【黒山の狼、乱世を嗤う】   作:パスカルDX

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第九十二話 江東の地

第九十二話 江東の地

 

 

 長い旅路だった。

 

 河北を発ってから幾つもの街を越え、幾つもの河を渡り、時雨と趙雲はついに揚州の地へ足を踏み入れていた。

 

 北方とは違う空気がある。

 

 湿った風。

 

 青々と茂る木々。

 

 豊かな水路。

 

 そして活気。

 

 江東と呼ばれるこの地は、今まさに一人の英雄によって急速に勢力を拡大していた。

 

 孫策。

 

 亡き孫堅の跡を継ぎ、若くして江東をまとめ上げた小覇王。

 

 その名は河北にも届いている。

 

 豪快な武勇。

 

 人を惹きつける器。

 

 そして異常なまでの行動力。

 

 時雨は嫌いではなかった。

 

 むしろ似た匂いを感じる。

 

 理屈より先に動く。

 

 周囲を巻き込む。

 

 そして結果を出す。

 

 そういう人種だった。

 

「随分と賑やかだな」

 

 街道を進みながら趙雲が呟く。

 

 視線の先には建業へ向かう商隊が見えていた。

 

 荷車が何十台も連なっている。

 

 商人たちの表情も明るい。

 

「景気が良い」

 

 時雨も頷いた。

 

 民は正直だ。

 

 生活が苦しければ顔に出る。

 

 豊かなら活気が生まれる。

 

 少なくとも建業周辺は上手く回っているらしい。

 

「孫策の統治か」

 

 趙雲が感心したように言う。

 

「周瑜の力もあるだろう」

 

 時雨はそう答えた。

 

 江東には優秀な人材が多い。

 

 特に周瑜の名は有名だった。

 

 政治だけではなく知にも優れた人物。

 

 孫策を支える右腕と言われている。

 

「会うのが楽しみだな」

 

「お前は強い奴に会う時だけ子供みたいになるな」

 

「否定はしない」

 

 趙雲は笑った。

 

 その日の夕方。

 

 二人の前に巨大な城壁が姿を現した。

 

 建業。

 

 江東の中心地。

 

 高い城壁の上には孫家の旗が翻っている。

 

 行き交う人々の数も多い。

 

 活気に満ちた城だった。

 

「なるほど」

 

 時雨は城門を見上げる。

 

「良い城だ」

 

「気に入ったか?」

 

「住むなら河北の方がいい」

 

「それはそうだ」

 

 二人は苦笑した。

 

 そして城門へ向かう。

 

 当然ながら門兵たちは二人を止めた。

 

「止まれ!」

 

 槍が向けられる。

 

「何者だ!」

 

 時雨は面倒そうに頭を掻いた。

 

「河北から来た」

 

「目的は!」

 

「遊びだ」

 

 門兵たちが困惑する。

 

 趙雲が吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。

 

「遊び?」

 

「そうだ」

 

「建業まで?」

 

「そうだ」

 

 門兵たちは顔を見合わせた。

 

 どう考えても怪しい。

 

 だが次の瞬間だった。

 

 一人の兵士が時雨の顔を見て固まった。

 

「ま、まさか……」

 

 顔色が変わる。

 

「張燕……?」

 

 周囲の兵士たちもざわついた。

 

 黒山軍の頭領。

 

 河北最大勢力の実質的な重鎮。

 

 その名を知らぬ者はいない。

 

「本人だ」

 

 時雨はあっさり認めた。

 

 兵士たちは慌てて姿勢を正した。

 

 敵ではない。

 

 だが危険人物であることは間違いない。

 

「し、少々お待ちください!」

 

 門兵は慌てて城内へ駆けていった。

 

 趙雲は笑っている。

 

「遊びに来たと言った時の顔が面白かったな」

 

「本当だからな」

 

「それが一番困る」

 

 しばらくすると使者が戻ってきた。

 

「孫策様がお会いになります!」

 

「早いな」

 

「当然だろう」

 

 趙雲が笑う。

 

「お前が来たんだ」

 

 こうして二人は建業城へ案内された。

 

 城内は活気に満ちていた。

 

 兵士たちの士気も高い。

 

 若い者が多い。

 

 勢いのある組織特有の空気だった。

 

 やがて大広間へ到着する。

 

 扉が開く。

 

 そして。

 

「久しぶりじゃない!」

 

 明るい声が響いた。

 

 孫策だった。

 

 燃えるような覇気を持つ少女。

 

 笑顔は眩しいほどだった。

 

 彼女は迷うことなく近寄ってくる。

 

「本当に来たのね!」

 

「来た」

 

「何しに?」

 

「遊び」

 

 一瞬の沈黙。

 

 そして。

 

 孫策は大笑いした。

 

「ははははは!」

 

 豪快だった。

 

 城中に響きそうな勢いで笑う。

 

「相変わらずね!」

 

「お前もな」

 

 二人は軽く拳を合わせた。

 

 久しぶりの再会だった。

 

 その様子を見ながら周囲の者たちは驚いていた。

 

 天下に名を轟かせる二人が、まるで旧友のように話している。

 

 そこへ別の人物が現れる。

 

 ピンク色の髪。

 

 真面目そうな雰囲気。

 

 どこか孫策と似た顔立ち。

 

 孫権だった。

 

「姉上」

 

 少し呆れたような声。

 

「客人の前です」

 

「いいじゃない」

 

「良くありません」

 

 即答だった。

 

 時雨は少し笑う。

 

 噂通り真面目らしい。

 

 さらにその後ろには眼鏡をかけた黒髪の女性がいた。

 

 落ち着いた雰囲気。

 

 冷静な視線。

 

 周瑜である。

 

 彼女は時雨を見ると静かに頭を下げた。

 

「遠路はるばるようこそ」

 

「どうも」

 

「歓迎いたします」

 

 礼儀正しい。

 

 だが同時に油断もしていない。

 

 観察している。

 

 そういう目だった。

 

 流石は江東の軍師。

 

 時雨は内心で評価を上げた。

 

「それで?」

 

 周瑜が尋ねる。

 

「本当に遊びに?」

 

「半分はな」

 

 時雨が答える。

 

「残り半分は?」

 

 周瑜の目が細くなる。

 

 やはり鋭い。

 

 誤魔化せない。

 

 だが時雨は笑った。

 

「曹操について話でもしようかと思ってな」

 

 その瞬間。

 

 大広間の空気が変わった。

 

 孫策の笑みが深くなる。

 

 周瑜の表情も僅かに動いた。

 

 孫権も真剣になる。

 

 やはり。

 

 思った通りだった。

 

 江東もまた曹操を見ている。

 

 徐州を手に入れた覇王を。

 

 そして時雨もまた同じ方向を見ている。

 

 孫策は楽しそうに笑った。

 

「面白い話になりそうね」

 

「ああ」

 

 時雨も頷く。

 

 河北の黒山。

 

 江東の小覇王。

 

 二つの勢力が同じ敵を見据え始めていた。

 

 徐州の向こう。

 

 中原の覇者。

 

 青い瞳の英雄を。

 

 乱世は再び大きく動こうとしていた。




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