第七十話 名門の降伏
青州の冬は早かった。
冷たい風が城壁を吹き抜け、兵士たちは肩を震わせながら持ち場に立っている。
かつて冀州を支配した名門袁家。
その当主である袁紹は、執務室で一人机に向かっていた。
積み上がる報告書。
減り続ける財。
少しずつ離れていく人材。
そして終わりの見えない黒山軍との戦い。
戦況だけ見れば、まだ負けてはいない。
城は健在。
軍も残っている。
だが袁紹には分かっていた。
この戦は既に勝敗が決している。
張燕は最初から城を落とすつもりなどなかったのだ。
青州を焼き払うつもりもなかった。
自分を殺すつもりもなかった。
あの男が狙っていたのは最初から一つ。
袁紹という人間そのものだった。
「……やられましたわね」
袁紹は小さく呟いた。
窓の外には青州の町が見える。
民たちは今日も生きている。
市場は開かれている。
子供たちは走り回っている。
戦の最中とは思えない光景だった。
それこそが張燕の恐ろしさだった。
民を傷付けない。
街を焼かない。
だが国そのものを追い詰める。
そして気付けば逃げ場がなくなっている。
その時だった。
扉が叩かれる。
「袁紹様」
「入りなさい」
現れたのは側近だった。
表情は沈んでいる。
「またですの?」
「はい」
短い返事。
「南部の有力商人が冀州への移住を決めました」
袁紹は目を閉じる。
これで何人目だろう。
武将。
文官。
商人。
職人。
少しずつ。
本当に少しずつ。
青州から人が消えていく。
そして冀州へ向かっている。
無理もない。
発展している。
未来がある。
安定している。
民は正直だ。
未来がある場所へ集まる。
「もう良いですわ」
袁紹は静かに言った。
「袁紹様?」
「皆、退がりなさい」
家臣たちは困惑した。
だが命令には従う。
やがて執務室には袁紹一人だけが残った。
静寂。
長い沈黙。
そして袁紹は引き出しを開いた。
そこには大量の手紙が入っている。
張燕から送られてきた恋文。
嫌がらせの手紙。
意味不明な近況報告。
どうでもいい落書き。
最初は腹が立った。
途中から呆れた。
そしていつしか。
届くのを待つようになっていた。
「本当に最低な男ですわね……」
苦笑が漏れる。
最初から策だったのだろう。
恐怖を植え付ける。
次に慣れさせる。
そして距離を縮める。
気付けば敵として見ることすら難しくなっていた。
それは敗北だった。
完全な敗北だった。
その夜。
袁紹は決断する。
翌朝。
青州全軍の重臣が集められた。
会議室には重苦しい空気が流れている。
誰もが主君の表情を見て異変を察していた。
袁紹は静かに立ち上がる。
「皆さん」
その声は穏やかだった。
「今までご苦労でしたわ」
誰も口を開かない。
「わたくしは決めました」
そして。
袁紹は宣言した。
「張燕へ降伏します」
一瞬。
空気が止まった。
「なっ!?」
「袁紹様!」
「お待ちください!」
騒然となる。
当然だった。
だが袁紹は静かだった。
「聞きなさい」
その一言で全員が黙る。
「この戦に勝利はありません」
誰も反論できない。
「戦えば戦うほど青州は弱ります」
事実だった。
「民が苦しみます」
それも事実だった。
「そして張燕は止まりません」
全員が理解していた。
あの男は異常だった。
普通の物差しでは測れない。
戦えば勝てるかもしれない。
だが終わらない。
永遠に続く。
そんな恐怖があった。
「わたくしは当主です」
袁紹は言う。
「民を守る責任があります」
静かな声だった。
「ならば選ぶべき道は一つですわ」
誰も言葉を返せなかった。
やがて。
一人の老臣が立ち上がる。
「……袁紹様」
「何ですの」
「最後までお供いたします」
それを皮切りに次々と頭が下がる。
誰も泣かない。
誰も叫ばない。
ただ静かに主君の決断を受け入れた。
三日後。
青州北部。
広い平原。
そこに二つの軍勢が集結していた。
黒山軍。
そして青州軍。
だが戦のためではない。
降伏のためだった。
黒山軍の先頭には時雨。
星。
霞。
恋。
そして黒山の幹部たち。
一方。
袁紹もまた家臣たちを連れて現れた。
冷たい風が吹く。
誰も口を開かない。
やがて。
袁紹が馬から降りた。
ゆっくりと歩く。
時雨の前まで。
あと数歩。
そこで立ち止まった。
「来ましたわ」
「ああ」
時雨も答える。
それだけだった。
長い戦だった。
長い嫌がらせだった。
長い恋文だった。
その全てが終わる。
「わたくしの負けですわ」
袁紹は言った。
悔しそうな顔ではなかった。
不思議と晴れやかな顔だった。
「降伏します」
風が吹く。
誰も喋らない。
時雨はしばらく袁紹を見ていた。
そして。
「そうか」
短く答えた。
それだけだった。
勝利宣言もない。
嘲笑もない。
見下しもしない。
ただ一言。
そうか。
その言葉だけだった。
袁紹は少し驚いた顔をする。
「それだけですの?」
「何が」
「もっとこう……あるでしょう」
「別に」
時雨は肩を竦める。
「目的は達成した」
「……」
「だから終わりだ」
袁紹は呆れた。
本当にこの男らしい。
数年がかりの大戦。
数え切れない策。
無数の嫌がらせ。
恋文。
脅迫。
木箱。
その全ての結果が。
「終わりだ」
の一言だった。
「本当に最低ですわね」
「よく言われる」
時雨は笑う。
袁紹も思わず笑ってしまった。
そしてその日。
青州は降伏した。
だが滅びはしなかった。
袁紹軍も解体されなかった。
民も守られた。
名門袁家も存続した。
張燕の策。
それは国を滅ぼすための策ではなかった。
一人の名門を丸ごと手に入れるための策だったのだ。
こうして。
黒山の狼が仕掛けた長い長い罠は完成する。
そして張燕はついに手に入れた。
青州。
袁紹軍の人材。
そして何より。
袁紹という名門のお嬢様その人を。
後に冀州の者たちはこの一件をこう呼ぶことになる。
――張燕最大の悪戯。
と。
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