【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第六十四話 月下の夢物語

第六十四話 月下の夢物語

 

 

 袁紹が冀州へ滞在してから数日が経っていた。

 

 同盟者としての挨拶。

 

 交易の確認。

 

 今後の情勢についての話し合い。

 

 表向きの目的は全て終わっている。

 

 明日になれば青州へ帰る予定だった。

 

 公孫瓚との会談も終わった。

 

 鄴の街も見て回った。

 

 かつて自分が治めていた城も見た。

 

 だが。

 

 結局。

 

 張燕とは一度も会っていない。

 

 会いたかったわけではない。

 

 決して。

 

 断じて。

 

 そうではない。

 

 袁紹は何度も自分に言い聞かせていた。

 

 それなのに。

 

 最後の日が近付くにつれて妙に落ち着かなくなっていた。

 

「本当に何を考えていますの……」

 

 客室で一人呟く。

 

 窓の外には夜空が広がっている。

 

 月が綺麗だった。

 

 冀州の夜景も美しい。

 

 市場の灯り。

 

 巡回する兵士たち。

 

 賑わう酒場。

 

 平和な光景だった。

 

 ふと机を見る。

 

 そこには一通の手紙が置かれている。

 

 昼に届いたものだった。

 

『明日帰るらしいな』

 

 たった一行。

 

 それだけ。

 

 だが。

 

 袁紹はその手紙を三回も読み返していた。

 

「馬鹿らしいですわ」

 

 そう言いながら四回目を読む。

 

 そして自分で嫌になった。

 

 その時だった。

 

 窓の外で音がした。

 

 コツ。

 

 小さな音。

 

 袁紹が振り返る。

 

「誰ですの?」

 

 返事はない。

 

 代わりに窓が開いた。

 

 夜風が部屋へ入り込む。

 

 そして。

 

 一人の男が窓枠に腰掛けていた。

 

 黒い髪。

 

 気怠そうな笑み。

 

 どこか獣を思わせる鋭い目。

 

 見間違えるはずがない。

 

「……張燕」

 

 時雨は軽く手を振った。

 

「よう」

 

「よう、ではありませんわ!」

 

 袁紹は立ち上がる。

 

 思わず叫んでいた。

 

「何ですのその登場は!」

 

「面白いだろ」

 

「全然面白くありませんわ!」

 

 時雨は笑った。

 

 相変わらずだった。

 

 この男はいつもそうだ。

 

 人を苛立たせる才能だけは天下一品だった。

 

「会いたくなかったのか?」

 

「別に!」

 

「そうか」

 

 そう言いながら部屋へ入ってくる。

 

 まるで自分の部屋のような態度だった。

 

 袁紹は頭痛を覚えた。

 

「警備は何をしていますの……」

 

「寝てる」

 

「起こしなさい!」

 

 だが時雨は気にしない。

 

 勝手に椅子へ座る。

 

 勝手に茶を飲む。

 

 勝手に菓子まで食べ始めた。

 

「美味いな」

 

「人の部屋ですわ!」

 

「知ってる」

 

 知っていてやっている。

 

 最悪だった。

 

 しばらく沈黙が流れる。

 

 月明かりが部屋を照らす。

 

 不思議な夜だった。

 

 ようやく会えた。

 

 いや。

 

 違う。

 

 別に会いたかったわけではない。

 

 そう思おうとするのだが。

 

 何故か心臓が少しだけ落ち着かなかった。

 

「何ですの」

 

 袁紹が言う。

 

「ん?」

 

「今さら現れて」

 

「帰るんだろ」

 

「そうですわ」

 

「だから顔くらい見ておこうと思ってな」

 

 袁紹は言葉に詰まった。

 

 時雨は平然としている。

 

 まるで何でもないことのように言う。

 

 だから余計に困る。

 

「変な男ですわね」

 

「よく言われる」

 

「自覚はあるんですのね」

 

「ある」

 

 即答だった。

 

 そして。

 

 再び沈黙。

 

 外では虫の声が聞こえる。

 

 遠くから酒場の笑い声も聞こえた。

 

 平和な夜だった。

 

「なあ」

 

 時雨が口を開く。

 

「何ですの」

 

「青州は楽しいか」

 

 妙な質問だった。

 

 袁紹は少し考える。

 

「楽しくはありませんわ」

 

「だろうな」

 

「苦労ばかりですもの」

 

「だろうな」

 

「人も足りませんし」

 

「だろうな」

 

 全部分かっているような返事だった。

 

 それが少し癪に障る。

 

「ですが」

 

 袁紹は続けた。

 

「悪くはありませんわ」

 

 言いながら自分でも驚く。

 

 以前なら絶対に出なかった言葉だった。

 

「そうか」

 

 時雨は笑う。

 

「少しは前向いたか」

 

「……」

 

 袁紹は黙った。

 

 その言葉が妙に胸に刺さった。

 

 冀州を失った時。

 

 本当に全て終わったと思っていた。

 

 何もかも失った。

 

 未来もない。

 

 そう思っていた。

 

 だが今は違う。

 

 青州にも人がいる。

 

 支えてくれる家臣がいる。

 

 民もいる。

 

 まだ終わっていない。

 

 それを少しずつ理解できるようになっていた。

 

「お前な」

 

 時雨が言う。

 

「何ですの」

 

「意外と強いぞ」

 

 袁紹は目を瞬く。

 

 意味が分からなかった。

 

「馬鹿にしていますの?」

 

「違う」

 

 時雨は首を振る。

 

 珍しく真面目な顔だった。

 

「本気だ」

 

 その目には冗談がない。

 

「俺なら逃げる」

 

「は?」

 

「全部捨てて山に帰る」

 

「あなたならやりそうですわね」

 

「だろ」

 

 時雨は笑った。

 

 そして続ける。

 

「だがお前は残った」

 

「……」

 

「ボロボロになっても立ってる」

 

「……」

 

「それは強ぇよ」

 

 袁紹は何も言えなかった。

 

 今まで多くの人間に褒められてきた。

 

 名門だから。

 

 袁家だから。

 

 四世三公だから。

 

 だが。

 

 今の言葉は違う。

 

 袁紹自身を見て言っている。

 

 そんな気がした。

 

「変なことを言いますのね」

 

 小さく呟く。

 

 時雨は肩を竦めた。

 

「事実だ」

 

 そして。

 

 少しだけ笑う。

 

「だから面白い」

 

「面白い?」

 

「ああ」

 

「意味が分かりませんわ」

 

「そのままでいい」

 

 本当に意味が分からない。

 

 だが。

 

 何故か嫌ではなかった。

 

 月が高く昇る。

 

 夜は更けていく。

 

 二人は他愛ない話を続けた。

 

 青州のこと。

 

 冀州のこと。

 

 公孫瓚の愚痴。

 

 黒山の騒動。

 

 昔の戦の話。

 

 気付けばかなりの時間が過ぎていた。

 

 そして。

 

 別れの時間が来る。

 

 時雨が立ち上がった。

 

「もう行きますの?」

 

「明日もある」

 

「そうですわね」

 

 少しだけ寂しいと思った自分に袁紹は驚いた。

 

 時雨は窓へ向かう。

 

 いつ来たのか分からない男は、帰る時も同じだった。

 

「またな」

 

 振り返る。

 

「青州のお嬢様」

 

「誰がお嬢様ですの」

 

「お前だろ」

 

 時雨は笑う。

 

「次に会う時も元気でいろ」

 

 そして。

 

 最後に。

 

「お前が潰れるのはつまらん」

 

 そう言い残した。

 

 夜風が吹く。

 

 次の瞬間には姿が消えていた。

 

 袁紹はしばらく窓を見つめていた。

 

 静かな夜だった。

 

 月明かりだけが残る。

 

「本当に……」

 

 小さく呟く。

 

「変な男ですわね」

 

 だが。

 

 口元には微かな笑みが浮かんでいた。

 

 翌朝。

 

 袁紹は青州へ帰る。

 

 誰にも言わない。

 

 絶対に言わない。

 

 だが昨夜の出来事はしばらく忘れられそうになかった。

 

 そして遠く城壁の上では。

 

 時雨が酒を飲みながら笑っていた。

 

 狼は獲物を急がない。

 

 じっくり時間をかける。

 

 それが張燕という男だった。

 

 そして袁紹はまだ知らない。

 

 自分が少しずつ張燕の描く大きな盤上へ引き込まれていることを。




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