【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第八話 常山の雨、常山の星

第八話 常山の雨、常山の星

 

 

 

 雨だった。

 

 黒山を包む空は重く、灰色の雲が低く垂れ込めている。

 

 激しい雨ではない。

 

 静かに降り続く、冷たい雨。

 

 まるで乱世そのもののような空だった。

 

 黒山党の連中も今日は大人しい。

 

 湿った空気のせいか、いつもの喧騒も少ない。

 

 焚火の周りで酒を飲む者。

 

 武器を磨く者。

 

 眠る者。

 

 戦の合間の、束の間の静寂だった。

 

 趙雲は砦の端に立ち、雨を眺めていた。

 

 水色の髪がしっとり濡れている。

 

 風が吹くたび、細い肩が揺れた。

 

「黄巾党の動き、少し鈍ったな……」

 

 最近は各地で官軍との衝突が増えている。

 

 そのせいで黒山周辺まで手が回らないのだろう。

 

 だが。

 

 それで終わる乱ではない。

 

 むしろここからさらに激しくなる。

 

 趙雲はそれを肌で感じていた。

 

「黄巾が潰れても、終わらんだろうな」

 

 不意に後ろから声が飛ぶ。

 

 振り返れば、時雨がいた。

 

 黒い外套を羽織り、酒瓶を片手にしている。

 

「こんな所にいたのか姉ちゃん」

 

「……姉ちゃんはやめろ」

 

「じゃあ何て呼ぶ」

 

「……」

 

 趙雲は言葉に詰まる。

 

 そういえば、まだ名乗っていない。

 

 時雨はニヤリと笑った。

 

「まだ秘密?」

 

「真名は軽々しく許すものではない」

 

「知ってる」

 

 彼は隣へ腰を下ろした。

 

「でもアンタ、名前すら言わねぇじゃん」

 

「……」

 

「不便なんだよなぁ。毎回“姉ちゃん”って呼ぶの」

 

「なら勝手に呼ぶな」

 

「えー」

 

 時雨はつまらなそうに酒を飲む。

 

 雨音だけが響いた。

 

 妙に静かな時間だった。

 

 趙雲はふと横を見る。

 

 この男と、こんな風に並んで雨を見る日が来るとは思わなかった。

 

 最初は警戒しかしていなかったはずなのに。

 

「何見てんの?」

 

「別に」

 

「嘘くせぇ」

 

 時雨は笑う。

 

「俺に惚れた?」

 

「斬るぞ」

 

「怖っ」

 

 だが趙雲は気付いていた。

 

 この軽口も、以前ほど不快ではない。

 

 むしろ。

 

 妙に心地よかった。

 

「……お前」

 

「あ?」

 

「常山の訛りが混じるな」

 

 その瞬間。

 

 時雨の目がわずかに細くなる。

 

「……耳いいな」

 

「旅が長いからな。地方の言葉は覚える」

 

 趙雲は少し目を細めた。

 

「お前、常山出身か?」

 

 数秒。

 

 時雨は黙っていた。

 

 そして。

 

「……まぁな」

 

 短く答える。

 

 趙雲は目を見開いた。

 

「本当か!?」

 

「何だよ急に食い付くな」

 

「私もだ」

 

「あ?」

 

「私も常山の生まれだ」

 

 一瞬。

 

 時雨が珍しく驚いた顔をした。

 

「マジで?」

 

「ああ」

 

 雨音が二人を包む。

 

 そして。

 

「……ハッ」

 

 時雨が吹き出した。

 

「世間狭ぇなぁ」

 

「まったくだ」

 

 趙雲も少し笑う。

 

 同郷。

 

 それだけで、妙に距離が縮まった気がした。

 

「どの辺だよ」

 

「真定の近くだ」

 

「……あー」

 

 時雨が遠い目をする。

 

「川あるだろ」

 

「あるな」

 

「ガキの頃、よく魚獲ってた」

 

 趙雲は思わず目を瞬かせた。

 

「お前が?」

 

「何だその目」

 

「いや……」

 

 黒山の狼。

 

 血塗れの悪党。

 

 そんな男にも、子供時代があったのかと思うと妙な気分だった。

 

「アンタは?」

 

「私は槍術ばかりしていたな」

 

「真面目か」

 

「うるさい」

 

 だが、趙雲の口元は少し緩んでいた。

 

「しかし驚いた」

 

「何が」

 

「お前みたいな男が常山にいたとはな」

 

「失礼だな」

 

「事実だろう」

 

 趙雲は肩を竦める。

 

「もっとこう……悪ガキだったのか?」

 

「まぁ悪かったな」

 

「やはり」

 

「喧嘩ばっかしてた」

 

「想像通りだ」

 

「アンタは?」

 

「……」

 

 趙雲は少し考える。

 

 そして。

 

「槍術道場の師範代によく怒られていた」

 

「へぇ」

 

「“女らしくしろ”と」

 

 時雨は数秒黙った後。

 

 吹き出した。

 

「ククッ……!」

 

「何がおかしい!」

 

「いや、似合わねぇなと思って」

 

「貴様……!」

 

「アンタ昔からそんな格好だったの?」

 

 時雨が胸元を指差す。

 

 趙雲はハッとして服を押さえた。

 

「なっ……!?」

 

「チラチラ見えるんだけど」

 

「み、見るな!」

 

「勝手に入ってくるんだよ視界に!」

 

 趙雲の顔が真っ赤になる。

 

 時雨は腹を抱えて笑っていた。

 

「やっぱアンタ面白ぇなぁ」

 

「うぅ……」

 

 趙雲は羞恥で耳まで赤く染める。

 

 だが。

 

 時雨はふと笑みを弱めた。

 

「……常山か」

 

 その声は、少しだけ静かだった。

 

「懐かしいな」

 

 趙雲は横顔を見る。

 

 赤い目が遠くを見ていた。

 

「帰りたいか?」

 

「別に」

 

 即答。

 

 だが。

 

「もう無ぇだろ、昔のままじゃ」

 

 その言葉に、趙雲は何も言えなかった。

 

 乱世は全てを変える。

 

 村も、人も、景色も。

 

 帰る場所など、もう残っていないのかもしれない。

 

「……なぁ」

 

 時雨がぽつりと呟く。

 

「アンタさ」

 

「何だ」

 

「名前くらい教えろよ」

 

 趙雲は黙る。

 

 真名。

 

 それは特別なものだ。

 

 信頼の証。

 

 軽々しく許していいものではない。

 

 だが。

 

 彼女はもう知っていた。

 

 この男が、自分の真名を軽く扱わないことを。

 

「……星」

 

「あ?」

 

「私の真名だ」

 

 雨音が響く。

 

 時雨が目を瞬かせた。

 

「……へぇ」

 

 そして。

 

 少しだけ笑う。

 

「綺麗な名前じゃん」

 

 趙雲――星は、何故か少し照れ臭くなった。

 

「笑うな」

 

「笑ってねぇよ」

 

「笑っている」

 

「気のせい」

 

 時雨は酒を飲む。

 

 だがその横顔は、どこか柔らかかった。

 

 星は小さく息を吐く。

 

「お前はどうなんだ」

 

「あ?」

 

「こちらだけ教えるのは不公平だろう」

 

 時雨は少し黙った。

 

 赤い目が雨空を見る。

 

 そして。

 

「……時雨」

 

「?」

 

「俺の真名」

 

 星の目がわずかに開かれる。

 

 黒山の狼。

 

 張燕。

 

 その男が、自分へ真名を許した。

 

「……いいのか」

 

「アンタになら別に」

 

 軽い口調。

 

 だが、それがどれほど重い意味を持つか、星には分かっていた。

 

 時雨は笑う。

 

「よろしくな、星」

 

 その声に。

 

 星の胸が、少しだけ高鳴った。

 

「……ああ」

 

 雨はまだ降っている。

 

 冷たいはずなのに。

 

 不思議と今夜は、寒くなかった。




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