【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第五十七話 黒山の狼が牙を研ぐ時

第五十七話 黒山の狼が牙を研ぐ時

 

 

 鄴を本拠地としてから数か月。

 

 公孫瓚の勢力は驚くほど安定していた。

 

 冀州という豊かな土地。

 

 幽州の騎兵。

 

 黒山から流入した大量の人口。

 

 商人や職人たちの往来。

 

 街道を行き交う荷車。

 

 市場の活気。

 

 戦乱で荒れていた北方とは思えないほどの発展が始まっていた。

 

 城下を歩く者たちの表情にも余裕がある。

 

 少なくとも数年前のような絶望はなかった。

 

 白蓮は毎日忙しかった。

 

 だが忙しさの質が違う。

 

 戦ではなく統治。

 

 城壁ではなく農地。

 

 軍議ではなく税収。

 

 平和な悩みだった。

 

「これが普通なんだよな……」

 

 執務室で書類を見ながら呟く。

 

 昔は毎日のように戦の心配をしていた。

 

 今は商人同士の揉め事や灌漑工事の予算で頭を悩ませている。

 

 平和だった。

 

 だからこそ。

 

 ある一人の男だけが退屈していた。

 

「暇だな」

 

 時雨である。

 

 城壁の上で寝転がりながら空を見上げる。

 

 春の空は青い。

 

 雲が流れる。

 

 鳥が飛ぶ。

 

 平和だった。

 

「暇だな」

 

 二回目だった。

 

「暇なら働け」

 

 星が呆れながら言う。

 

「嫌だ」

 

「即答か」

 

「働くために生きてるわけじゃねぇ」

 

 相変わらずだった。

 

 だが。

 

 実際のところ。

 

 時雨は表面上こそ暇そうに見えていたが、裏では静かに動いていた。

 

 誰にも気付かれないように。

 

 少しずつ。

 

 確実に。

 

 青州。

 

 袁紹の新たな本拠地。

 

 そこには今も袁家の旗が翻っている。

 

 だが以前とは違う。

 

 勢いがない。

 

 活気がない。

 

 兵士の顔も暗い。

 

 民の表情も重い。

 

 冀州を失った影響は大きかった。

 

 そして何より。

 

 袁紹自身が変わってしまっていた。

 

「……次」

 

 書類を見る。

 

 内容を確認する。

 

 印を押す。

 

 それだけ。

 

 以前のような自信に満ちた姿はどこにもない。

 

 家臣たちも心配していた。

 

 袁紹は生きている。

 

 だが覇気が消えている。

 

 そんな状態だった。

 

 そして。

 

 その袁紹を見ながら。

 

 時雨は笑っていた。

 

「まだ足りねぇな」

 

 黒山出身の男が報告する。

 

「頭領」

 

「あ?」

 

「青州の商人から連絡です」

 

「どうだった」

 

「予定通りです」

 

 時雨は頷いた。

 

 ここ数か月。

 

 彼は少しずつ人を送り込んでいた。

 

 商人。

 

 旅芸人。

 

 職人。

 

 流民。

 

 一見すると普通の人々。

 

 だがその多くは黒山と繋がっている。

 

 別に暗殺者ではない。

 

 間者でもない。

 

 ただの知り合いだ。

 

 だが。

 

 それだけで十分だった。

 

 市場の噂が分かる。

 

 兵の動きが分かる。

 

 家臣の不満が分かる。

 

 人の心は剣よりよく見える。

 

 時雨はそれを知っていた。

 

「袁紹は?」

 

「元気ありません」

 

「だろうな」

 

「毎日城に籠もっています」

 

「だろうな」

 

 予想通りだった。

 

 だから次へ進む。

 

 戦で倒す必要はない。

 

 軍を動かす必要もない。

 

 同盟がある。

 

 公孫瓚もいる。

 

 大義名分も面倒だ。

 

 ならば別のやり方をする。

 

 それだけだった。

 

「手紙は?」

 

「送ってあります」

 

「返事は?」

 

「ありません」

 

 時雨は笑う。

 

 当然だ。

 

 返事を求めていない。

 

 目的は別にある。

 

 ある日のことだった。

 

 青州の袁紹のもとへ一通の書状が届く。

 

 差出人はない。

 

 中を開く。

 

『最近どうだ』

 

『青州は住みやすいか』

 

『俺は鄴の方が好きだ』

 

 短い。

 

 それだけ。

 

 袁紹は無言で紙を丸めた。

 

「またですの……」

 

 もう怒る気力もなかった。

 

 数日後。

 

 また届く。

 

『城下の酒が不味かった』

 

『何とかしろ』

 

 意味不明だった。

 

 さらに数日後。

 

『お前の庭の木は元気か』

 

 見ているのか。

 

 見ていないのか。

 

 分からない。

 

 だが。

 

 それが恐ろしい。

 

 夜になる。

 

 袁紹は眠れない。

 

 窓の外を見る。

 

 そこに誰もいない。

 

 それでも。

 

 どこかで笑われている気がした。

 

 その頃。

 

 時雨は城壁で酒を飲んでいた。

 

「何を企んでる」

 

 星が聞く。

 

「別に」

 

「嘘をつけ」

 

 時雨は笑う。

 

 確かに企んでいる。

 

 ただし軍事ではない。

 

 侵略でもない。

 

 もっと簡単な話だった。

 

「袁紹はな」

 

 酒を飲む。

 

「自分で自分を追い詰めるタイプだ」

 

 星は黙る。

 

「俺が剣を振る必要はねぇ」

 

「なるほどな」

 

「少し背中を押してやれば勝手に転ぶ」

 

 恐ろしい話だった。

 

 そして。

 

 それが事実でもあった。

 

 今の袁紹は弱っている。

 

 かつての自信もない。

 

 だからこそ小さな不安が大きくなる。

 

 小さな噂が恐怖になる。

 

 それを時雨は理解していた。

 

「悪趣味だな」

 

 星が言う。

 

「今更か?」

 

「今更だな」

 

 二人は笑う。

 

 遠く。

 

 青州の空を思い浮かべながら。

 

 黒山の狼は静かに牙を研いでいた。

 

 戦はまだ始まっていない。

 

 兵も動いていない。

 

 血も流れていない。

 

 だが。

 

 時雨の中では既に始まっていた。

 

 暇潰しだった遊びは終わった。

 

 ここからは本気だった。

 

 誰にも気付かれないまま。

 

 誰にも止められないまま。

 

 黒山の狼は静かに獲物を追い詰め始めていたのである。




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