元ITエンジニアの俺、祖先の召喚術から召喚プログラムを組み上げて神も悪魔も従える   作:パラレル・ゲーマー

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第16話 私は迷子じゃない

 パリィィィン!!

 

 純喫茶すばるの窓ガラスが、不吉な音を立てて砕け散った。

 

 ガラスの破片が雨のように降り注ぐ中、外の豪雨の景色から這い出るようにして、一本の真っ赤な傘が店内へと侵入してくる。

 

 赤い傘の下から、顔の見えない女の声が響いた。

 

 優しく、甘く、それでいて一切の拒絶を許さない、冷たい声だった。

 

「灯里ちゃん。迎えに来たよ。もう、迷わなくていいよ。あの人のところへ帰ったら、また苦しくなるよ。あなたは、また自分が『お荷物』だと思って泣くことになるの。だから……あなたは、あたしの傘の中に帰ればいいの」

 

 窓際で半透明に揺らめく宮野灯里の姿が、その囁きに吸い寄せられるように震えた。

 

 名前を買い戻したことで、顔の輪郭はいくらか鮮明になっている。現世側の意識も、少しずつ戻りつつある。

 

 だが、それでも彼女は長い間、自己否定に蝕まれていた。

 

「私……帰ったら、悠介の、邪魔に……」

 

「そうだよ」

 

 赤い傘の女が、にこりと微笑むような気配がした。

 

「あなたがいなければ、あの人は楽になれる。だから、こっちへおいで」

 

「いい加減にしなさいよ」

 

 炎堂朱音が、灯里と赤い傘の女の間に立ちはだかった。

 

 黒い耐火手袋を嵌めた指を鳴らすと、彼女の肩から火蜥蜴のサラが飛び出す。朱色の炎が轟音と共に噴き上がり、店内の湿った空気を一瞬で灼熱へと変えた。

 

「本人の顔も見ないで、迎えだの帰るだの、勝手なこと言ってんじゃないわよ」

 

 赤い傘の女は、初めて朱音へと顔のない視線を向けた。

 

「あなたは、燃やす人ね。迷子を怖がらせる人は、嫌い」

 

「奇遇ね。私も、子供の弱みにつけこんで勝手に連れて行く傘女は、大嫌いなの」

 

 朱音が腕を振り抜く。

 

 サラの炎が、赤い傘を覆う黒い髪のようなものへ向かって一直線に放たれた。

 

 ゴォォォォッ!!

 

 だが、炎は赤い傘の表面を舐めただけだった。

 

 確かに燃えている。

 

 だが、芯まで届かない。

 

 まとわりつく雨音の中へ、炎がじゅっと不気味な音を立てて溶けていく。

 

「……燃えない? いや、違うわ。燃えてるのに、奥まで届いてない」

 

「朱音さん、本体を直接焼かないでください!」

 

 背後で、真柴環が銀の鈴を握り締めながら叫んだ。

 

「あの怪異は、灯里様の『恐怖』だけでなく、『誰かに迎えに来てほしかった』という願いにも根を張っています! 外から強引に焼き払えば、灯里様の中に残っている『帰りたい』という気持ちまで傷つけてしまいます!」

 

「……チッ。つまり、力ずくで焼けば灯里まで巻き込むってことね」

 

「はい」

 

「最悪ね」

 

 朱音は舌打ちをし、炎の向きを攻撃から防御へと切り替えた。

 

 赤い傘の女は、怒るというより、心底悲しそうな声を出した。

 

「どうして、邪魔するの? 迷子は、迎えに行かないといけないのに。泣いている子は、傘に入れてあげないといけないのに。冷たい雨の中で一人ぼっちにしたら、かわいそうでしょう……?」

 

 店内の雨音が、さらに一段強くなる。

 

 悠真はスマートフォンの画面に流れる表示を睨みつけた。

 

【対象:赤い傘の女】

【種別:帰路改変型都市怪異】

【発生源:迷子の恐怖/迎えを待つ願い/雨の日の孤独】

【行動原理:迷子の絶対的保護】

【異常:本人の意思確認を省略】

【危険性:保護対象の帰属先を傘内部へ強制上書き】

 

「……悪意じゃない」

 

 悠真は、慄然として呟いた。

 

「こいつは、灯里さんを食おうとしてるんじゃない。善意の形をした、強制連行だ」

 

「ケッ、最悪だな」

 

 ジャグラズが影の中から顔を出し、顔を顰めた。

 

「悪意なら燃やせばいい。だが、自分が百パーセント善意で動いてると思い込んでる奴は、自分が間違ってるなんて微塵も思ってねえ。だから厄介なんだ。自分を救いだと信じて疑わない奴ほど、面倒なもんはねえぜ」

 

 赤い傘の女が、再び灯里へと白い手を伸ばす。

 

「灯里ちゃんは、子供の頃も泣いていた。大人になっても、また迷子になった。だから、今度こそ連れて帰ってあげる。あたしの傘の中なら、あなたはもう、誰の重荷にもならないんだよ……」

 

 灯里の半透明の身体が、ふらふらと窓の外の赤い傘へ傾き始める。

 

 悠真は、今の自分では、この怪異を力でねじ伏せることが不可能だと理解していた。

 

 ならば、戦況を分解するしかない。

 

 何を満たせば勝ちなのか。

 

 何を崩せば、赤い傘の女の権限を止められるのか。

 

 スマートフォンの画面に、悠真自身が定義した条件が構築されていく。

 

【現在の迷子判定:宮野灯里/未解除】

【解除条件】

一、本人が『自分の名前』を保持する。

二、『帰る場所』を認識する。

三、『待っている相手』を思い出す。

四、赤い傘の女の『迎え』を明確に拒否する。

五、自分自身の意思で『帰路』を選択する。

 

 赤い傘の女の権限は、対象が迷子であるという一点に依存している。

 

 なら、灯里さんが迷子ではなくなればいい。

 

 彼女が、自分の名前を思い出し、帰る場所を知り、自分の意思で迎えを拒めばいい。

 

 悠真は覚悟を決めて顔を上げ、全員に指示を飛ばした。

 

「朱音さん、赤い傘の女の本体は焼かないでください! 灯里さんが考えるための時間を稼いでください!」

 

「真柴さん、灯里さんの記憶負荷の監視を!」

 

「ジャグラズ、傘の内側へ引き込もうとするものを影で妨害しろ!」

 

「塵霊隊は、現世への退路維持を最優先!」

 

「すみか、店内への不法侵入を拒絶し続けてくれ!」

 

「俺は……灯里さんに、選ぶための材料を渡します!」

 

 朱音が、炎を纏った手袋を打ち合わせ、にやりと笑った。

 

「了解。倒すんじゃなくて、選ばせるために燃やすのね。……そういう戦い、嫌いじゃないわよ!」

 

 防衛戦が始まった。

 

 赤い傘の女の黒髪が、無数の触手となって窓枠を越え、店内へ這い寄ってくる。

 

 同時に、床の水たまりが意思を持ったように灯里の足元へ伸び始めた。

 

「サラ、足元!」

 

 朱音が叫ぶと、サラが金色の火線を床に走らせ、迫り来る水たまりを瞬時に蒸発させた。

 

「髪の毛じゃない、水の道を焼き切るのよ! 灯里さんに繋がる道を、一本残らず消すわよ!」

 

 ジャグラズは、窓から差し出される白い手を、自身の影で絡め取り、強引に弾き返す。

 

「おっと、そこは通行止めだ。迷子を呼ぶなら、せめて本人の許可を取ってからにしろよ」

 

 塵霊隊は、水浸しになりかける店内の床を這い回りながら、現世の出口を示す埃の軌跡を必死に維持し続けている。

 

『でぐち、ここ』

『ちり、のこす』

『みち、ぬれる。でも、のこす!』

 

 さらに、遠隔で繋がっている空き家精霊すみかから、強烈な威嚇が空間に走った。

 

『勝手に入ってこないで!! ここはあなたのお家じゃない! 灯里さんのこと、勝手に連れていかないで!』

 

 赤い傘の女の動きが、わずかに苛立ちを帯びる。

 

「家でもないのに、どうして拒むの? 迷子には、迎えが必要なのに。どうして邪魔するの?」

 

『迎えに来るなら、まずちゃんとノックして! それから、本人に聞いて! いやだって言ったら、すぐに帰ってよ!!』

 

 すみかの、ひどく子供っぽく、しかし家屋守護の精霊として本質を突いた正論。

 

 悠真は、緊迫した状況の中で、思わず小さく笑みをこぼした。

 

「……本当に、その通りだ。同意のない迎えは、ただの連れ去りだ」

 

 悠真はリュックから、小さな名札を取り出した。

 

 『宮野灯里』と書かれた、先ほど買い戻した品だ。

 

 それを手に、灯里の幻影へ真っ直ぐに向き合う。

 

「灯里さん」

 

 悠真は、はっきりとした声で呼びかけた。

 

「あなたの名前です。宮野灯里。……佐久間悠介さんが、自分の記憶を削られても、取り戻したいと願った名前です」

 

 灯里の半透明の身体が震えた。

 

「宮野……灯里……」

 

「私の、名前……」

 

 窓の外から、赤い傘の女が甘く囁く。

 

「名前なんて、重いだけだよ。名前があるから、期待される。名前があるから、誰かの負担になる。……傘の中なら、名前なんていらない。あなたはただの迷子でいいんだよ」

 

 灯里の顔が、再び苦痛に歪む。

 

 悠真は、その言葉をすぐには否定しなかった。

 

「……名前は、確かに重いです。誰かの期待や、責任や、プレッシャーが紐づいている。でも、重いからこそ、誰かがあなたを呼ぶことができる。誰かがあなたを、見つけることができる。あなた自身が、自分を見失わずに済むための、たった一つの証明なんです」

 

 真柴環が、静かに記憶栞を開いた。

 

 名札の文字が淡く光り、灯里の輪郭が、先ほどよりも一段はっきりと現世の光を帯びて安定した。

 

「次に、これです」

 

 悠真は、コーヒーカップ型の小瓶の蓋を開けた。

 

 店内に、窓の外の豪雨とは違う、穏やかな雨の音が響き渡る。

 

 それは、あの日、純喫茶すばるで二人が交わした、日常のささやかな会話だった。

 

『遅れてごめん』

『遅い』

『本当にごめん』

『……怒ってないよ』

『でも、忘れないでね』

『忘れるわけないだろ』

 

 灯里の目から、大粒の涙が零れ落ちた。

 

「あ……」

 

「私、ここで……待ってた」

 

「悠介を、待ってた」

 

「遅刻して、怒ってたけど、でも……嬉しかった」

 

「走って来てくれて、嬉しかったの……」

 

 赤い傘の女が、声を強める。

 

「でも、その人はあなたを忘れたよ。あなたの顔も、名前も、声も、全部忘れて、毎日仕事をしてる。あなたがいない方が楽だったから。……だから、もう帰らなくていいんだよ」

 

「違います!」

 

 悠真が、赤い傘の言葉を断ち切った。

 

「佐久間さんは、あなたを忘れたかったんじゃない。仕事や結婚のプレッシャーから逃げたかっただけだ。でも、逃げた結果、あなたへの道まで失ってしまった。……それを、今、後悔して、取り戻そうとしてるんです!」

 

 灯里が震える声で尋ねる。

 

「悠介は……私を、探してるの?」

 

「はい。まだ全部は思い出せていません。でも、あなたの名前を取り戻すために、俺たちをここまで寄越したんです」

 

 悠真は最後に、あの指輪箱を開いた。

 

 完全な指輪ではない。

 

 だが、箱の中には、買い戻された約束の輪郭だけが、淡い光の輪となって浮かんでいた。

 

「それ……」

 

「指輪……?」

 

「私、もらうはずだった……?」

 

「でも、受け取ってない。……私が、いなくなったから……」

 

 赤い傘の女が、ひときわ優しく、毒を含んだ声で囁いた。

 

「そうだよ。受け取らなくてよかったんだよ。受け取ったら、あなたはもっと重くなる。妻になる。家族になる。誰かの未来を背負わなきゃいけなくなる。……怖いでしょう?」

 

 灯里は、うつむいた。

 

「怖い……」

 

「幸せになるのが、怖かった。私みたいな人間が、そんなものを受け取っていいのか、分からなかった……」

 

 赤い傘の女の言葉は、完全な嘘ではない。

 

 灯里の本心の、一番弱い部分を正確に突いている。

 

 悠真は、一呼吸置き、静かに告げた。

 

「怖くてもいいと思います」

 

「受け取るかどうかも、結婚するかどうかも、全部あなたが決めることです」

 

「でも、『怖いから消えるしかない』とは限らない。怖いまま、彼と話し合うことだってできる。……受け取らない選択も、受け取る選択も、すべてはあなたのものです」

 

 灯里が、ゆっくりと顔を上げた。

 

 その瞬間、赤い傘の女が完全に業を煮やした。

 

「……迷子は、迷っているから迷子なの! 選べないから、迎えが必要なの! この子はまだ迷ってる! だから、あたしが連れていくの!!」

 

 赤い傘が、一気に巨大に膨れ上がった。

 

 店内全体を傘の内側へ飲み込もうと、空間が激しく歪み始める。

 

「サラ! 傘の縁を焼け!」

 

 朱音が叫んだ。

 

「中身じゃない! 灯里さんに干渉する境界線だけを焼き切るのよ!」

 

 サラの炎が、巨大化した赤い傘の縁を舐めるように走る。

 

 傘本体は燃えない。

 

 だが、傘の内側と喫茶店を繋いでいた赤い雨の糸が、バチバチと音を立てて何本も焼き切れていく。

 

 朱音の腕に、熱による負荷で火傷のような赤い筋が走った。

 

「朱音さん!」

 

「大丈夫! まだ持つわ!」

 

 朱音は歯を食いしばりながら、炎を維持した。

 

「でも、長くは無理よ! 早く、灯里さんに選ばせなさい!」

 

 悠真は、灯里の目を見つめた。

 

 彼女は、もう赤い傘の方へ引き寄せられてはいなかった。

 

 窓の外の赤い傘の女に向かって、静かに、しかしはっきりとした声で語りかける。

 

「……あなたは……きっと、悪いものじゃなかったんだと思う」

 

 全員が、一瞬だけ動きを止めた。

 

「子供の頃、私は本当に迷子だった。お母さんがいなくて、怖くて、誰かに迎えに来てほしかった。……だから、あなたは来たのかもしれない。泣いている子を、一人ぼっちの子を、迎えに行くために生まれたのかもしれない」

 

 赤い傘の女の声が、かすかに揺れた。

 

「……そうよ。迎えに行くの。迷子を、傘の中へ。そうすれば、もう怖くない」

 

 灯里は、目尻の涙を拭い、真っ直ぐに傘の奥の闇を見据えた。

 

「でも、私はもう大丈夫。……怖いけど、大丈夫」

 

「また迷うかもしれない。また、自分が誰かの重荷になるって思うかもしれない」

 

「でも、その時は、自分で『助けて』って言うから」

 

「勝手に連れて行かれなくても、私は帰れる」

 

 赤い傘の女が、ぴたりと固まった。

 

「私は、宮野灯里」

 

 灯里の言葉が、異界の空気を震わせた。

 

「私は迷子じゃない。私は、帰る場所を自分で選ぶ。……だから、あなたの迎えは、いりません」

 

【本人意思確認:完了】

【名前の保持:成功】

【帰る場所の選択:成立】

【迎えの拒否:成立】

【対象:宮野灯里/迷子判定:解除】

 

 悠真のスマートフォンの画面に、鮮やかな緑色の文字が並んだ。

 

 赤い傘の女の傘が、まるで空気が抜けるように、ゆっくりと元のサイズへ縮み始める。

 

 その姿からは、先ほどまでの激しい怒りや執着が消えていた。

 

「でも……迷子は、迎えに行かなきゃ。泣いている子を、置いていけない。一人ぼっちは、かわいそうなのに……」

 

「ありがとう」

 

 灯里は、優しく微笑んだ。

 

「あの時、私を迎えに来てくれようとしたことは、きっと本当だったんだと思う。……でも、私はもう行かない。私の帰り道は、そっちじゃないから」

 

 赤い傘の女は、少しだけ寂しそうに首を傾げた。

 

「……そう。今日は、迎えない。……でも、本当に迷子になったら。雨の日に、また呼んでね」

 

「呼ばせないわよ」

 

 朱音が、炎を纏ったまま鋭く言い放った。

 

「次に勝手に連れて行こうとしたら、今度はその傘ごと、芯から本気で焼き尽くすから」

 

 赤い傘の女は、朱音を見て、ふふっと笑った。

 

「火の人は、怖いね」

 

「ええ。覚えておきなさい」

 

 赤い傘の女は、雨の向こうの暗闇へと、ゆっくり下がっていった。

 

 完全に消えたわけではない。

 

 だが、灯里への道は切れた。

 

「道案内は、ここまでよ」

 

 朱音が最後に、傘の縁へ小さな火球を放つ。

 

 灯里へと伸びていた最後の一本の赤い糸が焼け落ち、窓の外の景色が、ただの静かな雨の夜道へと戻った。

 

 *

 

「今なら戻せます」

 

 真柴環が、安堵の息を吐きながら言った。

 

「ただし、すべての記憶ではありません。名前、待ち合わせ、指輪の約束の輪郭。そこまでです」

 

「……それでいいです」

 

 灯里が、しっかりと頷いた。

 

「全部思い出すのは、怖い。でも、怖いままでも、帰りたい」

 

 悠真は、純喫茶すばるのマッチ箱を彼女に差し出した。

 

「これが、あなたの帰り道です。待っている人がいるなら、帰れる。……でも、帰った後にどうするかは、あなたが決めてください」

 

「はい」

 

 灯里はマッチ箱を両手で受け取った。

 

「私、帰ってから、ちゃんと話します。悠介と。……怒るかもしれないし、泣くかもしれない。でも、消えるんじゃなくて、話します」

 

 現世側。

 

 ヤタガラス支部の安全室。

 

 烏丸の管理下で待機していた佐久間悠介に、真柴の札を通じて短い声が届く。

 

『灯里』

 

 佐久間の、震える声が店内に響いた。

 

『聞こえるか。……ごめん。俺、まだ全部は思い出せない。でも、名前は分かる。君を待ってたことも、少しだけ分かる。……だから、帰ってきてくれ。それから、ちゃんと俺を怒ってくれ』

 

 灯里の目から、再び涙が溢れた。

 

「……怒る。絶対、めちゃくちゃに怒る。……でも、帰る」

 

【宮野灯里:現世帰属 五%から三十八%へ上昇】

【帰還可能域に到達】

【退路固定:塵霊隊/すみか/真柴札により安定】

 

 塵霊たちが、足元で喜びの声を上げる。

 

『かえる!』

『みち、ある!』

『ちり、まもる!』

 

 帰還の直前。

 

 カウンターの奥に、すばるの老店主の残響が現れた。

 

「よかった。今度は、自分で帰るんだね」

 

 灯里が店主を見る。

 

 子供の頃の記憶が、少しだけ鮮明に蘇った。

 

「……ココアの人」

 

「うん。そう呼ばれていたかもしれないね」

 

「ありがとうございました。お母さんが来るまで、待たせてくれて」

 

 店主は、優しく目を細めて笑った。

 

「待つ場所がある子は、帰れるものだよ」

 

 純喫茶すばるの灯りが、少しずつ薄くなっていく。

 

 完全に消えるわけではない。

 

 彼女を縛る未練の記憶から、ただの帰り道の記憶へと、形を変えたのだ。

 

 *

 

 一行は、塵霊隊の道案内と、朱音の残した灯火を頼りに、現世への階段を上った。

 

 シャッターをくぐり抜けると、雨はすでに上がっていた。

 

 夜の冷たい空気が、妙に心地よかった。

 

 朱音は疲労で肩で息をしており、ジャグラズも影が少し薄くなっていた。

 

『ゆうま……すみか、がんばった?』

 

 遠隔で防壁を張り続けていたすみかからの通知も、ひどく弱々しい。

 

「ああ。すごく助かったよ、すみか」

 

『えへへ……じゃあ、あとでいっぱい褒めてね』

 

「もちろん」

 

 朱音が、壁に寄りかかりながら言った。

 

「あの傘女、消えたわけじゃないわね」

 

「はい」

 

「でも、灯里さんは対象から外れた。なら今回は、あたしたちの勝ちね」

 

 ジャグラズも溜息をつく。

 

「善意の怪異か。面倒くせえな。けど、条件が崩れりゃ引く。そこは契約みたいなもんだ。本人が拒否する。迷子じゃないと宣言する。これが一番効いたな」

 

「本人の選択を奪う救いは、救いじゃない」

 

 悠真は、スマートフォンの画面を閉じながら言った。

 

「今回は、それを灯里さん本人が言ってくれた。それが最大の勝因だ」

 

 *

 

 ヤタガラス支部。

 

 特別医療室で、灯里が目を覚ました。

 

 まだ完全な状態ではない。

 

 記憶の欠損は残っており、佐久間の顔を見ても、すべてがすぐに思い出せるわけではない。

 

 それでも、名前は分かる。

 

 約束があったことも分かる。

 

 怒りたい気持ちも、泣きたい気持ちも、確かにそこにあった。

 

「灯里……」

 

 佐久間が、震えながら彼女の手を握る。

 

「ごめん。俺、まだ全部は……」

 

 灯里は涙を浮かべながら、彼を真っ直ぐに見つめて言った。

 

「……馬鹿。本当に、馬鹿。私も、馬鹿だったけど。でも、勝手に忘れて、楽になろうとしないでよ」

 

 佐久間は、声を上げて泣いた。

 

「ごめん。……ちゃんと話す。全部、思い出すのが怖くても、これからは逃げずに話す」

 

「私も話す。消えるんじゃなくて、話す」

 

 二人は、不完全な記憶を抱えたまま、それでも確かに、お互いの存在を確かめ合っていた。

 

 悠真は、それを少し離れた廊下から静かに見守っていた。

 

「……全部戻したわけじゃねえ。まだ傷は残ってる」

 

 ジャグラズが言う。

 

「それでいいんだと思う」

 

 悠真は答えた。

 

「傷ごと戻ってきたから、彼らはまた、自分で未来を選べるんだ」

 

 スマートフォンの画面に、最後のログが表示された。

 

【宮野灯里:帰還確認】

【赤い傘の女:対象指定を解除】

【なんでも買います:部分買戻し正常終了】

【未解決項目:残存記憶の段階的回復、および当事者間の面談支援】

 

 悠真は、静かにスマートフォンをポケットにしまった。

 

 宮野灯里は、誰かに無理やり引き戻されたのではない。

 

 自分の名前を思い出し、自分の足で、雨の向こうから現世へと帰ることを選んだのだ。

 




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