第九十話 白馬将軍の願い
黒山から鄴へ戻る頃には、季節は初夏へと移ろうとしていた。
時雨は久しぶりに故郷とも呼べる山々を見て回ったことで、どこか肩の力が抜けていた。
張牛角の墓参りも済ませた。
過去と向き合う旅は終わった。
だからこそ、今度は未来を考えなければならない。
河北は大きくなりすぎていた。
幽州。
并州。
冀州。
青州。
気付けば四州を抱える巨大勢力となっている。
もはや一地方軍閥ではない。
天下を左右する存在だった。
そして大きくなればなるほど、新たな敵が現れる。
その敵の名を、時雨は既に理解していた。
曹操。
今最も勢いのある覇者。
徐州を手に入れた青い瞳の英雄。
次に動くなら間違いなく河北だ。
そんなことは誰にでも分かる。
だからこそ。
鄴へ帰還した翌日。
時雨は公孫瓚を呼び出した。
場所は城の庭園だった。
昼下がり。
木陰に設置された石卓。
風は穏やかだった。
だが向かい合う二人の表情は真剣だった。
公孫瓚――白蓮は茶を一口飲んだ。
少し疲れている。
相変わらず仕事が山積みなのだろう。
河北の覇者になった代償は大きい。
「黒山はどうだった?」
白蓮が聞いた。
「変わってなかった」
時雨は答える。
「少し寂しくなったがな」
「そうか」
白蓮は微笑んだ。
それから少し沈黙が流れる。
やがて。
時雨が口を開いた。
「白蓮」
「ん?」
「お前はどうしたい」
公孫瓚が首を傾げる。
「どうしたいって?」
「この先だ」
短い言葉だった。
だが意味は重い。
白蓮も理解した。
これは世間話ではない。
河北の未来。
自分自身の未来。
それを問われているのだ。
「急だな」
「今聞いておきたい」
時雨は真っ直ぐ見ていた。
公孫瓚も視線を逸らさない。
しばらく考える。
そして。
「分からない」
そう答えた。
正直な言葉だった。
時雨は何も言わない。
「昔の私は」
白蓮が続ける。
「幽州を守れれば良かった」
それが夢だった。
異民族から民を守る。
平和な土地を作る。
それだけだった。
天下統一など考えたこともない。
皇帝になるつもりもない。
覇王になるつもりもない。
ただ幽州を守る。
それが白馬将軍公孫瓚だった。
「でも今は違う」
白蓮は苦笑した。
気付けば河北四州。
配下は数十万。
民はさらに多い。
責任も重い。
「正直」
白蓮は頭を掻いた。
「荷が重い」
その言葉に時雨は笑った。
「だろうな」
「笑うな」
「事実だ」
白蓮も苦笑する。
否定できない。
自分は元々そういう器ではない。
少なくとも本人はそう思っている。
袁紹のような名門でもない。
曹操のような天才でもない。
孫策のような英雄でもない。
ただの武人だ。
それが本音だった。
「でもな」
白蓮は空を見上げた。
「今は違うんだ」
風が吹く。
木々が揺れる。
「私一人じゃない」
そう言って笑った。
「麗羽がいる」
「星がいる」
「霞がいる」
「恋もいる」
「七乃もいる」
そして。
少しだけ笑う。
「お前もいる」
時雨は何も言わなかった。
白蓮は続ける。
「だから」
一度息を吐く。
「守りたい」
それが答えだった。
「河北を?」
「みんなをだ」
即答だった。
それが公孫瓚らしい。
天下ではない。
覇業でもない。
民。
仲間。
家族。
守りたいものが先に来る。
時雨は少しだけ笑った。
「変わらないな」
「悪いか?」
「いや」
むしろ安心した。
それが白蓮だ。
だから皆がついていく。
だから今の河北がある。
しばらく沈黙が流れる。
そして。
時雨が本題を口にした。
「次は曹操だ」
空気が変わった。
白蓮の表情も真剣になる。
「だろうな」
予想はしていた。
徐州を手に入れた曹操。
次に狙うなら河北しかない。
人口。
土地。
兵力。
どれを取っても魅力的だ。
そして曹操ほどの人物が、その価値に気付かないはずがない。
「戦になると思うか?」
白蓮が聞く。
時雨は即答した。
「ああ」
迷いなく。
「確実に来る」
曹操は動く。
そういう人間だ。
守りに入るような人物ではない。
機会があれば必ず攻める。
「厄介だな」
白蓮は苦笑する。
袁紹との戦いは終わった。
ようやく平和になると思っていた。
だが現実は甘くない。
乱世は続く。
敵も現れる。
「怖いか?」
時雨が聞いた。
白蓮は少し考えた。
そして笑う。
「怖いな」
正直だった。
相手は曹操だ。
天下屈指の英雄。
恐ろしくないはずがない。
だが。
「でも逃げない」
その目は強かった。
「私が逃げたら河北は終わる」
それだけは分かっていた。
守ると決めた。
なら戦うしかない。
たとえ相手が曹操でも。
「そうか」
時雨は頷く。
十分だった。
その答えが聞ければいい。
「お前はどうなんだ?」
今度は白蓮が尋ねる。
「時雨」
「何だ」
「戦うのか?」
時雨は少しだけ考えた。
そして笑う。
「暇だからな」
「またそれか」
「本音だ」
白蓮は呆れた。
だが知っている。
それが照れ隠しだということを。
本当に興味がなければ。
時雨はここまでしない。
黒山も。
河北も。
仲間たちも。
全部放り出している。
それでも残っている。
つまり答えは一つだ。
白蓮は笑った。
「頼りにしてるぞ」
「ほどほどにな」
「無理だ」
「知ってる」
二人は笑った。
夕日が傾き始めていた。
庭園を橙色に染めていく。
遠くでは兵士たちの訓練する声が聞こえる。
平和な光景だった。
だがその平和は永遠ではない。
黄河の向こうでは曹操が動き始めている。
新たな戦乱の気配。
河北と中原。
二つの巨大勢力。
やがてぶつかることになるだろう。
だが今だけは。
白馬将軍と黒山の頭領は静かな時間を過ごしていた。
来るべき嵐の前の、束の間の平穏の中で。
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