【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第六十八話 青州の夜に現れる狼

第六十八話 青州の夜に現れる狼

 

 

 青州の夜は静かだった。

 

 城壁の上では兵士たちが巡回を続けている。

 

 黒山軍との戦が始まって以来、警備は以前の倍になっていた。

 

 誰もが張燕という男を警戒している。

 

 突然現れる。

 

 突然消える。

 

 常識が通じない。

 

 そんな男だった。

 

 だからこそ兵士たちは目を光らせていた。

 

 しかし。

 

 その夜。

 

 張燕は正面から城へ入っていた。

 

「止まれ!」

 

 城門前で兵士が槍を向ける。

 

 だが次の瞬間。

 

 兵士たちは目を丸くした。

 

「張燕……だと?」

 

「ああ」

 

 時雨は欠伸をした。

 

 黒い外套を羽織り、腰に剣を提げている。

 

 その後ろには誰もいない。

 

 たった一人だった。

 

「頭領!?」

 

「何で一人なんや!」

 

 青州兵たちは大混乱だった。

 

 黒山軍の総大将が。

 

 敵軍の本拠地へ。

 

 護衛も連れずに現れたのだ。

 

 理解できるはずがない。

 

「袁紹に会いに来た」

 

 時雨は平然と言った。

 

「会わせろ」

 

 兵士たちは顔を見合わせる。

 

 どうすればいいのか分からない。

 

 捕まえるべきか。

 

 追い返すべきか。

 

 だが目の前の男は張燕だ。

 

 下手に手を出したくない。

 

 結局。

 

 大騒ぎの末に報告が城内へ届けられた。

 

 その頃。

 

 袁紹は執務室で書類と格闘していた。

 

「また兵糧ですの……」

 

 頭が痛い。

 

 戦そのものより補給が問題だった。

 

 黒山軍は補給線ばかり狙う。

 

 おかげで各地の管理が大変だった。

 

 そこへ。

 

 扉が勢いよく開いた。

 

「袁紹様!」

 

「何ですの!?」

 

「張燕です!」

 

 袁紹の動きが止まる。

 

「……は?」

 

「張燕が来ました!」

 

「どこに」

 

「城門です!」

 

「何故!?」

 

「分かりません!」

 

 当然だった。

 

 誰にも分からない。

 

 袁紹も理解できなかった。

 

「軍勢は!?」

 

「いません!」

 

「は?」

 

「一人です!」

 

 さらに意味が分からない。

 

 袁紹はしばらく固まっていた。

 

 そして。

 

「通しなさい」

 

 静かに言った。

 

 数十分後。

 

 執務室。

 

 袁紹は机の向こう側に座っていた。

 

 その前には時雨。

 

 相変わらず気怠そうな顔だった。

 

「久しぶりですわね」

 

「そうか?」

 

「そうですわ!」

 

 即答だった。

 

 時雨は笑う。

 

 袁紹は頭痛を覚えた。

 

 戦の最中だというのに。

 

 まるで知人同士の会話だった。

 

「何しに来ましたの」

 

「会いに来た」

 

「戦争中ですわよ」

 

「知ってる」

 

「敵ですわよ」

 

「知ってる」

 

 全部分かっている顔だった。

 

 だから余計に腹が立つ。

 

「お前こそ元気そうだな」

 

 時雨が言う。

 

「誰のせいで苦労していると思っていますの!」

 

「俺だな」

 

「自覚ありましたの!?」

 

 即答だった。

 

 袁紹は思わず机を叩く。

 

 だが時雨は気にしない。

 

 むしろ楽しそうだった。

 

「なあ」

 

 時雨が言った。

 

「何ですの」

 

「降伏しろ」

 

 空気が変わる。

 

 先程までの軽い雰囲気が消える。

 

 袁紹の表情も真剣になった。

 

「断りますわ」

 

 即答だった。

 

 迷いはない。

 

 名門袁家の当主。

 

 簡単に頭は下げられない。

 

 時雨も予想していた。

 

「だろうな」

 

「なら何故聞きますの」

 

「確認だ」

 

 静かな声だった。

 

「まだ立てるか」

 

 袁紹は少しだけ目を細める。

 

「立てますわ」

 

「そうか」

 

「負けません」

 

「そうか」

 

 時雨は笑った。

 

 不思議な笑みだった。

 

 敵を見る顔ではない。

 

 だから袁紹には理解できない。

 

「お前」

 

 時雨が言う。

 

「何ですの」

 

「変わったな」

 

 袁紹は眉をひそめた。

 

「どういう意味ですの」

 

「最初は死にそうな顔してた」

 

「……」

 

「今は違う」

 

 袁紹は言葉を失う。

 

 確かにそうだった。

 

 冀州を失った頃。

 

 何も見えていなかった。

 

 未来も。

 

 希望も。

 

 だが今は違う。

 

 苦しい。

 

 辛い。

 

 それでも前を向いている。

 

「だから面白い」

 

 時雨が言う。

 

「その言い方やめなさい」

 

「嫌だ」

 

 即答だった。

 

 袁紹は深いため息を吐く。

 

 本当に変わらない男だった。

 

 しばらく沈黙が流れる。

 

 外では夜風が吹いていた。

 

 やがて。

 

 袁紹がぽつりと呟く。

 

「本当に青州が欲しいんですの?」

 

 時雨は少し考えた。

 

 そして首を振る。

 

「半分だ」

 

「半分?」

 

「土地は欲しい」

 

「正直ですわね」

 

「もう半分は別だ」

 

 袁紹は黙って聞く。

 

 時雨は窓の外を見る。

 

「人だ」

 

「人材ですの」

 

「ああ」

 

 それは本音だった。

 

 冀州も幽州も広い。

 

 だが治める人間が足りない。

 

 優秀な文官も武将も欲しい。

 

 袁紹軍にはまだ人材が残っている。

 

 それは事実だった。

 

「だから降伏勧告ですのね」

 

「そうだ」

 

「なるほど」

 

 袁紹は頷く。

 

 少しだけ納得した。

 

 だが。

 

 それでも分からないことがある。

 

「なら何故」

 

 袁紹が言う。

 

「何故わたくしに恋文なんて送っていましたの」

 

 時雨が吹き出した。

 

「まだ気にしてたのか」

 

「気になりますわ!」

 

 当然だった。

 

 何十通も送られている。

 

 忘れられるわけがない。

 

 時雨は笑いながら答える。

 

「暇だった」

 

「最低ですわね!」

 

 袁紹は思わず叫んだ。

 

 だが。

 

 次の言葉で固まる。

 

「最初はな」

 

「……え?」

 

 時雨は少しだけ真面目な顔になった。

 

「途中からは違った」

 

 袁紹は何も言えない。

 

 部屋が静かになる。

 

 外の風の音だけが聞こえる。

 

 そして。

 

 時雨は立ち上がった。

 

「帰る」

 

「もう?」

 

「ああ」

 

 目的は終わった。

 

 会いに来た。

 

 話した。

 

 それだけだった。

 

 窓へ向かう時雨を見ながら袁紹は言う。

 

「次はどうしますの」

 

「戦だ」

 

 即答だった。

 

「まだ続けるんですのね」

 

「終わるまでな」

 

 そう言って振り返る。

 

 狼のような笑みだった。

 

「だが安心しろ」

 

「何がですの」

 

「お前が降伏するまで死なせねぇ」

 

 その言葉を残して。

 

 張燕は夜の闇へ消えた。

 

 袁紹はしばらく窓を見つめていた。

 

 理解できない男だった。

 

 敵なのか。

 

 味方なのか。

 

 それとも別の何かなのか。

 

 分からない。

 

 だが一つだけ確かなことがある。

 

 青州と黒山の戦は、まだ終わらない。

 

 そして張燕の長い策もまた、次の段階へ進み始めていた。




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