第七十八話 江東の小覇王
徐州を出発した劉備軍は南へ進み、曹操軍との合流を果たした。
さらに江東から孫策軍も到着し、三軍は巨大な連合軍となって袁術の本拠地である南陽へ向かった。
かつて名門袁家の一員として栄華を誇った袁術だったが、その強引な拡張政策は周囲の反発を招き、今や多くの諸侯から敵視されていた。
そして今。
南陽城は完全に包囲されていた。
城壁の上には袁術軍の兵士たち。
城外には曹操、劉備、孫策の連合軍。
無数の旗が風にはためいている。
戦は既に始まっていた。
しかし南陽は大城だった。
そう簡単には落ちない。
そのため各軍は包囲陣を敷きながら攻略の機会を窺っていた。
そんな中。
時雨は堂々と劉備軍の陣営にいた。
もっとも本人に戦うつもりはない。
桃香たちの戦なのだから手を貸さない。
そう宣言した通りである。
だから今の立場はただの客人。
見物人。
あるいは暇人だった。
「平和だな」
陣幕の外で寝転がりながら呟く。
目の前には敵城。
どう考えても平和ではない。
「どこがだ」
愛紗が呆れた顔で言う。
「戦場だぞ」
「まだ戦ってない」
「そういう問題ではない」
即答だった。
その隣では朱里が地図を広げて頭を悩ませている。
「はわわ……」
癖が出ていた。
「補給線は問題ありませんが、正面攻撃では被害が大きすぎます……」
「なら考えろ」
「考えてます!」
涙目で反論する。
だが朱里の顔には疲労が見えていた。
軍師として毎日忙しいのだろう。
時雨は少し笑った。
するとその時。
陣営の外が騒がしくなった。
兵士たちの声。
歓声。
笑い声。
どこか明るい空気が流れている。
「何だ?」
愛紗が外を見る。
兵士が慌ててやって来た。
「孫策軍です!」
「ああ」
愛紗は納得した。
どうやら総大将自ら視察に来たらしい。
そしてしばらくすると。
その人物は現れた。
鮮やかな桃色の長髪。
自信に満ちた笑顔。
健康的な美貌。
そして豪快な雰囲気。
江東の小覇王。
孫策だった。
「おー!」
大きな声が響く。
「劉備!」
「孫策さん!」
桃香も笑顔で迎える。
どうやら以前から面識があるらしい。
二人は楽しそうに話し始めた。
しかし。
孫策の視線が不意に止まった。
「あれ?」
誰かを見つけたような顔だった。
「ん?」
時雨も視線を向ける。
そして。
二人の目が合った。
数秒。
沈黙。
孫策は首を傾げる。
時雨も首を傾げる。
先に口を開いたのは孫策だった。
「あんた」
「何だ」
「見覚えあるわね」
「そうか」
「そうかじゃないわよ」
孫策は近付いてくる。
じっと顔を見る。
「どこかで会った?」
「反董卓連合」
「あー!」
大声だった。
周囲が驚く。
「黒山賊!」
「覚え方が酷いな」
「だって黒山賊じゃない」
間違ってはいない。
時雨は苦笑した。
反董卓連合の頃。
孫策はまだ若かった。
今ほど勢力も大きくなかった。
だがその頃から目立っていた。
豪快で。
真っ直ぐで。
よく笑う。
そんな女だった。
「久しぶりね!」
「そうだな」
「生きてたのね!」
「失礼だな」
「だって噂が酷いんだもの」
孫策は笑った。
「河北で好き放題やってるって聞いたわ」
「大体合ってる」
「否定しないのね」
「事実だしな」
孫策は大笑いした。
その様子を見ながら桃香たちは少し驚いていた。
時雨が初対面の相手とこんなに普通に話すのは珍しい。
だが孫策の性格は特殊だった。
遠慮がない。
壁を作らない。
だから自然と会話になる。
「ところで」
孫策は腕を組んだ。
「何でいるの?」
「旅」
「戦場に?」
「たまたま」
「嘘ね」
即答だった。
時雨は肩を竦める。
孫策は笑う。
その豪快な笑顔は亡き孫堅によく似ていた。
「まあいいわ」
そう言って隣へ座る。
まるで旧友のような距離感だった。
「聞いたわよ」
「何を」
「河北の覇者」
時雨は顔をしかめる。
「俺じゃない」
「公孫瓚だ」
「でも裏で動いてたのはあんたでしょ」
図星だった。
愛紗が吹き出しそうになる。
朱里は驚いている。
孫策は楽しそうだった。
「相変わらず面白い男ね」
「褒めてるのか」
「もちろん」
そう言って笑う。
その後も会話は続いた。
江東の話。
河北の話。
徐州の話。
孫策は実に話しやすい相手だった。
そして時雨も気付く。
この女は強い。
武勇だけではない。
人を惹きつける力がある。
孫堅亡き後、江東をまとめ上げた理由が分かる気がした。
やがて話題は今回の戦へ移る。
「南陽は面倒ね」
孫策が城を見上げる。
「ああ」
「落とせると思う?」
「落ちるだろ」
時雨は即答した。
「曹操がいる」
「確かに」
「朱里もいる」
「はわっ!?」
突然名前を呼ばれて驚く。
「わ、私ですか!?」
「いるだろ」
「いますけど!」
孫策は笑った。
「面白い軍師ね」
朱里は真っ赤になる。
「はわわわ!」
周囲から笑い声が上がった。
緊張していた空気が少し和らぐ。
しかし。
戦は近い。
誰もがそれを理解していた。
南陽城は巨大だ。
袁術も簡単には降伏しない。
これから本格的な攻略戦が始まるだろう。
そして。
夕暮れ時。
時雨は陣営の外から城を見上げていた。
その隣に孫策がやって来る。
「考え事?」
「別に」
「嘘」
「何でだ」
「顔」
孫策は笑う。
「戦の前の顔してる」
時雨は黙る。
確かに。
今回は手を貸さないつもりだった。
桃香たち自身の戦だから。
だが戦場にいる以上、何も考えないわけではない。
そんな時。
孫策は空を見上げながら言った。
「また一緒に戦う日が来るかもね」
「どうだろうな」
「来るわよ」
妙に自信満々だった。
時雨は少しだけ笑う。
乱世は続く。
曹操。
劉備。
孫策。
そして河北。
英雄たちはそれぞれの道を歩いている。
今はまだ同じ陣営でも、未来は誰にも分からない。
南陽城の向こうに沈む夕日を見ながら、時雨は静かに目を細めた。
新たな戦いの幕は、まさに上がろうとしていた。
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