【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第八十九話 北を見据える覇王

第八十九話 北を見据える覇王

 

 

 徐州。

 

 かつて劉備が治めていた豊かな土地。

 

 今では曹操の旗が各地にはためいていた。

 

 戦は終わった。

 

 徐州は平定された。

 

 城壁には曹の軍旗が掲げられ、市場には再び活気が戻りつつある。

 

 戦乱で荒れた地域も少なくないが、曹操軍の統治能力は高かった。

 

 各地へ役人を派遣し、治安を維持し、兵糧の流通を整える。

 

 徐州の民たちは最初こそ不安を抱いていたが、徐々に新たな支配者を受け入れ始めていた。

 

 そしてその中心にいるのが、曹操だった。

 

 許昌の執務室。

 

 大量の書簡が机に積み上げられている。

 

 徐州関連の報告。

 

 軍の再編。

 

 徴税。

 

 治安維持。

 

 やるべき仕事は山ほどあった。

 

 しかし曹操は疲れた様子を見せない。

 

 青い瞳は鋭く光っている。

 

 その姿を見ながら、一人の女性が腕を組んでいた。

 

 黒髪の長髪。

 

 眼帯。

 

 堂々とした立ち姿。

 

 夏侯惇だった。

 

「華琳様!」

 

 春蘭が声を上げる。

 

「ようやく徐州を手に入れましたな!」

 

 曹操は書簡から目を離さない。

 

「そうね」

 

「これで天下への道も大きく前進しましたぞ!」

 

「そうかもしれないわ」

 

 相変わらず落ち着いた返事だった。

 

 春蘭は不満そうな顔をする。

 

「何ですかその反応は!」

 

「喜んでいるわよ」

 

「全然そう見えません!」

 

 曹操は小さく笑った。

 

 すると執務室の扉が開く。

 

 入ってきたのは水色の髪の女性だった。

 

 夏侯淵。

 

 秋蘭である。

 

「姉者」

 

「何だ秋蘭!」

 

「少し静かにしろ」

 

「何だと!」

 

 いきなり始まる姉妹喧嘩。

 

 いつもの光景だった。

 

 秋蘭は慣れた様子でため息を吐く。

 

「華琳様がお忙しい」

 

「むぅ……」

 

 春蘭は不満そうだったが大人しくなった。

 

 もっとも数分後にはまた騒ぎ始めるだろう。

 

 秋蘭もそれは理解していた。

 

「華琳様」

 

 秋蘭が一礼する。

 

「徐州各地からの報告です」

 

 新たな書簡を差し出した。

 

 曹操は目を通す。

 

 しばらく沈黙。

 

 そして頷いた。

 

「悪くないわね」

 

「はい」

 

 秋蘭も同意する。

 

 徐州の統治は順調だった。

 

 もちろん不満分子は存在する。

 

 だが大規模な反乱は起きていない。

 

 劉備の敗走によって抵抗勢力も弱体化している。

 

 今なら徐州を完全に自領化できる。

 

「劉備はどうなっていますか?」

 

 秋蘭が尋ねる。

 

 曹操は別の書簡を手に取る。

 

「荊州へ向かったわ」

 

「追撃は?」

 

「必要ない」

 

 即答だった。

 

 春蘭が首を傾げる。

 

「なぜです?」

 

 曹操は微笑んだ。

 

「今の劉備には何もない」

 

 兵も少ない。

 

 領地もない。

 

 疲弊している。

 

 今追い回す意味は薄い。

 

「それに」

 

 曹操は窓の外を見る。

 

「もっと大きな獲物がいる」

 

 その言葉に空気が変わる。

 

 春蘭も秋蘭も表情を引き締めた。

 

 曹操が本当に興味を持つ相手は限られている。

 

 そして。

 

 二人には心当たりがあった。

 

「河北ですか」

 

 秋蘭が静かに言った。

 

 曹操は頷く。

 

「あの地域は大きくなりすぎた」

 

 徐州の北。

 

 黄河の向こう。

 

 かつて袁紹が支配していた巨大な土地。

 

 今は別の旗が立っている。

 

 公孫瓚。

 

 そして黒山。

 

 幽州。

 

 冀州。

 

 并州。

 

 青州。

 

 気付けば河北の大半が一つの勢力圏となっていた。

 

「正直な話」

 

 曹操は言う。

 

「袁紹より厄介ね」

 

 春蘭が腕を組む。

 

「確かに」

 

 袁紹は優秀だった。

 

 だが決断が遅い。

 

 迷いも多い。

 

 そこに付け入る隙があった。

 

 しかし今の河北は違う。

 

「公孫瓚か」

 

 春蘭が呟く。

 

 だが曹操は首を横に振った。

 

「違うわ」

 

「む?」

 

「本当に危険なのは別」

 

 青い瞳が細くなる。

 

「張燕」

 

 その名が出た瞬間。

 

 執務室が静かになった。

 

 春蘭も秋蘭も知っている。

 

 黒山の頭領。

 

 山賊。

 

 賊徒。

 

 しかし誰よりも厄介な男。

 

「袁紹を潰した男か」

 

 春蘭が言う。

 

「正確には」

 

 秋蘭が補足する。

 

「袁紹を戦わずして屈服させた男だ」

 

 そこが恐ろしい。

 

 戦場で勝つだけならまだ分かる。

 

 だが張燕は違う。

 

 人の心を壊す。

 

 敵を追い詰める。

 

 じわじわと締め上げる。

 

 そして気付けば勝っている。

 

 そんな相手だった。

 

 曹操も同じ評価をしていた。

 

「軍略家ではない」

 

「名将でもない」

 

「英雄でもない」

 

 そう言いながら笑う。

 

「でも危険」

 

 春蘭は少し首を傾げる。

 

「そんなにですか?」

 

「ええ」

 

 曹操は断言した。

 

「おそらく今の天下で最も読みにくい男よ」

 

 普通の武将なら理解できる。

 

 名誉。

 

 利益。

 

 野望。

 

 行動原理がある。

 

 だが張燕は違う。

 

 暇潰しで袁紹を追い詰める。

 

 利益にならないことを平然とする。

 

 だから読めない。

 

 だから危険なのだ。

 

 秋蘭も頷いた。

 

「華琳様のお考えは」

 

 曹操は席から立ち上がる。

 

 壁に掛けられた巨大な地図。

 

 天下全土が描かれている。

 

 許昌。

 

 徐州。

 

 荊州。

 

 河北。

 

 各地の勢力図。

 

 その中で曹操の指が止まる。

 

 河北。

 

 広大な土地。

 

 豊かな穀倉地帯。

 

 優秀な騎兵。

 

 豊富な人口。

 

「次はここよ」

 

 静かな声だった。

 

 だが決意に満ちている。

 

「河北」

 

 春蘭の口元が吊り上がる。

 

「ようやくですな!」

 

「焦るな姉者」

 

 秋蘭が言う。

 

「相手は簡単ではない」

 

「分かっている!」

 

 春蘭は笑う。

 

 だがその目には闘志が宿っていた。

 

 強敵。

 

 それは武人にとって喜びでもある。

 

 曹操は地図を見つめる。

 

 河北の中心。

 

 鄴。

 

 そこには公孫瓚がいる。

 

 袁紹がいる。

 

 趙雲がいる。

 

 張遼がいる。

 

 呂布がいる。

 

 そして。

 

 張燕がいる。

 

「面白くなりそうね」

 

 曹操は小さく呟いた。

 

 徐州は手に入れた。

 

 次は北。

 

 黄河の向こう。

 

 巨大な河北勢力との激突は、もはや避けられない。

 

 覇王は北を見据えていた。

 

 そしてその頃。

 

 遠く離れた河北では、まだ誰も知らない。

 

 曹操という新たな脅威が、自分たちへ視線を向け始めていることを。




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