第六十九話 揺れる青州、迫る決断
張燕が青州の城へ現れた夜から数日が過ぎた。
城内は表面上こそ平静を保っていたが、水面下では大きな波紋が広がっていた。
当然だった。
敵軍の総大将がたった一人で城へ侵入し、袁紹と会談を行い、何事もなく帰っていったのである。
兵士たちは驚き、家臣たちは困惑した。
そして袁紹自身もまた、落ち着かない日々を送っていた。
執務室。
机の上には報告書が山のように積まれている。
北部街道の状況。
各地の兵糧備蓄。
税収の報告。
山のような仕事だ。
しかし袁紹の意識は別の場所へ向いていた。
「……」
机の引き出しを開く。
そこには大量の手紙が入っていた。
張燕から送られてきたものだった。
最初は嫌がらせ。
途中から意味不明。
そして最近は何故か普通の近況報告になっている。
「何をやっていますの……」
自分でも分からない。
何故捨てないのか。
何故保管しているのか。
理解できなかった。
その時。
扉が叩かれた。
「袁紹様」
「入りなさい」
現れたのは文官だった。
表情は少し難しい。
「何かありましたの?」
「報告があります」
そう言って差し出された書簡。
袁紹は目を通した。
そして眉をひそめる。
「またですの?」
「はい」
最近増えていた。
家臣たちの離反。
数は多くない。
だが確実に増えている。
冀州へ移る者。
公孫瓚へ仕える者。
あるいは商人として新天地を目指す者。
理由は様々だった。
しかし結果は同じ。
青州から人が減っている。
「張燕の差し金ですの?」
「断定はできません」
文官は慎重に答えた。
「ですが……」
「ですが?」
「冀州の評判が非常に良いのは事実です」
袁紹は黙った。
公孫瓚の統治。
黒山出身者たちの働き。
それらによって冀州は急速に発展している。
それは認めざるを得なかった。
「厄介ですわね」
小さく呟く。
武力で攻められる方がまだ分かりやすい。
だが張燕は違う。
人の心を狙う。
未来を見せる。
逃げ道を作る。
だから厄介だった。
一方その頃。
鄴。
時雨は城壁の上で寝転がっていた。
青空が広がっている。
風も心地よい。
完全に昼寝日和だった。
「頭領」
星がやってくる。
「ん?」
「また寝ているのか」
「仕事した」
「朝だけだろう」
「したことには変わらん」
星は呆れた。
だが今日来たのは説教のためではない。
「青州から情報が来た」
その言葉で時雨が起き上がる。
「ほう」
「離反者が出始めている」
「だろうな」
予想通りだった。
時雨は驚かない。
「戦は人の取り合いだ」
ぽつりと言う。
「城じゃない」
「土地でもない」
「人だ」
黒山は元々何も持たなかった。
だから知っている。
最後に価値を持つのは人間だと。
優秀な人材。
働く民。
信頼できる仲間。
それこそが国を支える。
「袁紹はどうすると思う」
星が聞いた。
時雨は少し考える。
「まだ降伏しない」
「同感だ」
「だが迷う」
そこが重要だった。
以前の袁紹なら即座に拒絶した。
名門として。
誇りとして。
だが今は違う。
現実を知っている。
敗北も知っている。
民を守る責任も知っている。
だから迷う。
その迷いこそが時雨の狙いだった。
数日後。
青州。
軍議が開かれていた。
袁紹の前には主だった家臣たちが並んでいる。
雰囲気は重い。
「状況は?」
袁紹が問う。
「兵糧はまだ余裕があります」
「ですが長期戦になると厳しくなります」
「商人たちの動揺も大きいです」
次々と報告が続く。
どれも悪くはない。
だが良くもない。
じわじわと追い詰められている。
そんな状況だった。
「黒山軍の動きは?」
「依然として不明です」
袁紹はため息を吐いた。
いつもの答えだった。
捕まらない。
見つからない。
戦わせてもくれない。
まるで霧を相手にしているようだった。
会議が終わった後。
袁紹は一人で城壁へ向かった。
夕暮れだった。
赤く染まる空。
遠くの山々。
静かな風。
「何を考えていますの……」
思わず呟く。
張燕のことだった。
青州を欲しがっている。
それは分かる。
人材を欲しがっている。
それも分かる。
だがそれだけではない気がしていた。
あの男はもっと先を見ている。
そんな予感がある。
「本当に分かりませんわね」
その時だった。
背後から足音が聞こえる。
振り返る。
家臣ではない。
伝令だった。
「袁紹様!」
「何ですの」
「書簡です!」
袁紹は受け取る。
封を見た瞬間、顔が引きつった。
「またですの……」
見慣れた字だった。
張燕である。
封を開く。
中には短い文章。
『元気か』
『俺は暇だ』
『お前は忙しそうだな』
ここまではいつも通りだった。
しかし最後の一文を見て袁紹は固まる。
『次は白蓮に怒られる気がする』
「……」
数秒。
沈黙。
そして。
「知りませんわ!」
思わず叫んだ。
公孫瓚に無断で侵攻している自覚はあるらしい。
その事実に袁紹は頭を抱えた。
本当に意味が分からない。
だが。
口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
敵であるはずなのに。
戦っているはずなのに。
その手紙を読むと少しだけ肩の力が抜ける。
それが余計に腹立たしかった。
そして遠く冀州では。
時雨が夕陽を見ながら笑っていた。
狼は急がない。
獲物が自ら歩いてくる瞬間を待つ。
青州はまだ落ちない。
袁紹もまだ折れない。
だが確実に距離は縮まっていた。
張燕の長い策は、ゆっくりと終着点へ向かい始めていた。
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