第八十四話 託された未来
曹操軍による徐州侵攻は、劉備軍が想像していた以上に苛烈なものだった。
開戦からわずか数日。
各地の防衛線は次々と突破されていく。
徐州軍の兵たちは決して弱くない。
愛紗を筆頭に武勇に優れた将もいる。
鈴々の猛攻は敵を震え上がらせた。
朱里も必死に策を巡らせていた。
それでも。
相手が悪かった。
曹操軍は圧倒的だった。
数。
質。
統率。
補給。
その全てが徐州軍を上回っていた。
特に曹操軍の軍師たちが厄介だった。
徐州軍が布陣を変えれば、その裏をかく。
補給路を守れば別の道を突く。
城に籠れば周辺を制圧する。
まるで手のひらの上で踊らされているようだった。
敗報は毎日のように届く。
前線陥落。
砦陥落。
城塞陥落。
徐州軍は後退を続けていた。
そしてついに。
下邳近郊。
徐州軍主力と曹操軍主力による決戦が行われた。
その戦いは。
惨敗だった。
戦場を埋め尽くす曹操軍。
翻る旗。
響き渡る鬨の声。
愛紗は血に染まりながら戦った。
鈴々も何度も敵陣へ突撃した。
兵士たちも最後まで踏みとどまった。
しかし。
押し返せない。
押し返せなかった。
徐州軍は崩れた。
完全に。
徹底的に。
朱里の退却命令によって全滅だけは避けられたが、それは敗北を意味していた。
夕暮れ。
敗残兵たちが城へ戻る。
誰も口を開かない。
疲労。
絶望。
喪失感。
重苦しい空気が漂っていた。
愛紗の鎧は傷だらけだった。
鈴々も珍しく黙り込んでいる。
朱里は地図を前に座り込んでいた。
「はわわ……」
小さく呟く。
だがその言葉に続きはない。
何も思いつかないのだ。
戦力差が大きすぎる。
どれだけ策を巡らせても埋められない差が存在していた。
桃香も理解していた。
もう勝てない。
徐州は守れない。
それが現実だった。
夜。
軍議が開かれる。
集まった者たちの顔には疲労が色濃く浮かんでいた。
誰もが分かっている。
敗北したのだと。
愛紗が口を開く。
「桃香様」
その声は重かった。
「このままでは下邳も落ちます」
誰も反論しない。
事実だからだ。
「兵力差が大きすぎます」
朱里も静かに頷く。
「次の決戦は不可能です」
鈴々は拳を握る。
「でも逃げるのか?」
悔しそうだった。
だが。
桃香は責めなかった。
自分も同じ気持ちだからだ。
徐州は自分たちの国だ。
民がいる。
仲間がいる。
捨てたくない。
それでも。
守れないものは守れない。
その時だった。
「なら捨てろ」
声が響く。
時雨だった。
全員が彼を見る。
時雨は相変わらず気怠そうな顔をしている。
「時雨さん……」
桃香が呟く。
「国はまた作れる」
時雨は言った。
「だが人は死んだら終わりだ」
静かな声だった。
「今のお前らに必要なのは意地じゃない」
「生き残ることだ」
愛紗は黙る。
反論できなかった。
武人としては悔しい。
だが将としては理解できる。
全滅する意味はない。
「逃げろ」
時雨は続ける。
「そしてやり直せ」
その言葉に桃香は目を閉じた。
長い沈黙。
やがて。
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には涙が浮かんでいた。
「みんな」
小さな声だった。
「徐州を出よう」
誰も驚かなかった。
既に覚悟していたからだ。
「荊州へ向かう」
桃香は続ける。
「そこでまたやり直そう」
愛紗が頭を下げる。
「承知しました」
鈴々も頷く。
「鈴々もついていくのだ」
朱里も涙を拭う。
「はわわ……頑張ります」
こうして。
劉備軍は徐州放棄を決断した。
州牧としては敗北。
だが勢力としては生存。
それが唯一の道だった。
しかし。
問題が残っていた。
袁術と張勲である。
会議の終盤。
二人も呼ばれた。
美羽はすっかり元気を失っていた。
七乃も顔色が悪い。
戦の原因が自分たちだと理解しているからだ。
「ごめんなさいなのじゃ……」
美羽が呟く。
桃香は首を振った。
「違うよ」
優しく答える。
だが。
どうするべきかは別問題だった。
劉備軍と共に逃げるか。
置いていくか。
判断が必要だった。
すると。
時雨が口を開いた。
「河北へ送れ」
全員が振り返る。
「河北?」
朱里が首を傾げる。
「ああ」
時雨は頷く。
「俺が連れていく」
愛紗が目を細めた。
「張燕殿」
「何だ」
「本気ですか」
「本気だ」
時雨は笑う。
「どうせ河北は人材不足だ」
その言葉に皆が苦笑した。
確かにそうだった。
公孫瓚の勢力は大きくなったが、統治する土地も広い。
優秀な人材はいくらいても足りない。
「袁術」
時雨が呼ぶ。
「な、何なのじゃ」
「河北へ来るか?」
美羽は目を丸くする。
「余を?」
「ああ」
「何でなのじゃ」
「面白そうだから」
いつもの理由だった。
だが。
それは時雨なりの救いだった。
七乃は深く頭を下げる。
「ありがとうございます……」
声が震えていた。
命だけではない。
未来まで与えられたのだ。
美羽も涙ぐんでいる。
「うぅ……」
だが。
それ以上言葉が出てこない。
その夜。
出発準備が始まった。
城内は慌ただしい。
兵士たちが荷をまとめる。
民たちを避難させる。
重要書類を運び出す。
徐州放棄。
その事実が徐々に広がっていった。
そして深夜。
城壁の上で桃香は夜空を見上げていた。
徐州の街並みが見える。
自分が守ろうとした場所。
自分が治めた土地。
失うことになる故郷。
「悔しい?」
隣に時雨が立つ。
「うん」
桃香は素直に答えた。
「すごく」
涙が零れる。
「でも」
少しだけ笑った。
「まだ終わりじゃないよね」
「ああ」
時雨は頷く。
「終わりじゃない」
劉備軍は敗北した。
徐州も失う。
だが。
桃香も。
愛紗も。
鈴々も。
朱里も。
生きている。
ならばやり直せる。
何度でも。
夜明け前。
劉備軍は静かに徐州を去った。
目指すは荊州。
新たな居場所。
新たな未来。
一方。
時雨は恋と共に残る。
そして美羽と七乃を連れて河北へ向かう。
乱世は続く。
徐州の敗北は終わりではない。
それは新たな時代の始まりに過ぎなかった。
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