【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第六十五話 黒山の狼、牙を剥く

第六十五話 黒山の狼、牙を剥く

 

 

 青州へ帰還した袁紹は、久しぶりに穏やかな気持ちで執務に向かっていた。

 

 冀州での滞在は予想外のものだった。

 

 公孫瓚との会談。

 

 発展を続ける鄴。

 

 そして最後の夜。

 

 窓から現れた張燕。

 

 思い出すだけで頭が痛くなる。

 

「本当に変な男ですわ……」

 

 そう呟きながら書類へ視線を落とす。

 

 だが以前のような暗さはなかった。

 

 青州は決して豊かではない。

 

 だが自分にはまだ家臣がいる。

 

 民がいる。

 

 支えてくれる者たちがいる。

 

 もう一度立ち上がればいい。

 

 そう思えるようになっていた。

 

 その頃。

 

 遥か北。

 

 黒山出身の兵たちが静かに動き始めていた。

 

 しかも。

 

 誰にも知られぬまま。

 

 公孫瓚にも。

 

 冀州の役人たちにも。

 

 ほとんど情報は漏れていない。

 

 夜の野営地。

 

 焚き火の前に座る時雨は酒を飲んでいた。

 

 星が隣で腕を組む。

 

「本当にやるのか」

 

「ああ」

 

「白蓮には話してないな」

 

「話したら止める」

 

 即答だった。

 

 星は深いため息を吐く。

 

 予想通りの返事だった。

 

「同盟はどうする」

 

「知らん」

 

「お前な」

 

 時雨は笑った。

 

 だがその目は笑っていない。

 

 久しぶりだった。

 

 黒山の頭領としての顔。

 

 戦場を渡り歩いた狼の顔。

 

「最初から考えてた」

 

 ぽつりと呟く。

 

「袁紹を潰すことか」

 

「違う」

 

 時雨は首を振った。

 

「袁紹を手に入れることだ」

 

 星は黙る。

 

 その言葉の意味を理解していた。

 

 袁紹には価値がある。

 

 名門袁家。

 

 莫大な人脈。

 

 優秀な家臣団。

 

 そして人を惹き付ける才能。

 

 それら全てが宝だった。

 

「戦って殺すのは簡単だ」

 

 時雨が言う。

 

「だがそれじゃ価値がねぇ」

 

 焚き火が揺れる。

 

 周囲の兵たちは静かだった。

 

「欲しいのは降伏だ」

 

「だから侵攻か」

 

「ああ」

 

 黒山軍は既に動いていた。

 

 正面からの大戦ではない。

 

 大軍同士の激突でもない。

 

 黒山賊らしいやり方だった。

 

 街道を押さえる。

 

 補給路を遮断する。

 

 商人を取り込む。

 

 情報網を張り巡らせる。

 

 じわじわと。

 

 ゆっくりと。

 

 獲物を追い詰める。

 

 青州。

 

 数日後。

 

 異変は突然始まった。

 

「報告!」

 

 兵士が執務室へ飛び込む。

 

 袁紹が顔を上げた。

 

「何事ですの」

 

「北部街道で襲撃です!」

 

「賊ですの?」

 

「黒山軍です!」

 

 部屋の空気が凍った。

 

 家臣たちが顔を見合わせる。

 

「黒山……」

 

 誰もが同じ名前を思い浮かべる。

 

 張燕。

 

 時雨。

 

 黒山の狼。

 

 袁紹は立ち上がった。

 

「何が起きていますの」

 

「複数の街道が封鎖されています!」

 

「兵力は!」

 

「不明!」

 

 最悪だった。

 

 相手がどこにいるのか分からない。

 

 何人いるのか分からない。

 

 何が狙いなのか分からない。

 

 黒山軍らしい戦い方だった。

 

 数日後。

 

 被害は拡大した。

 

 補給隊が襲われる。

 

 倉庫が焼かれる。

 

 伝令が行方不明になる。

 

 だが。

 

 不思議なこともあった。

 

 町そのものは襲われない。

 

 民は殺されない。

 

 略奪も少ない。

 

 まるで狙いが別にあるようだった。

 

「何がしたいんですの……」

 

 袁紹は頭を抱える。

 

 その夜。

 

 一通の手紙が届く。

 

 見慣れた筆跡だった。

 

 袁紹は無言で封を開く。

 

『元気か』

 

 最初の一行。

 

 袁紹の額に青筋が浮く。

 

 続きを読む。

 

『戦は始まった』

 

『安心しろ』

 

『お前を殺す気はない』

 

 そこまで読んで机を叩いた。

 

「安心できませんわ!」

 

 家臣たちも同意だった。

 

 さらに続く。

 

『欲しいのは青州じゃない』

 

『欲しいのはお前だ』

 

 袁紹は固まった。

 

「……は?」

 

 最後の一文。

 

『だから逃げるな』

 

 沈黙。

 

 長い沈黙だった。

 

 家臣たちは内容を知らない。

 

 だが袁紹の顔色だけで異常を察した。

 

 一方。

 

 黒山軍本陣。

 

 時雨は星と向かい合っていた。

 

「送ったのか」

 

「ああ」

 

「何て書いた」

 

 時雨は笑う。

 

「本音だ」

 

 それだけだった。

 

 星は頭を抱えた。

 

 戦をしているのか。

 

 口説いているのか。

 

 本人にも分からなくなっている気がした。

 

 しかし一つだけ確かなことがある。

 

 黒山軍は本気だった。

 

 青州侵攻は始まった。

 

 公孫瓚に知らせることもなく。

 

 同盟の建前を踏み越え。

 

 黒山の狼は再び戦場へ出た。

 

 その目的は領土ではない。

 

 財宝でもない。

 

 ただ一人。

 

 名門袁家の当主。

 

 袁紹その人だった。

 

 そして青州全土を巻き込みながら、張燕の長い策は次の段階へ進み始めていた。




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