第五十五話 崩れゆく冀州
鄴の空気は、もはや以前のような張り詰めた威厳を保ってはいなかった。
冬が終わり、春が来ても、その城には明るさが戻らない。
理由は明白だった。
袁紹の消耗である。
かつては豪奢な衣装を纏い、堂々と玉座に座っていた名門袁家の当主。
だが今、その姿は見る影もなかった。
頬はこけ、目の下には濃い隈が刻まれ、言葉にも力がない。
「……またですの?」
机の上に置かれた報告書を見つめ、袁紹は呟いた。
声はかすれていた。
その手は微かに震えている。
家臣の一人が恐る恐る答える。
「はい……張燕の件でございます」
「また張燕ですの……」
その名を口にした瞬間、空気が重くなる。
張燕。
黒山の賊将。
そして今や冀州にとって“災厄そのもの”と化した存在。
戦場にはいない。
軍勢を率いて攻め込んでくるわけでもない。
だが、確実に冀州を蝕んでいた。
呂布の件。
謎の贈り物。
城内への人員の浸透。
そして情報の流出。
全てがじわじわと袁紹の精神を削り続けていた。
「……もう」
袁紹は机に額を押し付けた。
「もう嫌ですわ……」
その声には、かつての傲慢さはなかった。
ただの疲労だった。
家臣たちは何も言えない。
誰もが理解していた。
冀州はすでに“内部から壊れつつある”ということを。
戦による敗北ではない。
経済的破綻でもない。
恐怖と混乱による崩壊だった。
その原因の中心にいるのが――張燕。
その名前が出るたびに、誰もが目を逸らす。
ある家臣が恐る恐る進言した。
「袁紹様……もはや冀州は……」
言葉が詰まる。
「限界かと」
沈黙。
袁紹は何も言わない。
だが、その沈黙が答えだった。
否定できない。
冀州は疲弊していた。
兵は怯え、民は動揺し、官僚は疑心暗鬼に陥っている。
そして何より。
“張燕がいる限り終わらない”という空気が支配していた。
数日後。
袁紹は重大な決断を下した。
玉座の間。
全ての重臣が集められる。
その中央に立つ袁紹は、ゆっくりと口を開いた。
「冀州は……」
一度、言葉を切る。
そして。
「手放しますわ」
一瞬で場が凍る。
「……は?」
誰かが間抜けな声を出した。
袁紹は続ける。
「冀州は公孫瓚へ譲ります」
混乱。
動揺。
ざわめき。
「お待ちください袁紹様!」
「なぜ突然そのような!」
口々に叫ぶ家臣たち。
だが袁紹の表情は変わらない。
「もはや冀州はわたくしの手に余りますわ」
淡々とした声だった。
だがその裏には、限界まで追い詰められた精神があった。
張燕。
黒山。
呂布。
贈り物。
木箱。
木箱。
木箱。
夢に出る。
現実に出る。
どこにいても付きまとう。
その全てから逃げたかった。
「ならば」
袁紹は続ける。
「公孫瓚と同盟し、冀州を委ねます」
「それは……降伏と同じでは……」
家臣の声に、袁紹は静かに答えた。
「そうかもしれませんわね」
その瞬間、誰も反論できなくなった。
袁紹はすでに“折れていた”。
戦略ではない。
政治判断でもない。
ただの限界だった。
そして数日後。
袁紹軍は動き始める。
冀州の主要拠点を整理し、軍をまとめる。
そして――
青州への移動。
新たな拠点へと向かうための撤退だった。
鄴の城は静かに空になっていく。
その光景を見ていた家臣の一人が呟く。
「これが……名門袁家の終わりなのか」
誰も否定しない。
否定できなかった。
一方その頃。
幽州。
公孫瓚の城。
白蓮は報告を受けていた。
「袁紹軍が撤退?」
「はい」
「冀州を放棄?」
「そのようです」
白蓮は目を丸くした。
「え?」
理解が追いつかない。
「戦ってないぞ?」
「はい」
「何もしてないぞ?」
「はい」
白蓮は頭を抱えた。
「勝ったの?」
そこへ時雨が現れる。
「ああ」
「勝ったの?」
「そうなるな」
あまりにもあっさりしていた。
戦場すらない。
決戦すらない。
ただ相手が崩れただけだった。
「何だったんだ……」
白蓮は本気で呟いた。
星が肩を竦める。
「時雨のせいだろ」
「いやそれは分かるけど!」
霞が笑う。
「ほんまに戦わんで勝つのは珍しいな」
恋は肉を食べていた。
関係ない顔だった。
その頃。
冀州を離れる袁紹の馬車の中。
彼女は窓の外を見ていた。
遠ざかる鄴の城。
自分が築いたはずの場所。
だが今は違う。
そこには恐怖しかなかった。
「……終わりましたわね」
小さく呟く。
負けたわけではない。
戦ったわけでもない。
ただ、耐えられなかった。
それだけだった。
そして心の奥で、まだ消えない存在がある。
張燕。
あの男がいる限り。
冀州に戻ることはないだろう。
そう思いながら、馬車は静かに青州へと向かっていった。
戦わずして勝者となった公孫瓚。
何もせずに支配を広げる黒山の影。
そして逃げるしかなかった名門。
北方の勢力図は、誰も予想しなかった形で静かに塗り替えられていた。
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