第九十四話 黒山の盟約
建業へ到着して数日が過ぎていた。
時雨と趙雲は客人として厚遇されていたが、だからといって本当に遊びに来ただけではない。
少なくとも時雨はそうだった。
もちろん半分くらいは本当に遊びだった。
しかし残り半分は違う。
天下の情勢は大きく動いている。
曹操は徐州を得た。
公孫瓚は河北を得た。
孫策は江東をまとめ上げつつある。
もはや小競り合いの時代ではない。
次に始まるのは覇者同士の戦いだった。
そしてその日の夜。
建業城の奥にある会議室へ時雨は呼ばれていた。
そこには孫策、孫権、周瑜がいる。
趙雲も同行していた。
卓の上には大きな地図が広げられている。
徐州。
揚州。
豫州。
青州。
中原全体が描かれていた。
周瑜が静かに口を開く。
「さて」
眼鏡の奥の視線が時雨へ向けられる。
「そろそろ本題を聞こうか」
時雨は笑った。
「本題?」
「遊びに来ただけとは思っていない」
「酷いな」
「事実だ」
即答だった。
趙雲が吹き出す。
孫策も笑っていた。
「冥琳の言う通りね」
孫策が頬杖をつく。
「時雨がただ遊びに来るわけないじゃない」
「信用がないな」
「今さらでしょ」
全員が頷いた。
時雨は諦めた。
そして茶を一口飲む。
「じゃあ本題だ」
部屋の空気が変わる。
冗談は終わりだった。
時雨の視線が地図へ落ちる。
その指が徐州をなぞった。
「曹操」
誰も口を挟まない。
「今の天下で最も危険な奴だ」
周瑜も同意していた。
孫策も否定しない。
曹操は強い。
誰もが知っている。
軍も強い。
将も優秀。
統治能力も高い。
しかも本人が天才だ。
放置して良い相手ではない。
「だから」
時雨は言った。
「同盟を結ぼう」
静寂。
孫策たちは顔を見合わせた。
周瑜が静かに尋ねる。
「河北と江東のか?」
「ああ」
時雨は頷いた。
「俺とお前たちの同盟だ」
孫権が眉をひそめる。
「簡単に言うが」
「簡単じゃない」
時雨は笑う。
「だから価値がある」
確かにそうだった。
河北。
そして江東。
今の天下で急成長している二大勢力。
もし手を結べば。
曹操ですら無視できない。
いや。
無視できなくなる。
周瑜は考え込む。
悪い話ではない。
むしろ魅力的だ。
だが。
「条件は?」
当然の質問だった。
時雨は最初から待っていた。
「徐州」
その言葉に全員の視線が集まる。
「徐州をお前たちにやる」
孫権が驚く。
周瑜の目も僅かに開かれる。
孫策だけが楽しそうに笑っていた。
「面白いこと言うじゃない」
時雨は続ける。
「俺達はいらない」
「いらない?」
孫権が思わず聞き返す。
「河北だけでも十分広い」
事実だった。
幽州。
并州。
冀州。
青州。
これだけで莫大な領土になる。
今以上に増やせば統治が追いつかない。
時雨自身にも興味がない。
「だから」
時雨は孫策を見る。
「徐州を取るならお前たちが取れ」
部屋が静かになる。
冥琳は理解した。
これは単なる譲歩ではない。
利益交換だ。
江東が徐州へ進出する。
そうなれば曹操は南へ兵力を向ける。
結果として河北への圧力が減る。
逆に河北が北から圧力をかければ江東が楽になる。
理にかなっている。
「見返りは?」
周瑜が聞く。
時雨は即答した。
「強固な同盟」
それだけだった。
「攻守同盟だ」
誰かが攻められたら助ける。
裏切らない。
敵と通じない。
単純だが重い。
乱世では最も難しい約束でもある。
孫権は慎重だった。
「信用できるのか?」
その問いは当然だった。
時雨は笑う。
「信用するな」
「は?」
「利益を信用しろ」
周瑜の口元が僅かに動く。
面白い答えだった。
「俺たちは曹操を放置できない」
時雨は言う。
「お前たちも同じだ」
その通りだった。
だから利害が一致する。
感情ではない。
利益だ。
だから強い。
「なるほど」
周瑜は納得した。
感情による同盟は脆い。
だが利害による同盟は意外と長続きする。
少なくとも目的が一致する間は。
孫策はずっと黙っていた。
椅子にもたれながら時雨を見ている。
そして突然笑った。
「ねえ張燕」
「何だ」
「あんた本当に面白いわ」
豪快な笑顔だった。
「普通は徐州を欲しがるでしょ」
「面倒だ」
「本音?」
「本音」
孫策は大笑いした。
「ははははは!」
周囲が少し呆れる。
だが時雨も笑っていた。
「気に入った」
孫策が言う。
「あたしは賛成」
即答だった。
孫権が頭を抱える。
「姉上」
「何?」
「もう少し考えてください」
「考えた」
「今の数秒で?」
「十分よ」
孫権はため息を吐いた。
だが反対はしない。
実際、悪い話ではない。
むしろかなり良い。
周瑜も頷いた。
「私も賛成だ」
その言葉に孫権も観念した。
「……分かりました」
こうして決まった。
河北と江東。
二つの巨大勢力による同盟。
それは天下の勢力図を変える可能性を秘めていた。
会談が終わった後。
夜風が吹く城壁の上で時雨と趙雲は並んでいた。
建業の灯が遠くに見える。
「決まったな」
趙雲が言う。
「ああ」
「これで曹操も頭が痛くなる」
「そうだろうな」
時雨は笑った。
青い瞳の覇王。
おそらく今も河北を警戒している。
だがそこへ江東が加わる。
しかも同盟。
決して無視できない。
「面白くなってきた」
時雨は夜空を見上げた。
乱世はまだ終わらない。
むしろこれからだった。
そして遠く許昌ではまだ知らない。
河北の黒山と江東の小覇王が手を結んだことを。
その事実が、やがて曹操を巻き込む新たな戦乱の始まりとなることを。
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