第六十二話 狼の罠と名門の姫
青州の空は高かった。
春が終わり、初夏の気配が漂い始めている。
城下町には活気が戻りつつあった。
もっとも、その理由を知る者はいない。
袁紹自身ですら気付いていなかった。
以前の彼女は死人のようだった。
冀州を失い、自信を失い、誇りを失い、ただ日々を消化するだけの存在になりかけていた。
しかし今は違う。
毎朝起きる。
仕事をする。
文句を言う。
怒る。
笑うこともある。
少なくとも以前よりは遥かに人間らしくなっていた。
そしてその原因は。
「また届いております」
家臣が一通の手紙を差し出す。
袁紹は咳払いをした。
「そう」
平静を装う。
「別に急ぎませんわ」
そう言いながら既に受け取っている。
家臣は何も言わない。
最近は皆察していた。
城主様は昼頃になると少し機嫌が悪くなる。
そして見慣れた手紙が届くと少しだけ機嫌が良くなる。
本人だけが認めていない。
封を開く。
中には短い文章。
『暇だ』
『今日も暇だ』
『お前は働いてるか』
『俺は昼寝した』
「働きなさい!」
思わず叫んだ。
家臣たちは苦笑する。
もはや日常だった。
だが。
袁紹は気付いていない。
最近の自分が昔のように怒るようになったことを。
昔のように感情を見せるようになったことを。
それを誰より理解していた男がいる。
鄴。
城壁の上。
時雨は酒を飲みながら空を見ていた。
「順調だな」
ぽつりと呟く。
隣では星が腕を組んでいる。
「何がだ」
「袁紹だ」
「またか」
時雨は笑った。
「死にかけてた奴が生き返ってきた」
「それが狙いか」
「ああ」
最初からそうだった。
袁紹を壊すだけなら簡単だった。
もっと恐怖を与えることもできる。
もっと追い詰めることもできる。
だが。
それでは価値がない。
壊れた人間は使えない。
袁紹の価値は生きていることにあった。
「名家の看板」
時雨が言う。
「財」
「人脈」
星が続ける。
「そして人を集める才能」
時雨は頷いた。
袁紹自身は気付いていない。
だが彼女には才能がある。
武勇ではない。
知略でもない。
人が集まる。
それだけだった。
そしてそれこそが最も貴重な才能だった。
「人材不足だからな」
時雨は苦笑する。
冀州は広い。
幽州もある。
だが管理できる人間が足りない。
公孫瓚軍最大の弱点だった。
「だから袁紹軍か」
星が言う。
「ああ」
時雨の目が細くなる。
「そろそろ収穫の時間だ」
数日後。
青州。
袁紹の城に一人の文官が訪れた。
古参の家臣だった。
「申し上げます」
「何ですの」
「最近、青州から冀州へ移る商人が増えております」
袁紹は眉をひそめた。
またその話か。
最近よく聞く。
商人が移る。
職人が移る。
学者が移る。
理由は簡単だ。
今の冀州は景気が良い。
人が集まる。
それだけだった。
「止められませんの?」
「難しいかと」
袁紹はため息を吐く。
それ自体は仕方ない。
人は豊かな土地へ向かう。
乱世では当然だった。
だが。
最近は妙な噂も聞く。
冀州へ移った者たちが口を揃えて言うのだ。
「公孫瓚の治世は悪くない」
と。
「黒山の者たちも意外と真面目」
と。
そして。
「張燕は思ったほど恐ろしくない」
と。
そこだけは納得できなかった。
「恐ろしいでしょうに……」
袁紹は呟く。
恋文を送りつけてくる時点で十分恐ろしい。
その夜。
また手紙が届いた。
『今日は忙しかった』
『働いた』
『褒めろ』
袁紹は額を押さえた。
「子供ですの?」
だが返事を書く。
いつの間にか当たり前になっていた。
『働くのは当然ですわ』
『褒めません』
『そもそも頭領でしょう』
そこまで書いて。
少し考える。
さらに一文。
『青州は最近忙しいですわ』
書き足した。
筆が止まる。
気付けば近況報告になっていた。
「何故ですの……」
自分でも理解できない。
数日後。
その返事が鄴へ届く。
時雨は手紙を読みながら笑った。
「引っかかった」
星が嫌そうな顔をする。
「その言い方やめろ」
「事実だ」
時雨は机の上に数枚の紙を広げた。
そこには青州の情報が整理されている。
経済。
商人。
役人。
家臣。
そして。
袁紹本人の性格。
「最初は反応しなかった」
時雨が言う。
「だが今は違う」
手紙が来る。
返事を書く。
会話になる。
愚痴も出る。
近況も出る。
つまり。
心を閉ざしていない。
「なるほどな」
星も理解した。
時雨は情報を集めているのだ。
尋問ではない。
脅迫でもない。
もっと自然な形で。
袁紹自身に話させている。
「お前、本当に性格悪いな」
「知ってる」
即答だった。
そして。
さらに数か月が過ぎた。
青州では少しずつ変化が起きていた。
袁紹軍の一部武将。
文官。
商人。
彼らが冀州へ移り始める。
誰かに脅されたわけではない。
勧誘されたわけでもない。
ただ未来を見ているだけだった。
今の北方は公孫瓚が強い。
冀州は豊かだ。
だから移る。
それだけ。
だが。
その流れを裏から整えている男がいた。
張燕だった。
「焦るな」
時雨は言う。
「全部一気に取る必要はねぇ」
狼は獲物を追い回さない。
逃げ道を作る。
安心させる。
そして気付けば囲んでいる。
それが時雨のやり方だった。
夜。
青州。
袁紹はまた手紙を書いていた。
もはや習慣だった。
内容は他愛もない。
仕事の愚痴。
家臣への文句。
最近食べた料理。
市場の様子。
どうでもいい話ばかり。
だが。
以前より表情は明るかった。
「本当に意味が分かりませんわ」
呟く。
なぜ返事を書いているのか。
なぜ続いているのか。
理解できない。
だが。
それでも筆は止まらない。
一方。
鄴の城壁の上。
時雨は夜空を見上げていた。
遠く青州の方角を眺める。
「そろそろだな」
その声に星が振り向く。
「何がだ」
時雨は笑った。
「袁紹が自分で歩いてくる」
風が吹く。
黒山の狼が仕掛けた罠は、既に完成へ近づいていた。
しかも獲物はまだ、自分が罠の中にいることに気付いていない。
それこそが時雨の最も恐ろしいところだった。
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