第七十四話 徐州の主
河北に平穏が訪れてからしばらくの時が流れていた。幽州、并州、冀州、青州という広大な土地を抱えることになった公孫瓚軍は、戦よりも政務に追われる日々を送っていた。特に鄴は河北全土の中心として大きく発展を始めており、各地から商人や職人、学者までもが集まりつつあった。かつて袁紹が治めていた頃以上の活気を見せ始めた街を見ながら、人々は河北の時代が来たと噂していた。
もっとも、その中心にいる時雨は相変わらずだった。
城壁の上で昼寝をし、仕事を押し付けられれば逃げ回り、捕まれば適当に書類へ判を押す。
そんな姿を見た者は、とても河北最大の功労者とは思わないだろう。
その日も時雨は城壁の上で寝転がっていた。
春の風が心地よい。
青空には雲が流れている。
「平和だな」
ぽつりと呟く。
隣では星が槍を磨いていた。
「お前がそう言うと嫌な予感しかしないな」
「失礼だな」
「事実だ」
即答だった。
時雨は笑う。
最近は大きな戦もない。
袁紹――麗羽もすっかり河北に馴染み、公孫瓚の補佐として大活躍している。
恋は相変わらず食べている。
霞は相変わらず騒がしい。
公孫瓚は相変わらず仕事に追われている。
何も変わらない日常だった。
その時だった。
城門の方から慌ただしい足音が聞こえてくる。
伝令だった。
「頭領!」
「ん?」
「急報です!」
時雨は身体を起こした。
星も表情を引き締める。
「何だ」
「徐州から知らせです!」
徐州。
その名前に時雨は少しだけ興味を示した。
徐州には知り合いがいる。
桃香。
愛紗。
鈴々。
かつて共に戦った義勇軍の三人だった。
「続きを」
「劉備殿が!」
伝令は興奮した様子で叫ぶ。
「陶謙殿より徐州を譲られ、正式に徐州牧となったそうです!」
その場に沈黙が落ちた。
風が吹く。
時雨は数秒ほど空を見上げた。
そして。
「へえ」
とだけ言った。
星は思わず苦笑した。
「驚かないのか?」
「驚いた」
「そうは見えん」
「本当だ」
だが時雨の口元には微かな笑みが浮かんでいた。
桃香がついに一国の主になった。
あの天然でお人好しな少女が。
黄巾の乱の頃を思い出す。
困っている人を放っておけず。
兵士より先に民を心配し。
真っ直ぐに理想を語っていた少女。
その桃香が徐州の主になったのである。
「らしいな」
時雨は小さく呟いた。
星も頷く。
「あの者なら不思議ではない」
「だな」
武勇は飛び抜けていない。
軍略も突出していない。
だが人が集まる。
人の心を掴む。
それこそが桃香の最大の力だった。
しばらくして。
この知らせは城内にも広がった。
公孫瓚も驚いていた。
「桃香が徐州牧か!」
「そうらしいですわ」
麗羽が頷く。
「世の中分かりませんわね」
「本当にな」
公孫瓚は懐かしそうに笑った。
かつて自分の配下だった義勇軍。
その長である桃香が一国の主となった。
感慨深いものがある。
「祝いの品を送るべきだな」
「それが良いでしょう」
麗羽も賛成した。
敵対関係ではない。
むしろ友好的な相手だ。
今後のことを考えても関係は大事だった。
一方。
時雨はというと。
既に別のことを考えていた。
「徐州か」
呟く。
星が聞く。
「何を考えている?」
「いや」
時雨は少しだけ笑う。
「桃香も大変だなと思ってな」
「それはそうだろう」
一国を治める。
言葉にするのは簡単だ。
だが実際は違う。
民を守る責任。
家臣を導く責任。
決断する責任。
全てを背負うことになる。
公孫瓚を見れば分かる。
最近は仕事で倒れた。
麗羽を見ても分かる。
青州を失うまで必死だった。
主とはそういうものだ。
「桃香は悩むだろうな」
時雨は空を見る。
だが。
同時に思う。
きっと乗り越える。
あの少女なら。
愛紗がいる。
鈴々がいる。
支えてくれる仲間もいる。
だから大丈夫だろう。
その日の夜。
時雨は珍しく酒を飲みながら一人で月を眺めていた。
星が隣へ座る。
「祝いの手紙でも書くか?」
「柄じゃない」
「だろうな」
二人は笑った。
夜空には満月が浮かんでいる。
遠く離れた徐州でも同じ月が見えているのだろう。
桃香は今頃何を考えているのか。
一国の主となった喜びか。
それとも重責への不安か。
時雨には分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
乱世はまだ終わらない。
河北には白蓮。
徐州には桃香。
許昌には曹操。
江東には孫策。
それぞれの英雄たちが少しずつ力を蓄えている。
そしていつか再び。
天下を巡る大きなうねりが始まるだろう。
時雨は杯の酒を飲み干した。
「また会うことになるか」
懐かしい仲間たちの顔を思い浮かべながら、黒山の頭領は静かに笑うのだった。
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