第五十八話 狙うは袁家の遺産
鄴の夜は静かだった。
城下町には灯りが並び、人々の笑い声が聞こえる。
冀州を得てからというもの、公孫瓚の勢力は急速に大きくなっていた。農地は豊かで商人も増え、北方最大級の都市となった鄴は日ごとに賑わいを増している。
だが、その発展の裏で一人の男は別のことを考えていた。
張燕――時雨である。
城壁の上に腰掛けながら、夜空を見上げていた。
その隣には星がいる。
「最近は妙に静かだな」
星が言った。
「そうか?」
「少なくともお前が暴れていない」
「失礼な奴だな」
「事実だろう」
時雨は笑った。
確かに最近は軍を動かしていない。
青州へ攻め込むこともない。
袁紹を討とうともしていない。
だが、それは興味を失ったからではなかった。
むしろ逆だ。
以前よりも興味を持っていた。
「星」
「ああ?」
「袁紹をどう思う」
突然の問いだった。
星は少し考える。
「高飛車」
「うん」
「見栄っ張り」
「うん」
「面倒臭い」
「うん」
「敵にしたくない」
「それも正解だな」
時雨は酒を飲んだ。
「だがそれだけじゃねぇ」
「ほう?」
「腐っても袁紹だ」
風が吹く。
夜風が二人の髪を揺らした。
「四世三公の名門」
「確かに」
「金もある」
「あるな」
「人もいる」
「いたな」
そこで時雨は笑った。
「今もいる」
星が目を細める。
そこが重要だった。
袁紹は敗北した。
冀州も失った。
張燕に怯え、青州へ逃げた。
傍から見れば落ちぶれた諸侯だ。
だが。
本当にそうだろうか。
「普通の奴ならとっくに見捨てられてる」
時雨は言う。
「だが袁紹にはまだ人がいる」
家臣がいる。
兵がいる。
商人がいる。
命を預ける者たちがいる。
それは簡単なことではない。
「つまり」
星が言う。
「何かがある」
「ああ」
時雨は頷いた。
袁紹には欠点が多い。
高慢。
浪費家。
見栄っ張り。
だが。
それでも人が集まる。
それでも支える者がいる。
それは才能だった。
本人すら理解していない才能。
「人を惹き付ける力か」
「そういうことだ」
時雨は面白そうに笑った。
実際、公孫瓚にはないものだった。
白蓮は善人だ。
真っ直ぐで誠実。
兵にも民にも慕われる。
だが勢力が大きくなるにつれ問題も見えてきた。
人材不足。
それだった。
領地は増えた。
人口も増えた。
だが管理できる人間が足りない。
官僚。
文官。
政治家。
行政官。
そういう人材が圧倒的に不足していた。
「武将ならいるんだがな」
時雨は笑う。
呂布。
張遼。
趙雲。
公孫瓚。
武勇なら十分すぎる。
だが国を動かすには武だけでは足りない。
「だから袁紹か」
星は納得した。
時雨は頷く。
「青州そのものはどうでもいい」
「ほう」
「欲しいのは人だ」
それが本音だった。
冀州は手に入った。
土地はある。
金もある。
だが人材が足りない。
そして袁紹軍には優秀な人材が大量に残っている。
「なるほど」
星は笑う。
「最初からそれが狙いか」
「半分な」
半分は本当だった。
もう半分は。
単なる暇潰しだった。
青州。
袁紹は執務室にいた。
最近は少しだけ顔色が良くなっていた。
青州での生活にも慣れ始めている。
それでも以前の輝きはない。
「次の報告を」
家臣が書類を持ってくる。
袁紹は目を通した。
そして眉をひそめた。
「また?」
「はい」
最近増えていた。
優秀な人材の退職。
引退。
転職。
移住。
理由は様々だった。
だが行き先はほぼ同じ。
冀州。
鄴。
公孫瓚の領地。
「何故ですの……」
袁紹は頭を抱えた。
最初は数人だった。
しかし最近は増えている。
商人が移る。
職人が移る。
学者が移る。
理由は簡単だった。
今の北方で最も勢いがあるのは冀州だからだ。
人は豊かな場所へ集まる。
それだけのことだった。
だが。
袁紹には嫌な予感がしていた。
偶然とは思えない。
何かがおかしい。
そしてその予感は正しかった。
鄴。
時雨は報告を受けていた。
「来たか」
「はい」
黒山の男が頷く。
「また一人」
「優秀か?」
「かなり」
時雨は笑った。
無理に誘っているわけではない。
脅しているわけでもない。
ただ声をかけているだけだ。
そして多くの者が来る。
今の冀州には未来がある。
それだけだった。
「頭領」
霞がやって来る。
「まだ袁紹をいじめる気なんか?」
「いじめる?」
時雨は首を傾げた。
「違うな」
「ほな何や」
「拾うんだ」
霞が笑った。
嫌な笑みだった。
「捨てられたもんをか」
「ああ」
袁紹自身も。
袁紹軍の人材も。
財も。
名声も。
全て。
時雨は戦場で敵を倒す男ではない。
敵が弱った時に最も恐ろしい男だった。
「まだ終わってねぇ」
時雨は静かに呟く。
青州の袁紹。
その価値は領地ではない。
名門袁家という看板。
集まった人材。
築き上げた財産。
それら全てが宝だった。
そして今。
黒山の狼はその宝を静かに狙っていた。
剣を抜くこともなく。
軍を動かすこともなく。
ただ獲物が疲れ果てるのを待ちながら。
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