第八十六話 麗羽姉様の教育
鄴の城に袁術と張勲が到着してから数日が過ぎた。
徐州からの長旅で疲れていた二人だったが、ようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
特に美羽――かつて皇帝を名乗った袁術は、久しぶりに安心できる環境を手に入れたことで少しずつ元気を取り戻していた。
もっとも、その安心の理由は城の豪華さでも食事でもない。
麗羽の存在だった。
同じ袁家の血を引く者。
かつては張り合い、競い合った相手。
だが今では頼れる姉のような存在になっていた。
そしてその日。
大広間には公孫瓚をはじめ、趙雲、張遼、呂布、張燕らが集まっていた。
麗羽も当然いる。
美羽と七乃も呼ばれていた。
「今日は何なのじゃ?」
美羽が首を傾げる。
すると麗羽が扇子を広げた。
「まずは正式な紹介ですわ」
「紹介?」
「あなた方はこれから河北で暮らすのです」
麗羽は優雅に言った。
「ならば筋を通すべきでしょう」
その言葉に美羽は頷く。
確かにそうだった。
ここにいる者たちは命の恩人であり、これから世話になる仲間でもある。
今までのように隠しておく必要もない。
麗羽が促した。
「まずはあなたからですわ」
美羽は立ち上がった。
少し緊張している。
そして皆を見回した。
「余は袁術」
一度深呼吸する。
それから少しだけ照れくさそうに言った。
「真名は……美羽なのじゃ」
広間に静かな空気が流れる。
真名は特別なものだ。
信頼した者にしか許さない。
だからこそ重い。
公孫瓚は微笑んだ。
「よろしく頼む」
趙雲も笑う。
「良い名だ」
張遼は腕を組みながら頷いた。
「これで仲間やな」
恋も小さく頷く。
「美羽」
短い一言だった。
だがそれだけで十分だった。
美羽は少し嬉しそうに胸を張った。
続いて七乃が前へ出る。
青髪の少女は緊張しているようだった。
「張勲です」
丁寧に頭を下げる。
「真名は七乃と申します」
その声は落ち着いていた。
公孫瓚も頷く。
「よろしく頼む、七乃」
「こちらこそよろしくお願いします」
こうして二人は正式に仲間として迎え入れられた。
だが。
本当の問題はここからだった。
数日後。
麗羽の執務室。
「何故ですの!?」
大きな声が響く。
机を叩いているのは当然麗羽だった。
その向かいでは美羽が小さくなっている。
「うぅ……」
「何ですのこの数字は!」
「し、知らぬのじゃ……」
「知らないでは済みませんわ!」
麗羽が怒鳴る。
美羽は肩を震わせた。
原因は簡単だった。
帳簿である。
麗羽は公孫瓚を支える立場となってから政務を担当することも多かった。
そして最近では美羽にも仕事を覚えさせようとしている。
だが。
結果は悲惨だった。
「税収も計算できませんの!?」
「むぅ……」
「支出も把握していませんの!?」
「むぅぅ……」
「兵糧の管理は!?」
「七乃に任せておった!」
堂々と言い切った。
麗羽は頭を抱えた。
「あなたは何をしていましたの」
「皇帝してたのじゃ!」
沈黙。
そして。
麗羽は机に額をぶつけた。
「頭が痛いですわ……」
一方その頃。
隣室では。
七乃が公孫瓚や趙雲たちと話していた。
「なるほど」
公孫瓚が感心する。
「それは良い案だ」
「ありがとうございます」
七乃は頭を下げた。
話していたのは青州の治安維持についてだった。
敗残兵への対応。
豪族への懐柔策。
兵站の整備。
七乃は次々と案を出していく。
しかも実用的だった。
趙雲も感心している。
「見事だな」
「いえ」
七乃は謙遜した。
「私は補佐しかできません」
「十分すぎる」
公孫瓚は即答した。
人材不足の河北にとって、七乃の存在は大きかった。
元々張勲は袁術軍の中枢を支えていた人物だ。
主君が暴走しても組織が維持されていたのは七乃のおかげと言っても過言ではない。
その才能は本物だった。
そして。
その評価はすぐに時雨の耳にも届く。
「七乃は当たりだな」
時雨が笑う。
張遼も頷いた。
「せやな」
「美羽は?」
「外れや」
即答だった。
時雨は吹き出した。
恋も珍しく頷いている。
「うむ」
全員一致だった。
その日の夕方。
執務室から解放された美羽は廊下をふらふら歩いていた。
「疲れたのじゃ……」
完全に魂が抜けている。
そこへ七乃がやって来た。
「お疲れ様です」
「七乃ぉ……」
美羽は泣きついた。
「助けるのじゃ」
「何がですか」
「麗羽姉様が怖いのじゃ!」
七乃は苦笑した。
だが少し意外だった。
「姉様?」
「む?」
「今、姉様と」
美羽はきょとんとする。
そして照れくさそうに言った。
「麗羽姉様なのじゃ」
七乃は思わず笑った。
昔なら考えられない。
袁術は袁紹に対抗意識を燃やしていた。
だが今は違う。
敗北したからこそ。
全てを失ったからこそ。
ようやく見えるものもあった。
麗羽は口うるさい。
厳しい。
容赦なく叱る。
だが決して見捨てない。
だから美羽も自然と頼るようになっていた。
その時。
背後から声が響いた。
「美羽」
振り返る。
麗羽だった。
美羽の顔が青くなる。
「ひっ」
「まだ終わっていませんわ」
「えっ」
「続きです」
「えええぇぇぇ!?」
絶叫が城内に響いた。
麗羽は容赦なく美羽の首根っこを掴む。
「離すのじゃー!」
「逃がしませんわ」
「七乃助けるのじゃ!」
七乃は笑顔で頭を下げた。
「頑張ってください」
「裏切り者なのじゃー!」
そのまま引きずられていく。
廊下の向こうへ。
悲鳴が遠ざかっていく。
それを見ていた時雨は笑った。
「元気になったな」
張遼も頷く。
「せやな」
敗北して。
全てを失った少女。
だが今は違う。
仲間がいる。
居場所がある。
叱ってくれる姉もいる。
河北の空は穏やかだった。
そして新たに加わった袁術と張勲もまた、この地で少しずつ自分たちの居場所を見つけ始めていたのである。
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