第九十九話 徐州を揺らす影
徐州城の空気は日に日に重くなっていた。
城壁は健在。
兵士も残っている。
将もいる。
春蘭、秋蘭、桂花という曹操軍屈指の人材が揃っているにもかかわらず、状況は決して良いとは言えなかった。
なぜなら敵が城を攻めてこないからだ。
普通なら話は簡単だった。
敵が来る。
迎え撃つ。
勝つ。
あるいは負ける。
それだけで済む。
しかし張燕は違った。
戦わない。
正面から来ない。
だが確実に徐州を削り取っていく。
まるで見えない刃だった。
その日も春蘭は苛立っていた。
「また補給隊が消えただと!?」
「はっ!」
報告の兵士が震える。
「護衛三百と共に行方不明です!」
「三百もいて何故だ!」
「わ、分かりません!」
春蘭は机を殴った。
木片が飛び散る。
秋蘭がため息を吐いた。
「姉者」
「何だ!」
「机が可哀想だ」
「今はそんな話ではない!」
もっともだった。
徐州軍は完全に振り回されている。
補給線。
街道。
倉庫。
どこかで必ず問題が起きる。
しかも敵の姿が見えない。
だから余計に腹が立つ。
その時だった。
「騒がしいわね」
桂花が入ってきた。
いつものようにネコミミ付きのフードを被っている。
「桂花!」
「少しは落ち着きなさい脳筋」
「誰が脳筋だ!」
「あなた以外にいる?」
いつものやり取りだった。
しかし桂花の表情は真面目だった。
机の上に書簡を置く。
「見つけたわ」
「何をだ?」
「張燕の狙いよ」
部屋の空気が変わる。
秋蘭も身を乗り出した。
「話せ」
桂花は徐州の地図を広げる。
そこには黒山軍が現れた場所が細かく記されていた。
「見て」
二人は地図を見る。
最初は意味が分からない。
だが徐々に気付く。
「これは……」
秋蘭が眉をひそめた。
「街道?」
「そう」
桂花は頷く。
「張燕は徐州を奪っているんじゃない」
「違うのか?」
「徐州を切り分けているのよ」
街道。
河川。
物流。
市場。
黒山軍はそれらを押さえている。
つまり徐州城は孤立し始めているのだ。
「城はまだ生きている」
桂花が言う。
「でも徐州全体は死に始めている」
春蘭も流石に理解した。
「厄介だな」
「ええ」
桂花は認める。
「恐ろしく厄介よ」
一方その頃。
時雨は北部の街にいた。
市場は賑わっている。
商人たちも忙しそうだ。
徐州戦争の真っ最中とは思えない光景だった。
「頭領」
黒山兵が駆け寄る。
「どうした」
「また商人が移住してきました」
時雨は笑った。
「何人だ?」
「百を超えます」
「順調だな」
恋が団子を食べながら首を傾げる。
「移住?」
「ああ」
「なんで?」
「商売しやすいからだ」
恋はよく分かっていない。
だが時雨は満足そうだった。
戦とは兵だけではない。
金も必要だ。
物も必要だ。
人も必要だ。
そして今。
徐州の商人たちは少しずつ黒山軍側へ流れ始めていた。
「敵の軍師なら気付くだろうな」
時雨は呟く。
あの軍師は優秀だ。
夏侯惇や夏侯淵とは違う。
頭が回る。
だからこそ面白い。
「でも遅い」
時雨は笑った。
既に準備は終わっている。
黒山軍の兵だけではない。
商人。
旅人。
職人。
元山賊。
ありとあらゆる者たちが徐州各地へ潜り込んでいる。
徐州は今や黒山軍の情報網に覆われていた。
その夜。
徐州南部。
江東軍の陣営でも軍議が開かれていた。
総大将の孫権。
そして周瑜。
周囲には江東の将たちが並ぶ。
「順調です」
報告が続く。
「各地で曹操軍が後退しています」
「民の協力も得られています」
孫権は頷いた。
だが周瑜は地図を見続けている。
「どうかしたかしら?」
孫権が尋ねる。
周瑜は苦笑した。
「恐ろしいと思ってな」
「張燕ですか」
「ああ」
戦場にいるのに姿が見えない。
城を攻めない。
大軍同士の決戦もしない。
それでいて徐州全体を揺るがしている。
「敵にしたくない男だ」
「同感です」
孫権も頷いた。
だからこそ同盟は価値がある。
そして同時に理解していた。
張燕はまだ本気ではない。
まだ何か隠している。
その頃。
河北との国境では曹操が報告を受けていた。
青い瞳が細くなる。
「徐州が苦しいようね」
「はい」
側近が頭を下げる。
曹操はしばらく黙った。
そして笑う。
「面白い」
普通なら焦る場面だ。
だが曹操は違った。
強敵を歓迎する。
それが彼女だった。
「張燕」
その名を呟く。
河北の怪物。
山賊上がりの男。
だが今や天下有数の危険人物。
「あなたはどこまで見ているのかしら」
曹操は窓の外を見る。
北では河北軍が睨みを利かせている。
南では江東が動く。
そして徐州では黒山軍が暴れている。
確かに厳しい。
だが。
「まだ終わっていないわ」
青い瞳が輝いた。
一方。
徐州北部。
時雨は丘の上から城を見ていた。
遠くに見える城壁。
未だ健在。
だが問題ない。
「そろそろだな」
恋が聞く。
「なにが?」
「次の段階だ」
時雨は立ち上がった。
風が吹く。
黒山軍の旗が揺れる。
徐州は既に大きく揺らいでいる。
民心も。
経済も。
補給も。
だがまだ足りない。
城を落とすには決定打が必要だ。
そして時雨は静かに笑った。
「荀彧」
優秀な軍師。
だからこそ狙う価値がある。
「次はお前だ」
黒山軍の新たな策。
徐州を決定的に崩す一手。
その標的は城ではなく、曹操軍の頭脳そのものへ向けられようとしていた。
感想、評価、お気に入りよろしくお願い致します!