第九十三話 黒山と江東
建業の夜は賑やかだった。
河北の鄴とは違う。
水路を中心に発展した江東独特の街並みは、夜になっても活気を失わない。
川沿いには灯火が並び、商人たちの声が響いている。
船乗りたちが酒を飲み、楽師が演奏し、人々が笑う。
戦乱の世でありながら、この街には不思議な生命力があった。
その頃。
建業城の一室では孫策、孫権、周瑜、張燕、趙雲が向かい合っていた。
卓上には江東から中原にかけての地図が広げられている。
先程までは軽い雑談だった。
だが曹操の名前が出てから空気は変わっていた。
「それで?」
孫策が笑う。
「河北の頭領様は何を企んでるのかしら?」
時雨は茶を飲んだ。
「別に」
「絶対嘘ね」
「だろうな」
周囲が苦笑する。
趙雲など完全に諦めた顔をしていた。
時雨が何も企んでいない時などない。
特に他勢力へ来た時はなおさらだった。
「徐州だ」
やがて時雨が言った。
その一言で全員が真面目になる。
「曹操は徐州を手に入れた」
「ええ」
周瑜が頷く。
「しかし完全支配には至っていない」
「その通りだ」
徐州は豊かな土地だ。
だが元々は劉備の領地だった。
各地には旧劉備派もいる。
豪族たちもまだ様子見をしている。
民衆も完全に曹操を受け入れてはいない。
つまり不安定なのだ。
「今なら揺らせる」
時雨は地図を指差した。
「放置すれば徐州は曹操の力になる」
周瑜も同意した。
それは江東でも同じ認識だった。
徐州を掌握した曹操は強い。
だが完全掌握した曹操はもっと強い。
だからこそ今が重要だった。
「あたしたちも同じことを考えていたわ」
孫策が笑う。
「やっぱりな」
「当然でしょ」
小覇王の目が輝く。
「曹操は強い」
「強いな」
「でも放置するほど優しくないわ」
二人は笑った。
どこか似ていた。
面倒事に自分から飛び込むところも。
危険な相手ほど面白がるところも。
周瑜がため息を吐く。
「困ったものだ」
孫権も頷いていた。
「本当に」
真面目な二人からすると頭が痛い。
しかし。
それでも理解している。
この二人だからこそ勢力を大きくできたのだと。
「ところで」
孫策が椅子にもたれた。
「河北はどうなの?」
「平和だ」
「へぇ」
「だから来た」
周囲が納得する。
確かに平和な時ほど時雨は動く。
暇だからだ。
「白馬将軍は?」
孫策が聞く。
「働いてる」
「可哀想」
「同感だ」
全員一致だった。
公孫瓚が聞いたら怒りそうな話である。
だが事実でもあった。
今の河北の政務の大半は公孫瓚や麗羽たちが担っている。
時雨は基本的に逃げる。
昔からだ。
「そういえば」
孫策が趙雲を見る。
「あなたも大変ね」
「慣れた」
即答だった。
その答えに周瑜まで吹き出した。
「苦労しているようだな」
「かなりな」
趙雲は真顔で言う。
「目を離すと余計なことをする」
「否定できない」
時雨が頷く。
「自覚あるのね」
孫権が呆れる。
「ある」
「直す気は?」
「ない」
全員がため息を吐いた。
だが不思議と嫌な空気ではない。
気楽だった。
河北でも。
江東でも。
こうして笑い合える相手は少ない。
しばらくして。
周瑜が話題を変えた。
「河北の現状を聞かせてほしい」
今度は本格的な話だった。
時雨は簡潔に説明する。
幽州。
并州。
冀州。
青州。
現在の統治状況。
豪族たち。
軍備。
兵力。
周瑜は静かに聞いていた。
途中から孫権も参加する。
二人とも真面目だった。
特に孫権は予想以上に優秀だった。
質問も鋭い。
状況分析も的確だ。
時雨は内心で評価を上げる。
孫策の妹。
だが性格は正反対らしい。
孫策が太陽なら孫権は月だった。
「なるほど」
孫権が頷く。
「想像以上ですね」
「そうか?」
「はい」
河北四州。
これは決して小さくない。
天下有数の巨大勢力である。
そしてそれを支える人材も多い。
「羨ましいわ」
孫策が笑う。
「優秀な人材ばかりじゃない」
「江東も十分だろ」
「足りない」
即答だった。
周瑜が苦笑する。
乱世に人材不足は常だ。
いくらいても足りない。
だから各勢力は争う。
武将を奪い合う。
軍師を欲しがる。
それが当たり前だった。
「なら一人やろうか」
時雨が言う。
「誰を?」
「俺」
「いらない」
全員即答だった。
時雨が笑う。
そして同時に建業城にも笑い声が広がった。
そんな夜だった。
やがて宴も終わりに近付く。
孫策たちは立ち上がる。
「今日は休みなさい」
「客室を用意してあります」
周瑜が言う。
「助かる」
時雨も立ち上がった。
部屋へ向かう途中。
城の廊下から夜空が見える。
月が綺麗だった。
「どう思う?」
趙雲が隣で聞く。
時雨は少し考えた。
「良い国だな」
「江東か」
「ああ」
民は活気がある。
武将たちも優秀だ。
主君も魅力的だ。
勢いがある。
今の江東は伸びている。
「曹操も厄介だが」
時雨は空を見上げた。
「孫策も厄介だ」
趙雲は笑う。
「敵に回したくないか」
「面倒だからな」
それが本音だった。
そして。
時雨は知らなかった。
その頃。
許昌では曹操もまた江東の動きを探り始めていることを。
徐州を巡り。
河北を巡り。
江東を巡り。
天下の三大勢力が少しずつ互いを意識し始めていた。
新たな乱世の幕は、静かに上がろうとしていた。
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