【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第八十七話 黒山へ続く道

第八十七話 黒山へ続く道

 

 

 鄴の街は今日も賑わっていた。

 

 河北四州を支配する巨大勢力の中心として、多くの人々が行き交っている。

 

 公孫瓚は政務に追われている。

 

 麗羽はその補佐。

 

 七乃も働き始めていた。

 

 張遼や呂布もそれぞれの役割を持ち、黒山出身の者たちも少しずつ新しい生活に馴染み始めている。

 

 そんなある日。

 

 時雨は城壁の上から遠くの山々を眺めていた。

 

 まだ春の名残が残る風が吹いている。

 

 遠くに見える山並み。

 

 その向こうにある場所を思い出していた。

 

 黒山。

 

 かつての根城。

 

 全ての始まりの場所。

 

「珍しいな」

 

 背後から声がした。

 

 振り返ると、そこには水色の髪を揺らす趙雲がいた。

 

 相変わらず整った顔立ちで、どこか楽しそうな笑みを浮かべている。

 

「何がだ」

 

「お前が物思いに耽っている」

 

 趙雲は隣へ並んだ。

 

 時雨は鼻で笑う。

 

「別に」

 

「嘘だな」

 

 即答だった。

 

 時雨も否定しない。

 

 長い付き合いだ。

 

 誤魔化せる相手ではない。

 

「黒山か」

 

 趙雲が遠くを見る。

 

「帰りたいのか?」

 

「少しな」

 

 短い返事だった。

 

 趙雲は意外そうな顔をした。

 

 時雨は昔を懐かしむような男ではない。

 

 過去より未来を見る。

 

 そんな人間だった。

 

 だからこそ珍しかった。

 

「なら行くか」

 

「は?」

 

「黒山だ」

 

 時雨は立ち上がる。

 

「久しぶりに見てくる」

 

 趙雲は少し驚いたが、すぐに笑った。

 

「面白そうだ」

 

 そうして二人は旅支度を整えた。

 

 護衛もほとんど連れない。

 

 大軍も連れていかない。

 

 馬を二頭だけ。

 

 気楽な旅だった。

 

 そして数日後。

 

 二人は久しぶりに黒山へと足を踏み入れた。

 

 険しい山道。

 

 深い森。

 

 昔と何も変わっていない。

 

 ただ違うのは人の数だった。

 

 かつて何万もの黒山賊が暮らした山々。

 

 だが今では多くが河北へ移住している。

 

 残っている者は少ない。

 

「静かだな」

 

 趙雲が呟く。

 

「そうだな」

 

 時雨も頷く。

 

 昔なら至る所に見張りがいた。

 

 山道には罠。

 

 森には伏兵。

 

 まさに天然の要塞だった。

 

 だが今は違う。

 

 時代が変わったのだ。

 

 二人はゆっくりと山道を進む。

 

 やがて見覚えのある崖へ辿り着いた。

 

 そこから見える景色。

 

 時雨は馬を止めた。

 

 しばらく黙ったまま眺めている。

 

 趙雲は何も言わなかった。

 

 ただ隣に立つ。

 

 やがて。

 

 時雨が小さく笑った。

 

「懐かしいな」

 

「珍しいな」

 

「何がだ」

 

「お前が懐かしむなど」

 

 時雨は空を見上げた。

 

 青空が広がっている。

 

「俺も歳を取ったんだろ」

 

「まだ若いだろう」

 

「そうか?」

 

「そうだ」

 

 二人は笑った。

 

 そして。

 

 しばらくして。

 

 趙雲がふと尋ねた。

 

「そういえば」

 

「何だ」

 

「お前の昔話を聞いたことがない」

 

 時雨は眉を動かした。

 

「聞いてどうする」

 

「暇潰しだ」

 

「帰れ」

 

「ここまで来たのにか?」

 

 趙雲は笑う。

 

 時雨は呆れたようにため息を吐いた。

 

 だが。

 

 少しだけ考える。

 

 そして。

 

 ぽつりと呟いた。

 

「常山だ」

 

 趙雲の表情が変わる。

 

「常山?」

 

「ああ」

 

 それは趙雲にとっても馴染み深い地名だった。

 

 河北の名門たちが暮らす土地。

 

 多くの英雄を生んだ場所。

 

「俺はそこで生まれた」

 

 静かな声だった。

 

 風が吹く。

 

 木々が揺れる。

 

「覚えてることは少ない」

 

 時雨は続ける。

 

「親の顔も曖昧だ」

 

 趙雲は黙って聞いていた。

 

「飢饉だった」

 

 短く言う。

 

 それだけで十分だった。

 

 乱世の前兆。

 

 各地で起きた不作。

 

 飢え。

 

 死。

 

 珍しい話ではない。

 

「村がなくなった」

 

 時雨は遠くを見る。

 

「人も死んだ」

 

 感情の薄い声だった。

 

 まるで他人事のように語る。

 

 だが趙雲には分かった。

 

 それだけ深い傷なのだと。

 

「その頃だ」

 

 時雨は続けた。

 

「張牛角に拾われたのは」

 

 その名前を聞いて趙雲は目を細めた。

 

 張牛角。

 

 黒山賊の初代頭領。

 

 張燕の養父。

 

 そして黒山軍の創設者。

 

 河北では有名な人物だった。

 

「山賊だった」

 

 時雨は笑う。

 

「立派な賊だ」

 

「自慢するな」

 

「事実だ」

 

 当時の張牛角は既に名の知れた頭領だった。

 

 官軍と戦い。

 

 豪族から奪い。

 

 貧民へ分け与える。

 

 善人ではない。

 

 だが単純な悪人でもなかった。

 

「死にかけてた俺を見つけた」

 

 時雨は言う。

 

「普通なら放置だ」

 

 乱世では珍しくない。

 

 道端で餓死する子供などいくらでもいる。

 

 助ける理由はない。

 

 だが。

 

 張牛角は違った。

 

「飯をくれた」

 

 時雨は少しだけ笑う。

 

「それが最初だ」

 

 趙雲は静かに聞いていた。

 

 普段は語らない男の過去。

 

 初めて聞く話だった。

 

「それで黒山に?」

 

「ああ」

 

 時雨は頷く。

 

「連れて帰られた」

 

 山賊たちの拠点。

 

 荒くれ者だらけの巣窟。

 

 だが。

 

 幼い時雨にとっては初めての居場所だった。

 

「妙な連中だった」

 

「そうだろうな」

 

 趙雲も苦笑する。

 

「酒飲み」

 

「博打好き」

 

「喧嘩好き」

 

「最低だな」

 

「最低だった」

 

 二人は笑った。

 

 だが。

 

 時雨の目はどこか優しかった。

 

「それでも」

 

 少し間を置く。

 

「家族だった」

 

 その言葉に。

 

 趙雲は何も言えなかった。

 

 山賊。

 

 賊徒。

 

 世間からはそう呼ばれていた。

 

 だが。

 

 時雨にとっては違った。

 

 飢えて死にかけていた自分を拾った場所。

 

 生き方を教わった場所。

 

 家族を得た場所。

 

 それが黒山だった。

 

 風が吹く。

 

 山々が揺れる。

 

 夕日が少しずつ傾いていく。

 

 時雨は遠くを見つめていた。

 

 そこにはもういない人々の姿が見えているのかもしれない。

 

 張牛角。

 

 黒山の仲間たち。

 

 過去の記憶。

 

 全ての始まり。

 

 そして。

 

 趙雲は何となく理解した。

 

 今の張燕という男を作ったのは、公孫瓚でも河北でもない。

 

 この黒山なのだと。

 

 そしてその中心には。

 

 一人の山賊の頭領がいた。

 

 張牛角。

 

 死にかけていた一人の少年を拾い上げた男。

 

 その出会いこそが、後に河北を揺るがす黒山の王の始まりだったのである。

 

 




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