第九十一話 江東への道
鄴の城では、河北の支配体制が着実に整えられつつあった。
幽州、并州、冀州、青州。
かつては別々の勢力が争っていた土地も、今では公孫瓚の旗の下にまとまり始めている。
もちろん問題が消えたわけではない。
豪族たちの思惑。
治安維持。
税の徴収。
兵の再編。
やるべきことはいくらでもあった。
だが少なくとも、袁紹との戦争が続いていた頃に比べれば遥かに安定している。
その安定を支えているのは公孫瓚だった。
そして麗羽や七乃たち文官の働きも大きい。
だからこそ時雨は考えていた。
自分がやるべきことを。
「河北はもう大丈夫だな」
執務室の窓から外を見ながら呟く。
眼下には活気を取り戻した鄴の街並みが広がっている。
人が行き交い。
商人が声を上げ。
子供たちが走り回る。
平和だった。
少なくとも今は。
だが時雨の視線はさらに南へ向いていた。
徐州。
曹操が手に入れた土地。
かつて劉備が治めていた豊かな州。
そして今なお完全には支配しきれていない土地だった。
曹操は優秀だ。
だが徐州を手に入れてからまだ日が浅い。
各地には旧劉備派もいる。
豪族たちも完全には従っていない。
民の中にも不満は残っている。
時間が経てば落ち着くだろう。
だが今なら違う。
「まだ隙がある」
時雨は地図を眺めた。
徐州は豊かだ。
人口も多い。
交通の要衝でもある。
もし曹操が完全に掌握すれば厄介なことになる。
だからこそ。
先に揺さぶる。
それが時雨の考えだった。
そこへ扉が開く。
入ってきたのは張遼だった。
「また悪い顔しとるな」
「失礼だな」
「いや絶対ろくでもないこと考えとるやろ」
時雨は否定しなかった。
張遼も慣れている。
「徐州か?」
「ああ」
張遼は腕を組む。
「曹操は強いで」
「知ってる」
「夏侯惇も夏侯淵もおる」
「知ってる」
「軍師もおる」
「知ってる」
「それでも行くんか」
時雨は笑った。
「だから行く」
張遼は深いため息を吐いた。
相変わらずだった。
危険だから避けるのではない。
危険だから利用する。
それが時雨という男だった。
その日の夜。
時雨は公孫瓚の執務室を訪れていた。
白蓮は大量の書簡に埋もれている。
「助けてくれ」
「断る」
「即答か!」
いつものやり取りだった。
だがすぐに白蓮も真面目な顔になる。
「何かあったのか?」
「ああ」
時雨は地図を広げた。
徐州。
青州。
豫州。
揚州。
南方の勢力図。
「徐州を狙う」
白蓮の眉が動く。
「曹操とか?」
「正面からじゃない」
時雨は首を振った。
「揺さぶる」
そして説明を始めた。
徐州の現状。
豪族。
民衆。
残党。
曹操の支配がまだ完全ではないこと。
話を聞き終えた白蓮は腕を組んだ。
「確かに理屈は分かる」
「だろ」
「でも危険だ」
「危険じゃない戦なんてあるか?」
白蓮は苦笑した。
ない。
そんなものは存在しない。
だが。
「私は河北を守る」
「ああ」
「だから大軍は出せない」
「知ってる」
最初から期待していない。
河北は広い。
四州を維持するだけでも大変だ。
今無理に動けば内部が不安定になる。
「だから黒山軍だけで動く」
時雨が言った。
白蓮はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「気を付けろよ」
「善処する」
「信用できない」
「正解だ」
白蓮は頭を抱えた。
やはり止められそうにない。
そんな時だった。
趙雲が執務室へ入ってくる。
水色の髪が揺れる。
「面白そうな話をしているな」
嫌なタイミングだった。
白蓮がそう思った。
そして予感は当たる。
「ちょうどいい」
趙雲が笑う。
「私も行こう」
「勝手に決めるな」
白蓮が突っ込む。
だが趙雲は気にしない。
「どうせ時雨一人では無茶をする」
「否定できないな」
「だから私が必要だ」
理屈になっているようななっていないような話だった。
しかし時雨は頷いた。
「確かに」
「だろう?」
趙雲が満足そうに笑う。
白蓮は諦めた。
どうせ止まらない。
昔からそうだ。
この二人は。
そして数日後。
さらに興味深い情報が入る。
江東からだった。
孫策。
江東の小覇王。
亡き孫堅の跡を継いだ若き英雄。
彼女が曹操を強く警戒しているという。
いや。
警戒どころではない。
いずれ戦うつもりで軍備を進めているらしい。
その報告を聞いた時雨は笑った。
「面白い」
趙雲も地図を見る。
「孫策か」
「英雄だな」
「確かにな」
反董卓連合以来の付き合いではある。
豪快で。
明るく。
野心もある。
まさに乱世の主役の一人だった。
「会いに行くか」
時雨が言った。
趙雲は笑う。
「決定なのだな」
「当然だ」
徐州を揺さぶるなら。
曹操を牽制するなら。
江東の力は利用できる。
そして何より。
孫策自身が曹操を敵視している。
利害が一致する可能性は高かった。
こうして時雨は決断する。
河北は白蓮に任せる。
麗羽もいる。
七乃もいる。
霞も恋もいる。
今の河北なら自分がいなくても回る。
だからこそ外へ出られる。
徐州。
曹操。
そして江東。
新たな策を巡らせるために。
出発の日。
城門の前には趙雲が立っていた。
水色の髪を風になびかせながら笑う。
「では行くか」
「ああ」
時雨は馬に乗る。
南へ。
江東へ。
次なる舞台へ向けて。
黒山軍の頭領と常山の槍使いは、ゆっくりと鄴を後にした。
その先で待つのは江東の小覇王。
そして、曹操を巡る新たな乱世の火種だった。
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