【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第八十二話 迫られる決断

第八十二話 迫られる決断

 

 

 南陽の戦いからしばらくが過ぎた。

 

 徐州には平穏な日々が戻りつつあった。

 

 戦による被害も少なく、民たちも安堵している。

 

 桃香は州牧としての仕事に追われながらも、徐州の復興に力を注いでいた。

 

 愛紗は軍の再編。

 

 鈴々は兵の訓練。

 

 朱里は政務と軍務の補佐。

 

 皆が忙しく働いていた。

 

 そして城の一角には、二人の厄介な居候がいた。

 

 袁術と張勲である。

 

 もちろん自由の身ではない。

 

 だが牢に入れられているわけでもなかった。

 

 客人とも捕虜とも言えない微妙な立場だった。

 

 そのため城の者たちも扱いに困っていた。

 

「おかわりなのじゃ!」

 

 美羽が元気よく言う。

 

 食堂の兵士たちが呆れた顔をする。

 

「さっき三杯食べただろ」

 

「余は皇帝なのじゃ!」

 

「違うだろ」

 

「むぅ!」

 

 そんなやり取りが日常になりつつあった。

 

 七乃は隣で申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「すみません……」

 

 だがその顔色は以前より良かった。

 

 少なくとも命の危険はなくなったからだ。

 

 その日も徐州城は平和だった。

 

 少なくとも昼までは。

 

 異変は一人の使者によってもたらされた。

 

 城門が騒がしくなる。

 

 兵士たちが慌ただしく動き始める。

 

 そして愛紗が急ぎ足で執務室へ入ってきた。

 

「桃香様」

 

 その表情は険しかった。

 

「どうしたの?」

 

「曹操軍の使者が到着しました」

 

 その言葉に空気が変わる。

 

 桃香も表情を引き締めた。

 

 愛紗がここまで警戒するのだ。

 

 ただの挨拶ではない。

 

「通して」

 

「はっ」

 

 しばらくして使者が現れた。

 

 曹操軍の軍服を身に纏った男だった。

 

 彼は恭しく一礼すると書簡を差し出した。

 

「曹操様からです」

 

 桃香は受け取る。

 

 封を切る。

 

 そして。

 

 読み進めるうちに顔色が変わった。

 

「桃香様?」

 

 愛紗が心配そうに尋ねる。

 

 桃香は何も言わず書簡を渡した。

 

 愛紗が目を通す。

 

 次の瞬間。

 

 彼女の眉が険しくなった。

 

「これは……」

 

 朱里も覗き込む。

 

 そして息を呑んだ。

 

 そこに書かれていた内容は極めて単純だった。

 

 袁術と張勲を引き渡せ。

 

 期限は十日。

 

 応じない場合。

 

 徐州を敵と見なす。

 

 つまり。

 

 戦争だった。

 

 執務室が静まり返る。

 

 誰もすぐには口を開けなかった。

 

 桃香は書簡を見つめたまま呟く。

 

「そんな……」

 

 悲しそうな声だった。

 

 使者は淡々と続ける。

 

「曹操様は袁術を漢王朝への反逆者と判断されています」

 

「当然でしょう」

 

 愛紗が低く言う。

 

 それは事実だった。

 

 皇帝を名乗った。

 

 玉璽を利用した。

 

 反逆者と呼ばれても仕方がない。

 

「ならば」

 

 使者が続ける。

 

「引き渡しをお願いします」

 

 桃香は俯いた。

 

 答えられない。

 

 その日の夕方。

 

 徐州の重臣たちが集められた。

 

 議題は当然一つ。

 

 袁術と張勲の処遇だった。

 

「引き渡すべきです」

 

 真っ先に言ったのは愛紗だった。

 

 厳しい表情を崩さない。

 

「曹操軍と戦う理由はありません」

 

 誰も反論できない。

 

 曹操は強大だ。

 

 今の徐州が正面から戦って勝てる相手ではない。

 

 朱里も苦しそうな顔をしていた。

 

「軍師として言うなら……」

 

 小さな声で言う。

 

「愛紗さんの意見が正しいです」

 

 現実的な判断だった。

 

 感情を抜きにすればそれしかない。

 

 徐州の民を守る。

 

 そのためには戦争を避けるべきだ。

 

 だが。

 

 桃香は黙っていた。

 

 何も言わない。

 

 いや。

 

 言えなかった。

 

 その時だった。

 

 扉が開く。

 

 現れたのは七乃だった。

 

 その後ろには美羽もいる。

 

 二人とも顔色が悪い。

 

 話を聞いたのだろう。

 

 七乃は広間へ入るなり土下座した。

 

「お願いします!」

 

 額を床へ擦り付ける。

 

「美羽様だけは!」

 

 声が震えている。

 

「どうか見捨てないでください!」

 

 誰も言葉を返せない。

 

 桃香は苦しそうだった。

 

 七乃は涙を流しながら続ける。

 

「私なら構いません!」

 

「私を引き渡してください!」

 

「でも美羽様だけは……」

 

 その姿は痛々しかった。

 

 主君を守るためなら何でもする。

 

 それほどの忠誠だった。

 

 すると。

 

 美羽が前へ出た。

 

「やめるのじゃ」

 

 珍しく静かな声だった。

 

 七乃が振り返る。

 

「美羽様……」

 

「余は馬鹿ではないのじゃ」

 

 そう言った。

 

 いつもの尊大な態度ではない。

 

 どこか寂しそうだった。

 

「余のせいなのじゃろう?」

 

 広間が静まる。

 

「余が皇帝なんか名乗ったから」

 

 誰も答えない。

 

「余が悪かったのじゃ」

 

 美羽は唇を噛んだ。

 

 悔しそうだった。

 

 悲しそうだった。

 

「だから七乃は悪くないのじゃ」

 

 七乃の目から涙が溢れる。

 

 そんな二人を見ながら。

 

 桃香はますます苦しそうな顔になる。

 

 見捨てられない。

 

 だが守れば戦争になる。

 

 州牧として。

 

 主君として。

 

 選ばなければならない。

 

 会議は結論が出ないまま終わった。

 

 夜。

 

 城壁の上。

 

 桃香は一人で空を見ていた。

 

 風が吹く。

 

 静かな夜だった。

 

「悩んでるな」

 

 背後から声がする。

 

 振り返るまでもない。

 

 時雨だった。

 

「うん……」

 

 桃香は弱々しく笑った。

 

「どうしたらいいかな」

 

「知らん」

 

 即答だった。

 

 桃香が頬を膨らませる。

 

「もう」

 

「本当だ」

 

 時雨は城壁に寄りかかった。

 

「俺はお前じゃない」

 

 静かな声だった。

 

「だから決めるのはお前だ」

 

 桃香は黙る。

 

 それは正しい。

 

 州牧は自分だ。

 

 誰かが代わりに決めてくれるわけではない。

 

「でも」

 

「何だ」

 

「みんな守りたい」

 

 桃香は小さく言う。

 

「徐州のみんなも」

 

「袁術ちゃんも」

 

「張勲さんも」

 

 時雨は空を見上げた。

 

 そして少し笑う。

 

「欲張りだな」

 

「そうかな」

 

「そうだ」

 

 乱世だ。

 

 全員を救うことなどできない。

 

 普通なら。

 

 だが。

 

 桃香はそういう女だった。

 

 無理だと言われても諦めない。

 

 だからこそ多くの者がついていく。

 

「なら足掻け」

 

 時雨は言った。

 

「最後までな」

 

 桃香は目を見開く。

 

「時雨さん」

 

「どうせお前は諦めないんだろ」

 

 桃香は少しだけ笑った。

 

 その通りだった。

 

 簡単に見捨てられるなら、こんなに悩んでいない。

 

 遠くで夜風が吹く。

 

 そして徐州に迫る戦雲は確実に近付いていた。

 

 曹操の最後通告。

 

 十日の期限。

 

 引き渡すのか。

 

 守るのか。

 

 劉備桃香は人生最大の決断を迫られていた。




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