第八十八話 義母の墓
黒山の朝は早い。
夜明けと共に山々の間から白い霧が立ち上り、静かな森を包み込んでいく。
時雨と趙雲は山中の小さな小屋で一夜を明かしていた。
かつて見張り小屋として使われていた場所だ。
今では誰も使っていないが、最低限の手入れだけは残っている。
目を覚ました時雨は無言で外へ出た。
朝の空気は冷たい。
肺の奥まで染み込むようだった。
趙雲も後から出てくる。
水色の髪が朝日に照らされていた。
「今日はどこへ行く?」
趙雲が尋ねる。
時雨は少しだけ黙った。
そして答える。
「墓参りだ」
趙雲は察した。
昨日の話の続きだ。
張牛角。
黒山賊の初代頭領。
時雨を拾った女。
義母とも呼べる存在。
「そうか」
趙雲はそれ以上聞かなかった。
二人は馬に乗る。
山道を進む。
黒山の奥深くへ。
かつて数万の黒山賊が暮らした土地。
官軍が何度攻めても落とせなかった天然の要塞。
だが今は静かだった。
鳥の鳴き声だけが響いている。
しばらく進むと、森の奥に開けた場所が見えた。
小さな丘だった。
草が生い茂り、風に揺れている。
そこに墓がある。
豪華なものではない。
石を積み上げた質素な墓。
だが周囲は綺麗に整えられていた。
今でも黒山の者たちが手入れしているのだろう。
時雨は馬を降りる。
ゆっくりと墓へ近付く。
趙雲も後ろに続いた。
墓標には名前が刻まれていた。
張牛角。
それだけだ。
余計な言葉はない。
武勲もない。
肩書もない。
だがその名だけで十分だった。
時雨はしばらく何も言わない。
ただ墓の前に立っている。
風が吹く。
草が揺れる。
鳥の声が遠くから聞こえた。
「久しぶりだな」
ぽつりと呟く。
それは墓へ向けた言葉だった。
「数年……いや、もっとか」
時雨は苦笑した。
黒山を離れてから色々あった。
反董卓連合。
河北統一。
袁紹との戦い。
青州。
徐州。
気付けば昔を振り返る暇もなかった。
「忙しかった」
独り言のように続ける。
「相変わらず面倒事ばかりだ」
趙雲は少し離れた場所で黙っていた。
今は自分が口を挟む場面ではない。
時雨と張牛角。
二人だけの時間だった。
「黒山は残ってる」
時雨は言う。
「昔より静かになったがな」
少し笑う。
「お前なら文句を言いそうだ」
黒山賊は騒がしい集団だった。
酒盛り。
喧嘩。
歌。
笑い声。
毎日が祭りのようだった。
張牛角もよく笑う女だった。
豪快で。
大雑把で。
細かいことを気にしない。
そんな女だった。
ふと。
昔の記憶が蘇る。
まだ時雨が幼かった頃。
黒山へ来て間もない時代。
山賊たちの宴会だった。
焚き火を囲み、大人たちが酒を飲んでいる。
張牛角も上機嫌だった。
「坊主!」
大声で呼ばれる。
「何だ」
幼い時雨が答える。
「もっと食え!」
そう言って肉を押し付けられた。
「食えない」
「食える!」
「無理だ」
「食え!」
理不尽だった。
だが周囲の山賊たちは大笑いしていた。
結局。
時雨は全部食べさせられた。
腹を壊した。
張牛角は笑っていた。
謝りもしなかった。
最低だった。
だが。
不思議と嫌な思い出ではない。
墓の前で時雨は小さく笑った。
「本当に最低な女だった」
趙雲も少し笑う。
「そうなのか」
「ああ」
時雨は頷く。
「字も読めない」
「酒癖は悪い」
「喧嘩ばかり」
「頭領向きではないな」
「全くだ」
二人は笑った。
だが。
時雨の表情は少し柔らかかった。
「それでも」
静かに言う。
「誰よりも黒山を守っていた」
それは本心だった。
張牛角は賢くない。
政治も知らない。
兵法も詳しくない。
だが仲間を守るためなら命を張った。
弱い者を見捨てなかった。
だから皆がついてきた。
だから黒山は大きくなった。
「俺を拾った時も」
時雨は言う。
「理由なんてなかった」
ただ助けたかった。
それだけだ。
利益もない。
見返りもない。
普通なら見捨てる。
だが張牛角は拾った。
飯を与えた。
居場所をくれた。
名前を呼んだ。
家族にしてくれた。
それだけで十分だった。
時雨は腰を下ろす。
墓の前に座る。
空を見上げた。
「なあ」
静かに呟く。
「俺は上手くやれてるか?」
返事はない。
当然だった。
墓なのだから。
だが。
不思議と聞きたくなった。
今の自分を見たら。
張牛角は何と言うだろう。
河北四州。
何十万もの民。
巨大な勢力。
昔の山賊少年からは想像もできない場所まで来た。
「多分」
時雨は笑う。
「面倒だから好きにしろって言うんだろうな」
それが張牛角らしい。
趙雲も頷いた。
「言いそうだ」
「ああ」
二人は少し笑った。
やがて。
時雨は立ち上がる。
墓の前で深く頭を下げた。
長くはない。
短い礼。
それだけだった。
だが十分だった。
「行くぞ」
時雨が言う。
「もういいのか?」
「ああ」
振り返る。
その表情はどこか晴れやかだった。
趙雲も立ち上がる。
二人は再び馬へ向かった。
去り際。
時雨は一度だけ振り返る。
丘の上の墓。
風に揺れる草。
青空。
静かな景色。
「また来る」
小さく呟いた。
それは誰にも聞こえなかった。
だが。
きっと十分だった。
張牛角が眠る黒山は、今日も変わらずそこにあり続けているのだから。
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