第七十五話 旅立ちの狼と無口な少女
徐州の劉備が陶謙から州を譲られたという知らせが届いてから数日が過ぎていた。
鄴の街は今日も賑わっている。
河北四州を束ねる中心都市として発展を続け、人々の表情には以前にはなかった余裕が生まれていた。
戦乱の時代でありながら、この河北だけは奇妙な安定を手に入れている。
白蓮がいる。
麗羽がいる。
星がいる。
霞がいる。
恋がいる。
そして時雨がいる。
それぞれが噛み合った結果として生まれた平和だった。
もっとも、その平和を作った張本人は退屈していた。
「暇だ」
城壁の上で寝転がりながら時雨は呟いた。
隣にいた星は即座に返す。
「仕事をしろ」
「した」
「昨日判を三つ押しただけだろう」
「十分だ」
「十分ではない」
呆れたような声だった。
だが星も理解している。
時雨は元々政治家ではない。
山賊だ。
戦場で生きる男だ。
平和になればなるほど退屈する。
「なあ」
「何だ」
「旅に出ようと思う」
星の手が止まった。
冗談ではない。
長い付き合いだから分かる。
今の声は本気だった。
「どこへ行く」
「徐州」
「劉備か」
「ああ」
時雨は空を見上げた。
桃香が州牧になった。
それが少し気になっていた。
あの理想家がどんな国を作るのか。
純粋な興味だった。
「白蓮は知っているのか」
「まだ」
「怒るぞ」
「だろうな」
時雨は笑った。
そして翌日。
案の定、公孫瓚は怒った。
「駄目だ!」
政庁に怒鳴り声が響く。
「何でだ」
「何でじゃない!」
公孫瓚は机を叩いた。
「お前がいなくなったら困る!」
「別に」
「別にじゃない!」
即答だった。
周囲の文官たちも必死に頷く。
困る。
非常に困る。
張燕は普段こそ働かないが、いざという時には誰よりも頼りになる。
その存在がいなくなるのは不安だった。
しかし。
「河北は安定してる」
時雨は言う。
「白蓮がいる」
公孫瓚を見る。
「麗羽がいる」
袁紹を見る。
「星がいる」
趙雲を見る。
「霞もいる」
張遼を見る。
「俺がいなくても回る」
静かな声だった。
誰も反論できない。
実際その通りだった。
昔とは違う。
今の河北には優秀な人材が揃っている。
公孫瓚は人望がある。
麗羽は政務ができる。
星は軍を率いられる。
霞は騎兵運用に長けている。
十分だった。
「だから少し出かける」
まるで散歩にでも行くような口調だった。
公孫瓚は頭を抱えた。
「戻ってくるんだろうな」
「気が向いたら」
「おい」
「冗談だ」
たぶん。
最後の一言に誰も安心できなかった。
その日の夜。
送別を兼ねた小さな宴が開かれた。
大宴会ではない。
身内だけの席だった。
「旅かぁ」
霞が酒を飲みながら笑う。
「うちも行こうか?」
「来るな」
「何でや!」
「騒がしい」
「ひどっ!」
周囲が笑う。
恋は黙々と肉を食べていた。
そして不意に顔を上げる。
「恋も行く」
静かな声。
しかし迷いはなかった。
時雨は少し驚いた。
「いいのか」
「うん」
恋は頷く。
「一緒に行く」
ただそれだけだった。
理由もない。
理屈もない。
ただ一緒にいたい。
それだけだ。
時雨は少しだけ笑った。
「分かった」
恋の表情が僅かに柔らかくなる。
それを見て霞がニヤニヤする。
「仲ええなぁ」
「うるさい」
「否定せえへんのか」
「面倒」
霞は大笑いした。
一方。
麗羽は酒杯を傾けながら静かに眺めていた。
「旅ですか」
「嫌か」
「別に」
麗羽は肩を竦める。
「あなたはそういう人ですもの」
縛られる男ではない。
昔からそうだった。
黒山の頭領。
自由な狼。
だからこそ多くの人間が惹かれたのだ。
「ただし」
麗羽は少しだけ笑った。
「戻ってきなさい」
「善処する」
「絶対戻ってきなさい」
「分かった」
珍しく素直だった。
翌朝。
鄴の城門前。
見送りの人間が集まっていた。
「大袈裟だな」
時雨は呆れた。
「お前が言うな」
星が言う。
「突然いなくなる方が悪い」
「そうか」
「そうだ」
公孫瓚も腕を組んでいる。
「問題起こすなよ」
「無理かもしれん」
「起こすな!」
即答だった。
周囲から笑いが起きる。
時雨も笑った。
そして恋が馬に乗る。
相変わらず無表情だ。
だがどこか楽しそうだった。
「行くか」
「うん」
二人は馬を進める。
城門を抜ける。
振り返ると見知った顔が並んでいた。
白蓮。
麗羽。
星。
霞。
その他大勢。
いつの間にか大所帯になったものだ。
「時雨!」
公孫瓚が叫ぶ。
「何だ」
「絶対戻ってこい!」
時雨は少しだけ笑った。
「そのうちな」
曖昧な返事だった。
しかし公孫瓚は満足そうだった。
そして二人は旅立つ。
北の河北から南の徐州へ。
広い大地を進んでいく。
春の風が吹く。
草原が揺れる。
恋は静かに隣を進んでいた。
「楽しみ?」
時雨が聞く。
「うん」
短い返事。
「徐州」
「そうか」
「時雨は?」
珍しく恋から質問する。
時雨は少し考えた。
「分からん」
本音だった。
桃香に会うのも久しぶりだ。
愛紗や鈴々もいるだろう。
州牧になった彼女たちは何を考え、どんな道を歩いているのか。
少し興味がある。
それだけだった。
だが。
それだけで旅に出るには十分だった。
元々そういう男なのだから。
こうして。
河北を支える仲間たちへ全てを任せ。
黒山の頭領と天下最強の少女は徐州への旅を始めた。
そしてこの旅が、やがて再び乱世の歯車を大きく動かすことになるとは、まだ誰も知らなかった。
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