第七十三話 河北大宴会と名門の真名
河北統一からしばらく。
幽州、并州、冀州、青州。
四州を抱える巨大勢力となった公孫瓚軍は、かつてないほどの安定を迎えていた。
もちろん問題が消えたわけではない。
各地には盗賊がいる。
役人不足も続いている。
治水工事も必要だ。
軍備の再編も終わっていない。
しかし、それでも以前に比べれば遥かに平和だった。
そして何より。
久しぶりに大きな戦がなかった。
そのため鄴では盛大な宴会が開かれることになったのである。
「宴会?」
時雨は酒瓶を片手に首を傾げた。
星が呆れた顔をする。
「お前が言うな」
「何でだ」
「お前が原因だ」
「そうか?」
「そうだ」
即答だった。
今回の宴会は河北統一の祝賀会でもある。
そして公孫瓚の快気祝いでもあった。
過労で倒れた主君が無事回復したことも大きい。
「まあ飯が出るならいい」
「お前らしいな」
星は深々とため息を吐いた。
その頃。
鄴の城下町は祭りのような騒ぎになっていた。
屋台が並ぶ。
酒樽が運ばれる。
各地から芸人や楽団も呼ばれている。
河北全土から集まった人々が笑顔を浮かべていた。
戦乱の世では珍しい光景だった。
夜。
城内の大広間。
無数の灯火が輝いている。
並べられた豪華な料理。
山のような酒。
武将や文官たちの笑い声。
実に賑やかだった。
「乾杯!」
公孫瓚の音頭で宴会が始まる。
大歓声が上がった。
武将たちは酒を飲み始める。
文官たちも久しぶりに肩の力を抜いていた。
恋は大量の肉を食べている。
霞は既に酔い始めている。
星は酒を飲みながら周囲を観察していた。
そして。
時雨はというと。
「うまいな」
開始十分で料理を食べまくっていた。
「少しは主役らしくしろ」
星が呆れる。
「主役は白蓮だろ」
「それもそうだな」
妙に納得してしまった。
一方。
会場の反対側では袁紹が静かに酒を飲んでいた。
以前なら考えられない光景だった。
元々の袁紹なら。
宴会の中心に立ち。
自ら目立とうとしていたはずである。
しかし今は違う。
様々な経験を経て。
敗北も味わい。
青州降伏も経験した。
少しだけ人間として成長していた。
「意外と静かだな」
時雨が隣へ座る。
「何ですの」
「らしくない」
「失礼ですわね」
袁紹は鼻を鳴らした。
だが否定はしない。
「少し考え事ですわ」
「珍しい」
「あなたにだけは言われたくありませんわ」
その返しに時雨は笑った。
袁紹も苦笑する。
以前なら絶対にあり得ない会話だった。
宴会が進む。
酒も回る。
武将たちのテンションも上がる。
そんな時だった。
公孫瓚が立ち上がる。
「静かに!」
会場が少しずつ静かになる。
「今日はもう一つ祝い事がある」
皆が顔を見合わせる。
何だろうか。
すると公孫瓚は袁紹へ視線を向けた。
「袁紹」
「何ですの?」
「お前から話した方がいい」
その言葉に会場がざわつく。
袁紹自身も少し驚いていた。
しかし。
やがて立ち上がる。
全員の視線が集まった。
元四世三公。
名門袁家の当主。
その存在感は今も健在だった。
「皆さん」
袁紹が口を開く。
「わたくしは袁紹です」
当然の言葉。
だが誰も口を挟まない。
「かつて冀州を治め」
「そして敗れ」
「青州へ移り」
「最後には降伏しました」
静かな声だった。
誰も笑わない。
誰も馬鹿にしない。
皆が聞いていた。
「ですが」
袁紹は続ける。
「今のわたくしはこの河北の一員ですわ」
力強い言葉だった。
「だから決めました」
そこで少しだけ息を吸う。
そして。
「わたくしの真名を許します」
一瞬。
会場が静まり返る。
真名。
それは特別な意味を持つ。
本当に信頼した相手にしか許さない。
武将たちの表情も変わった。
「わたくしの真名は――麗羽」
静かな声だった。
しかし会場全体に響いた。
麗羽。
それが袁紹の真名。
長い間隠されていた名前だった。
しばし沈黙。
そして。
大歓声が上がる。
「おおおおおお!!」
「めでたい!」
「乾杯だ!」
宴会はさらに盛り上がった。
その後。
霞が真っ先にやってくる。
「麗羽かぁ」
「何ですの」
「似合っとるな」
「当然ですわ」
胸を張る。
恋も近寄ってくる。
「麗羽」
「何ですの?」
「肉食べる?」
「いりませんわ」
相変わらずだった。
星も杯を持ってやってくる。
「おめでとう」
「ありがとうですわ」
そして最後に。
時雨がやってきた。
「麗羽」
真名を呼ぶ。
袁紹――麗羽は少しだけ目を見開いた。
それから小さく笑う。
「何ですの」
「いや」
時雨は酒を飲む。
「ようやくかと思ってな」
麗羽は少しだけ顔を背けた。
「勘違いしないでほしいですわね」
「してない」
「信頼したからですわ」
「知ってる」
即答だった。
だから困る。
この男は時々妙に鋭い。
宴会は深夜まで続いた。
酒樽が空になる。
歌声が響く。
笑い声が絶えない。
長い戦乱の後に訪れた平和な時間だった。
そしてその中心には。
河北の覇者となった公孫瓚。
黒山の狼と呼ばれる時雨。
星、霞、恋。
そして新たな仲間となった麗羽がいた。
劉備たちはこの場にはいない。
それぞれの道を歩んでいる。
だがかつて共に戦った仲間たちとの思い出は消えない。
彼女たちがいなくとも。
この宴は確かに未来へ続いていた。
こうして河北の夜は更けていく。
誰もが笑い。
誰もが酒を酌み交わし。
束の間の平和を楽しんでいた。
だが天下はまだ乱世の中にある。
河北が一つになった今。
次に動くのは誰なのか。
曹操か。
孫策か。
それとも別の諸侯か。
新たな時代の足音は、確実に近付いていた。
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