第五十九話 黒山の狼と恋文騒動
青州の朝は静かだった。
少なくとも表面上は。
袁紹は久しぶりに穏やかな朝を迎えていた。
ここ数か月、張燕からの嫌がらせは続いているものの、以前のような木箱攻撃は減っている。
不気味ではある。
だが何も起きないよりはましだ。
何せ今までの経験上、静かな時ほど張燕はろくでもないことを考えている。
そう理解していた。
「今日こそ平和ですわね……」
袁紹は紅茶を飲みながら呟いた。
その瞬間だった。
執務室の扉が勢いよく開いた。
「袁紹様!」
「何ですの!?」
家臣が飛び込んでくる。
顔が妙に困惑していた。
戦の報告ではない。
反乱でもない。
だが確実に何か問題が起きている顔だった。
「手紙が届いております」
「手紙?」
袁紹は首を傾げる。
外交文書なら珍しくない。
商人からの報告もある。
だが家臣の様子がおかしい。
「何の手紙ですの?」
「その……恋文です」
「は?」
袁紹は固まった。
数秒ほど理解が追い付かなかった。
「恋文?」
「はい」
「わたくしに?」
「はい」
「誰からですの?」
「それが……」
家臣が封を差し出す。
袁紹は受け取った。
丁寧な紙。
達筆な文字。
そして内容。
『あなたを初めて見た日から忘れられません』
『どうか一度お会いしたい』
『名はまだ明かせません』
袁紹は目をぱちぱちさせた。
「……」
家臣も黙る。
「……本物ですの?」
「恐らく」
「気持ち悪いですわね」
「私もそう思います」
即答だった。
だがそれは始まりに過ぎなかった。
三日後。
また届く。
『先日の返事がなく悲しい』
『ですが私は諦めません』
『あなたの美しさは北天の星のようです』
袁紹は頭を抱えた。
「何ですのこれ」
「恋文ですね」
「見れば分かりますわ!」
さらに翌日。
また届く。
『今日もあなたを想っています』
『夢に出ました』
『結婚してください』
「早いですわ!!」
思わず机を叩いた。
家臣たちは必死に笑いを堪えていた。
そして一週間後。
ついに十通を超えた。
内容はどんどん酷くなる。
『好きだ』
『大好きだ』
『愛してる』
『返事をくれ』
『寂しい』
『今日の昼飯は魚だった』
『魚は美味かった』
「途中から日記になってますわ!」
袁紹は叫んだ。
どこかで見た流れだった。
嫌な予感がする。
とても嫌な予感が。
一方その頃。
鄴。
時雨は大笑いしていた。
「くくく……」
「お前か」
星が呆れた声を出す。
「お前だな」
「何のことだ」
「惚けるな」
机の上には大量の紙。
恋文の下書きだった。
霞は腹を抱えて笑っている。
「アカンやろこれ!」
「面白いじゃねぇか」
「暇人やなぁ!」
本当に暇だった。
時雨は酒を飲みながら楽しそうに笑う。
最初は軽い悪戯だった。
だが途中から面白くなってきた。
「返事来ると思うか?」
「来んやろ」
「だよな」
星は深々とため息を吐いた。
「お前、本当に諸侯か?」
「元賊だ」
「それで納得してしまうのが腹立たしい」
その数日後。
青州。
袁紹はさらに困惑していた。
今度は花束が届いたのである。
赤い花。
白い花。
綺麗にまとめられている。
そして紙。
『花を贈る』
『似合うと思った』
差出人不明。
だが。
袁紹は確信していた。
「張燕ですわね」
家臣たちも頷く。
もはや隠す気すらない。
筆跡も似ている。
文体も似ている。
何より発想がおかしい。
「どうして恋文なんですの……」
袁紹は本気で理解できなかった。
戦を仕掛けてくるわけでもない。
脅迫でもない。
恋文である。
意味不明だった。
そして。
また手紙が届く。
『最近返事がない』
『恥ずかしいのか』
『可愛いところもあるな』
袁紹は無言で紙を破った。
「燃やしなさい!」
「はい!」
家臣が即座に暖炉へ投げ込む。
だが翌日にはまた届く。
『昨日の手紙を燃やしただろ』
『ひどい』
袁紹は青ざめた。
「何故知ってますの!?」
誰も答えられない。
ただ一つだけ分かる。
張燕がどこかで見ている。
あるいは誰かが報告している。
それだけだった。
夜。
時雨は城壁の上で酒を飲んでいた。
星が隣へ座る。
「楽しいか」
「ああ」
「恋文がか」
「袁紹の反応がな」
悪趣味だった。
だが本人は満足そうである。
星は呆れながら夜空を見上げた。
「そのうち本当に怒られるぞ」
「誰に?」
「袁紹に」
「会いに来るか?」
時雨は笑う。
「それはそれで面白い」
星はもう何も言わなかった。
遠く青州では、袁紹がまた新しい恋文を読んで頭を抱えている頃だった。
そして黒山の狼は、次はどんな手紙を送ろうかと真剣に考えている。
それは戦略でも政治でもない。
ただの悪戯。
だがその悪戯は今日もまた、一人の名門諸侯の胃を痛め続けていたのであった。
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