で開く。
中には短い文章だけだった。
『勝手な真似をするな』
『話があるなら本人が来い』
『張燕』
たったそれだけ。
たったそれだけなのに。
袁紹の背筋を冷たいものが走った。
「……」
誰も喋れない。
沈黙だけが続く。
袁紹は書状を握り潰した。
怒りだった。
恐怖だった。
屈辱だった。
全てが混ざっている。
「どうして……」
かすれた声が漏れる。
「どうしてそこまで……」
理解できない。
普通なら同盟を歓迎する。
少なくとも交渉はする。
だが張燕は違う。
常識が通じない。
予測ができない。
それが何より恐ろしかった。
その夜。
袁紹は再び眠れなかった。
窓の外を見る。
北の方角。
幽州がある。
その向こうには黒山がある。
そして。
張燕がいる。
「……離れませんわね」
誰に言うでもなく呟く。
幽州に手を出したあの日から。
張燕という男は袁紹の人生に深く食い込んでいた。
戦場でも。
夢の中でも。
現実でも。
消えることなく。
黒山の狼の影は、今も冀州の名門諸侯の心を静かに蝕み続けていた。
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