第五十六話 新たなる本拠
幽州の空は晴れていた。
長きに渡る戦乱と混乱を乗り越え、公孫瓚の勢力はかつてないほど大きくなっていた。
それもこれも、誰も予想しなかった形で冀州が転がり込んできたからである。
袁紹は青州へ去った。
冀州にはもはや袁家の旗はない。
北方最大級の豊かな土地は、ほとんど無血のまま公孫瓚の支配下へ入ったのだった。
もっとも。
一番驚いているのは公孫瓚本人だった。
「いや、本当にいいのかこれ……」
白蓮は地図を見ながら頭を抱えていた。
机の上には冀州全域を記した地図が広がっている。
広い。
とにかく広い。
幽州とは比較にならない。
人口も。
農地も。
都市も。
全てが北方随一だった。
「私、そんな大勢力の主になる予定なかったんだけど……」
思わず本音が漏れる。
周囲の家臣たちも苦笑していた。
だが現実である。
冀州は手に入った。
そして最大の問題が発生していた。
本拠地だ。
幽州の城では狭すぎる。
新たに得た領地を統治するには不便だった。
だから結論は一つだった。
鄴へ移る。
冀州最大の都市。
袁紹が本拠としていた城。
そこを新たな本拠地にする。
「引っ越しかぁ……」
白蓮はため息を吐いた。
面倒だった。
とても面倒だった。
だが必要だった。
数日後。
大移動が始まる。
公孫瓚軍。
官僚たち。
職人。
商人。
家族。
多くの人々が南へ向かう。
幽州から冀州へ。
新たな時代の始まりだった。
そして。
その話を聞いた男がいた。
黒山。
時雨である。
「鄴へ移るらしいぞ」
星が言う。
時雨は酒を飲みながら聞いていた。
「そうか」
「反応薄いな」
「予想通りだろ」
確かにそうだった。
冀州を手に入れた以上、当然の流れである。
だが。
問題は別にあった。
「頭領」
黒山兵の一人がやって来る。
「何だ」
「黒山が狭いです」
「知ってる」
時雨は即答した。
最近の黒山は人口が増えすぎていた。
戦で名を上げた。
冀州戦でさらに有名になった。
その結果。
流民。
元兵士。
商人。
職人。
様々な人々が黒山へ集まるようになった。
気付けば一つの町どころではない。
小さな国のようになっている。
「家が足りません」
「畑も足りません」
「酒も足りません」
「最後は我慢しろ」
時雨は呆れた。
しかし問題は本物だった。
黒山だけでは支え切れない。
人が増えすぎた。
「どうするんや?」
霞が聞く。
時雨は少し考えた。
そして。
「移るか」
一言。
それだけだった。
星が目を細める。
「冀州へか」
「ああ」
「黒山を捨てるのか?」
「捨てねぇよ」
時雨は首を振った。
黒山は故郷だ。
捨てる気はない。
だが全員を置いておく必要もない。
「冀州には土地がある」
「確かにな」
「人も仕事も増える」
戦が終わった後の発展には人手が必要だ。
そして黒山には余るほど人がいる。
「ちょうどいい」
時雨は笑った。
こうして。
黒山でも大移動が始まった。
最初は数百人。
次に数千人。
やがて何万人という規模になっていく。
家族連れ。
農民。
鍛冶職人。
商人。
元賊。
元黄巾党。
様々な人々が荷車を引きながら南へ向かう。
その光景は壮観だった。
まるで民族移動である。
冀州へ向かう街道は黒山の人々で埋め尽くされた。
そして鄴。
かつて袁紹の城だった巨大都市。
公孫瓚は到着した瞬間に驚いていた。
「広っ!」
第一声がそれだった。
本当に広い。
城壁。
市場。
官庁。
兵舎。
全てが幽州とは桁違いだった。
「これ管理できるのかな……」
不安しかない。
その時だった。
城門の兵士が駆け込んでくる。
「報告!」
「何だ!?」
「黒山の方々が到着しました!」
「何人?」
「分かりません!」
「は?」
「多すぎて数えられません!」
白蓮は嫌な予感がした。
城壁へ向かう。
そして。
絶句した。
地平線まで人だった。
「……」
言葉が出ない。
荷車。
馬車。
牛車。
人。
人。
人。
とにかく人。
黒山の旗が大量に見える。
「何あれ」
白蓮が呟く。
「移民」
隣にいた時雨が答えた。
「移民ってレベルじゃないだろ!」
思わず叫んだ。
霞は大笑いしている。
星も苦笑していた。
「頭領について行くって言うからな」
「全員?」
「大体」
「何で!?」
「知らん」
本当に知らない。
だが事実として黒山の人々は時雨を慕っていた。
賊だった頃から共に生きてきた。
だからついて来る。
それだけだった。
数日後。
鄴の街はさらに賑やかになった。
空き地には新しい家が建つ。
市場には黒山出身の商人が並ぶ。
鍛冶場も増える。
酒場も増える。
当然喧嘩も増える。
「おい!」
「黒山の連中がまた騒いでるぞ!」
「止めろ!」
「無理です!」
公孫瓚は頭を抱えた。
しかし。
街は確実に活気付いていた。
人口が増える。
商売が増える。
税収も増える。
結果として冀州は急速に発展し始めていた。
そして夜。
鄴の城壁の上。
時雨は夜景を眺めていた。
巨大都市の灯りが遠くまで続いている。
かつての黒山では見られない景色だった。
「大きくなったな」
星が隣に立つ。
「ああ」
「賊の頭領だった男が」
「うるせぇ」
時雨は笑った。
昔は数十人だった。
それが数百人になった。
数千人になった。
今では数万人がついて来る。
不思議な話だった。
「これからどうする」
星が聞く。
時雨は夜空を見上げた。
「知らん」
「相変わらずだな」
「だが」
少しだけ笑う。
「退屈はしなさそうだ」
その言葉に星も笑った。
北方最大の都市・鄴。
そこには今、公孫瓚と黒山の民が集まっていた。
新たな時代。
新たな勢力。
そして新たな物語が静かに始まろうとしていた。
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